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2009年3月 1日 (日曜日)

Gurrilla

すでに二週間ほど前の話になるが、「チェ 39歳別れの手紙」を観てきた。

観たタイミングが公開二週間後と謂うことで、一週間くらい寝かせてから語ったほうが遠慮なくネタバレ全開で語れるだろうと思ってタメていたら、先週末はちょっと余所事で忙しくて書きそびれてしまった。

まあ、すでに三月朔日になってしまって、今更ネタバレも糞もない時期なのでちょうど好いと言えば言えるのだが(笑)、流石に二週間も前に観た映画だと大分記憶も朧気になりつつあって、内容の精度については幾分割り引いて聞いて戴きたい。

一見して思ったのは、前編に当たる「チェ 29歳の革命」を観た後に観ると「なんてわかりやすい映画だろう」と感じると謂うことである。敢えて誤解を恐れずに言うなら、この作品は「面白い娯楽映画」として撮られているように思う。

たしかに内容的には悲惨な負け戦を描いていて、エルネスト・”チェ”・ゲバラとして識られる世界的な革命の英雄が、ボリビアの山中で人知れず無惨に銃殺される結末に向けて「何故彼は敗れたのか」と謂う敗因をどんどん積み上げていく映画である。チェを中核とするゲリラ勢力が一切の協力を得られずに分断され孤立し、仲間たちが次々に悲惨な末路を辿る筋道を着々と一筋道で追い立てていく映画であり、ここには「29歳」の錯綜した印象はない。

前作同様に、同じような汚れた髭面に同じような汚い野戦服を着込み耳慣れない中南米方言のスパニッシュを話す南米人ゲリラたち個々人の見分けが附きにくいと謂う意味で少しわかりにくい部分はあるが、映画の叙述を視ると、「29歳」よりは遙かに整然とした叙述や効果的な撮影によって悲惨な負け戦の一本道をドラマティックに描いている。

それは、文芸の観点では「面白い娯楽映画」と表現し得るだろう。どんな悲惨な物語であろうと、それが一本の物語として叙述要素を整理して効果的な技巧を凝らして語られることによって観客の胸を打つなら、それは「面白い娯楽映画」と成り得るのである。

ここでオレの個人的な嗜好を表明しておくなら、オレは「負け戦」の映画が大好きである。オレ個人の洋画オールタイムベストとして事ある毎に挙げている「天国の門」「遠すぎた橋」「地獄の黙示録」の三本は、すべて悲惨な負け戦を描いた映画的叙事詩と謂う共通項を持つ。そして、この三本は洋泉社刊の「映画秘宝 底抜け超大作」誌上で大金をドブに棄てた超駄作として糞味噌におちょくられていると謂う共通項もある(笑)。

この三本の中で「39歳」に似た構造を持つ作品は、多分「遠すぎた橋」と謂うことになると思う。これは第二次世界大戦末期に膠着した戦況を一挙に決すべく実行された壮大な(と謂うより、寧ろ多分に空想的な)空挺作戦の歴史的な大敗を整然と描いた映画だが、映画で叙述されているのは「それはどのような作戦なのか」「何故その作戦が失敗したのか」「その失敗はどのように起こったのか」「その結果どんなことが起こったのか」と謂う時系列に沿った筋道である。

これはレッドクリフ論で少し触れた「計画とその実行」のセオリーに則った叙述で、この史上最大の空挺作戦である「マーケット・ガーデン作戦」の計画を或る程度の時間を掛けてじっくりと観客に説明し、これがどのように実行され、そこで何が起こったのかを描くことで、一直線に物語は歴史的な大敗に収斂していく。この映画は様々な理由から散々な評価を蒙っていて、興行的には歴史的な失敗作と謂うことになるのだが(笑)、戦争と謂う非日常的な現実の局面の全体的な在り方を精緻に鳥瞰した映画としては類稀な「面白い娯楽映画」である。

ただ、如何せん欧州大陸の複数の国家に跨る広大な領域に展開された空挺部隊や陸戦部隊の複数の拠点に物語の視点が分散し、さらにそれが時々刻々移動しているので、一回観ただけでは今ここで何が語られているのかサッパリわからない。また、師団、大隊、中隊、小隊と謂う軍制の単位も門外漢にはよくわからないし、誰がどの隊を率いていて誰が所属しているのかは部隊名だけ聞いてもピンと来ない。「一四大スター豪華出演」を売りにする群像劇だけに、誰が何処で何をしているのか、それが作戦全体の中でどのような役割を果たしているのかが直観的にわからないのはかなり致命的な難点である。

結果的に観客は「壮大な空挺作戦を膨大な登場人物群が広大な領域で遂行する」と謂う物凄く巨大な現実の直中に放り込まれた錯綜を感じるばかりで、パッと視てその全体像を一望出来る観客は殆ど存在しないと謂えるだろう。たしかTV放映時には、視点が移動する度に現在地を示す欧州大陸の地図と登場人物名がスーパーインポーズで出たと謂う記憶がある。

そして、多分これがトドメと謂うことになるだろうが、この映画は全体で一七五分もある。一回観ただけではどんな観客も何が語られているのかサッパリわからない映画が無慮三時間も延々と続き、しかもそこで描かれているのは連合軍の無様な大敗だと謂うのだから、こんな映画を世界中で多くの人々が喜んで観るだろうとか、九〇億円もの制作費を回収し得るほどにヒットするだろうと考えたプロデューサーはアタマがおかしい。

勿論、その皮算用には満更根拠がないわけでもなく、「遠すぎた橋」は「史上最大の作戦」の原作者コーネリアス・ライアンが「ヒトラー最後の戦闘」に続いて執筆した第二次世界大戦史三部作の掉尾を飾るノンフィクション小説であり、ライアンの白鳥の歌でもある労作で、膨大な聴き取り調査に基づく貴重な時代史の証言でもある。

Dデイの歴史的な大勝利を描いた「史上最大の作戦」がベストセラーとなり、一線級の大スターの人海戦術で描いた映画化作品もまた大ヒットを記録したのだから、同じくベストセラーとなった同じ原作者の「遠すぎた橋」を一大巨費を投じ同様のスター映画として映画化した作品が同じように大ヒットするだろうと謂う予測は、まあ当時の映画興行の感覚ではそんなにおかしな発想ではなかったのである。

しかし、現実にはこの映画の興行は惨敗し、「オールスター戦争映画」と謂う一時代を画したジャンルはこの作品を以て終焉した。そして、失敗した作戦を描いた映画の興行的失敗もまた、映画の中で緻密に描かれた「敗因」と同様に複数の要素が絡んだ複雑なものであり、失敗に収斂するストーリーを語ることが可能であるが、今はそこには踏み込まない。そもそも、難点しか指摘しなかった映画の何処を好きなのか、そこにも今は踏み込まない(笑)。長く生きていれば、また更めてこの映画を語る機会もあるだろう。

ここでこの作品をマクラに採り上げた意味とは、「失敗に収斂するストーリー」と謂う類型に基づく負け戦の物語と謂う物語構造の系譜が存在すると謂うことである。これをかなり大きく括ると「悲劇」と謂う劇的構造になる。本邦において代表的な悲劇の類型とは、たとえば近松門左衛門の心中物などがそれである。

「失敗に収斂するストーリー」は、何故か普遍的に人々を魅了するのである。

その失敗が逃れ難い雁字搦めのものであればあるほど、滅びへとひた走る物語は観客の胸を打つ。ここで一般論から「39歳」の話題に戻るなら、当初チェ二部作はこのボリビアでの敗北を描くストーリーとして構想され、制作の観点から視るなら文字通りチェの処刑から遡る形で現在われわれが視るような形の二本の映画が生み出された。

パンフレットの記述によれば、なんでも主にデル・トロ都合の故に最後の場面から遡る形の逆順で映像素材が撮影されたと謂うのだから、それは構想面のみの話には留まらない。チェの敗北がまずありきで、名実共にその前史としてこの総計四時間を超える二本の映画は語られていると謂うことである。

大きな単位としては、先に「39歳」が撮影され、次に「28歳」が撮影されており、その下位の単位として、この「39歳」はラストの処刑場面から遡る形で撮影されていると謂うことである。つまり、この二部作の中核的な関心はチェの敗北にあり、その必敗を根拠附ける物語として「39歳」が描かれ、その「39歳」の物語を根拠附ける物語としてさらに「28歳」の物語が描かれると謂う遡及的な構造になっているのである。

以上のことをざっと頭に入れて、映画の具体を視ていこう。

まず、例によってファーストシーンから視ていくなら、一九六五年当時に米国の一般家庭に普及していた球面ブラウン管TVのモノクロ映像と謂う形で、チェからの手紙を読み上げるフィデルの姿を映し出すことでこの映画は幕を開ける。

この映像は、TV放映に用いられた映像素材そのものでもなければ、普通の画面撮りのように正面にカメラが据えられているわけでもない。何故かカメラは、ブラウン管の球面状のテクスチャーが逆光の映り込みによって強調されるような斜め四五度くらいの角度に据えられている。

つまり、このカットは「モノクロTVに映るフィデル・カストロの姿を捉えた映像」と謂うより、「彼の姿を映し出したモノクロTVを捉えた映像」として提示されているわけである。その地と図の関係を明示する記号として、物質としてのブラウン管の素材感と形状が強調される斜めからのアングルで構図が捉えられているわけである。また、この角度によって、映像としてのフィデルもまた、薄っぺらく歪んだちっぽけな姿で提示される。

物凄くベタに言うなら、これはこのカットで提示されるフィデルが虚像であることの暗示である。TV映像として映し出される人物にフォーカスするのではなく、彼を映し出すTV受像器それ自体にフォーカスした撮り方によって、チェの手紙を読み上げるフィデルの姿を虚構のものとして提示しているわけである。

そしてそれは、「われわれ」と謂う言葉によってこの映画の観客全体を指示するのであれば、「友人であるチェからの別れの手紙を読み上げる『われわれ』の識るフィデル・カストロの姿」でもある。そして、最終的に「われわれ」の与り識るところではないボリビアの山中で秘かに銃殺されて生涯を終えたチェの物語を語り始める基点として、この「われわれの識るフィデル」の映像が提示されていることには明晰な必然性がある。

この映画は、それをまず「嘘」として観客の前に提示することから語り起こされているわけであり、その暗示の通り、フィデルとチェはこの手紙が読み上げられた時点においては「別れ」てなどいなかったと映画は語っている。

但し、パンフレットに寄稿された伊高浩昭の解説によれば、この手紙の公表のタイミングを巡って両者の間に思惑の違いがあったとか、キューバの革命政権の運営方針を巡って確執があったと謂うような事情もあるようだが、少なくともこの映画の劇中の表現では、チェの失踪とボリビア潜入はフィデルとチェの密接な共謀によるものとして描かれていて、彼らの間の友情はキューバ革命当時と変わりないものとして提示されている。

とまれ、このように「嘘」から始まった映画は、このフィデルの演説のシーンに次いでチェが家族と本当の「別れ」の一時を過ごすシーンに切り替わり、それもまた入念な映像文法で「嘘」として提示される。つまり、このシーンにおけるチェは、すでにボリビア潜入の為の「嘘」の身分である「米州機構大使のラモン氏」としての窶しで通しており、子供たちに対しても「父親の友人のラモンさん」として接している。

髪を白く染め、頭頂部を剃り上げ、入れ歯を入れて角縁眼鏡を掛けたインテリ中年男に窶したままの姿で、チェは妻子との永遠の「別れ」となるかも知れない一時を過ごすのであり、「28歳」の後半で識り合った二度目の妻のカタリーナは、この場面では子供たちの前でも夫を「ラモンさん」と呼んでいる。

このチェが「嘘」であることは、しつこいくらいのミラーショットの多用で表現されており、チェ自身子供たちに対して自分がこれから何をするつもりなのか、そしてその結果としてどのようなことが起こり得るのか、その真実を隠している。

パンフレットの最後のページに記載されているのは、チェが子供たちに宛てた最後の手紙であるが、それはこの場面において語られなかったチェの内面の真情である。これは名文家として識られたチェの書簡らしく簡潔でありながら率直に感動的なものであり、この映画を観てチェの末路に寄り添った後にこれを読むと一際胸を打つ。

就中「世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、いたみを感じることができるようになりなさい」と謂う子供たちに宛てた願いは、革命家と謂う限定を超えた普遍的な人の願いとしてチェの思想の根幹を剔抉している…いや、勢いで言っちゃったけど、オレ個人は全然チェ・ゲバラが何を考えていた人か識らないんだが(笑)。

しかし、エルネスト・”チェ”・ゲバラと謂う人物の青臭い理想が何故に時代を超えて人の心を掴むのか、それは、「世界のどこかで誰かが不正な目にあっている」ことに耐え難い痛みを感じ、その為に自分一個の安逸な生活をすべて棄ててまで献身出来る心性とは、紛れもなく「正義の味方=ヒーロー」の行動原理だからである。

つまり、チェは世界中の人々が最大限に共有している「正義の味方=ヒーロー」像を現実に生きた人なのであり、それがたまたま革命と謂う「世直し」の実践として表出した人物だからこそ、ソ連の支援によってアメリカと対峙する途を選んだキューバの革命政権下においては居場所がなく、次なる戦場を求めてボリビアに旅立った人なのである。

以前語った三国志においては、仇役の曹操は「乱世の奸雄、治世の能臣」と評される清濁併せ呑む深みのある政治的な人物だったが、チェのような或る意味単純なまでに単極化した正義の味方の英雄は、乱世においてしかその存在意義がない。

たとえば以前長々と語った「Fate」の物語において、このような正義の味方の在り方の矛盾を象徴する言葉として、「正義とは悪の存在を前提に置いてしか存在しない」と謂う指摘がある。より純粋な正義は、より極端な悪の存在を前提に置かない限り存在の余地はないのだし、チェの体現する純粋な正義の理想は、第三世界の国々の殆どが「不正な目にあっている」からこそ輝きを放つのである。

とまれ、子供たちに対するこのような願いを嚢中に秘めたまま「父親の友人のラモンさん」として子供たちと最後の一時を過ごすチェの姿は、要するに虚像である。米州機構大使でお父さんの友人であるラモンさんとしてのチェが虚像であることを折々に挿入されるミラーショットで強調しながら、映画の叙述は愈々ボリビア入国後に陰惨な密殺へと続く「本当の」チェの物語を描いていくことになる。

カメラはラモン氏のボリビア潜入の経緯を淡々と追い続け、入管を通過したラモン氏がクルマに乗ってボリビアの市街地を俯瞰する映像の直後にちょっとした映画的な仕掛けを施すことで、この時点では意味の取れない寄り道の叙述をする。

ラモン氏を乗せたクルマの通過を街角に据えたカメラが待ち受け、当然クルマに附けてパンするのだが、そこでカットするのではなくパンしたことでフレームインした人物にそのまま映像は注目を続け、クルマが左手方向に通過した後にその人物が右手方向に移動すると、何故かカメラはその人物に附けて再びパンする。カットすると依然としてカメラはその見知らぬ人物を追い続けており、観客はラモン氏を追っていた叙述が何故この時点でこの見知らぬ人物に寄り道するのかまったく理解出来ない。

さらにその人物が銀行らしき建物に入ってくるところを待ち受けるカメラは、すでに別の人物のクローズアップを画面に捉えており、ここでカメラは第一の人物を棄てて第二の人物に附いていく。この辺でちょっと記憶があやふやになっているのだが、さらにカメラは第二の人物を追う過程で第三の人物に出会い、第二の人物を棄てて第三の人物を追っていったと記憶している。

このうち、第二の人物がタニアであることは覚えているのだが、第一と第三の人物が誰なのか、後に劇中に登場したのかはハッキリ覚えていない。この映画では女性の主要人物はタニア一人しか出て来ないから、それはハッキリしているのだが、誰だとも説明されないありふれた顔の男性の風貌をずっと記憶しておけるほどオレは注意深い観客ではないと謂うことである(笑)。

さらに謂うと、この映画はオフのセリフ遣いと謂う技法を多用していて、その場で今セリフを喋っている人物を画面に映さないと謂う撮り方を多用しているのだが、たださえ顔の見分けが附きにくい映画なのに、役者の顔と声の認識が一致していない段階でもこの技法を多用するので、それがわかりにくさをさらに増幅していると思う。

また、このデ・パルマ張りの視点のリレーで寄り道した映画の叙述は、この女性がボリビアの上流階級に所属していることをパーティーの映像でざっと説明するのだが、この一連の描写は、映画の叙述が本格的にチェに寄り添ってボリビア山中に入り込む前の時点で、都市部で政権中枢に潜入しているタニアたちの活動を紹介しておくと謂う目的のアイディアなのかもしれないが、叙述的には技巧的な面白みと謂う以上の必然性をあまり感じなかった。

とまれ、このような寄り道を経た後に、映画の叙述は、ラモン氏の仮面を脱ぎ棄てて極秘裏に他国に潜入した外国人革命家の貌に戻った主人公の行動を再び追い掛ける。チェは当地のゲリラ部隊に迎え入れられると、ラモンと謂う偽名のままに一人ひとりの隊員と自己紹介を交わし、そのシーンの中で早くもこのラモンと名乗る人物がすでに伝説上の革命英雄であるチェ・ゲバラその人であることが皆に明かされる。

ここからの流れは、最前指摘したように、「28歳」に比べると格段に整理されていてわかりやすい。チェは、部隊の軍律を定め、アジトを整え、食糧備蓄を点検し、兵士を訓練し、周辺状況を巡視して、ゲリラ戦を戦う為の準備を着々と進める。

これは一見して「28歳」において描かれた事柄を整理して語っているような印象を覚えるわけで、「28歳」においては、劇的必然性の観点では未整理に感じるようなチェの人物像を語るエピソードの無秩序な羅列によってわかりにくかった事実関係が、事実性の叙述の序列に則って再配置されたように感じるのだが、制作の時系列を考慮するならそれは逆でなければならない

本来「28歳」においても同じ事柄が語られていたのだが、チェの人物像の提示を中核に据えた叙述になっていた為に、事実性の観点においては何が描かれているのかわかりにくかっただけである。

この二本の映画の叙述にこのような対比が設けられている、もしくは、このような対比が生じているのは、現実的な観点で謂えば、「39歳」のほうが先に構想されたからだと謂えるだろう。ソダバーグは当然、チェ・ゲバラの悲劇的な敗北を描く一本の物語をわかりにくい映画として撮るつもりなど毛頭なかったのだし、それはたとえば前述の「遠すぎた橋」が「面白い娯楽映画」であるような意味において「面白い娯楽映画」でなければならないと考えていたはずである。

この「面白い娯楽映画」である「39歳」がチェの滅びを結末として語る為には、この一本の映画だけでは不足であると謂う判断の下に、「28歳」と謂うもう一本の映画が生まれたのだから、この二本の映画は表裏一体の一繋がりの映画群として捉えられる必要があるだろう。

つまり、「39歳」と謂う映画が「チェは何故敗れたのか」を中心的な課題とする娯楽映画であるとするなら、「28歳」はこの「39歳」を必然的な結末に据えて「チェは何故ボリビアに赴いたのか」を中心的な課題とする娯楽映画なのである。それは別の観点で視れば、「28歳」の映画は「39歳」の映画を別の意図に基づいて再構築した映画であると謂うことである。

そう謂う前提でこの映画を視るなら、たしかに「チェは何故ボリビアに赴いたのか」と謂う動機面に関する叙述は何一つ語られていない。そこは完全に分離して「28歳」に分掌させているわけである。以前「28歳」を語った場面で、「この映画ではキューバ革命など一切描かれていない」と断言したが、それはこのような意味合いにおいて捉えられねばならないと謂うことである。

そして、ソダバーグが「『モーターサイクル・ダイアリーズ』がこの前史として三部作を構成する」と語った意味もまたそこにあるだろう。「28歳」の時点におけるチェはすでに登場時から革命を志向しているが、そこにさらに「何故」を追加するなら、それまでに彼が「何を視てきたのか」が問われねばならない。しかし、チェ・ゲバラと謂う人物に関心を持つ観客がすでに「モーターサイクル・ダイアリーズ」を鑑賞していると仮定するなら、そこは一本の物語として「説明」すべき事柄ではない。

そう謂う意味で、この映画群は他人の作物のお陰で危うく三部構成の超大作となることを免れたわけだが(笑)、「28歳」がチェの人物像を中心的な叙述課題として事実性の叙述セオリーを無視していたのは、事実性を主要な叙述課題とした「39歳」の構成にその主因が求められるだろう。ここで主要な課題として語られていないチェの内面を密着した視点で語る為に「28歳」はあるのであるが、さらにその仕掛けとしてこの二本の映画には、二部作と謂う体裁面からの必要性を超えて構成上の対称が設けられている。

嘗て「失はれた週末」で度々指摘したことだが、文芸作品においては、対になる二つの挿話構造の間に対称と対照を設けることで、その両者の対比においてより効果的に何某かの意味を語ると謂うセオリーが一般的に用いられている。

この二部作でも、二つの物語の構造には緩い対称が設けられており、外国人である主人公が他国の革命を目指して計画を練り、決死の潜入を果たし、密林でゲリラ隊を組織して政権の転覆を目論むと謂う、まったく同じ筋道を描いている。そして、その筋道の結末が華々しい大勝利であるか無惨な密殺であるかと謂う違いに基づいて、夫々のプロセスの叙述の具体に著しい対照が設けられているわけである。

華々しい大勝利に終わる物語は、僅か八〇名剰りの有志が一〇人乗りの船舶に乗り込んでキューバ上陸を目指し、しかもそれが待ち伏せに遭って壊滅的な打撃を蒙る大失地から始まるが、徐々に闘争の輪がキューバ全体に拡がり、悲惨な上陸の生き残りである十数名から始まったゲリラ部隊は行く先々で参入者を得て一大勢力となり、農民たちの協力はもとより都市部の政治的反政府勢力との合作も無事成って、さらには投降した政府軍兵士をもその勢力に加えることで、遂にはゲリラ軍が首都をはじめとする主要都市を次々に陥落させ、熱狂の裡に革命は成功する。

一方で、無惨な密殺に終わる物語は、一国の支援を得て精巧な偽造パスポートを携え変装すると謂う手段で巧妙に主人公の潜入が果たされるところから始まるが、得られるはずの補給や援助が得られず、国際的な支援網も上手く機能せず、部隊からは次々に脱落者が続出し、呼応すべき民間の動きは瞬時にして軍事制圧されてしまう。さらには貴重な残存兵力は連絡を絶たれて分断され、孤立した一隊は農民の裏切りによって渡河中に殲滅されてしまい、遂には主人公の部隊もまた呆気なく包囲され囚われの身となる。

闘争の輪が次第に拡がって熱狂的な勝利に繋がる物語と、櫛の歯が欠けるように徐々に勢力が削がれ最終的には陰鬱なムードの裡に首魁の銃殺に終わる物語、ストーリーの構成を揃えることによって、このような劇的な対照が設けられているわけである。

その対称と対照の設定は内容面のみならず、たとえば最前視てきたような映画の体裁にもその意図が視て取れるだろう。「28歳」のファーストシーンは、黒味にオフナレで音声チェックのセリフが被り、ファーストショットはモノクロTVのテストショットを擬した映像で提示されたチェの軍靴、葉巻、そして、特徴あるハンサムな風貌のクローズアップである。

このモノクロのシーケンスで描かれているのは、チェが国際社会の表面に躍り出て世界中に強烈な印象を与えた国連総会と謂う檜舞台であり、革命家としての人生の絶頂期である。この国際政治の檜舞台に立った彼は、超大国のエゴイズムによって蹂躙されている第三世界の諸国の解放を革命の英雄として高らかに主張した。

「39歳」のファーストシーンとして提示されたフィデルのスピーチは、この国連総会におけるチェのスピーチから僅か数カ月後の出来事である。カメラを通じた直接の映像としてクローズアップが提示された「28歳」のファーストシーンと対照的に、TV受像器を斜めから撮影した映像の中に歪んで映し出される小さな虚像として、チェの失踪と訣別を告げるフィデルのスピーチは提示される。

以前のレビューで語ったように、「28歳」のモノクロで描かれるシーケンスも「われわれの識るチェの姿」を語るものであることは共通しているが、超クローズアップから始まり手持ちカメラの密着映像で繋ぐその撮り方は、飽くまでチェと謂う人物に接近してその実像に肉薄する動機に基づくものである。対するに、フィデルのスピーチを映し出す「39歳」のファーストシーンは、TV受像器と謂う物質を介して対象との間に何重もの距離を取り、その距離を強調する撮り方で提示されている。

そして、それに続くのはチェとその妻子が水入らずで最後の一時を過ごすシーンであるが、「28歳」においてはメキシコに亡命したフィデルの家庭における革命の同志たちとの会合シーンがそれに照応するものであり、意図的にルックを似せている。

しかし、「28歳」の「家庭のシーン」には情熱的な革命の同志たちが集っており、その集団中におけるチェもまた革命の理想に燃える若き外国人青年と謂う実像として提示されているのに比べ、「39歳」の「家庭のシーン」にはチェと妻子しか存在せず、そしてこの時点ですでにチェは「ラモンさん」の窶しを纏う虚像として登場するのであり、子供たちは「ラモンさん」が父親であることを識らされていない。

つまりこの「家庭のシーン」は形式上「チェの不在」と謂う性格が与えられているのであり、実体としてのチェは存在するが、形の上ではチェがすでに「失踪」した後の残された家族の姿を描いていることになる。この後チェはボリビアに単身潜入し、遂にこの場所へは戻らないのだが、われわれ観客はチェがイゲラ村で客死した後の家族たちの姿を、チェ自身と共に先取りされた形で見ることになる。

この描写に史実の裏附けがあるのかどうかは識らないが、映画的なアイディアとしては気の利いたものと言えるだろう。そう謂う意味で、「39歳」の冒頭からボリビア潜入までの導入部には、割合トリッキーなアイディアが多々盛り込まれていて、要するにこの作品を「面白い娯楽映画」として描こうとする動機が視られるわけである。

また、二本の映画の「家庭のシーン」には、「出会い」と「別れ」と謂う対照が設けられているのだし、勝利に終わる物語と敗北に終わる物語の間の決定的に相違する条件として、後者にはフィデルの存在がないことが挙げられるだろう。キューバ革命はチェの闘争でもあるが本質的にはフィデルの闘争であり、結果論で謂うならキューバ革命の勝利条件とは主にフィデル・カストロの存在である。

たとえば「28歳」の物語ではゲリラ戦のエクスパートとして経験を積んでいくチェの姿が描かれているが、そこで困難に逢着したチェを叱咤し忠告するのは常にフィデルの役回りであり、「28歳」の物語構造の見通しの悪さの事実性の観点からの主因は、本来はフィデルに密着することでしか全貌を鳥瞰出来ないキューバ革命を、その部分でしかないチェの行動に密着することで描いていることにも拠るだろう。

革命に伴う困難や障碍の克服は、チェの闘争によって勝ち取られるのではなく、この物語では裏面に廻されたフィデルの活躍によって常にもたらされる。そのようにしてフィデルを中心として動いていく革命闘争の全体性の中で、その部分であるチェの闘争が描かれると謂う構造になっているのが「28歳」の物語である。

チェがどれだけ有能な革命戦士だったとしても、キューバ革命を成功に導いたのは主にフィデルの他者を動かす天稟であり革命に必須の狂気である。それが高度な知性と両立し得ているのが、フィデル・カストロと謂う人物固有の唯一無二のカリスマ性である。

しかし「28歳」の全編を通じて描かれるチェと謂う人物には、それが二つながらに欠けている。強靱な理性と理想を恐るべき克己心で揺るぎなく堅持し得る英雄的人物の横顔は見えてくるが、「革命は狂気の産物」なのであり、それだけでは足りないのである。チェには他人の尊敬を勝ち取るような優れた才能と魅力はあっても、無条件に他者を動かすような天才はないのだし、戦場に在っても狂気を排して理性を堅持し得るような特異な心性の持ち主である。

この映画では、フィデルとチェの友情を揺るぎないものとして描いていて、ボリビアの闘争はフィデルの支援の下に行われたものであるとの解釈を採用している。それは「28歳」の最後半、革命の勝利までが描かれた後に、一旦メキシコのあの晩にまで時制を巻き戻し、冒頭では語られなかった最初からのチェの意志である「中南米全体に革命を波及させる」と謂う希望をフィデルとの水入らずの会話で明かす短いインサートカットが物語っている。

フィデルとチェが余人を交えずバルコニーで理想を語らった会話上においてこの意志が提示されることで、これが二人の間の個人的な約束であることが強調される。ここはおそらくこの映画独自の文芸上の脚色と謂うことになるのだろうが、一通り物語が終わった後に更めて時間を巻き戻してインサートすることで、キューバの物語全体がボリビアの物語のアリバイとして語られたことが確認される。

さらに、「39歳」の出発点においてこの二人の訣別が形式的に描かれ、「28歳」との差引勘定でフィデルの不在を印象附けるシーンが描かれることで、結末におけるチェの敗北が予め決定附けられている。

このようにして、導入部の幾つかのシーンをはじめ、二本の映画には意図的な対称と対照が設けられているわけだが、この対称と対照を視る場合、飽くまで「39歳」の悲劇を主軸として、それを根拠附けるものとして「28歳」の描き方が捉えられなければならないのである。

この前提を物語の構造面に対称を設けることで提示しておいて、さらにその具体において対照を設けることで、主にボリビアの敗北の根拠附けが語られていると謂うことになるわけで、キューバの勝利が語られている物語でも、それは最終的にボリビアの敗北の根拠附けとしての観点で提示されていると謂うことである。

たとえば、キューバとボリビアの闘争において、チェはまったく同じ闘争を戦ったにすぎない。違いがあるとすれば、まったく手探りの状態からゲリラ戦のセオリーを学んでいったキューバの場合に比べて、ボリビアの時点のチェはキューバの経験からゲリラ戦の専門家として成長していたと謂うことで、時系列に沿ってはいるが混沌とした形で各要素が提示されたキューバの戦いの描写とは違って、ボリビアでは非常に整然と計画的に準備が行われていると謂う描写の違いがある。

これはつまり、「面白い娯楽映画」として整然と語られている「39歳」の叙述を遡って事実性の次元で根拠附ける為に「28歳」の物語文法を外した映像ドキュメンタリー的な叙述のスタイルが採用されていると謂うことでもある。

この戦闘経験の違いは、普通なら有利な条件として算えられるだろうが、それは政権サイドでも同じことで、キューバの経験からすでに対ゲリラ戦のノウハウが蓄積されており、米CIAの介入でボリビア政府軍に対ゲリラ戦用の特殊部隊が編成されることで、経験の集積は相互的なものとなり、アドバンテージは無効化される。

では、この二本の映画において、ボリビアの敗北を決定附けたものとして描かれているのは何かと謂えば、キューバの闘争ではフィデルが排除し克服したゲリラ戦を取り巻く種々の現実的困難が、ボリビアの闘争では一切克服されなかったことである。

勿論、キューバ革命やキューバ危機を前提に織り込んだ超大国の世界戦略はこの時点ですでに大きく転換しているのだから、フィデルがチェと共に在ればボリビアの革命が成功したとは謂えないだろうが、少なくともチェが人知れず密殺されると謂う悲劇的な結末だけは回避出来ただろう。

そのように推測し得るのは、「28歳」で描かれたキューバ革命の勝因は何一つチェが獲得したものではないからである。そして、「28歳」において繰り返し描かれたチェの特質とは、直接的な関係性において他者を動かす力の欠如である。

チェと距離のある人々は彼に対してカリスマ的な崇拝を捧げるが、直接的な関係性にあり距離の近い人々は彼の理想主義的で自他に厳格な言動を煙たく感じるばかりで、この人の言うことなら死んでもやり抜こう、と謂うような対人的な傾倒は誰一人として抱かないだろう。

そして、「28歳」のラストシーンは、陥落したサンタクララ市からハバナへの移動の途上で、おそらく遺棄されていたであろうスポーツカーを乗り回す革命軍兵士を見咎めたチェが、それをサンタクララまで戻して歩いて戻って来いと命じる場面であり、勝利の熱狂に浮かされた兵士たちが、多寡が一台のクルマを勝手に徴発した行為まで「略奪」と視て断固許さないチェの倫理的な潔癖さを強調して映画は幕を閉じる。

これは或る種「白けた」終わり方である。普通の観客ならこれを「やりすぎ」としか感じないだろうし、それはこの場面でチェの周囲にいる人々も同じだろう。そしておそらく略奪を咎められた兵士もまた不平を抱くだろう。勝利の熱狂のエピローグとしてこのような白けた描写を置くことで、こう謂う潔癖さの故に、この人物は現場の一兵卒には人気がないのだろう、引いては、尊敬は受けても誰もこの人物の為に命を投げ出そうとはしないだろう、と謂うことを暗示して映画は終わるわけである。

そして、最前語った「計画と実行」のセオリーと同様に、「39歳」の根拠附けとして語られた物語である「28歳」で描かれたこれら諸々の要素は、当然「39歳」の物語において着々とチェを追い詰めていく。何度も繰り返す通り、「39歳」が主軸の物語としてまず在って、「28歳」がこれを根拠附ける為に遡って語られている関係にあるのだから、これは至極当然の成り行きである。

ボリビアの物語で描かれたゲリラ軍の劣勢は、勿論全体的な情勢に利がなかったこともあるが、たとえばボリビア共産党を代表するマリオ・モンへの説得が不調に終わったことや、アジト近傍の農民の協力や信頼を取り附けることに失敗したこと、タニアをはじめ都市部の工作員がチェの命令を受け容れなかったことなど、チェが決定的な場面で他者を動かし得なかったことの積み重ねとして描かれている。

そして、キューバの闘争においては全体的な情勢に目配りして不利な交渉を成功に導き困難に逢着したチェを常に叱咤し忠告を与えてきた親友のフィデルは、キューバと謂う特定の国家の重責を担うが故に表立ってチェを直接支援することは叶わない。

この物語の基本的な人間観として据えられているのは、人は超人的な克己心に基づく冷徹な理性や美しい理想に対して憧れは感じるが、直接的に人間を動かすのは理性や理想ではなく、共感に基づく熱情や狂気の伝染である、と謂う考え方だと謂うことだろう。

これは、この映画群で描かれた、フィデル・カストロとエルネスト・”チェ”・ゲバラと謂う二人のカリスマの資質の違いを視ることでわかる。カストロは他者に対して気違いじみたことを共にやりたいと思わせるタイプの影響力を及ぼすが、ゲバラは逆に他者に対して如何に狂気の状況にあろうとも気違いじみたことをやろうとするのを許さないと謂うタイプの影響力を及ぼす存在である。

そのような彼の理性や理想に対する信仰は、たとえば読み書きの出来ない未成年は部隊に加えないとか、軍律を犯した者は厳罰に処するとか、決して投降した捕虜は殺さないとか、解放すべき農民に敬意を払うと謂うような、武力闘争と謂う狂気の沙汰の直中に在って尚息苦しいまでに貫かれる厳格な「正しさ」として描かれている。

そして、それは「28歳」において革命の勝利が決定附けられたとき、チェ自身の言葉として「革命は狂気の産物だ」と謂う意味のことが語られるに及び、やはり狂気の持ち合わせが一切ないチェの革命は、失敗を宿命附けられているのだと謂うことを強調する。

ボリビアの悲劇を描く「39歳」においては、誰もチェの言葉に動かされない。翌日に処刑を控えた晩、歩哨に立った兵卒に縄目を弛めさせることすら叶わない。多分ここで縄を解かせても、疵付いた脚で脱出することは思束なかっただろうが、結局彼は歩哨との会話でも煙草を一服廻し飲みさせてもらえただけで、その兵卒すらも「俺はもう中へ入りたくない」と謂う言葉でチェとの会話を拒む。

チェは、フィデルが人を動かすような意味では人を動かすことが出来ないのである。

そして、この二本の映画群の中で最も古い時制に当たるメキシコのバルコニーにおける会話でチェの決意が語られていた以上、「28歳」のファーストシーンから「39歳」のラストシーンまでは、予め決定附けられた必然的な敗北を根拠附けるストーリーとして一本に繋がるのである。

だとすれば、結論はこう謂うことになる。

チェはその理想の故にいずれはフィデルと袂を分かつ運命にあったのだが、彼一人で革命を戦えば必ず敗れるのだし、理想と正義だけでは革命に勝てない。革命に勝利をもたらすのは、たとえばフィデルが体現するような人間的なカリスマであり、絶望的な劣勢を覆す奇跡を起こすには伝染性の高い共感や狂気の熱情が必須であって、それは本来的には冷徹な理性や美しい理想とは対極にある理不尽な暴力である。

にも関わらず、武力闘争による革命が単なる狂気の暴力闘争と謂う以上の意味を持つ為には理想と理性が必要であり、キューバ革命に他に類を見ない意義があるとするなら、それはチェのような人物が戦って尚勝ち得た闘争だと謂う意義である。

この映画で描かれたエルネスト・”チェ”・ゲバラと謂う人物の存在意義は、革命に勝利をもたらす英雄としてのものではないし、チェの存在が勝利条件なのではなく、このような人物が勝たねばならないと信じる信念にこそ意味がある。

掛け値のないところを言えば、この映画で描かれたような人物と共に極限状況で命を賭けて武力闘争を戦うと謂うアイディアはちょっとゾッとしないと謂うのが正直な感想であるが、それでもこのような人物が最終的には勝利すべきだと謂う否定し得ない確信をわれわれは抱く。

理想だけでは武力闘争に勝てない。それは真実だろうが、理想を持つ者こそが勝利すべきだと謂う確信もまた同様に真実である。

このような人物が戦ってそして無惨に敗れた闘争の物語は、表面的には平和を約束された国に生まれたわれわれにとっても、やっぱり何処かで繋がっている物語なのであり、超大国アメリカの利害に翻弄される弱小国家と謂う意味では中南米諸国と何処が違うのかと謂うことになる。

そして、キューバやボリビアの人々とわれわれの間に違いがあり、われわれがわれわれ自身をそれほど不幸だと思わない現実に対して、堅苦しい教師のようなチェの遺した言葉がいつも目の前に突き附けられている。

「世界のどこかで誰かが不正な目にあっているとき、いたみを感じることができるようになりなさい」

厭なことを言う人だ。

この人は、おそらくこう謂う厭なことを言う人だから最終的には敗れたのだろうが、その言葉が誰に対しても厭な響きを持つのは、それは決して誰も無視してはならない言葉だからである。

このような厭な言葉を遺して、この人自身が平和で幸福な生活と家族を棄ててボリビアの密林に消えたからこそ、われわれはわれわれ自身が耐え難い痛みを感じたときに自らもまた平和や幸福を棄てて何処かへ赴くべきだと謂う予感を無視し得ない。

多分オレはそんなことはしないで生涯を終えるだろうけれど、程度の差こそあれそのような痛みを「感じている」ことを気附かせてしまうから、この人の生き様とその惨めな敗北はわれわれの胸に棘のように突き刺さるのだろう。

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コメント

力作レビュー、拝読いたしました。いろんなことがクリアになってありがたいです。

チェ・ゲバラと云う存在は、危険です。
それは、彼がポル・ポトになりえた、と云う意味からでもあるし、なによりもおっしゃるとおり、瑕疵の存在しない「正義のヒーロー」であるからでもある、と思います。そして、彼の存在と生涯の言動をしてそう感じせしめるものは、どこかぼくらの深いところに根ざしているんだろう、と感じます。

なんぴともチェにはなりえない。なりえたとしても、おそらくなにごともなしえない。現にチェは、ボリビアではことをなしえずに殺された。このことを胸の片隅に置いて、なおかつ「このような生を生き得た」存在について想いをめぐらせる必要があるんだろうな、と思います。

投稿: pooh | 2009年3月 2日 (月曜日) 午後 10時37分

>poohさん

やっぱり文芸の話題のほうが若干手の内のものですから、こう謂う話題でpoohさんとお話が出来るのは嬉しいですね。

>>チェ・ゲバラと云う存在は、危険です。
>>それは、彼がポル・ポトになりえた、と云う意味からでもあるし、なによりもおっしゃるとおり、瑕疵の存在しない「正義のヒーロー」であるからでもある、と思います。

前者の意味で謂えば、革命と謂うのは勝利するだけではあんまり意味のあるものでもないのだろうと謂う感想を持ちました。特段に中南米諸国の歴史に詳しいわけではないですから誤解もあるかもしれませんが、腐敗した政権を打倒した勢力がさらなる悪や別の悪である可能性は幾らでもありますよね。また「新政権」の正義が「現政権」の悪としての相貌を帯びる事態も容易に起こり得るわけですね。

フィデルたちが打倒したフルヘンシオ・バティスタも、第一次バティスタ政権時には裏で相当阿漕なことをしていたとは謂え、独立戦争後の不安定な状況に終止符を打って独立国家への一歩を踏み出したとは謂えるわけですが、合法的に政権から放逐された後には、本性を剥き出しにして軍事クーデターによって私利私欲にまみれた独裁政権を確立したわけですよね。

この第二次バティスタ政権が米国との癒着を強めてキューバを収奪していた時代は明白な悪政の歴史ですが、クーデターや叛乱が相次いだキューバの歴史性を視るなら、これを排除するだけでは単に権力者の顔が変わっただけ、と謂う可能性もあったわけです。

実際、ボリビアの革命が何故失敗したのかについての歴史的な解釈として、すでに一度52年革命を経験していて、59年の農地改革によってインディオ農民たちに一応の満足が得られバリエントス政権に一定の支持基盤があった為に政権転覆のモチベーションが低かったと謂うことが挙げられますが、これはつまり中南米諸国においては「革命」に類する政治闘争なら、それまでにも売るほどあったと謂うことですね。

そしてこれは、大国からの植民地支配を経験した第三世界の諸国家群において共通する事情で、現政権を軍事闘争で打倒して別の政権が樹つこと自体は何ら新しい時代の到来を保証してくれないわけですね。植民地支配からの独立闘争それ自体が大国間のパワーゲームに組み込まれているのであれば、真の独立など何処にも存在しない。

実際、キューバ革命も当時はアメリカ大陸のど真ん中に赤色革命の橋頭堡が築かれたと謂う視られ方をしたわけですし、ソ連の対アメリカ戦略上重要な衛星国と謂う見方が流通していたと思います。この見方に拠るなら、キューバはスペイン、アメリカ、ソ連と謂うふうに、支配者としての宗主国を乗り換えただけ、と謂う見方になるわけですね。

おそらく、若き日のエルネスト青年が視てきた世界とはそのようなものだった。

そのような意味で、チェが「革命の勝利」ではなく「革命の正しさ」に拘ったことは決して無視して好いことではないと思いますし、ソ連からの新たな植民地支配を危惧して政権中枢を去り新たな闘争に赴いたことにもまた強固な一貫性があるわけです。

ただ、多分普通の人間はそう謂う種類の正しさに居心地の悪い思いを感じてしまうものなのでしょう。支配ー被支配関係と謂うのは、潜在的には両者の共犯関係と謂う側面もありますし、ボリビアの農民たちにとっては土地分配以上の正義を望む気持ちはなかったわけです。しかし、それは理不尽な暴力による圧政を基盤とした束の間の安定にすぎないのだし、世界がどうあるべきなのかと謂うのは、学ばなければ決して理解し得ない事柄です。

チェが教育と勤勉を重視したのは、正しさは学ぶことによってしか理解し得ないのだし正しさを学ばないことは悪を行うことに繋がるからでしょう。そして、結局彼は何も学ぼうとしない人々に裏切られて、正しさに捧げた生涯を終えるわけです。

そのような人の在り様が変わらない限り、世界のどこかで誰かが不正な目にあっている状況は変わらない。そして、彼の歿後四〇年を経た今でも依然として世界のどこかで誰かが不正な目にあっているわけです。

多分、オレがこの映画に感じる関心が「レッドクリフ」と接点を持つのはこの辺りなのかもしれないと思います。

正義と悪が表裏一体のものであり、正義の闘争が容易に悪の圧政に転換し得ることはおそらく真実です。正義の闘争とはいつでも危険なものなのだし、正義に対する憧れは常に不寛容な排他性に基づく弾圧に堕落する可能性を秘めています。しかし、世界のどこかで誰かが理不尽な苦痛を感じていることを見過ごしにしておけず、その痛みを我が物として引き受けるのなら、その状況は紛れもなく悪でなければならない。

それが悪であって見過ごしに出来ないなら打倒されねばならないのだし、悪を打倒する以上は己の信じる「正しさ」を掲げて戦わなくてはならない。「正しさ」とは何なのかを学ばなければならない。その「正しさ」はいつか悪と見做されるのかもしれないけれど、少なくとも己自身が信じられるほどに正しくなくてはならない。

多分、チェが「愛」と表現しているもの、「愛のない本物の革命家なんて、考えられない」と表現していること、それは、或る特定の正義は愛を動機とすると謂うこと以外に正しさの根拠はないと謂う意味なんではないかと思うんですよ。「他者の理不尽な苦痛を見過ごしには出来ない」と謂う「愛」、普遍的に正しいものなんてそれ以外にないんですよ、きっと。

>>なんぴともチェにはなりえない。なりえたとしても、おそらくなにごともなしえない。現にチェは、ボリビアではことをなしえずに殺された。このことを胸の片隅に置いて、なおかつ「このような生を生き得た」存在について想いをめぐらせる必要があるんだろうな、と思います。

われわれは、彼のように極端な悪を憎んで極端な正義を掲げ、極端な生涯を送ることなんて出来ません。そのような極端な英雄的人物を以てしても為し得なかったことが出来るはずもありません。しかし、こう謂う人物が存在してそのような不可能な生を生きたと謂うことは「なかったこと」には出来ないのですし、凡庸な人生を生きる平凡人であろうと、その凡庸さの埒内でその事実を受け止めるべきなのだと思います。

オレ自身はこの映画を観るまでチェ・ゲバラと謂う人がどんな人物なのだか殆ど識りませんでしたし、識ったからと謂って何が変わるわけでもないと思うのですが、彼の物語に対して秘やかな共感を持つことは出来ます。多分その共感は、大きく括ればニセ科学を批判する動機と根っこのところで相通じるものがあるのでしょうし、それはたとえばpoohさんに対する共感でもあるのでしょうね。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月 3日 (火曜日) 午後 01時16分

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