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2009年3月23日 (月曜日)

今週のFFR 剣々編

※コメント欄で今後の展開について若干のネタバレ(ネットで流通している程度)があるので、白紙の状態で視聴したい方はその旨お含み置きください。

今週も突っ込むとは思わなかったのでタイトルは使い回しで。

しかし、あれは狡い。蛸煎餅かよ。最早玩具の俤がないじゃん(笑)。

あの形態では何処から視ても脚が丸見えだから、さぞかし撮影に困るだろうと思っていたら、光らせたりアンダーに潰したりして殆ど実体を見せないってのは苦肉の策にしてもどうなんだろう。

そんなに困るなら、最初から断れば好かったのに(木亥火暴!!)。

まあ、このまんま玩具関連記事になってもしょうがないので、少し本編にも触れておくと、流石はあの悪ふざけが過ぎる井上敏樹にまで「剣で遊ぶな」と怒られた悪ふざけ大魔王の米村正二だけあって、相変わらず後で「メインライター」にこっぴどく怒られそうなほど剣で遊んでいる(笑)

これが例年のライダーなら、第一クール後半早々にゲストライターがこれだけの悪ふざけをしたら、コテンパンの袋叩きに遭ってもおかしくないが、どうせDCDはメタフィクション企画なのだから、悪ふざけは悪ふざけなりに意味はあるだろう。

以前のエントリで、會川昇が描く主人公の士とユウスケの関係を、カブトの天道と加賀美の関係の本来在るべき姿と指摘したが、今回はそのカブトを書いた米村がさらに士とユウスケの関係を「事実として書かれた天道と加賀美の姿」に揺り戻したと謂うのが、まあ批評的な観点では面白かったと言えるだろう。

思い起こせば、スタート早々の喫煙事件で何だかびみょんな後味を残したことを皮切りに、米村に天道タイプの「有無を言わさぬ正しさ」を描けるほどの成熟した思慮がないことが終始カブトの天道総司像を揺らがせてきたわけで、間違っていようが何だろうが自身の独善を貫く男なのか、決して間違ったことを言わない男なのか、そこを明確化しないと天道総司と謂う人物をどう視るべきなのかが曖昧なままである。

前者であれば、天道の所謂「正義」などと謂うのはガキの浅知恵で捻り出した独善に過ぎないのだから、普遍的な意味での「正しさ」それ自体が相対化されるわけではない。「正しいとされていることばかりが正しいのではない」と謂うトートロジーが成立するには、まずその「正しさ」が普遍的な観点で妥当でなければ意味がない。

カブトの全体的な設計を考えるとここは後者でなければならないはずだが、実際問題として天道の正義には子供が視ても「それ、普通に間違ってるだろ」とツッコミ可能な隙だらけで、まあこれは白倉的なライブ感覚で謂えば、必ずしも主人公に筋の通った言動ばかりをさせるわけにもいかないと謂う事情はあったにせよ、書き手のものの考え方に大きな隙があると謂う印象が強かった。

天道が正しいと謂う印象は、ひとえに彼を演じる水嶋ヒロが物凄くいい男だと謂う見た目の説得力だけであって、つまり「天道が正しいと謂う体で」と謂う「見立て」にすぎないわけである。この辺がちょっと戴けないな、と謂うのが正直な感想で、そこが見立てにすぎないのでは、わざわざそう謂う問題性を立てた意味がない。ニセ科学批判的なタームで謂えば、一種の「藁人形叩き」である。「ジャリ番」に不相応な問題意識を持ち込んでおきながら、そこは「ジャリ番」を言い訳にするわけですか、と謂う気持ちがあったことは事実である。

正しいことがいつだって正しいわけじゃない、と謂うことを「言いたい」と言う「気持ち」だけが描かれていることになるわけで、いや、あんたがそう謂う「気持ち」だなんてことは先刻ご承知ですよこちとら的な冷ややかな反応になる(笑)。正しくない形で描かれたパチモンの正しさを「正しくない」とやっつける話に、自己満足以上の筋論的な意味はないことになる。

ただ、元々青臭いおセンチなホンを書く米村正二に、最初から完成されていて成長しないヒーローの主張する揺るぎない正しさが書けるかと謂えば、それはミスマッチなわけで、前半はシリアスなムードで精一杯頑張っていたような印象だったのが、後半になって崩しの面白さに目覚めて悪ふざけに徹するようになった。

これはもう、白倉的な舵取りにおいて、次々と打ち出されるイベントの要請がありつつそれを揺るぎない正しさとして正当化することは自分には出来ないと判断し、なおかつそこまでのレベルの正しさが求められているわけでもないと謂うことに気附いてしまった、その結果上っ面で書くようになった、と謂うことなのかもしれない。おそらく、白倉PDは最前オレが語ったようなレベルの正しさを脚本に要求していたわけではないと思うし、「見立てで好いんだ」と謂うのが彼の認識だったのだろう。

オーセンティックな作劇で謂えば、実は天道や士のようなタイプの最初から完成された成長しないタイプのヒーローと謂うのは、要するに後出しジャンケンである。これはつまり、物語の語り手が正しいと考えることをそのまま代弁する立場の人物だからで、それが正しくあるべくして物語が仕組まれているのだから、名探偵が犯人を当てられるのと同じことで、物語の書き手は正解を識っているのが当たり前で、その語り手の代弁者である主人公が正解を識っているのもまた当たり前である。

たとえば最前挙げたカブトの喫煙問題が何故びみょんだったかと謂うと、あの状況における正解が天道の裁定だったとは普通の大人は思わないからで、喫煙する奴は何がどうあろうと悪い、だからやっつけても構わない、みたいな安直な主張以外に見えないから微妙なわけである。幾ら子供番組だからと謂って、子供に「喫煙する奴はみんな悪い奴だ」みたいな安直な「正義」を吹き込まれたら、家族に気を遣ってベランダで喫煙しているような肩身の狭いお父さんは立場がないだろう(笑)。

幾ら何でも、どう謂う状況においてどう謂うふうに喫煙することが悪いのか、と謂う手続くらいちゃんと描いてくれないと、単なるヒステリックな喫煙者苛めと謂う以上のものではない。以前書いたように、じゃあ店側が全面禁煙にして灰皿を出さなければいいじゃないかとか、喫煙者を子供連れの隣の席に案内した店の責任はどうなるんだとか、要らんことにしか目がいかない。天道の正義の独善性を描くつもりだったのなら、それに伴ってこの店のホスピタリティのいい加減さが必要以上に強調されるのはどうなんだとか、とにかくこの描写は煮詰めが足りなすぎる。

いや、昔のことを蒸し返して米村正二を腐すのが目的ではないのだが(笑)、要するに天道タイプの主人公を描く場合、その主張には語り手の認識している普遍的な正しさがそのまま顕れるわけだから、語り手に成熟した常識がないとこう謂う種類の人物が描けないわけである。

たとえば、「正しいとされていることばかりが正しいわけではない」と謂う課題を考える場合、成熟した大人なら、現実生活でそのような課題に直面した経験が幾らでもあるはずである。この場合、「正しいとされていること」にはきちんと理がなければジレンマとは謂えないわけで、たとえば前述の喫煙問題で謂えば、天道の主張は単に「間違っている」のであって「正しいとされていること」ですらない。完全に店主とひよりの不手際に過ぎないことで正当な苦情を入れた客を暴力で摘み出しただけで、これは誰が視ても理不尽な暴力に過ぎない。不都合を暴力で解決しただけである。

この話をしつこく蒸し返すのは、要するにこのエピソードの気持ち悪さは白倉的なライブ感覚とは関係がないからである。全体的に考えて、どうも米村正二自身が、この場でひよりが無礼な言葉遣いで客の煙草に水をぶっかけたり当たり前の苦情を言う客を天道が暴力で摘み出したりすることを「正しい」と考えている節があると謂うことである。

普通に考えたら、どんな事情があるかは識らないが、ひよりみたいなマトモな口の利き方も識らない輩を接客に出してカネを取る時点で、この店はマトモな商いをしていないと謂うことになるだろうし、剰えそんな人間が案の定問題を起こしたのに、一言の侘びもなく客のほうを摘み出すことが如何なる意味でも「正しい」わけがない。

つまり、この物語で「正しいとされていること」と謂うのは当たり前の意味では「正しいとされていないこと」なのだし、語り手のほうでその間違いに気附いているかいないかすら甚だ心許ないと謂うことになる。この時点で、この書き手には「正しいとされていること」が何なのかと謂う基本的な事柄がわからないのだから、まして「正しいとされていることばかりが正しいわけではない」と謂う複雑微妙な課題を扱うことは不可能だろうと謂う感触になるわけである。

そもそも、主人公を「間違ったことを言わない人物」と設定するなら、主人公の行動原理は客観的に決まってくるわけで、これは白倉的なライブ感覚とは本来相容れない人物設定である。カブトと謂うのは響鬼問題の混乱を受けて十分な準備期間がとれなかった作品だが、そう謂う意味では企画段階で白倉PDにこのジレンマが認識されていたかどうかと謂うのはちょっとわからないところがある。

なので、最初から天道の正しさを「見立て」で行くつもりだったのか、それとも客観的に決まってくる天道の行動原理を中核に据えてストーリーラインを構築していくつもりだったのか、その辺のところはわからないが、実際問題として米村正二に本物の正しさが描けない以上、見立てで行くしか選択肢は残されていなかったわけである。

この辺、DCDのメインライターの會川昇は違うわけで、そう謂うふうに考える根拠と謂うのは、たとえば再々引き合いに出している「天保異聞 妖奇士」と謂う作品は全体を通じて割合に悖徳的だったり反社会的な主題を扱っているのだが、それが悖徳であると謂う自己認識は徹底していたからである。正しさが何だかわからないのではなく、わかった上で「人間は必ずしも正しさに惹かれるばかりではない」と謂う明確な主題が描かれていたからである。

たとえば全編を通じた主題として、人が「ここではない何処か」に抱く強烈な憧れが描かれるのだが、それを「許せない」と感じる人物がちゃんと登場して、その考え方にもきちんと理を附けている。視聴者は、異界に対する強烈な憧れと謂う逃れ難い感情も理解出来るし、それは許せないと謂う理や生き方も理解出来る、物語はこれを等価のものとして描いていて、そう謂うのが相対的な視点と謂うものだろう。

それはまた、時代劇でなければ描けない主題でもあって、近代的な社会性や内面性を前提とするなら悖徳は何処まで行っても悖徳でしかないのだし、剥き出しの人間性を生き死にのシビアなシチュエーションと情緒纏綿たる幻想に絡めて或る程度の自由度で描けるのは、それが時代劇だからである。そう謂う意味で、ちゃんとした時代劇は未成熟な書き手には扱えない。

変な言い方だが、この作品を観て、この書き手には大人の常識があるんだなと思った覚えがある。逆に言うと、昨今のトクサツやアニメの脚本家には、あまり常識の持ち合わせを感じないと謂うことでもあるが(笑)。

仄聞するところによると、會川昇と謂う人は他人の仕事に対して物凄く嫉妬深い一面があるようで、エヴァ現象が一世を風靡した九十年代後半はいろいろ上手く行かなくてかなり鬱屈していたそうだから、〇〇年代に入って復調するまではあまり好い印象を持っていなかったのだが、評判の好いブレイド後半の脚本は前半で視聴をギブアップしてしまったので観ておらず、本格的に面白い書き手だと思ったのはこの妖奇士を観てからのことだった。

同年に大見得を切ってメインを務めたボウケンジャーでは、後半になって殆ど書かなくなったので「言うだけ番長かよ」とは思ったのだが(笑)、おそらく妖奇士が一〇月から放映を開始しているのでそちらのほうに懸かりきっていたのだろう。まあ、正直なところボウケンジャーの會川脚本回より妖奇士のほうが面白かったから、別段それでも構わないんだが(笑)。

とまれ、この會川脚本で描かれてきた士の人物像と謂うのは、一種実際の年齢設定を無視して大人の青年のものとして描かれているように思う。最近のエピソードでは使われないが、「大体わかった」と謂うセリフも、直観的に正しさを掴み取る洞察力として描かれていたように思う。この意味で士は「間違ったことを言わない主人公」と謂う意味で天道総司の系統の主人公であり、一方のユウスケは正しさを以て相手を裁くことよりも人に寄り添う情熱で相手を動かすタイプの主人公であり、多分加賀美新がヒーローで在り得るとしたらこのようなタイプのヒーローだっただろう。

ところが、このブレイド編を視る限り、士はやっぱり米村が書いた通りの天道だし、ユウスケは米村が書いた通りの加賀美だったので、「ああ、やっぱり米村正二にはそう謂う人物しか書けないのだな」と再認識した(笑)。結局米村正二は、天道の正義が正しくは在り得ない理由として、天道がひよりに対する肉親愛と謂う家族エゴの感情を動機として動いていながら、正しさを口実としたその欺瞞性と謂う薄っぺらい意味附けしか出来なかったわけであるが、今回の士とカズマの関係もその延長でしか描けていない。

カメラの修理代を稼ぎたいだけの動機で動く士の行動を、お人好しのユウスケが勝手に善意に解釈してさらにそれをお人好しのカズマが真に受けるドタバタとして描いているわけで、たとえばクウガ編やキバ編において、士が細かい遣り取りからではなく単なる直観でいきなり相手の真情をズバッと言い当てる爽快な主人公性とは全然別物である。

今回のブレイド編では、結局士はカズマの真情を理解しているわけでもないし、いつものように面倒くさそうな勿体を附けながらも結局相手の為に危険を顧みずに動くような無私の利他性も描かれていないわけで、ああ、これが米村節だよなぁとか思ってしまったのだが(笑)、それがこの番組のややこしいメタ性を浮き彫りにしているところが仲々面白かった。

つまり、會川昇が會川版天道総司的に描いた主人公が活躍する作品において、嘗て會川昇がメインライターを務めた作品のパラレル世界が描かれ、その世界を天道総司を描いた作品のメインライターであったゲストライターが書くと謂うややこしいシャッフルが行われているわけで、そう謂うややこしい操作が行われた結果、やっぱり主人公が天道総司に素因数分解されてしまうと謂う話になるわけだが、門矢士と謂う一個の人物の連続上でその操作が行われた為に、會川の描く士と米村が描く天道は何処が決定的に違うのか、つまりカブトと謂う作品は何が決定的に足りなかったのか、と謂うことが浮き彫りにされたわけである。

この辺が自己言及的でメタフィクション的なDCD世界の醍醐味で、一本の物語でありながら過去作品に対する批評的言及でもあるややこしい性格の面白さである。この物語が「仮面ライダーについての仮面ライダー」である以上、誰かが何処かで何か変なことをしても、それ自体が一種の批評的意味性を醸し出すところが一筋縄ではいかないところである。それはまあ、言葉を換えればどう転んでも安心して視られるメタフィクションだと謂うことで、これがTV番組として良いことなのか悪いことなのかはわからないが。

次回のファイズ編は学園物だと謂うが、たしかにファイズと謂う物語は本質的に「夭逝を宿命附けられた畸型の子供たちの物語」だったのだし、元々流星塾と謂う学園を介した関係性がメインなのだから、学園物と謂うのは自然な設定である。しかも今週登場した変な男が二号ライダーだと謂うのだから、縦糸のほうでもちょっとした動きがある。

中途半端なイケメンに全然興味のないオッサンからすると、若い女の子がたくさん出そうだと謂うだけでも楽しみだが(笑)、多分白倉PDにとって最も思い入れのあった作品だろうから、それを現在の彼がどのように扱うかと謂う興味からだけでも観る意味があるだろう(笑)。

しかし、考えてみると変な番組だよな、何だよこのスポーツ観戦みたいなノリ(笑)。

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コメント

黒猫亭様こんにちは。
自分は年齢の割には(40代前半)玩具買う方です(^_^;)FFRですが、個人的には全然良くないですね。ブレイドが剣に…龍騎がドラグレッダーに変形する…だから何?(^∀^)って感じですね。(個人的にはシンケンジャーの回すとアニメーションになるディスクアイテムは好きです。あの走馬灯のような懐かしい感じのアイデアは拍手したい。)ギミックのためにプロポーションや外観のディテールが犠牲になってるのがなんともイヤですね(^_^)まあいろんな遊びに挑戦する玩具屋の姿勢としては正しいとは思いますが。個人的には装着変身とかS.H.FIGUARTSとかの方が好きです。S.H.FIGUARTSはクウガの後はアギトとアナザーアギトを発売とか(漫画『覚悟のススメ』の強化外骨格·零も商品化するのには驚きましたが(^_^))…これは「ファイズの世界」の後に「アギトの世界」が控えてるのと微妙にリンクさせてますね。アギトの世界は未確認生命体に警察が神経断裂弾で対抗している…ただし『クウガの世界』とはパラレルというまたまた寝た子を起こすような(^∀^)白倉氏らしい毒ウィットの効いた設定が楽しませてくれそうです(^∀^)

投稿: SHUZO | 2009年3月25日 (水曜日) 午前 06時10分

>SHUZOさん

そう謂うわけで、表のほうでは断りを入れておきましたから、心おきなくお話をさせて戴きましょう(笑)。ちょっとアギト編のネタバレは、今後の展開の節目に当たるポイントのようですから、一応お断りしておいたほうが好いかと思いまして。

勿論この一連のコメントでは、未放映のFFRの玩具画像を紹介している時点ですでにネタバレですし、基本的にウチは特に断りがなくてもネタバレアリの方針ですが、今回は個別に判断させて戴きましたので、お気になさらないで戴けますと有り難いです。

>>FFRですが、個人的には全然良くないですね。ブレイドが剣に…龍騎がドラグレッダーに変形する…だから何?(^∀^)って感じですね。

まあ、玩具についても大人が感じる面白さと子供が感じる面白さは違いますし、何の変哲もないお人形さんで幾らでも遊べる想像力豊かな子供もいますから、幼児視点ではどう謂う評価になるのかはわからんですが、大人視点で謂ってつまらんことはつまらんですね。オレも時々玩具を買いますが、今は極貧に喘いでいて趣味に廻せるカネがないと謂う事情を差し引いても(笑)、全然買う気にはならないです。

ただ、FFRの玩具はディケイドとセットで遊ぶことが想定されているんじゃないかと思いますので、各ライダーが人型と武器型でディケイドと共闘すると謂うごっこ遊びが狙いなんじゃないですかね。それで各ライダーの形態を周知させることから子供の内懐に入って過去コンテンツ資産を活かそうと謂うのが、東映・バンダイの商売の青図なんでしょう。

>>個人的にはシンケンジャーの回すとアニメーションになるディスクアイテムは好きです。

ウィキで調べたら、あの仕掛けはプラキシノスコープと謂ってゾエトロープの発展形らしいですね。発明された順番で謂うと、ゾエトロープ→プラキシノスコープ→テアトルオプティークの順番になるようです。

ゾエトロープとプラキシノスコープは回転覗き絵で、絵を描いた回転筒をスリットから直接覗くのがゾエトロープで、回転筒の周囲に配置した鏡の反射像を観ることで明るく歪みのない画質に改良したのがプラキシノスコープ、プラキシノスコープをスクリーンに上映して大勢で観られるように改良したのがテアトルオプティークとなるようで、プラキシノスコープとテアトルオプティークは同じ人が発明しました。

映画の歴史において「映画を発明したのは誰か」と謂う話はかなり諸説あるように思えるかもしれませんが、これはざっくり謂ってリュミエール兄弟と謂うことで間違いはないようです。「エジソンが映画を発明した」と謂う言い方もありますが、エジソンの発明したキネトグラフ・キネトスコープは覗き絵方式なので、連続的に撮影した写真フィルムを連続的に動かすことで動画を見せると謂うところまでは進んでいますが、いろいろな部分で現在の撮影・映写方式とはシステムが違います。

覗き絵形態の発展形として、スクリーン上映方式が現れてようやく現在の映画の体裁が整うわけで、その意味ではテアトルオプティークかシネマトグラフかと謂う問題になるはずで、世界的には現在の映画の撮影・上映方式の直接の原点であるシネマトグラフの発明が即ち「映画の発明」と謂うことになり、シネマトグラフに特許を持っていたリュミエール兄弟が発明者とされると謂うことでFAのようです。

シネマトグラフはテアトルオプティークとキネトスコープの良いとこ取りで、セルロイドの写真フィルムを連続的に動かしてスクリーンに動画を映写すると謂うシステムですから、現在の意味での「映画」の嚆矢はシネマトグラフだと言う説明で過不足はないわけですね。まあ、アメリカではエジソンを以て「映画の父」としているようですが、それはまあお国柄ですから特殊な話でしょう(笑)。

個々の発明の影響関係については、ちょっとネットで調べた範囲ではわかりませんでしたが、十九世紀末から二十世紀初頭の「発明の時代」のことですから、これは個別に詳しく事実性を視ていかないとわからないことでしょう。

ただ、リュミエール兄弟がシネマトグラフを直接考案・設計したのかどうかと謂うことについては諸説あるようです。

…と謂うわけで、気が附いてみればすっかり玩具の話でもトクサツの話でもなくなってしまっていました(木亥火暴!!)。

>>アギトの世界は未確認生命体に警察が神経断裂弾で対抗している…ただし『クウガの世界』とはパラレルというまたまた寝た子を起こすような(^∀^)白倉氏らしい毒ウィットの効いた設定が楽しませてくれそうです(^∀^)

それなんですが、どうもオレが個人的なソースから得た情報では、あれはやはりメインライターの會川昇のタネ出しだそうです。初期の頃に少しそんな話をしましたが、この番組の各話の文芸性に関しては會川昇の創意になる部分が大きく、白倉PDはもう少しお祭り企画と謂う性格や過去コンテンツへのナビ機能と謂う企画性・イベント性を重視しているようですね。

幾らネタバレに寛容な当ブログでも、流石にあんまり詳しく語るのも興醒めなので詳細は伏せておきますが、これまで推測するしかなかった事柄が一つひとつツボに嵌ってくるような感触を得て、ちょっとオラわくわくしてきました(木亥火暴!!)。アギト編に関しては、先般アギトについてお話をさせて戴いた事柄も少し関連してきて、なるほど、會川昇もそう謂うふうに考えるのか、まあそれが自然だよな、と(笑)。

まあ一言で言って、当初予想したよりも遙かに「スポーツ観戦」な性格の番組だったと謂うことは言えそうです(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月25日 (水曜日) 午後 05時43分

黒猫亭様…こんにちは。
再び大変失礼しました。ネタバレを扱う際は慎重に…ですね。しかし『クウガの世界』との関連性も織り込み済みで、と考えると、『アギトの世界』がこんなに後の順番に来たのもなかなか戦略的だなあ…と。會川氏は今回メインライターでもあり半分ブレーンなのかもしれないですね。

投稿: SHUZO | 2009年3月26日 (木曜日) 午後 01時51分

>SHUZOさん

>>再び大変失礼しました。ネタバレを扱う際は慎重に…ですね。

いや、造形バレは好いけれどストーリーバレは好くないと謂うことでもないですし、それは筋の通った方針でもないですから、今回は飽くまで個別に判断させて戴いたと謂うことですので、要するにオレ個人の考えです。くれぐれもお気になさらずに。

>>しかし『クウガの世界』との関連性も織り込み済みで、と考えると、『アギトの世界』がこんなに後の順番に来たのもなかなか戦略的だなあ…と。會川氏は今回メインライターでもあり半分ブレーンなのかもしれないですね。

そうですね、これは微妙なところだと思います。多分、各世界を廻る順番と謂うのは白倉PDが最終的に決めているんじゃないかと思いますし、流通している情報から考えると、それは文芸的な論理と謂うより劇場版の展開なども含めた企画的・ビジネス的な観点のほうが強いのだろう、と謂うふうに考えています。

以前うにさんから戴いた情報や特乳の談話などから判断すると、DCDの過去コンテンツへのナビ機能と謂う観点から考えると、どう謂うふうに配置したほうが子供にわかりやすいか、と謂うような論理が軸にあって、そこに劇場版の公開スケジュールや他の現実的な要素を絡めて全体的な順番が決定されたのかな、と。

この辺については、會川昇も意見を出しているとは思いますが、文芸とは別の観点の問題ですから剰り関わっていないと思います。そう謂うガワの部分の都合をどうやって文芸的な観点のロジックと摺り合わせるか、と謂う部分に會川昇の創意が大きいと謂うことでしょうし、それを逆に言えば、白倉PDのほうではDCDの文芸的な側面には剰り関心がないと謂うことでもあるかな、と。

結局白倉PD的には「これは企画物」と謂う認識でしょうから、例によって例の如しのいつもの白倉ライダーノリ以上のものは求めていないところに、或る種DCD固有のドラマ性を乗っけて整合させているのは會川昇の創意や文芸性、と謂うような形になるのでしょうね。

それが「ブレーン」と謂うほど円満な形であれば好いのですが、どうもこの二人の性格や文芸観の違いを考えると、相応のバトルもある・あったのではないかと考えますが、さて、どうでしょうかね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月26日 (木曜日) 午後 02時33分

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