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2009年3月24日 (火曜日)

「世界」の意味

大層なタイトルだが、別段哲学的な話をしようと謂うのではない。

例によってDCDの話だが、ここで一つ作品世界の大枠の構造を考えてみようと謂う趣向である。そうは謂っても大した根拠のある話ではないし、今後の展開を予測する類の当て物と謂うつもりでもないから、気楽な能書きに過ぎない。

そもそもこの作品で謂われている「ディケイドの世界」「ライダーの世界」とは何であろうか。普通に考えれば、これまでの九作品の世界を統合する上位世界がディケイドの世界であり、九作品の世界をそれぞれパラレルワールドとして持つ中心世界こそがディケイドの世界と謂うことになるだろう。

現代的なハイファンタジーでは、たとえば妖精やドラゴンや魔法使いの住む世界と併行してわれわれの住む世界があり、複数の異次元世界の中核に「真の世界」が存在して、その「真の世界」で起こったことだけは改変不能であり、パラレルに相対化されない絶対的な特権性を持ち、その真の世界で起こったことがすべてのパラレルワールドに影響を及ぼす、と謂う設定の作品も多く存在する。

オレが識っているだけでも、ゼラズニィのアンバーシリーズやキングのダークタワーなどがあるが、これらはかなり有名どころと謂えるだろうから、有名無名を取り併せれば山ほど類例があるだろう。これはつまり、剣と魔法の異世界を舞台とするファンタジー作品は、それを読む読者がこの現代世界に存在する以上、読者の意識上には虚構である剣と魔法の世界と自分が住むこの現実世界が存在することになる。

この両者の位置関係を考えるなら、われわれの現実世界は虚構の物語として剣と魔法の世界の存在を識っているが、剣と魔法の世界の住人は、その物語を虚構として読むわれわれの現実世界の存在を識らない。と謂うか「識らない」と謂う身振りにおいて成立する物語が剣と魔法の世界の物語である。この意味で、純粋なハイファンタジーでは、われわれの住む現実世界が剣と魔法の世界のメタポジションに位置している。

ところが、現実世界と異世界をパラレルな世界と設定する形式のファンタジーが登場することで、現実世界と異世界は等価なものとして相対化され、互いが互いの世界の存在を識っており相互通行が可能になる。さらにそこで「真の世界」をメタポジションに置くことで、われわれの現実世界の虚構世界に対する優位はさらに相対化を徹底される。

つまり、われわれが現実世界に対して持っているような唯一無二の現実と謂う無意識の信頼に見合う実在性を、現実世界でも異世界でもなくその両者の上位に存在する別の世界にのみ存在するものと位置附けることで、われわれの現実世界もまた物語として虚構化されるわけである。

では、ディケイドと謂う作品はそのような異世界ファンタジーに類似の原理に則っているもので、これまでの九作品のメタポジションに位置する「真の世界」に相当するのがディケイドの世界、つまりディケイドと謂う作品の登場によってこれまでの九作品がパラレルワールドとして統合されたのかと謂えば、これは多分そこまで単純な事情ではないだろう。

随分以前にウルトラマンメビウスの「歴史解釈」についてのエントリを上げたが、ここで語った以下の事情と同様の性格がこの番組にもあるように思う。

つまり、メビウスという番組は従来のシリーズを統合的に解釈する設定を提示するためのたたき台ではなく、ウルトラを歴史として読み解くという個別の視点に基づいて展開される個別の物語であるということだ。

これは、ウルトラマンメビウスと謂う作品は、「80」までの昭和ウルトラと明確な連続性を持つ同一世界観の物語であり、それまでの昭和ウルトラシリーズをすべて整合的な歴史として位置附ける作品でいながら、或る意味ですべてのウルトラと断絶した物語でもある可能性を持つ作品だと謂うことである。

たとえばメビウス史観とでも謂うべきこの番組のウルトラ史観は、「すごい科学で守ります」と同様の手法を採用している。元々の昭和ウルトラは、時代性もあって個々の作品間の世界観の連続性を非常にアバウトに考えていた為、普通に考えると繋がるようで繋がらない断絶した物語群と謂うことになる。

これをガチガチに考証して繋げてしまおうと謂う発想は、多少の例外はあれ毎年毎年世界観の連続していない単発作品として生み出され続けてきたスーパー戦隊シリーズを、すべて同一世界観に基づく一本の歴史に統合しようとする思考遊戯である「すごかが」のアプローチに窮めて近い。

勿論スーパー戦隊シリーズは東映のオフィシャル見解としては繋がらない物語として設定されているのだから、「すごかが」史観は公式設定とは無関係な思考遊戯と謂うに留まるが、そもそも繋がらないと謂う前提で発想された物語を後附けで繋げてしまうと謂う手法それ自体がメタ的な虚構の操作であって、東映がオフィシャルに認めようが認めまいが、本質的に「すごかが」史観は個々のスーパー戦隊の物語そのものとは無関係な独立したメタ的物語である。

だとすれば、「すごかが」と同様の後附けの手法で昭和ウルトラの世界観を統合しようと目論んだメビウスは、それ自体が昭和ウルトラに対するメタ的言及と謂うことになるわけだから、「昭和ウルトラすべてを歴史として持つ独立した一本の物語」と謂うややこしい位置附けの物語と謂うことになる。これは、円谷プロがメビウス史観を公式に認めようが認めまいが、本質的な性格としてそのようなメタ的物語だと謂うことである。

これが前述の異世界ファンタジーの構造とどう違うかと謂えば、異世界ファンタジーの場合は一つの物語世界の世界構造として複数の相対的な世界の上位にメタ的な世界が在ると設定しているのに対し、「すごかが」やメビウスの場合は、スーパー戦隊や昭和ウルトラを「物語として織り込んだ物語」だと謂う意味でメタ的なわけである。

つまり、「メタ」の意味性が異なってくるのでややこしい話になるわけだが、DCDの場合は「世界」を「物語」の意味で使っているのでさらにややこしい話になる。

DCDと謂う物語は、これまでの九作品を「物語」と謂う意味で扱っていながら、それらの「物語」を「世界」と読み替え、これらの物語=世界群のメタ的なポジションに在る物語=世界の主人公がそれぞれの物語=世界を旅すると謂う世界構造になっているので、異世界ファンタジー的な意味でもあるしメビウス史観的な意味でもあると謂う曖昧な世界構造になっている。

異世界ファンタジーの世界構造においては、虚実を同一地平上に置く為の操作としてメタ的な手法が採用されるわけだが、メビウス史観的な世界構造においては、先行する虚構を織り込んだ虚構を構築することで、独立した一本の虚構の中に入れ子式に別の虚構群を包摂する目的でメタ的な手法が採用される。「すごかが」の場合はメビウスの場合とは主客が転倒して、別々の虚構群を包摂する目的で独立した一本の虚構が生み出されるわけだが、採用されている原理は同一である。

しかし、DCDにおいては、九つのライダーの物語を一旦虚構として位置附け、さらにそのメタ的ポジションに在るディケイドの物語もまた虚構として位置附けられ、それぞれの虚構がそれぞれ一つの世界として定義されており、そのような世界構造を持つ一本の独立した虚構としてDCDの物語が成立しているのだから、前述のどちらの場合にも当てはまるわけである。

この辺の性格が意図的に曖昧にボカされているのだろうと推測出来ると謂うのは、たとえばウィキの「すごかが」の解説でも触れられているが、石ノ森作品においてはすべての物語が同一世界観上の物語と規定されているからである。だとすれば、本来平成ライダーが石ノ森リスペクトを標榜するなら、昭和ライダーのように緩やかな連続性を持って制作されるのが筋だったのに、多分白倉PDはこれまでそのことをすっかり忘れていたのである。

それはつまり、出発点においてクウガとアギトを同一世界観上の物語として設定するわけには行かなくなったと謂う或る事情の故もあるだろうし、昭和ライダーの時代のように、同一世界観上の物語と謂う前提で長々と何年もシリーズを継続することが難しいと謂う時代性の故もあるだろう。

これは平成ウルトラも同様で、ティガとダイナはギリギリ同一世界観上の物語として連続していると謂えるが、続くガイアはまったく無関係な断絶した物語として仕切り直されたのだし、以降のウルトラはすべて断絶した物語として位置附けられている。

どの時点で「想い出した」のかは識らないが、白倉PDの意識としては、どのような形であれ、「原作者」石ノ森章太郎の意志を汲んで「仮面ライダーの世界」を同一世界観上に再配置してみたいと謂う意欲はあっただろう。これはつまり、白倉PDの所謂「原作至上主義」と謂うやつである。ただし、事実において同一世界観と謂う前提の下に制作されたわけでもない既存の作品群を後附け解釈で統合することには無理があるし、それは一種「白けるキャラクター商売」と謂う表現も可能である。

コアなトクサツマニアは、やっぱり物語性の次元で断絶しているはずのウルトラマンを味噌も糞も一緒にした「ウルトラファミリー」的なキャラクター展開には、ファンサービスと割り切っても抵抗を覚えるだろうし、ライダーも「真」や「ZO」「J」など、本来独立した作品群のライダーを「歴代ライダー」的に統合するやり方には抵抗があって当然である。それでも一般的なファンはそれがそんなにおかしなこととは思わないだろうが、多分白倉PD本人が厭なのだと思う。

そう謂う意味で、お祭り企画の苦肉の策とは謂え、DCDの世界設定は非常に巧くその辺のジレンマを解消しながら、すべてのライダーを同一世界観上に統合すると謂う目的を達成しているし、その一方で、事実性の次元では個々の作品群を無理矢理後附けで統合するような不細工な真似もしていない。

おそらく石ノ森章太郎自身が「同一世界観上の物語」と規定した意味とは完全にズレがあるわけだが、原作者の意志を何とか別の形ででも実現したいと謂う企図としては理解出来るし、それは映像化を担当した創作者が原作者に払う礼儀としては最大限のものだと謂えるだろう。

一方、この設定が招くさらにややこしい事態とは、「物語」と「世界」とを対称性を保持したまま読み替えるのであれば、過去にその物語群を語った語り手たちの存在さえも物語として織り込むことが可能になると謂うことで、たとえば今回の脚本を担当した米村正二もDCD世界の登場人物の一人と考えることが可能になる。

以前語ったように脚本家のシャッフルが意図されているのなら、小林靖子や井上敏樹もまたこの物語世界の登場人物なのだし、シリーズ常連の演出者は勿論のこと、ましてそれを統括する白倉伸一郎においてをやで、その意味でDCDにはスタッフ参加型のロールプレイング的な物語の性格がある。

前回「何がどう転んでも楽しめるメタフィクション企画」と表現したのはそう謂う意味で、たとえば今回は「米村が書くとこんな感じ」と謂うグダグダ感を含めてDCDの物語として即興的に成立していると謂うことである。このホンを書いた米村正二と謂う人物は、現実の脚本家である米村正二である一方、「カブトを書いた米村正二」と謂う役柄を振られたDCD世界の登場人物の一人でもある。

このDCDの物語の主要な関心は徹底的にそのような自己言及の批評性にあって、その意味で何がどう転んでもスポーツ観戦のような「筋書きのないドラマ」として成立するわけだから、或る意味で白倉的なライブ感覚の究極の形と謂う言い方も出来るだろう。

文芸の勘はないが企画屋としては優秀な白倉PDにとって、自身の弱点を抑え強みだけを活かすことが出来る面白い企画と謂えるだろうし、この番組が最終的にこのような形になったことは個人の創意のみには留まらず、さまざまな事情の集積として今在る形になったのだろうから、まさしく神懸かり的に面白い企画が生まれたと謂えるだろう。そして、その面白さは紛れもなくプロデュースの芸としての面白さである。

その一方で、これが正統的な意味で「面白い物語」なのかと謂えばかなり微妙なわけではあるし(笑)、言い方を換えれば一種の裸踊りと謂う見方も出来る際物的な側面は否めないわけだが、これまでの白倉企画の飛び道具的な破天荒さや即興性に対する拘りが一種突き抜けた事例と謂えるだろうし、こんな馬鹿げた試みを幼児向け特撮で実現し得たと謂うことのインパクトは、今後物語の流れがどのように転んでも揺るがないだろう。

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