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2009年3月 9日 (月曜日)

今週のFFR

もう毎回目が離せないDCDのFFRシリーズだが、今週についてはもう長々と講釈すまい。ただ一言、

本物のドラグレッダー召喚したほうが早くね?

こちらの龍騎世界でも、ミラーモンスターとの契約関係は活きているらしい(先週のカニとかコウモリとか視ると)のだから、ドラグレッダーも存在するはずである。だとすれば、ライダー&ミラモンのタッグがデフォルトの戦力なのに、一人二役の兼任になったんだから、単純に謂って「戦力減」じゃないだろうか。

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コメント

黒猫亭さまこんにちは。確かに。僕もそう思いました。なんでドラグレッダー召喚せんで自分がドラグレッダーに?(^∀^)意味ねー(^∀^)あと仮面ライダーオーディン。ナイトを翻弄して完全に圧倒してたのに何故かナイトのファイナルベントはよけもせず爆死(^∀^)なんか違和感ありまくりな演出が多いです。あと一話あたりで鏡の向こうに龍騎が現れて思わせ振りな感じを醸し出しながら去って行く場面がありました。なので龍騎はディケイドを認知してるのかと思いきや“龍騎の世界”のシンジはディケイドを全然知らなかったという(^_^;)何だったんだあの演出は…
あと、桃井編集長の『そろそろ帰って来たらって言おうと思って…』って…真相と呼ぶにはあまりにもお粗末というか単純というか…白倉氏…自分が関わったライダーもこんなに粗末に扱うんだったら僕らも『あのクウガの世界はちょっと…(なんでゴ·バベル·ダがあんなに雑魚扱いなんだ!とか(^∀^))』とか言えなくなって来ちゃいましたよ。さて次回は『ブレイドの世界』ブレイドを書いていた會川氏が今回も担当するのはつまらんということで(かどうかは分かりませんが(^_^;))米村正二氏が脚本担当。カブト世界のようなゆるくシュールなコメディ世界になったりして(^∀^)その余暇を利用して會川氏はディケイド劇場版執筆…とかですかね?(気が早い?)

投稿: SHUZO | 2009年3月10日 (火曜日) 午後 10時18分

>SHUZOさん

>>なんでドラグレッダー召喚せんで自分がドラグレッダーに?(^∀^)意味ねー(^∀^)

クウガのゴウラムならまだ話はわかるんですよねぇ、考えてみると本家ゴウラムって意外と使い勝手が悪かったから、自分で自由に変形したほうが高機動で効果的な攻撃が出来ると思います。なんせ、元は「馬の鎧」ですもんねぇ、バイクにくっついて固くなるだけですもんねぇ、一発ぶち当たったら石になってバラバラですもんねぇ。

キバのオゲレツなアレ(木亥火暴!!)も、本家キバ世界にはなかった武器ですから、まあ今は亡きクローバーのロボット玩具付属のパチモン武器みたいなもんだと思えば、納得出来なくもない話ではあります(笑)。

しかし、龍騎がドラグレッダーに変形とか、電王がモモタロスに変形ってのは、玩具のギミックとしてはアリだろうけど、劇中設定としては何の効果があるのか疑問ですね。

あと、ご指摘通り龍騎世界の二話はちょっとシナリオ・演出共に全般にユルかったですね。シンジの主役ライダーとしての特権性をさらに無効化する仕掛けとしては批評的な視点があるとは謂えるんだろうけれど、何だか二話かけて語ってもちっとも主人公としての魅力が立たない描写でしたね。本家の龍騎世界でも別段キャラが立ってませんでしたが(笑)。

このお話では、どう考えても主人公はレンのほうと謂うことになるんじゃないかと思うんですが、この龍騎エピソードの余所余所しいユルさ自体が、龍騎と謂う作品に対する批評的言及と謂うことですかねぇ(笑)。まあ、たしかにこんな番組だったと謂えばその通りですし(笑)。

ただ、「九つの世界の九人のライダー」って括りで考えると、シンジの主人公性をここまで剥奪しちゃうと、龍騎世界のライダーって誰だよ、無闇矢鱈にたくさんいることになるんですけど、って話ですね。

あと、クウガとキバの場合は、強敵が出現することで劇中世界全体が危機的状況に陥るんですが、今回は単に夏ミカンが濡れ衣着せられただけで、いきなり被害規模が矮小化しましたねぇ。ブレイド世界との連携を入れると謂うのは新展開ですけど、危機状況が矮小化した話なのに、当たり前のように鳴滝が「この世界も破壊された」とか言うから違和感があるんですよね。

>>さて次回は『ブレイドの世界』ブレイドを書いていた會川氏が今回も担当するのはつまらんということで(かどうかは分かりませんが(^_^;))米村正二氏が脚本担当。カブト世界のようなゆるくシュールなコメディ世界になったりして(^∀^)その余暇を利用して會川氏はディケイド劇場版執筆…とかですかね?(気が早い?)

先日スマップの番組内で放映された「仮面ライダーG」が米村脚本で、しかも雑魚怪人の着ぐるみまでワームを流用していましたから、相当カブトっぽい話になっていたと思うんですが、やっぱりあの人は昔から気障なことをやらせると思いっきりお笑いになってしまいますよね(笑)。

「今、ボクのヴィンテージが芳醇の時を迎える」ってセリフがどうしても下ネタにしか聞こえなくて独りで大爆笑していたと謂うのはナイショです(木亥火暴!!)。なんと謂うかですね、「俺のビッグマグナムが火を噴くぜ」「下ネタじゃねえか!」と謂うギャグを想い出してしまいまして(木亥火暴!!)。

米村脚本でブレイドで食堂ネタと謂うと、井上脚本回のグルメ対決話をパクったみたいな話になるんですかねぇ。どっちみち叩かれる為に出て来るようなものですから、いっそ可哀相なくらいですが(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月11日 (水曜日) 午前 06時15分

ブレイドのFFR画像見付けますた。

http://item.rakuten.co.jp/hobbytoy/4543112550767/

うわ、これ、どっから撮っても足が丸見えでアングルに苦労するだろうなぁ(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月11日 (水曜日) 午前 06時26分

黒猫亭さまこんにちは。
たしかにそう言われればあの二話は龍騎全体の雰囲気にはなってましたね。閉塞感までコピーするとはさすが白倉氏(^∀^)そういえばつかさ君の決まり文句で『だいたいわかった』というのが設定されてたと思うんですが、これ使われてますかね?『通りすがりの仮面ライダーだ』『ちょっとくすぐったいぞ』はレギュラー台詞になりましたが。FFRに関しては“クローバーのパチモン武器みたいな”(^∀^)路線、それいいですね。ちょっとだけそのライダー周辺のモチーフを生かして。響鬼の“ヒビキオンゲキコ”っていう名称が激しく心配です(^∀^)
あと『仮面ライダーG』見逃してしまいました。相当楽しいものだったみたいで…ビデオでも出ないかな…。

投稿: SHUZO | 2009年3月11日 (水曜日) 午後 01時01分

>SHUZOさん

>>そういえばつかさ君の決まり文句で『だいたいわかった』というのが設定されてたと思うんですが、これ使われてますかね?『通りすがりの仮面ライダーだ』『ちょっとくすぐったいぞ』はレギュラー台詞になりましたが。

TV的に考えると、決めゼリフがあるってのは悪くないと思うんですよ。小林靖子はあまり好きじゃなかったみたいですが、電王では意識的に各イマジンの決めゼリフを考えたと謂う話もあります。同様に口調や語尾でキャラ附けってのも、節度を弁えればアリだとは思うんですが、去年の戦隊はちょっと安直すぎて戴けませんでした。

DCDの「通りすがりの仮面ライダーだ」ってのも結構好きなんですが、この「通りすがりの○○○だ」ってのは、すでに幾つか先行例があるような気がするんですが、どうも思い出せません。ただまあ、DCDの場合は「仮面ライダー」と謂うタームを一般名詞的に相対化する辺りに決めゼリフとしてのキモがあるので、ネタとしてありふれていても問題ではないとは思います。

>>響鬼の“ヒビキオンゲキコ”っていう名称が激しく心配です(^∀^)

やっぱり以前予想したような変形ギミックなんですかねぇ(木亥火暴!!)。鬼さんが悪魔になったんでは混乱するような気がしますが(木亥火暴!!)。

>>あと『仮面ライダーG』見逃してしまいました。相当楽しいものだったみたいで…ビデオでも出ないかな…。

昔からスマップが絡んでいる映像作品は、なんやかんやと権利問題が煩瑣いので、尺のことを考えてもビデオ化は難しいのかな、と思います。楽しいと言えば或る意味楽しい作品ではありましたが(笑)、まあ無理してご覧になるほどのものでもないのではないかと思います。

ただ、こう謂うことをあんまり大っぴらに口にするのもアレですが、観るだけ観たいと仰るのであれば、大急ぎでようつべを検索されては如何でしょうか。「もしも」何らかの動画が存在したとすれば、近々に削除されることでしょうから、急がれることをお奨めします。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月11日 (水曜日) 午後 05時07分

ブレイドブレード(笑)は、手持ちの剣がないと、内股の脚が振り回されるだけなんですね。

>>>響鬼の“ヒビキオンゲキコ”っていう名称が激しく心配です(^∀^)

>やっぱり以前予想したような変形ギミックなんですかねぇ(木亥火暴!!)。鬼さんが悪魔になったんでは混乱するような気がしますが(木亥火暴!!)。

要は『厚みのある』ディスクになるようで、そこから更にアカネタカ(赤くないみたいですが)になるようですね。

他にはカブトムシや大砲、サーフボード(笑)の人たちが用意されているようです。

投稿: About | 2009年3月12日 (木曜日) 午前 05時45分

黒猫亭さまこんにちは。
ご教示ありがとうございます。画像探して見ます(^_^)まあ本来なら平成ライダーのイケメン軍団というのはジャニーズ的には敵対勢力ですもんね。稲垣くんやSMAPの面々が個人的にライダーを好きだったから実現した部分もあるんでしょうね。
あと、決め台詞ですが、決め台詞って、人物の“キャラ立ち”には便利ですね。ただし井上氏の場合は、決め台詞を多発させる作風になってから作品が若干白痴化したというか…決め台詞を喋らせることにより、キャラの行動にもルーティンワーク化が目立つというかそんな気もします。(その人物の劇中の行動原理や思考パターンが“決め台詞”を喋らせることでよりおおざっぱになりがちになるというか…)アギトのころはまだ翔一くんに『なによ?』とか言わせたり、真魚ちゃんの台詞を普通、女性キャラなら『どうしたの?』と言わせるところを『どうした?』とより日常的にしてみたり、決め台詞というより言葉使いやニュアンスを工夫するにとどめていたのでむしろドラマをふくらますのに効果的であったと思うんですが、ファイズ以降の例えば村上社長の『上の上ですね』とか(^∀^)まあ面白いんだけどやはり台詞にキャラをゆだねすぎると逆にその決め台詞にキャラの行動が支配されがちになり、より漫画的になる危険性も…まあ子供番組なんで、それも手法としてありなんでしょうが…

投稿: SHUZO | 2009年3月12日 (木曜日) 午前 08時13分

>Aboutさん

>>ブレイドブレード(笑)は、手持ちの剣がないと、内股の脚が振り回されるだけなんですね。

そうなんですよ(笑)。しかもこれが、「股の間に尖ったモノを挟む」と謂う例のオゲレツパターンなんで、FFRのギミックを開発していた連中が当時何を考えていたのか、かなり理解に苦しむわけで(木亥火暴!!)。

しかし、ブレイドブレードってトミノが考えそうな名前ですね(笑)。前半のOP曲のタイトルが「BLADE BRAVE 」でしたが、ブレイドブレードでは洒落にも何もなっていないですね。

>>他にはカブトムシや大砲、サーフボード(笑)の人たちが用意されているようです。

残りはカブト、ファイズ、アギトですか。これまでのパターンから推測すると、カブトはそのまんま腹這いになるだけで、アギトはそのまんま平べったくなるだけ、ファイズは股間から何か尖ったモノを発射するんでしょう(木亥火暴!!)。

何と謂うか、「ウ○コ・チン○で大爆笑する感覚」と謂う意味で大変童心に溢れたセンスで設計されているとは謂えそうです(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月13日 (金曜日) 午前 11時54分

>SHUZOさん

>>ご教示ありがとうございます。画像探して見ます(^_^)

Youtubeもいろいろ版権関係のトラブルを経験していて、削除するときはアッサリ削除しますのでお早めに。三〇分未満の作品ですので、上手くすれば丸ごと観られるんじゃないかと思いますよ。

>>稲垣くんやSMAPの面々が個人的にライダーを好きだったから実現した部分もあるんでしょうね。

連中には或る程度の発言力があるみたいですね。たとえば、この「G」が放送されたバラエティ番組では、「SMAPヒストリー」と題して彼らの歴史を再現VTRに纏めて流していたんですが、事務所サイドの公式設定上は存在しないはずの六人目(笑)のメンバーについては、当然VTRでも最初から存在しないと謂う想定で扱われている一方、木村拓哉が「このとき森が…」とか平気で言及していました。

まあ、森且行の扱いについては、スマスマなんかでも平気で口にしていますから、メンバー(と謂うか主にキムタク)だけは特別に許されているっぽいですね。

仮面ライダーの話に戻りますと、ちょっと生臭い話ですが、このバラエティ番組がテレ朝のスマステのスペシャルで、しかもテレ朝の五〇周年特番の一環と位置附けられていて、さらにそれに平成ライダー一〇周年と謂うイベントを賑やかしに添えたと謂う事情も大きかったでしょうね。

多分来年くらいになったら白倉PD自身が種明かししそうですけど、カブトの「仮面ライダー生誕三五周年記念作品」同様、「平成ライダー一〇周年記念作品」と謂うのも、テレ朝の五〇周年に乗っけた後附けじゃないかと思います。

以前戴いたうにさんの情報によれば、ニチアサキッズタイムの編成変更に伴う事情で今年の作品が三クールの半端な尺になってしまうことは既定事項のようですから、そこにテレ朝の五〇周年に乗っかる形で一〇周年の冠を附けてお祭り企画にしてしまおう、と謂うことで大枠が固まったのだと思います。なので、テレ朝のほうの五〇周年記念と何処かで相乗りすることも最初から想定されていたんじゃないかと思うんですが、どうでしょうかね(笑)。

あと、先日のスマスマに「メイちゃんの執事」チームの三人が登場した際、吾郎がヒロと健のことを「仮面ライダー七号、八号」と謂うふうに算えて、「ボク九号」と自称していましたけど、そうするとキバの立場がないなあ、と(笑)。これを観ていて、

「キミは精々九号半と謂うところではないか」

とツッコミを入れてしまいましたが(笑)。まあ、扱いとしては、昭和ライダーで謂うならライダーマンの「仮面ライダー四号」みたいなもんですな(笑)。

まあ、そもそもアギト以降主役級のライダーが複数名出て来る平成ライダーシリーズにおいて、たとえば「九つの世界の九人のライダー」と謂う言い方をすることの微妙さにも関わってくる話で、今回の龍騎世界の話なんてのはその辺の微妙さがモロに前面に出た形になると思います。

>>ただし井上氏の場合は、決め台詞を多発させる作風になってから作品が若干白痴化したというか…決め台詞を喋らせることにより、キャラの行動にもルーティンワーク化が目立つというかそんな気もします。

…その話を始めると長いですよ、いいんですね?(木亥火暴!!)

以前何処かで語ったような気がするんですが、平成ライダーの井上ノリと謂うのは、白倉プロデュースとセットで考えるべきだと思うんですよ。所謂「ライブ感覚」と謂うやつですが、高寺成紀が割合キッチリ一年間の積み重ねで番組の構成を考えるのとは対照的に、その時々の事情や視聴者の反響を考慮してヴィヴィッドにストーリーラインを考えていくと謂う手法を採用していますから、これはつまり、人物を描写や出来事の積み重ねで描くことは出来ないと謂うことなんですね。

積み重ねの描写を採用するなら、描写や出来事が積み重なってくるに従って「この場合には、この人物ならこうする」「この場合には、この人物がこんなことをするはずがない」と謂う、人物毎の行動の方向性がどんどん決まってくるわけです。そして、各人物の行動の方向性が決定附けられていくなら、その総合として物語の在り得べき姿と謂うものも決定されていきますから、物語と謂うものは語られるに連れてどんどん不自由になって行くものなのですね。

普通の作劇法だとそう謂うロジックを採用していますから、物語が進展するに従ってどんどん選択肢が限られてくる、言い方を換えれば、進展に連れて物語の先行きが予めこうでなければならない形へと決定附けられていくわけです。これはワンクールの連ドラや、それどころか二時間ドラマでさえも原理的には同じことですから、まして一年間の長丁場のシリーズでは本来もっと強力に物語の構造は決定附けられていくわけですね。

そして、たとえば小林靖子の作劇法も主にそう謂う積み重ねのロジックに則っていますから、白倉PDと初めて本格的に組んだ龍騎では、当時アギトの成功で或る程度感触を掴んでいたライブ感覚をもっと先鋭化させようとしていた白倉PDの作劇方針とは、かなり相性の悪い作劇法だったわけです。

で、井上敏樹のインタビューなんかを読むと、アギトの時点ですでに井上・白倉両氏の間には「最初から話の流れを細かく決めるのはよそう」と謂う合意があったそうですから、要するに話がどう転んでも好いような書き方にならざるを得なかったわけですね。たしか「あかつき号」の人々の名前も、性別すら予め決定していなかったので男でも女でも通用するような名前を考えたそうです。

この段階で白倉PDがライブ感覚と謂う作劇方針に或る程度の手応えを掴んだと謂うのは、つまり積み重ねで人物を描かないと謂うイレギュラーなシナリオ作法が、ベテランの井上敏樹には可能だったからだと思うんですね。これは、一発ネタで面白いことを考え附く才能があることとも関連してくることでしょう。

シリーズを重ねるに従ってどんどんエスカレートしていった井上脚本の即物的で無内容な性格と謂うのは、要するに「どう転んでも好いような描き方」と謂う縛りに過適応した結果だと思うんですね。常に今この場の一瞬のセリフのインパクトでキャラを描かなければならないと謂う縛りがあるのですから、深みだの積み重ねだのと謂う味わいは期待出来ないわけですね。ただ、それは白倉ライダーがそう謂う縛りを持つ性格の物語でしかない以上、言い方を換えればプロとしてのスキルと謂う言い方は出来るわけです。

そして、オレが龍騎を失敗作だと視ているのは、井上敏樹のようなプロのライターとしての器用さが当時の小林靖子にはなかったと視ているからで、この事情は次に組んだセラムンでもそうそうは変わらなかった、それが後半の迷走に繋がったのだと思います。

白倉・小林のユニットの作品の中でも、セラムンはかなり強力に物語を決定附けて行くような性格の語り口だったのですが、その方向性における物語の畳み方を白倉PDは識らなかったわけですし、寧ろ反撥すら抱いていたのでしょう。このユニットの作品の中では、おそらくPDとライターの間で最も葛藤があった作品ではないかと思います。

三度目の正直の電王が上手く当たってヒットに繋がったのは、ここで漸く積み重ねで描かないと謂う方針に順応するだけのスキルが小林靖子に附いたのと、白倉PDのほうでも小林靖子の作劇の生理がわかってきたからで、敢えて決めゼリフを作ったり、弾けたギャグを入れたりと謂う形でキャラ描写に保険を入れた上で、白倉PDのほうでも或る程度積み重ねを踏まえた上で物語の方向性を考えると謂う柔軟性が附いてきた、つまり互いに歩み寄ることでユニットとしての機能性が高くなってきたことが大きいのではないかと思います。

逆に、たとえばキバの井上脚本の無内容さなんてのは、今更井上敏樹に平成ライダーと謂う器で主体となって積極的に描きたいことなんかないわけですから、白倉PDのライブ感覚に過適応した手癖で書いているわけで、その手癖こそが即ち平成ライダーの井上ノリなんですから、ここに誰かが何かを入れ込んでいかなければ、ただの「それっぽい器」に過ぎません。

白倉ライダーにおいてその器に入れ込まれていたのは、オレの意見では白倉PDの個人的な「若さへの感傷」だったと思うんですよ。その感傷と謂うのは、或る程度井上敏樹とも共有されている種類のもので、この二人の相性の良さと謂うのはその部分が大きいのではないかと思いますし、そう謂う畸型的な物語を何とか番組として維持していけるだけのスキルが井上敏樹にはあったわけです。

しかし、白倉PDの感傷に当たるような内実が、武部PDにはなかった。白倉PDと組んでやってきた長年の間、物語を演じさせる肉体性となる役者を用意する役回りを演じてきたので、割合武部PDの嗜好と謂うのは物語寄りではなくフェティッシュな部分が大きいわけですね。なので、キバでは白倉PDと謂う主体に対して器を用意する役回りだった二人が組んだわけで、誰も物語を語る主体を演じなかった。

なので、キバと謂うのは、ガワはかなり綺麗で面白そうなんだけれど、中身があんまりないようなスカスカした番組になってしまったんだと思います。

SHUZO さんが「白痴化」と仰る際に想定されているのは、おそらくアギト以降のすべての井上ライダーだと思うのですが、井上脚本がどんどん無内容化していったのは或る程度「そう謂う性格の物語」だから、と謂うふうに視るのが妥当なのかな、と思います。

そして、オレはかなり早い段階で井上敏樹個人の文芸的なモチベーションと謂うのは存在しなくなっていて、職業論や役割論の観点で自身の立ち位置を考えるようになったのではないか、それが即物性に拍車を掛けていたのではないか、と視ています。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月13日 (金曜日) 午前 11時54分

黒猫亭さま
大変ボリュームある解説、ありがとうございます。『決め台詞でキャラ立ち』→『物語の白痴化』という図式を僕は常に意識していたんですが、白倉氏の必殺技『ライブ感覚』も白痴化に拍車を掛ける要素だったんですね…たしかにファイズあたりでの『物語の展開の意外性、ダイナミズムの為には、キャラの性格が180度変わる事も辞さない』まるで大映ドラマもかくやのストーリーテリングは、なかなかシビレるものがありましたね(^∀^)しかしダイナミズムを感じるはずのその数々のギミックも大抵は視聴者の『いやいや、もうそんなんせんでエエから(^_^)』という一種の失笑というかあきれた感を誘発するにとどまること多数(^∀^)まあライブ感覚というのも僕、嫌いではないんです。あの宮崎駿も『もののけ姫』以降は(演出のレベルは段違いに高けれど)ライブ感覚で製作している節がありますし。あれも鑑賞者がわの『ああ、ここら辺でヤマを持ってきてこの辺で泣かせの演出ですか。うまいねー』みたいに(^∀^)悟られるのが堪らなくいやになったんでしょうね。しっかり構築しまくっても予定調和感で退屈させるくらいなら多少破綻しても観る人々がどんな地平に連れて行かれるか読めないライブ性を選択したと。しかしそれは白倉、井上両氏が使うには多少レベルの高すぎる技であったかと…黒猫亭さまの文章を読んで腑に落ちる部分もあったんです。実は僕、キバの雰囲気って高寺作品以外の平成ライダーのなかでは抜群に好きだったんです。それはキバには『ライブ感覚の為には辻褄のあわない状況があっても構わない。押しきっちゃえ』みたいなさもしい雰囲気があまり感じられなかったからなんです。白倉氏と組んだ作品ではそれこそよく言われてるように『ちょっと話し合いすれば解けるような誤解も展開の為には不自然でも放置してこじれさせる』ような違和感のあるものにしたりそこらへん、目に余る物がありました。それが観ていて非常にストレスでありました。(しかもかの大映ドラマなら主人公がいくら誤解され、理不尽に踏みにじられようと、最終回の絵に描いたようなハッピーエンドがストレスを昇華させていたとも思えるのですが、白倉ライブでは、最後も青臭い現状認知論的な<Ζガンダム?(^∀^)>結末で変に不条理や主人公の不幸を想起させ終わるような印象も強く、もやもやした欲求不満の行き場は用意されておりませんでした。)このあたりの強引なストーリーテリングの積み重ねにより井上氏は“御大”などと揶揄されるようになった。しかしキバを見る限り、“ちょっと話し合えばわかる誤解”は早々に解けるようになったし、白痴的な『決め台詞』もあまり散見されなくなった。確かに徒然に主人公の行動を追っただけ…という中身の薄い側面も確認できますが、物語の見えざまは非常に自然(と僕的には思える)な見心地を感じたんです。そこに来て、おそらく武部女史の要請とも合致したのか、井上氏の長所(と僕が勝手に思っている)である切なさ、センチメンタリズムが襖溢しているように感じたんです。(氏はインタビューではよくおちゃらけたりしてますが、所謂コメディ方向の才能は意外になく、この切なさこそが井上脚本の最高の美点かも…と思います。)で、キバの放映中にはなんとなれば『井上氏が“設定の辻褄もろくに合わせないいい加減なオヤジ”みたいな不名誉な印象を決定的に印象付けられてしまったのは、実は白倉氏と組んでしまったからではないのか?』(少なくとも武部女史は作品に耽美さは求めてもライブ感覚は求めなかったように見えます。)と思うようになったのです。まあ井上氏もあれだけ強烈な個性を持った人間であるからして白倉氏の要求のみを従順に聞き入れた結果、というはずはなく、あくまで二人は“共犯関係”だったのではありましょうが、しかしその結果があの作品群に付きまとう陰鬱さであるならば、ご自分達の『まあ、俺達は非常に考えが近くてツーカーだからな』という認識も、果たして多くの仮面ライダーファンにとって幸福な才能の出会いであり得たのか?多くの特撮ファンにとって僥倖であり得たのか?最近とみに思う事であります。

投稿: SHUZO | 2009年3月14日 (土曜日) 午後 06時21分

>SHUZOさん

お返事遅れましてすいません。

さて、これまでやりとりを重ねてきた心安さで失礼なお願いをしてしまいますが、さすがにこれだけ文章量が出て来ましたので、最初から最後まで一続きだと老眼にはキツいものがありまして、どの辺を読んでいるのかわからなくなりますので、年寄りに功徳を施すと思って適当に改行や空行を入れて戴けると助かります。

多分、他の皆さんもそのほうが読み易いと思いますので、その旨ご一考戴けますと有り難いです。

>>たしかにファイズあたりでの『物語の展開の意外性、ダイナミズムの為には、キャラの性格が180度変わる事も辞さない』まるで大映ドラマもかくやのストーリーテリングは、なかなかシビレるものがありましたね(^∀^)

オレもあの辺りで平成ライダーがどうでも好くなった記憶があります。この当時は白倉プロデュースにはあまり関心を持っていなかったので、それを井上敏樹のほうの芸風だと思っていたんですが、現在の認識としては、書き手視点ではああ謂うふうにしか書きようがなかったんだろうな、と。

あれからいろいろインタビューなどを読んでみると、たとえばシャンゼリオン・メモリアルの白倉・武部の対談を読むと、「大変なんだよね、ちょっと気を抜くと、『サヨナラ、朱美』(14話)とか16話(『バイトで霧子!』)みたいな、マトモな話を書いちゃうし」とか白倉PDが言ってますから、脈絡のない痙攣的な芸風が井上敏樹本来の持ち味と謂うわけではないんですね。

むしろ、平成ライダーに携わる以前の作風を視ると、カッチリしていて手堅いけれど何となくつまらない話を書く人と謂う印象があります。雨宮慶太なんかと組むとその傾向は顕著なんじゃないですかね。勝手な憶測なんですが、井上敏樹にとっては白倉PDは目下だけれど雨宮慶太は目上と謂う感覚じゃないかと思いますし、雨宮慶太のほうでもそれほど突飛なホンを求めないと謂う部分もあるでしょう。

>>しかしキバを見る限り、“ちょっと話し合えばわかる誤解”は早々に解けるようになったし、白痴的な『決め台詞』もあまり散見されなくなった。確かに徒然に主人公の行動を追っただけ…という中身の薄い側面も確認できますが、物語の見えざまは非常に自然(と僕的には思える)な見心地を感じたんです。

これは、実は井上敏樹のフラットな作風なんではないかな、と思います。そう謂う筋立てを割合スラスラ書いてしまうのが普段の井上敏樹の仕事ぶりなわけで、それをして白倉PDは「マトモな話」と表現しているわけですね。

で、白倉PDが謂わんとすることもわからないでもなくて、今われわれが感じている井上脚本らしさと謂うのは、いびつな無理筋の展開をギリギリで保たせてしまうプロの引き出しと常識離れした発想の部分だろうし、それをして白倉PDは「天才」と表現して評価しているわけですね。

白倉PDはシャンゼで井上敏樹と組んでみて、この人とならこれまでにないような番組を作れるんじゃないかと思ったんでしょうし、或る意味、たしかにそれは「これまでにないような番組」ではあったわけですね。アギトの頃はまだ前作のクウガに遠慮しているような部分はあったし、探り探りの部分もあったでしょうけれど、小林靖子と組んだ龍騎で完全に自分のライブ感覚に手応えを掴んだ白倉PDは、ファイズでその方向性を窮めてしまったんではないかと。

そして、これは何度も同じことを言っているんですが、白倉PDには決定的に文芸の勘がないわけで、オーセンティックな物語性をかなり乱暴な形で崩そうとする傾向があるわけですね。普通に玄人がやるなら、やはり物語性の文法を知悉した上でそれをどう謂う目的でどう謂うふうに崩していくのか、そこでどう謂う意味性を狙うのか、と謂うふうにアプローチしていくものだと思いますので、崩すにせよ毀すにせよルールの共有されたゲームになると思うのですが、白倉PDはその辺を割合感覚的にやっていたような嫌いがあると思います。

井上敏樹の「野獣」発言も、おそらくそう謂う部分を踏まえての指摘なんではないかと思います。理屈は附けるけれど、結局それが厭だ、毀したい、と謂う感覚的な動機で主張しているわけで、井上敏樹は「そうしたいと言うならそうするしかないな」と謂うような形で附き合っていたのではないかと思います。

前回語ったように、物語と謂うものは語るに連れてどんどん決定附けられていくものですが、白倉PDは知恵の輪をペンチで捻り剪るようなやり方で窮めて暴力的に物語性を解体しようと試みたように思います。そう謂う白倉PDの物語性への関心の在り方に対して、井上敏樹はかなり協力的な姿勢で附き合ってきたわけで、アギトの頃はまだ井上敏樹的な文芸性を白倉PDが舵取りすると謂う形だったのが、ファイズの頃になると白倉PDの物語的関心を実現するのに井上敏樹が対応すると謂うふうに主客の逆転があったのではないかと思います。

これはつまり、普通の意味では劇的ロジックで繋がっていない物語だと謂うことですから、書きようで一本の物語として繋げていくしかないと謂うことですね。そして、この方向性の物語は、井上脚本が「積み重ねで描かない」書きようを確立して、白倉PDのライブ感覚が無制限の自由度を獲得した時点で一旦上がりです。つまり、これを繰り返しても同じような話にしかならないわけですから、これはこれでこう謂うものとして固まってしまったわけですね。

そうすると、では次に何をするのかと謂う話になるんですが、結局何をすると謂うアテもないので「これ以上出来ない」と謂うことになったわけですね。多分白倉PDの心境としては、ファイズの時点までで当初の青図を一旦やり尽くしてしまったわけですけれど、それでも自身の「若さへの感傷」にケリを附けることが出来かったんではないかと思います。

彼がファイズの後に何をやっていたかと謂えば、「ヒーローと正義」を刊行したり、田崎竜太の「Sh15uya 」の企画を引き取ったり、セラムンを手懸けたりしたわけで、その流れの先に響鬼騒動が起こると謂う形になります。

時系列的にはファイズの後半くらいに執筆されたと推測される著書の主調は、その当時の白倉PDの未整理な心境が生の形で出ているように思いますし、多分現在の白倉PDの感じ方とはかなり懸け離れているのではないかと思います。

では、当時と現在の間にどのような事件が起こってどのように彼の感じ方が変わったのかと謂えば、ベタな言い方をすれば、「大人になると謂うことがどう謂うことなのかわかってきた」と謂うことなんではないかと思います。

たとえばセラムンを手懸けている頃、彼はメインキャストの少女たちに対して父親的な感情を覚えたと語っているわけですが、多分ファイズの頃までは主要キャストに対して同世代的な思い入れを籠めていたと思うんですね。三十代くらいまでって、人によっては上の世代よりも若者世代に対してシンパシーがあるでしょうし、賀集俊樹や須賀貴匡とは十数歳しか違わない。少し歳の開いた弟分と謂う距離感ですね。

しかし、当時史上最年少ライダーと謂われた半田健人辺りから徐々に世代格差が顕在化することになりまして、Sh15uya やセラムンの主要キャストになると、これはもう完全に自分の子供の世代になるわけですね。このくらいの開きになってくると、たとえば自分が学生結婚して子供がいたら、と考えるとかなりリアルに感じられてくるわけです。

向こうのほうでも、PDと謂う肩書きがあって二〇歳以上年上の成人男性は「大人」として見えるわけで、この両者は決して同じ時制において生きているわけではないんですね。そして、自分がこれらの人々に対して大人の世代として責任を持っていることを否応なしに意識せざるを得なくなる。ましてまだそれぞれ学校に通っていて進路の定まっていない十代の女の子ではなおさらです。

罷り間違えば、単なる一本のTV番組が彼女たちの一生に影響を及ぼすことだって在り得ますし、未成年の少女に対しては、「プロとしての自己責任」を要求して突き放すわけにはいきません。たしかに未成年の少女だってプロの役者ですが、それ以前に彼女たちは大人の保護監督を必要とする子供の世代なのですから、白倉PDは彼女たちの前では一個の大人として振る舞わざるを得なくなります。

また当時、それほど主流的な意見ではなかったとはいえ、やはり未成年の少女たちが露出度の高い衣裳を着てアクションを演じること、それを成人男性がよからぬ思惑を抱いて好奇の目で視ることに対して、いろいろな批判があったとも聞きますから、そのことに無関心だったとも思えません。勿論本人たちの意志で納得づくでそれを演じているわけですが、しかし彼女たちが未成年である以上、その意志の結果責任は大人たちがとらざるを得ないと謂う筋道になります。

この頃から彼の発言には、嘗て自分が反撥していた先人の偉大さを再認識すると謂う類の話が多くなります。嘗て「大人」として一括りに客体化していた世代人の一員として振る舞わざるを得なくなったことで、今まで視ようとしてこなかったものが見えてきたのだと思います。勿論、それまでに井上敏樹と謂う「良き女房役」を得て、やろうとしたことをとことんやってみた経験も大きかったと思います。

そこへ持ってきて響鬼騒動が出来するわけで、詳しい話は「リスクマネジメント」のエントリに書きましたが、ここで彼は事態を掻き回す役どころではなく沈静化させる役割を演じるわけで、さらに前任者の後を受けてオーセンティックな成長物語を真正面から描いて当初の青図通りに着地させる羽目になったわけです。多分、白倉伸一郎の青春時代は、ここで決定的に終わっちゃったんですね(笑)。

続くカブトの舞台裏を覗くと、おそらくこの辺にも響鬼騒動の余波があって、対外的な示しを附ける為にも、実績のある白倉PDがライダーを続投せざるを得なくなったんではないかと推測されます。で、多分この時点の白倉PDはもうすっからかんですから、カブトはもう迷走すべくして迷走したとしか言いようがない(笑)。

白倉PDが自身の「若さへの感傷」に決着を附けるには、次の電王を待たなければならなかったわけですが、これがなんで小林靖子だったのかと謂うのは、考えてみるとなかなか面白い巡り合わせだと思います。これまで当ブログでポツポツ語ってきましたけれど、白倉PDと小林靖子の決定的な対立点と謂うのは、小林靖子の感性には感傷がないんですね。これは感傷に対する頑固な無理解と謂っても好い。

誰かが打ち拉がれて泣いているとすると、泣いている人に「泣いてるヒマがあったら行動しようよ、きっと何とかなるよ」とズケズケと言っちゃうのが小林靖子的な感性なので、土台龍騎みたいな話が書けるはずがないんですね(笑)。あれは泣くしか出来ることがないような状況に人を追い込む為の物語なんで、泣くくらいなら何か出来るはずだと考えるような人間が納得して書けるはずはないんですよ(笑)。

龍騎にせよセラムンにせよ、白倉式の物語の畳み方が決定的に小林靖子の生理と衝突するのは、白倉PDは泣くしか出来ることがない状況に人を追い込んで決着を附けようとするけれど、小林靖子はそんな状況が在り得るとは殆ど信じていないし、主人公が泣いて終わるような物語が面白いとは思わないからでしょう。

で、多分白倉PDは、いろいろなことがあって大人になっちゃったせいで、気持ちよく泣けなくなってしまったんですね。たとえばセラムンの制作現場や、響鬼騒動の渦中にあって、「僕にはもう何も出来ません」と言って泣いちゃったら、いろんな人が困るわけです。何も出来なくても何かをしなければならないし、結果責任を負う以上は出来なかった理由を理論立てて正当化しても意味がないわけです。

自分自身のモチベーションを満たす為ではなく、他人の為に行動すると謂うことは本来そう謂うことなんですね。そして、たとえばヒーロー物語において大切な誰かを護ると謂うことも、決着するところ同じことであって、そこには感傷の入り込む余地などはないわけです。

結局のところ、大人としての責任を引き受けてしまったら、「泣いてるヒマがあったら行動しようよ、きっと何とかなるよ」と謂う言葉が如何に嘘臭く感じられても、それを受け容れるしかないわけですね。何とかしなければならないと謂う結論ありきなのですから、何とも出来なかった理由をあれこれいじくり廻しても意味はないわけですね。

だから電王はすべてが何とかなって、みんなが幸福に笑って終わる話になっているんですね。あの物語に感傷なんてありませんし、退っ引きならない事態に追い込まれても、子供は狡いことをしても構わないから主人公が子供なんですね。そして、何というかあの物語では、良太郎や侑斗に対して一定の距離感があります。

白倉PDが自分の中の若さを外在化して向かい合う為には、あのくらい思い切って子供に設定するしかなかったのでしょう。それはつまり、白倉式の若さが認められるのは、あのくらい若い子供でしかないと謂うこと、つまり世界に対して一切責任を持たなくても好いのは子供だけであることを認めたと謂うことでもあるでしょう。

たとえば、後半の展開で大人侑斗と愛理の約束の話が出て来て、物語の主軸が世界に対して責任を持っている大人のサイドに振れてきますけれど、それに対して怒って好いのは子供だけなんですね。それはもうすでに感傷ではありません。子供だから自分が蔑ろにされたら怒るのであって、まだ責任を引き受けていない世界の為に自分が蔑ろにされることに対してストレートに怒る権利が、子供にはあるわけです。

アギトからファイズまでの流れにおいては、それが子供の感じ方であることを認めていなかったわけで、主人公がライダーと謂う異端の存在になることで世界から拒絶されると謂う手続があったわけですね。この手続によってライダーたちは世界の命運に対して責任を担う資格を剥奪されると謂うことになり、物語は個人の関係性の問題に還元されるわけですね。彼らは世界を救う為に戦っているわけではない。

世界から拒絶されたと謂うアリバイがあるから、自分たちの個人性に発する善意に基づいて、具体的な誰かの為に戦うと謂う形になるわけで、彼らの戦いと世界の命運は直接の関係を持っているわけではありません。飽くまで個人的な関係性に導かれるままに物語が進むことで、結果的に世界の滅亡や救済と謂う大状況のステージが顕れてくるだけですね。

それに対して、電王では良太郎は割合明確に世界を救う為に行動しているわけで、勿論子供だから世界が何だかわかっていないわけですが、そう謂う想像力の限界を超える何だかわからない大きなものを個人性に引き寄せて戦っている。そう謂うつもりで戦っているのに、大人侑斗と愛理がやっぱり世界を救うと謂う大義の為に自分や子供侑斗をいいように利用していたと謂うことが判明したから怒るわけです。

これが大人同士だったら、その不快感は呑み込まなければならないけれど、それでもそこに納得の行かない背信があったことは事実ですし、その不快感は呑み込まれたからと謂ってなかったことにはなりません。おそらく白倉PDの個人的な拘りは、大人なら呑み込んで忘れてしまうような小さな個人感情のささくれにこそあるのでしょうし、それを物語として表現したいと謂うモチベーションがあるのであれば、それは子供の物語として提示される必要があったわけですね。

こう謂う形で白倉PDの「若さへの感傷」は決着を附けられたわけですが、ただそこで積み残された問題が一つあるわけで、それはつまり電王と謂うのは野上良太郎の成長物語「ではなかった」と謂うところです。良太郎は物語内の経験を通じて成長することでヒーローになったわけではなくて、最初から最後まで変化のない人物として描かれていたと思うのですが、それでも良太郎がヒーローたり得るとすれば、それは無前提に最初からヒーローであった人物だと謂うことになります。

もしもヒーローの存在を肯定するのであれば、それは最初からヒーローであったか成長してヒーローになったかのどちらかでなければならないですが、初期の白倉PDのように成長物語も無前提のヒーローも否定するなら、ヒーローは存在し得ないと謂うことになるわけです。

それはアギトの頃にすでに課題として設定されていて、それをこの番組では「すでにライダーである男・ライダーになってしまった男・ライダーになろうとする男」と謂う三人の対比で表現しているわけですね。

これらを「ヒーローになろうとして、なってしまって、今現在ヒーローである存在」と読み替えれば、時系列的にリニアルな関係にあるはずですが、結局アギトの物語ではこの三者の立ち位置は決して交わらなかった。つまり氷川誠の未来像が葦原涼ではないのだし、葦原涼の未来像が津上翔一であるわけでもない。

井上敏樹がインタビューで「人は成長なんかしない。変わるだけだ」と謂う意味のことを言っているのは、このアギトの頃です。アギトの三人の主人公を成長と謂う構造において時系列的にリニアルな位置附けに視ようとするのは虚構なんだ、人は成長なんかしないんだ、なろうとすることと、なってしまったことと、今現在そうであることは全然関係ない別々の事柄なんだ、と謂うわけです。

これらはすべて別々の生き様だと謂うふうに意味附けられてしまったわけですね。ですから、もしもヒーローが存在するのだとすれば、それは理由も何もなく最初からそのようなものであると謂うことでしかないはずなんですね。

ヒーローになろうとすることと、なってしまったことと、ヒーローであることは全然関係のない別々の生き様であると意味附けた上で、それぞれが別々の意味で闘争物語の主人公で在り得るとすれば、メタ的な意味でヒーローにはそのようなものであるべき合理的根拠など存在しないと謂う結論になります。

これはつまり、出発点において白倉PDがその存在を否定していた五代雄介の存在を肯定することになってしまいます。ヒーローがヒーローで在る為の理由附けを幾ら掘り返してみても、意味なんかないと謂うことを認めることになります。ヒーロー性に根拠を求めるとするなら、そこに成長と謂う虚構を措定するしかないわけですから。

そしてそれはつまるところ、ヒーローでない人間がどう頑張ってもヒーローにはなれないと謂う彼我の間の絶対的な断絶を意味します。もっとぶっちゃけて謂えば、潜在的な可能性の次元の問題として「白倉伸一郎は決してヒーローにはなれない」と謂う事実を認めるかどうかと謂う話になります。

これを白倉PDが受け容れられたのかどうかは、電王を視てもわかりません。電王以降の作品で白倉プロデュースに注目する意味があるとすれば、おそらくそこなんでしょうね。

>>で、キバの放映中にはなんとなれば『井上氏が“設定の辻褄もろくに合わせないいい加減なオヤジ”みたいな不名誉な印象を決定的に印象付けられてしまったのは、実は白倉氏と組んでしまったからではないのか?』

その通りだと思いますし、そう謂う汚名に甘んじる覚悟を含めて白倉PDを徹底してサポートしたのが井上敏樹の男気と謂うことになるんでしょうね。そう謂うことを考えると、響鬼の後半を批評的な必要性を超えて苛酷に貶める気持ちにはちょっとなれないんですよ、オレは。あれは誰がやってもああなるのを、敢えて泥を被ったわけですから。

尤も、多分會川昇だけは「俺にやらせてりゃもっとマシなものになったのに」と思っていると思いますが(笑)。

とまれ、白倉ライダー以外の仕事で井上敏樹が所謂「超脚本」を書いている例と謂うのは識りませんし、アニメの仕事では若手を育成するリーダーとして環境の調整に努めている印象が強いですから、井上敏樹の仕事の全貌をライダーだけで考えることは出来ないだろうと思います。

そして平成ライダーを通過した後の井上敏樹の現時点における最高傑作と謂うのは、実は「キューティーハニーTHE LIVE」じゃないかと思います。しつこくてすいませんが、あれはやはり「井上敏樹版セラムン」と謂う位置附けになるのでしょうし、白倉PDが絡んでいないことで物語性のロジックが一本通っていたと思います。

ダーキュリー絡みの筋立てなどは、シスターユキに絡んだ一連の筋立てとして再現されていますし、ダーキュリーの物語もかなり容赦ない苛酷な話でしたが、シスターユキの物語も本質的には救いのない苛酷な物語でした。これはこれで「泣くしかない結末」なのですが、この種の退っ引きならない悲劇を物語と謂う虚構がどのように救済するのかと謂うロジックに関しては、流石に白倉PDよりもキチンとわかっていると思います。

SHUZO さんが仰る「井上氏の長所である切なさ、センチメンタリズム」が非常に理想的な形で表現されていたと思いますし、カブトでも途中で迷走しなければお坊っちゃま絡みの流れはもっと永井豪的な悲劇性によって感動的になっていたんじゃないかと思わせるものがあります。そう謂う意味では、井上敏樹にとっても白倉ライダーと謂うのは一種「不自由な物語」であったと謂うことは考慮する必要があるでしょう。

それから、ファイズについて本来の井上敏樹的な感性においてはどんな物語性が在り得たかと謂うのは、ノヴェライズの「異形の花々」を読まれるとハッキリするんじゃないかと思います。シナリオのト書きみたいでスカスカの小説なんですが(笑)、井上敏樹の感傷の在り方がよりわかりやすく提示されていると思います。

この小説では、ファイズと謂う物語は異端の畸型として世界に生み出された子供たちの痛ましい自滅の物語として捉えられていて、TV番組として実現されたファイズとは微妙なズレがあります。それは多分、すでにこの時点で井上敏樹はファイズが子供たちの彷徨の物語であることをキッチリ認識していたと謂うことなのでしょう。

>>しかしその結果があの作品群に付きまとう陰鬱さであるならば、ご自分達の『まあ、俺達は非常に考えが近くてツーカーだからな』という認識も、果たして多くの仮面ライダーファンにとって幸福な才能の出会いであり得たのか?多くの特撮ファンにとって僥倖であり得たのか?最近とみに思う事であります。

歴史に「たら・れば」は禁物だそうですが、たとえばライダーが東宝の超星神シリーズとか松竹のリュウケンドーやレスキューフォースとは一線を画す金看板になったのは、勿論過去のネームバリューもありますが、白倉・井上組の試みが或る程度トクサツファンにアピールしたからでしょう。

オレ個人としては、白倉ライダー一般の物語性と謂うのはあんまり評価しませんが、この一連の青春の彷徨の流れの上に実写版セラムンがあるわけですから、それだけでも意義はあったと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月16日 (月曜日) 午後 07時37分

黒猫亭さま こんばんは。 ご指摘ありがとうございます。大変失礼しました。僕は(いままでの経験から)結構空気を読めない人間みたいですので、不躾な部分がございましたらその都度どんどんご指摘頂けましたら助かります。

さて、白倉氏ですが、やはり黒猫亭さまのおっしゃるとおり、文芸的な素養はないほうだと思います。というか、個人的には彼に文芸的な素養があるとは思いたくない、ということかも知れません。それはさもクリエイター的なふりをするのに一番わかりやすい“既成概念をぶち壊す”“前と同じ事はやらない”といった事を頻繁に標榜するのに、黒猫亭さまがおっしゃるようにそこに批評性がない。『どう壊せば作品として価値有るものになる?』という地平に行くことは無い。

例えば世界観の構築。昭和ライダーと違い、平成ライダーは怪人もライダーも幾分リアルな見えざまになり、それなりに世界観にも説得力が欲しくなった。例えば高寺氏は“クウガ”で怪人が出現した背景、怪人が出現したことによって社会はどんな反応を見せたか?それによって行政はどんな対応をしたのか…そうした諸々の事から逃げずに描いていたように思います。また昭和ライダーの悪の組織が世界征服を標榜しながらも何で活動拠点が日本メイン?(^∀^)とか、そもそもライダー『世界の平和を守るため~♪』なんて謳ってるくせしてなぜに活動が日本限定?(^∀^)そうした疑問の落とし処として“クウガ”でのグロンギは『日本古来のネイティブな狩猟民族だったから』とすることである程度合理的な説得力を持たせてそれに成功していると(僕は)思います。『響鬼』では魔化魍相手に警察が動く事は決して無かった。しかしこの化け物は古より人を襲い続けてはいたけれど妖怪とよく似た類いの存在であるが故に、都会にはほとんど現れず山奥や人里に現れる。故にたまたまそうした所に訪れてしまった人が殺されるといったような被害規模であり、目撃者も発生しにくい…なので人が殺されても残された人々からすれば殺人なのか失踪や神隠しの類いなのか認識できない=鬼のような特殊な職種のような人々でなければ察知、救出出来ないという状況に設定。そういう状況ならば一般の人々はほとんど魔化魍を見ることは無いだろう…というところで警察が介入しないギリギリのリアルさを出していたように思います。(また鬼達の見えざまが、ある種の修験道や神道的な物を想起させることから、この猛士という組織はNPO団体とはいえ、なにか公界と通じているのでは?という文化的背景も想像させ、ゆえに戦前、またはそれ以前からその時々の警察機構との業務の住み分けが暗黙の内に行われているのでは?と思わせる部分もありました。)

ちょうど『仮面ライダークウガ』が登場する頃、僕的に感じたのは「またかよ」というような感慨でした。アニメでは『ガンダム』だ『ヱヴァンゲリヲン』だのが現れ、リアルに構築された作品が乱立する時代に、まだ仮面ライダーを復活させる意味なんかないでしょ。あの素材で何も新しいものなんか出来ないでしょ。というネガティブな思いでした。
しかし高寺氏は上記のような新しい切り口の、僕のような俗物では思い付かないような作品を提示してくれました。最後の方で、未確認生命体の被害者が3万人という(^∀^)にわかにはリアルと言い難い被害規模になっても、その殺人状況を逆に映像にしない。新聞の見出しでさりげなく『0号の被害者3万人』と書いてあるのを写す程度で、あとはテレビの報道でも、まるで阪神大震災の時の様に被害者の名前と年齢が延々表示されるという…平成仮面ライダーが始まった頃にはこういう表現をまさか仮面ライダーというカテゴリーでみられるとは思いませんでした。そもそも怪人が人間社会に出現することはリアルに落とし込めるのか?まずそこから丁寧に構築された『クウガ』『響鬼』は僕には作品に入り込めるファンタジーを持ち得ていました。

白倉氏のライダー作品は見掛けの斬新さは持ち得ていても怪人が街中に平気で登場する、その事を社会がどう認識しているかという大きな視点が欠落している(そもそもそこを補完しようとしていない)ことにまずは冷めてしまいます。廃工場あたりで怪人とライダーをバトルさせて『まあきっと人は目撃してなかったんですよ』とやってしまう。そこに『バカにすんなよ』と思ってしまいます。もちろん高寺氏がその根本にこだわったからといってそこをやらなければならないとは限りませんが、やはり高寺氏のこだわりに代替する分量のこだわりをどこかに入れ込んでいたとは思えません。ただ装いの斬新さや言葉のロジックでかざった部分が多いような気がします(まあそこまでこだわる高寺氏の方がプロデューサーとしては変なのかもしれませんが。あれではほとんど“総監督”ですから(^∀^))

しかし黒猫亭さまがおっしゃるように白倉氏にも様々な流転があったという事実があり、僕にはその白倉氏の仕事人としての変遷を見るという視点が欠落していた(意識的に欠落させていた?(^_^;))節がありますね。セラムンとかも一応観ていたのに(^_^;)。しかしカブトあたりですっからかんになったというのも事実だと思いますし…しかし本来は東映撮影所の局次長(でしたっけ)に栄転された白倉氏としては今回プロデューサーとしてディケイドに呼び戻されたのは3クールのお祭り企画ゆえのイレギュラーな人事であり、最後の白倉ライダーであるとも思えるのでディケイドでの白倉氏の答えを見守りたいと思います。

余談ですが、『キューティーハニーTHE live』僕も井上脚本の最高傑作と思います。掛け値なしに面白かった!。
またしても長文になり、失礼しました。

投稿: SHUZO | 2009年3月17日 (火曜日) 午後 02時47分

>SHUZOさん

むう、やっぱりSHUZO さんは高寺シンパでしたか。いや、勿論SHUZO さんは高寺信者対白倉信者みたいなつまんない図式でお話をなさるつもりなどはないと思いますが、白倉作品に高寺作品を対置させると、結構デリケートではありますね。

一応、誤解のないように言い添えておきますと、オレは白倉伸一郎と謂う個人はかなり好きですし、こう謂う人物がトクサツヒーロー番組のようなジャリ番を本気で真面目に作ってくれていることを、有り難いことだとは思っているんですね(笑)。

で、自分の好みには合わないけれど、彼の手懸けた作品が嗜好の合う視聴者層には一定程度アピールすること自体は肯定的に視ています。基本的にオレは、大人のファンが語る「子供にわかる・わからない」「子供が楽しめる・楽しめない」と謂う尺度の判断は一切信用しませんから、子供の見え方などは考慮しません。

白倉作品に関して、大人の視聴者が大人としての立場で番組を楽しめていると謂う声が一定程度あること、そして子供のファンが十分なレベルで存在すること、それはTVシリーズの映像作品として積極的に評価すべきポイントだと考えます。

そんなもん、子供にわかるかわからないか、子供が楽しめるか楽しめないか、それが大人にわかるくらいならジャリ番の作り手は苦労などしません。白倉PDの謂う「ライブ感覚」の中には、主に幼児層の視聴者の反響を採り入れると謂う狙いもあるわけで、これはたとえばカブトの後半で地獄兄弟の出番が増えたのだって、ああ謂うやさぐれキャラが子供にウケるなんて予想だにしなかったのが、子供の間で人気があると識って出番を増やしたわけですから、とにかく子供の理解度や反響と謂うのは予測不能で結果論でしか語れないと謂うのが現場の実感でしょう。

そう謂う意味で、白倉メソッドと謂うのは文芸の観点からだけ視るのでは公平ではない部分があるわけで、商売として成立させるとか、子供番組としての節義を守ると謂う側面もあるわけですね。これは高寺PDにはなかった観点ですし、白倉PDの美点とも欠点とも謂える部分に現場のスタッフを大事にすると謂う部分がありますが、これも高寺PDに欠けていた資質です。

TVシリーズと謂うものは、日々消費されていく日常的な風俗の性格と、後世にまで遺る作品としての性格が重なり合っているわけで、どちらか一方だけを重視してはいけないと謂う難しさがあります。白倉プロデュースの最大の美点は、そのバランスを可能な限り考慮していると謂うところで、映像文芸作品は多くの人間が創っていて多くの人々が多様なアスペクトに基づいて関わっているもので、作品本意の純粋文芸として割り切れない部分がある、と謂う視点をちゃんと持っているところですね。

この「人間が創るもの」と謂うことをちゃんと考慮しているところと謂うのは、たとえば同じ人材と何度か仕事を重ねるうちに、キチンと最良の方向性を模索している部分に伺えるでしょう。たとえば、オレ個人としては実写版セラムンの尖鋭に突出した物語性をこよなく評価してはいますが、番組自体は「失敗」していると思いますし、その反省を踏まえた上でさらに電王は優れた「子供番組」として「成功」していると思います。

そしてセラムンを評価するのは、それが極端に作品本意の方向に突出していると感じるからなんですが、それだけだとTV番組としてはバランスが悪いんですね。作品本意的な志向は電王くらいに薄めたほうがバランスが良いんです。

一方では、SHUZOさんの仰る、

>>というか、個人的には彼に文芸的な素養があるとは思いたくない、ということかも知れません。

…と謂うお気持ちも理解出来るように思います。白倉ライダーと謂うのは、正統的な物語観からすると「毀れたいびつな物語」であることは間違いないですよね。一方でクウガを代表とする高寺ライダーは、正統的な物語観に則ったオーセンティックな物語と謂うことになりますから、「毀れたいびつな物語」が「正統的で端正な物語」よりも大向こうにウケると謂うことに危機感や反撥を覚えると謂う気持ちは、オレにもあります。

ただ、これはやっぱり結果的にそう謂うことになっちゃったわけで、非常に理想的な流れを想定すれば、白倉ライダーと高寺ライダーが一定期間毎に交替するような流れだったら、白倉プロデュース作品ばかりが目立った実績を残すと謂うことにはならなかったはずなんですね。響鬼に対する大人の視聴者の思い入れも、クウガの制作事情において下手を打った高寺PDが本格復帰すると謂う期待感もあったと思います。

そこで高寺PDには、自分個人の先行きばかりではなく自分自身が信奉する文芸観に対しても責任があったはずだ、と謂うのは過去のエントリで語ったことですが、そこに現実的な感覚や社会人としての責任履行が伴わなかったのはやっぱり彼個人の失敗であって同情の余地はありません。高寺的な文芸がコケたのは、高寺成紀個人がコケたからであって、他の誰のせいでもないのです。

しかし、現在のオレは嘗てのように文芸の先行きに危機感を覚えてはいません。

オレ個人が、成人してからトクサツに戻ってきたそのタイミングでトクサツ冬の時代を迎えた為に、トクサツの将来を危惧するところはあったんですが、大きな観点で視ればそれは単に一つのサイクルであったに過ぎないと考えています。

その時代には正統的なトクサツヒーロー作品は皆無に均しくて、パロディ的に揶揄するような変化球の作品ばかりが幅を利かせていましたが、やはりそう謂う風潮にあっても正統的な作品の萌芽は死ななかったわけですし、時代時代において斬新さを持った作品のほうが大向こうにアピールするのは一種当然のことではあります。

つまり、正統が護られる一方で新しいものもまた絶え間なく生み出し続けられる必要があるわけで、数千年に亘る人間の歴史が生み出した「物語」と謂う発明はそれほどヤワなものではないのだから、普遍的にそれを愛する人々が一定レベルで存在することは疑わなくても好いのではないかと思います。

また、現時点で白倉ライダー全体を顧みするなら、彼個人の潜在意識にあったのはクウガを超える作品を生み出すことだったとオレは考えていますし、反撥すべき厭な大人のロールモデルとして高寺成紀と謂う人物がいたのだと思います。で、高寺成紀と謂う個人との確執については、アギト以降のライダーの成功と謂う実績や、響鬼騒動による放逐劇を経て、普通の観点で謂えばすでに超克してしまったのだと思います。

だから、今の白倉PDにとっての目的性はすでに「厭な大人」に反抗することではなく自分自身が「厭な大人」にならないことにシフトしているでしょうから、既存世代に対する反撥の段階は超越していると思います。ただ、高寺的な文芸に対しては全然勝負が見えていないですね。そう謂う正統的な物語を毀す方向で突っ張ってきた白倉ライダーでは、比較の基準がないんですね。

別の見方をすれば、高寺的な文芸と同じ土俵で勝負しない方向で逆目逆目に突っ張ってきたからですね。だから白倉ライダーがクウガを超克したかどうかと謂うのは判断しようがないわけで、判断しようがない以上はまだ勝てていないと謂えるでしょう。

オレの個人的な尺度で謂えば、如何にバランスが悪かろうと実写版セラムンが作品本意の性格の突出を完遂していびつな極北を達成していたら、勝てているかどうかはさて措き同じ土俵でクウガに匹敵するような作品を遺したと謂えたと思いますが、あれも結局純粋文芸の観点で後半の舵取りを失敗していますし、Act.47のレビューで語ったようにセラムンと謂う作品は白倉PDの創意の観点ではクウガの呪縛に敗れた作品だったと考えています。

で、オレとしては白倉PDの作りたかった作品のゴールが電王だったかと謂うと、それはそうでもないんじゃないかと思うんですね。あれはやはりこれまでの連続上において何かに決着を附ける為に必要な通過点であって、個人的にああ謂う作品が作りたいからトクサツに携わってきたと謂うわけではないと思うんです。

おそらくあれは、白倉PDがプロの職業人として考えるトクサツヒーロー番組の現時点の結論であって、彼個人の嗜好とはまた別の方向性のものだろうし、多分彼には、自身が一個のトクサツファンとして作ってみたい作品のヴィジョンが別にあるんじゃないかと謂う気がするんですね。ライダー以前の作品傾向を視ると、実は白倉伸一郎個人の嗜好は割とアダルト且つスマートな方向にあるわけで、別段「子供番組」が作りたいと謂うわけでもないだろうし、その嗜好は今でもそんなに変わっていないと思うんですよ。

電王の快進撃を受けて次に彼が目指すとしたら、子供番組と謂う縛りから離れたところで自身の嗜好を満たすような作品を作ることでしょうが、たとえば過去に自身が手懸けた「真・仮面ライダー 序章」とか、近年田崎監督が手懸けた「Sh15uya 」辺りの出来を視ると、あんまり簡単なものでもないわけですね。その辺、何処かの深夜枠で何かをやらかさないかと期待しているのですが、まだまだ先の話でしょうね。

大分上の世代の日笠淳も未だに現場で番組を作っていますし、去年から相次いで武部直美と宇都宮孝明がメインに昇格していますが、PDのローテーションが組めるくらいに彼らが安定するまではまだまだ白倉PDも前線で番組制作に携わっていくでしょう。理想的に謂えば、もっと下の世代がどんどん育っていって、白倉PDが嘗ての鈴木武幸のようなポジションに行って若手に機会を作り、たまに自ら手懸けてみたい作品で直接陣頭指揮すると謂う形になれば好いのでしょうけれど、さて、どうなりますことやら。

>>余談ですが、『キューティーハニーTHE live』僕も井上脚本の最高傑作と思います。掛け値なしに面白かった!。

主演の原幹恵に全然興味がなかったので、折角第二話に戦隊にもゲスト出演した彩月貴央が出演したのに瞬殺されたとかそんな興味でしか観ていなかったんですが(笑)、設定が出揃ってくると俄然面白くなりましたね。如月博士の半端ない鬼畜ぶりとかパンサークロウの幹部陣の描き方なんか如何にも井上テイストなんですが、やってることはもう完全にセラムンじゃん、と。

シスターミキの水崎綾女は結構好きで、日テレの「1/3娘」のDVDまで買っていたんですが(笑)、本人はもうちょっと普通の娘っ子な感じのキャラですね。これが差詰めレイちゃんのポジションで、シスターユキのほうが亜美ちゃんだと考えると、アニメ版初期の頃の構造じゃないかと。幹部連の緊張を孕んだ対立の雰囲気なんか、実写版四天王の描写に近いと感じます。

2クールと謂う比較的長い尺があったこともあって、三人の少女たちの間の関係性や愛憎の在り方が丁寧に描かれていて、「超脚本」の片鱗もなかったですね。シスターユキのハニーに対する感情のズレ方が、所謂井上ノリの人格豹変とは違って非常に説得力がありました。

普通の意味では、最初はハニーを敬愛していた天然ボケのユキが彼女を陥れたり目的が空中元素固定装置の奪取にシフトしたりするのは不快な人格の変化なんですが、ユキがどんどん追い詰められて狂気に駆られていくプロセスを積み重ねていて、単なる思い附きの衝撃的な展開狙いではない悲劇性を描けていたと思います。

そして、これはこれで「失敗作」の畸型として世に生み出され、夭逝を宿命附けられた異端の子供たちの自滅の物語ではあるのですね。この痛ましい悲劇を「ハニーと一体化する」と謂う虚構で救済するバランスが、井上敏樹個人の本来持つリリシズムなのだろうなと思います。ユキに対する烏川真由美のグロテスクで一方的な愛情も井上メロドラマの典型なんですけど、深夜枠ならではの容赦ないお耽美なエグさで描かれていて、なかなかいい感じでした(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月18日 (水曜日) 午前 08時57分

黒猫亭さま こんばんは。
おっしゃるとおり、高寺シンパです(^∀^)ただしなんだかんだ言いながらも白倉ライダーも日笠ライダーも全て観てきた人間です。(もちろん高寺氏の“功”も“罪”も、おっしゃるとおりだと思います。)つまりは忸怩たる想いは若干ありながらもそれなりに全部楽しんで来たんだと思います。そして、“文芸的な”観点は捨ててみれば、白倉氏のライダーの方がライダーらしいような気もします。(ドラマドラマした部分や陰のある部分など特に。)逆に云えば高寺作品は『そんなに文芸よりなのなら“仮面ライダー”である必要もなかったね』てな感じもします。まあそんなの後付け論で話にもなりませんが。黒猫亭さまのおっしゃるとおり白倉ライダーと高寺ライダーを交互に、くらいのバランスであったらどんなに幸せだったかと思います。東映がそれくらいの振り幅をゆるす会社であったら…と。ちなみに、ファイズをこきおろした舌の根も乾かないうちになんですが、僕が白倉ライダーでいちばん好きなのは劇場版ファイズです。あの残酷さと切なさ、そしてユーモアも並在させながらのエンターテイメントは平成仮面ライダーの映画の頂点と思います。(まああれだけ中間地点の映画で正統派な結論を出すもんだからテレビ版の終盤は異端に向けて迷走するしかなく、ここにも功罪ありといった感じですが(^_^;))井上氏の小説も当時読みました。構成の是非はともかく、やはり劇場版に近い残酷さ、もの悲しさはかなり好きです。

ちなみにキューティーハニー、僕も水崎綾女さん派でした(^∀^)

投稿: SHUZO | 2009年3月18日 (水曜日) 午後 07時48分

>SHUZOさん

>>そして、“文芸的な”観点は捨ててみれば、白倉氏のライダーの方がライダーらしいような気もします。(ドラマドラマした部分や陰のある部分など特に。)逆に云えば高寺作品は『そんなに文芸よりなのなら“仮面ライダー”である必要もなかったね』てな感じもします。

ここが悩ましいところですね。「平成ライダーらしさ」とは何か、と謂えば、それは事実として「白倉ライダーっぽさ」とイコールと謂っても過言ではないし、白倉・高寺以外にライダーを手懸けた日笠PDと武部PDは、多かれ少なかれクウガや響鬼の高寺ライダーではなく白倉ライダー的なムードを踏襲すると謂う方法論を採っていますよね。

そしてそれは、なんでそう謂うことになったのかと謂うと、白倉ライダーがウケていて高寺ライダーがウケていないとかそう謂うことではなくて、結局高寺PDがクウガのプロデュースの実作業で下手を打ったからなんですね。その故に、このクウガは平成ライダーの原点であり特権的な位置附けを担うライダーでありながら、その文芸性の在り方が遂に主流的なラインとは成り得なかったわけです。

オレの個人的な嗜好として、心から「面白い」と思った平成ライダーはクウガしかないんですが、もうクウガは出発点からして制作実態としては破綻していたわけで、かなり初期の頃に鈴木武幸が、また後半から白倉PDが助っ人に入っています。で、巷間謂われているところが事実なら、最終回のキューバロケが上層部の逆鱗に触れて高寺PDは長らく冷や飯を喰わされることになるわけですね。

これは「無駄なロケ(飽くまで費用対効果の問題ですが)をやった」と謂うことだけが問題になったわけではなくて、それまでの積み重ねがあって、すでに制作が仕切り切れておらず各方面に迷惑を掛けたり怒りを買ったりしていたのに、尚かつそう謂うダメ押しをやらかしたから、「大概にせぇよ」と謂うことになったわけですね。

これは、アギトのヒットや映画化を考えれば、別段実現していてもおかしくなかった高寺PDの悲願である「クウガ劇場版」が遂に実現しなかったことを考えても、この時点の高寺PDの実務能力には上層部から疑問符が附いていたのと、一種の懲罰を加えないと示しが附かないほどに舞台裏が問題化していたと視るのが自然でしょう。

また、白倉PDのインタビューを幾つか読むと、ファイズまでの三部作の時点では三本も連投する予定ではなかったようなことを言っていますから、高寺PDを前線で使うわけには行かなくなった穴と謂うのは結構大きかっただろうと思います。

日笠、高寺、白倉に続く世代の塚田英明が一本になるのはファイズが終わった頃のハリケンからですから、初期白倉三部作の頃のSHTは日笠PDと白倉PDしかメインを張れる人材がいなかったわけです。塚田PDのメイン昇格は、寧ろこの人材難を解消し白倉PDの過剰負担を解消する為の一手と視ることが出来るでしょう。

そもそもそれまでは、戦隊を高寺PDが、メタル後期とその後枠のロボットコメディ路線を日笠PDが分担していて、ロボットコメディの後枠でライダーをやると謂うことで人材と枠が交換されたわけですから、ここで高寺PDが抜けてしまうと、必然的に次番手の白倉PDを昇格させるしか手が残っていないと謂うことになってしまうわけです。

で、ご承知でもありましょうが、クウガの後半にサブで入りアギトでメインに返り咲くまで、白倉PDはシャンゼでいろいろなやんちゃをしたツケでテレ朝出向と謂う形の冷や飯を喰わされていたわけで、クウガの高寺懲罰人事に近いことをすでに自分でも経験していたわけですね(笑)。

これはつまり、九〇年代末からアギトの頃までの流れと謂うのは、日笠PDの次の世代が高寺PDしか育っていなかったことがトクサツシーンの大問題だったわけで、その位置附けを担うべき白倉PDがやんちゃな反骨精神を貫いて躓いたのが問題だったわけですが、戦隊の頃から潜在していた高寺PDのプロデュース手法の問題が遂にクウガで顕在化して、もっと洒落にならない形で高寺PDが躓いてしまった。

で、高寺成紀と白倉伸一郎の違いと謂うのは、白倉伸一郎は躓くとそこから教訓を得てやり方を改善しプラスに転じると謂うところで、アギトからのライダーの仕事ではシャンゼの連続上の意識で仕事をしていながらも、要求されるビジネス要件をちゃんと満たしていくことで着実な実績に繋げていったわけですね。これで一転して「白倉は意外と使えるじゃないか」と謂うことになって、東映特撮の屋台骨を担う有望株は白倉PDしかいなくなってしまったわけです。

この時点で、なんで白倉PDの一年後輩なだけの武部直美や、塚田英明より一年先輩の宇都宮孝明を一本に昇格させる案がこんなに遅れたのか、と謂うのは、社内的な問題なので外部からは見えないことなんですが、武部の場合は女性と謂うハンディや白倉PDのサブとして上手く機能していたこと、宇都宮の場合は営業畑出身で実制作の経験が浅いと謂うことが評価に関係しているように思います。

さらに初期三部作のその後を視てみると、塚田PDの昇格に伴って、時系列上ではすでに高寺PDの現場復帰が画策されていたわけで、本来ファイズの直後には響鬼もしくは響鬼の原型となった作品が予定されていたわけですね。それが企画段階でプリプロが遅れて、よんどころなく響鬼の次に予定されていたブレイドが先になったと謂うような話だったかと思うのですが、この辺は詳しく事情を識っているわけではないので突っ込んだ話は出来ません(『響鬼の事情』は買ったきり未読なので)。

そして、面白いのはSHUZO さんが、

>>“仮面ライダー”である必要もなかった

と仰っているように、出発点の響鬼は「仮面ライダー」ではなく「変身忍者嵐」のリメイク企画や「音撃戦士」と謂う形で、高寺PDの意識では非ライダーの新ヒーローとして想定されていたようですね。それがやはり「ライダーの看板は下ろせない」と謂う現実的な事情で「仮面ライダー響鬼」と謂う形に決着するわけです。ビジネス的な観点では、ここまで育てたライダーのシリーズが四年で断絶してしまったんではかなり拙いと謂う判断があったわけです。

この高寺復帰に当たっては、鈴木武幸の口添えがあったと非公式に伝えられていて、高寺視点では悪者扱いされている鈴木武幸ですが(笑)、雨宮慶太、井上敏樹、渡辺勝也、田崎竜太など、鈴木武幸の恩恵を被って世に出る機会を得た人材が現在の東映特撮や特撮映像一般を支えているわけで、塚田PDの昇格に当たっても制作統括と謂う形で後見していますし、高寺の処遇に関しても、個人的な感情は識りませんが、彼の才能を活かせるように努めていたとは思います。

しかし、ブレイドと響鬼が入れ替えになったと謂うのが事実なら、これはメインスポンサーのバンダイからすれば、大変な年次計画の変更を伴うトラブルですから、流石にもう勘弁ならないと謂うことになるでしょう。クウガの時点ですでに玩具展開の都合を無視した番組制作が問題視されバンダイの不興を買っていたそうですから、それこそ「またあいつか」と謂う話でしょう(笑)。

これで口添えをした鈴木武幸の面目は丸潰れになり、カネを出すバンダイが「あいつでは厭だ」と謂うことなら、もう響鬼が始まる前から、何事もなくても高寺ライダーの次はなくなっていたわけですが、実際の制作が始まってもクウガとまったく同じトラブルが繰り返されたのですから、「PDの途中降板」とそれに続く「依願退職」と謂う前代未聞の不名誉な形で処分を加えることでしか示しを附けることが出来なかったのでしょう。おそらく、懲罰云々以前に現実的な意味で高寺PDの体制では制作が続行出来ないほどに追い詰められていたのだと思いますし、何らかの形で高寺PD自身が責任を取る必要があったのだと思いますが。

さらに、高寺PDが手懸けた響鬼前半のムードを愛好する人々でも「文芸面ではイマイチ」と謂う感触を持っていると思うのですが、それは結局、番組を一本手懸ける度に共に働く現場の人々とトラブルを起こす高寺PDの人柄の故に、一緒に組める文芸の人材が「オトモダチ」しかいなくなってしまったからで、それこそ會川昇をはじめ他に幾らでもあの伝奇的な世界観における少年の成長物語を真正面から描ける脚本家はいたはずなんですが、現実的にはあれ以外の選択肢はなくなっていたわけですね。

この辺、ちょっと肯定的に評価出来ないな、と感じるのは、映像文芸制作と謂うそれほど利幅が大きくない業界に携わる人間と謂うのは、実業の世界よりももっと作品本意的な理念にシンパシーがあったり「意気に感じる」と謂う感性の人が多いはずですから、高寺PDの仕事ぶりが如何に横暴だったり大変な現場でも、さらに言えば多少人格面で難があったとしても、納得してさえいれば「また組んでみたい」と考える人が多いはずなんですが、響鬼の時点では誰も彼に附いていこうと考える人がいなかったわけです。

これはつまり、間接的には、共に働く人々にとって納得の行かない形でトラブルを起こすことが多かったのではないか、と謂う心証に繋がるわけで、演出陣を視てもやはり常連の田崎竜太と長石多可男が参加していないと謂うのが異様に感じますよね。高寺PDを高く評価するのは、現場の人間では役者だけ、と謂うのが実情でしょう。

まあそれはそうですよね、役者から視れば高寺PDの拘りどころは演技の入れ込み具合に直結する部分が大きいわけですから。ただ、では白倉プロデュースだと役者が入れ込まないのかと謂えばそんなことはまったくないわけで、それは白倉作品スタッフと役者陣の良好な関係性や作品における演技を視ても明らかです。

おカネを掛けて本物の道具立てを揃えなければ役者が発奮しないのかと謂えばそうではないし、PDがとことんまで脚本に直しを入れなければスタッフの拘りとして見えてこないのかと謂えばまったくそんなことはない。それがマスト要件ではない以上、制作が頓挫するような選択肢を採るのは如何なる意味でも肯定されない個人の我儘や贅沢と謂うにすぎません。

で、そこまでしなければ高寺PDの作品世界は成立しなかったのかと謂えば、客観的に視てそんなことはまったくなかったのだし、そんなことが許されるような職掌や職業形態でもないわけですね。

これはたとえば、カネやスケジュールの余裕がまったくなかったトクサツ草創期の事情や平山亨プロデューサーの仕事なんかを考えると、予算ショートやスケジューリングの破綻、さらに現場スタッフとのトラブルなんてのは、プロデュース業務として基本的な失敗ですから、「作品さえ良ければ」と謂う話でもないんですね。

それこそがダイレクトに作品の出来に関係してくる事柄なのですから、むしろクウガがあれだけの作品として何とか完遂出来たこと自体奇跡に近い。実際には前述の通り鈴木武幸や白倉伸一郎が尻ぬぐいに駆り出されているわけですから、高寺PDが独力でプロデュースを完遂し得た作品とは謂えません。

そして、オレが高寺成紀個人をあんまり良く言わない最大の動機と謂うのは、別段高寺作品の面白さってのは、本物の教会が燃えていたり、本物のキューバの空が映っていたり、本物の団子が映っているから面白いわけではないのだし、とことんまで脚本に直しを入れ高寺成紀一個人の意志が隅々まで反映されていることから来る全体的な統一感の故でもないからなんですね。

そんなことが面白さの本質なのではなく、敢えて謂えば些末な事柄に分不相応な贅沢をしているにすぎないのだし、その為にTV番組として成り立たないほどに制作現場が逼迫するのであれば、そんな番組づくりは間違っているとさえ謂えるでしょう。映像作品と謂うのは、何処まで行っても一個人だけの独占的な作物では在り得ません。それは彼が憧れを持っている劇場映画ですらそうなのです。

しかし、事実として高寺成紀のプロデュース手法はそんな本質的ではない些事に対するトリビアルな拘りや独裁的な意志徹底と密接に関連附けて視られているわけで、逆に言えば高寺的な映像文芸の在り方は、そう謂うつまらない細部に対する拘りや、あらゆる作業分野に直接容喙することによってしか得られないかのように印象附けられてしまったわけです。

これが腹立たしいわけで、高寺成紀個人を離れて、高寺作品が象徴しているような文芸の在り方と、高寺PDのプロデュース手法の拙さや拘りどころのズレっぷりとは本質的な関係がないにも関わらず、この両者に因果関係が存在するかのように語られることが多くなった、それはやっぱり違うだろうと思うんですよ。

これはまたさらに批評的言及の難しさにも関わってくることで、たとえば文芸性の観点で白倉ライダーと高寺ライダーを対置すると謂うのは、こと文芸性の観点ではたしかに噛み合った比較ですし、オレ自身これまでの批評的言及において積極的にその対置の図式を利用してきたわけですけれど、この図式が確立することで、白倉的な文芸の在り方と高寺的な文芸の在り方の関係が、白倉的なプロデュース手法と高寺的なプロデュース手法の関係の問題と区別されずに論じられる弊があるように思います。

つまり、文芸の観点の対置と、プロデュース手法の観点の対置と謂うのは、実は本質的な関係がまったくないにも関わらず、恰も密接な因果関係があるかのように視られやすい対置の構図でもあるわけで、これは批評的言及の戦略性の問題にも関係してくると謂うことなんですね。

高寺成紀に文芸の勘があることと高寺PDのプロデュース手法の現実離れした不細工さと謂うのはまったく無関係だし、白倉伸一郎個人に文芸の勘がないことと白倉PDのプロデュース手法が実践的で洗練されたものであることには何ら因果関係がないわけですが、この両者が剰り区別されずに論じられると、たとえば、高寺的な文芸の在り方を批判する為に高寺的なプロデュース手法を批判する、そしてそれに白倉的なそれを対置させる、と謂う「てにをは」の合わない批評が在り得ると謂うことにもなるわけです。

物凄く当たり前のことを謂うなら、白倉的な洗練されたプロデュース手法に則って高寺的な正統的文芸性を追及する作品づくりが最も理想的なのであって、それはまったく破綻なく両立し得る事柄ですが、そもそもこの二人の間でプロデュース手法と文芸性のそれぞれの欠陥が対置的な構図になっていること自体がミスリーディングだとも謂えるわけですね。

従来高寺・白倉と謂う突出した個性のみが称揚されてきた反動で、昨今は日笠PDの再評価の動きがありますけれど、たしかにそう謂う意味で日笠プロデュースには突出した異様な個性がない半面、プロデュース手腕と文芸性の甚だしい乖離と謂う問題もないのですから、バランスのとれた作品づくりと謂えるでしょう。ただまあ、オレ個人は日笠淳個人の嗜好や拘りどころと謂うのは剰り好きではありませんが(笑)。

長々と語ってきましたが、これはつまりオレの平成ライダーシリーズに対する基本的な批評スタンスの表明でして、白倉作品の文芸性を批判し、白倉PDのプロデュース手法を評価する一方で、高寺作品の文芸性を評価し、高寺PDのプロデュース手法を批判することでしか、このまったく別々の事柄の混同を解きほぐすことは出来ないだろうと謂うことなんですね。

で、好き嫌いと謂うことで謂うなら、作品は文芸性の領域の事柄であり、プロデュース手法は人柄や職業観の領域の事柄ですから、高寺作品は好きだが白倉作品はそんなに好きではないのだし、白倉伸一郎は割合好きだけれど高寺成紀はあまり好きになれないと謂うことになります。

ただ、全体的に視てオレが白倉作品のほうに期待するのは、彼が現場の人々と協業して作品を創っていくと謂う明確で強い意識を持っていることで、組む相手によってはオレ個人の文芸的嗜好にヒットする作品を生み出し得るポテンシャルを持っている、それはたとえばセラムンであったり電王であったりするわけで、この柔軟性は白倉伸一郎個人の文芸の勘のなさを補完し得る大きな強みではあるわけです。

映像作品の素晴らしさと謂うのは、自分に出来ないことを他の才能に任せられると謂う協業の部分だと思うのですが、十分に意志を伝えた上で任せた以上は、作業者の意志や創造性を尊重するのが仁義と謂うものです。その意味で、たとえば自分で脚本も書けないくせに他人の書いた脚本に原型を留めないほど直しを入れる監督者は、映像作品制作の基本的な仁義や、それ以前に「映像作品とはどのようなものなのか」と謂う基本的な認識を弁えない駄々っ子にすぎません。

では何故徹底的にシナリオ作法を勉強して自身で脚本を書こうとしないのか、そう謂う批判は当然在り得るでしょうし、そもそも五〇本も脚本を書きつつプロデューサーとしての業務がこなせるかと謂うのは問う意味すらない愚問でしょう。すべてを一人でこなすことが不可能なのが映像文芸なのだから分業制になっているのであり、分業である以上はそれぞれの作業者の創造性やプロフェッショナリズムを尊重するのが当たり前の道理です。

それを無視する無神経さが、現場の生理において「納得のいかなさ」として他の作業者の離反を招くのでしょう。脚本家はプロデューサーの代書屋ではありませんし、自分で書けない(書く能力がない・書く余裕がない)から他人に任せるのである以上、分際を超えた容喙は如何なる意味でも肯定され得ません。

また、たとえばジョン・ウーは「レッドクリフ」の撮影が様々な困難に見舞われたときに、「私に期待してくれる観客や、私を信じて投資してくれた人々に対する責任が重いプレッシャーとしてのし掛かった。その責任を果たす為に何があろうとも映画を撮り上げねばならないと感じた」と語っています。他人のおカネで、他人を楽しませる為に、他人を使って作品を創造する以上、自分の裁量で作品制作を完遂することこそがプロの映像作家にとっては至上命題です。これはどんな巨匠や名人であろうがそうなのです。

これは作品本意的な立場にある映画監督でさえそうなのですから、まして作品を完成させビジネスとして成立させる立場にあるプロデューサーの立場では、監督に妥協を迫って調整することはあっても、自らの個人的な拘りで制作に支障を来すようなことがあっては決してならないはずです。映画の場合とTV番組の場合では随分と事情が違いますが、それでも「映像作品のプロデュース」と謂うのは、基本的にそう謂う仕事です。

ハッキリ謂って、オレは高寺的なプロデュース手法を絶対的に否定しますし、それは結局度を超えたアマチュアリズムに過ぎないと考えます。ともすれば高寺PDの拘りをクリエイター気質や芸術家的な尖鋭さとして肯定する意見も散見しますが、偉大なる映画人たちの実践を視てみれば、映像文芸と謂うのはクリエイティブな領域において如何なる意味でもアマチュアリズムが肯定され得ない数少ない分野であることがわかると思います。

この辺、実は白倉伸一郎の抱く高寺作品と高寺成紀個人に対する感情のジレンマを共有している部分もあるのかな、と思ったりもしますが(笑)、「失はれた週末」で語ったように、白倉PDの中でも高寺成紀個人の人柄と高寺作品の関係をきちんと整理して考えることが出来なかったことが、アギト以降の作劇観に何らかの影響を与えているのだとすれば、それも高寺PDの負の遺産と言えるのかな、と思います。

>>僕が白倉ライダーでいちばん好きなのは劇場版ファイズです。

実はオレ、平成ライダーの劇場版は龍騎とファイズしか観ていないんです(笑)。ファイズのパラロスは、何か雨宮版ハカイダーみたいだなとか思いました。まあ、あれも白倉PDのプロデュースで井上脚本ですから、ムードが似ているのは仕方がないんですが。後は仮面舞踏会の恥ずかしさに身悶えした記憶が強烈ですねぇ(爆)。

どうもですね、初期三部作の劇場版と謂うのは(G4は観ていないですが)、本来の物語の落とし所をTVシリーズより先にやっちゃうので、劇場版のほうが納得の行く終わり方であるように思います。G4のほうも、筋立てを視ると、これが本来アギトの落とし所だったんじゃないかと謂う気がしますね。

>>ちなみにキューティーハニー、僕も水崎綾女さん派でした(^∀^)

水崎綾女、可愛いですよね、黒木メイサをあんまり怖くなくした感じで(笑)。ちなみに御存知ない方の為に一応確認しておきますが、「水崎綾女」は「みさきあやめ」と読みます。剣持ユキの中の人のほうは、日本人らしい平板な顔立ちなので、変身すると元が誰だかわからなくなるのがちょっとネックでした(笑)。

ボウケンピンクの中の人もそうでしたが、セリフを喋るとドスの利いた低音の声質なんですが、普段の喋りの声は割と甲高くて全然イメージが違いますね。元々はグラドルで売り出した人で、デビュー当時はたしかFカップくらいあったようで巨乳扱いされていたんですが、その後ぽっちゃり体型脱却を狙ってダイエットに励んだらしく、見事に筋肉質な体型になった半面、段々胸がしぼんでしまいグラドルとしてのウリがなくなったようです(笑)。

尼のDVDレビューなんか視ると、ヒップラインがエロいと謂うふうに評価されているみたいですが(笑)、たしかにちょっとエッチな感じですね。本編初登場時のジャージ姿も、なんかお尻のラインがエロいなぁと思って見ていました(笑)。

エロ話ばかりでも何なので(笑)別の話もしますと、前回はこの作品を「井上敏樹版セラムン」と謂うふうに表現しましたが、ムードの似ている実写作品と謂うことで謂えば、荒川稔久脚本の「鋼鉄天使くるみPure」にも似ていますね。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月21日 (土曜日) 午後 12時28分

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