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2009年3月 4日 (水曜日)

語彙はスリル、ショック、サスペンス

…そのギャグ言いたかっただけちゃうんかと>タイトル

本日たまたま「笑っていいとも」を観ていたら、テレホンショッキングのゲストが毬谷友子で、あんまり好きな女優でもないから用事をしながら斜めに観ていた。冒頭の紹介で二三年ぶりの出演だとか言っているから、そう謂えばこの人はオレとあんまり歳が変わらないと謂うことになるのだよな、とか思ったくらいであった。

ところが、話題が今稽古に入っている舞台に及ぶと、果然雲行きが怪しくなってきて目が離せなくなってきた。

調べてみたところ、毬谷友子と謂うのは劇作家と女優の間に生まれた宝塚歌劇団の娘役出身の女優で、宝塚音楽学校を主席で卒業した優等生、四オクターブもの音域に支えられた抜群の歌唱力を誇り、在団中は将来を嘱望される有望株だったが、巡り合わせが悪くて遂に娘役トップにはなれぬまま退団したそうな。年齢的には、記憶通りオレより一歳年長だと謂うから、もうすぐ五〇に手が届く。

戸籍調べはこのくらいにして本題に戻ると、毬谷はこの五月に蜷川幸雄演出の舞台に立つそうで、この手の舞台らしく何だか長たらしいタイトルだったが、打ち込みが面倒だし宣伝する義理もないのでそれは省略する(笑)。この舞台で彼女は持ち前の歌唱力を活かしてプリマドンナの役を演じニナ・ハーゲンの楽曲を歌うらしいのだが、それを自宅で練習していると謂う話題が出ると、

「もうね、今ね、ウチでキチ…

…なんぞと語尾を呑み込んじまったものだから、俄然目が離せなくなった(笑)。この場合、「呑み込んだ」と謂うのは婉曲表現で、小声でゴニョゴニョと胡麻化してはいたのだが「キチガイみたいとハッキリ口にしている。

まあ、朝な夕なにニナ・ハーゲンの楽曲なんか練習させられたらそんな感想を持つのも仕方がないだろうが(笑)、この辺は舞台の人の感覚で、配慮語の類に忌避感があんまりないのかもしれない。オレは殆ど舞台を鑑賞する趣味がないのでよく事情は識らないのだが、舞台演劇だとTVほどその辺の禁忌はやかましくないのではないかと想像する。

ツルッと口の端に上った瞬間にゴニョゴニョと胡麻化しているから、大っぴらに言って好い言葉だと謂う認識でもないのであるが、そうすると日常生活でそんな言葉を自然に頻繁に口にしている癖がついついツルッと出たと謂うことになる。

そうすると、もしかしたらまたツルッと言っちゃうかもしれないと思ったらもう、気になって気になって仕方がない(笑)。そう謂う次第で、好きでも嫌いでもない同年代の女優さんのトークを喰い入るように聞いていたのだが、流石にさっきの今だしそこそこ気を附けるだろうとは思った。

しかし、舞台の話が続くうちに、前の舞台で彼女がオフィーリア役を演じたと謂う話になって、その話題の中で(まあオフィーリアの話なんだからしょうがないんだが)普通に「狂ってしまう」と口にしたのだが、これは常々セーフかアウトか微妙な境界とされていて、時期や局によって判断基準が違うようである。

一時は「時計が狂う」「予定が狂う」と謂うような表現さえも忌避された時期があったと聞くが、今のCXではどうなのだかよくは識らない。これもまあ、明確なマニュアルがあると謂うよりも文脈次第の問題なので、「さっきの今」では少し分が悪いだろう。

タモリもこれはあんまり上手くないと思ったのかどうか、例によって話題を明後日の方向にリードして益体もないペット四方山話に華が咲き、一旦は無事にCMに入ったのだが、CMが明けて「一〇〇人中一人」コーナーに入ると、冒頭でタモリが「大体の歳はわかりますけど、若いですよねぇ」と世辞を言い、彼女が「(皆さんの)お母様くらいの歳ですよ」「黒木瞳さんの一個上です」と言うと、また客席が「見えな〜い」とか応じて例のパターンの気持ち悪いノリになったのだが、タモリが更めて「若いよねぇ」と煽てると、

「キチガイです」

…と「謙遜」した(笑)。タモリが落ち着き払った笑顔で「またそう謂うことを…」と受け流していたので、CM中にそんな話が出ていたんではないかと思うが(CM明けに毬谷が口を押さえていたので、タモリから予め釘を刺されたのだろう)、やっぱり本人は言った途端に「あ、やっちゃった」と謂う顔をしたので、具合が良くない言葉であると謂う認識自体は万々あるわけである。で、まあ一度目は辛くも胡麻化したものの、ここまでハッキリ言ってしまったんでは謝るしかないと謂うことになる。

また、気の毒なことに当日のテレホン当番が一年坊主の加藤綾子で(笑)、コーナーが終わった辺りのタイミングでお詫びコメントを言わされるんだろうと思っていると、オトモダチ紹介までは何事もなかったかのように進行したが、予想通り次のコーナーの冒頭で加藤からお詫びのコメントがあった。

CM明け直後に水曜日のレギュラーのおすぎが加藤に何事かを囁いていたように見えたが、まあこれは、一年坊主が下手な言い方をして「類焼」するのを避ける為のアドバイスでもしていたのだろう。キチンと謝ってサラッと流して次のコーナーを賑やかす呼吸と謂うのはこれで結構難しいから、苦労人のおすぎがお節介を焼いたと謂うところだろう。加藤もまあ、一年目から好い勉強をしたと謂うことでひとつ(笑)。

さて、この手の生の放送事故と言えば、やはり同じ「いいとも」のテレホンショッキングに呼ばれた山下真司が、タモリの制止を無視して「キチガイに刃物」と連呼した事件が有名でこれもオレは直接目撃したが、オレより一回り年長の地方出身者である山下真司がその辺に気遣いがないのは仕方ないとしても、実家の宗旨がローマン・カソリックで東京のアーメン学校で教育を受けたオレと同年代の女性が、ごく自然にそんなことを口にすると謂うのがちょっと意外に感じられた。

これが、如何にも普通にいつも口にしていますと謂わぬばかりの調子だったので意外に感じたわけだが、オレらの世代と謂うのは戦後民主主義教育の歴史上最も言葉狩りに類する事柄をやかましく叩き込まれた世代で、オレなどは日常生活でその種の語彙を口にする際もかなり大きな心理的抵抗を感じる。

これは、倫理的・思想的な感覚と謂うよりは、寧ろ幼児期の躾けに伴う禁忌感に近いもので、そう謂う心理的な抵抗を押してまで口にしなければならない言葉でもないから、仲間内で昔の映像作品の「ピー」ネタを話しているのでもない限りあんまり頻繁に口にする言葉ではない。

そもそも同年代の連中が集まってそう謂う配慮語や差別語の類を大っぴらに口にするのは、親や先生から「やめなさい」と口やかましく禁じられたことを敢えてやってみたいと謂う、たとえば火遊びやお医者さんごっこに近いような無意味な蛮勇と謂うか稚気に類する感覚が強くて、言ってみれば一種の「不良ごっこ」である。

加えて、長じるに連れて段々知恵が附いてくると、配慮語だの放送禁止用語だのの欺瞞性や言葉狩りの難癖に近い横暴さに対して反感が募ってくるから、自身の中に躾けのレベルで根附いている禁忌感それ自体が腹立たしいものとして感じられてくる。そう謂う意味で、たとえば「キチガイ」と謂うような言葉を敢えて口にするのは、それ自体緩い意味での思想的な動機が根底にあって、少なくとも、日常会話の中で極自然に口にするような無自覚は許されていない。

ところが、この毬谷友子の場合は「つい口に出ちゃった」と謂う感じで、しかもそれがTV放送では具合の悪い言葉であると謂う認識もまたあるような感じだったのが不思議なわけで、「キチガイと言って何が悪いの?」と謂う態度でもないのである。

ここで公平を期すなら、別段彼女の言葉の遣い方は日本語として間違っていない。

一回目はともかく、二回目は何だか会話が通じていないように思えるが、これは「キチガイ」と謂う言葉を「精神異常」とイコールで直結すると意味が通じないが、元々の日本語の「気違い」と謂う語義に照らして考えれば別段不整合はない。

この場合の「気」と謂うのは、極漠然と謂う「気」で、「気力」とか「病は気から」とか謂う場合の「気」であって、人間の精神活動や万物の運動の主体となる概念的な実体のことで、アチラ側の人々が屡々漠然とした意味で遣う「波動」に近いようなものであると思って差し支えないだろう。「気が違う」と謂うのは、その「気」のバランスが崩れていると謂うことで、これには当然「精神疾患」も含まれるが、本来もっと広汎な意味性を顕わす。

精神的な疾患があろうがなかろうが、世間で極普通に通用している日常的な振る舞いから逸脱した行為や言動は「気違い」と謂う言葉で表現されたわけである。つまり、単に人間の出来が未熟で常識がないだけの者も、感情が激昂して非常識な行為に及んだだけの者も、精神に疾患がある者も、発達に障害のある者も、全部引っくるめて、世間の常識とズレたことをする者は「気違い」と謂う言葉で蔑まれたわけである。

で、これは別段「気違い」と謂う言葉に差別的なニュアンスがないことにはならないわけで、精神疾患や発達障害等の本人にはどうしようもない事情も一切免責しないで蔑んでいたわけだから、世間の常識とズレたことをする者を一括りに「気違い」と表現する行為にはそれらの社会的弱者に対する差別が必然的に包含されている。謂われなき差別とイコールで直結しているわけではないが、それを包含しているのだから、やはりこの言葉に差別的な意味性があると謂う事実に変わりはない。

なので、正確に言えば、毬谷友子の発言は差別的意味性を指示する表現ではないが、言葉の持つ差別的意味性に対する配慮に欠ける言動だと謂うことになる。

普通に通訳すると、一回目の発言は「感情が取り逆上せて異常な行動に走る」ことを表現しているのだろうし、二回目の発言は「人間の出来が未熟で世間とズレているから年相応に見えない」と謂う程度の意味になるだろう。ただこの用法でも「気違い」と謂う言葉に「精神疾患」を排除するような限定がないから、一回目の発言を普通に精神疾患と読んでも意味が通じるわけであるし、原意図としてもその可能性を別段排除していないわけである。

まあ、こう謂う語彙の感覚と謂うのは、少なくとも公共の場で発言する限りは褒められたものではないわけで、二回ともその対象が自分自身であって己を卑下して謙遜する意味合いで遣われているのだから、その言葉の意味性に前提として蔑視が織り込まれているわけである。この用法は無意識的に精神疾患や発達障害「でもある」気違いを蔑視し痍附ける可能性があるわけだから、ニュアンスを文脈で限定出来る私的な会話の場以外では無闇に遣うべき言葉ではない。

ただ、オレは別段風紀委員のような動機でこの話を採り上げたわけではないし、毬谷友子を糾弾する目的でこう謂うことを言っているわけでもない。前述のような語彙の感覚を共有しているのは、オレや彼女よりも一回り上の世代くらいが最後であって、多分オレたち以降の世代では、そもそも悪趣味なネタと謂う以外には日常会話で自然に「キチガイ」なんて言葉が出て来ないのが普通である。

それが公共の場でうっかり口を衝いて出るほど自然な語彙で、しかもTVで言ってはいけない言葉であると謂う自覚もあると謂うのが、なんだか同世代の人間の言語感覚としてはとても不思議に感じたので、こうして長々と語ってみた次第である。

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コメント

こんばんは。

カーキチとかネコキチといった風に、何かに熱狂的なことを○○キチガイとかは今でも表現すると思うんですけど、私の言語感覚が古いんですかね?

放送禁止用語と言えば「サリーちゃん」が凄かったのをよく覚えていますね。再放送が繰り返される毎に、”ピー”音が増えていったんです。おそらく”きちがい”は勿論、”かたちんば””めくら””びっこ”等が多用されていたんだと思います。

ケーブル放送は治外法権みたいで、映画でも漫画でもそのまま放送されますから、昔の作品は結構凄いこと言ってたりしますね。そう言う意味では手塚治虫や藤子不二雄なんかも例外ではないはずですから、昔の名作と言っても地上波での再放送は無理なわけで、リメイクになるんでしょうね。

投稿: うさぎ林檎 | 2009年3月 4日 (水曜日) 午後 06時16分

「釣りキチ三平」が一頃余り大っぴらでなくなったのは「キチ」の部分が引っかかっていたからだと聞いて、非常に憤った記憶がありますが、今や滝田洋二郎監督・須賀健太主演で実写映画化ですよ。そういえば「カムイ外伝」の公開も今年ですね。

先頃筒井康隆先生が朝日新聞と和解されたそうで、例の騒動の時から言葉狩り的な動きを胡散臭く感じていたことを思うと、自分の中にさほど禁忌感はないようです。だからと言って多用もしませんが。

私は自分の世代くらいまでは緩く、その下あたりから締め付けがきつくなっていたような気がしていたので、その点意外に思いました。

投稿: 604 | 2009年3月 5日 (木曜日) 午前 12時00分

>うさぎ林檎さん

>>カーキチとかネコキチといった風に、何かに熱狂的なことを○○キチガイとかは今でも表現すると思うんですけど、私の言語感覚が古いんですかね?

604 さんもちょっと触れておられますが、「○○キチ」「○○キチガイ」は総じてダメみたいですね。では今何故「釣りキチ三平」が堂々と原タイトルそのままで映画化されているのか、と謂うのは、現時点ではこれだけは例外とされているから、と謂うことのようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%81%E3%82%AC%E3%82%A4#.E6.A6.82.E8.A6.81

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A3%E3%82%8A%E3%82%AD%E3%83%81%E4%B8%89%E5%B9%B3#.E6.A6.82.E8.A6.81

なんで例外とされているのかは大体見当が附きますけど、放送禁止用語なんてのは局サイドから視れば結局はクレーム予防策なんですから、世間の情勢次第で融通は利くと謂うことですね。

>>放送禁止用語と言えば「サリーちゃん」が凄かったのをよく覚えていますね。

>>ケーブル放送は治外法権みたいで、映画でも漫画でもそのまま放送されますから、昔の作品は結構凄いこと言ってたりしますね。

ケーブルや衛星放送は、基本的に有料放送ですので、契約している以上積極的な視聴意志があると謂うことになりますし、地上波放送とは視聴規模や公益性の性格が異なりますから、映画や活字文芸に近い扱いになるんでしょうね。

差別語が問題化する以前に創作された過去の作品については、予めお断りを入れることで、原典を損ねない形で放送する、と謂う対応ですね。これには、お金を払って視聴する商品なのだから、より完全な形で放送しないと逆にクレームを招くとか、著作人格権への配慮もあるんではないかと思います。

地上波放送のように無料で視聴意志の有無に関係なく誰の目や耳にでも入ってくる公共放送は、やはり映像サービスと謂うより公器としての性格が強くなって、自粛の基準が慎重なものになると謂うことのようです。

オレの個人的な立場としては、今日差別語とされる言葉が殊更な悪意もなく普通に用いられていた時代を舞台にとる文芸作品では、その当時の差別意識の在り方を提示する意味でも、新作であっても差別語に配慮せずにそのまま描くのが成熟した社会の在り方だろうと考えています。

昭和初期までの過去の時代性を舞台にする文芸作品で、差別語が完全に排除されていることのほうが、よほど差別意識の観点で問題であろうと思います。特定の言葉を遣わないことと抹殺することはまったく別の事柄ですが、遣わせない為には抹殺するのが最も安直に確実だから言葉狩りがあるわけで、これは目的の為に手段を選ばない選択肢だと思いますね。

言葉自体を抹殺してしまったら、その言葉と共に在った差別の事実性までがなかったことにされかねないですから、「昔は謂われなき差別がありました」と説明するだけで好いわけはないのであって、過去の物語を語るのであれば、その時代の社会に有形無形のかたちで機能していた差別の在り方をきちんと提示する必要があります。

ただ、これはやはり原則論だけで語っても意味はありませんから、地上波放送のような視聴者を限定出来ない広汎なメディアで描ける事柄には限界があるでしょうね。いわんや、気楽なトークを楽しむだけのバラエティ番組で、一定数の視聴者が不快感を感じるような言葉が安直に口にされて好いものでもないでしょう。

>>おそらく”きちがい”は勿論、”かたちんば””めくら””びっこ”等が多用されていたんだと思います。

そう謂えば、言葉狩り最盛期の九〇年頃に描かれたひかわきょうこのマンガ「女の子は余裕!」の劇中のセリフで、足を挫いた女の子が「平気よ、びっこひいて帰れるから」と謂うようなのがあった記憶がありますが、ひかわきょうこはオレよりもう少し上の世代になるとは謂え、こう謂う慣用的な言い回しなら、当時の若い人の間でも普通に遣われていたような気がします。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月 6日 (金曜日) 午後 10時23分

>604さん

「釣りキチ三平」についてはうさぎ林檎さんへのレスで触れましたが、一応調べてみたら、放送禁止用語が過剰にやかましくなったのは八〇年代後半から九〇年代初頭にかけての時期だそうです。

おそらく「釣りキチ三平」もこの時期に迫害を受けたんではないかと思いますが、そもそも「○○キチガイ」と謂うのは、「常軌を逸した異常な傾倒」を意味する用法ですから、元々は謂われなき差別とは殆ど関係のない言葉ではあるでしょうね。本文で語ったような言葉の広汎な語義のうちの、何ら障害のない人が行う異常な行動をとることを戒める用法で、差別性とは無縁の部分に属する用法だと思います。

ただ、「キチガイ」と謂う言葉が如何なる場合でも地上波放送で忌避されているのはポリティカル・コレクトネスの観点からでもありますから、「釣りキチ」と略した形ならまだしも、「釣りキチガイ」と謂うような言い方はこの先も容認されないでしょう。

その一方、「釣りキチ三平」の場合は、上記の通り差別的な意図が存在しないこと、差別語の問題が議論される以前に連載開始された作品であること、差別語の議論が盛んになった時期にはすでに連載を終了していて単行本を購入する以外に読むことが出来なくなっていたと謂うこと、そう謂う事情を考え併せればほぼ問題はなかったと思います。

ただ、何故か「釣りキチ」は好くて「カーキチ」「トラキチ」は宜しくないようで、いずれにせよ、「○○キチ」と謂うような言い回しは、TVではなるべく使用を避けることになっているようです。

>>私は自分の世代くらいまでは緩く、その下あたりから締め付けがきつくなっていたような気がしていたので、その点意外に思いました。

これは、上で挙げたような言葉狩りの時期を考えれば、そうかもしれませんね。オレもすでに幼年期の記憶が朧ろになっていますから、記憶違いもあるのかもしれませんが、学校の指導と謂うことで考えると、高校まで六・三・三の一二年の中で前半の頃はそうそう不適切な言葉の使用についてやかましくなかったけれど、後半になってからやかましく使用を避けるよう指導されたような記憶があります。

ですから、「煩瑣く差別語について指導された」と謂う印象を覚えるのは、小さい頃まではそう謂う言葉が普通に通用していて、少し知恵が附いてきた頃になって「そう謂うのはダメだ」「人間として恥ずべき言動だ」と謂う「気附き」を促す風潮に傾いてきたことからの印象かもしれません。

つまり、ついこの間まで自分たちが普通に遣っていた言葉を「そう謂う言葉は遣ってはいけない」と指導されたと謂うことになるので、学校教育を終えた後に差別語が問題になった世代とか、言葉を覚え始める段階ですでに「そう謂う言葉を遣ってはいけませんよ」と指導されることになっていた世代よりも、当事者性の強い問題として記憶していると謂うことなんだろうと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2009年3月 6日 (金曜日) 午後 10時24分

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