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2009年4月18日 (土曜日)

算盤じかけのオレンジ

最近、東西の落語を聴きまくっていると謂う話は以前にしたが、語りの芸能の代表格としてやはり若い頃から押さえておくべき素養だったなぁと今更思う。最もミニマムな芸能と謂うことで、日本の文芸の根っこに落語の語りがあるわけだが、実際に噺を聴いてみると、結構落語と謂うのは特異な物語構造を持っていると思う。

これは「サゲ」乃至「オチ」が存在すると謂うことで、それだけならショートショートや短編小説と変わらないのだが、それらの物語文芸と決定的に違うのは、「オチには語りを終了させる特権的な決定力がある」と謂うことである。

ショートショートや短編などでは、この関係性は逆である。物語の終わりにオチが附くのであって、オチが附くから物語が終わるわけではない。しかし、落語の場合はオチが附くから終わるのであってその逆ではない。

優れたショートショートのオチと謂うのは、それだけで作品の根幹を成すアイディアであって、通常はこのオチの鮮やかさを際立たせる方向で作品全体の語りが組み立てられていて、謂わば作品の大半はオチを成立させる為のプロセスである。しかし、落語の場合は実はオチはそれほど重要ではない。

落語においては、優れたオチに向かって緻密に計算された噺と謂うのはそれほど多くはなく、そもそも短い演目でも二十数分掛かる口演の間、オチへの期待だけで観客の関心を保たせられるものではない。落語の面白さは語りそれ自体であって、くすぐりやギャグや仕方噺のおかしさ、ストーリー展開のズレたロジックの滑稽味の総体として一本の噺があるのであって、オチは単に語りを終わらせる記号であると視るのが妥当だろう。

ただし、これは単なる合図と謂う以上のもので、落語の観点において優れたオチと謂うのは、それまでの語りの伏線がピタッと収斂すると謂う性格のものではないが、間と呼吸でバシッと語りが終わった実感を伴うものである。だから、そもそもあまり伏線と謂うのは重視されないし、噺全体の性格やテーマ性とも殆ど関係ない。オチは目的的に追及されるものではなく、小気味良く噺を終わらせる力を持っていることが重要ではないかと思う。

地口オチ(「にわかオチ」とも呼ぶが、これは「にわか芝居」に駄洒落のオチが附くことに因んだもので、今の人には「唐突に落とす」と謂うようなニュアンスの誤解を招くだろうからこちらで統一する)と謂うのはその最たるもので、大概つまんない駄洒落を言って「お後がよろしいようで」となるので、左程おかしいものではない。しかし、古典落語で割合的に多いのはこの地口オチで、「おおかぁ喰わねぇ」「たった一膳」の類の駄洒落で語りが終わってしまう。

これは必ずしも噺の善し悪しとは関係がなく、オチが言葉遊びだからと謂って噺が面白くないと謂うことにはならないようである。俗に「サゲが良くない」と謂うのは、オチに噺を終わらせるだけの力が具わっていないと謂うことで、笑えないと謂う意味ではないと思う。落語の音盤やビデオなどを鑑賞して観客の反応を視ると、オチで大爆笑するような終わり方をするような話芸ではないことがわかるだろう。

落語のオチと謂うのは、観客に「噺が終わった」と謂う強力な印象を与え、「面白い噺を聴いた」と謂う実感がワッと湧いて来て、話手の芸の見事さに対して自然に手を拍ってしまうようなカタルシスを与えるものなのではないかと思う。であるから、基本的に落語のオチは単なる地口オチで構わないし、爆笑するほどおかしい駄洒落である必要はない。問題になるのは、噺をスッキリ終わらせる力である。

一方、このように「オチが存在する」と謂う事情の故に落語が特異な物語構造を具えると謂うのは、普通の意味での物語の首尾結構よりも、オチが附くことで快く噺が終わることのほうが優先されると謂う部分であると思う。

有名な噺で謂えば、「崇徳院」と謂う噺は、ストーリーがスラップスティックの混乱の直中に踏み込んだ末、「瀬を早み」の名歌の「われても末にあはむとぞ思ふ」と謂う下の句に引っ掛けた地口オチで唐突に終わるわけだが、このオチで終わることで、本筋の若旦那の恋煩いや熊五郎の儲け話と謂う部分については、結末がどうなったのか明確には語られない。

これは「ハッピーエンドを観客の想像に任せた」と謂うような解釈が王道だろうと思うのだが、厳密に謂うとそうではないと考える。若旦那の恋煩いがどうだとか熊五郎の儲け話がどうだとか謂うのは、途中の滑稽なプロセスを成立させる為のきっかけや口実に過ぎないわけで、若旦那といとはんの恋がどうなったとか、熊五郎が無事褒美を貰えたかどうかなんてのは、極限すればどうだって好いのである。

普通の物語文芸ではそんなわけには行かないだろう。若旦那や熊五郎の事情で受け手の関心を引っ張ったのなら、最終的にそれがどうなったかを受け手に報告するのが最低限の語りの作法である。

ところが「崇徳院」の噺では、「瀬を早み」の名歌に託された幼く淡い恋情と謂うようなしみじみした発端から、親旦那の痴愚心の故に熊五郎が無理無体に相手探しに奔走させられる滑稽譚が始まり、雲を掴むような手掛かりを頼りに八百八橋の隅々まで尋ね人を探し回った熊五郎が、単なる偶然から求める相手の素性を識るに至る、その刹那にスラップスティックの混乱が始まって、それが最高潮に高まった瞬間にスッパリと駄洒落で噺が終わるわけである。

ここで噺がスパッと終わることで、この噺の虚構性が際立つと謂うのがオレの感じ方である。ストーリーとは笑いの方便にすぎないのであって、見知らぬいとはんに焦がれ死にしそうな若旦那も、可愛い倅にベタ甘な旦那も、アメとムチで大阪中を東奔西走させられる熊五郎も、そのかみさんも床屋の大将も棟梁も、最終的には存在しないのだ。そんな人々は最初から存在しない、聴き手を笑わせる為の作り事なのである。

オチが附くことで「物語が最終的にどうなったか」を語り終えなくても終わることが出来る物語が落語なのだと思う。ただ、お間違えのないように註釈しておくと、これは落語が必ずそう謂う物語構造を具えていると謂う意味ではない。当然、こう謂う定義が先にあってその規則性の埒内で噺が作られたわけではないと謂うことで、結果的に落語が具えた物語構造の自由度を指摘しているだけのことである。

落とし噺の類でもキチンと首尾結構の整った物語はあるし、人情話や縁起譚なども一通りの顛末を語り終えたタイミングでキリを附ける為にオチを附けるものが多いようである。また初代三遊亭圓朝の大長編噺などは、朗読劇や講談と構造的には似たようなもので、普通の意味での落とし噺とはまったく趣が違う。

落語と謂うのは、単に一人の話者が聴衆を楽しませる話芸と謂うだけで、歴史物を註釈附きで読み聞かせる講談・講釈とは違うもの、と謂うくらいの括りのようである。少し調べてみたら、落語家と講談師では単純比較で講談師のほうが偉いと伝統的に見做されているものだと謂うことである(笑)。そう謂う事情を踏まえたうえで、たとえば「くっしゃみ講釈」の講談師の扱いを視ると、講談師に対する噺家の感情が覗えて面白い。

これはまあ、江戸・明治期くらいの事情を考えると、講釈語りなどを生業にしたのは主に厳めしい八の字髭を蓄えた武家の出身者だっただろうから、その頃の身分感覚が芸格に引き写されていると謂うことなのだろうが、これはまあ脇筋である。

オチが噺のキリと謂う以上に重視されている噺も当然ある。面白いものだとオチそのものが演題になっている噺と謂うのがあって、有名な噺では「百年目」や「死ぬなら今」と謂う噺は演題がオチそのものである。オチの性格はまったく違っていて、前者は地口オチだが後者はショートショートのオチに近く、噺の展開の結末がオチに結び附く形のもので、ロジック乃至レトリックの意外さがオチの味わいになっている。

では、前者のオチは単なる駄洒落以上の意味はないのかと謂えばそうではない。このオチの優れている点は、たしかにタイトルから容易に予測が可能な凡庸な駄洒落の言葉遊びではあるのだが、一種の人情噺のエピローグとして、その物語的な効果が非常に秀逸な部分にある。

小気味好いタイミングで駄洒落がピタリと決まるから噺が終わるわけではなく、芸者や幇間丸飲みの豪遊を親旦那に目撃された番頭のドタバタ劇と謂う滑稽味で散々笑わせておいて、終盤の親旦那の思い遣りでホロリとさせ、そこにこの地口オチが来ることで、決定的瞬間を目撃された番頭の心情が剰りに活き活きと聴衆の共感を呼び、噺全体の情動がスパッと収斂する。その鮮やかな劇的効果が優れているわけである。

この噺はhietaro さんのお奨めで聴いたのだが、やはり十八番と謂われるだけあって桂米朝の口演はこれ以上のものはなかろうと思われる。おそらく番頭くらいまでは中年の噺家にも演じられるだろうが、親旦那の人物像は米朝くらい貫禄と品のある噺家にしか演じられまいと思われる。旦那の説教の内容をよく聞くと、結構イケズに番頭を嬲っている部分があるわけで、そこには大店の商人としての人事の計算と謂うものがしっかりあるわけだが、これは一歩間違えると厭味な噺になる。

演者自身の品格や貫禄があるから、虚構的な大商人の風格と謂うものが表現出来るのであって、これは関東落語の虚構的な江戸っ子気質、たとえば「三井の大黒」の棟梁のような切っ離れが好くて爽やかな江戸的エトスに対置される大阪的エトスだろう。

たとえばこれを、舞台を江戸・東京に移して六代目三遊亭圓生辺りが演じるとかなり厭味な噺になるような気がする。以前そんな話もしたが、圓生の話芸はたしかに巧みなのだが、賢しらな人物を演じると本当に厭味に感じる嫌いがある。

とまれ、オチの話題に戻るなら、たとえば米朝が創作した「一文笛」と謂うのはそんなに優れた噺とは感じないのだが、短編小説的なアプローチのよく出来た話ではあって、オチも一種の考えオチである。いや、オチ自体の滑稽味は聴いた瞬間にわかるのだが、そのオチには小説的なテーマ性がある。

そしてこの噺も、よく練り込まれたストーリーラインがオチによってスパッと断絶して本筋のほうがどうなったのか結末は語られない。ストーリーの虚構性は際立つのだが、聴衆の胸裡に残るのは人間心理に対する或る種の感慨のようなもので、それは業のようなものだと謂っても好いだろう。

これは池波正太郎の鬼平犯科帳にも似たような話があって、一度は見逃してもらえたものの累犯に及べば今度こそ重い仕置きを受ける立場の掏摸師が、職業犯罪者の業の故に再び人様の懐に手を伸ばしてしまい、鬼平の目に停まって進退窮まるが、その女房が亭主の指を切り落として侘びを入れることで話が納まると謂うようなストーリーである。この両者の間に影響関係があるとはちょっと思えないが、一文笛のオチが聴衆の胸裡に残す感慨はこの作品に通じるものがあるだろう。

オレがこの噺を剰り優れていると思わないのは、まずそこである。この噺の興趣と謂うのは、落語的と謂うより短編小説的である。プロットとテーマ性があって、ストーリー性の部分で聴衆の関心を引っ張っている。それはそれで物語構造と謂う意味では良く出来ているのだが、何度も聞きたいと思わせる噺ではない。それにはまた、この噺の興趣が話者の芸によって成立しているわけではないと謂う部分にもあるだろう。

つまり、この噺はプロットとストーリー性とテーマ性と謂う概念的な部分に主要な興趣があって、それは一回聴くと十分だと謂うことである。話者の芸や風格が滲み出るような聴かせ所がなく、また上方落語らしい大阪人のエトスも表現されていない。寧ろ舞台を江戸に移して江戸弁で演じさせたほうがしっくり来るような噺である。それは逆に言えば長所でもあるだろうし、関東の才能ある二つ目が演じてもそれなりに様になるように思えるのは、アイディアや骨格がしっかりしているからだろう。

ただ、上方落語復興の立役者である米朝が何十年も構想していながらこう謂う一種落語的でも上方的でもない噺を創作したと謂うのが、ちょっと何だか物足りない。創作落語にしては時代の選別を経てきた古典落語にも負けないよく出来た噺だから芸術祭で奨励賞を受賞するには相応しいと思うが。

この種のテーマ性のあるオチと謂うことでは、個人的に最も感じるところのある噺と謂うのは、誰でも識っている「千両みかん」である。これも米朝の口演で聴いたのだが、iTunesにストックしタイトル順にソートすると「崇徳院」の次に「千両みかん」が来るのだが(笑)、この両者は構造的に非常に似通った噺である。

単に若旦那が恋い焦がれるのが見知らぬ美貌のお嬢さんではなく、「ふっくらとしたええ艶の」紀州みかんだと謂うだけの違いである(笑)。リンク先のウィキで関東版と上方版の違いを見比べて戴けばわかるが、一言で謂って関東版ではこのオチを一種の滑稽な非合理と捉えているが、上方版では奇矯な合理性と捉えている。

オレも米朝版を実際に聴いてみるまでは、この噺のオチはナンセンスな非合理だと考えていたのだが、上方のほうの原話では必ずしもそうではないと思うようになった。普通に考えるなら、このみかんに千両の値打ちがあるのは、夏場にみかんを喰いたいと思い焦がれて死にそうな若旦那が存在するからである。

旦那もまたそんな倅の命の為なら千金を積んでも惜しくないと思うからこそ千両の大枚をはたいて一個のみかんを買ったわけである。別段みかんが喰いたくて死ぬような思いをしているわけではない番頭にとっては、そんなものに千両の価値はない。だから、思い詰めて三房のみかんを持って逃げた番頭は滑稽な莫迦者である。

関東版では、そもそも夏場にみかんがあることは珍しいには珍しいが、そんなものに値打ちはないと謂う前提があるように思う。みかんが獲れない時期にはみかんなんか喰いたがるべきではない。そんなものを喰いたがるのは金持ちの道楽であって、そんな酔狂な金持ちの道楽者の為にストックしておいたみかんだから千両の値を附けているのだと謂う理屈になっているわけである。つまり、千両で買う酔狂な奴がいるから千両の値を附けていると謂う単純な理屈である。

しかし、上方版の噺を聴くとそうではない。夏場のみかんそのものに値打ちがあるわけではなく、夏場にみかんがあることのほうに値打ちがあるのである。天満の赤物市場のみかん専門店と謂うブランドの信頼があり、そこには夏でもみかんがある、この事実に値打ちがあるのであって、謂わば「暖簾に入れる」と謂うのはブランドに対する投資である。みかんそのものに値打ちがあるわけではないのだから、一旦は只で差し上げようと謂う話になるわけである。

問屋のほうでも、時期外れにみかんを喰いたがるのは無意味な贅沢だと謂う認識があるわけであり、ただの酔狂なら一個だろうが千箱だろうが元手が掛かっているのだから千両で売る、つまり原価計算をして適価で商うと言っているのだから、みかん一個が千両になったのは、この年が十数年ぶりの記録的な猛暑で千箱の内の一個しか無事に残らなかったからである。

それ故に、大阪中を探しても唯一個しか存在しないみかんを、どうしても今喰いたいと謂う「贅沢」には、千両のカネが掛かると謂う話になる。これが仮に千個残っていたのだとすれば、一個一両だから常識的な散財であるが、「たまたま」千箱の内の一個しか残らなかったのだから一個千両になったと謂うだけの話である。これは、問屋サイドの商売とすれば、常識的に考えて売れるはずがないので「今年もブランドに投資した」と謂うことになる。

しかし、どうしても今このときに唯一個のみかんが必要だ、それがなければ人の命に関わる、そう謂う状況なのであれば、それはそもそも商売の論理で量るべき事柄ではないのであるから只で結構だ、しかし、押して代金を支払うと謂うのであれば適正価格は千両になる、払ってもらいましょう、こう謂う論理である。

物凄く筋が通っているではないか。

つまり、常識的に考えて一個千両のみかんは売れないし、売れないのだから商売にはならない。商売にはならないのだから善意で譲る分には構わない。そもそも一個しか残らなかった時点で今夏の問屋の商売は成立しなかったのだから、それは厚意で人に譲ってもそもそも損をしたことにすらならない。

また逆に千個残っていたとすれば、一個一両で常識的な贅沢なのだから代金を貰っても構わないし、人の命に対する善意から一個無償で譲ったとしても千両の内の一両なのだから、やっぱり損をしたとまでは言えないことになる。残りの九九九両分のみかんが一個も売れなかったとしても、それが商売と謂うものである。

但し、売るとなると、一個一両になるか千両になるかは偶然に左右されるのだし、それでも買うと謂うのであればそのときの状況に応じた適正価格を頂戴する、そう謂う話になるわけである。

上方版の巧みなところは、こう謂うロジックが一本通っていて、只で暮れると謂うものを大店の番頭ともあろうが「はい、そうですか」と恵んで貰うわけにはいかないと謂う段取りを儲け、たって意地を張ったが故にどうしても千両で買わざるを得なくなる部分である。それを旦那が「見附けて来いと言うて見附かったんやないか、それならそれでええやないかい」とポンと千両箱を担ぎ出す、そこにも同じロジックが通っている。

日頃どんなに始末屋な旦那かは語られていないが、仮にも大家と呼ばれる大店に千両万両の貯えがないはずがない。掛け替えのない総領息子の命を救うのに千両のカネを渋ったと謂うことになれば、こちらも暖簾に瑕が附くわけで、一個のみかんに千両の値が附く論理に納得するなら、何の問題もなく取引が成立するわけである。

たしかに番頭が強情を張ったばかりに、只で貰えたみかんが一個千両にまで暴騰したわけであるが、赤物市場に唯一軒みかんしか扱わないと謂う専門店と、大家と呼ばれる大店の、これは互いのブランド力の問題である。大阪中に現在只今一個のみかんが存在するに当たっては、問屋が千両儲からねば引き合わない投資をしているのに、それを息子の命の為なら千両でも万両でも払える財力を持った大店の主人が、温情尽くで只で貰い受けるわけにはいかない。

これも一種の商倫理と謂うものだろう。

演題に「千両」と謳っている通り、これは江戸時代の話である。以前技術開発者さんと仰る方が語っておられたことだが、鎖国政策下の江戸時代においては、富は淀みなく循環し続けていなければ国内経済は成立しなかったわけで、「金は天下の回り物」と謂う諺言は今とは少し意味が違っていた。しわん坊の金持ちが、遣うべきときには惜しみなく散財したと謂う伝説が多く伝えられているように、閉鎖系の中で活発に富が循環していなければ経済活動は成立しなかった時代である。

たとえば豪商が遊所で豪快な散財をしたと謂う伝説も、これは無駄な蕩尽ではない。そこでバラ播かれたカネは消費の振興に反映し、経済の循環が活性化する、そう謂うふうにして江戸時代の経済は廻っていたわけである。最も卑しまれたのは膨大な富を死蔵することや天下通用の貨幣を潰したりすることで、絶え間なく循環する経済の運動性を阻害するような行動は誰にとっても死活問題だったわけである。

そう謂う意味で、息子の命がみかん一個で救えるなら、それが千両だろうが万両だろうが払うのが当然だと謂う主人の判断には一種の経済合理性がある。対するに、問屋の損益を踏まえていながらそれを只で譲り受けることには、莫大な富を貯えた大家の主人と謂う立場において如何なる合理性も存在しない。こちらにその対価に引き合うニーズがある以上、問屋の投資が妥当に報われることは、商人の世界では絶対正義である。

一方、この物語の狂言廻しである番頭の立場ではどうか。

この噺のよく出来ているところは、この番頭の扱いがオチから逆算して非常によく考えられている部分である。総領息子はいずれこの大店の莫大な身上を継承する身分であるが、番頭は主人一家にとって赤の他人の使用人であり、いずれ別家の資金を出して貰うくらいが関の山であって、主人のような豪商に成り上がる見込みもない。

さらに、崇徳院の噺でこの噺の番頭同様に息子可愛さで目が眩んだ旦那から半ば脅迫されて奔走する立場の熊五郎は、三百円と謂う大金と倉附きの家作と謂う餌と同時に数円の借金をムチとして加えられているわけで、成功すれば莫大な報酬が得られるが失敗すればちょっと苦しい立場に立たされるわけで、謂わばアメとムチが相半ばしている。

ところが、この噺の番頭は使用人であるから、成功しても当たり前でそれどころか失敗すれば主殺しの罪科で磔獄門と脅されている。よしんばみかんが得られなくても真逆磔獄門になるわけはないが(笑)、噺の中では番頭がそれを真に受けて身も縮む思いをしていることになっている。つまり、一方的に脅迫されて成功を迫られているわけで、崇徳院の熊五郎に比べるとよほど気の毒な立場である。

親が子を溺愛するあまりの痴愚心に囚われるのは当然で、他人の番頭よりも実の息子の命が可愛いのも当たり前の人情だが、この噺では番頭が理不尽に気の毒な立場に置かれていて、ほぼ無理筋の尋ねものであるにも関わらず、成功しても報酬が得られないどころか、失敗したら命をとられると脅されているわけである。これは、聴衆の心理としても、長年実直に勤め上げた奉公人に対する仕打ちとしてはちょっと苛酷ではないかと謂うふうに同情を喚起するようになっている。

散々に気を揉まされた番頭が漸くみかんを尋ね当てた途端、その一個のみかんは番頭が真っ黒になって死ぬまで働いても到底拝めるはずがない千両と謂う途方もない金額を巡る取引になるわけで、これは番頭視点では「みかんを得ることは無理だった」と謂うのと同じ意味である。

ところが、それを旦那に報告すると、事もなげに諒解して千両もの大金が右から左に動くことになり、番頭は目を回してしまう。この瞬間、番頭の具体的想像力と直結した価値観は崩壊したのだと謂うべきだろう。この番頭は、まあ商人として出来の良いほうではないがそれなりに主家に誠実に尽くしてきたわけで、その長年の奉公の報酬として別家の資金が数十両出るだろうと謂う算盤を弾いていたわけである。

その一方で、我儘放題に育ってきた若旦那が、夏の真っ盛りにみかんが喰いたいと謂う馬鹿げた料簡を起こしたばかりに命を損ないかねない仕儀に至ると謂う、世にも馬鹿馬鹿しい騒動の側杖を喰って散々奔走させられた挙げ句、ベタ甘の親旦那がそのくだらない望みの為に千金ものカネを惜しげもなく払おうと謂うのである。

つまり、番頭の数十年の奉公よりも肉親の情のほうが数十倍の価値がある、これを具体的な金額で見せ附けられてしまったわけである。何十年かの番頭の忠誠の人生の対価が多寡が数十両であるのに比べ、若旦那のほんの一時のつまらない料簡違いには千両の値段が附くわけである。

若旦那もまた甘やかされスポイルされて育ったとは言え悪人ではない、優しい性分の善人で、こんなくだらないことで思い煩って死んでしまう弱い命なら、いっそ死んだほうが親孝行だとまで思い詰めている。多分、商人としての性根で謂えば番頭よりも幾らもマシではないだろう。それでも親旦那は親なればこそ、そんな弱い性根の一人息子が生き延びられるなら千金のカネを支払っても惜しくないと感じている。

このギャップは、旦那の番頭に対する苛酷な振る舞いの故に強調され、聴衆にも実感を持って感じられているわけだが、その一方では誰が悪いわけでもないと謂うロジックもきっちり語られているのである。人生とはそう謂うものだ。そう謂うものでしかない。

これでもう、番頭は何が何だかわからなくなってしまう。

みかんを三房持って逃げた番頭はたしかに錯乱していたわけだが、それは非合理な判断を下したからではない。若旦那が残した三房のみかんには、番頭の人生よりも値打ちがあるのであり、それは三百両と謂う具体的な金額として見積もられている。それを合理的な判断として卒然と理解したから番頭は錯乱したのであって、錯乱して何かを見誤ったわけではない。

さらに周到だなぁと感心するのは、若旦那が十房のみかんを七房食べ、残りの三房を父と母と番頭が一房ずつ食べておくれと言って番頭に渡したことである。つまり、番頭が持ち逃げした三百両のみかんの内、百両分は番頭に正当な所有権があるのだし、親旦那にしてみれば、千両のカネで買ったのは息子の命でありブランドの価値なのであって十房のみかんではないのだから、二房のみかんを持ち逃げしたからと言って番頭を責めるつもりなどあるはずがない、と謂うか、結果的に番頭が何故逃げたのか理解出来ない

差引勘定として残るのは番頭が理由もなく逃げたと謂う事実だけであるが、番頭が持ち逃げした三房のみかんには間違いなく番頭の人生よりも値打ちがあるのである。

これはみかんだからわかりにくくなっているが、たとえば番頭が三百両のカネを持って遊所に立ち寄り、好きでもない酒を呑んで好きでもない料理を喰って好きでもない太夫を抱いて豪遊したと考えれば納得が行くだろう。本人がそれを好むかどうかと、社会的な価値と謂うのは、実はリニアルに繋がっているとは限らない。嬉しがろうが嫌々だろうが、同じだけ呑んで喰って抱けば、南地の豪遊にはまったく同じ数百両のカネが掛かるのである。

番頭は夏の盛りに死ぬほどみかんが食べたかったわけではないから、番頭自身にとって三房のみかんには三百両を支払うだけの意味はない。しかし、猛暑の最中に大阪中に唯一個しか存在しないみかんの内の三房には、間違いなく三百両の貨幣価値に換算可能な実体的な価値が潜在するのである。誰も必要としなくても、そこには三百両に相当する社会的な価値が込められている。

そして、社会的価値と謂うものが消費することでしか実感出来ないものであるなら、番頭にとって、無事に年季を勤め上げて別家資金として数十両受け取るよりも、三百両のみかんを持ち逃げして喰いたくもない三房のみかんを一人で喰ってしまうことのほうが遙かに価値があるのである。

ただ、主人一家にしてみれば、どうして番頭がいなくなったのかがまったく理解出来ないだろうし、もっと謂えば番頭には主家を逃散する現実的な理由がまったくなかったのである。

これはナンセンスではない。

意味はちゃんと存在するのであって、それは個人の欲望と社会的な価値が断絶していると謂うことであり、その断絶せる欲望と価値が錯綜する世界の中で錯乱せざるを得ない人間の姿は、泣けてくるくらい滑稽だと謂うことである。

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コメント

なるほど、いい話を聞いたという感じです。(^O^)

そこまで読んでなかったなあ、というところもあって、また新鮮に噺が聞けそうです。>千両みかん

千両みかんは立川志の輔の口演がいいですね(ということは談志もなのかな?聞いたことないんですが)。みかん問屋が倉のみかんを選別している描写が、他の演者にはないくらい力の入ったもので、「たくさんの中から探しました」感が出ています。

私はどうもそういう細かい部分に魅力を感じるようで、先来話に出した「らくだ」の中の、「はんぺんやごぼう、れんこん、にんじんなんかを甘辛く炊いてな……」みたいな部分のセリフが非常にうまい人(作り方を指示しているだけなのに、凄くうまそう(^O^)。あー誰だったか)とかの噺に魅力を感じてしまいます。


さてさてところで。

>若旦那といとはんの恋がどうなったとか、熊五郎が無事褒美を貰えたかどうかなんてのは、極限すればどうだって好いのである。

>ストーリーとは笑いの方便にすぎない

というのは本質を突いているのだろうなあと思います。なるほどです。
もちろん「愛宕山」とか、普通に噺が完結するものもありますが、多くは「投げっぱなし」ですもんねえ。

ただ、ふと考えてみると、人情話だとか怪談だとかいうとどうなるんでしょうね。

「芝浜」とかの人情話を思い浮かべると、やっぱりこっちは噺の本質はストーリーそのもののような気もしますし。
(芝浜は圓朝が即興で作った3題話だそうで、ほんと偉大ですねえ)

ふと、どうんなんだろうと疑問を感じた次第で。

投稿: hietaro | 2009年4月19日 (日曜日) 午前 04時31分

小学校の図書館によくあったのが、ポプラ社の小学生向け入門書シリーズ(みたいなやつ)で。ぼくは小学校を都合3つ通っていて、その全部の図書室にあったので、だいぶポピュラーだったんだろうな、とか思うんですが。

で、このシリーズは筒井康隆の「SF入門」なんかも含んでいたんですが、そのなかの1冊に米朝師匠の「落語と私」ってのがあったんですね(いまamazonで見たら、文春で文庫になってるみたい)。いや、お読みかもしれないんですが。

この本を読んだときにこどもながら心に残った一節として「サゲと云うのは破壊行為である」と言うのがあったんですよ(30数年前に読んだものを記憶で書いているので正確な引用ではないですけど)。曰く、噺家がその技巧で聴衆の前に現出させ、その場に共有されるかたちで存在する物語空間を破壊して、現実の位相に戻すもの、みたいな位置づけだ、と。
これ、まさにお書きのことに符合する見解だと思います。

そのときは読んだだけで「へぇ、そう云うものか」とか思って、それからいくらか実際の落語に触れる、と云う妙な手順を辿った小学生だったわけですが。

投稿: pooh | 2009年4月19日 (日曜日) 午前 08時48分

>hietaroさん

どうもです。お待ちしておりました、落語の話題だとあまり直近で聴いた記憶のある方がおられないので、附き合って戴けそうなのがhietaroさんくらいしか(笑)。

>>みかん問屋が倉のみかんを選別している描写が、他の演者にはないくらい力の入ったもので、「たくさんの中から探しました」感が出ています。

ここをちゃんとやる演者は目ぇが辛い…もとい、目が利いているんでしょうね、目ぇに「心覚え」があると謂うか…いや、話が進まないのでそのネタはさておき(笑)。

この話の眼目は「皮かて五両や八両の値打ちあるわい、筋かて二朱や三朱がとこ…」と謂うふうに、一個のみかんを千両に見立てて割っていくところにあるわけですが、この大本にある算術と謂うのは、問屋の語る「千箱の中のたった一個だから、みんなの値段を掛けさせてもらいます」と謂うロジックですね。

つまり、本来は蔵一杯に囲ったみかん千箱全部の値段が千両で、この一個のみかんには蔵一杯のみかん全体の価値が凝縮されていて、それがたった一個のみかんと謂う具体的な商品の形に固定されるわけですね。

まあ、「みかんしか扱わない店」が何故そんな猛暑の最中に普通に店を開けていたのかと謂う疑問はさておいて(笑)、その千箱のみかんは冬場に仕入れて囲っておいたものですから、仕入れ値はとくに高いものではないわけですね。そこに保管しておく経費や人件費が載るとして、これは「ございまへんと言うのがいやさ」の故に「暖簾に元入れ」したものですから、儲けは度外視して普通の利幅を載せるとして、極々計算を単純化すれば一箱一両と謂う値段になる、と。

で、たとえば一箱当たり一個の割合で残っていれば一個一両、これは本文でも語った通りですが、二個なら二分、四個なら一分、八個なら二朱、そう謂うふうな計算になるわけです。まあこれは幾ら何でもリアルに物価換算してはいけないわけで(笑)、幕末頃の現実的な物価で言えば、たとえば半七の「向島の寮」によりますと、下女奉公の給金が年三両では法外だと謂うくだりがありまして、ウィキによると、

>>1両が現在の貨幣価値に換算したらどの程度になるかは諸説ある。日本銀行金融研究所貨幣博物館のサイトによると、米価では1両=約4万円、賃金で1両=30〜40万円、そば代金では1両=12〜13万円に相当するとの事である

…とありますので、ざっと換算すると千両は三、四億円に相当するわけで、なんぼ専門店か識りませんが、当時の京阪神の市場規模を考えればみかん問屋の毎年のブランドへの投資が数億円なんて話は成立するものではありません(笑)。

米価やそば代で違うのは、米や外食の相場自体が現代と違うからで、ちなみに一両は銭四〇〇〇文だそうですから、前掲の相場だと十六文そばと謂うのは賃金換算で千数百円に相当するわけで、意外に高いものだったと謂うことになります。

本題のほうに戻りますと、大体これが一〇両とか一〇〇両くらいなら割とリアルなんですが、「十両みかん」や「百両みかん」じゃ半端にリアルで幅が利かないから庶民には想像も附かない千両と大きなところを言ったわけですね。リアルに考えるならおそらく精々数十両がとこと謂うところだと思います。

さらに話を遡りますと、この問屋の蔵で次々と箱を開けていってみかんを探すくだりと謂うのは、リアルタイムでは番頭視点のサスペンスですよね。無事なみかんの在りやなしや如何によっては、番頭どんが三尺高い木の上で「ちゃり〜ん、肋の三枚にずぶ〜」と謂う無惨な仕儀になってしまう(いや、番頭視点で(笑))わけですから、やりようによっては箱を改めるところが一種の聴かせ所と謂えますね。

これは、仕掛けとしては物凄く大掛かりな大スペクタクルですよね。千箱ものみかんを次々に改めていって一個のみかんが見つかるわけですから、本当なら何十人懸かりの大仕事のはずなんですが(笑)、その辺は時間の長短を自在に調節出来る落語の強みで語りのリアリティでこの一大スペクタクルを見せるわけですね。ここを丁寧にやると謂うのは、そう謂う意味でスペクタクルの聴かせ所だから、と謂う理由もあるにはあるとは思います。

しかしここは視点を変えると、蔵一杯に囲ったみかんがほぼ壊滅状態にあることを実感的に聴衆に納得させる部分でもあって、物凄い臭いがするとか箱の下から汁が出ているとか細かいディテールの積み重ねで大量のみかんがすべてダメになったことを実感させているわけですね。その中にやっと一個だけ無事に残ったみかんがあった、これはこれだけ大量にみかんを囲っているから奇跡的な偶然で残ったわけです。

多分、そこまで暑い年でなかったらみかんはもっと残っていたんでしょう。米朝の口演だと「十数年ぶりの猛暑」と謂う伏線をちゃんと何度か入れていますね。それほど暑くなければ、毎年一個とは謂わず数百個くらいは残るから、それを原価計算して商売をしていたのだろう、こう謂う想定が可能ですね。

これはpoohさんのところの確率の話じゃないですが、数十万個のみかんを囲っていたから、全滅でもおかしくないところをたった一個のみかんが奇跡的に残ったわけで、たしかにこの一個のみかんには数十万個分の価値があるわけです。そう謂う意味でこの場面は「数十万個のみかんがたった一個に収束するプロセス」を具体的に見せているくだりでもあるわけで、だからこれを実際に食べる場面で、「皮かて五両や八両の値打ちあるわい、筋かて二朱や三朱がとこ…」と謂うふうに分割していくのは、あながち間違った計算ではないと謂うことになりますね。

この一個のみかんの千両もの価値と謂うのは、可食部分やその味わいにあるだけではなく、問屋が巨額の元手を掛けたことで「今この場に存在する」と謂う部分にあるわけですから、皮や筋にもたしかに価値はあるわけです。この引用部分の、苦労して入手したみかんを若旦那が瞬く間に食べてしまう場面も印象的で、七〇〇両もの貨幣価値がただ一瞬で消費し尽くされてしまう様を目の前でまざまざと見せられてしまうわけですね。

これはもう、見方によっては物凄い豪遊ですよ(笑)。遊里でも一晩で一〇〇両遣ったとか一〇〇〇両遣ったなんて豪遊はあるんでしょうけれど、たった一口で一〇〇両蕩尽する豪遊なんてのは普通は視られません。

この一連の語りの段取りが見事だと謂うのが本筋なんですが、この話を突き詰めていくと、この噺の段取りと謂うのは「大阪中にただ一個しかみかんが存在しない」ことの物語的リアリティの積み重ねと視ることが出来ると思うんです。

噺の前半のストーリーは、番頭がみかんを求めて八百屋だの金物屋だのを探し回るドタバタですから、ここで普通の店にはみかんなど存在しないことを見せておいて「在るとすれば唯一箇所ここだけ」と謂う天満のみかん問屋が特定されるわけですね。このプロセスで、その問屋にもなかったら大阪中にみかんは一個も存在しないと謂う事実が提示されるわけです。

それに続く蔵改めの場面は、ディテールの積み重ねで大阪中に「在るとすれば唯一箇所ここだけ」のみかん問屋でも壊滅的な状況にあることを示し、最終的に一個のみかんだけを拾い上げてみせる。前半で繰り返しの愚を避け虱潰しの探索を端折った分、この問屋の広大な蔵に囲われた千箱が大阪全体に見立てられているわけです。

この辺の段取りの、無駄がなくてロジカルな部分に非常に感嘆するわけで、緩い構造の落語にもそれはそれで魅力はあるんですが、プロットが考え抜かれた緊密なストーリー構造で、オチに向かって一気に語りが収斂して尚かつ独特のテーマ性があって、それでいて落語的で上方的だと謂う意味では比類なく良く出来た「上方噺」だなと思います。

いや、誰でも粗筋を識っている有名な噺なので、ちょっとなめてました(笑)。

しかし、ちょっとhietaroさんのコメントの原意とはズレた話になりましたね、これは勢い込んで語りすぎましたから、一旦コメントを改めます(続くのかよ(笑))。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月19日 (日曜日) 午後 01時57分

>hietaroさん

>>私はどうもそういう細かい部分に魅力を感じるようで、先来話に出した「らくだ」の中の、「はんぺんやごぼう、れんこん、にんじんなんかを甘辛く炊いてな……」みたいな部分のセリフが非常にうまい人(作り方を指示しているだけなのに、凄くうまそう(^O^)。あー誰だったか)とかの噺に魅力を感じてしまいます。

煮染めに白飯がごっつぉだった江戸時代の人間じゃないんですから、本当はそんなに飛び抜けて美味いモンじゃないはずなんですが、話者の喰い物に対する渇望がまざまざと滲み出るような語り口で聴かされると、この世にこれ以上のものはないほど美味そうに聞こえるものですよね。これは味覚的記憶と謂うより、一種の共感能力なのかなと思わないでもないですが、それだけでもないんですよね。

落語の面白みと謂うのは、一人の話者が物語りをしているだけなのに、そこから生々しいリアリティが立ち上がる瞬間に技芸の醍醐味があるように思います。そのリアリティを何処に求めるか、と謂う部分で個々の芸人の拘りどころがあって、五代目の小さんが十八番にしていた「時そば」も、寒夜に蕎麦を啜る仕方噺のリアリティに絞って芸を研鑽しているように思えますね。

ただ、昭和の名人上手と呼ばれた関東落語の芸人は、その種のリアリティの現出を芸の本質と心得て、滑稽譚である部分や座談のタネである部分をあまり重視しない芸風の人も多いようで、ちょっと気取った高尚な芸になっていることも多いように感じます。その分上方噺よりもドラマやリアリティを重視するようなところがあると思いますが、個人的にはそう謂う芸風があんまり好みではないので、求道的でストイックな芸風の流派はあんまり好きではないんですね。

たとえば関東で幇間芸と謂えば、名人的な幇間が習得していた技芸を重視するようですが、上方のほうでは一種の水商売としての人を逸らさない才覚を重視するようで、関東と上方では芸に対する感じ方が違っていたように思います。

これまで落語関係のエントリでは、六代目圓生が好きではないと謂う話ばかりをしておりまして(笑)、これは落語協会分裂騒動の先入観がないとは申しませんが、何と謂うかああ謂う芸風が好きではないんですね。上方演芸のタームで謂えば、チョケとかフラのない人の噺は幾ら見事でも聴いていて楽しくない。「八五郎出世」みたいな芝居懸かりの噺を視ると、やっぱり上手いと謂う意味では凄いんですが。

関東の噺家はどうしても芸それ自体の完成を目指す傾向があるように思いますので、落語協会の会長を務めたような人の芸は、どうも聴いていて辛いものがあります。ああ見事な芸ですね、と手を拍たねばならないような気がしてくる。多分それだけの元手は掛かっているのだと思いますよ、何せ人一人が一生を賭けて研鑽した芸なのですから。

それは本来、関東だから上方だからと謂って差があるものではなくて、江戸時代くらいの芸人の性根として、妬みや商売敵の妨害と謂うような生臭い芸人渡世の事情は当たり前にあって、その一方で自分の芸を極めると謂う求道的な意識にも共通するものがあったのだと思いますが、上方落語のほうは戦後に一度「滅びた」と謂われ漫才全盛の時代が続いた、そんな一度滅びかけた上方落語を苦労して復興させた桂米朝や笑福亭松鶴と謂う個人の人柄が、現在の上方落語の性格に影響しているのではないかと思います。

しかし、その一方で関東落語の現状は左程暗いものではない、落語を題材とした映画やドラマのヒットによって、落語と謂う技芸はカジュアルなものとなり、落語に関心を持つ若い人もそれなりに存在するのだと思います。

対するに、上方落語、殊に米朝一門においては不幸な悲運が続き、米寿近い米朝が死ぬに死ねない状況に置かれている。殊に長生きしてしまった米朝は、好き勝手に放埒に生きてとっくに死んだ盟友の松鶴の分や、早逝した弟子たちの分まで今しばらく頑張らねばならないと謂う想いもあるでしょう。八十過ぎた老人なのに、これまでに関わってきたいろいろな芸人の生がのし掛かっていて、その分まで自身の生を意味附けなければならないと謂うのも、一種辛い人生ですね。

>>「芝浜」とかの人情話を思い浮かべると、やっぱりこっちは噺の本質はストーリーそのもののような気もしますし。

こう謂うのもアリなのが落語の自由度ですね。ご指摘の「芝浜」もアイディアが大変優れています。ウィキで視ると圓朝の即興と謂うのは異論もあるようですが、人情噺や怪談噺は結末まで語らず唐突に終わると差し障りがありますよね。圓朝作の有名な演目なんかも、師匠である二代目圓生の妨害故の苦肉の策だと謂う話を聞くと、大昔から芸人の世界は生臭いなぁと思いますが(笑)。

本文でも書いていますが、「落語とは何か」と謂うのは、所詮は演者の自意識に決着するのではないかと思います。「一人で口演する」と謂う意味では漫談や講談と区別出来ないわけですが、落語と謂うのは結局偉い人がやるものではない馬鹿馬鹿しいもの、下世話なものと謂うことではないかと思います。

そう謂う意味で、圓朝が自作した噺は、「芝浜」にせよ「文七元結」にせよ、大長編の怪談噺や「塩原多助」なんかも、近代的な文芸性のほうが勝っていて、笑話的な滑稽味は控えめですね、それは圓朝自身が近代人だったからではないかな、と。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月19日 (日曜日) 午後 03時41分

>poohさん

>>曰く、噺家がその技巧で聴衆の前に現出させ、その場に共有されるかたちで存在する物語空間を破壊して、現実の位相に戻すもの、みたいな位置づけだ、と。

虚を実に返し、実を再び虚に返す、みたいな言い回しなのかな、と思います。まあ米朝は勉強家のインテリですから、風姿花伝のような本邦の伝統的芸能観や西欧の伝統的演劇観におけるカタルシス概念を参考にしているのだと思いますけれど。

そうすると、人情噺や怪談噺のオチは劇的な余韻の文脈で考えられるけれど、落とし噺はスパッと終わると謂う観点のもので、総体的にオチの意味性の重要性が低い。しかし落とし噺にも廻りオチとか考えオチのような余韻を重視したものがあるわけで、こちらのほうはオチの意味性やそこに収斂する語りの構造が重視されると謂うことなのかな、と思います。

実際、落語の中でも黎明期のSF作家が注目したのは「頭山」や「粗忽長屋」、「天狗裁き」などの不条理なオチの類ですから、SF的な観点ではフォークロアとしてのパラドクスに着目されたわけですね。個人的にも、こう謂う挿話構造自体が逆説を構成しているようなものは、噺としての構造の独自性が興味深いと思います。で、この辺の構造に着目すると、フォークロアの系譜みたいな汎文化的な歴史性の観点が立ち上がってきてなかなか面白いですね。

たとえば、立川談志の十八番の「野ざらし」や「饅頭こわい」と謂う演目の元ネタは中国明代の笑話集「笑府」が元ネタになっていて、漢籍がタネ本だったりするんですね。圓朝の牡丹灯籠も漢籍の剪灯新話が元ネタだったりするし、そう謂うふうに点ではなく線として物語原型の系譜を考えるとなかなか面白い視点が拓けると思います。

それでも、「壺算」とか「花見酒」みたいな算術の絡むパラドクスは、真面目に考え始めるとアタマが痛くなるのでちょっと苦手ですが(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月19日 (日曜日) 午後 03時42分

こんにちは。

まとまった話ではなく、つらつらと……。

>それに続く蔵改めの場面は、ディテールの積み重ねで大阪中に「在るとすれば唯一箇所ここだけ」のみかん問屋でも壊滅的な状況にあることを示し、最終的に一個のみかんだけを拾い上げてみせる。前半で繰り返しの愚を避け虱潰しの探索を端折った分、この問屋の広大な蔵に囲われた千箱が大阪全体に見立てられているわけです。

このへんはほんと、なるほど、というところです。確かにこの構造は、わかりやすく、ロジカルです。


>関東の噺家はどうしても芸それ自体の完成を目指す傾向があるように思いますので、落語協会の会長を務めたような人の芸は、どうも聴いていて辛いものがあります。ああ見事な芸ですね、と手を拍たねばならないような気がしてくる。多分それだけの元手は掛かっているのだと思いますよ、何せ人一人が一生を賭けて研鑽した芸なのですから。

これは言われてみれば確かにそうですね。江戸の落語で、特に名人と言われた噺家の芸が、どうにも入ってこないのは単に慣れていないからだと思っていましたが、確かにそういう傾向も手伝っているのかもしれないと思いました。かなり比較しやすい「時そば」「時うどん」であっても、柳橋だともう全然ダメで(^^;、小さんも厳しい。小三治だとやっとわかるようになる。(^O^) 他はあまり聞いたことがないですが、きっと志ん朝あたりなら面白いんだろうなと思います。

「時うどん」の話の構成も関係すると思いますが、枝雀の口演などは

>たとえば関東で幇間芸と謂えば、名人的な幇間が習得していた技芸を重視するようですが、上方のほうでは一種の水商売としての人を逸らさない才覚を重視するようで、関東と上方では芸に対する感じ方が違っていたように思います。

というような話と通底して、やっぱりこちらの方が面白いと思います。

で、結局、

>そんな一度滅びかけた上方落語を苦労して復興させた桂米朝や笑福亭松鶴と謂う個人の人柄が、現在の上方落語の性格に影響しているのではないかと思います。

ということなんだろうと。
ただ、

>対するに、上方落語、殊に米朝一門においては不幸な悲運が続き、……

というのは(私のような素人が言うのもアレなんですが)仰るとおりで、米朝一門の枝雀・吉朝の両巨星が亡くなり、上方落語協会会長の桂三枝を頂点?に、ざこば・鶴瓶あたりが人気・年期として上位に来るわけですが、純粋に噺家としての実力は枝雀・吉朝にはまだまだ及びもつかないわけで、上方落語の前途はほんとに、よくわからんと思っています。どうなるのやら……。

>>>「芝浜」とかの人情話を思い浮かべると、やっぱりこっちは噺の本質はストーリーそのもののような気もしますし。

>こう謂うのもアリなのが落語の自由度ですね。……
>本文でも書いていますが、「落語とは何か」と謂うのは、所詮は演者の自意識に決着するのではないかと思います。

ということなんでしょうね。上方落語に「大丸屋騒動」という噺がありまして、私は文枝の口演しか聞いたことがありませんが、笑わせる噺ではなし、人情話でもない。Wikipediaによるともともと実在の事件を題材とした講釈を落語にしたものらしいですが、落語らしいサゲによる「投げっぱなし」も手伝って、私は一体この噺を、どこをどう楽しんでいいのか全然わかりません。(^^; 玄人受けするということなのかもしれません。私が知らないだけで、この種の噺も多いのだろうと思います。

投稿: hietaro | 2009年4月21日 (火曜日) 午後 09時31分

ところで千両みかん、米朝の口演もいいですが、実はその弟子の枝雀の口演が、私としてはそれ以上に素晴らしいと思います。直系の弟子ですから米朝から直接稽古をつけてもらっているとは思うのですが、細部では結構たくさんの変更を加えています。

特に素晴らしいのは、聞き手の相づちを演じることで、話している人を描写する手法(何という呼び方をするか知りませんが)が米朝よりも多く、工夫して演じられていて、これが素晴らしい。
ちょっと2場面を起こしてみました。


-------------------------------------------

■(番頭が最初に入った店のシーン)
米朝版

番頭:みかんはおまへんやろか?
店主:みかん? (店の奥を振り返って)かか!お前「みかん」ちゅうもん知ってるかいおい? え? あの、冬の皮むいて食うみかん、あれより知らん? ……なあ。 (番頭に向き直って)いやあ、「みかん」ちゅうて、あんたの仰るのはあの、何ですかいな、お正月に自分に皮むいて食べるあのみかん、紀州みかんやなんかのあのみかんですか?

枝雀版

番頭:みかんございませんやろか?
店主:み……みかんでございますか? ちょっと待っておくれやす。へえ。しばらく。(店の奥を振り返って)おい、かか、かかぁ! 何ぃ? 子供が寝かかってる? はぁ。いや昼寝はささないかんねんけどな。大きな声出してくれなはんな? いやわかってんねんけど、ちょっと尋ねたいことがあんねや。おまえ「みかん」ちゅうもん知ってるか? え? みか……え? ほぉ、ほぉほぉ……いやいや、そうやよ。ね、そや……いやそのみかんなら私かて知ってるよ。……え? 違うがな。今買いに来てはるよってにね。おかしいなと思て。あれより知らん? そやなあ。私もあれより知らんなあ。……尋ねてみる! はぁ。(番頭に向き直って)ちょっとお尋ねしますけど何ですか? あんたの仰るみかんちゅうのは、ひょっとしてあの寒~い時分に「さぶいさぶい」言いながらいただく、ちょっと黄色いような色がしてて、皮むいたら中に袋になって入ってるっちゅうやつね。あのみかんですか?


■(みかんが蔵から見つかってから千両の値がつくまで)

米朝版

問屋:……もうし、1つだけ無傷なやつが出てきましたで。ええ香りがしてるわ。
番頭:売って売って!
問屋:あんた、下駄口上がったらいかん……
番頭:いずれいずれいずれ、いずれ改めて、お礼には伺います!
問屋:ま、ま! ちょっと待っておくれやす。……今あんさん、1分お出しになりました。これがなあ、時期のもんでございましたら1分もお出しになると、箱に何杯というて買うていただけますが、このみかんはちょっと、2分や1両では、ようお売りしまへんねや。
番頭:ごもっともでございます。うっかりしておりました。旬外れのみかん、高いのは承知でございます。どうぞお値段仰っておくれやす。
問屋:それより前にあんさん、何でそんなにみかんがお入り用だんねん?
番頭:実は私は、船場のさる商家へ奉公しておる者でございます。へえ。ところがうちの若旦那がみかんが食べたいという病気にかかりましてなあ。もう飯も喉を通らん。まあ命に関わるというところまでいったんでございます。へえ。でお医者はんがこれは何か思い詰めてる気病じゃと言うて問いただしましたところが実はみかんが食べたいと言う。私がもう夏も冬も忘れてうっかりはぁ食べさしてあげます!て請け負うてしもて若旦さん喜んで待ってはりまんねん。考えてみたらみかんなんかあるわけない。ようようこちらさんに1つございました。これはもう命の恩人でございます。
問屋:さよか……。いやぁ、おおきに。ようそこまでみかんに惚れてくれはりましたな。銭は要りまへん。どうぞ持って帰ってな、ちょっとでも早いことその若旦さんに、食べさせておくれやす。
番頭:いえ、そんなわけ……こんな高い物をタダでいただくというわけには、そんなわけにはいきまへん。どうぞお値段仰っておくれやす。
問屋:いやいや。命に関わるとまで言われてます。どうぞ持って帰って、一刻も早う差し上げておくれやす。
番頭:それでは気がすみまへん。うちの主も船場では……ちょっと、大家とか何とか言われているようなお家でございますのでな、金に糸目をつけんと思います。どうぞあの、遠慮なしにお値段仰っておくれやす。いやそう、そういうわけにはいきまへん。どうぞ……
問屋:いや、で、でっさかいな、他の場合と違いま……え? ああ、さよか。はいはい、はい。……わかりました。いや、そらもう、買うてもらう方がこちらも結構でございます。へえ。ほなこのみかん1つ、千両頂戴いたしまひょか。

枝雀版

問屋:……色つやといい香りといい、寸分違わんちゃんとしたみかん、ひとつございました。……よくせきみかんが御入り用と見えますが、ぜんたいこれはどうしたわけだんねん?
番頭:よう聞いていただきました。実は手前、船場の……
問屋:へえへえ……はぁ、はああ。あらー。……へえへえ。それはよろしおしたなあ。へえ……へえ。それで? へえへえ、ほぉ……はぁ。あんさんが? へえ。ほぅぉお? はぁああ。……あらぁ~~。みかんが食べたい一心で? はぁ、そんなことございますねやなあ……。いや! しかしながらそこまで思い詰められたらみかんも幸せ、またみかんを扱ことります手前どもも、そらもう商人冥利につきるというもんです。さよかそういう事情でございましたかどうぞどうぞ、これちょっとでも早よ持って帰って、若旦さんに食べてもうておくれやす。どうぞどうぞ。
番頭:あのう、お値段?
問屋:もう値段もクソも、人の生き死にに関わることでございます。そこまで思い詰めてもらわれたらみかんも嬉しい、私も嬉しい。ま、ま、どうぞ、持って帰っておくれやす。
番頭:どうぞ、時期外れのみかんでございます。高いの承知でございます。どうぞ値ぇ仰っておくれやす。
問屋:そんなこと言わんとどうぞ持って帰って食べてもろたらこっちも嬉しい、みかんもこれ、冥加が……
番頭:そんなこと仰らんと。高いのはもう承知の上でございます。手前ども、船場ではまぁ、大家と呼ばれておりますので……
問屋:いやあのね、大家とか小家とか、そんなこと……え? いや、まぁ、人の生き死に……はい、そうです。の、そ……はぁはぁ……はい。いや、そら……はい……な……。…………(咳払い/トーンが下がる)はいはい。はい。もう仰るな。はぁ? 今何と仰った? 金に糸目をつけまへん? ……ほぉおおおお、さよか。ご大家でございますか。お金にお糸目をおつけにならん? ああ結構でございます。ほな買うていただきまひょ。そらそら、そらこっちも、有り難いことで。……このみかん1つ、千両いただきます。

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なお、いずれの口演にしろ、Wikipediaで「上方版の特徴」とされている、

「問屋が同情してタダでくれると言うのを、番頭が大店の見栄で「金に糸目はつけない」と見得を切る。そのあまりのしつこさに、問屋もつい意地になって一つ千両とふっかけ、」

というのとは少しニュアンスが違いますね。特に米朝版は、最初に「2分や1両では、ようお売りしまへん」と断っていますし、「意地の張り合い」のようなニュアンスはどこにもない。

あるいはこれもWikipediaの、

「旦那さん、それどころやおまへんで。蜜柑ありました。」
「何じゃと!」
「天満の青物市場にあるんやけど、値が千両。何と馬鹿にしてるやおまへんか。」

という件りも、米朝・枝雀版の、番頭は問屋の説明に「確かに仰るとおりでございます」と大いに納得して、ただ意地を張った自分を反省し、値が合わないのでもうダメだと絶望して帰る(ここに問屋に対する不満はない)、という噺とは隔たりを感じます。

Wikipediaがベースにした上方版というのは誰の口演だったんでしょうね。聞いてみたいです。

投稿: hietaro | 2009年4月21日 (火曜日) 午後 09時31分

>hietaroさん

お返事が遅れました。またMacの調子が悪くなったので、昨日一日OSやアプリの再インストールに追われておりました。

>>江戸の落語で、特に名人と言われた噺家の芸が、どうにも入ってこないのは単に慣れていないからだと思っていましたが、確かにそういう傾向も手伝っているのかもしれないと思いました。

「上手いなぁ」とは思うんですけどね。その一方で、オレみたいな耳のない聴き手ですら「上手い」と感嘆するような話芸は厭味だと思うんですよ。米朝をはじめとするあの一門の噺は、「上手い」と感じる前に「面白い」と感じて、その面白さを支えているのが話者の芸なんだなと気附く、そう謂うのがリアルタイムの大衆芸能の姿なんではないかな、と。

ただ、それに附け加えるとすれば、娯楽芸能が高度化するに連れて受け手にその技芸のレベルを見極める素養が求められる、つまり演じ手と受け手の間のコードが先鋭化する運動性のようなものも関係しているのだろうと思います。

たとえば八代目桂文楽などは、ウィキで視ると寄席の芸よりもお座敷の芸のほうに真価があったと謂うようなことが書かれていますが、これはお座敷のような少人数の距離の近い環境設定で聞くのに向いている芸だと謂う意味ではないですよね。お座敷と謂う粋事の場で演じられるのに相応しい芸風だと謂うことで、遊びの作法を一通り身に着けた大人の通人が江戸の粋味を体現した噺家に座敷を掛けると謂う、聴くほうも素養や鑑賞機会に元手を掛ける必要があった芸だったと謂うことですね。

それが大衆娯楽であっても、或るコードに則った技芸の発達と謂うのはどうしても先鋭化する運動性を内包していて、客を楽しませるもてなしの芸であっても、求道的に自身の芸を研鑽する過程で、目のない客や耳のない客には受け止めきれないほどに芸それ自体が突出して高度化すると謂う機序があるのかな、と思います。

また、江戸文化のメンタリティとして、巧みに語られた滑稽な噺でスカッと笑うと謂う興趣とは別に、芸人の優れた芸を鑑賞すること自体が面白いと感じる感じ方もあったように思います。その辺は、芸の練達を重視する江戸とエンタテイメント性を重視する上方では芸の好みが違っていたようにも思います。芝居などでも上方と江戸では大分芸風や演題の好みが違ったと謂うことで、岡本綺堂の芝居話などを読むと双方の芸人が交通して大当たりをとると謂うような例は少なかったようですね。

余談ですが、芝居との関係で言うと、江戸のほうでは荒事が好まれ上方のほうでは生世話が好まれたと謂うことで、この辺は人情噺のニーズと関係している、つまり芝居と落語の棲み分けに関係しているのかな、と思わないでもありませんが、どうとでもとれる話にしかなりませんね(笑)。

とまれ、関東の名人上手と呼ばれるような噺家の芸と謂うのは、自身の芸をとことんまで磨くことが芸人の心映えであり、客に対するもてなしとはその高度に研鑽された芸を見せることだと謂う感覚もあるように思いますが、米朝一門の噺は客を笑わせ楽しませることそれ自体が追及されているように思います。これが上方の伝統的な芸人気質なのかどうかはわかりませんが、関東落語に感じる気取った芸のイメージと謂うのは、そう謂う一種の屈折があるからなのかもしれないと思います。

勿論、リアルタイムの芸能としてのエンタテイメント性を意識している噺家もいるわけですから、一概には括れませんが、たとえば五代目小さんの芸の何となく素気ない恬淡とした感じと謂うのは、客をどう笑わせようかと謂う具体的な欲を離れて、純粋に自身の芸と向き合う芸境と関係しているのかなと思ったりします。この人は剣道のほうも達人級だったそうですから、武道とのアナロジーで芸を考えていたのかもしれませんね。

一方では、志ん生の系統と謂うのは気取ったところがなくて客をどっかんどっかん笑わせる芸風だったわけで、倅の志ん朝もいろいろな流派の要素を採り入れていますから志ん生の芸風そのままではなく少々名人芸寄りですが、「笑わせる」と謂う部分では基本的な姿勢は受け継がれているように思います。志ん朝の口演は、漫才師やTV芸人のような下世話な笑わせ方はしていないのに、音盤でもビデオでもとにかく客席から爆笑が絶えないと謂うのが凄いなぁと思います。

また、談志の噺はたしかに上手くてしかも笑えるんですが、どうもマクラが厭味なのと粗暴な江戸っ子が現代東京人的なリアリティで演じられるので、あんまり好きではないです。十八番の「野ざらし」の主人公なんて物凄くリアルに粗暴ですよね(笑)。足立区の不良みたいな感じのメンタリティで、なんかやだなぁ、と(笑)。

長くなったんで一旦コメントを分けます(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月23日 (木曜日) 午後 05時58分

>hietaroさん

>>米朝一門の枝雀・吉朝の両巨星が亡くなり、上方落語協会会長の桂三枝を頂点?に、ざこば・鶴瓶あたりが人気・年期として上位に来るわけですが、純粋に噺家としての実力は枝雀・吉朝にはまだまだ及びもつかないわけで、上方落語の前途はほんとに、よくわからんと思っています。

これは、米朝が米團治に入門したときに言われた言葉、「芸人になる以上、末期哀れは覚悟の前」と謂うのじゃないですが、東西を問わず悲愴な最期を遂げた噺家が多いことには驚かされます。パッと思い附くだけでも自殺者がかなり多い。洒落で世間を渡っているようなイメージとは違って、芸人同士のごたごたや内紛や妬みそねみも絶えない生臭い世界ですよね。落語協会分裂騒動でもたしか自殺者が出ています。

枝雀の場合はうつ病が大きな原因だったようですが、やはり芸の行き詰まりと謂うことも大きかったのではないかと思います。にこやかな風貌のイメージとは違って怖いようなところもあった人のようですし、落語の笑いを理論立てて追及するような知的で生真面目なところもあった。「自分の笑いがよぉわからんようになりました」と言い残して死ぬと謂うのも、何とも悲愴なものがあります。

残った総領弟子が、噺家としてはちょっとアレなざこばと謂うのが、たしかに何とも心細いものがありますね。

一方、松鶴門下のほうは、弟子の落語以外の活動に寛容だった為に、松鶴の芸の正統を継ぐ弟子と謂うのも見当たらないし、敢えて謂えば鶴光の口演は若い頃の松鶴の噺を彷彿とさせるところがあるんじゃないかと思いますが、彼も独自と謂うか変なスタンスの芸人ですから、上方落語全体の行く末とはあんまり関係ない位置にいる。鶴瓶は普段のトークよりも落語はしっかりしているようですが、ちょっとこれが上方落語の第一人者かと言われたら違うだろうと謂うことになります。

この二人と謂えば、昔は「らくごのご」で三題噺を競っていましたが、激情家のざこばがよく負けて悔し泣きをしていて、概ね鶴瓶のほうが優勢だったように記憶しております。香盤で謂えばざこばのほうが格上なんでしょうが、落語の勝負で負けたんでは恰好が附かないですよね。

>>上方落語に「大丸屋騒動」という噺がありまして、私は文枝の口演しか聞いたことがありませんが、笑わせる噺ではなし、人情話でもない。

この噺は存在自体を識らなかったんでリンク先を読んでみましたが、噺の骨格自体は所謂「吉原百人斬り」、つまり歌舞伎の「籠釣瓶花街酔醒」の筋と似ていますね。こちらのほうも実録ダネで、遊郭で乱心した男が銘刀を振り回して多くの人を殺傷した事件ですが、実際には数人斬った程度のしょっぱい事件を誇張したものらしいです。河内音頭のほうにも「河内十人斬り」と謂う有名な演目がありますが、こっちのほうはどちらかと謂うと八つ墓村の元ネタになった「津山三十人殺し」に近いですね。

こう謂う噺が存在すること自体、元々落語にも講釈や歌舞伎と同等のワイドショー的な性格があったと謂うことの証なんだと思います。おそらくこれは、笑ったりホロッとしたりする為の純粋なフィクションと謂うより、「痴情の縺れから起こった遊里の残虐事件」に対する下世話な好奇心に応えるものだったのでしょう。

大衆芸能全般にこの種の扇情的ジャーナリズムの要素があったわけで、芝居は芝居なりのアプローチで劇化するし、落語は落語なりのアプローチで噺に仕組むと謂うことなのでしょうね。粗筋だけ読むと、このサゲでスパッと終わられるとたしかに困ってしまいますが、poohさんが紹介された米朝の言を参考にすれば、「これはまあ実録だけど大分話を作ってますよ」と謂うエクスキューズのようなものかな、と。

あ    そうすると、独特の口調の三面記事レポートで人気を博した朝丸時代のざこばも、十分落語的な仕事をしていたと謂うことになるな(木亥火暴!!)。

>>ところで千両みかん、米朝の口演もいいですが、実はその弟子の枝雀の口演が、私としてはそれ以上に素晴らしいと思います。直系の弟子ですから米朝から直接稽古をつけてもらっているとは思うのですが、細部では結構たくさんの変更を加えています。

これはもう、大変手間のかかる聴き起こしをオレのところで発表して戴いて申し訳ないような気がします。

千両みかんと謂う演目自体、手許にあるのが米朝の口演だけなのでお恥ずかしい限りですが、たしかに枝雀の口演は師匠の噺を自分なりに解釈して改良を加えたと謂う感じがしますね。枝雀の噺は数本聴いただけですが、他の噺家の口演では何でもない会話でもそれを膨らませて笑いに繋げることに貪欲ですね。

逆に、米朝版では番頭と問屋の上下を附けた掛け合いで、どのようなプロセスによって番頭が千両払わねばならない仕儀になったかの対話の筋道を提示していますが、枝雀版ではそこは可能な限り省略して問屋の受けの芝居で代替させているように見えます。つまり、笑いに繋がらない説明的な部分は省略の話法で簡素化している。

米朝も枝雀も同じロジックでこの対話の成り行きを解釈しているけれど、枝雀のほうは米朝の噺を受けて、そこは要点だけ押さえれば好いと謂う立場で自分のアレンジを加えているように思えます。

ここの対照がこの師弟の芸風の違いと謂って好いのかもしれません。米朝版の刻銘に提示される対話のロジックもまたこれはこれで落語の聴かせ所なんですが、枝雀はとにかく笑いに拘ってそれ以外の要素を整理すると謂う違いがあるように思います。

それ以外の理由として、枝雀は上下を附けた頻繁な掛け合いと謂うのは割合やらないように思います。つまり、一人の人物の一人語りが長いように感じるのですね。オレがたまたま聴いた「宿替え」でも、ほぼアホな亭主の独演会で、女房のセリフは最小限に抑えられています。それも、女形のふうになりを作って、一頻り間を置いて芝居がかりの仕草を附けてからセリフを言わせると謂う形で、ポンポンとテンポ好く掛け合いで進めると謂う形ではありませんでした。

関東版の「粗忽の釘」を聴くと、これはまあ普通はアホな亭主に女房や隣人がツッコミを入れる形のくすぐりの連続で聴かせる噺で、亭主が長台詞を語るような噺ではないんですが、そう謂う語りの呼吸の好みと謂うのもあるかもしれません。

どちらかと謂うと枝雀は、大したセリフを発しない人物にまで上下を附ける(つまり二人の人物の位置関係を視線の左右で表す)よりは、一人の人物に視点を固定した息の長い語りの呼吸を好んだのかな、と思いますが、他の噺ではどうなんでしょうね。たしかに上下を割らずに一人の人物の視点で語ると、観客を劇中の聴き手に見立てて直接観客に語りかける、つまりカメラ目線的な視線が遣えると謂う利点はあります。

動画で視ると、普通の落語家同様に視線を動かしてはいるんですが、上と下と謂う落語的な視線の遣い方よりも、満遍なく観客に語りかけていると謂う視線の動きが多いように思いました。

何かの噺のマクラで、「自分に話しかけられたと勘違いしたお婆ちゃんが客席から高座に上がってきた」と謂うネタがありましたが、これは枝雀が観客に直接語りかける話法を多用することに関係しているのかな、と。

まさか実話ではないと思いますが(笑)、落語家は視線の遣い方も芸の内で厳しく仕込まれますから、枝雀が自分独自の視線の遣い方に意識的であったから、そう謂うネタを思い附いたと謂うことなのかもしれないと思います。

また長くなったので、もう一回分けます(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月23日 (木曜日) 午後 05時59分

>hietaroさん

>>Wikipediaがベースにした上方版というのは誰の口演だったんでしょうね。聞いてみたいです。

この演目自体は多分有名な噺なので、各流派に伝わっているんでしょうね。オレが今回語ったようなニュアンスと謂うのは、おそらく米朝一門が重視している性格と謂うことなのだと思いますが、他の門派ではもう少し違ったニュアンスで演じているのかもしれません。

同じ骨格の噺でも、演者の解釈によって自在にバリアントが生じるのが落語の面白いところではあります。オレが複数の演者で聴き比べた演目に「厩火事」がありますけど、これは結構門派や演者によって解釈に幅がありますね。あの有名なサゲを亭主の本音ととるか照れ隠しととるかと謂う解釈の違いで伏線も違ってきますし、元になった孔子や麹町の猿の故事も演者によって微妙にニュアンスが違います。

演者によっては、孔子は白馬を愛してはいたけれどこれに痍を附けたら家来を厳罰に処すなんて言っていないと謂う解釈もありますし、常日頃厳しく脅しつけていたと謂う解釈もあります。それで随分ニュアンスも変わってきますよね。

前者だと、素直に孔子が愛馬よりも家来を心配したと謂う解釈になって、孔子と謂う人物の聖人君子ぶりが強調されますが、後者だと暗に家来の忠誠心を疑って脅し附けていたように感じますし、また孔子が愛馬よりも家来を気遣ったことの効果を強調しすぎると、孔子が意図的に人心掌握を狙ったような厭味なニュアンスになります。

また、麹町の殿様も、本当に奥方よりも皿が大事だったと謂う解釈もありますし、奥方のほうが大事なんだけど道楽に入れ込んで咄嗟に皿のことを口に出して失敗した、と謂う解釈もあり、志ん朝の口演では、こんなことで離縁を出したのが原因で生涯後添いが来なかったことが不幸だと謂う余計な結末を加えています。これはもう、夫婦愛が主題の噺なんですから、憎くもない奥方と離縁になったことだけでも十分不幸なわけで、後添いがどうこうと謂うのは余計ですよね(笑)。

また、サゲに持って行く段取りとして「指の怪我」に言及する演者とそうでない演者がいますけれど、「指でも怪我したんじゃないか」と謂う言い方だと、サゲのセリフは本心からのものだと謂う印象になるし、指に触れなければ江戸っ子流の照れ隠しなんだろうと謂う印象になります。

今まで聴いた中で、噺の構成が一番バランスが好いなと思ったのは、意外と先日ポッドキャストの「にふてぃ寄席」で聴いた古今亭志ん八と謂う二つ目の口演で、髪結いのおかみさんが亭主と喧嘩するに至る原因を、同商売の姉さんが指を怪我して行けなくなった得意先に代わりに行って帰宅が遅くなったから、としていて、サゲに持って行く段取りでは指の怪我に触れていないんですね。

同商売の姉さんが指に怪我をして、と謂う実例を挙げることで、サゲよりも前の時点に伏線を移動していて、サゲの直前では「怪我はないか」とだけ言わせているんですね。これによって照れ隠しの憎まれ口と謂う印象は強化されるわけで、併せて、皿を割った拍子に貰うくらいの怪我で「遊んでて酒が呑めねぇ」と謂うことになりかねない理由も説明しているわけですから、構成としては上手いと思いました。

これが志ん八自身のアレンジなのか、門派の噺の型なのかはわかりませんが、志ん五の弟子と言いますから志ん朝の孫弟子に当たりますので、古今亭の型だと思うんですが、志ん生や志ん朝の噺と比べると随分解釈が違うので、ちょっと不思議です。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月23日 (木曜日) 午後 05時59分

>hietaroさん

ああ、今までコロッと紹介するのを忘れていましたが、圓朝の「新作落語」の舞台裏については、やっぱり同時代人の証言を繙くに如くはないですね。

「岡本綺堂 寄席と芝居と」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000082/files/42351_15659.html

綺堂が圓朝の噺と芝居の関係を語った随筆で、就中三番目の「圓朝の旅日記」の項などは「塩原多助」の取材旅行の様子などが書かれていて興味深いですが、全体に当時の圓朝の高座の空気を覗うことが出来て参考になります。書籍では河出書房の「綺堂随筆 江戸のことば」に収録されています。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月26日 (日曜日) 午後 11時38分

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