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2009年4月12日 (日曜日)

衝撃ニュースの裏面

quonさんがこう謂う記事を書いておられるので、こっちでも触れておくが、実はこの話はオレも早い段階で人伝に耳にしていた。コメント欄ではちょっとしたバトルに発展しているようだが、オレの聴いている範囲では、これはquonさんの仰っていることも相手の方が仰っていることも間違っているとは謂えない。謂わば事実の解釈の次元で喰い違いがあると謂うことである。

たしかにDCDの文芸面においては、白倉PDは主導的にアイディアを出す側に廻っていたわけではないので、各話の具体的な文芸的・批評的なアイディアは主に會川昇の創案になるものと視て好いだろうが、白倉PDのほうでそれを「ほう、面白いね」と謂うふうに寛容に理解して受け容れていたわけではないらしい。

この二人の間では、殆ど共通言語らしきものが確立されておらず、會川昇の提案に対して白倉PDは悉く無理解を示し、両者の間に頻繁な衝突があったそうである。その意味では、この番組の主導権は會川昇にあったわけではないし、度重なるダメ出しを喰らったと謂うことも事実であるとオレは解している。その一方、白倉PDが主導したと言い得るほどに創造的な役割を果たしたわけではなく、文字通りクライアントとして作業者の成果物をチェックして、自分の価値観や嗜好でダメを出していたと謂う形になるようである。

一言で言えば、白倉PDは初顔合わせの人材の會川昇をまったく信用していなかったのだし、それは會川昇の仕事振りに問題があったと謂うより、白倉伸一郎個人のメンタリティにその原因の多くがあったようである。周知の如く、白倉PDは附き合いの浅い人材を容易に信頼しないところがあって、引用先で相手の方が仰っているように小林靖子を受け容れるまでにも三本(アギトを含めれば四本)の番組の協働を必要とした。勿論その間に個人的な交友を深める機会も度々セッティングされただろうし、その意味で現在の小林靖子は白倉PDの身内である。

しかし、會川昇はそうではない。

會川昇のメンタリティとして、附き合いの浅いクライアントともビシビシバトルを展開して持論を主張するところがあるようだが、それがどうも白倉PDのメンタリティとの相性が良くなかった、それが今回の降板劇の真相のようである。

オレの考えでは、これはやはり白倉PDのほうで何とか克服すべき問題だっただろうと思う。quonさんが仰っているように、白倉PDにはすでに自身が主導的な役割を果たして物語を紡ぎ出すべき文芸的内実が残っていない。だとすれば、自身の中にはないような内実を持つ文芸スタッフとの協業を積極的に行っていく以外に活路はないのであるから、今回の會川昇との協業は今後を占う上での試金石となっただろう。

井上敏樹や小林靖子のように、「身内」とならなければ信頼して仕事が出来ないと謂うことであれば、白倉PDの考えや嗜好をよく知悉した「身内」の範囲から出るものしか出て来ないだろうし、パートナーとの協働のマッチングが進むと謂うことはそう謂うことでしかないと謂えるだろう。

たとえば、白倉PDの考えや嗜好を我がことのように知悉し、それを最大限に活かしてやりたいと謂う好意を抱く井上敏樹との協業からは、今後ファイズ以上の作物は生み出せない。これは井上敏樹が白倉伸一郎の最も近い「身内」だからこそファイズが出来たと謂うことだし、その故にこそファイズ以上のものは出来ないと謂うことでもある。

また、小林靖子が「電王」を何とか成功裡に完遂出来たのは、これまでの経験から白倉PDに合わせると謂うか、自身とはまったく異質な白倉イズムにおいて許容可能なラインが何処にあるのかと謂う経験値が上がってきたからだろうし、白倉PDのほうでも小林靖子が「身内」になったからこそ、何だかよくわからないけれど任せておいても大丈夫だろう的に小林靖子の創案を肯定する気持ちになってきた、と謂う経緯がある。

ただ、その小林靖子と出来ることを「電王」でやり尽くしてしまったら、後は何が出来るのか。それは、白倉PDが「身内」でない人材と如何に効果的な協業が可能であるかに掛かっているだろう。オレの聴いている範囲では、どうやら白倉PDに正統的な文芸の勘がないと謂うのはガチでFAのようで、今回會川との間に共通言語が成立しなかったのもその部分に多くを負うようである。つまり、文芸の語り手なら共有していて然るべき素養が大きく欠落している。

こう謂う人が自分に甘い「身内」との協業で作る映像文芸は、何処かでシビアな限界にぶち当たることが目に見えている。対等の立場で意見をぶつけて来る他人との間で創造的なディスカッションが出来なければ、白倉作品は癖のあるアマチュアリズムの壁を越えることが出来ないだろう。

その意味で、今回の決裂はオレも大変残念に思う。

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コメント

こんばんは。
白倉さんの誘い受け体質はビョーキの域で、それはPとしての有能さとは関係ないよなあ、というのはとっくに分かっていたのですが、現に楽しんでいた番組がこうなるに至ってもうなにも考える気がおきません。まあそれで「考えさせないでくれ」と言っていることをバトルと言われてしまうのも切ないなあ、と思いつつ、ちょっと今回体裁を取り繕う余裕もないくらいにへこんでいることはご理解いただきたいと思います。「なぜそうするのか」のメンタリティは理解できても、「それでも貴方が悪いよ」と思わされるだけに。
電王編が靖子さんなのは分かっていましたし、当分はそう物語世界が軋むようなことはないでしょうが、いざ物語が軋みはじめた時にまたカブトの頃のように不満を口にするのは考えただけで気が重いですね。問題なくおさまるのならそれで良いですけど。

投稿: quon | 2009年4月12日 (日曜日) 午後 06時13分

>quonさん

まあ、そちらへの言及の体裁はとっておりますが、特段quonさんの意見にどうこう申し上げるつもりもない、オレ個人の意見表明であることはご理解ください。この件について、オレ個人の発話としてはまだ言いたいことはありますが、quonさん個人に向けての直接対話で何かを言うのは適当ではないでしょうから、白倉PDについての言及は控えておこうと思います。

>>電王編が靖子さんなのは分かっていましたし、当分はそう物語世界が軋むようなことはないでしょうが、いざ物語が軋みはじめた時にまたカブトの頃のように不満を口にするのは考えただけで気が重いですね。

実は以前「大筋がどう転んでも」と言及したときにはすでにこの件を識っていたのですが、そう謂うふうに考えるのがポジティブかなとも思いますね。主人公や演者に感情移入しているとなかなかそうもいかないかもしれませんが、或る種メタフィクション的な世界観なので、カブトのように物語の基本線が揺らいでもそれはそれでアリかなと思わないでもありません。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月12日 (日曜日) 午後 06時34分

ハイキングウォーキングふうに「やっぱそうなっちゃいます?」とか言いつつ、内心ではやはり、かなりショックを受けています。私も「白倉さんすごいぞ。おのれの手は直接下さず、會川昇に存分に仕事をさせて、結果的に完璧な自己解体・再構築を遂げて出直す気だ!」と興奮していたのですが……。今回のアギト編なんて、ますますオリジナルに対して挑発的で、よかったのになあ。そこがNGだったんかな。
でも、小林さんは現在シンケンジャーを受け持っているし、そうするとディケイドの残りはぜんぶ井上さんなんですか……

投稿: Leo16 | 2009年4月14日 (火曜日) 午前 12時14分

>Leo16さん

>>私も「白倉さんすごいぞ。おのれの手は直接下さず、會川昇に存分に仕事をさせて、結果的に完璧な自己解体・再構築を遂げて出直す気だ!」と興奮していたのですが……。

オレもそう謂うふうに思っていたんですが、これはやっぱり仕事の内容を巡る衝突と謂うよりメンタルな問題のようですね。簡単に言うと會川昇とは反りが合わなかったと謂うことのようです。まあ、會川昇もここ数年は滅多に一つの番組を最後までやり遂げていないですし、あんまり他人とぶつかるほうではない日笠PDのボウケンでも後半ではドロンしていますから、白倉PDだけの責任ではないと思いますが。

ただまあ、東映特撮のPDと謂うのは人を使う商売ですから、よく識らない人材を使いこなせないと謂うのはちょっと問題ではありますね。白倉PDのほうでは、DCDと謂う番組は飽くまで過去コンテンツへのナビ機能を担ったイベント番組と謂う感覚のようなので、物語性の部分ではそんなにこうしたいとかああしたいとか謂う具体的な意志はないようなんですが、とにかく白倉PDと會川昇との間のコミュニケーションが上手く行かなくて、お互い納得の行かないものがあったようです。

>>今回のアギト編なんて、ますますオリジナルに対して挑発的で、よかったのになあ。そこがNGだったんかな。

これが直接の原因と謂うことはないようなんですが、まあ一区切り附いたところで、と謂うことなんでしょう。衝突と謂う意味では最初の最初から上手く行っていなかったようですから。いろいろ考えると腑に落ちることは幾つもあります。

>>でも、小林さんは現在シンケンジャーを受け持っているし、そうするとディケイドの残りはぜんぶ井上さんなんですか……

いや、どうも井上敏樹ではないようです。電王については映画の都合もあるし、かねてより電王は小林靖子しか書けないと言っていますから小林靖子で行くとして、後継候補としては何か意外な名前も耳にしていますが、最終的には割とつまんない形で落ち着くような気がします。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月14日 (火曜日) 午前 01時22分

こんにちは。
今回の騒動では、あちこちに様々な伝聞なら憶測なりが書かれていますが、一つ見落とされているのが、これまでのDCDのノリを作ってきたのは誰かということだと思います。
既に「何回も何回もダメ出しされ、書き直し、決定稿にいくまで4稿も5稿も重ねた」という話は出てますが、ということは、今のDCDにしたのはダメ出しを続けた白倉氏であり、會川氏はまったく違うものを作りたかったということがわかります。
相当にひっくり返し続けたみたいですしね。
龍騎編を裁判員制度に、と決定したのは長石監督の一言ということが公式に書かれてましたが、要するにそれほどの思い切った作品世界のブチ壊しを求めている白倉氏のノリに、平成ライダーを愛する會川氏はストレスが溜まりに溜まっていたのでしょう。
要するに、白倉氏が電王で出し切ったからこれ以上物語を作れないというのは違うと思います。
彼は昔から物語を作っていません。
ただプロデューサーとしての勘所がハッキリしているため、ライターへの要求もハッキリと容赦ない。
白倉氏が求めているDCDは、間違いなく今の形だった。
そしてその読みは当たった。
しかし、會川氏がやりたかったのは、平成ライダーリスペクトであり、もっとマニアックなものだった。その名残は、クウガ編のあちこちに散見されはしますが、あのハッタリばかりがガンガンに効いている第一話からのぶちこわしノリは間違いなく白倉氏テイストでしょう。
物語を作らない白倉氏が、カードだけをガツガツ切って作ったのが今のDCDだと思います。
多少残ったドラマ部分のテイストに會川風味が少しありますが、これでは途中降板に抵抗のない會川氏が長く保つはずはないと思っていました。
むしろよくここまで保ったなと。
残念ではありますが、まったく驚きはしませんでしたね。
この後引き継ぐコヌタ氏も相当に難航したようですが、最近東映本社に出入りする井上氏の目撃情報があるので、ついに親分登場かもしれません。

投稿: Itou-Hajime | 2009年4月14日 (火曜日) 午前 11時50分

>Itou-Hajimeさん

いらっしゃいませ。

>>これまでのDCDのノリを作ってきたのは誰かということだと思います。

これはつまり、Itou-Hajimeさんは後段で、

>>彼は昔から物語を作っていません。

…と仰っていますから、物語性「以外」の部分に「DCDのノリ」を視ておられるようですが、当方では一貫して物語性の部分や批評性の部分に重点を置いて「誰の創案がメインであるか」を述べております。

一方では、DCDにおけるイベント性やハッタリなどの仕掛けの部分は主に白倉PDから出たものだろうと過去記事でもハッキリ書いていますし、そう謂う白倉サイドの意向に合わせる形で文芸性や批評性の創案を載せていったのが會川昇だろうと謂うのが当ブログの見解です。

これは、直前のコメントでも、

>>物語性の部分ではそんなにこうしたいとかああしたいとか謂う具体的な意志はないようなんですが

と申し上げている通りですよ。

それから、Itou-Hajime さんが「物語を作る」と謂うことを具体的にどのようにお考えかは存じませんが、

>>要するに、白倉氏が電王で出し切ったからこれ以上物語を作れないというのは違うと思います。
>>彼は昔から物語を作っていません。

…と謂う理路は、曖昧に過ぎて仰りたいことがよくわかりません。こちらの考えをどのように解釈しておられるのか、その上でどんな意見をぶつけておられるのかが具体的に理解出来ないですね。

たとえばオレが本文で、

>>白倉PDにはすでに自身が主導的な役割を果たして物語を紡ぎ出すべき文芸的内実が残っていない。

…と書いたことは、雑誌媒体等に出たインタビューや彼の著書やブログにおける発言などを参照しつつ、電王までの白倉作品には共通した「文芸的内実」が存在すると推定しているのだし、それは諸作品のライターが白倉PD以外と組んだ作品では顕著に視られるものではないから、白倉PDの中から出たものだろうと謂う推定に基づいています。

そう謂う基本的認識に基づいて、当ブログでもこれまで度々白倉PDや白倉作品について言及しているわけですし、重要な情報があればその都度微調整して精度を上げてきたつもりではおります。それに対して「彼は昔から物語を作っていません」と謂うどうとでもとれる曖昧な言い方で異論をぶつけてこられても、表面的な否定を超えた意見の対立軸が存在するのかしないのかすらわかりませんよ。

ハッキリ言えることは、電王までの白倉作品に共通していたヒーロー性や主人公性、正義の多義性に対する拘りが、今度のDCDにはほぼ感じられないと謂うことです。主人公の門矢士は人物設定的なコンセプトの面ではカブトの天道総司の焼き直しにすぎないのだし、それに具体的な肉体性を付与しているのは演者の肉体性と書き手の文芸性にすぎないと視ています。

さらに謂えば、士がクライマックスで爽快な啖呵を切るルーティンも白倉PDの要望であると仄聞しておりますが、これも電王までの作品で劇中の誰一人として有無を言わさぬ正論を言えなかった世界観とは全然違いますね。

たとえば天道総司もこれに似た説教を語りますが、それは予め相対化され批判されることを予定されている、謂わば出来レースの「正論」です。その拘りが門矢士の啖呵にはない。彼の語る正論はメタ的なレベルでも「正しいこと」として意味附けられていて、物語を情動の面で決定附ける機能を担っています。

つまり、主人公が敵に説教を語ることで爽快なカタルシスが生じると謂う非常にありきたりな作劇ルーティンを無批判に採用しています。これは、公式サイトでも触れられている「花より男子」に影響を受けたもののようですが、要するに今の彼には「主人公が有無を言わさず正しいことを主張してお話にケリを附ける」と謂う事柄に対する個人的な拘りや反撥がないと謂うことです。

オレなりquonさんなりが「白倉PDにはもう文芸的内実が残っていない」と謂う類の判断を下すのは、そう謂う文脈の事柄であって、細かいエビデンスや共有されている文脈を一切端折って「彼は昔から物語を作っていません」と謂うような曖昧な一言で否定されても、それがどう謂う意味なのかすらわからないと謂うことですね。

もしもItou-Hajime さんが、「白倉PDは昔からお話の具体的な細部や文芸性に対する拘りや創案はなかった」と謂う意味で仰っているのなら、そんなことはすでに大昔から認識しています。すでに何度も「白倉PDは劇中イベントや趣向の次元でしか物語性を理解出来ない」と口を酸っぱくして語っているわけです。その認識の上で、それでも脚本の書き手に対する要求として自身の拘りどころを通しているから、われわれが識る白倉作品のテイストが成立しているわけですね。

その白倉PD独自の作品テイストを、たとえば「ぶち毀し」の「ノリ」としか認識しておられないなら、最初から話は噛み合っていないと申し上げるしかないですね。オレが白倉PDの「文芸的内実」と捉えているような共通の特質が、たまたま複数の書き手の間で連続しただけだと考えておられるのであれば、まあ物事の捉え方や文芸の読み解き方が大幅に違うと謂うことになりますから、議論するのも無意味でしょう。

引いては、オレがDCDに感じている「白倉作品としての異様性」をまったく共有しておられず「いつもの白倉ノリ」の部分を重く視ておられると謂うことですから。

>>その名残は、クウガ編のあちこちに散見されはしますが、あのハッタリばかりがガンガンに効いている第一話からのぶちこわしノリは間違いなく白倉氏テイストでしょう。

ちょっと強い言い方ですが、それは「当たり前の話」です。と謂うか、蓋を開ける前に白倉作品を識るトクサツファンが予想したのはまさにそう謂う番組であって、それ以上でも以下でもなかった。白倉PDが手を動かす以上、その程度のことをするのは当たり前ですね。

しかも無理矢理「一〇周年」の冠を載っけたお祭り企画と謂うのでは、誰も「趣向」以上のものを期待するはずがない。「××周年記念」の冠が後附けに過ぎないなんてのはカブトの経験で懲りていますよ。

オレのDCDに対する好意的な評言と謂うのは、そんな誰もが予想したガワの部分やイベント性や趣向の部分が予想した通りに在ると謂うところではなく、それ以外の部分であって、謂ってみれば文芸性であったりとか従来作品への批評性の在り方であったりと謂うような會川テイストが出ている部分なのだし、それ以外では、表面的な道具立ての陰にいつもなら在るはずの主人公性や正義に対する拘りどころの欠落と謂う部分です。

士が何故ラスボスに向かって啖呵を切るのかと謂えば、それは白倉PDのヒーロー観や正義観が変わったからではなく、「そのほうがウケるから」です。たしかに彼には昔からあざとく視聴者ウケを狙う衒気はありましたしPDと謂う立場ではあって当然のことですが、それをヒーロー観や正義観の部分には適用してこなかったと謂うことですね。そう謂う青臭くて矛盾だらけで経済合理性に欠ける変な拘りを、オレは一貫して「白倉PDの文芸的内実」と呼んできたのですよ。

従来の白倉ヒーローの人物造形は、「そのほうがウケるから」そのような造形になっていたのではありません。電王の良太郎など、多分もっとわかりやすくナイーブな造形にしたほうが一般ウケは好かったはずですよ。あの多少腹黒くて子供らしい狡さを持つ部分に惹かれるファンと謂うのは全体のマッスの中ではそれほど多くはない。

そう謂うPDが主人公のヒーローに「説教」を語らせると謂うこと、これは少なくとも従来のようなヒーロー性に拘りがなくなったと謂うことでしょう。その一方で電王は本編からのスピンオフ作品が何本も生み出され、そこでは、何だかそこはかとなく腹黒くてひねくれた部分を持つ野上良太郎と謂う白倉的な主人公が未だに活躍しています。

「白倉的な文芸的内実は電王で終わった」と謂うオレの見解は、そう謂う事象や歴史性を総合的に解釈した認識です。当ブログや別館の「失はれた週末」では、これまでに膨大な量の言葉を尽くしてその推定のプロセスや根拠を語ってきたわけです。オレが白倉的な文芸的内実として認識しているものは確固として存在する・存在した、これが総合的な情報や証言、エビデンスなどから得られたオレの確信ですよ。

…にも関わらずDCDにはそれが存在しない、これは白倉作品としてはまさに異様なことである、と謂うのがオレのDCD観の根幹です。その個人史的な拘りどころの欠落をして、「彼は昔からこうだった」と仰るのであれば、それは絶対的な対立軸であり埋めようがない、と謂うことになるでしょうね。そこが違うのであれば、彼我の間における白倉観・白倉作品観は幾許も共有されていないと謂うことです。

最後に申し添えておきますと、オレは白倉伸一郎と謂う一個人を、かなり歪んだ意味で好きですが(笑)、別段彼を擁護しなければならない動機も筋合いもないのだし、自分が貶すのは好いけれど他人が貶すのは許せないと謂う感情もありません(笑)。これは會川昇についても同様で、近年の作品で更めて実力は評価しましたが、一個人としては好いところも悪いところも仄聞しておりますので、積極的な擁護も個人攻撃も致しません。

当ブログで守りたいラインと謂うのは、両当事者にとって公平な視点です。これは以前の響鬼騒動の際も同様で、「高寺が悪い」とか「白倉が悪い」と謂うような糾弾の論理には一切興味も関心もないし、有り体に謂えば嫌悪感すら抱きます。

その意味でItou-Hajime さんの論調には少し公平でないものを感じますし、それはたとえばどうとでも言える主観的な言い方で「彼は昔から物語を作っていません」と謂う公平性に欠ける表現を用いている部分にも感じました。

白倉PDがDCDの「ノリを作っている」と指摘される一方で、「昔から物語は作っていない」と語られるのは、要するに白倉PDの関与した作業は、これまでもこれからも「物語を作る行為」とは呼べないと謂う偏見ではないかと思います。

オレの感覚では、白倉PDの作業の在り方は、高寺成紀ほどではないにせよ、従来的なPD職の実態から考えてもかなり「物語作り」の実作業に踏み込んでいると思うのですが、Itou-Hajime さんのお考えがそのようなものであるなら、別段不要不急の文芸作品について誰彼構わず自分の考えを圧し附けて廻るほどのお節介ではありませんから、それはそれで結構です。

ただ、当ブログでオレと対話する意味はないと謂うことです。

当ブログでも、この降板劇を「それは白倉PDが何とかすべき筋合いの問題だった」とは表現していますが、これはそうすることでメリットを得られるのが白倉PDのほうであって會川昇ではないからです。會川昇は白倉PDと決裂しても困らないが、白倉PDはおそらく今のままなら自分の身内以外とは仕事が出来ないだろう、それは困るんじゃないのか、と謂う観点で申し上げたことです。

この旨、ご理解戴けますと幸いです。

>>この後引き継ぐコヌタ氏も相当に難航したようですが、最近東映本社に出入りする井上氏の目撃情報があるので、ついに親分登場かもしれません。

所詮は身内としか仕事が出来ないんですよね。多分、こう謂う成り行きだと一から相互理解を探り合う余裕はないですから、響鬼の場合と同様に、最終的には甘えられる身内の誰かに落着するでしょう。

実際、制作の仕事においては阿吽の呼吸で話の通じない赤の他人と仕事をするのは、物凄くストレスフルなんですね。意志を通じさせる基本的なプロトコルが存在しないと謂うのは、作業面では効率的ではないですよね。

しかし、東映トクサツのPD職が直面しているコンセプトワークの部分では、作業効率性だけを追求していてもしょうがないわけで、文芸作品の制作と謂う仕事には効率を追及すべき局面と非効率に甘んじなければならない局面が必ず存在します。

PDにしろ監督にしろ、実制作の上流の職分では自分で手を動かす領域はそれほど多くないのですから、実作業者とコミュニケーションするのがメインの仕事です。そこに効率性を求めたら、そもそもの持ち合わせ以上の進歩はありません。「物語作り」なんてのは、元々作業効率性とはそれほど相性の良い商売じゃありませんから。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月14日 (火曜日) 午後 07時05分

こんばんは。
やっかいなことになったなぁと思う反面、この危機をどう乗り越えてくれるのか楽しみな自分がいます。
以前の響鬼騒動の際、白倉Pが手術に例えていましたがDCD開始当時から「大手術」が始まったなと個人的に感じていました。
會川昇さんと白倉Pとでは術式が違ったんでしょうね。
白倉Pも積極的に自分の術式を変えようとしていたんだと思います。
まあ、一旦開けた腹閉じずに放っぽらかすわけにもいかないでしょうし誰かに丸投げなんてそれこそできないでしょうからなんとかしちゃうんでしょうけど、傷跡が残りそうで残念です。

投稿: B助 | 2009年4月15日 (水曜日) 午前 06時00分

>B助さん

>>以前の響鬼騒動の際、白倉Pが手術に例えていましたがDCD開始当時から「大手術」が始まったなと個人的に感じていました。

どうなんでしょうね、どうも仄聞する限りでは、白倉PDと會川昇の間の温度差と謂う見方もあながち間違ってはいないようなんですよ。そう謂う意味では、DCDが今在るような物語性を具えているのは、會川昇のほうに拘りがあったからだと謂う言い方も出来るわけで、白倉PDのほうではもっと割り切った考え方をしていたと謂うふうに思います。

>>まあ、一旦開けた腹閉じずに放っぽらかすわけにもいかないでしょうし誰かに丸投げなんてそれこそできないでしょうからなんとかしちゃうんでしょうけど、傷跡が残りそうで残念です。

番組それ自体に関しては、すでにもう誰が引き継いでもそれはそれで批評的な意味があるような状況になっていると思うんですが、物語性の観点では、多分白倉PDの身内では軟着陸は難しいのかな、と思います。それが出来そうな小林靖子もシンケンのほうで忙しいはずですから、こっちのほうはまず在り得ませんし。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月15日 (水曜日) 午後 07時40分

聞こえてくる情報が私、黒猫亭さんともに會川さんサイド(たぶんそうですよね?)からのものであることを差し引いても白倉さんに非があるように感じるのは、現にDCDに感じている面白さがどう見ても會川さんの手によるものだからですね。
あんた今までのDCDが面白くなかったのかと小一時間(ry。
現に放送されたシナリオがあるんだから白倉さんがどこかでOK出したのは確かなんですが、その基準がどこにあるのか知りたいです。たまたま好みの脚本が来るのを漫然と待っていたんだとしたら無能過ぎるし、アイデア出しの時点で各作品の肝をどこだと思うか、會川さんにこだわりがあるにしてもどっち方向の暴走はして欲しくないか、ちゃんと話し合っておけばオーダーをこなせない會川さんだとは思えないですよ。プロの脚本家なんだし。
今回の一件に関する批評でいらっとさせられるのは、プロデューサーと脚本家、クリエイターであることを求められるべきはどちらかという視点の抜け落ちた人が多過ぎることです。白倉さんがプロデューサーという職分には不必要なくらいに文芸的なクリエイターエゴの強い人なのは確かだと思うし、それがあるから今までの白倉作品に独自な面白さがあったのは確かでしょうが、井上さん、靖子さんという手持ちのカードを出してしまった今、彼が自分自身の中の物語性にこだわっても出てくるのは、今までの劣化コピーにしかならないでしょうに。
別に會川さんのDCDが面白かったから彼に肩入れしているとかじゃなく、こんなやり方をして損をするのは誰かってはなしなんですよね。

投稿: quon | 2009年4月16日 (木曜日) 午前 01時15分

>quonさん

何というか、オレにしては珍しいことですが、まったく異論はありません(笑)。全面同意です。これだけで終わると手抜きっぽいので(笑)、

>>現に放送されたシナリオがあるんだから白倉さんがどこかでOK出したのは確かなんですが、その基準がどこにあるのか知りたいです。

quonさんには酷な話ですが、白倉PD的には不満たらたらだったようです。勿論、よく識らない人に本心を見せるような人間ではないので(笑)、内心ではどうだったかわかりませんが…と謂うところで情報ソースが奈辺にあるかおわかりでしょう。

>>聞こえてくる情報が私、黒猫亭さんともに會川さんサイド(たぶんそうですよね?)からのもの

当然その通りです。白倉サイドがメインライター降板の情報をリークしても何の得もないし、動機もないでしょうから、今ネットに流通している情報はすべて會川サイドから流れたものと視て好いでしょう。白倉PDが何か表明したいのだとしたら、多分自ブログでわかりにくい独り言を言うくらいでしょうが、もしかして劇場版DCDの掲示板が炎上したら(可能性は結構あります)、また響鬼騒動の二の舞となるでしょうね。

最後の會川脚本回の放映中に早々とこのような詳細な情報が流れると謂うのは、基本的に會川サイドが意図的に流したものでしょう。別にそれは守秘義務の範疇に納まっていれば外野がとやかく言う問題でもありません。ただ、それは一方の当事者のバイアスが掛かっている片口なのだから、割り引いて解釈すべき事柄ですね。

>>別に會川さんのDCDが面白かったから彼に肩入れしているとかじゃなく、こんなやり方をして損をするのは誰かってはなしなんですよね。

ここは、強く賛同したいと思います。どっちが悪かったと言っても、所詮は対等の条件でジャッジ出来る話じゃないですし、仕事の上での感情的対立なのだから、結局は誰が得をして誰が損をするのか、と謂うことで判断するしかないんですね。

ハッキリしているのは、會川昇は白倉PDと仕事が出来なくなっても困らないが、白倉PDのほうは、身内以外の人材を求めない限り「劣化コピー」しか作れないと謂うことなんですね。

いやもう、撮影所次長として現場の一線を退くならそれでも好いんですが、上の世代の日笠PDの現状を視ると、白倉PDだけ管理職に徹するわけにもいかんでしょう。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月16日 (木曜日) 午前 03時21分

>quonさん

やっぱり言い足りないので追記です(笑)。

>>たまたま好みの脚本が来るのを漫然と待っていたんだとしたら無能過ぎるし、アイデア出しの時点で各作品の肝をどこだと思うか、會川さんにこだわりがあるにしてもどっち方向の暴走はして欲しくないか、ちゃんと話し合っておけばオーダーをこなせない會川さんだとは思えないですよ。プロの脚本家なんだし。

そこの話し合いで共通言語が成立しなかった、そう謂うことだそうなんですよ。オレが耳にした情報の範疇で、「どっちが悪い」と謂う糾弾の論理を超えて、どうしても白倉PDに批判的にならざるを得ないのは、これまでの推測を遙かに超えて白倉PDに文芸の勘がない、系統的な素養がない、と謂うことがこのコミュニケーション障碍の原因であったと謂う「片口」の話を、これまでのオレの白倉観…と謂うか、白倉作品との附き合いから推して否定出来ないからなんですね。

そこの部分を事実だと認めるなら、いろんなことが物凄く腑に落ちてしまう。そう謂う意味で強力なリアリティと説得力があるんですね。

実写版セラムンと出会ってしまってからのオレは、五年間に亘ってその欠落をずっと批判し続けてきました。わからないならわかる人を信用すべきなのだし、わかる人との附き合い方を学ぶべきだと主張してきました。

そう謂うふうにオレが何かを言ったとしても伝わるものでもなければどうなるもんでもないのですが、その五年間に起こったいろいろな出来事が、幾分かは白倉PDを鍛えてきたのだと思いたかったのですが……

いや、何と言うか、多寡がシーズン調整の一本の番組で有能なライターと衝突したと謂う以上の落胆を覚えていると謂うのが正直なところです。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月16日 (木曜日) 午前 03時44分

こんにちは。
會川氏の降板、残念ですね。出来れば會川脚本の“響鬼の世界”観たかった気がします。しかし個人的には響鬼騒動の時のような落胆や悲観といったレベルまでは行っていないというのが正直な所。井上氏や小林女史のクセの強い脚本世界は僕にとっては“スター性”のようなものを具えているように思えますが、(これは僕の感性の鈍さにも起因すると思われますが)會川氏の脚本にはそういう“スター性”のようなものを見付けられないでいるのです。つまり今回もかけがえのない語り手を“失った”と感じるには至らないという感じです。

仮面ライダー剣をあの岡田有希子の遺作SFドラマ『禁じられたマリコ』を書いた今井詔二氏が担当すると聞いた時には、「あの切ないドラマを紡ぎ上げた今井氏なら仮面ライダーの世界観は合うかも知れない」と非常に楽しみにしたものでした。ですので今井氏が降板されて代わりに會川氏が登坂された時も今井氏が降りられた残念さばかりに気を取られ、會川氏の脚本の印象があまり無いんです。(ただし『剣』の物悲しいラストの落とし処は非常に良いと思いましたが。)

そして始まったディケイド…。かつて『仮面ライダークウガ』のテレビ放映を目にし、なにかテンションがただ事ではないのを感じた時のような『これは一話たりとも見逃す訳には行かんで』という妙な温度の高さ…はっきり言ってディケイドにはそういうものがハナから無いですね。(これは僕が高寺信者だから言ってるのではないです。そういう温度は、まだアギトからファイズあたりまでは存在していたと思うので。)それどころか演出、脚本の脇の甘さが目立ちまくった『龍騎の世界編』での盛り下がり具合は平成ライダー史上最速かと(^∀^)…それでもまだ見続けてるのは『おお!なんかライダーいっぱい出てるで』ていう子供的なテンションの充足感(まだそれがあるだけマシ?(^_^;))

しかしそれを會川脚本のせい(のみ)とは思いません。まああまり根拠も無いですが龍騎編があれだけユルーイ物になったのは、平成ライダーに愛を持っておられる會川氏のマニアックな提案に白倉氏が乗らず、かといって代替案があるわけでもなく、といった中での無意味な改稿の繰り返しとその果ての疲弊…という負のループが目に浮かび…

そこで思うのが『リスペクトという名の冒涜、冒涜という名のリスペクト』『チャレンジよりハレンチ』なんていつもの白倉氏の言葉遊び…今回はそれがいよいよ形骸化して本当の言葉遊びのみと化してる気が…

ぶち壊すったってあーた…ちゃんと真面目に構築して積み重ねたものをわざわざぶち壊すから面白いんであって…ライブ感覚もそう。終末に備えてあれこれ用意しておいて、でもそこでどこに行くかわからないライブ感覚を選択してわざわざ用意したものをあえてオミットしたりするのが贅沢なんじゃないですか。

しかし今回はその構築の要素の一助となるはずの會川氏のマニアックさそのものをオミットしてしまうとは…

というわけで『電王の世界』は小林女史、あとは古怒田氏と米村氏(劇場版は米村氏とか…)という体制になるようですが…個人的に米村氏の『ブレイド編』は戯画的過ぎて面白かったですが黒猫亭様のおっしゃったように會川脚本にあったツカサの天道的な全能感(どう転んでも結局はツカサの手の内にあるという)が何故か天道の育ての親であるはずの米村脚本にはなく行き当たりばったりの結果オーライなキャラクターになってたのも不安といえば不安ではありますが、まあそれもあまり本気で不安にはならず…元々構築されてもいないのにぶっ壊れてだけはいるという感じの本作は僕には既にアトラクション的な楽しみと『ああ!そういうのもあったねー』的な懐古的な楽しみしかなく…そう考えればあまり愛着のないはずの會川脚本も『やっぱり惜しいんだよなー…會川氏の本気、観たかったなあ』としみじみしてしまいます。まとまりなくてすみません…。

投稿: SHUZO | 2009年4月16日 (木曜日) 午前 05時33分

こんにちは

これまでの6つのライダーのエピソードを観た印象では、クウガ・キバ・アギトが割と普通に『解体と再構築』をしているような感じですが、他の3つが『仮面ライダー裁判員制度』『ブレイド社員食堂』『スマートブレイン学園』のような、キャッチコピーが先行するようなお話になっているような感じがします。

邪推すると、制作側が求めたのは後者のような『営業のやりやすい』形だったのに、シナリオ側は一貫して『解体と再構築』で攻めていったのかなーと思ったり。そういう意識の違いだと、「で、今回のお話を一言で言い表すと何なわけ?」とか毎回言われそうです(^^;

投稿: About | 2009年4月16日 (木曜日) 午後 03時33分

こんばんは。
前回コメントありがとうございます。
しかし、一番のポイント部分が伝わらなかったのは、自分の文章が下手なせいで反省してます。
何稿も書き直しをさせたということは、オンエアされたものには白倉氏は満足し、OKを出しているということです。
彼が計算する「お祭りとしてヒットする作品」はまさに今のディケイドに他ならない。(そしてヒットしている)
しかし、會川氏がやりたかったものは違った。
それは、黒猫亭さんの言う「物語」があるものだったかもしれません。
ただ、それにOKが出なかった事実を、自身おっしゃる通り、片一方(會川氏側)の情報だけで語るのは、まさに片手落ちというか。
會川氏側から出る情報は、当然會川氏に甘いでしょう。
ホンの打ち合わせは、白倉氏と會川氏の一対一でやっているわけではありません。
忘れてはいけないのは、他に大勢いる。東映側のPだけで三人、テレ朝の梶P、代理店、石森プロ、そして監督。
その誰もが、會川氏の脚本を、物語なりマニアックなこだわりがあるにせよ、放映作品として「面白いと思えなかった」。だから誰も會川氏を擁護しなかった。
これを見過ごしてはいけないと思うのです。
どんなに優れた物語でも、エンターテイメントとして、子供番組として面白くなければPはダメ出しします。
特に白倉氏は、電王の頃から子供を意識し始めています(本当ならもっと前から意識しなければいけないのですが)。
そういう観点での書き直しがあり、そして現在のディケイドと、そのヒットが生まれているというのを無視して、ただ會川氏側の「俺の作品が否定された」という悲しい愚痴だけを取り上げては、今回の件を正しくは見られないのではないでしょうか。

投稿: Itou-Hajime | 2009年4月16日 (木曜日) 午後 09時24分

>SHUZO さん

>>出来れば會川脚本の“響鬼の世界”観たかった気がします。

これはやっぱり観ておきたかったですね。常々妖奇士と響鬼の近縁性を指摘してきましたが、人伝に聴いた話では現在放映している「屍姫」も陰陽道と謂うか修験道のような要素を扱っているだけに響鬼テイストが濃厚に感じられるそうです。

意外と本人はそれほど響鬼に拘りはないような話も耳にしていますが、実際問題書けなくなった話を「書きたかった」と正直に言うとは限りませんし、いずれにせよ響鬼的な題材を本格的に扱うノウハウは抽んでたものがありますから、これをどう料理するのかと謂う興味はありましたね。

>>井上氏や小林女史のクセの強い脚本世界は僕にとっては“スター性”のようなものを具えているように思えますが、(これは僕の感性の鈍さにも起因すると思われますが)會川氏の脚本にはそういう“スター性”のようなものを見付けられないでいるのです。

それほど會川脚本作品を観ているわけではないので、たしかに「會川脚本らしさ」が奈辺にあるのかと謂うのは言葉にしづらいですね。感覚的には、乾燥した暗さと謂うか、井上敏樹と同じような題材を書いても井上敏樹ほどウェットにならない部分があるように思います。一言で言って、人間心理の闇のような素材を扱っていても、感傷的な部分が剰りなくて、ドライで現実的ですね。

小林脚本の理詰めの熱さとか、井上脚本の感傷性に当たるような、視聴者の情動に訴える特徴が剰りないと謂う辺りが、SHUZO さんの仰る「スター性」の問題に繋がってくるのかな、と思います。

井上敏樹以上に「計算して書いている」と謂うふうに思いますし、ライダーの井上脚本のようにその計算が浮いて見えるようなところがない(つまり、計算上必要なものをただ書いておいたと謂うだけには感じない)文芸性と謂うのが、多分プロっぽいところではないかな、と思います。

>>つまり今回もかけがえのない語り手を“失った”と感じるには至らないという感じです。

視聴者視点では、特段に會川昇は代替の効かない人材ではないと思います。パッと実例が思い附かないですが(笑)、多分他にも有能な人材はいるのだと思いますし、會川昇が降板して惜しいと感じるかどうかと謂うのは好きずきの部分でしょう。

オレがこの件に感じている遺憾さと謂うのは、會川昇自身の個別の才能を惜しむと謂うよりは、會川昇のようなパーソナリティの人材と白倉PDが上手く協業出来なかったと謂う事実にあります。

>>すので今井氏が降板されて代わりに會川氏が登坂された時も今井氏が降りられた残念さばかりに気を取られ、會川氏の脚本の印象があまり無いんです。

逆にオレは、今井脚本の「何の理由もなく登場人物が顔を歪めて声高に罵り合う」と謂う大映テレビ伝統のノリに耐えられなくてブレイドの視聴を中止したと謂う経緯がありますから、後半で會川昇がどう謂う仕事をしたのか具体的に識らないです(笑)。

>>それどころか演出、脚本の脇の甘さが目立ちまくった『龍騎の世界編』での盛り下がり具合は平成ライダー史上最速かと

About さんも触れられていますが、おそらくその辺から確執が表面化したと謂うか、會川昇のドラマ性に対して白倉PDが見切りを附け、本格的に容喙するようになったと謂う形になるのでしょうね。

>>それでもまだ見続けてるのは『おお!なんかライダーいっぱい出てるで』ていう子供的なテンションの充足感

>>元々構築されてもいないのにぶっ壊れてだけはいるという感じの本作は僕には既にアトラクション的な楽しみと『ああ!そういうのもあったねー』的な懐古的な楽しみしかなく

それが基本的な白倉PDのDCD観、と謂うことになるようです。彼がDCDでやりたかったのは、「ライダー世界の脱構築」と謂うような従来的なハイブラウな理屈と謂うよりは、「101匹ライダー大行進」的なイベント番組だったようです。

そこの認識が両者の間で噛み合わなかった、と謂う言い方は出来るかもしれません。

>>個人的に米村氏の『ブレイド編』は戯画的過ぎて面白かったですが黒猫亭様のおっしゃったように會川脚本にあったツカサの天道的な全能感(どう転んでも結局はツカサの手の内にあるという)が何故か天道の育ての親であるはずの米村脚本にはなく行き当たりばったりの結果オーライなキャラクターになってたのも不安といえば不安ではありますが

ブレイド編の面白さと謂うのは、逆説的に米村正二には天道総司と謂うキャラを描くことは無理だったと謂うことが更めて浮き彫りにされたことだと思うんですね。上のほうで會川昇の特質を「ドライで現実的」と表現しましたけれど、まあ會川昇と謂う一個人のパーソナリティに関しては剰り芳しくない話も聞きますが(笑)、書き手としては大人の視点と常識を基準に持っていることは事実だと思うんです。そこはヲタク青年的な青臭さを持つ米村正二にはない部分ですね。白倉PDにも勿論ありません。

天道総司は本来なら、青年期の迷いを抱えていたり若さの歪みを引きずったまま歳を重ねてしまった者に対して、真っ向から強力な「正論」のお説教を語れる全能の人物でなければならなかったのですが、これは大人の視点を持っている書き手にしか書けない人物なのですね。白倉PDや米村正二と謂うのは、寧ろ天道にお説教をされる側の人物でしかありません。つまり、お説教をされる側の人間にはお説教をする側の人物を十全に描くことは出来ないのですね。

これはカブトの天道だけが失敗例として実現されている状況よりも、天道は本来こう在るべきだったんじゃないかと想像させるような人物が十全に描かれていて、しかもそれを天道を描くことに失敗した人物が更めて描いて見せることで、何故天道総司が本来在るべき形で描かれなかったのかが背理的にわかってくる、そこが面白かったんですね。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月17日 (金曜日) 午前 02時56分

>About さん

>>他の3つが『仮面ライダー裁判員制度』『ブレイド社員食堂』『スマートブレイン学園』のような、キャッチコピーが先行するようなお話になっているような感じがします。

SHUZO さんへのレスにも書きましたが、おそらくその辺から白倉PDが會川昇の作品観に対してノーを突き附けたと謂うことになるんでしょう。これはシャンゼリオン・メモリアルの談話ですが、白倉PDが「ごっこ遊び」みたいな趣向のエピソードについて言及していますよね。

>>『闇法廷』の前哨戦が9話なんだけど、要は“ごっこ遊び”なんだよね。少女マンガでよくあるじゃない。『ここはグリーン・ウッド』とか、同じキャラクターで設定変えて。キャラクターがしっかりしてないと面白くないんだけど、それができるなと。

多分、白倉PDの意識ではDCD世界の個々のライダー世界は「ごっこ遊び」の世界なんではないかと思うんですよ。一年掛けて育てた各番組の「しっかりした」キャラが、本編とは異なるシチュエーションの世界でてんやわんやのドタバタ劇を演じていて、エピソードの〆はライダー共闘と謂う燃える展開、みたいな。

About さんが「ここはグリーン・ウッド」をご存じかどうかは存じませんが、巻末のオマケ劇場みたいな形でそう謂うエピソードがあるんですね。忍先輩とか光流先輩とか蓮川がシンデレラを演じたりするわけですね。元のキャラを残しつつ役柄を演じることで面白みやおかしみがあるわけですが、要はそう謂う番外編的な面白さをイメージしていたのかな、と。

>>邪推すると、制作側が求めたのは後者のような『営業のやりやすい』形だったのに、シナリオ側は一貫して『解体と再構築』で攻めていったのかなーと思ったり。

その辺はどうなんでしょうかね、よくわかんない部分です。ありそうなのは「最初の話と違うじゃないか」と謂う意見対立じゃないかと思います。多分PDのほうでは最初の能書きとして「ライダー世界の解体と再構築」みたいなハッタリをぶち上げておいて、その線でライターも考えていたけれど、蓋を開けてみたらグリーン・ウッドの巻末オマケ劇場だったので「話が違うじゃないか」と。

About さんが仰るように、最初の三つの世界辺りまではかなり「解体と再構築」の必然が主になって個々のパラレル世界の趣向が考えられていたのに、続く三つの世界では逆にパラレル世界の突飛な面白さに「解体と再構築」が辛うじて載っかっている、と謂う印象を感じます。

何というか、この辺を視るに、白倉PDのハッタリ癖を識らない會川昇が企画書的なノリの理屈を真に受けて引き受けたのに、その理屈の裏にあるのは痙攣的な趣向の面白さだったので、會川昇サイドでは「今更どうしてくれるんだ」的な憤懣があったと謂うことなんではないかと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月17日 (金曜日) 午前 02時56分

>Itou-Hajimeさん

申し訳ありませんが、どうも仰っていることの論旨が一貫していないし、整合していないように感じます。

>>忘れてはいけないのは、他に大勢いる。東映側のPだけで三人、テレ朝の梶P、代理店、石森プロ、そして監督。
>>その誰もが、會川氏の脚本を、物語なりマニアックなこだわりがあるにせよ、放映作品として「面白いと思えなかった」。だから誰も會川氏を擁護しなかった。

こう謂うことを仰る以上、現場事情にお詳しいのだと思いますが、後段で、

>>どんなに優れた物語でも、エンターテイメントとして、子供番組として面白くなければPはダメ出しします。
>>特に白倉氏は、電王の頃から子供を意識し始めています(本当ならもっと前から意識しなければいけないのですが)。

このように仰っていますけれど、寧ろ番組初期の會川脚本エピソードのほうが従来の白倉ライダーの線を踏襲していて、さらに文芸的にはよりしっかりした脚本だったとオレは考えますので、そちらの論理で謂えば電王以前の白倉ライダーには白倉PD以外のスタッフから頻繁なダメ出しがあったと謂うことになりますよね。

寡聞にしてそんな話は存じませんし、會川昇の脚本が面白いと思えなかったから誰も擁護しなかった、と謂うのは、飽くまで事実についての後附けの解釈に過ぎないのではないかと思いますよ。

PDとライターが対立したら制作サイドはPDを支持する、これは会社を背負った仕事である以上当たり前の話ですよ。そうでない場合もたしかにあります。ただ、今回はそうではなかったと謂うだけの話で、幾らでも自然に解釈の出来る事柄です。

他のスタッフが「業者」の立場にあるライターを支持しなかったことを、「面白いと感じたかどうか」で解釈するには、別途根拠が必要なはずであって、支持しなかったから面白いと感じなかったと謂う論理は単なるこじつけと謂う以上の筋道ではありません。

>>そういう観点での書き直しがあり、そして現在のディケイドと、そのヒットが生まれているというのを無視して、ただ會川氏側の「俺の作品が否定された」という悲しい愚痴だけを取り上げては、今回の件を正しくは見られないのではないでしょうか。

このご意見には、無説明で「龍騎編以降のような路線変更があったからDCDはヒットしている」と謂う前提が置かれていますよね。これはまったく根拠のない想定ですし、これを論じ始めると水掛論になると思いませんか。初期の路線でも、白倉PDのハッタリ的なアイディアがアピールしていたと謂うのであれば、別段會川昇の物語性を退けたことがヒットの要因になったと謂う話にはなりません。

要するに、Itou-Hajime さんのロジックは、或る特定の解釈を成立させる為の思い附きのストーリーに過ぎないとオレは感じているのですよ。

長々と説明してもわかりにくくなると思いますので端的に申し上げますが、オレがそちらのご意見に対して批判的なのは、或る特定の事実の恣意的解釈の性格を感じるからなのだし、そう謂う恣意的な解釈こそが物事の本質を見誤らせ、理不尽な糾弾の論理に繋がると考えるからです。

前回は「白倉PDの物語性に対する無理解の故に會川昇が無念を呑んだ」と謂うようなストーリーを語られ、今回は「子供番組の筋に拘った白倉PDが會川昇のマニア性を拒絶したことでDCDのヒットが生まれた」と謂うストーリーを語られている。この二つのストーリーは全然別の事柄だし、その意味附けには恣意的な想像と謂う以上の根拠がありません。申し訳ありませんが、そう謂う恣意的な意味附けにオレはまったく興味を覚えないし、寧ろ有害だろうとさえ考えます。

そちらがどう謂う事実性についてそのように想像されたのかと謂うのは、オレも或る程度は情報を耳にしていますから推測出来ますが、會川サイドと謂う一方の当事者から出た片口の情報だと謂う以外にも、その種の恣意的な意味附けこそが個人的バイアスと謂うものだと申し上げているのです。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月17日 (金曜日) 午前 02時57分

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