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2009年4月 6日 (月曜日)

動機について

ニセ科学批判にコミットしておられる論者の方々は、時折ご自身がニセ科学批判を行う動機を語られることがある。或る個人が何故ニセ科学を憎むのか、批判するのか、この動機を表明すると謂うことは、引いては、何故ニセ科学は批判されねばならないのかと謂う問題に個人性のフィールドからアプローチすることに繋がるだろう。

また、自身の批判の動機をきっちり考察することで、前回語ったような個人性のバイアスに対する自己認識を確立する、と謂う効果もあるのではないかと思う。旁々、動機の考察と謂うのはなおざりにして好いものでもないだろうと思う。

思い返してみると、オレはその手の動機を語った記憶があまりない。知人からも、なんであんたがニセ科学批判なんかやってんの?と聞かれることがたまにある。知人でない人も、なんでこいつがニセ科学批判なんかやってるのか?と疑問を覚えることがあるようである(笑)。

何故コミットするようになったのか、と謂うことを事実性の観点で説明するなら、以前たまたま余談に託けてそれらしきことを書いたら、poohさんと謂う方が興味を持ってくださって、それがきっかけでニセ科学批判の言論の存在を識ったから、と謂うことになるが、動機と謂うことになると、たしか纏まった意見を表明した記憶がない。

自分の中では割合自然な流れなのだが、ハタから視たら、開設以来ずっと映像文芸の批評を中心にしていてたまに社会問題に触れる程度の「文系」ブロガーだから、昨年のようにニセ科学批判一辺倒になると「硬派なニセ科学批判ブログに鞍替えですか」みたいな認識を持たれることもあるのだが(笑)、そんなきっかけがあったのと、たまたま昨年は興味を惹かれるような映像作品にも殆ど逢着しなかったと謂う事情があって、そっち一辺倒になってしまったと謂うのが真相である。

今年は今年で地元のシネコンを開拓したと謂うきっかけもあって、正月から映画附いていて、しかもたまたまSHTのトクサツが興味深い内容だったせいで、今度はすっかりそれ一辺倒になってニセ科学批判の問題に触れる機会が減ってしまったが、昨年一杯以前からご贔屓を戴いていた読者の方に不義理をしてしまったツケがあるから、丁度好いバランスかな、とも思う。

今ではもう、オレがトクサツや映画の話題を切り出しても、ニセ科学問題に言及しても唐突性は感じられないだろうから、ちょうどブログのスタンスが落ち着いたと謂うところではないかと思う。

ただまあ、本題のほうの「動機」と謂うことについては、先日FSM さんの「愛すればこそ :p 」と謂うエントリを拝読したこともあって、この際纏まった意見を表明しておいたほうが好いだろうと思った。FSM さんが仰っているような、

理屈はいろいろあります。だけど、理屈ではなくて、感情の部分はなんなんだろう、と。なんでニセ科学を批判したくなるのか、と。

そう謂う意味での動機と謂うことである。これを表明する必要があると感じたのは、前回のエントリを書いたことで、やはり感情面の動機と謂うのも一種のバイアスと謂えるのかもしれないと考えたからである。前回のエントリは、特定の対象に言及しない動機となるものだが、逆に或る対象に言及する動機についても表明しておくのがバランスと謂うものだろうと思う。

たしか昨年poohさんのところでそんなことを書き込んだような記憶があるが、オレはニセ科学そのものを許し難い社会悪として憎む感情的動機はあまり持っていない。これは別段ニセ科学と謂う社会悪が憎くないと謂う意味ではない。悪を憎むと謂う観点においては社会悪はひとしなみに憎いものであって、ニセ科学だけを特別視して憎む個別的な動機は持たないと謂う意味である。この種の社会悪は、それが引き合う限り必ず出現するものであって、その原理自体は個人にはどうしようもないものである。

そこに問題性を視るとすれば、ニセ科学のようなものが「引き合う」と謂う現実にどうにも苛立たしいものを感じると謂うのが正確なところだろう。これはつまり、ニセ科学に騙される人が後を絶たないと謂う事実に不快感を覚えると謂うことで、突き詰めて謂えば、騙す側ではなく騙される側を何とかしなければならないと謂うのが、ニセ科学批判にコミットしている感情的な動機と謂うことになるだろう。

これは「騙されるほうが悪い」式の話をしているのではない。社会悪が附け込むのは社会の弱点であり人間の弱点でもあるから、特定の悪を糾弾する一方でその種の弱点にも手当が為されなければならない。そちらのほうにより動機や関心が特化していると謂うことである。

また、社会悪としてのニセ科学の特異な部分として、騙す側と騙される側が判然としていないと謂う部分があると思う。つまり、たとえばオレオレ詐欺やフィッシング詐欺のように意図的な「騙すアート」として純化されたものではなく、主唱者が詐術として創案したのであるかどうかは、当人以外誰にもわからない。下手をすると主唱者自身にすら意識されていない。これは、主唱者が悪質な詐欺的商売をしているかどうかとは絶対的な因果関係のない事柄なので、ニセ科学が広く受け容れられる社会機序それ自体を対象にするしかなくなってくる。

詐術としての悪質性のみに着眼して、これを確信的な悪として裁くことには、どうしても微妙な留保が附き纏う。つまり、ニセ科学を一種の「詐欺」として視るには主唱者にそのような自覚があるかないかと謂う確実性に欠ける事柄を問題にするしかなくなるのだから、それは間接的な心証としてしか判断出来ないと謂うことになる。

ニセ科学が「附け込んでいる」社会や人間の弱点と謂うのは、騙す側と騙される側に共有されている問題性だと謂うことである。そして、ニセ科学の社会悪としての悪質性と謂うのは、主唱者なり信奉者なりの悪意の有無とは直接関係がないと謂うことになる。

悪意があろうがなかろうが、悪徳商法と結び附いていようがいまいが、ニセ科学の本質的な悪質性は変わりがない。よく謂われるのは、ニセ科学においては「被害者が加害者に転じる」と謂う問題性があると謂うことだが、そもそも固定的な意味での加害者・被害者関係が存在しないのがニセ科学の本質ではないかと思う。

この辺は長年apj さんが継続しておられる取り組みから明らかなことだが、悪徳行為と謂う意味でのニセ科学の本質は、事実性の次元の実否の問題に一本化されると謂えるだろう。本当ではないことを本当だと主張して効能を水増ししていることが悪徳性の在処なのだが、敢えて謂えばこの次元で切り取れる悪はそれ「だけ」だと謂えるだろう。

そしてこれは、欺罔を意図する悪意が存在するかしないかとは関係がない。商売をする側がニセ科学を信じていようがいまいが、事実性の次元で、ニセ科学を扱った商売は虚偽を売り物にした悪徳商法と謂うことになる。つまり、欺こうとする犯意が問題になるのではなく、間違っていることが問題になるのであり、間違っているから結果的に欺いたことになるわけである。

これを逆に言えば、犯罪的な意図があろうがなかろうが、悖徳的な性向があろうがなかろうが、誰でもニセ科学の社会悪に荷担する契機は満ち溢れていると謂うことである。そしてこれは、ニセ科学の主唱者にも謂えることで、最初から犯罪的な意図を抱く者がニセ科学を主唱するとは限らず、ニセ科学を主唱するプロセスにおいてそれが莫大なカネを生むことに気附いてしまった為に普通の意味で悪に堕落すると謂うプロセスも考え得るわけである。

そして、ニセ科学ではない真っ当な新技術の主唱者も、カネ儲けを目的としてそれを発案することは別段咎められるべき事柄ではないのだから、真っ当な新技術とニセ科学の間の事実性の次元における本質的な差違は、悪意の有無ではなく「間違っているかいないか」に一本化し得るだろう。

この場合、間違っているかいないかを確認する手続は科学性の次元でも法律的な次元でも厳密に定められているわけで、その手続を踏んで間違っていないことがプルーフされていないものを本当だと主張した時点で、それは「嘘」になる。突き詰めて謂えば、商売的な観点におけるニセ科学の問題とは、この手続を厳密に踏むべきだと謂う意識や知識、重要性の認識の欠如と謂う部分に求められるわけで、その一つとして詐欺的な悪意も含まれると謂うことになる。

この観点の問題性に切り込んでおられるのがapj さんと謂うことになるだろう。これは勿論、apj さんがニセ科学の問題を法律上の手続の問題としてのみ視ていると謂うことではなく、ニセ科学に実践的に対処する方法論として法的な手続論が客観的に有効な観点と視ていると謂うことだろうと思う。

ただし、ニセ科学の問題性の本質は普通一般の社会悪のように「悪人がいてその喰い物にされる被害者がいる」と謂う犯罪や脱法行為の図式のみで捉えても見えてこないと謂う認識は、ニセ科学批判者の間で共有されているのではないかと思う。ニセ科学と謂う社会悪が存在して、その中に確信的な悪人もいれば無自覚な加担者もいる、その弁別は本質的には必要ない、そう謂うことになるだろうし、ニセ科学が存在する責任は悪人だけに帰すわけにはいかないと謂うことである。

つまり、「悪」の存在と「悪人」と謂う行為者がリニアルに直結していないのがニセ科学問題のわかりにくさに繋がっているのではないかと思う。ニセ科学と謂う社会悪においては、主唱したり信奉したりすることが本質的な問題なのではなく、それが社会的に通用することがより本質的な問題である、これがオレの基礎認識である。

だとすれば、これは社会の常識に関する問題だろうと謂うことになる。たとえば、冷静に考えれば水伝の主張がおかしいことは誰にでもわかるはずだが、にも関わらずこれほどの規模で蔓延していると謂うこと、これは社会の常識の問題である。

これはちょっと差し障りがあるので直リンは控えておくが、poohさんのところの或るエントリの議論の流れで「一般人がニセ科学を見抜くのは結構難しいのではないか」と謂うようなご意見を目にしたのだが、それについてのpoohさんのご意見は、「たしかに素人には判断の附かないニセ科学もあるが、見抜けるもののほうが多いのではないか、日常的にはそれで差し支えがないのでは」と謂うもので、これはやはり社会の常識の問題としてニセ科学の問題を扱っておられると謂うことではないかと思う。

たしかにニセ科学と謂うのは、百発百中の見分け方のセオリーがあるような性格のものではない。大本のデータを改竄されたら日頃ロウデータを扱い慣れている専門家でもない限り疑問すら持ち得ないし、一般人の科学常識の範疇ではまったく手に負えないものも当然存在する。しかし、実態として社会的に蔓延しているニセ科学は、多くの場合は素人にも簡単に見抜けるものばかりであり、それでも騙される人が後を絶たないからニセ科学は問題なのである。

ちょっと考えれば誰でも戯言だとわかりそうな水伝が何故これほど広く蔓延しているのか、それは「ちょっと考えれば誰でも戯言だとわかること」を斥ける知恵が社会に欠けているからだろう。それを一言で表す言葉として「社会の常識」と謂っているわけであるが、これは「常識のない莫迦が多い」と謂うことではない。

いやまあ、感情的な部分ではそう言いたいところはあるが(笑)、それを言っても何も解決しないし、妥当な物の見方でもない。「社会の常識」と謂うのは、多くの場合は個々の成員の知的能力や教育レベルの問題と謂うより、社会的に共有されているコンセンサスの問題ではないかと思う。

極端なことを謂えば、この世にニセ科学と謂うものが存在することそれ自体は何の問題もないはずである。誰でも結果的に「科学でないものを科学だと装う」と謂う事態に陥る可能性を有しているし、前述の通りそれには悪意や犯罪的意図が必須条件ではないのだから、誰でも陥る可能性のある錯誤の在り方と視ることが可能である。

問題なのは、「科学でないものを科学だと装う」ことが間違ったことだと謂う社会的なコンセンサスが「ない」と謂うことと、この定義の真の意味が理解されていないと謂うことではないかと思う。これは目的的に否定的なニュアンスが生じるように定義附けられているわけだが、それが具体的にどう謂うことなのかと謂う共通理解が確立されていないことが問題なのだと思う。

たとえば水伝についても、多くの方々によって、水伝と謂う言説の構造においてどのような意味で「科学でないものを科学だと装う」と謂う定義が当てはまるのか、と謂う解説が為されているが、それに対するリアクションを視る限り、一般的には「科学でないものを科学だと装う」ことそれ自体が間違ったことだと謂う根本的な認識が広汎に共有されていないのではないかと感じる。

別に「科学でないものを科学だと装う」ことが悪いことだと思っていないから、「宗教みたいなもんだからいいじゃないか」とか「科学的に間違っていたっていい話なんだからいいじゃないか」と謂う悪い意味での寛容性が生じてくる。寧ろ「科学でないものを科学だと装う」ことに目くじらを立てることのほうが間違っていると謂う感覚があるのではないかと思う。これはつまり、科学万能主義のような見方で科学を捉えていると謂うことで、二言目には「科学だけがすべてではない」と謂う話になる。

これは、民度や開明度の問題と謂うより、やはり社会的なコンセンサスの問題ではないかと考えるわけである。ニセ科学を見抜ける・見抜けないの問題以前に、ニセ科学が悪質な社会悪であると謂う認識すらコンセンサスとして確立されていない。或るニセ科学が科学的に間違っていることを説明されて、それに対して別段の異論がなくても「それがどうした」と謂う感じ方が罷り通っているからニセ科学は通用するのだろうと思う。

コミットした当初、オレは社会一般に粗雑なニセ科学を見抜ける程度の常識もないからニセ科学が蔓延するのだと考えていた。しかし、もっと根源にある問題とは「科学を装う」ことで説得力を感じていながら、「科学でない」ことが暴露されてもまったく痛痒を感じないと謂う矛盾した感じ方のほうではないかと思うようになった。これは明らかに非常識であり、コンセンサスの問題である。

この意味で、ニセ科学信奉の立場からニセ科学批判の言論を攻撃する「例の」著名なスター論客(笑)の方々が偉いなぁと思うのは、普通のニセ科学批判批判のスタンスと謂うのは「科学的に間違っていたからってそれがどうした」と謂う、一種の開き直りや相対主義のスタンスが多いけれど、あの人たちはニセ科学と目されている妄説を飽くまで正しいと言い張っている辺りで、ニセ科学のニセ性を主張する批判とがっぷり四つに組み合っているわけだから、これはこれで大したものだと思う(笑)。

ただ、その組み合い方があまりに変だからお話にならないだけの話だが(笑)。

おそらく、あの方々の言論は、大本となったニセ科学とはまた別の二次創作的な妄説を日々紡いでおられるわけで、残念ながら彼らの言説が大本のニセ科学ほどの魅力を持たないから、単なるネット上の面白いヒト止まりなのだろう(笑)。

ただ、ニセ科学を科学の領域の問題として視るなら普通に考えればこう謂う土俵で論争が為されるのが当たり前なはずなのだが、ニセ科学を巡る論争と謂うのは大概「それがどうした」「それは大した問題じゃない」と謂う話に終始するのが常で、或る意味では先が読めている。それは「大した問題」なのであって、現実に莫大な金銭被害が発生したり人が死んだりしているのであるから、個人の価値観の問題だと割り切れるものではないはずであって、論争とは謂え、結局はその理を認めるか拒絶するかの問題にすぎないわけである。

何故「大した問題じゃない」と謂う話が通用しているのかと謂えば、それを「大した問題」だと見做すような社会的なコンセンサスが確立されていないからである。たとえばマルチ商法でお年寄りが騙されたとか首を縊ったとか、たとえばヘボ医者が許し難いヘマをして人が死にましたと謂う話なら、誰でもそれが「大した問題」だと考えるのだろうが、「科学でないものを科学だと装う」場合は、どれだけ莫大なカネが不当に巻き上げられていようが死ななくても好い人間が死んでいようが、「それがどうした」と謂う話になる。それはマトモな社会常識じゃないだろう。

すっかり「感情的な動機」の話から寄り道したように見えるかもしれないが、要するにオレがニセ科学批判にコミットする感情的な動機と謂うのは、常識のない社会に生きるのがほとほと厭だからである。

科学と謂うのは、嘘や作り話じゃないから有効性や有り難みがあるのであって、科学に託けて出鱈目を言うのはそれだけで許し難い悪である。人間が日頃科学のことなんか考えずに人と人の間のことを大事に思いながら生きていられるのは、人と現実世界の間のことを担当する科学がちゃんと有効性を発揮して働いているからである。

だから、人と人の間の巷で嘘や作り話が溢れていて、嘘や作り話で人間の関係性が動いていてもそれはそれで構わないけれど、科学について嘘を吐くことだけは許されない、それだけの話である。科学に興味がないのなら日頃目に附かない高い棚に科学を置いておけば好い。しかし、その棚に科学以外の変なものを乗せるのだけは拙いのだと思っていればそれで用は足りるはずである。

重ねて言うが、オレがニセ科学批判にコミットする感情的な動機は、常識のない社会に生きるのが厭だからとか怖いからであるが、一年ほどニセ科学批判の言論を視てきて、悲観と言うべきか楽観と言うべきか、認識が少し変わってきた部分がある。

当初オレは、社会にニセ科学を見抜くだけの常識がないことが問題なのだと考えていたのだが、実情はそれよりももっと手前の状況にあって、社会にニセ科学が悪いことだと確信する常識がないことが問題なのではないかと考えるようになった。悲観と謂うのはつまり、社会の常識のレベルについての認識を下方修正したからであり、楽観と謂うのはつまり、達成さるべき目的もまた下方修正されたからである。

簡単に言うとですね、ニセ科学を見抜けなくても好いから、それがニセ科学だと暴露されたら誰でも無条件で怒るような社会になれば、全然状況は違ってくる、と謂うことである。悪意的なニセ科学商売であれば、ニセ科学だと暴露されない為に今よりも格段のコストが必要になってくるし、非悪意的なニセ科学言説は社会一般で広く支持されるものではなくなるだろう。何故なら、今現在のように安普請のニセ科学が大手を振って罷り通っていられるのは、社会がニセ科学に寛容だからである。

科学的な真正性を厳しく問うような社会になれば、個々の大衆がニセ科学を見抜けなくても、それがニセ科学と目されていると謂うだけで無条件に警戒すると謂う情勢になるだろう。社会が科学に接する態度と謂うのは、それくらいでちょうどバランスが良いのではないかと思う。

勿論、そうなったらそうなったで問題は出てくるとは思う。簡単に考え附くのは、新規な知見や技術に対する「ニセ科学だ」と謂う誣告が横行したり、ニセ科学と誤解されやすい斬新な研究に予算が廻りにくくなったり、と謂う不都合だが、「科学でないものを科学だと装う」ことを悪として自明視すると謂うのは、社会において科学が健全に存在する為の基本的要件であるから、まずそこを確立するのが急務だろう。

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