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2009年4月 4日 (土曜日)

個人的バイアス

今年に入ってからすっかり文芸関係のエントリばかりになってしまったが、久しぶりにそれ以外の話題を。と謂っても、今回のエントリは基本的に「自分語り」であって何らかの意味での公論ではないことはお断りしておく。

オレは基本的にイッチョカミな性格なので、社会的な問題にもいろいろ言及する機会はあるし、不案内な分野の事柄でも門外漢としての立場を明示して門外漢なりに情報を収集することで何かしら言えることはあるだろうと考えているのだが、やはり自分が論じるのは相応しくないだろうと考える対象と謂うものが当然ある。

これはつまり、人にはそれぞれ個人的なバイアスと謂うものがあって、これは不可避的に存在するもの…と謂うか、在って当然と考えるべきものなのだが、それがあまりに強いものであると、自分以外の大多数の人々に対してあまりに感覚が断絶していて有益な情報発信にはならないだろうと謂うことである。

この辺はまあ考え方の異なる方もおられるだろうが、オレ個人としては、社会的な問題に言及する以上、個人的なバイアスがあまりに強く大多数の人々と前提を共有出来ていないと考える事柄については、それを公的に論じてもあまり意味はないと考えている。自分語りとしてなら語るが、公論として積極的に世間様に向けて発信すべき意見ではないと謂うことである。

オレの場合、そのような個人的バイアスの強い対象の代表的なものとしては、医療の分野の問題がある。そう謂う自覚があるから、医療に纏わる問題性については言及を控えてきたわけだが、「考え方」そのものがそんなに突飛だと謂うわけではない。ただ、医療一般に対する「感じ方」を多くの人々との間であんまり共有出来ていないと謂う自覚があるので、普遍的な感じ方の一端を共有出来ない事柄について言及しても公論たり得ないと考えているわけである。

たとえば、巡回先の一つである「NATROMの日記」のNATROMさんは本職のお医者さんであるから、ニセ科学以外にも医療に関する問題を採り上げられることが多く、いつも至極真っ当なことを仰っていると思うのだが、こちらで採り上げておられるような問題については、オレが発言しても何の意味もないなぁと常々考えている。

勿論医療に関しては何の専門知識もないまったくの素人だから、精々感想を言うくらいしか出来ないと謂うこともあるが、専門知識がないことが直接の理由ではない。その感想が普通一般の人々の感じ方とは相当なズレがあるだろうと考えるので、「そう謂う変な感じ方の人がいる」と謂う以上の情報にはならないと考えるから、あまり言及する意味を感じないのである。

これが端的に顕れるのが医療事故や医療裁判に対する感じ方で、普通の人々が感じるような医療過誤に対する怒りや反撥を、オレ個人はまったく共有することが出来ないと謂うことがある。これは大きなことを言えば、医療一般に対する感じ方の問題にもなってくるわけだが、別段現代医療に対して不信感があると謂うわけでもないし、寧ろ信頼しているほうだと思うのだが、そもそも医療で確実に病気が治ると謂う考え方の図式にリアリティを感じないと謂う極端なバイアスがある。

これには根拠も理由もない。ただそのように感じると謂うだけのことで、細かく視ていけば自身の個人史上の問題や深層心理に何かしらの原因を見出すことが出来ると思うのだが、それにもあんまり興味がない。病気と謂うものは、治るものは適切な処置で治る可能性はあるが、治らなくても何の不思議もない、と謂う非常に強固な理も非もない感じ方があるのである。

そう謂う感じ方が根底にあるから、医療を職業分野として視る場合に、それが人命を扱う特殊な職業分野であると謂う分野固有の個別事情をリアルに感じないわけで、窮めて一般的な職業観で視てしまうわけである。

そうすると、たとえば先ほどのNATROMさんが四月一日のネタエントリの冒頭で書かれている以下のような事柄については、医療従事者とも非専門家とも異なる、とても個人性の強い感じ方しか出来ないと謂うことになる。

医療訴訟の背景には、医療の不確実性に対する理解不足があるように思える。「過失がなければ問題なく治って当然」、言い換えれば、「結果が悪かったのであれば、なんらかの過失があったに違いない」という訳だ。医療者から十分な説明を行っても、こうした思い込みのある患者さん/ご家族に十分納得していただくことは難しい。

一般的にこう謂う感じ方があると謂うことは理解出来るが、オレの個人的な感じ方としてまったくリアリティを持って共感することが出来ない。こう謂う一般的な感じ方が筋違いだからとか、間違っていると考えるから共感出来ないわけではないし、専門的な知識に基づく理解があるからそう感じないわけでもない。単純にそう謂う人情を共有していないと謂うだけのことである。

であるから、たとえば医療裁判で遺族が抱く「何故死ぬとは思えない患者が死なねばならなかったのか、その理由を識りたい」と謂う強い感情がまったく共有出来ない。これは、現実に悪質な医療過誤の実例が存在する以上、このような感情を理解出来ないと謂うのは、筋の通った物の考え方ではないだろう。

なので、たとえばNATROMさんが日頃医療事故や医療裁判について書かれていることについても、常々非常に共感するところはあるのだが、それについて賛同していると意思表明することすら意味がないだろう、有り体に謂えば論者としての誠意に欠ける言及だろうと考える。何故なら、そのようなご意見にオレが賛同する動機とは、単に自分の無根拠な感じ方にたまたま適合する正しい筋道を提示しておられるからにすぎないからである。こう謂う動機で賛意を示されても向こうだってご迷惑だろう。

寧ろ、「過失がなければ問題なく治って当然」と謂う感じ方に対してじりじりするような隠微な憎悪に近い反撥を感じると謂うのが正直なところである。

専門分野においてどう定義されているのかはさておき、一般的な感覚として「病気」と謂うのは「苦痛や不快などの何らかの体感的なストレスを及ぼす肉体機能の異常」だと謂うふうに漠然と考えられていると思うのだが、これが「治るのが当然」「死ぬのはおかしい」と謂う感じ方に対して憎悪に近いような妬ましさを感じるのである。

当ブログでも度々肉体的な不調を報告してきたが、オレはこれまで生死に関わるような大病こそしてこなかったが、「病気」と謂うネガティブ尺度ではなく「健康」と謂うポジティブ尺度で視るなら、ほぼ生涯を通じて健康的な肉体状況に恵まれた記憶がない。

基本的には、病気と謂うのは治ったら儲け物としか感じられないわけで、医療とは治る可能性のある病気に対する最も効果的な対処法と謂う以上でも以下でもないと感じるのだが、これは別段筋の通った考え方でも確固たる信念でもない、単なる感じ方に過ぎないのだし、その感じ方はオレの当該分野についての物の考え方に強力な影響を及ぼしている。つまり、オレはこの分野の事柄について客観的に筋の通った物の考え方が出来ているかどうか、普遍性のある判断が出来ているかどうかが、自分では確信出来ない。

オレの感じ方では、生きていると謂うことは何らかの形の体感的なストレスがさまざまな形で常に持続する状態である。これは、そう謂う体質に生まれついた以上、一般的な意味では「病気」ではないし、何をしても根本的には「治る」ことはない。

オレが無闇に煙草を吸ったり酒を呑んだり飯を喰ったり茶を飲んだりするのは、何もしないでいると堪らない肉体的ストレスを感じるからで、そのストレスを紛らす為にのべつ何らかの快適な刺激を求めているからである。この体感的なストレスの極端に強いものが「病気」で、風邪や食道炎くらいなら多分死にはすまいが、たまたま自分の防御機構が支えきれないほど強いものが来たら多分オレは死ぬのだろう、と謂うのがオレの実感的な感じ方である。

つまり、オレの恒常的な実感においては、生きていると謂う状態は基本的に不快な状況なのであり、その不快な状況においても何らかの刺激によって快適な実感が得られるから生きていることが引き合うと感じられるのである。これは物心附いてからずっとそうなのであるから、違うとかそうじゃないとか言われても困る(笑)。子供の頃のほうが寧ろ、自分の肉体性における生の不快感と折り合いを附け得る方法論の経験に基づく蓄積がなかった分だけ、自身の生を積極的に肯定出来ていなかったと思う。

多分、先ほど語った「憎悪に近いような妬ましさ」の実感の起源と謂うのはそのような幼少期に求められるのではないかと思う。掛け値なしに言えるのは、ガキの時分のオレは生を楽しむ能力に絶対的に欠けていたと謂うことである。オレのそろそろ半世紀に及ぼうとしている個人史と謂うのは、つまりは、デフォルトの不器用な肉体性において、如何に生を肯定することが出来るかと謂う「技術」を確立する為の試行錯誤の歴史だと括っても差し支えはないだろう。

それ故に、たとえば現在の生活スタイルが原因で何らかの生活習慣病に陥ったとしても積極的に医師の指示に従って生活スタイルを大幅に変える気にはなれないんじゃないかと思うし、それ以前に多少の不都合だったら医者に診てもらおうとすら考えないのではないかと思う。多分、この歳になって大幅に生活スタイルを変えるとなると、それはかなり不快な生活になるだろうし、一からその不快の持続に対処すべき方法論を構築していく根気はもう残っていない。

これはまあ、大袈裟に謂えば一種の死生観のようなものだが、これがオレの物の考え方に大きく影響を与えていることは事実である。たとえばオレは「人間の成長」と謂う虚構の存在意義を肯定する立場で物を考えているが、これはそう謂う虚構があるから自分の生を肯定出来ると謂う実感に基づいている。その意味ではこれも個人的バイアスに影響を受けているわけだが、それは一種普遍的な感じ方を世間と共有出来ていると謂えるだろう。

多かれ少なかれ、人間はそのようなやり方で生を肯定しているのだし、そのような実感を抱くに至った具体的な理由やその強度は、そのような考え方それ自体とは距離があって、物の考え方の妥当性そのものにはあまり関係がない。そもそも、その種の事柄の大本を辿れば、必ず個人性の実感に根差しているのは当たり前の話である。

しかし、人の死に対して同じ人間が何を為し得るか、と謂う問題になると、問題の領域とその実感との距離が近すぎて、普遍的な感じ方に還元することが出来ない。

こう謂う人間にしてみれば、前掲の「過失がなければ問題なく治って当然」と謂う感じ方はサッパリ実感出来ないことになるわけで、病気と謂うものが人の意識において苦痛や不快を与える肉体の不具合でしかないのなら、それは「間違っていない対処」だけを講じても確実に「治る」とは限らないのが当たり前だ、としか感じられないのである。

これは「医療不信」と謂うのとは全然違う。そもそも現代医学が有効でなかったら、オレのような肉体的に脆弱な人間はこの歳まで生き延びられなかったわけだから、医療技術の有効性に対する信頼と謂うのは肉体的に頑健な人間よりもかなり強い。現代医療が発達する以前の時代性、たとえば江戸時代の社会状況を想定するなら、肉体的に頑健な人間以外は満足に生き延びることすら出来なかったわけだから、その時代にオレが生まれていたらおそらく赤ん坊の頃に死んでいただろう。

その時代の医療技術の有効性と謂うのは、肉体的に頑健な人間がそれでも抗し得ないほどの病的な状況に陥った場合、その自然治癒を後押しすると謂う程度のものだったわけだから、肉体的に脆弱な人間が重篤な病的状態に陥った場合、手の施しようもなく簡単に死んだわけである。

たとえば、赤ん坊なんてのは大人に比べて肉体的には脆弱だから、赤ん坊が今より簡単に死ぬのは当たり前の話だったわけである。また、妊娠・出産は病気ではないが、通常の肉体状況から考えればかなり病的な状況なのは間違いないし、まして出産時の肉体状況は普通に考えれば死んでも不思議はないような異常な状況なのだから、妊産婦が簡単に死ぬのも当たり前の話であった。

今は赤ん坊が死なずに生き延びるのは「当たり前」だし、妊娠・出産は「病気ではないのだから」妊産婦が死ぬのは「異常な事態」であると見做されている。なので、赤ん坊や妊産婦が死ぬと、そこには何か過失があったに違いないと謂う話になる。「当たり前のこと」ではない「異常な事態」が起こったのだから、誰かが何かを間違ったのだろうと謂うわけである。こう謂う感じ方が通用する社会と謂うのは、謂ってみれば大変幸福な社会だろう。

これは医療技術の進歩のみならず社会の発展も大きく貢献していて、現代社会のシステムにはいろいろ不備もあるだろうけれど、少なくとも肉体的弱者が昔では考えられないほど長く生き延びることが出来て、それなりに快適な暮らしが出来ると謂うだけでも、社会の発展には絶対的意義がある。

勿論これは、強者のみが生き延びるべきだと考える人には何の意味もない事柄で、寧ろ昔ならとっくに死んでいたような障害者や社会的弱者、無能力者を社会が補助・扶養するなど無意味なコストだと考えるような、ヴラド・ツェペシュ里見忠義のような極端な考え方の人もいるだろうが、有り難いことにそう謂う考え方は世間的にはマトモな良識のマジョリティとして認められていない。

しかし、社会的なシステムも現代医療も、治る可能性のある病気は必ず治るし、死ななくとも済む人間は必ず死なないとまで保証しているわけではないし、医療の職業的実践が保証しているのは「適切な処置を施す」と謂うところまでで、その結果の成否についてまで絶対的責任を保証しているわけではない。

それがNATROMさんの仰る「医療の不確実性」と謂うことなのだろうが、その不確実性がオレのように極端に自明視されてしまうと、たとえば医療従事者の過失をどのレベルまで追及すべきなのかと謂う客観的な尺度を持ち得なくなる。

たとえばオレは、何度も映像化されている「白い巨塔」のテーマ性の社会的意義と謂うものがちっとも実感出来ない。これは「意義なんかない」と謂っているのではなくそれを実感出来ないと言っているのだと謂うことにはご留意願いたい。

勿論、この劇中で主人公の財前五郎が犯した医療ミスは確実に彼自身の過失に基づくものと設定されているわけで、原作者以上の医学的知識があるわけではない受け手からすれば、財前五郎に職業上の過失責任があると謂う前提は認めざるを得ないわけだが、だから彼の医療ミスが許し難いものなのかと謂う問題については、まったく客観的な判断が出来ないのである。

原作者はこの問題性の設定を財前個人の人間としての本質的な倫理の問題に収斂させていくわけであるが、単純化すれば「優秀な医師である財前五郎なら発見出来たはずの兆候を個人的な理由で蔑ろにした」と謂うことが医師の倫理上許し難い過失なのかどうかと謂うことが、オレには判断出来ないわけである。

これが医療過誤ではなく普通の事故や殺人と謂うことになればもう少し話は単純なのだが、本人は別段手術の失敗や患者の死を望んだわけではなく、寧ろ失敗することで甚大なデメリットを蒙るわけだが、医師として尽くすべき注意義務をとことん尽くさなかったことで結果的に患者は死亡したわけであり、さらに、財前と患者や家族とのコミュニケーションにも問題はあった、つまりインフォームド・コンセントの問題も描かれているわけである。

こう謂う問題設定の意義はアタマでは理解出来るが、本音の感じ方では「患者の運が悪かっただけじゃないのか」としか感じられないと謂うのが事実である。個人の倫理と謂う動因と人命の損失と謂う取り返しの附かない結果をリニアルに繋げることでこの問題提起は成立しているわけであるが、これがあまりに特定のテーマ性に特化した設定なので、一般論としての判断は普遍的な実感を根拠にするしかないだろう。

たとえばこれが、何の背景もなく単純に油断していたから見落としたと謂うことならどうなるかと謂うと、医者も人間なんだからたまには油断することもあるだろうし、それが人命の存否と謂う退っ引きならない結末に直結するからと謂って、職業実践上における個人のエラーを結果の重大性のみを尺度にしてあまり厳格に追及するのも公平ではないだろうと感じる。それではすでに神明裁判のようなものだ。

しかし、「白い巨塔」ではそれを財前五郎の生き方や信条の問題と直結している辺りが曲者なわけで、結局この作品で裁かれているのは財前五郎の職業実践上の個別のエラーの過失責任の軽重ではなく、その生き方の是非なのである。

たしかに劇中では、財前五郎ほどの熟練した名医ならその兆候を見落とすことはないと設定されていて、しかもその可能性は他の医師によって事前に財前に報告されているのだから、それを個人的な事情の故に意図的に無視した時点で、「エラー」は「ミス」になり、その「ミス」は人間としての「罪」になったと謂えるだろう。

しかし、それにしたって、別段財前五郎はその判断で患者が死ぬだろうとは予期していなかったわけで、「リスクはあっても、結果的には上手くいくに違いない」と考えていたわけである。これはもう、財前五郎と謂う人間の生き方としてそのような場合にはそのような判断をすると謂う話にしかならないわけで、それを裁く以上は個別の過失ではなく財前五郎の生き方そのものを裁くしかなくなるわけである。

そうなると、たしかに人一人の人生の重みを引き受ける厳粛な職業である以上、そのような厳格な追及の論理も妥当性はあるかもしれないが、一方では財前五郎ほどの名医は年間に何十人、何百人もの患者を診ているわけで、何百人もの人生の重みと日常的に対峙している職業者が、職業的実践における過失の代償としてたった一つしかない自身の人生の重みを差し出すべきだと謂う認識そのものが妥当なのかどうか、と謂う話になるだろう。それはどれだけ一方的に分の悪い賭けと言えるのか、と謂うことになる。

これはつまり、最初から責任能力と責任関係のバランスが破綻していると謂うことであるから、人一人の人生に対して人一人の人生を対価として求めると謂う単純な精算の算術はハナから成立しないと謂うことである。それ故、医療サービスを受ける場合には、結果として一人の人間の人生が毀損されたとしても、その代償として一人の医師の人生の毀損を要求すると謂う単純な算術は成立しないと謂うことである。

たとえばこれが殺人であれば、一個の人命が理不尽に奪われた代償として行為者の人命を要求する、これは思想的な立場によっては肯定され得る(死刑存廃の議論はさておくと謂う意味だが)社会的な算術であるし、「命には命を以て報いるしかない」と謂う判断にもそれなりの理はあると謂えるだろうが、医療サービスの場合は最初からそんな算術で成立しているわけではないと謂うことである。

過失で死なせたことを殺人と同列に視るようなロジックで医療サービスは成立しているわけではないのであって、これは一般論の範疇の事柄であるから、如何なる思想的立場に立脚しようが動かせない規範である。思想的立場の違いによって、患者を死なせた医師が場合によっては死刑に処せられるようなことがあるなら、それは絵空事のディストピアだと謂うだけの話である。

そして、個人の生き方を裁くことが出来るのは文芸の虚構だけであって、現代的な社会性の次元において個々人の生き方そのものを裁く権利は他の誰にも与えられていない。もしも財前五郎が実在の人物であれば、その生き方の是非を価値観的に批判する意見は在り得ても、その生き方や価値観そのものを裁く権利など誰にも与えられていないはずである。ここで裁かれるのが単に財前五郎の行為責任の問題であるなら、職業的実践における行為責任を問う場において、結果の重大性のみに鑑みて生き方まで裁かれちゃあ堪ったもんじゃないな、としか思えないわけである。

この辺はNATROMさんの問題意識とも関わってくるのかもしれないが、人間ならあって然るべき弱さやバイアスをも厳しく排する超人的な克己心と意志力を持つヒーローでもない限り医師としての絶対的な倫理が遵守出来ない、つまり医師としての経験を長く積むことが裁かれるリスクを一方的に増大させることに他ならないなら、人の生死に関わる分野の医師になり手がいないのは当たり前の話と謂うことになるだろうし、生半可な凡人がなるべきではないと謂う話にもなるだろう。

そんな超人乃至聖人君子になろうとする人間がたくさんいるべきだ、少なくとも社会が必要とする程度にはたくさんいるべきだと考えるなら、じゃあ、そう謂うあんたが率先しておなんなさいと謂う話にもなってくる。それはたしかに、生まれ持った知力才能や生家の財力にも関係してくる事柄ではあるが、そんな不可避的な障害を克服して医師になることが難しいと認められている世の中で、人間ならあって然るべき弱さを医師にだけ許さないと謂うのは公平な話なのですか、と謂う話にもなってくる。

つまり、財前五郎の生き方が偏った価値観に基づく極端なものだと謂うことに異論はないし、人一人の命に対してエラーをミスに、ミスを罪にして取り返しの附かない事態を招いた判断が間違ったものだと謂うことにも別段の異論はないが、その一方「医療に身を委ねると謂うことはそう謂うことでしょう?」と謂う感じ方しか出来ないのである。

医療だって人間が職業としてやっていることである。人間が出来る以上のことは出来ないのだし、人の生き死にに関係するからと謂って、それを基準にして職業的実践の是非を量るべきではないとしか感じないわけである。そう謂うものでしかないものに自分の命を預けるなら、それは一種の博奕であって、その博奕が裏目に出た場合に、賽を振った人間を罰する目的で責任の軽重を追及するのは変だろうとしか思えないわけである。

たとえば、ドラマやドキュメンタリーなんかで、治療の甲斐なく患者が死んでしまったりすると、遺族が医師に「治ると言ったじゃないか、生かして返せ!」と喰って掛かる場面を見せられたりするわけで、これはインフォームド・コンセントをきっちりやっていてもあんまり結果は変わらないわけで、喰って掛かるような人は何をしても喰って掛かるけれど、その結果が「取り乱してすいませんでした」と謂うことになるか裁判に発展するかだけの違いである。こう謂う場面を見ると、アタマでは人情として理解出来るのだが、正直言って「ああ、いやだなぁ」としか感じないのである。

オレが同じ状況に置かれたとしても、多分怒りの感情が医師に向くことはないだろうとしか想像出来ない。それは、医師を責めるのが筋違いだからではない。治る可能性がある病気は必ず治る、死なないで済む人間が死んだのは納得出来ない、と謂う実感を共有出来ないからである。「治って当然の者を死なせた」と謂う自分の難癖を一瞬たりとも信じることが出来ないからである。死に至る病において、如何に治癒の可能性が高かろうと、如何に最適な医療処置が施されていようとも、生死を分かつ確率は本質的に五分五分であるとしかイメージ出来ないのである。

つまり、「治って当然の病者」などこの世に存在しない、その実感があまりに強固過ぎるから、一瞬たりとも「治す為に人間がやったこと」の不全を責める感情的な動機を持ち得ないのである。勿論、職業的実践である以上、それが適切なものであったかどうかは、結果の重大性に鑑みて一通り厳密に点検される必要はあるし、それは医療の側でも患者の側でも必要な手続であることに間違いはないが、普通なら患者の側が抱くべき感情的動機をまったく共有出来ないと謂うことである。

であるから、如何に人命を扱う職種だからと謂って、医師の職業的実践に対してその他の一般的な職種における職業的実践に求められる責任の限界を超えるほどの責任を問うと謂うモチベーションがどうしても湧かないわけである。

勿論、世の中には命取りの藪医者とか犯罪スレスレの脱法的な倫理観の医師と謂うものも存在するわけだが、それは普通の職業とのアナロジーでしか悪質性を感じない。医師なのだから、人命を扱う職種なのだから、と謂う一般的にイメージされているような概念上の職種固有性と謂うものは、まったく実感出来ないのである。

これがどう謂う場合に影響してくるかと謂うと、たとえば、或る医療事故が起こって患者が死亡したとして、担当医師にたしかに過失がある場合でも、その過失に無理もないところがあればその責任は酌量される、こう謂う事柄に対して一般的な感じ方としては感情的に割り切れないものを感じるのだろうが、オレはその種の感情的動機が欠落しているから葛藤をまったく感じずに割り切れてしまうと謂うことである。

たとえそれが自分の肉親であろうが最愛の者であろうが、喪われた命に対してそれを救おうとした人間の行いの不十分さを責める動機を持ち得ない、それが事実として不十分であったとしても、である。これはとても一般的とは謂えない個人的バイアスだろう。こう謂う感じ方が世間で罷り通ってしまえば、医療の側の不正や過失を厳しく監視する社会的なモチベーションが得られない。それもまた公平な状況とは言えないだろう。

これは、論理的な理路を受け容れる態度の故でもないし、達観した死生観を持つ故でもない、単に個人的な感じ方の問題にすぎないと謂うことである。その根拠が個人的な感じ方でしかない以上、この問題についてそれとは違う感じ方をする多くの相手に対して何らかの意見を公論として述べるのは、少なくともフェアではないだろう。

たとえば最前オレが語ったような、病者の死に対して医療従事者の責任を問う動機を持ち得ないと謂う前提に立つなら、愛する者が医療事故で亡くなった方は、その死の理由を医療従事者の責任に問うのではなく、そんな医療従事者を選んだこと乃至たまたまそんな医療従事者に当たってしまった偶然に「死の理由」を求める以外にはなくなってしまうだろう。そして、それをさらに突き詰めて考えるなら、「人間が死ぬことにはちゃんとした理由なんかない」と謂う突っ慳貪な真実を直視せざるを得なくなるだろう。

これは、普通の人情として耐え難いことではあるだろうし、筋の通った考え方とも言えないだろう。また、身も蓋もないことを謂えば、大多数の人々はそんな何処にぶつけようもない無慈悲な遣る瀬なさを無意識に回避する為に、病者の治療に責任を持つ職業者を責めるのだろうと思う。

基本的に人間はそんなことを理解したいと謂う積極的動機は持たないのだが、誰彼構わず理不尽に糾弾することが正しくないことを大多数の人はわかっているから、いずれは理解しなければならない。それが人の死と謂う事実を受け容れる手続でもある。

しかし、何処まで行ってもその理解が成立しない事例があって、そのような場合に医療裁判が行われるわけだが、医療の側の過失に責任のある場合もあれば患者や遺族の側の無理解に責任がある場合もある、そう謂うことだろう。NATROMさんは、前者の事例が一定程度存在することは認めながら、後者の事例が増加していること、それが訴訟と謂う社会闘争に短絡するケースが増加していることが昨今の医療裁判の増加傾向に繋がっていると指摘されているのだと理解している。

単に、事実において、オレはそう謂う場面で医師を責める動機を持ち得ない。だからと謂って、医師を責めることで普通の人が回避している辛さを別の方法で斥ける知恵もない。これはつまりオレの個人的バイアスに基づくハンディだと謂うにすぎない。そのような事実がある以上、オレはそうではない感じ方をする人間に対して、自身の感じ方を超えた意見を持ち得ないわけである。それに整合する理屈を附けた瞬間に、その言説は無根拠な感じ方を正当化する為の方便になるわけである。

これは窮めてわかりにくい話だから、これだけ語っても誤解する人がいるかもしれないので更めてお断りしておくが、オレはこのような考え方が「正しい」と主張しているわけではない。

そう謂うふうにしか実感出来ないし、その個人的な実感の在り方はこの対象に対する考え方に強力な影響を及ぼしているだろうと考えられるので、この分野の事柄に関して何かを言っても、それに公論としての普遍的な妥当性があるかないかを自分では判断出来ない、それ故にそれを一種の「自分語り」として語る以外には言及出来ない、と謂うことを言っているわけである。

今回、NATROMさんのネタエントリに言及したのは、要するに個別事例を取り扱ったエントリには言及出来ないからであって、逆に謂えばそう謂うきっかけがあったからこう謂うことを語ったわけで、さすがに現実の特定問題を取り扱った言説を口実にして自分語りをするほどオレも図々しくはないと謂うことである。

なんでこう謂う自分語りをわざわざ語ったのかと謂えば、特定個人はその個人性の限界と謂うものを必ず有していて、その個人性の性格によっては公論として論じることが適切ではない対象と謂うものが必ず在る、そう謂う実例の一つとしては意味があるのかなと思うからである。

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コメント

ぼくもときおり、自分に特定の事柄に関するある感覚がすっぽりと抜け落ちているのを自覚することがあります。
そう云う事柄については極力自覚して、関わらないように努力すべき、みたいに思っているのですが、あんまりちゃんとできている自信がなかったり。

投稿: pooh | 2009年4月 5日 (日曜日) 午前 08時07分

>poohさん

極端な話、死ぬのが怖くもないし不都合でもないと謂う人が、「これこれこう謂う場合に命を賭けるのは正しいことだ」みたいな主張を、他者に向けて理路整然と語る行為と謂うのは途轍もなく厭らしいことだと思うんですよ。

不特定多数に向けて何かを語る場合、多くの人々の間で共有されている感覚を共有出来ていない事柄については、自分がどう振る舞うかと謂うこととは別のこととして、やはり口を噤むと謂うのがフェアな言論姿勢だと思うんですね。

>>そう云う事柄については極力自覚して、関わらないように努力すべき、みたいに思っているのですが、あんまりちゃんとできている自信がなかったり。

自分では距離を置くように努めていても、否応なく関わらざるを得ない場合もあるわけで、その辺は一個人だけの意志では儘ならないところですね。ただこれは、結局は恥を識っているかいないかの問題であるような気もします。

投稿: 黒猫亭 | 2009年4月 5日 (日曜日) 午前 08時54分

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