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2009年6月30日 (火曜日)

或る名跡考

例によって落語の話題である(笑)。こちらでも度々落語の話題に附き合ってくださっているhietaro さんのところで「深い意味はないのだけれど」と謂うエントリがアップされ、これまで会話を楽しませて戴いていたのだが、そこで不図「春風亭小朝の三遊亭圓朝襲名」と謂う話題が出てきて、「ああ、そう謂う話もあったなぁ」と想い出した。

hietaro さんのほうは「小朝のほうにも圓朝を狙う意欲はあるのではないか」と謂うお考えで、オレは「いや、小朝にそのつもりはないんじゃないかな」と謂う考えで、意見が分かれたのであるが、まあこれは小朝本人にしかわからないことなので(笑)、飽くまで想像の範疇でしかない。

その会話の中で、hietaro さんが参考として挙げられたのが「東京ポッド許可局」と謂うポッドキャスト放送の第二三回第三八回緊急特番における小朝の去就を論じた放送なのだが、オレが聴いた感触では「確信犯の希望的観測」の域を出ないように感じたし、どうもその説明が大変不正確なのではないかと感じた。

ロジックの強引さは、まあこう謂う放送の性格上、芸としてはアリなのかなと思ったのだが、どうもその背景説明で語られている落語の知識が、オレの調べた範疇ではかなり不正確に感じられたので、自信はないがツッコミを入れてみることにした。ところが、レスを書き始めると、これが予想通り物凄く長くなったので、やむなくこちらで引き取ることにした次第で、レスとして書いたそのままをこちらで掲載する。

ご興味がおありであれば、是非元の遣り取りを辿って戴きたいところだが、まあ話自体は結構脇筋の問題なので、最低限これだけ読んでも意味は通じるかな、とも思う。文中で「この放送」と書かれているのは、上記のポッドキャスト放送のことである。


>hietaro さん

まあ、小朝個人の心中については憶測で好いんですよ。ただかなり気になったのは、その憶測の根拠として相当いい加減な知識を並べているように思えるところです。

これ言い出すとくだくだしくなるから余計な講釈かな、とも思ったんですが、誤解や極論が流布するのもアレかと思いますので敢えて指摘しますと、そもそもこの放送で語られている落語の知識って、普通に考えてかなり変なことが多いですよね。

「従来の落語は芝居噺しかなくて、素噺のスタイルは圓朝が作った」とか「速記と謂うシステムを組んで自分の高座を記録させた」とか「言文一致運動の始まり」とか、まあ普通に考えて誤解もしくは強弁としか思えないことを言っています。また、「落語は歌舞伎に対するコンプレックスから生じたパロディ」「名跡制度は歌舞伎のパロディから始まった洒落」と謂うのもちょっと強弁が過ぎないかと思います。

こう謂うのは、オーセンティックな「落語学」みたいな本道があって、それに対するサブカル的アンチとして機能するんなら好いですけど、落語のオーセンティックな知識と謂うのは、まだまだ電子化による共有が浸透していないわけですから、下手をするとこれが「知識」として流布してしまう危惧もあるんじゃないかと思います。

好意的に表現すると、この方の言っていることは殆ど洋泉社的と言いますか、映画秘宝的な不正確情報ですよね。これは、映画みたいに正確な知識が広い範囲で共有されている受け手の層の厚い分野ならサブカル的手法として通用しても、落語みたいにすでに受け手の側の共有知識の基盤が崩壊しかけている分野では、かなり歴史が歪曲して受け取られる可能性がないかと危惧します。

上に挙げた例は、オレが複数のソースで調べた限りでは、満更根も葉もないことではない代わりに相当歪曲された不正確な情報で、ちょっと孫引き程度のブログの記述を調べたくらいだと、ほぼ正しいことを言っているように聞こえる辺りがもっと厄介なんではないかと思います。何と言うか、俗説とか俗流解釈と謂うものがどのようにして発生するのかの見本のような感じですね。

要するに、或る歴史的事実をどのように受け取るかと謂う場合、多角的に考証して客観的妥当性の高い解釈を採る、と謂うのが歴史の基本ですよね。ところがこの方の語ることと謂うのは、歴史的事実の恣意的解釈そのもので、そこに至る歴史的な背景や事実関係の細部をすっ飛ばして本末転倒の牽強付会を捻り出しているわけです。

たとえば「従来の落語は芝居噺しかなくて、素噺のスタイルは圓朝が作った」と謂うのはオレの識る限りでは間違いで、元々素噺から始まった落語が派手な外連を求める観客の嗜好に応じる形で大道具入り芝居噺のスタイルが流行し、圓朝はまずその当世流行のスタイルから落語に入ったけれど、後に芝居噺を棄てて大基本の素噺に転じたと謂うだけで、素噺を確立したとか何とか謂う話ではまったくありません。芝居噺・素噺と謂う乱暴な対置で謂うなら、落語の本質的様式として圓朝以前と以後では殆ど変わりはなかったはずですね。

また、「速記と謂うシステムを組んで自分の高座を記録させた」とか「言文一致運動の始まり」と謂うのも不正確で、圓朝の高座が記録されたのは主に速記者サイドが新興技術である速記術のデモンストレーションとして圓朝の高座を選び、それが新聞に連載されて好評を博したと謂うだけのことですし、速記術のデモとしては続き物の大長編語り物である圓朝の創作落語が適していたと謂うだけのことです。言文一致運動は圓朝の速記録から始まったわけではなくて、すでに勃興していた言文一致運動の文体上の一モデルとして圓朝の速記が参考にされたと謂うだけのことですね。

こう謂うことを真面目に突っ込むのも何だかネタにマジレスみたいな感じですが、この放送がサブカル的なネタ放言であることについての共通理解と謂うのは、多分今は崩壊しているんじゃないかと思うんですね。ネタがネタで通用していた時代なら、それに突っ込みを入れるのも野暮なんですが、多分今はそう謂う時代ではない。

この方はもしかしたら戦略的に牽強付会を自覚しながら言っているのかもしれないですが、これを聴いて「なるほどそうか」と思った方が、次に何処かでこれを「知識」として披瀝する際には「本当のこと」として伝わっている。そう謂う危うさを感じました。

で、オレがこの放送の内容を胡散臭く感じた心証の源と謂うのは、初っ端のくだりで圓朝の偉大さを強調する為に平気で「嘘」を吐く姿勢を視たことによるもので、最初に受けたこのような印象から懐疑的な姿勢で聴いていくと、その手の「嘘」はここだけではなく、この方の語る知識はすべてこの伝で歪曲を蒙っている。ああこれは要するに全部牽強付会の「面白いお話」なんだな、と思ったことが最も大きいです。

名跡制度に対する説明も、会話の流れから視て「その場の思い附き」以上のものではないように思います。近代以前の日本の社会には「イエ制度」と謂うものがあらゆる階層において遍在したわけで、別段名跡制度と謂うのは歌舞伎の専売特許ではなかったし、技芸の世界で名跡制度が発生するのは近世くらいだと当たり前のことで、別の芸能の影響や戯画的模倣と謂うことはまず以てないでしょう。

殊に「贔屓筋」が物を謂う技芸の世界、芝居や相撲や落語の世界では、名跡と謂うのは顧客を引き継ぐと謂う大きな経済的意味がありますから、洒落や冗談で始まったわけでは決してないはずです。多寡が名前ですが、それには単なる技芸のプライドだけではなく職業上の大きな経済価値があったわけです。だからこそ、名跡の襲名では贔屓筋の意見も無視出来ないわけであって、カネの出所である以上口も出すのは当たり前ですね。殊に関東落語は、出発点からしてお座敷の粋な芸だったわけですから、そこでカネも大きく動いていたわけです。

たとえば圓朝の没後に圓朝の弟子が襲名すると謂う場合、贔屓筋の旦那に「私が二代目の圓朝ですので先代に変わらぬご愛顧をお願いします」と言うと、その噺家が圓朝と謂う名前になったから先代圓朝の贔屓筋が目を掛けてくれるわけですね。

翻って現実の経緯を考えると、圓朝に最大限の経済的援助を与えていた藤浦家が、借金の形として圓朝没後に名前を預かることにしたわけで、これは贔屓筋が名跡の襲名に口を出す究極の形ですね。何せ贔屓筋が直接二代目を決定する正統な決定権を持ったわけですから。その一事を以てしても、名跡と謂うのは洒落でも何でもなかったわけで、この方の立論がそこで矛盾しているわけです。

さらに、今は噺家を引き連れての金持ちのお座敷遊びが噺家の大きな収入源と謂う時代ではないですから、名跡の歴史的意味合いも違ってきています。名跡には実質的な経済価値は伴わなくなって、噺家の芸格を保証する歴史的根拠と謂う意味合いが強くなってきたと思いますし、関東落語が古典芸能化するに連れて歌舞伎同様に名跡世襲化の動きが強化されています。

それは一面では経済合理性でもあって、名跡を他家から引き継ぐと謂うことはその家族の経済的な面倒を看ると謂うことでもありますから、数千万単位の多額の金銭を贈与する不文律があるそうです。これがたとえば正蔵の名跡を正統に所持している海老名家の血統から次の正蔵が出ると謂うのであれば、その種のカネは掛からないわけですね。

また、名門二世以外の実力のある若手噺家の間には名跡離れの傾向も強くなってきて、名跡の重圧を継ぐよりは自分が育てた名前を大事にしたいと謂う考えも一般的になってきています。小朝はこの両者の微妙なボーダーにいるわけですね。

この正蔵の襲名も、放送では小朝が仕掛けたように言われていますけれど、最終的に小朝が正蔵を継いだ上で泰葉と離婚してしまったら名跡が無意味に花岡家に流出してしまうわけですから、直系の男子が二人とも噺家なのに他人に継がせることはないと謂うことで、海老名家の側が外戚に名跡を渡したくなかったと視るのが妥当じゃないかと思います。襲名プロデュースで恩を売ったと謂うなら、不本意ながらそう謂う形になったと謂うところではないでしょうか。

正蔵と謂うのはそもそも可楽十哲の高弟で林家の開祖ですから、本来は圓朝よりも由緒正しい名前であって、圓朝と謂うのは寧ろ「昭和の爆笑王・林家三平」みたいな名前です。海老名家の縁戚に入った当時の小朝が正蔵の名前を狙っていたと謂うなら現実的ですが、その当時から圓朝の名前を狙っていたと謂うのは、まあ在り得ない話ではないかと思います。

一方藤浦宗家の立場を考えてみると、噺家の家系ではない藤浦家から次の圓朝が出る可能性はまったくないわけですから、藤浦家が名跡を所持していても名跡としての実質的な意味はないわけです。ウィキによると、宗家としての権威に附随して落語協会との関係で宗家が独占している事業があるそうですが、これはまあ一種の名誉職みたいなもんだと思います。

しかし、現役の噺家が圓朝を襲名するとなると、物凄い額(多分億単位では?)の金銭を贈与する必要があるわけで、厭な言い方をすると藤浦家にとって名跡の最大の経済価値は誰かが継ぐことで発生するわけですね。これを圓生に継がせなかったのは、基本的に圓生の性格が悪くて宗家や周囲に嫌われていたのと、たださえ絶対権力者であった圓生に三遊派はおろか関東落語界の最大権威である圓朝を継がせてしまうと、落語界への権威の根拠を失ってしまうことになる宗家側にはいろいろ面白くないと謂うことでしょう。

それと、そもそも三遊派の始祖はこれも可楽十哲の一人である初代圓生ですから、圓朝が空き名跡で外部の人間が宗家として観念的権威を持ち、演者としては三遊派開祖の圓生が止め名となっているのが関東落語界にとって一番具合が好くて、圓生を継いだ噺家に圓朝を継がれると、その辺の関係が複雑で面倒になる、と謂う事情もあったんじゃないでしょうか。現在の関東落語の名跡は、三笑亭可楽からの系譜で軽重が系統附けられているようですが、その系譜上では圓朝の絶対位置は割合低いのですね。

圓朝の名前の重みとは、ひとえに圓朝個人の偉大な功績によるもので、系譜上の正統性によって根拠附けられているわけではありません。この階層の違う重みが、どうにも名跡制度の歴史的システムと折り合いが悪いわけです。実績からすれば圓朝は十哲の一人にすぎない圓生よりも大きな名前と謂うことになりますが、系譜上では二代目圓生の弟子にすぎないので、遙か格下の名前と謂うことになります。名跡制度と謂うのは儒教的なイエ制度ですから、この長幼の序は決して無視出来ないわけです。

つまり、実質的に三遊派の止め名が圓朝になってしまうと、歴史解釈がいろいろややこしくなると謂うことだろうと思います。勿論、一代で名前を興した優秀な噺家もたくさん出ていますし、名跡の大小は継承者によって影響を受けますが、特定の亭号を名乗る一代名跡の中興の祖が門派の開祖よりも大きな名前になるのは、いろいろまずいのではないかと思います。

その辺、或いは圓生が六代目圓生の名跡を継いでいなかったら、二代目圓朝襲名の目もあったのかな、と思わないでもないです。つまり、今現在関東落語界で最大の権威を持つ圓朝と謂う名前は、現在の関東落語界の名跡の系統から考えて、現役の噺家が継ぐと物凄くややこしい存在になってしまうと謂うことなんですね。

また、その圓生の名跡は六代目の没後永久封印されたわけですが、封印に尽力した圓楽自身の画策で今現在復活が計画されていますね。これは案外、圓生没後の封印期間中に小朝の圓朝襲名話があったことが何らかの影響を与えているのかもしれません。逆に謂えば、小朝の圓朝襲名は三遊派の止め名である圓生の名が永久封印された後の話ですから、それが追い風になっていたのかもしれませんね。

圓楽にしてみれば、圓生の名を封印した当時は、それこそ藤浦家が現役の噺家に圓朝を継がせることはないと踏んでいたのでしょう。しかし、圓生の名跡が永久封印される一方で二代目の圓朝が出てしまったら、圓朝が名実共に三遊派総帥の止め名となって、自分の師匠の芸格が遡って下落してしまいますから、焦って圓生の名前を復活させようとしたのかもしれませんね。

圓生から受け継いだ三遊派の正統である自分の一門以外の門派から三遊派総帥なんかが出てきてしまったら一大事ですが、多分圓生の名跡が生きていれば周囲が圓朝襲名を許すはずがないと踏んだのかもしれません。もしかしたら、今になって圓楽が昔の約定を破って自分の弟子の鳳楽に圓生を継がせようと画策しているのは、圓朝復活の可能性を完全に潰しておく為かもしれませんね。

この辺、おそらく贔屓筋との関係の在り方も関東と上方では大分違うんではないかと思いますし、そもそも戦後一旦「滅びた」と謂われ真打制度も廃れた時代に、古い名跡の所有権の在処や、それどころか名跡継承の伝統的慣習が大分有耶無耶になったんではないでしょうか。それが、上方落語の襲名にあんまりドロドロした内部事情が絡まない一因ではないかと思ったりします。

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