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2009年6月 8日 (月曜日)

血の赤

いろいろ余裕がなくて伸び伸びになっていたが、ようやく「レッドクリフPart II 未来への最終決戦」を観に行った。先月中旬に一度観に行って、それでレビューを書こうかと考えていたのだが、書き始めるといろいろなことが気になってきたのでもう一度観に行って、結局前回同様字幕版を都合二回観ている。

公開終了間際と謂うタイミングでもあるし、いつものようにネタバレ全開で語るには好い頃合いだろう。ただ、今は前回語った頃のような気力体力は残っていないので、前回ほど突っ込んだレビューは書けそうもない。

これはまあ予想の範疇ではあったが、Part Iへの思い入れが強かった分、Part II については少し醒めた心境で観た部分があることは否めなかった。わかりやすく謂えば前作の鑑賞時ほど映画的興奮を覚えなかったと謂うことである。

随分以前から、前作以上に史実や演義から離れた内容になるらしいと謂う情報は得ていたのだが、そこについてはそんなに抵抗は感じなかった。元々原典そのままに作ったのでは、前編で振ったテーマ性、すなわち呉宇森個人の拘りや作家性を完遂することは出来ないのだから、或る程度の潤色や改変は在って当然だろう。その辺の事情については前回散々語った通りである。

これも前回語った通り、この映画は史実なり小説なりの忠実な映像化ではなく、飽くまで呉宇森個人の作家性に基づくフィクションとしての三国志であり、原典に忠実に作るのであれば長尺の連続TV活劇のような形が相応しいだろうから、劇場映画と謂う形態はそもそも三国志の忠実な映像化には不向きだろう。なので、かなり原典から乖離した内容であることそれ自体については何の不満もない。


●夏の色と冬の色

不満らしい不満があるとすれば、それはやはり一本の映画としての肉体性の部分について、前作ほどの映像的官能が得られなかったと謂うことに尽きる。これは上映プリントのコンディションにも関わってくることだから一概には謂えないが、まず映像のルックが前作ほど良くないように感じたのだが、公開初期に鑑賞された皆さんはどうお感じになっただろうか。

理屈で考えると、オレがPart Iを鑑賞したのは封切り後二カ月強経過した頃で、今回は封切り後一カ月強だから、上映プリントが劣化した為の印象と謂うことでもないように思うがどうだろうか。

勿論、この種の印象論は客観的に検証することが窮めて困難である。特定の観客がたまたま鑑賞した映像のコンディションと謂うのは、偶発的な条件に強く影響を受けるものであるし、DVD化された映像はまた別の条件に左右されるから、劇場の鑑賞体験にストレートに還元出来ない。まあ、「千と千尋」みたいな例は極端だが、ビデオメディアの映像はリマスター等の関係もあるし、鑑賞時の映像と違っていてもしょうがない。

たとえば以前練馬に住んでいた頃は、いつも近所のワーナーマイカルで映画を観ていたのだが、あそこで映画を観るとどう謂うわけかみんな不自然に発色が悪く感じた。練馬時代に書いたレビューでもちょっとそのことに触れているが、変に薄ボンヤリした暗い映り方をするように感じていた。

そうは言っても同じ映画を別の小屋で見比べるほどのことはしていないので何とも言えないが、まあ、この小屋で観たのではあんまり迂闊にルックの話は出来ないな、くらいのことは考えていた。流石に「どろろ」のときは、上映環境がどうのと謂う以前の問題なので細かい話をしたが(笑)。

現住所の近所のシネコンは、これまで数回利用した印象で謂えば別段それほど薄いとも暗いとも感じなかったし、そもそも同じ小屋で両方観ているのだから、上映環境は関係ないように思う。

何と謂うか、Part Iに比べてPart II は深みに欠けるルックのように感じたが、これがオレの主観的な印象に過ぎないのか、それとも実体的に何かしらの違いがあるのかは自信を持って言い切れない。

一つだけ考えられるのは、Part Iの時点では「これがいつ起こった事件なのか」はそれほど重要視されていなかったと謂うことがある。一八〇〇年前の中国で起こった戦争と謂うだけで、おおよそどのくらい昔の話であるかだけを呑み込んでいれば話はわかるから、つまり「季節感」の表現は一切なかったわけである。

しかし、史実では赤壁の戦いが西暦二〇八年の冬に行われたことになっているし、劇中でも団子を喰うくだりでこの決戦が冬至の日に戦われたことが具体的に明示されているので、少なくともこのPart II は「冬の映画」である必要がある。

これは、冬だろうが夏だろうが「映画の嘘」で構わないようなものだが、クライマックスの火攻めに関しては、長江流域の季節風が重要な鍵を握っている。「この時季に吹く風」の性質がキーポイントであり、自然現象を視覚化する以上、「この時季」とは「どの時季」のことなのか、それによってビジュアルが大分変わってくる。

これを考慮するなら、本来「レッドクリフ」と謂う二本の映画は冬の物語を想定して撮られる必要があったわけだが、Part Iを視る限り季節感を示す表現は殆どないように感じるし、このPart II でも冬の季節感を感じさせる風景が殆ど映っていない。

この映画のルックが前編に比べると寒々しいものであるのは、具体的なショットとして冬を感じさせる自然現象が映っていないのであるから、ルックによって冬の光線を感じさせる狙いがあるのではないか、そう謂う推測が可能である。

しかし再び卓袱台返しをするなら、これは当然中国大陸の話なので、日本や同緯度の気候帯の季節感をそのまま当てはめて考えても意味はない。広大な中国大陸においては、物語の舞台となる地域がどの気候帯に属するかによって、俄然季節感は変わってくる。

調べてみると、赤壁の古戦場と目されるのは現在の湖北省赤壁市の赤壁山が有力らしいのだが、湖北省の気候は亜熱帯季節風気候で、年間を通じて相当気温が高く降水量も豊富である。気候と謂うのは百年単位の時間で結構変わったりするから、一八〇〇年くらい遡ると少しは違うかもしれないが、今よりよほど寒かったと謂うことはないようである。つまり、リアルに赤壁の戦いを映像化すると、ビジュアル的にはまったく冬らしくなくて当然なわけである。

しかも赤壁近辺の主なロケ地は河北省易県だと謂うから、現場の気候帯や土地柄は東呉とまったく異なるが、そこを南方の潤沢な農業地帯に見立てているのだから、精々亜熱帯らしく見せる必要がある。実際、殆どの撮影は猛暑の夏に行われているわけだから、とくにPart Iなどは予備知識なしで観ると夏の映画だと思ってしまう。

いろいろ調べてみると、俳優を入れた撮影は二〇〇七年の五月末〜一一月頃まで続いたようなのだが、スペクタクルシーンなどの撮影は引き続き行われていたようで、撮影中に死亡事故が起こったのはなんと二〇〇八年の六月だと謂うのだが、要するに俳優のスケジュールと謂う動かせない都合の絡む主要なドラマは、初夏から晩秋に掛けて撮影されたらしい。

勿論、衣裳や装備などは冬を想定してデザインされているわけだが、コスチュームプレイでは夏の想定でも暑苦しい衣裳を着ていることが多いので、衣裳や装備を視て季節の設定を感じると謂うことはあまりない。

総体的に謂うと、亜熱帯らしく見えて同時に冬らしく見える、と謂う相反する要求要素があるわけだから、この見え方のバランスは相当考えたのではないかと思う。細かいことを謂うなら、暖かかろうが寒かろうが、やはり夏の光線と冬の光線では差し方が違うはずなので、夏場のピーカン狙いで撮った映像は冬らしく見えなくても仕方がない。

しかし、ぶっちゃけ呉宇森がそのことを考えたのは、かなり撮影が進んでからではないかと謂うのがオレの推測である。Part Iの時点では「まあ、冬とは謂っても南方の話なんだからあまり考慮する必要はない」と謂う認識だったのが、Part II を実際に撮ってみると、セリフの端々に季節に意識を向ける要素があることに気附く。

おそらく中国人が相手なら、東呉の気候が湿潤温暖で冬季もそれほど厳しい寒さにはならないと謂う地域イメージがあるだろうが、これが世界市場だとどうかと謂うと、そう謂う共通理解はないだろう。劇中の最重要なシーンで「冬至の祝い事」が扱われているが、全体の見た目がどう視ても夏なのでは「えっ、冬の話だったの?」と違和感を抱く観客もいるかもしれない。また撮影の終盤では季節が変わってくるから、全体的なルックをどちらに定めるかと謂う問題も出てくる(撮影終盤に屋内撮影を集中させたのであればその限りではないが)。

途中で考えが変わったのではないかと思うのは、最初からそう謂うコンセプトでルックを決定したなら、幾ら夏場の撮影でも撮りようや撮影時の天候の狙い方が違うだろうと思うからである。ところが前編のほうは概ねピーカン狙いの屋外撮影で絢爛豪華な色彩感や明るさで撮られていて、夏場の撮影であることを隠そうと謂う意識が視られない。

すでにかなり撮影が進んでしまってから、「もう少し夏っぽいイメージを抑えたほうがいいんじゃないか」と気が変わって、事後のデジタル処理で調整して色彩感や明度を落としたのではないかと思うのだが、どうだろうか。これによって、前作ほどの夏らしさは感じなくなったが、元々冬に見せると謂う想定のルックで撮影していないので、総体的に魅力に乏しいものになったのではないかと思う。

そのように考えるまた別の理由としては、この映画のタイトルバックの扱い方や編集手法と謂う要素がある。今回のタイトルバックはPart Iのダイジェストで、シーケンスの変わり目は剣でズバッと布地を切り裂くような豪快なCG処理のワイプになっており、これは本編でもそのまま踏襲されている。

そのバックに流れるOP曲は、曲調やモチーフの構成自体は殆ど前編と変わらないが若干テンポが早く演奏されていて、切り裂きワイプの豪快さと相俟ってトントンと前編の物語を要約していって本編への期待を盛り上げるのだが、このタイトルバックの映像はオリジナルよりも彩度を落として処理されている。

これは一種の回想場面だから色調や明度がいじられていても自然に感じるが、タイトルバックが終わって本編が始まっても、ほぼ色彩感のないファーストショットで物語は幕を開ける。つまり、曹操軍の本陣の大門が開いて騎馬の一隊がどっと繰り出してくると謂う絵面だが、曹操軍の軍服がほぼ黒一色、正面の大門は白木の大木戸なのだから殆どベージュと黒のグラデーションでしかない。

そこから続くファーストシーンは、白い砂地に設営された白木組みの防壁や柵をバックに黒一色の衣裳の連中が大勢調練している様子や、白組と黒組に別れた蹴鞠の試合風景に繋がるのだから、タイトルから暫くは殆ど色彩的なショットが映らない。

唯一絢爛なショットは豪奢な衣裳の曹操のみだが、この濃色の衣裳を暗く潰しておけば画面は何処も皆モノクロに近い殺風景な色合いに見える。この曹操本陣内の蹴鞠のシーンが或る程度続いた後に、「劣勢の孫権たちには蹴鞠をするような余裕もないだろう」と謂うような意味のセリフがきっかけで連合軍側の投壺のシーンがインサートされるのだが、実はここも前編に比べると色彩や明るさが抑えてあるように見える。

この繋がりで曹操側と連合軍側の視点を少し切り返すのだが、後の本編はずっと色彩感や明るさに乏しいルックのままで続いていく。最初のタイトルバックがダイジェストであることで色彩感を抑えることに直観的な理由附けが成立し、その流れで色彩感に乏しいショットしか存在しない曹操軍の本陣内のシーケンスを繋げ、そこと切り返す形で連合軍側の事情をも見せているので、段階的にこの映画全体の映像の彩度が抑えられていることを自然に観客に受け容れさせているわけである。

こう謂う段取り自体は丁寧に感じるが、やはりそもそも色彩感豊かに刻銘に見せることを前提にした衣裳デザインやプロダクションデザインなのだから、途中で見せ方を変更しないほうが好かったのではないかと思う。これはもう、東呉が亜熱帯でたとえば北魏の季節感とは相当なギャップがあることを、誰かに一言説明させておくくらいで好かったのではないだろうか。

たとえば北魏近在の農民出と思われる孫叔材が郷里の話をする際に、「ここは自分の故郷と違って冬でも暖かい」と謂うふうに一言言わせておけば、季節感の問題はそれほど重要ではなかったように思う。

「南方の暖かい土地柄」と謂う説明を強調しておけば、ピーカン狙いの撮影が多くて影が短いと謂うような、そう謂う重箱の隅を突くような細かい矛盾要素と謂うのはあまり気にならないものだし、そう謂う見立てで好いのではないかと思う。逆に複数の気候帯に跨る中国大陸の広大さやエキゾチズムを感じさせて好かったのではないかと思う。

これは多分、AVEXが推しているようにPart II から観た観客は気にならなかったと思うのだが、オレはPart Iを鑑賞した際に色彩的で厚みのあるルックが印象に残っていて好ましく感じていたものだから、かなり気になった。


●計画と実行

今ひとつの不満は後半の合戦シーンの描き方である。前後編併せて四時間超の長尺映画全体のクライマックスなのだから、ここに映画的興奮が凝縮されていなければ嘘だと思うのだが、ここで呉宇森は黒澤から学んだ大事なことを一つ蔑ろにしている。

それはつまり、前編のレビューでも少し触れた「計画と実行」の手続である。

正直言って、オレは一度目の鑑賞時にはこのクライマックスがかなり冗長に感じたのだが、二度目に観た際には結構面白く観られた。翻って、何故一度目は冗長に感じたのかと考えるなら、簡単に言って、誰が何処で何をしているのか一回観ただけだとわからないからである。

この決戦における英雄たちの受け持ちを、呉宇森は周瑜の指示で処理しているが、それは一回聴いただけでは印象に残らないし、従って本格的に戦闘が始まるとみんながみんな同じようなことを何度も何度も繰り返しているように見えて、戦闘がどのように進行しているのか視覚的・直観的な理解が得られない。

要するに、孫権軍が堅固な防壁の正面突破を試みて、守りの手薄な後方の三方を遊軍として劉備軍の宿将連が担当すると謂う分担なのだが、曹操軍の本陣がどのような構造になっているのか、これが殆ど観客には提示されないから、いつまで経っても防壁を挟んで小競り合いを繰り返しているように見えてしまう。「さっき一度突破したはずじゃなかったのか」と謂うふうに訝しく感じるわけである。

前回本編末の予告編を観たときは、周瑜が模型の船団に火を点けているカットがあったから、この模型でビジュアルに戦術を解説するのだろうと思っていたのだが、これを単に風向きによっては火攻めが両軍の諸刃の剣に成り得ることを示す小道具に留めているのが、どうも力点の置き方が違うのではないかと思う。これは言葉だけで説明しても十分わかることで、模型まで作って見せるのは少し諄い。

その一方で、曹操軍の軍営地がどう謂う構造になっているのかと謂うビジュアルな情報は、尚香が持ち帰った見づらい手書きの地図をほんの一瞬見せているだけで、寧ろこの場面の眼目は殿方が目のやり場に困ると謂うお色気サービスのほうにブレているから、説明としては少し足りない。

しかもここで尚香が急き気味の早口で開陳する報告の中に、割合重要な軍事情報が含まれているのだが、そこを孫権の妹に対する気持ちのドラマに繋げている為、あまり観客の脳裡には残らない。ここは意図的に孫権に遮らせてぼかしたのだろうが、じっくり地図と切り返して聴かせていたほうが好かったのではないかと思う。

オレ自身、ここでの尚香の説明は殆ど記憶していないのだが、二回目に観た際には陸上勢力と水軍の割合が気になっていたので、陸上に三割程度の勢力が常駐していると謂う一条だけは覚えている。八〇万の三割だから、要するに火攻めで船団が壊滅した後も二十数万人の敵兵が陸上に残存していたと謂うことで、孫権側は劉備軍を併せても五万人だから、まだまだ全然劣勢である。

たとえば前編の戦闘は遭遇戦の小競り合い的な規模であるから、集団戦闘と一騎当千の英雄の活躍のバランスが丁度好かったが、五万対八〇万の集団戦闘を殲滅戦として描けば、これはもう爽快な活劇になりようがない。普通に考えれば一六倍もの戦力差があるのだから、数に劣る側が殲滅戦で勝つと謂うことは効率的で一方的な虐殺が行われたと謂うことになる。これはすでに活劇ではない。

それ故に、火計の成功後も依然として劣勢と設定された孫権軍が数に勝る曹操軍を壊滅に追い込むことが出来た決め手が何であったかは、実はこの映画では描かれていないと言って差し支えない。たしかに英雄豪傑の大活躍も描かれているが、一旦籠城戦に縺れ込むことで敵勢力が持ち直しており、寄せ手の側にも甚大な犠牲が出ているのだから、集団戦と謂う観点で考えれば何故連合軍が勝ったのか何も描かれていない。

では、理由もなく勝ったのかと謂えば、おそらくそうではなくて、風向き次第で曹操軍側も火計を考慮していたのだから、軍営地内にも豊富に油や硫黄が蓄えてあって、結局陸上でも火計が奏功したのだろうし、劇中の描写ではあまり圧倒的な武器として描かれていないが、諸葛亮の発案になる「元戎」と呼ばれる連弩の連射能力が或る程度の利をもたらしたのだろう。正確な比較ではないが、単発式の歩兵銃と機関銃の違いである。

元々この時代にも連弩そのものは存在したとされていて、これは据え附け式の大型武器で、一度に一〇本の鉄矢を発射出来たとされているが、大型で使い勝手に問題があり効果的な運用が出来なかった。諸葛亮の発明した「元戎」と謂う武器はそれを小型化して携帯可能にしたものと謂われているが、当然詳細なメカニズムは不明で、やはり一〇本の矢を一度に発射するものであるから、この映画で描写されているものとは少し違う。

この映画で描かれている武器は「元戎」と謂うより寧ろ「諸葛弩」で、これは時代も機構も全然違う後代の別物だが、諸葛亮の連弩に因んだネーミングであるから、意図的にこの両者を混同してすり替えているのだろう。劇中の扱いを視ると、本体上部のレバーを起こすことで梃子の原理で弦を張り矢を番え、倒しきると発射し、レバーを戻すと次の矢をセットするレバーアクションになっているようで、これは何となく具体的なメカニズムが想定出来る辺りが面白い。

前述の通り、二十数万の敵兵を五万の兵力で攻めてほぼ全滅させたのだから、実際には効率的な虐殺が行われたわけだが、映画はそこを見せていないわけである。常に敵の犠牲と切り返す形で味方の側の犠牲を描いているから、この描き方のまんまで実際の戦闘が推移したなら数に勝る曹操軍のほうが生き残っているはずだが、単に描いていないだけで全体的には連合軍のほうがたくさん敵兵を殺しているわけである。

この映画は、その間の血腥い算盤勘定をとにかく曖昧にぼかして描いている。曹操軍側の軍営地にどの程度の勢力が残っているのかを強調しなかったのも、観客の意識をそこへ向けない為の配慮だろうし、総体的には甚大な犠牲を払って勝利したことがわかればそれで好いと謂う意識で見せている。

この映画で、火攻めの後に要塞攻略戦が描かれているのは、正義の陣営である連合軍側が、如何に大義の為とはいえ一方的な虐殺を行うのでは「君子の戦い」と謂う印象とは程遠く、テーマ性がブレると謂う理由からだろうと思うが、ここで連合軍側にも多くの将兵の犠牲があったと描くことで戦争の虚しさを強調している。

この焼き討ち後の総力戦は、まあ普通に考えてノルマンディー上陸作戦がイメージされていることは明らかで、この戦闘がかなり近代戦に引き寄せて解釈されていると視ることが出来るだろう。そこから「中華版プライベートライアン」のような評言も幾つか見掛けたことがあるが、これは戦闘のリアリティを追求したものと謂うより飛び道具の撃ち合いで寄せ手がバタバタと無為に斃れていく絵面の無惨さを見せるのが目的だろう。

正義の連合軍は、飽くまで劣勢を押して犠牲を払って勝利を勝ち取るのでなければならないから、最後まで連合軍の劣勢は覆らないわけである。兵法の常識で考えると、要塞攻略と謂うのは防衛する側が圧倒的に有利なのだから、攻撃側はその数倍の戦力で臨まなければ成算はない。それはつまり、堅固な防壁の陰からの弾幕によって相当数の将兵の肉の楯としての消耗が避けられないからである。

その意味で、数の劣る孫権軍の主力が正面突破の消耗戦を戦うと謂うのは、戦術的な観点では完全に愚策である。この映画の通りの状況設定なら、普通ここは包囲戦に縺れ込む呼吸だろう。

一回観ただけだと、ここで何故連合軍側が性急に正面突破を試みて甚大な犠牲を払ったのかがわかりにくい。何故短期決戦なのかと謂えば、「敵に矢を借る計」のくだりで周瑜が「糧秣は一〇日分しかない」と言っているように、補給の問題で長期の包囲戦に耐えられないことが考えられる。

兵糧の問題は前編でも触れられていて、糧秣不足から甘興の部下が水牛を盗んだことになっているが、その後周瑜が魯粛に追加の兵糧を要求している。この追加の補給はどうなったのかと謂うのが有耶無耶になっていて、決戦時点ではとにかく一〇日分の兵糧しか残っていないと謂うタイムリミットが設けられ、これが短期決戦を挑むべき理由附けになっているわけである。ただ、普通に考えると兵糧の問題は長路の遠征の為に補給線に問題を抱える曹操軍のほうが不利なはずなので、これはそれほど説得力のある状況設定とは言えないだろう。

また、決戦直前の小喬の行動によって、孫権は小喬救出の為に後方からの奇襲作戦を提案するが、これは周瑜によって固辞される。まあ、自分のかみさんを救出する為に兵を損耗して決戦のチャンスをふいにしてしまうわけには行かないが、後方から奇襲することが可能ならば何故堅固な正面を突破せねばならないのかがよくわからない。

最初のほうの曹操と側近の会話で「数に劣る孫権軍は奇策に出るでしょう」と謂う進言に対して「いや、周瑜は君子の戦いに拘って正面から攻めてくる」と曹操が応じているのだが、別段防備の手薄なほうから奇襲を掛けることは通常の兵法の範疇であるから、後方から攻めても何処も不名誉ではない。ここも少し理由附けの苦しいところだろう。

勿論こう謂うツッコミは粗探しの部類だが、要するにこの決戦がこのように行われるべきであることを観客に納得させる力強い単純なロジックが欠けているから、いろんなことを考えてしまうわけである。

これはたとえば演義の記述だと、火計が成功したことで船団が壊滅し、僅かに残存する陸上部隊の本陣にも火を放つことに成功して、曹操軍が一方的に鏖殺されたことが僅か数行の記述で書かれている。ここを膨らませてボリュームたっぷりの戦闘スペクタクルとして描くのであれば、前もってビジュアルの形で観客に青図を提示しておくと謂うのが黒澤映画のパターンである。

それが冒頭で触れた「計画と実行」の手続であるが、ビジュアルな形で具体的な戦闘計画とその必然性を根拠附ける単純明快なロジックが語られていれば、それが如何に映画の嘘であろうとも観客は一応の納得をするのだし、細かいツッコミは野暮な詮索になるのである。

これが二回観て意識してセリフを読み取ることでようやく推測出来るレベルの描き方になっているのは、少し手続が不足しているのではないか、引いてはご馳走のはずの戦闘場面が冗長に見えると謂う負の効果をもたらしているのではないかと思う。

これが何度観ても冗長で退屈に見えるなら、そもそもこの場面の繋ぎ方が悪いのだと謂う話になるのだが、誰が何処にいて何をしているのかを大体呑み込んで観ると面白く観られるのだから、これはやはり段取りの提示が不足しているのである。

この段取りが、二回目によほど注意していてようやく理解出来ると謂うのは、大多数の一回しか観ない観客に対してはかなり不親切だろうし、段取りを理解していないと爆破のスペクタクルや戦闘の迫力だけで結構長い場面の興味を保たせると謂うことになり、人によってはそこまで興味を持続出来ないと謂うことになるだろう。

折角のご馳走として用意されたクライマックスが勿体ないのではないかと思う。


●武器と武器

ただ、この決戦のくだりで個人的に面白かったのは、最後の最後に曹操と周瑜が対峙する場面をチャンバラ版メキシカン・スタンドオフとして描いた部分で、周囲の観客には申し訳なかったが、オレは声を殺して咽び笑いしてしまった(笑)。

いや、呉宇森はやっぱりこうでなければならない。呉宇森映画のトレードマークとして識られるようになってから、すでにメキシカン・スタンドオフはネタの域にまで達していると思うのだが、題材が三国志でもやっぱりそれで〆ますか、と。

何と言うか、フォロワーからネタとして扱われていても、当の本家がそれを大真面目に繰り返すと謂うのは仲々出来ることではない。これはつまり、あんまりモノマネのネタにされたせいで森進一や水前寺清子の節回しがモノマネのほうに近くなるのと似たような話で(笑)、ブレずに一つ節を貫くと謂うのは窮めて清々しい。

この映画のリアリティにおいては、とにかく決着を曹操と周瑜の直接対決で締め括りたいと謂うことは既定事項だっただろうし、最終的には「殺さない」形の勝利として描くと謂う方針ははっきりしていたと思うが、これを互いに武器を突き附け合ったメキシカン・スタンドオフの膠着状態に収斂させるのは、一つ節の手癖がテーマ性に昇華した好例だろうと思う。

戦術としての整合性を犠牲にしてまで敵味方の虐殺を切り返して見せてきたテーマ的な狙いが、周瑜と曹操が互いの喉元に刃を突き附け合い、進退窮まる膠着状態として見せる絵面に収斂する。まさしく戦国の乱世とは、互いの喉元に刃を突き附け合って進みも退きもならない膠着状態の無限連鎖である。これをどのように脱するのか、そこにこの映画のテーマ性が凝縮されている。

そこへ小喬が人質に取られることで曹操の側に優位が生じ、ほぼ軍事的には壊滅的な打撃を蒙っているにも関わらず些かも屈せずに野望を貫く姿、これが曹操と謂う貪欲な虎の本質として提示されている。他者を暴力で屈服させることで己の優位を実感することこそがこの男の唯一の存在原理なのであって、その闘争に命を賭けている。

ここで曹操が階上の夏侯雋に小喬を殺せと命じるのは、折角の人質を無駄に喪うことになるわけだし、曹操は小喬に長らく想いを寄せていたのではないかと謂う疑問も浮かんでしまうが、そもそもこの戦況で女を人質にして軍事的な勝利が得られるものではないのだから、この場の殺害は連合軍の男たちを屈服させる為の行いである。

多くの人命の損失を厭うが故に単身敵陣に乗り込んで、ただ一杯の茶で戦況を覆してみせた平和主義者の女性を殺すことで、貶められた曹操の誇りは回復され、連合軍の男たちの心の拠り所を挫くことが可能になる。曹操もまた、己が拠って立つ誇りを貫く為に命懸けで戦っているのであり、この映画で描かれた曹操と謂う人物も、歪んだ形ではあれども一個の乱世の英雄である。

そして、趙雲の活躍をきっかけに膠着状態を脱した孫権の一射が曹操の髷節を断つのみに留まったのは、前編の虎狩りのくだりで曹操に見立てた虎に向けて放った矢の行方を省略して繋いだ描写と呼応していて、紗の垂れ幕の間を曹操が見え隠れする演出も「燃えよドラゴン」ですかとか思いつつ(笑)、茂みを透かして獲物を覗う獰猛な虎に見立てる意図がはっきりしている。

前編の虎狩りのくだりで君主として一段成長した孫権だが、あのとき放った一矢が見事に虎を射殺したのかどうかははっきり描かれていない。あの場面で肝心なことは矢を放つことそれ自体であって、虎を殺すことではない。

また、孫権の矢が虎を倒すところまで見せていたら、それは最終的な連合軍の勝利を約束する一種の映像的予言としての意味合いを持つ。いやまあ、赤壁の戦いが連合軍側の大勝利に終わったことなんか誰でも識っているわけだが(笑)、誰でも結果を識っているレースの展開に一喜一憂させるよう描くのが歴史物語と謂うものなのだから、劇中の暗示として「勝ちますよ」と太鼓判を捺すのは諄いと謂うことである。

それやこれやで、孫権が矢を放った瞬間にカットして机を截るくだりに直結するわけだが、巧んだ計算かどうかはさておき、ここをこのように繋いだことがこの最終局面にも活きている。

この呼吸こそがまさに前段で触れた「計画と実行」そのものである。曹操に見立てた虎に対して放った矢の行方を描かないことで、虎に見立てられた曹操に対して放った矢の行方に観客の関心を集中させる、そう謂う段取りとして機能しているのである。

この一連の流れはスローモーションで刻銘に提示されているが、ここで改めて後附けるなら、まず趙雲が小喬を人質に取った夏侯雋を背後から突き落とし、夏侯雋に引きずられたか僅かに一瞬行き遅れたと謂う形で小喬も共に転落する、その瞬間に孫権の放った矢が髷節を弾き飛ばしたことで曹操が動揺し、その隙に周瑜が背後の曹洪が擬した剣を払って剣尖で相手の足甲を床に縫い附ける。

ここで鎗を投げて剣を振りかぶった曹洪の袖を戸板に縫い附けたのが誰であったか思い出せないのだが、前後の敵が無力化された瞬間に周瑜が戸板を打ち破って屋内に転げ込み、間一髪で小喬を抱き留める。つまり、絶体絶命の一つもしくは二つの命が救われただけで、誰の血も流れないアクションになっているわけである。

まあ、突き落とされた夏侯雋がどうなったんだか誰も気にしていないと思うしオレも確とは覚えていないが(笑)、こいつは前編の遭遇戦でも斬を逃れて逃げ帰ったんだから、ここで打ち所が悪くて死んでも文句を言えた義理ではないだろう。たしか曹操・曹洪と共に生き残って屍山血河を彷徨う絵面があったと謂うような気もするのだが、ぶっちゃけ夏侯雋の生き死になんてどうでも好いじゃないか(笑)。


●憎しみと憎しみ

この場面において孫権の一射が体現しているのは、曹操の体現する「殺し、奪い、屈服させる」と謂う戦国の論理を、毅然として拒絶する姿勢である。ここで孫権が曹操を射殺していても状況に一切変わりはないが、殺せる状況で殺さずに状況を覆してみせることで、曹操の思想そのものを否定してみせたわけである。そして、その結果として殺されるはずだった二つの命が救われた。

曹操が小喬の殺害を命じたのは、引いては小喬を我が物にしようと望んだのは、それは夫である周瑜を屈服させその大切なものを奪う行為だからであって、それは自身の力の証明である。結局この人物は力によって奪い取ることでしか大切なものを手に入れることが出来ない。女性に対する想いは優しい愛の形をとるのではなく、力尽くの強奪と謂う形にならねば満足出来ないのである。だとすれば、曹操にとって小喬を我が物にすることと殺すことはそんなに懸け離れたことではないのである。

であるから、小喬を殺された周瑜がその復讐として曹操を殺すことは曹操の生きる原理の埒内のことであって、力によって大切な人を奪われた男が力によってその強奪者を打ち倒すと謂う、血が血を呼び死が死をもたらす飽くなき暴力闘争の原理、曹操と謂う人物はそう謂う世界原理を生きているのである。しかし、曹操を殺すことなく小喬も活かすと謂うのは、そのような曹操の世界観に対する絶対的な拒絶の意志と謂えるだろう。

そこに辿り着くまでには、敵味方双方の膨大な人命を奪い合うと謂う剥き出しの悲惨な現実があるわけだが、このステージにおいては戦いの次元が変わっているわけである。

勿論、一兵卒の命と為政者の命の重みに分け隔てはないのだし、どんな清廉な政治原理も戦争を廃絶するような力はない。ここで曹操を殺さずに見逃すと謂う選択肢は、彼に肉薄する為に払われた夥しい犠牲を顧みれば偽善にも見えるのだが、ただ、そのように考えることそれ自体が、血の見返りには血が必要なのだし、死の対価には死が必要だと謂う考え方に与することになる。

夥しい犠牲を払って戦われた連合軍の戦いは、憎んでも剰りある強奪者を殺す為のものなのかと謂えばそうではない。玄関先を彷徨く盗賊を斥ける為の戦いなのであり、自らの護るべきものを護る為の戦いであり、その護るべきものとは、畢竟するところ独立自尊の誇りである。強大な武力を以て屈服を迫る者に対して、決して無抵抗で屈しないと謂う主張こそがこの戦いを戦う目的である。

その誇りを護り抜くと謂うただそれだけの為に、曹操軍はもとより連合軍においても多くの血が流されたのだが、決してその対価として敵の血を要求しない、これがこの映画の訴える力強いテーマと謂えるだろう。

正直言って、一度目に観たときは、この結末は綺麗事に過ぎるのではないかと感じたことは否めない。繰り返しになるが、この対決に至るまでには双方共に夥しい命が無惨に奪われているのだし、呉宇森はその悲惨さをこれでもかと強調して描いている。この血で血を洗う闘争の果てに、侵略軍の首魁である曹操の命のみを助けると謂うのでは、虫けらのように命を消費された兵卒が浮かばれないのではないかと謂う感想を抱くのは自然なことだろう。

しかし、そこに配慮のない物語ではないと思うようになったのは、血腥い闘争の連鎖を終わらせるには憎しみを棄てるしかないと謂う、窮めて現実的な認識があるのではないかと思うからである。たとえば、このシーンで最終的に小喬の命が救われることも、犠牲となった兵卒たちにも愛する者がいることを思えば為政者の優遇(と謂うか物語的な観点ではヒーローの特権性だが)に見えないこともないのだが、逆にそれが故にこの小喬絡みの一連が設けられているのではないかと思う。

前述の通り、小喬が曹操の許に赴いたことを識った孫権は、小喬救出の為の奇襲を提案して周瑜に固辞されるが、この際に周瑜に対して「小喬の身に何が起こっても清廉な心で戦うことが出来るのか」と問い掛けている。それに対して周瑜は何も答えることが出来ずに黙り込む。

ここには、上記のパラドクスが内包されているわけで、妻を愛する一人の男としての周瑜は、万が一にも妻が穢されたり殺害されたりすることがあれば、曹操と謂う一人の男を憎まずにはいられないだろう。その戦いは大義の為のものではなく、憎しみに基づく復讐と謂う性格のものに堕落するかもしれない。

一方では、曹操軍の兵卒にも家族や愛する者がいるのであり、それは当の曹操もまた同じことなのであるから、戦いが血を要求するものである限り、愛する人を殺された人間は際限なく生み出され続けるのだし、そこから消えることのない憎しみの連鎖が発生する。たとえば小喬を救出することはこの問題性の直接の解決ではなく、周瑜だけを特別扱いしてそのジレンマを回避することにしかならないのである。

孫権の問い掛けに周瑜が何も答えられないのは、愛する者を奪われて奪った者を憎まずにいられる人間などいないからであるが、もしも最悪の事態が起こったとしても憎しみを動機として戦ってはならないと謂う筋目は変わらないのだし、曹操個人に復讐を果たそうとしてはならない。これは請け合うべきことではなく行動を以て示すべきことなのだから、この場で何かを答えることは出来ないのである。

それはたとえば、孫権軍が防壁を突破し本陣に雪崩れ込んだ際、孫権が周瑜に「小喬を探そう」と提案するが、これにもやはり「それより曹操を」と言わせていることでも見てとれる。これは勿論、私的な事情よりも大義を優先する周瑜の高潔さを強調する通り一遍の描写でもあるだろうが、そもそも連合軍の進撃が小喬殺害のサスペンスと一切リンクしない描き方をされていることには注意が必要である。

絵面的には連合軍の防壁突破と切り返す形で小喬の危機が描かれているから、双方の事情を唯一識る立場にある観客視点では、連合軍の一進一退は小喬の危機とリンクしているように感じるが、劇中事実のレベルでは、連合軍は小喬を救う為に進撃を急いでいるわけではない。孫権や周瑜は小喬の安否を識らないのだし、当然今まさに夏侯雋によって殺害されようとしていることなど識る由もない。

クライマックスにおいて小喬の命が救われたのは単なる偶然なのであって、それを目的に据えて孫権や周瑜が戦っていたわけではない。そのような事情とは別の次元で周瑜の戦いが戦われる必要があるのであり、小喬の救出よりも曹操の探索を優先すると謂うことは、もしも小喬が殺害されてしまったら、実際問題としての救出可能性の可否に拠らず、その死に対して周瑜が責任を持つしかないと謂うことであって、結果的にたまたま運良く小喬の命を救うことが出来たと謂うだけの話である。

この間のバランスはよく考えられていて、夏侯雋が人質として小喬を引き立ててきたからこそ逆に救出のチャンスが生まれたと謂うふうに段取りを設定している。そうでなければ、誰も探しに行かなかったのだからそもそも見つかるはずがないのだし、それはつまり、周瑜が大義の為に自分の妻を見殺しにしたと謂うことになる。

残された希望とは、小喬が自身の才覚で生還を果たすと謂う、それを信じるのは虫が好すぎるような微かな約束でしかない。自身の戦いが「清廉」なものである為に、逆に周瑜は小喬救出のアクションを一切起こさなかったわけである。何故なら、もしも彼女が人手に掛かって死んだとしても、それを一切救おうとしなかったのだから周瑜が殺したのも同然だからであって、憎むとしたらまず第一に自分を憎む必要があるからである。

多分、こんな立派な人物の嫁になるのはちょっと厭なことなのだが、立派な人物の嫁もまた立派な人物でなかったら、今頃後方で夫の無事を祈っていただろうから、これはもうそう謂う生き様なのだと思うしかないことである。

如何に侵略者に非があろうと、如何に大義に基づく防衛戦争であろうと、人と人が殺し合うことで憎しみの無限連鎖が始まるのであり、それは流れる血の最後の一滴が流し尽くされるまで終わらない。すなわち、復讐の為の殺し合いに身を投じることは、復讐の無限連鎖を受け容れると謂うことに他ならない。


●戦いと旗

これを断固として拒絶する為には、独立自尊の誇りを護ると謂う薄っぺらい理念の為に戦うのであると謂う筋目を外してはならないのである。つまり、理念それ自体が大切だから戦うのではなく、その理念が戦いの無限連鎖を終わらせてくれるから、それを信じて戦うのである。孫権の言う「清廉」とはそのような心映えだろう。

戦いを正当化する理屈として理念があるのではなく、戦わざるを得ない立場に立たされた者たちが、その戦いに信じるべき意味をもたらす為に理念を掲げるのである。そのように考えるなら、誰だって戦争の非情な原理を体現する絶対悪の曹操が、多くの兵卒の犠牲をもたらしながら、殺されもせずにのうのうと生きて帰ると謂う結末を快く感じるはずがないが、その不快感は耐えなければならない性格のものだと謂うことである。

この場で曹操個人に復讐が果たされることで得られる爽快なカタルシスは、連合軍の戦いにおいては決して望んではならないものなのである。結果論から謂えば、連合軍の戦いにおいては、曹操に肉薄し殺すことなくその野望を挫くと謂う極々の困難事を成し遂げる為にこそ、夥しい血の犠牲が払われたと謂うことになる。そして、連合軍の兵卒たちは曹操に対する憎しみと謂う動機ではなく、孫権や周瑜、そして劉備や諸葛亮の掲げる理想がより良い未来をもたらすと信じるからこそ戦っている。

これを理想論とか綺麗事として嗤う資格は、少なくともわれわれにはないだろう。未だ一度たりとも真の民主主義が実現されたこともなく、武力闘争が物語の中の絵空事ではなく、そして一八〇〇年前の世界原理が未だ生きている国の貧困階級に生まれ、長じた後に祖国とは正反対のアメリカと謂う国をつぶさに視てきた呉宇森が、六〇歳を過ぎてから下した結論こそがそれである。

戦いの連鎖を止めるには、憎しみを棄てなければならない。憎しみの為に戦う限り戦いは止まらない。これは理想論ではなく現実論だと謂うことである。

この映画に込められたテーマ性は、一面では非道く薄っぺらいものであるし、思想と謂う意味では深みも何もない。悪く謂えば黒澤映画流の安いヒューマニズムと謂う取り方も出来るだろうが、おそらくそれはそれで好いのである。ここで描かれているのは高邁な思想やあらゆる問題を解決する万能の妙薬としての提言ではなく、どれほど夥しい血が流されようとも、憎しみを棄てなければ戦いは止まらないと謂う非情な現実である。

その意味で、呉宇森の訴えるテーマは、中国人らしいベタな現実主義に基づくものであると謂えるだろう。理念なんて、それ自体が大切なものではない。如何なる深遠な理念であれ、それ自体が目的化されるなら、それは薄っぺらなものでしかない。戦わねばならない立場に立つ者が、それでもその薄っぺらな理念を高く掲げて戦うことこそが重要なのであって、それがつまり「旗」なのだ。

たとえば、Part Iのクライマックスで、曹操軍を打ちのめした周瑜が敵の軍旗を奪って逆に突き立てているが、その流れにおいて夏侯雋を殺さずに放免しているわけで、これは今回のクライマックスで曹操を殺さなかった流れと対応している。結局のところは血腥い闘争を経由しているのでわかりにくいが、敵を殺す為に戦っているのではなく敵の体現する原理を否定する為に戦っているのであることを、逆向きに突き立てた軍旗が象徴しているわけである。

つまり、殺戮は目的ではなくやむを得ない手段にすぎないのであって、殺し合いを経由して達成さるべき目的は敵の殺害ではないことを、理念と謂う形なきものを敵味方双方の軍旗に象徴させることで描いているわけである。


●余談と予断

因みに、誰が誰なんだかあんまり見分けが附かない曹操サイドの人物の中でこの場面に出てくるのが曹洪、夏侯雋の二人なのは、この二人が曹操の一族だからである。夏侯雋と謂うのは連合軍側の甘興同様オリジナルな役名で、曹操の縁戚である夏侯氏の数人の登場人物をまぜこぜにしたような人物である。

甘興のほうが史実上の甘寧の字である興覇から興の一字を採っていることで甘寧のことだと察しが附くように、夏侯雋もおそらく夏侯惇と音が近いことで夏侯惇をベースに夏侯淵の役割も兼ねる人物だと類推させるネーミングと謂うことだろう。

元々曹操の実父の曹嵩は夏侯氏の出で宦官の曹騰の養子に入った人物だから、曹操と夏侯雋は血族関係だが、曹洪のほうは曹騰を介した繋がりなので曹操と直接の血縁関係にはないと謂うことである。

曹騰の甥と謂う記述もあれば曹操の従弟と謂う記述もあるのだが、曹騰の甥ならば曹騰の兄弟姉妹の子だから、曹騰の義理の孫に当たる曹操の従弟と謂うのは辻褄が合わないことになるのだが、とにかく何だかややこしい大陸的な義理の一族関係だと謂うことがわかればよし(笑)。日本でも田舎のほうに行くと「何だかよくわからないが親戚であることは間違いない」と謂う関係があるが、まああのくらいの距離である。

で、この映画ではそんなふうには見えないが、史実や演義では曹操に絶対の忠誠を誓う極々の側近は曹氏と夏侯氏の一族で固められていて、就中直接の血縁関係にある夏侯氏との関係は深い。血族間の血腥い利権闘争が横行する三国時代にあって、曹操の一党は珍しく一族間の結束が堅いと謂う印象がある。

つまり、この場面では、最終的に曹操が一族の出の二人の人物以外には頼れる存在がいない状態にまで追い詰められ、対するに連合軍側は堅い信頼に結ばれた朋友の集団として彼らと対峙する、そう謂う構図になっているわけである。

そう謂う次第で、珍しく批判点から先に語る形になったが、これはやはり、ほぼ気になる難点が見当たらなかったPart Iの連続上で観るなら、どうしたって個人的に気に入らないところが出てくるのは当然だからである。

たとえば、一本の映画を途中で切って前半だけを見せる場合、その前半に非常な感銘を受けたとすると、その感銘には特定のロジックがあるわけで、そのロジックの延長上に後半の在るべき姿を類推し、曖昧な形ではあるが或る強固な予断が形成される。

この予断は、未だ隠されている後半が自分とは赤の他人の作家が創作するものである以上、常識的に考えてそのままの形で実現される筈はないから、どうしても実際に後半を観る段階では一定のギャップを感じることになる。

Part II を鑑賞するに当たって予想したのはその種のギャップの存在で、殊に今回は事前にPart I単体で詳細に論じている分だけ、その予断もかなり強固なものだろうと考えたわけである。これでその予断通りの出来だったら、超能力だろう(笑)。

つまり、ルックについての不満は「変える必要がなかったんじゃないか」と謂う種類の不満だし、「計画と実行」についての不満は「前編ではちゃんと押さえていたのにどうして今回はやらなかったのか」と謂う不満である。

どちらのポイントもPart Iの時点では積極的に評価していた部分なので、Part II で敢えて変えた・やらなかったと謂うことが、剰り良い判断だったとは思えないと謂うことである。就中戦闘前に計画をきちんと提示して見せると謂う段取りは、前編ではなくてもわからないと謂うほどの必然性はなかったが、後編の多正面作戦においては観客の理解の便宜と謂う意味で是非とも必要だった筈なので、かなり残念に感じた。

ただ、このエントリだけだとオレがこの映画をあまり評価していないような印象を与えるかもしれないが、そんなことは勿論ないわけで、やはり前編からの流れを受けた決着の在り方から論じるのが筋だろうと思ったからこう謂う評言になったが、一本の映画として視た場合の面白さは群を抜いている。

今回はこの辺りで一旦キリにするが、この映画については近々にもう一度エントリを起こす予定である。

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コメント

お疲れ様です。

私は前回同様こちらで予備知識を仕入れさせて頂いてから鑑賞ということになりますので、純粋に初見での感想にはなりませんが、自分がどの辺を気に入ってどの辺を気に入らないと感じるか興味が湧いてきました。
思わず赤面の「メキシカン・スタンドオフ」(←と呼ぶのだと初めて知りました)まであるとは……いきなり出たら絶対吹きますね。心の準備ができて良かったです。

黒猫亭様がおっしゃっておられる「レッドクリフ」のテーマは、先日DVDで観た「HERO」のテーマ(というかオチ)に通ずるようにも見受けられます。しかし残念なことに「HERO」は全く燃えが感じられない映画でございました。
「なぜジョン・ウー映画は燃えるのか?」についても考えながら(いや、本当は考えるのが苦手なので感じる程度で)、PartⅡを観てみたいと思います。

レビュー後編も楽しみに致しております。

投稿: 604 | 2009年6月 9日 (火曜日) 午前 12時19分

>604さん

普通、公開中の映画をレビューする場合は、よほど気に入らないことがない限りはポジティブ評価から書き始めることにしているのですが、今回はロードショー公開も終盤だし、すでに大ヒットしている映画なので、書きたいことから先に書きました。

最終決戦の描写についてちょっと点の辛い書き方になったのは、オレが個人的にあまりスペクタクルに興味がないからと謂うバイアスもあるかもしれません。可能な限り本火を使っていてかなり頑張っていますから、普通の観客はもっと理屈抜きに楽しめていたのかもしれませんね。

艦隊焼亡のくだりは、やはり劇場の大スクリーンとドルビーサウンドで味わって戴きたいところです。ウチみたいに安普請のところに住んでいると、やはり劇場ならではの醍醐味と謂うのは大音量のドルビーサウンドだと思いますね。あれだけは一般家庭で再現出来ませんから。中華映画の肉弾戦も、やっぱり優れた音響効果あってこその迫力だと思いますし。

>>「メキシカン・スタンドオフ」(←と呼ぶのだと初めて知りました)

あんなものにまで名前があると謂うのが結構笑えますが、何にでも名前があるものなのですねぇ。思うに、アクション映画ファンの間で「ジョン・ウー映画のアレ」とか呼ぶのがまだるっこしいと思った人が大勢いてですね、「アレの名前は一体何だ?」と謂うことになったんではないかと(笑)。多分、すでに死語になって久しいような古いスラングを掘り出したんじゃないですかね。何処の誰が掘り出したかまでは識りませんが。

>>いきなり出たら絶対吹きますね。

吹きました(木亥火暴!!)。いや、これで「白い鳩」「翻る布」「メキシカン・スタンドオフ」と謂う呉宇森映画の三種の神器が見事に揃いましたね。

>>黒猫亭様がおっしゃっておられる「レッドクリフ」のテーマは、先日DVDで観た「HERO」のテーマ(というかオチ)に通ずるようにも見受けられます。

キムタクが松たか子とチューをする映画のテーマと通じるところがあるかどうかはわからないのですが(笑)、李連杰が嘘八百を並べ立てる映画のことでしたら、たしかに共通するものがありますね。犠牲を冒して難敵に肉薄しながら殺害を思い留まる、と謂う辺りに共通のテーマ性が込められているのでしょう。

ベタなことを言うと、どちらも史実に取材しているので敵を殺す結末には出来ない、と言うとあんまり身も蓋もないですが(笑)、流石に曹操が赤壁時点で殺されたり、秦の始皇帝がアサーリ暗殺されるような、「柳生一族の陰謀」とか「真田幸村の謀略」みたいに荒唐無稽な映画には出来なかったのでしょうね。ただまあ、この映画の場合は直接対決を回避して曹操が敗走する結末にも出来たわけですから、こう謂う形で決着を描きたいと謂う意志ははっきりしていたでしょうね。

本文でちょっと触れた「どろろ」も、テーマ的には復讐の連鎖を如何に止めるのかと謂う題材を扱っていて、あの映画も別の監督だったらもっとマシな映画になったんではないかと悔やまれます(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年6月 9日 (火曜日) 午前 06時45分

黒猫亭さん、こんにちは。

三国志は吉川英治版で2度挫折しています。図書館で借りて読んだのですが、2度とも途中で他の人が次巻を借りていて間が開いてしまいました。そうしたところ誰が誰だかわからなくなる現象が起きまして、結局諦めてしまいました。途中まで確かに面白かったのですけどね。
今回のレビューでは宇宙戦艦ヤマトの今は亡き富山敬演ずる古代君の迷台詞を思い出しました。
「我々は、戦うべきではなかった・・・・・・愛し合うべきだった!」
いや、皆殺しの後そんな事言われてもorz

投稿: うさぎ林檎 | 2009年6月 9日 (火曜日) 午前 11時22分

>うさぎ林檎さん

>>三国志は吉川英治版で2度挫折しています。

オレも講談社文庫版の一巻目半ばまで読んだくらいですかねぇ。波瀾万丈で面白いことは面白いのですが、桃園の義兄弟が結義するまでが長い長い(笑)。しかもこれ、全部吉川英治の創作ですからね。

一応、Part II 公開までの宿題として「演義」を通読するつもりで徳間文庫版を中古で全巻揃えたのですが、これも最初から読み始めたのが二巻目で一回停まって、映画の公開が始まってしまったので、赤壁前後のくだりだけ抜き読みすると謂うずぼらなことで済ませました(笑)。間にたった一巻分くらいしかないんですけどね。

>>いや、皆殺しの後そんな事言われてもorz

あれって名台詞みたいに謂われていますけど、問答無用でガンガン攻めてくる相手とどうやって愛し合うべきだったと謂うんでしょうね。そらぁ愛し合うほうが平和で好いですけど、それが出来ないからトラブルが起きているわけで、「どうやって」と謂う視点抜きで「愛し合うべきだった」と言われてもなぁ、と。まあ、今ではもう「愛は宇宙を救う」ってなフレーズはネタ扱いですが(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年6月 9日 (火曜日) 午後 09時01分

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