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2009年6月17日 (水曜日)

華の赤

大筋の話はこのくらいにして、今度は細かいところを視ていこう。最初に批判がましいことを書いたから、あまり楽しめなかったような印象を与えてしまったかもしれないのだが、その他の面ではかなり楽しませてもらった。

連合締結と最初の遭遇戦を経て、いざ本格的に両軍が対峙する段階になると、演義のほうでは活発な謀略戦が描かれているのだが、言うまでもなく演義では諸葛亮が神機軍師として大活躍する形で描かれていて、周瑜の活躍はその陰に隠れる形になり、諸葛亮の神の如き知略に舌を巻く引き立て役だったり、事ある毎に口実を設けて諸葛亮を殺害しようと企む仇役として描かれているが、映画ではこの両者の役割分担のバランスがよく考えられている。

本家中国人の意地と謂うのか、史実や演義との距離の採り方が手慣れていて、換骨奪胎が絶妙であると感じた。かなりオリジナルな展開が多いのは事実だが、それでも大基本として大本の物語性を踏まえていて、得手勝手なオリジナルストーリーを展開しているわけでは決してない。

全体的な印象としては正史や演義とは随分懸け離れて見えるのだが、まったく原典とは無関係に思い附いたアイディアはなく、何故こう謂う形になっているのかを原典との距離から後附けることが出来ると思う。今回はちょっとその辺を中心に、面白く感じたところを挙げていこう。


●兄と妹

まず、この映画で最も脚色が目立つのは女性たちの描き方だと謂えるだろう。と謂うより、元々の三国志の世界では殆ど女性の活躍する余地はないから、尚香や小喬が関係するくだりはすべてこの映画独自の創作である。調べてみた範囲では、民間伝承や後代の創作に取材したものでもないようである。

尚香に至ってはこの時点ではほぼ言及すらされていないし、「尚香」と謂う名前自体京劇から採られたもので、正史や演義では孫夫人とか孫仁と呼ばれているが、まあそれを言い出すと「小喬」と謂うのは「喬玄の娘姉妹の妹のほう」とか「江東の二喬の妹のほう」と謂う意味だし、「江東の二喬」もまた「江東一の美女の喬姉妹」ほどの意味で、名前ですらないのだから、他人はともかく夫の周瑜が直接「小喬」と呼んでいたとは思えないが、要するにこの時代の正史において女性の個人名が正確に記録されている例は少ないと謂うことである。

歴史と謂うのは、基本的に男性が独占してきたものであるから、その男性中心社会の都合に関係しない限り女性についての記述は存在しないのである。そのように歴史の表舞台には殆ど出て来ない女性たちだが、その記述の欠落に想像を膨らませる余地があるわけで、記録がないと謂うことは何もなかったこととイコールではない。

ただ、歴史においてほぼ無視されていると謂うことは、それだけ現実の社会において女性の果たす役割も小さかったと謂うことだから、三国志に記述されている歴史的事件において女性が果たした実際の役割もほぼ言及する必要はなかっただろう。民間の伝承や創作を交えた演義においても女性があまり活躍しないのだから、そもそも実録のタネはなかったのだと謂うことだろう。

そんなことはないんじゃないか、と謂うのがこの映画の立場で、勿論糞リアリズムで考えると荒唐無稽な話なのだが(笑)、所詮演義も正史に取材した荒唐無稽な虚構の歴史物語なのだから、男性中心の歴史観に対するオブジェクションとして女性の活躍する虚構の挿話を付加しても、或る種「演義の脚色」の範疇に納まるだろう。こう謂うような異聞があってもおかしくはないよね、と謂うレベルの脚色である。

劇中最も大きな創作要素は尚香の敵陣潜入だが、これは元々「出て来ない人物」を前面に出している関係上、何かの役割を振る必要があるから、「苦肉の計」で敵陣に降り連合軍に内応して火を放った黄蓋の役割を、別の描き方で代替していると視ることが出来るだろう。後半で黄蓋が演義の通りに「苦肉の計」を献策してアッサリ却下されているのは、後述するように他の観点の理由もあるが、直接的には尚香が間諜の役割を代替しているからだろうと思う。

さらに後半では小喬までもが敵陣に乗り込んで時間稼ぎをしているのだから、その上この爺さんまで敵陣に入って大活躍したら流石に諄すぎる(笑)。つまり、この映画では敵地での工作の役割をすべて女性キャラに振ってオリジナルのエピソードに仕立てていると謂うことである。

そして、Part II の大きなテーマの一つがこの尚香潜入のエピソードに託されているわけだが、Part Iで劉備を袖にしたのは少なくともこの映画の流れ上ではガチだったと謂うことで(笑)、さらに孫叔材と謂うオリジナルな人物が登場して尚香の相手役を務めることになる。

この尚香と孫叔材の関係性は、初見の段階では何となくピンと来ないような気がしていて、パンフレットなどでも「淡い恋心」的な表現になっているが、どうもこの武侠片の女侠的なキャラが鈍臭い素朴な田舎男に惚れると謂うルーティンが、個人的に何となく実感が湧かないのである(笑)。

こう謂う取り合わせは金庸原作の「射雕英雄伝」でも視られて、才気煥発で古今の学問に通じ口八丁手八丁、武術にも秀でたツンデレ美少女と謂う万能超人の黄蓉が、主人公とは謂え師匠から見放されるほど鈍臭くて莫迦正直しか取り柄のないような郭靖に、出会った瞬間から一方的に恋に落ちると謂うのが何だかよくわからない(笑)。

まあ、金庸先生の女性観は何だか変に歪んでいるから、凡夫のオレなどに理解出来なくても仕方ないだろうと思うのだが、実際中央電視台版で郭靖を演じた李亞鵬も、何か無闇にとんがった女に惚れてあの手この手のプロポーズ大作戦の末に、漸く相手が折れる形で目出度く結婚しているのだから、黄蓉→郭靖みたいな相関図の矢印は単に金庸先生個人の幻想で、現実にはやはり逆のパターンが多いのではないかと思う。

ここで射雕英雄伝を引き合いに出したのは満更脇道でもなくて、この映画でもそうなのだが、やり手の女侠が男装に身を窶している状況で不意に恋に落ちると謂うのは、何故か結構アリガチなシチュエーションである。射雕英雄伝の黄蓉も薄汚い乞食少年に変装した状況で郭靖と出会い、何の前フリもなくいきなり恋に落ちている。この辺は、この映画の状況設定に結構よく似ている。

この場合、相手が自分を男だと思い込んでいる状況で、その相手に気附かれるはずがない秘かな恋心を抱くと謂う「イケパラ」的な状況設定(と謂うか大本は「お気に召すまま」だろう)が面白いのだろうけれど、尚香の場合は男勝りの度胸で敵情をスパイする冒険心のほうがキャラ的に似つかわしいので、その傍らで孫叔材に惚れると謂うのがどうもしっくり来なかった。

それはつまり、尚香は別段孫叔材の質朴な人柄に惹かれたわけではなく、蹴鞠で活躍するカッコイイ雄志を目にして早々に肩入れしているからで、早い話が、叔材にまず惹かれた理由が極々ミーハーな動機として描かれているからである。

その辺、ちょっとこの二人が惹かれ合う描き方が雑だと思ったのだが、まあ限られた尺の中でどうやって本筋に絡まない脇筋を妥当に織り込むかと謂うのは、判断の難しい部分ではある。どうも呉宇森は、男女のデリカシーを描くのがそんなに得手ではないようで、Part Iでも周瑜夫妻の愛情の機微を描くのが諄かったりするのだが(笑)、尚香のような作家と距離のある人物の恋情を描くのはちょっと難しかっただろう。

そのような違和感を閑却して考えるなら、この場合の尚香と叔材の関係性の設定は完全にロミオとジュリエットの鋳型に基づいていると謂えるだろう。勿論、本来この二人は敵同士なのだし、尚香は叔材の素朴さを上手く利用して情報収集を完遂し逃亡しているのだから、叔材こそ好い面の皮なのだが(笑)、自身と叔材が置かれたそのようなシビアな事情についての尚香自身の内面的な葛藤は一切描かれていない。

尚香視点で考えるなら、相手はそもそも敵軍の将兵であり、さらに自分が女性であることを識らないのだし、いずれ決戦において敵同士として殺し合う間柄であり、そしてこれは指摘しておくべき点だろうと思うが、尚香と叔材は同じ孫姓の同姓の相手である。

この条件附けは、決してこの二人が男女として結ばれ得ないと謂う事情の、これでもかの駄目押しと表現出来るだろう。中国では伝統的に同姓婚は忌避されており、法律上禁止されていない現代においても、強固な習俗として定着しているそうである。

中国では、姓を同じくする者同士は一族であると見做されている。であるから、同姓婚の忌避は近親婚のタヴーに近似のものだが、勿論それは現代においては実質的な意味はほぼ消失している。前掲リンク先でも触れられているが、中国においては五大姓が姓の大半を占めていて、日本ほど姓のバリエーションは多くないのだから、実質的な近親婚の不都合が同姓婚で生じるはずはない。これは寧ろ思想的な問題だろう。

たとえば武侠片に共通するルールとして、「武術門派内の男女関係の禁忌」と謂う決め事があって、金庸の代表作「神雕侠侶」でもそれが主要な題材として扱われているのだが、勿論実の親子兄弟でもない限り、武術の門派内の構成員同士は基本的に他人の間柄なのだから、遺伝学上の問題ではなく一種の不合理な社会習俗である。神雕侠侶でも、一旦師弟の縁を結んだ男女が、周囲の反対を乗り越えて結ばれるまでの紆余曲折を描いていて、旧弊な伝統的不合理の打破と謂う金庸好みの主題になっているわけである。

現代においても中国では、共同体一般に遍く疑似家族としての性格が重ね合わされており、儒教的な家族倫理がそこに働いているわけであるから、それはすでに思想上の問題であって、実質的な不都合の問題ではない。親子兄弟の間柄では婚姻は許されないものであるから、親子兄弟と同一視されている集団内部でも婚姻は許されない、そのような類感の論理である。

まして一八〇〇年遡る三国志の時代には、如何に中国大陸が広大でも現代のように数億もの人民が存在したわけではないのだから、同姓婚の忌避は共同体レベルでは実質的な遺伝学上の意味がまだ存在しただろうし、今とは比べものにならないくらい禁忌感は強固なものであったはずである。

前述の通りこの孫叔材と謂う人物はこの映画のオリジナルキャラなのだから、尚香と同じ孫姓に設定されているのは決して偶然ではなく表現意図が存在するはずである。その目配せは中国人になら誰でも通じるが、他国人にはちょっとピンと来ない性格のものであると言えるだろう。つまり、この二人は敵味方である以前に同姓の兄妹同士と見做される関係なのであり、それが故にそもそも男女としての恋愛は許されない間柄として設定されていると謂うことである。

この間の事情を、この映画では尚香が男装していることで曖昧に暈かし、胸の裡に秘めた一方的で仄かな想いとして描くことで禁忌を回避しているわけだが、本来在って然るべきはずの尚香の内面的な葛藤を極力迂回して描いている為に、結果的に叔材絡みの場面における尚香の言動が莫迦っぽく見えてしまう嫌いは否めない。


●「在る」と「ない」

これは、連合軍を勝利に導く為に情報を収集することが最終的には敵兵である叔材を殺すことに繋がると謂う想像力の欠如や、決戦の場面で尚香が無思慮に叔材を呼び止めた為に叔材が殺されたように見えることでも強化される印象である。結局現状の描き方では、尚香が叔材を殺したような見え方になっているわけである。しかし、多分この映画の尚香は、莫迦なのではなく本来在るべき多くのドラマが省略された為に結果的に莫迦に見えるような描き方になっただけだろうと思う。

本来敵同士の間柄にある同姓の男女が、名も無き同性の味方同士として出会うわけだから、これは何重もの欺罔になっているわけで、線の細い論理ではあるが、これが逆に尚香の想いが男女の間のそれであることを暗示している。ただ、本来そこに在って然るべき心理ドラマが不自然なほどに省略して描かれているから、うんと背景に退いた見え方になっているわけである。

また、尚香と叔材が潜在的に同姓の兄妹同士の間柄であるなら、尚香の叔材に対する想いには兄孫権に対する想いの幾許かが投影されていると謂う読み筋も在り得るが、これも表立っては何も描かれていないのであるから、空想止まりの話である。前回触れた尚香の報告の場面における孫権との絡みでも、この三者の関係を有機的に組み合わせて捉え得る演出上の目配せはない。

想像力豊かな観客なら、実兄・孫権に対する尚香の想いと同姓の兄であり実兄とは対照的な人物として造形されている叔材への想いの間に何らかの連想が働くだろうし、僅かに明確な映像上の表現として描かれている尚香の「兄に存在を認めて欲しい」と謂う動機を手掛かりに、普遍的な家庭悲劇を構想することが可能だろう。しかし、現実にはそんな複雑でデリケートなドラマは、この映画では一切描かれていない。

ここまでの考察を踏まえて言えるのは、本来尚香と叔材のエピソードには、映画の中で現実の映像としては描かれていないドラマのシーズが設定レベルで濃厚に盛り込まれていると謂うことであり、制作上の総合的な判断としてここには詳細に立ち入るべきではないと謂う決定が下されたのだろうと謂うことである。

まあ、はっきり言ってこの潜在するドラマを呉宇森が撮ってもあんまりしっとりした話にはならなかっただろうから(笑)、暗示止まりで賢明だったかもしれない。この映画では監督がシナリオ作成に深くコミットしているようなので、自分の得手ではない方向性のドラマを膨らませても仕方がないと謂う判断だろう。

また、繰り返すまでもないことだが、尚香と叔材のドラマは一から十までこの映画独自の創作要素であるから、素気ない史書である三国志を肉附けするならともかく、小説作品である三国演義を原作に掲げる作品で、創作部分がドラマの主軸になっては潤色のバランスが悪いと謂うことは言えるだろう。

結局、尚香と叔材の関係性については、所詮は脇筋なのであるから、ハナからドラマなど「ない」、もしくは「なかったことにされた」のであれば左程気になることでもないのであるが、「潜在的には在るはずなのに意図的に描かれていない」のが何とも不思議な印象を与える。

ややこしい言い方になるが、映像作品の解釈においては「映像で描かれていないものはないものと見做す」と謂うのがセオリーである。しかし、その一方で「映像で描かれていない」とはどう謂うことか、「ない」とはどう謂うことか、と謂う判断基準については注意深く考えるべきである。

つまり、「映像で描かれていない」から「ない」と見做し得るのは、「ない」と解釈しても不自然ではない、もしくは「ある」と解釈した場合に不自然に感じられる場合である。また、「なかったことにされた」と謂うのは、本来想定されるドラマとはまた別のドラマによって原意図が上書きされていて、その上書きされた痕跡が「映像によって描かれていること」の齟齬によって類推が可能であると謂うことである。

ところが、この尚香と叔材のくだりに関してはそのどちらでもない。「映像によって描かれていること」から本来在るべきと想定されるドラマが「在る」と解釈したほうが自然に話が通るのだし、「ない」と解釈すると不自然さを感じてしまう。また、それが別のドラマによって上書きされているわけでもない。要するに「映像によって描かれていない」ことがそのままポッカリと描写の省略として意識されるような作りになっているわけである。


●美女と奸雄

いま一人の「妹」である小喬の冒険についてであるが、こちらのほうはドラマ的な必然性との兼ね合いから出て来たアイディアだろう。つまり、メインヒロインである小喬を前面に立てた見せ場を用意する為に創出したアイディアであると同時に、この映画における戦闘の描き方が要請する物語要素でもあると謂うことで、その間のバランスが好くとれていると思う。

前者については疑問はないだろうから後者について説明すると、たとえばこの小喬の時間稼ぎがなかったらどうだったかと謂うことを考えるとわかりやすい。元々演義では、この決戦を左右する東南の風は、諸葛亮が七星壇を祀り道術で風を呼んだことになっているのだから、時間稼ぎなどする必要はない。欲しいと思うまさにそのタイミングで風が呼べるのであるから、当然の話である。

しかし、この映画における諸葛亮は博物学的な知識や広汎な先進技術を駆使する天才軍師ではあっても、神懸かりの道術使いではないから、風の吹くタイミングは読めてもそれを自在に動かすことは出来ない。それはつまり、諸葛亮の天才的知略やその描き方に映画的誇張はあっても、現実に存在しない魔術的な原理は徹底排除すると謂うレベルのリアリティであり、これはこの映画全体の採用するリアリティでもある。

監修の渡邉嘉浩教授がパンフレットに寄稿した文章でも、

このように、『レッドクリフ』は『三国志演義』で行われた『三国志』物語の合理化をさらに進めている。

(中略)

こうした『三国志演義』における合理化の不十分さに比べると、レッドクリフの合理化の完成度の高さが分かる。「連環の計」や「苦肉の計」といったお馴染みの場面にも、その合理化は及ぶ。

と書かれているが、この映画は史書や小説で描かれているいにしえの合戦絵巻を、こんにちの目で視ても或る程度のリアリティを感じる描き方に改めているわけで、それはたとえば前編の「八門遁甲の陣」や、その発展形である今回の「楯の防火壁」の描き方にも視られる性格である。

そんな器用な陣形を自在に展開することが可能かとか、歩兵の楯で十分な強度の防壁を構築することが可能かと謂うレベルの検証に耐えるリアリティではないが、それが可能だとすれば絵面上ではあのような戦闘の描き方に映像的な説得力が出てくる。

つまり、今時の感覚では三国志演義をそのまま映像化しても嘘臭い印象を免れないと謂うことで、それはそれでリアリティレベルの計算を間違わなければ別段問題ではないのだが、呉宇森が描きたかったシリアスで現代的なテーマ性に相応しいリアリティにはならないと謂うことである。呉宇森はこの映画を戦争映画的な生々しいテーマ性で描きたいと考えているのだから、少なくとも戦争映画に近似のリアリティを具えた映画として成立しなければ、訴えたいテーマに十分な実感が伴わない。

少なくとも、一八〇〇年昔だったらこんな戦争が在り得たかもしれない、と映画を観ている間は信じられるようなリアリティでなければ、友情と結束が勝利を呼ぶと謂うそもそも嘘臭いテーマ性が安っぽく見える。それ故に、映像として描かれた戦争それ自体は或る程度現代の三国志解釈のトレンドに則った現代的なリアリティを具えている必要があるわけである。

そうすると、連合軍・曹操軍共に火計による水上勢力の殲滅を考慮している状況で、大半の期間曹操軍にとって都合の好い西北の風が吹いていて、わずかな期間のみ風向きが逆転するのだとすれば、どうして曹操軍は風向きが変わるまで総攻撃に踏み切らなかったのか、と謂う疑問が出てくる。

ただ、これはまあ、絶対的に火計が必要なのは十六倍もの戦力差と謂うハンディを抱える連合軍の側の事情であって、圧倒的に優勢な曹操軍は普通に総力戦を戦っても勝算は十分にあるわけだから、短期間に急激に風向きが変わる時期があることを識る蔡瑁・張允が亡き者にされてしまえば、その余裕が油断になる。西北の風がこのまま続くなら、連合軍は戦況を覆し得る唯一の切り札である火計を封殺される一方、曹操軍側には火計も含めたオプションが無制限に許されているわけである。

しかし、ただ余裕ぶっこいて油断してました、と謂うだけなのでは、単に曹操が間抜けだから勝てたような見え方になるから、見え方の問題として「何故風向きが変わるまで総攻撃に踏み切らなかったのか」と謂う疑問をクローズアップして解消しておくことが効果的である。どのくらいクローズアップしたのかと謂うと、僅か一日かそこらのサスペンスに凝縮しているわけで(笑)、多寡が数時間の遅れで戦況が劇的に変化するように状況を設定しているのである。

厳密に考えるなら、連合軍側にとって千載一遇の好機である東南の風が吹くまさにその当日に曹操軍側が総攻撃を準備すると謂うのもご都合主義である。その「都合」と謂うのはつまり、作劇的な観点で小喬に見せ場を用意する為の「都合」であって、劇中事実のレベルではそのような段取りを設けなくても、「曹操の油断を衝いて火計が成功しました」と謂う筋書きでもどこも過不足は生じない。

曹操視点では、近日中に短期間だけ風向きが逆転すると謂う情報がないのだから、唯一連合軍に勝機をもたらし得る火計は考慮外、だとすれば、総攻撃の日程は冬至の前でも後でも構わないのである。であるから、曹操軍の総攻撃と風向きの逆転が重なったのは劇中事実の然らしめるところではなく、エピソードのボリューム配分に基づくメタ的な感覚によって曖昧に正当化されていると謂うことである。

つまり、「赤壁の戦い」と謂う物語で語られるべきエピソードがすべて語られた後でなければ決戦は在り得ないと謂うメタ的な予断を無意識に観客が抱いているから、曹操軍が矢を借りられたり蔡瑁・張允が謀殺されたりしないうちに総攻撃を仕掛けなくても誰も不自然には感じないわけである。

そして、語られるべきそれらのエピソードがすべて漏れなく語られた後に、総攻撃を仕掛けるきっかけとして曹操の陣中見舞いのくだりが描かれ、疫病に倒れた兵士たちを前にした雄弁な演説に全軍の士気が更めて鼓舞される、と謂う段取りを設けて冬至の日のサスペンスに繋げているわけであるが、それまで病兵の惨状そっちのけで飲めや歌えのご余裕をぶっこいていた印象が強すぎるので(笑)、やはりこれもきっかけ作りと謂う以上の意味はない。

後に更めて詳述するが、疫病蔓延を受けて曹操が病死体を川向こうに流すくだりの残虐性とは、単に死体を冷酷に利用して疫病を連合軍側に伝染させたと謂うだけのことではなく、この三国志の時代性においては、死せる兵士の死後の安寧を踏みにじったと謂うことのほうにあり、「なんとむごい」と謂うのはその意味である。

その辺の事情は、連合軍側の死体の扱いに見て取れるわけで、疫病伝染のリスクを冒しても葬儀が行われなければならなかったことや、諸葛亮によって火葬が提案された際の暗澹としたリアクション、そして諸葛亮発明の所謂「孔明灯」と謂う小さな熱気球の象徴性へと繋がっていき、それが全体的な「火」の象徴性にも繋がっていくわけだが、とまれ、戦場の修羅場であればともかく陣没した病死体を埋葬せずに利用すると謂う行為は、自軍の兵に対する一片の同情もない曹操の冷酷さを提示している。

人によって解釈の違いもあるだろうが、その意味で曹操の陣中見舞いのくだりは空々しい雄弁のテクニックとして描かれていると謂うのがオレの解釈である。ここで描かれたような手厚い慈しみの感情を曹操が持ち合わせていると謂う描写は、前後編を通じて何処にもない。それが冷酷な曹操の裡に秘めた人間的な本心であると解釈すべき目配せもまた何処にもない。

元々史実や小説に描かれた曹操には類稀な文才があり、一流の能弁家でもある。演義でも度々攻撃前に声涙共に下る雄弁な演説によって総軍を鼓舞する場面が描かれているのがだ、要するにこの場面は伝統的な曹操像の一環として、巧言令色の弁舌によって全軍の士気を持ち直し、病兵にさえ決死の覚悟を抱かせる曹操の偉才とカリスマ性を示す場面であると解釈するのが妥当だろう。

そして、この場面で曹操は顔見知りの兵に親しく声を掛け手ずから粥を啜らせてやっているが、連合軍側でこれとまったく同じ行為を演じているのが他ならぬ小喬であることには注意が必要である。言うまでもなく、この映画において曹操と小喬は絶望的なまでに対照的な存在として位置附けられており、その小喬の偽らざる真心からの慈しみに基づく行為を曹操がそのまま繰り返すと謂うことは、それが欺瞞として描かれていると謂うことである。

連合軍の男たちが、陰鬱な面持ちで敵兵の亡骸を荼毘に附しているまさにそのとき、この男は美酒に酔い痴れて酒とこの世の栄華を讃える一曲の詩を吟じている。こんな男に無名の一兵卒を本心から労る真心など欠片もあるわけがない。

小喬と曹操の原理的な対立軸が何処にあるのかと謂えば、まさにこの名も無き人々に注ぐ眼差しの違いであり、それは映画の劈頭から一環して強調されている。曹操の最初の一手として描かれている病死体のくだりから一環して、小喬は疫病に苦しむ無名の人々の惨状を目の当たりにして悲しむ役割を振られている。これは当然史実にも演義にもない描写であって、ただ男臭くて殺風景な陣中に女っ気の彩りを添える為に従軍看護婦的な役回りを振っているわけではない。

翻って謂えば、ただ単に美貌のヒロインの活躍を混ぜる為に小喬と曹操の対決が用意されているのではなく、この時代の女性にしか担えない役割を担って曹操と直接対決を戦わせる為に、元々史実上では男たちの戦いの歴史の添え物でしかなかったはずの美貌のヒロインがクローズアップされているのである。

そして、誰が何と謂ってもこのPart II のドラマ的な白眉は、この曹操と小喬の直接対決の場面なのだとオレは断言しよう。


●妻と宝

ここまで語れば、オレがこの映画を「女たちのドラマ」として視ていると謂うことがおわかり戴けると思うのだが、Part Iを男たちの演じる熱いドラマとして描いた呉宇森の表現意図としても、このPart II を女たちのドラマとして描く意図ははっきりしていただろうと視ている。

ただし、そこで描かれる「女たち」と謂うのは、呉宇森個人の無骨で男臭い視線を通過した女性像であるから、女たちの演じる繊細で纏綿としたドラマを描き慣れた作家のそれとはまた違う肌合いのものである。

前述の尚香のくだりで本来描かれるべきドラマが欠落しているのは、おそらくそのような繊細で可憐なドラマは呉宇森には巧みに描けないだろうから取捨選択の優先順位が低かったのだろうし、小喬のドラマがきっちりと緊迫感を持って語りきられているのは、別段この映画の小喬は女性でなくても構わないからである。

この映画の小喬は、本来戦わざる者として位置附けられている人物が全編を通じて戦いの悲惨さを見せ附けられ、クライマックスにおいて自身の犠牲をも厭わず間接的に戦いに利をもたらす者と表現出来るのだが、この役割は男性が演じてもまったく違和感はないのである。

単に小喬は事実において女性であるから女性の武器を使って曹操を足止めし、女性性を担って男性に対峙したと謂うだけの違いであるから、おそらくこれなら呉宇森にも自家薬籠中のものとして描けるドラマなのである。

この映画の小喬は、別段男の股間を蹴り上げたりワイヤーで釣られてクルクル廻ったりしない(釣られていることは一回釣られているが(笑))から、イメージ的には尚香とは対照的な女臭い女性として描かれているように見えるが、やっていることだけを視ると尚香以上に完全に「漢」である。

小喬が女性である意味とは「ヒーローのような直接的闘争手段を持たない者の戦い」を描くと謂う観点において成立するのであり、これは煎じ詰めれば男性であっても成立する要件である。呉宇森のような男臭い作家の映画には、事実において女性であっても内面は完全に男と謂う人物造形のキャラが頻出する…と謂うか、作家の男性性の限界として女性性に対する想像力が限定される例が多いが、この映画の小喬も、畢竟するところ呉宇森が共感可能な男性のアナロジーで造形されていると視ることが出来るだろう。

なので、この映画の小喬の行動について、実際のリアルな女心としてどうこうと謂う観点で視るのは、少なくとも呉宇森に気の毒なような気がする(笑)。多分、そこが不得手だと謂う自覚は作家自身にもあるのではないかと思うし、おそらくこの小喬像の映画的なリアリティの成否を決定附けたものは、完全に林志玲のキャスティングであると謂えるだろうから、おそらくそのキャスティングのたしかさを信頼し安心して描いた部分があるようにも思う。

以前、プロモーションの為に来日した際にも一本エントリを上げたが、この林さんの美貌と謂うのは最早卑怯な絶滅兵器のレベルである。

以前書いたことをおさらいすると、遠目に視ても一七四センチの長身でプロポーション抜群の美女、これが近くに寄ると肌の肌理が細かく抜けるように色白く繊細な造作や表情の動きに得も謂われぬ色香があって、口を開けば珠の如きあどけないロリ声がまろび出ると謂うのでは、これはもうバスターランチャーを担いだ無敵超人である。

このうえ素の人格がツンデレだったりドジな眼鏡ッ子だったりすると、視ただけで目が潰れたり即死する輩が後を立たないだろうが、多分本当にドジな眼鏡ッ子でツンデレでオマケに年がら年中腹ぺこの妹キャラなうえに、風呂上がりにバスタオル一枚で出てきて「おっと、チャンネル換えさせて」とリモコンに手を伸ばした拍子にバスタオルの前がハラリとほどけちゃうような人なんじゃないかと睨んでいるから、気の弱いヲタは決して興味を持ってはいけない。なんでも、こう謂う超人と附き合う為には「えふすー」とか謂う秘密の超人リーグのメンバーに選抜される必要があるらしいから、まあ凡夫には手の届かない雲の上の存在である。

オレは別段林志玲のファンではないのだが、この人に「出陣の御前に茶の一杯なと召し上がっていかしゃんせ」とか嫣然と誘われたら絶対断れない自信がある(笑)。これがたとえば、藤原紀香とか松嶋菜々子とか況や北川景子なんかだったら絶対断る自信があるが(笑)、成人女性に興味のある男性で林さんの誘いを断れる人間がいるとはまず信じられない(笑)。何というか、この美貌には「この機を逃したら二度と同じくらい好い目はみられないだろう」と思わせる有無を言わさぬ説得力があるのである。

普通、異性に対する関心と謂うのは好きずきの範疇の事柄だから、たとえば藤原紀香は好きだけど松嶋菜々子は好きじゃないと謂うのは幾らでもある話である。さらに謂えば藤原紀香が好きな人でも、もしも藤原紀香とお茶する機会が与えられてそれがたまたまお流れになったとしたら、一晩悔し涙に枕を濡らしてオシマイだろう(笑)。

しかし、林さんの場合は好きずきのレベルを超えて、目の前にこの人がいたら普通の男性なら惹かれずには措かないだろうと謂う想像力を喚起するし、たとえば彼女と男女の間合いで一杯の茶を共にする体験と謂うのは、他に代替の利かない唯一無二のものだろうと思わせるものがある。

この誘いを断ったら、一晩枕を濡らしてオシマイどころの段ではなく何だか生涯トラウマを抱えて自分を責めそうな気がする(笑)。まして曹操は長年月に亘り一度逢ったきりの美少女の俤を脳裡に刻み込み焦がれ続けてきたと謂う設定なのだから、ここで曹操が誘いを断れなかったことを以て柔弱とか愚昧と断ずることは出来ない。幸いにしてこの人とオレは一生縁がないだろうから安心だが(笑)、ご近所にいたら刃傷沙汰が頻発してとても迷惑な存在だろうなぁとかちょっと思ったりする。

こう謂う人が一人存在する為に、何万人分くらいの女性の運が独占されているのだろうと思ったりするわけで、他に代替の利かない唯一無二のものと感じられるもの、そしてそれが広く普遍的に人々にとっての意味を持つものには、それが何であれ、女性美のような儚いものであってさえ、「財」としての社会的価値が発生する。

平たく謂えば、誰もが欲しがるけれどこの世にたった一つしかないもの、これはすなわち「財」であり「宝」なのである。英雄がそんな「宝」を望むのは、たった一つしかないものを独占することで、それを欲しがるすべての者を排除し得る自身の優越性を実感可能だからである。

たとえば最近屡々話題に上げている三代目桂米朝などは人間国宝に指定されているわけだが、それは彼の芸が他に代替の利かない唯一無二のものであり、広くわれわれ一般にとってそれが大きな意味を持っているからである。桂米朝と謂う一人のお爺さんには、国家が「国の宝」と認定して何の故障もないだけの「財」としての絶大な社会的価値があるわけである。

この尼崎のお爺さんと絶世の美女を同列に語るのもちょっとアレだが(笑)、まあ噺家さんの芸なら多くの人々が分かち合うことが可能だから平和で結構であるが、これが絶世の美女となるとそうは行かなくなる。

古代の英雄が干戈を交え夥しい血を流して奪い合う美女と謂うのは、ただ美しいだけではなくその美しさが他に代替の利かない唯一無二のもの、どんな男であれ一度は所有してみたいと夢想してしまう程の普遍的な意味を持つもの、すなわち「財」であり「宝」でなければならない。一人の芸能人としての林志玲がどのような存在であるかはともかく、この映画に写し撮られた小喬としての林志玲の美貌にはそれだけの説得力がある。

本場中国の人々は、もう少しTVや雑誌などでカジュアルに見慣れているだろうし、人間臭いゴシップにも多々接しているだろうから、普通に旬の人気アイドルとして視ているのだろうけれど、大多数の非中華圏の人々はこの映画の小喬役でほぼ初めて彼女を目にするわけだから、ちょっとインパクトが強い。

この女性美が圧倒的なまでの説得力を持っているからこそ、小喬を奪うべき「宝」と視ている曹操の眼差しと、慈しむべき大切な家族の一人として視ている周瑜の眼差しの違いがくっきりとした輪郭で際立つわけで、小喬だって美人に生まれたくて美人に生まれてきたわけではないのだから、とかく美貌と謂うのは間違いの元で、本人の個人性を超えた社会的価値を持つところが厄介である。

曹操と周瑜の小喬へ注ぐ眼差しの違いとは、この一人の女性に重ね合わされた社会的価値と個人性の間の乖離であると謂えるだろう。


●青年と少女

呉宇森の狙いとしても、この映画のドラマ的な核心としてこのシーケンスを捉えていることは明白だと思う。連合軍と曹操軍が実際に血を流して戦う前に、何一つ武器を持たない女性が堂々と曹操に対峙し、そして勝つこと。ここにこの長い長い映画で描かれた人間ドラマの頂点がある。

このドラマを下世話に表現すれば、他人のかみさんに横恋慕した男の許にその女が乗り込んで「あんたなんか大嫌いよ」とこっぴどく振ったと謂うだけの話である(笑)。

この曹操の「他人の妻を奪うのが大好き」な嗜好には前科があって、赤壁以前にも、陣中にありながら友軍の将の妻を悠々と寝取って恨みを買い、手ひどく裏切られてあたら勝てる戦に惨敗した経験があるのだが、史実や演義の記述に基づくなら、今回の小喬についてはほぼ諸葛亮に着せられた濡れ衣である。

調べてみるとその根拠と謂うのは、曹操の三男坊の曹植が物した「銅雀台の賦」と謂う二〇行にも亘る詩句にたった一行「攬二喬於東南兮,樂朝夕之與共。(二喬を東南に獲り/朝夕これと予共を楽しむ)」とあるのを拡大解釈したものだが、これは単に天子の位にも上るべき曹操には天下の美女が相応しいと謂うくらいの意味に過ぎないだろう。しかも、「銅雀台の賦」のこのくだりはどうやら演義の創作らしい

大小二喬の姉妹はそれほど天下に聞こえた美人姉妹だったと謂うことで、これははっきり謂って「ビッグになって能瀬三姉妹を全部オレの嫁さんにする」と嘯くヤンキーの戯言に近い(笑)。ただ、曹操は時の権力者であるから、倅による戯れのおべんちゃらとは謂え「誰それの妻女を狙っている」と謂う風説が流布しちゃったら、事と次第によっては幾らでも可能な事柄なのだから洒落にならない立場だと謂うことである。

たとえばですね、このオレが今「能瀬三姉妹を三人共オレの嫁にする」とか「香里奈を正妻に据えて、えれなを二号さんに囲って、あんなにはスナックのママをやらせて稼がせる」とか嘯いても妄言の部類だが、某国の某将軍様が同じことを口にしたら、たとえそれが冗談でも、名古屋方面から大挙して義勇軍が駆け附けてきて、竹槍でテポドンをはたき落とす勢いで頑張っちゃうだろう。

このたった一行の戯言が倅のおべんちゃらではなく大マジだと謂うのがこの映画の設定だが、曹操の部屋に通された小喬は、壁に掛かる肖像画を目にして自身に対する曹操の想いを悟り、自分の為に戦を起こしたのかと問うが、それに対して曹操は「そんなことを真に受けているのか」と紛らせる。これは半分本当で半分嘘だろう。

曹操は一人の女性として小喬を愛しているから彼女を望んだわけではない。強大な力を手に入れた今の自分にも未だ手に入らないものの象徴として小喬との想い出があるばかりなのだから、この戦の動機は小喬にあるともないとも謂えるだろう。前述の通り、曹操にとって小喬は未だ奪うことが叶わないこの世の宝に過ぎない。

この映画では若き日の曹操が二喬の父である喬玄に期待を掛けられていて、可憐な美少女だった頃の小喬と面識があったと謂う伝承を採用している。小喬絡みの場面で常に道具立てとして茶が強調されているのは、おそらくその際に曹操が小喬から茶を振る舞われたと謂う見立てだろう。

史実では、この「喬(橋)玄」と謂う人物は小喬(橋)の父親の「橋公」とは別人とされているのだから、従って曹操と「周瑜の妻である橋公の娘」の間には一切面識などなかったわけであるが、何度も繰り返すように、この映画は史実の映像化ではなく演義の映像化であり、民間伝承や京劇の要素も採り入れるなど寧ろフィクション寄りのスタンスを採っている。史実寄りなのは、周瑜の人物像だけと言えるだろう。

曹操が小喬の俤を宿す(とはちっとも見えないが、まあ林さんに似ている女優がそうそうゴロゴロいるわけがない)驪姫に茶を点てさせるのはその想い出の再現であり、今や中原の覇者として絶大な権力を恣にする曹操が望むのは、未だ世に出でざる青二才として抱いた佳人への憧れだと謂えるだろう。まあ、演者二人の実年齢から考えると、曹操が若い頃に当時の小喬を見初めたのだとすれば相当のアレだと謂うことになるが、そこはそれ、「物語の嘘」と謂うもので。

そもそも正史でも演義でも名前すら出て来ない(もう一度おさらいすると「小喬」と謂うのは個人名ではなく「菅原孝標女」みたいな呼称で、たとえば周瑜なら「周郎」に近い呼び方だから、「瑜」とか「公瑾」に当たる個人名が伝わっていないと謂うことである)くらいなのだから、況や赤壁当時の小喬が何歳だったのかなど当然何処にも記録はない。この映画でもその辺は曖昧に描かれているから、二十代と視ることも三十代と視ることも可能であり、年齢関係の厳密な検証は試みるだけ野暮だろう。

そのような因縁を顧みれば、茶を勧めて曹操を足止めし敗北に導いた小喬の策略は、男の振り方としてはシャンゼリオンのエリと黒岩に近いパターンで、かなりえげつない部類に入ると思うが(笑)、まあそれは相手が曹操でなければの話である。二喬の父である喬玄が何故曹操に期待したのかと謂えば、彼を漢室の正統を弼け参らせて奸臣を除く理想に燃える操正しい青年と視たからだが、結局曹操は彼自身が漢室を私する奸臣そのものに成り果ててしまった。

だとすれば、昔日の憧れを踏みにじったのは彼自身の仕業であって、それを思い知らされたからと謂って誰を恨む筋合いもない。嘗ての曹操がどんな男であったのかは殆ど語られないが、曹操と小喬の間に面識があり、当初小喬が曹操の説得に一縷の望みを掛けていたことを考えると、おそらく今とはまた違った人物だったのだろうと謂う推測が可能である。

しかし、今現在の曹操は民への慈悲を懇願する小喬の訴えをせせら笑い、己が手にした絶大な力を女にひけらかす凡庸な権力者になってしまった。死をも辞さずに乗り込んできた小喬の覚悟の程を識ると、「そなたの夫が敗北する様をとくと見るが好い」と冷笑する下司な男に成り下がってしまった。

長い歳月を隔てて再会した理想家肌の青年がこのような厭な中年男になってしまっていたことを、嘗ての少女はその目で視た。であるならば、嘗て清廉な若者が抱いた美しい憧れやその想い出は、最早この男の所有すべきものではないのである。


●夢と現

曹操が説得出来る相手ではないことを悟った小喬は、風向きが変わる刻限まで総攻撃を遅らせる為に、かなりえげつない手段に出る。彼女の真意が奈辺にあったかは明らかに語られていないが、鎧甲冑に身を固めた曹操に茶を勧め僅かな時を稼ぐと謂うことは、曹操の想い出を冷たい打算で利用すると謂うことである。

前編では、周瑜邸において小喬が諸葛亮や夫の周瑜に茶を振る舞う姿が繰り返され、方や曹操軍においては驪姫に身代わりを務めさせてイメージプレイに浸る曹操の姿が繰り返されることで、曹操がまさに望むものがそれであることを強調しているが、そのような執拗な刷り込みによって、曹操が如何なる局面においても小喬の誘いを断れないと謂うことに強力な説得力が具わる。

勿論、このくだりの劇的説得力が林さんの美貌に多くを負っていることは今更繰り返すまでもないことだが、曹操固有の事情として小喬の振る舞う茶を味わうことに強い執着があることが提示されているのだから、これはもう断れるはずがない。

これまで語ってきた通り、この映画における曹操は油断のならない強大な悪人として描かれているのだから、この曹操が女に騙されると謂う間抜けな油断をして失敗を犯す流れにはそれ相応の強力な理由附けが必要である。この悪賢い男を出し抜く為に男たちが凝らした知恵については後ほど更めて語るが、曹操の欲望の焦点である小喬には知謀を超えた最も強力な切り札があるわけである。

また、この時点の曹操の思惑を推し量るなら、曹操視点では万に一つも連合軍に勝機はないと見做し得るのだから、敗北必至の敵将の妻が自陣に投降して媚びを売り、まさに自身の望むものを与えようとしているのだから、それをどのように受け止めていたかは更めて指摘するまでもないだろう。曹操はこのとき、望むものを粗方手に入れかけていたのである。飽くまで曹操視点においての話ではあるが。

曹操は自分が誰も信じない人間だから、人が人を裏切ることは当たり前だと思っているのだし、愛が暴力によって裏切られるのもまた当たり前だと思っている。愛を信じないからこそ暴力で奪うのだし、愛を信じないからこそこの局面で小喬が夫を裏切るのは当たり前だと信じている。

連合軍側と曹操軍側の双方の事情をつぶさに識るわれわれ観客は、この局面で小喬が曹操に嫣然と微笑みかけるのであれば、それが本心からのものであるはずがないことを強く確信しているが、曹操はそうではない。彼の生きる世界においては、弱者が強者に媚びを売り節を枉げるのは当然なのであり、この世の宝が強者の手に落ちることを望むのは当然であるが故に、このあからさまな小喬の欺罔に疑いを差し入れる動機はない。

謂わば曹操は、あまりに強すぎる人間不信を抱く故にこそあまりに簡単に騙されるのであって、これは笑うべき逆説である。何が可笑しいと謂って、曹操は人は裏切るものであると頭から信じ込んでおり、欺かれまいとする前提において他者を量っていながら、人が人を裏切らなかったことを以て易々と欺かれる、これは非道く滑稽な皮肉である。

方や小喬はかなり容赦なく曹操を欺いているわけで、心にもない笑みを浮かべて曹操の夢想を実演してみせることで散々足止めをした挙げ句、頃合いやよしと視るや冷酷な言葉で突き放し、曹操が本当は何一つ手に入れてなどいないことを暴露する。こう謂うご念の入った振り方をされたら、気の弱い男だったら即死しちゃうな(笑)。

このくだりは演劇的な緊迫感で段取りが設けられていて、強く吹き附ける風が一瞬止みやがて逆転する刹那を視て取った小喬は、一転して冷たい口調で曹操の飽くなき野望を茶杯から茶盤に溢れ出る茶に喩えて詰り、「茶の心がわからない人ね」とせせら笑う。

この瞬間に急遽風向きが逆転したことが報告され、すべてを悟った曹操に持病の偏頭痛が襲い掛かり、「華陀を呼べ」と叫ぶと「すでに逃亡しております」と応じられ、がっくりと曹操が頽れる、この一連の呼吸は何とも言えない緊迫感に満ちている。この瞬間に曹操の敗北が決定附けられたことがあまりに明瞭に語りきられている。

まさに夢想した通りのシチュエーションが実現され、九分通りそれを我が手に掴みかけていると感じたその刹那に急転直下の逆転が起こり、それが冷酷な欺罔に過ぎないことが暴露され、そしてその現実によって曹操の甘美な想い出は永久に彼の手から喪われてしまう。その苦痛を癒せる者は最早彼の許にはいないのである。

愛を信じず暴力と裏切りのみを信じる曹操の支配原理に対して、小喬は断固として拒絶の意志を示すことでそれを絶対的に否定する。曹操が曹操である限り、決して小喬は彼のものにはならない、それを、青年時代から抱き続けてきた甘美な夢に裏切られることで思い知らされる。もしかしたら、少女の頃に曹操に一杯の茶を献じた記憶は小喬のものでもあったのかもしれないが、それはこの刹那に永遠に喪われてしまったのである。

たとえば尚香が、男たちの政治の道具としての政略結婚を堅く拒絶するように、小喬もまた男たちが血を流して奪い合う「財」としての在り方を強く拒絶する。より強い者が所有する権利を持つ主体性のない何物かであることを拒絶する。その意味で、女たちもまた独立自尊と謂う薄っぺらい理想を掲げて戦っているのである。


●茶と酒

ここで小喬が口にする「茶の心」について少々立ち入るなら、喫茶は中国から発祥し世界に拡がった中国の誇るべき食文化であるが、茶と謂う植物の大本は雲南省西南部近辺の原産と考えられていて、この茶の株が世界各国に拡がったと視られている。

元々原産地の少数民族の間で野菜のように調理して食されていた茶を、漢方の煎薬の連想から漢人が現在のような飲料の形に改めたものらしく、三国志の時代には四川を経由して長江流域で次第に喫茶の習慣が拡がっていたらしい。つまり、この時代では比較的新しい食文化だったと謂うことで、謂わば後漢帝国の本拠地である洛陽から視ると南方のエキゾチズムを漂わせる貴重な薬種であったと謂うことである。

この時代の喫茶の慣習については吉川英治版三国志でもちょっと触れられていて…と訳知り顔に言いながら「群星の巻」の半ばまでしか読んでいないのだが(笑)、劉備が母親の為に高価な茶を求めるくだりが冒頭に据えられていて、そこからオリジナル展開の冒険譚に巻き込まれるわけだが、洛陽近辺では宮中や一部貴族の私邸で少量栽培されるのみの千金に値する貴重品であったと謂うふうに書かれている。

しかし、この映画の劇中における描き方を視ると、それなりに贅沢品ではあるのだろうが貴人の生活レベルではかなり日常的な飲料として扱われており、兵卒が牛を盗んだとか糧秣が一〇日しか保たないとか謂うような切迫した食糧事情でも茶を嗜むことが出来たのだし、第一小喬の人物像から考えてそのような高級嗜好品を文字通り湯水のように浪費するような女には描かれていないのだから、劇中の見立てとしては、当時の東呉で盛んに茶の木が栽培され、喫茶の習慣が広く一般に普及していたと謂う想定だろう。

調べてみた限りでは、この時代の「茶の心」と謂うものは史料レベルの確度ではよくわかっていないようである。最初に体系的に喫茶の文化を説いた陸羽の「茶経」が著されたのは三国志の時代より六〇〇年も後であるから、この後代の著述から遡る形で僅かに推測することしか出来ないだろう。

本邦ではすでに奈良時代には茶が伝来していたとされ、遣唐使による禅僧の往来に関係しているとされているが、はっきりしたことはわかっていない。ただ、禅宗との関連で伝わった関係から独自の精神性を帯びるに至り、「道」として確立されることで総合的な美意識として日本独特の発展を辿った。「茶人」と謂う言葉が「変人」の代名詞として通用するほど茶道の美意識が俗人には理解し難いものであるのは、そもそも禅と謂う思想自体が言葉による直接的な名状を避ける特殊な思想である故にわかりにくいものだからである。

これが直接古代中国の「茶の心」と結び附くわけではないことは明らかで、「茶経」の伝来や漢僧の往来を通じて或る程度の共通項はあるが、現在われわれがイメージするような茶道の文化と中国における歴史的な喫茶文化はほぼ完全に別物である。

明清の時代に生まれた「工夫茶」は半発酵茶である烏龍茶を美味しく淹れる為のレシピのようなものだし、現在中国で行われている「茶芸」とは日本の茶道が逆輸入されたもので、七〇年代に発祥したものだから物凄く新しい文化である。

では、陸羽の「茶経」に説かれている喫茶の精神性とはどんなものかと謂うと「茶の効用は、味は最も寒であり、飲に最も宜しい。精行倹徳之人が、もし熱渇し凝悶すれば、脳は疼き目は渋り、四肢は煩わしくなり、百節は伸びやかでないときに、とりあえず四五杯も啜れば、醍醐や甘露と等しいものである」と謂うもので、「寒」とは漢方に謂うところの鎮静効果の謂いであり、一心に労働に励み倹約の徳行を行う者の疲労や苦患を去り穏やかに癒すのに適していると謂うことである。

つまり、喫茶がもたらす心身の状態は窮めて穏やかでストイックなものであり、貪ることなく質朴に日々を過ごす心映えに適していると謂うことで、このような関係から禅僧の間に喫茶の習慣が広まったとされている。謂ってみれば酒に対置されるような飲料として茶が捉えられていたわけで、熱狂し貪る心映えとは対照的な精神性を象徴しているのであるから、曹操はまさに「茶の心がわからない人」である。

そして、前後編を通じた劇中の曹操は何だかいつも酒を呑んでいるようなイメージで描かれているわけで、実は伝統的な文脈で謂うなら三国志紳士録中随一の酒飲みと謂えば孫堅から続く孫家の男たちにとどめを刺すのだが(笑)、このほうは前編終盤の勝利の酒宴のくだりで、一杯機嫌の孫権が妹を劉備に嫁がせると迂闊に口にして尚香を怒らせる程度の描き方に留めている。

実際には、孫家の男たちはみんな極端に酒癖が悪くて酒の上の失敗や暴虐の例が無闇に多いのだが、流石にこの映画は孫権の君主としての成長を描く関係上、そちらのほうは控えめな描写になっているわけである。

一方劇中の曹操のほうは事ある毎に酒杯を傾けていて、茶を口にするのは小喬への想いに浸りイメージプレイに耽るときだけなのだから、その小喬を演じさせられる驪姫が所詮は賤しい浮かれ女で身代わりの贋物でしかない以上、曹操の喫茶は女性への欲望を動機とした真似事にしか過ぎない。

本当は茶なんかより美酒を痛飲したいと謂うのが本心だろうし、前項で触れた「酒に対しては当に歌うべし、人生幾何ぞ」と唱い出す酒を讃える詩は「短歌行」と題した有名な楽府で、演義でも勝利を確信した曹操が朗々と吟じるくだりが描かれている。

この場面は、普通のレベルの鑑賞では、単に敵兵の火葬を粛然と執行する連合軍と盛大な酒宴を張って野放図にこの世の春を謳う曹操の姿を切り返し対照的に描いたものとして受け取れば好いが、演義を識る者ならこの映画では省略されているその後、つまり、この詩が曹操軍の不吉な前途を暗示するものだと諫言した忠臣を、酔余の激情から曹操が突き殺し、酔いから醒めて後悔の臍を噛むくだりを想起するだろう。

演義のこのくだりでは、酒を讃える詩を誇らかに吟じた曹操がまさに酒の勢いで大事な能臣を殺害してしまい後悔する皮肉な成り行きが描かれているわけで、「何れの枝にか依る可き」と謂う一節を「枝の仗る可き無し」と改変している。つまり「月は星が稀になるほど明るく、かささぎは南に飛んで行き、木のまわりを三度巡っても、何処にも停まる枝が無い」と謳ったわけで、これはたしかに北方から南進している曹操軍にとっては敗北を暗示する不吉な予言である。

最初にこの場面を観た際には、幾ら曹操の冷酷な身勝手さを表現する描写とは謂え、何だか不釣り合いに長々と全段朗唱しているのが不自然に感じられたのだが、後の小喬との絡みとの関連を考えれば、「茶の心がわからない」曹操を改めて酒と関連附ける為の手続と視て好いだろう。

また、表立って映像で描いていないとは謂え、演義からの連想で、曹操の部下に対する非道な扱いを想起させ、併せて曹操軍の敗北を暗示する不吉な予言としても機能するように配置しているわけで、前編でも指摘したことだが、この映画は三国志を詳しく識る観客からほぼ初めて接する観客までレンジを広く採って描写の深度を想定している。

酒はこの世の憂さを一時忘れかりそめの熱狂に浮かれ騒ぐ為のものであり、幾ら呑んでも幾ら酔い痴れても足ることを識らずに貪るものであり、飢渇を癒すものではなく更なる飢渇をもたらすものである…と酒を呑みながら書いているわけだが(笑)、小喬が体現する「茶の心」とはそのような熱狂の連鎖の対極に位置する平穏で凡庸な日常である。

結局小喬と謂う人物は、たまたま常ならぬ美女として生まれた凡庸な女性であり、凡庸な妻であり、凡庸な母である。今日と同じような明日がただただ穏やかに続いていくことを願っているのだし、それは今日より素晴らしい明日を望みその為の戦いに熱狂する男たちの男性性とは対照的な女性性として意味附けられている。

或る意味で、連合軍の男たちはやはり根底の部分で曹操と同じ世界を生きているのであり、その同じ世界の中で曹操の体現する原理を否定する為に戦っているのだが、そのような直接闘争によって決定附けられる世界の在り方に拒絶の意思表示を突き附ける役回りが、小喬の代表する女性性に振られている。

まあこれは、そうは言ってもねぇ、と謂う部分ではあるわけだから、歴史の上で果たす役割から排除されていた古代の女性に仮託することがギリギリの描き方だろう。事実として人間の社会性がこのようなものである以上、女性の公的な社会参画が促進されている現代においても直接闘争は決して拒絶出来ていないし、女性の参画が闘争の排除に働き掛けたかと謂えばそんなこともないだろう。

男性原理と女性原理の対立と謂う概念は、文化における過渡的な習俗の問題に過ぎないのだし、闘争とは決して性固有の事情ではない。女性性が闘争否定の立場として位置附けられるのは、男性視点において他者に仮託した単なる幻想である。人と人の欲望が衝突するから闘争が発生するのであって、これは性の固有性とは無関係な事情である。

どのような観念が仮託されていようと、小喬には戦いを止めることなど出来ない。曹洪や夏侯雋が言うように、曹操軍の敗北を決定附けたのは小喬なのだから、結果的に八〇万もの将兵の壊滅に自ら荷担したことになる。このような矛盾を抱える故に、小喬の闘争否定の姿勢は前面に主張されるものとしては描かれていない。

そこが一種どっちつかずの印象を与えることは否めないが、闘争それ自体を拒絶することは誰にも出来ないことである。その希望は未だ到来せぬ未来に託するしかないことであり、生まれてくる子供たちに願いを受け継ぐことになる。

この願いを現在の時制で実現する物語を描くことは不可能だろう。

そう謂う次第で、女たちの戦いについて語るだけでまたしてもかなりのボリュームを費やしてしまったので、今回はこの辺でキリにしよう。語り残したことも多いので、さらに近日中にもう一本エントリを上げることになるだろう。

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コメント

お疲れ様でございます。お元気でいらっしゃいましたか。

PartⅡ、ジョン・ウー作品にしては珍しく女性キャラの担う役割が大きい話のようですが、人物造型には努力の跡というか、頑張った感が漂いますね。燃え(含む萌え)な男性キャラを動かさせたら自由自在であるのと対照的です。

男勝りの尚香には倒錯的かつ許されざる恋の味付けをして、中華的萌えを仕込んでみようとしたのでしょうか。「同姓同士は道ならぬ恋」ということを知らないと分からないことですね。(ちなみに「同門の兄妹弟子の恋愛はタブー」というルールも、「大英雄」だけ観たのでは気がつきません!)

反対に小喬が燃えキャラというのが面白く。「独り敵地に乗り込んで、絶望的な戦局を引っ繰り返す」は、男がやったらただの正調ジョン・ウー節、それをなよやかな女性にやらせた点に意外性があると申しますか。
この場合小喬に少しでも見た目の逞しさ(例えばアニタ・ムイのような)があると「何だよ旦那よりスーパーヒーローかよ」ということになってしまうので、黒猫亭様の仰るとおり、リン・チーリンというキャストは譲れないものだと思います。

林さんの天賦の魅力については、文中ピンク色になっている部分で大変納得致しましたが、ここまで暴走なさって「別段ファンではない」とは、解せませぬ。

実は、やっと体が空いたと思ったらどこも先週で終映らしく、DVDを待たねばならなくなりました。しくしく。

続きも楽しみに致しております。

投稿: 604 | 2009年6月19日 (金曜日) 午後 11時27分

>604さん

何とか息災に生きておりました(笑)。今回のレビューはかなり時間的に長引いておりますので、そろそろ細かいところを忘れつつありまして、何とか忘れないうちに急いで書き進めております。

>>PartⅡ、ジョン・ウー作品にしては珍しく女性キャラの担う役割が大きい話のようですが、人物造型には努力の跡というか、頑張った感が漂いますね。

頑張ってますね、頑張っているとは思うんですが、やっぱり女性から視ると中身は男だなぁと思われるんじゃないでしょうか(笑)。まあ、オレとしては今時のご時世で男はこうだとか女はこうだと分け隔てすることもナンセンスじゃないかとは思いますから、こう謂う具合で好いんじゃないでしょうか。

近年の考え方として、男性性とか女性性なんて観念もあんまり信用出来るもんじゃないなと謂うところに落ち着いております。

>>男勝りの尚香には倒錯的かつ許されざる恋の味付けをして、中華的萌えを仕込んでみようとしたのでしょうか。

Part Iのレビューでは「アニメ的」と謂うふうに表現しましたけど、趙薇の配役も含めて萌え狙いと謂う色気はあるんじゃないでしょうかね。このキャラはお転婆で可愛い感じを狙っているんだと思いますよ。

>>ちなみに「同門の兄妹弟子の恋愛はタブー」というルールも、「大英雄」だけ観たのでは気がつきません!

「大英雄」だけを観たら武侠片については何もわかりませんねぇ(木亥火暴!!)。大体同門だの兄弟弟子だのと謂う前に、君ら男同士やないかい、と(笑)。

あの辺は根も葉もない捏造で、原作はちっともそんな話ではありませんから、お断りするまでもありませんが誤解なきよう。因みに原作では「華山論剣」と謂う「天下一武闘会」で中原随一の武術家が選ばれる仕組みになっていて、東西南北に中央を足した五方位に擬えられた五人の武術家が「天下五絶=五大武術家」と讃えられるのですが、「大英雄」で空から銀色のウェスタンブーツが降ってきてお亡くなりになった方が第一回のチャンピオンで、亡くなった師兄の仇を附け狙っているホモの人が第二回のチャンピオンです(木亥火暴!!)。

原作ではホモではありませんが、ホモよりも変人です(木亥火暴!!)。

>>反対に小喬が燃えキャラというのが面白く。「独り敵地に乗り込んで、絶望的な戦局を引っ繰り返す」は、男がやったらただの正調ジョン・ウー節、それをなよやかな女性にやらせた点に意外性があると申しますか。

弱っちい会計士とかギャンブラーとかが敵地に乗り込んで悪玉を引っ掛けるのだと、西部劇の時代からある如何にもなアクション映画なんですよね。今回はそれがたまたま女性だったと謂う感じですかね。

とにかく、今回の主役は断然林さん…もとい小喬です(笑)。

>>林さんの天賦の魅力については、文中ピンク色になっている部分で大変納得致しましたが、ここまで暴走なさって「別段ファンではない」とは、解せませぬ。

いやいや、ファンでもないオレが「こんな綺麗な姉ちゃんに誘われたら断れないだろうなぁ」と納得しちゃう辺りが無敵超人たる所以でして(笑)。特定のタレントのファンであると謂うことは、飽くまでオレ個人の異性に関する嗜好とそれに合致する対象の間の関係性の問題になりますし、その場合重要なのは個人の嗜好と対象の間の関係の個別性なんですが、これは多分個人の嗜好の問題じゃないんですよ。

だってオレ、一般論としては林さんみたいなタイプは好みじゃないですから(笑)。

>>実は、やっと体が空いたと思ったらどこも先週で終映らしく、DVDを待たねばならなくなりました。しくしく。

調べてみると、シネプレックス系で二十六日までレイトショー一回のみ興行をやっているのが最後くらいですね。シネプレックスは大概とんでもない辺鄙なところにしかないですから、やっぱり間に合いませんかね。ちょっと八月のリリースまでは長いですが、気長にお待ち下さい。

投稿: 黒猫亭 | 2009年6月20日 (土曜日) 午前 08時55分

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