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2009年7月20日 (月曜日)

Men's Onlyなんて何処にも書いてない

某所の遣り取りで少し驚いた…と謂うか更めて痛感したのは、「女性にとってこの問題は飽くまで他人事感覚や被害者視点に特化した問題なんだな」と謂うことである。たしかに児童ポルノ法と謂うのは児童の性的虐待からの人権保護を目的として制定された法律であるから、主に女児が被害者として想定され成人男性が適用対象として想定されていることには間違いない。

世間一般の認識としても、「キモヲタの夜のオカズを取り上げる法律」くらいの感覚なのだろうと謂うことを、更めて確認した次第である。

しかし、大本の児童ポルノの問題や三号定義の問題を突き詰めて考えるなら、これは別段男性に限った話でも何でもない。当該法で扱われているのは飽くまで「児童」に関する性的な表現物なのであるから、女児だけに限った話でも何でもなく、当然男児も含まれるわけだし、また、法を犯す者に男女の隔てなど原理的には在り得ない

先般の国会討論でジャニーズの半裸の問題が出たのは非常に象徴的な事件であって、たとえば少女の全裸や半裸に性的な興奮を覚える女性と謂うのは少ないだろうが、未成年のジャニーズタレントの半裸に性的な興奮を覚える女性と謂うのは、普通に考えてかなり多いだろう。少なかったらそっちのほうが驚きである。

その事例が挙げられた討論では、おそらく成人男性による男児の性的虐待の問題が想定されていたのだろうと思うが、では、この事例は男性と女性で意味が違うのかと謂えばそんなことはまったくない。問題になっているのは、「未成年者に対して性的興奮を覚えるか否か」と謂う心性の問題であるから、男性だろうが女性だろうがまったく意味的な違いはない。

男性であるか女性であるかが問題になるのは、実際に男児に対して性的犯罪を行うか否かと謂う局面を前提にした場合だけであって、実際問題として未成年者とは謂え男性に対して女性が暴力によって性的な虐待を行うことは困難だろうと謂う想定の話でしかないのである。つまり、それが問題になるのは「行為としての性的虐待」を裁く場面においてのみであり、「心性としてのエロスの在り方」を裁くなら男女に分け隔てがあるわけではない。

三号ポルノと単純所持罪の関係を考えるなら、この行為と心性の関係が完全に断絶していて因果的な関係がないことが最大の問題であるから、基本的に男女を分けて考える理念的な根拠が存在しない。

児童ポルノを規定する要件とは「児童の姿態に性的な興奮を覚えるか否か」でしかないのだから、男性だけを取り締まるとすれば、何故法律上の定義では適用対象としてとくに限定されていない男性のみを取り締まるのかと謂う原理的な大問題がある。

たとえば、一号、二号定義の児童ポルノの単純所持を規制することにはそれなりの理論的根拠がある。「犯罪の成果物を享受することで犯罪を助長する」と謂うのは、割れ窓理論や強力効果説の観点の問題ではなく、市場原理の問題である。児童の性的虐待を前提にしなければ在り得ない表現物を所持することは、その犯罪の成果物の流通を許容し経済的に支持する行為である、これは或る程度筋の通った主張である。

しかし、三号定義や二次元絵については、この論理は成り立たない。実在の児童に対する性的虐待と謂う犯罪とは因果関係の上で一義的な関係がないからである。たとえば少女ヌードを撮影する場面で保護者や撮影者による強制があったとするなら、これは普通に複数の法令で規制することが可能であり、それを厳しく規制したとしても少女ヌードは存在し得るのだから、これを犯罪の成果物と一義的に定義することは不可能であり、二次元絵に至っては被写体自体が存在しない。

このように、犯罪とは絶対的な因果関係を持たない表現物を強引に犯罪と関連附けるには、割れ窓理論や強力効果説のような科学的に根拠を認められていない理由を挙げるしかないわけであるが、基本的に三号定義には被害者がほぼ存在せず、閲覧者の心性を基準に置いている以上、男性と女性の心性を区別する原理的な根拠はない。

その表現物を閲覧することで性的興奮を引き起こされること自体が違法だと定義しているからであって、その対象に実質的な虐待を行うか否かを違法性の基準にしていないからである。であるとすれば、たとえば男性がジャニーズタレントの乳首を視て性的に興奮することは違法だが、女性が同様に性的に興奮することは違法ではないと判断すべき原理的な根拠は何処にあるのか。同性に興奮したから違法なのか。それは同性愛を法的に規制し排除すると謂う意味なのか。それは人権侵害ではないのか。

児童ポルノが飽くまで男女を問わず「未成年者」を基準に採る以上、閲覧者もまた男女の隔てがあってはならない。女性が少年の半裸に興奮するのは違法ではないが、男性が同様に興奮するのは違法だなどと謂うゆゆしき性差別があっても好いのか。

この種の法律の適用において、男女の隔てがあるとすれば、それは犯罪実行可能性の問題であるべきである。しかし、三号定義の問題においては、犯罪実行可能性の問題は考慮外であり、心性のみが違法性を分ける要件である。

これを考える場合、たとえば、女性が一号、二号定義の児童ポルノを頒布目的以外で大量所持していた場合でも逮捕すべきだと謂う話は、何か変だけど規制の理念から考えて納得可能な事柄であるし、実際問題として女性がド真ん中の児童ポルノを大量に蒐集している事態など極々の特殊例だろう。

しかし、これが三号ポルノならどうかと謂うと、この基準なら女性でも大量にその種の表現物を蒐集している可能性が高いわけである。この場合、女性が児童の姿態に性的興奮を引き起こされないと断定する根拠などないのだし、それが未成年のアイドルだったら間違いなくセクシュアルなものを感じている可能性は高いわけである。

たとえば、枝野VS葉梨討論では、野党案でも「乳首を殊更に強調」した男児の図画は児童ポルノと認定される可能性があるわけで、それを所持していたら男性だろうが女性だろうが平等に摘発を受けるわけで、そうでなければ不公正な適用である。

与党案のままに改正法案が成立していたら、そうなるのが当然で、そうでなければ法の下の平等が犯されたことになる。三号定義と単純所持の合わせ技には問題がある、それは国民全体の問題だ、と謂うのはそう謂う意味である。

自分は適用対象外で無関係だ、寧ろ被害者的視点を代弁し得る立場だ、と思っておられる成人女性がいるなら、そのお考えにはまったく根拠などない。児童ポルノや児童の性的虐待の問題は、本質的には男性対女性の問題と謂うより、成人対児童の性的関係の問題だからであり、それには本質的に加害者の側にも被害者の側にも男女の区別などはないからである。

そもそも自分に関係なければ局外者的立場だと謂うのであれば、たとえば法律で女性固有の問題性をケアして行こうと謂う議論において、オレは男性だから関係ないよ、局外者だよ、フェミってホントキモいなー、と謂うような立場が許されるかどうかを考えて戴きたい。

勿論、児童や女性など、社会的に視て弱者とされる側がまず優先されるのが民主主義社会の大原則であるが、それは弱者以外の権利を一切考慮しなくても好いと謂うことでは決してない。その間に可能な限り公平な按分が必要なのであって、それは社会全体が責任を持ってコミットすべき問題だと謂うことである。

そこを勘違いしているのが、日本ユニセフ協会であったりアグネス・チャンであったりするわけである。

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コメント

 世の中、同性愛者だって居るわけですから、
・女児の裸に興奮する女性
・男児の裸に興奮する男性
が居ても別におかしくありません。法は公平に適用されるべきですから、このようなケースにも適用されるのが当然です。勿論、このようなケースについて「性的な興奮を覚えるはずがない」などと、先入観でもって判断するのは、偏見で犯罪を見逃すのと同じことになります。女性もがんがん適用対象になることを認識しないとまずいと思います。

 ただ、私がさらにうさんくさいと思うのは、ユニセフ協会やアグネスの性的興奮に対する想像力が貧困すぎるという部分だったりします。性的妄想なんて、東京タワーとエッフェル塔でも抱けますよ。天井と床でヤオイ本を書いてる人達を知らないのかと。アイツらは、人間の想像力を嘗めてると思います。
 

投稿: apj | 2009年7月23日 (木曜日) 午前 12時28分

>apjさん

>>法は公平に適用されるべきですから、このようなケースにも適用されるのが当然です。勿論、このようなケースについて「性的な興奮を覚えるはずがない」などと、先入観でもって判断するのは、偏見で犯罪を見逃すのと同じことになります。女性もがんがん適用対象になることを認識しないとまずいと思います。

女性が性犯罪や性的虐待の問題において常に被害者的な位置附けに置かれるのは、暴力が介在する場面において、暴力を揮うのは専ら男性であって、女性の側が暴力を揮う側に立つことは普通は考えにくい、と謂うだけの話なんですよね。

性的興奮を覚えることとか、何某かの図画をそのような意図に基づいて所持することと謂う基準に基づくなら、男女の間で加害・被害的構図は発生しません。これは飽くまで成人対児童の性的関係の問題ですから。

どうも一般的に、普通の性暴力と同様の意識で児童ポルノの問題を考えておられる方が多いと思いますが、児童ポルノを性暴力の観点で視るなら、加害・被害の立場には男女を問わず立ち得ることになりますよね。ですから、加害・被害と性別の関係は、考え得る限りの組み合わせ、つまり、男・男、女・女、男・女、女・男のいずれでも在り得るわけです。

ところが、何故かこの問題においても必ず加害的立場に男性が立つとか、運用面でもそのように運用されるとか決め附けておられる方が多いように感じますが、そんな保証など何もないし、寧ろそのような運用が為されるなら非合理な性差別に基づいた不公正な運用と謂うことになります。

現行法が三号定義以外の部分を批判出来ないのは、これは実在の児童の人権被害を根幹に置いているからなんですが、そこからシフトしてあやふやな社会法益みたいな議論にシフトして改正を論じるなら、まあ「根拠を示せ」と謂う当然の議論は措くとしても、適用対象の性別を区別する理念的な根拠がなくなると謂うことは言えると思います。

>>ただ、私がさらにうさんくさいと思うのは、ユニセフ協会やアグネスの性的興奮に対する想像力が貧困すぎるという部分だったりします。性的妄想なんて、東京タワーとエッフェル塔でも抱けますよ。

何か、人間の性欲の在り方はオーセンティックなもの以外認めないと謂う不寛容性を感じますね。想像力の欠如が不寛容性に短絡し、弾圧に発展すると謂うのは、人類の愚昧の十八番のパターンです。そもそも「子どもの性を『商品』にするものに反対する」と謂うのが曖昧すぎて、児童が絡むビジネスはすべてこれにこじつけられてしまいます。

では、NHK教育の児童番組に興奮する輩が存在したら、それらの児童番組はすべて児童ポルノなのかと謂う話になりますし、それ以前にマスメディアで未成年を映すのはすべて児童ポルノに成り得ます。勿論これは極論ですが、「子どもポルノ」の規定概念自体が極論を前提にしないと成立しないものです。

誤解を恐れずに謂えば、「子どもの性を『商品』にするもの」が存在するのは当たり前の話であって、それは「女性の性を『商品』にするもの」が常に存在したり「男性の性を『商品』にするもの」が存在するのと同様の話です。人間の性と謂うものは商品に成り得るわけで、寧ろ文化的な「商品」には大概性的な関心が附随します。

ただし、成人の場合は十分な自己決定能力が認められるが、児童の場合はそうではないから、不当な人権侵害が発生しやすい、そう謂う問題であったはずですね。その部分には、おそらく誰一人反対してはいないはずです。反対があるのは、たとえば日本ユニセフ協会の意見のような想像力の欠如した単なる性的不寛容に対してであって、こんな暴論が許されるなら、世間で「変態」と見做されている性の在り方一般を公権力で裁くことが可能になってしまいます。

そのような人権侵害の要求を他ならぬ「人権保護を旗標に掲げる団体」が主唱すると謂うのは、沙汰の限りの貧困な想像力と謂えるでしょう。

apj さんもこの問題について資料を収集中とのことでしたが、オレは、調べれば調べるほどこの法律にはかなりの問題があったと思うようになりました。たとえば児童ポルノ法による規制の象徴として抹殺された少女ヌード写真集についても、被写体の少女たちが苛まれた実質的な問題性とは、性的羞恥や性的トラウマではなく、学校におけるいじめやストーカー被害であったと謂う情報があります。

これは果たして人権問題と謂えるのか、寧ろそれは人気子役や芸能人と同様の一般的な問題性ではないのか、それは表現物をポルノと規定することで救済され得るのか、寧ろ迫害に拍車を掛けた側面はなかったのか、と謂う多くの疑問を覚えました。

つまり、少女ヌード狩りもまた、果たして「被害児童」が存在したのか、法律の制定がその人権的問題に対する手当として噛み合ったものだったのか、こう謂う筋論的な問題が検証されないままに今回の改正案に結び附いたのだとオレは視ています。それどころか、規制を主唱している側は性犯罪の被害者の聴き取りなどはやっていても、主要な規制対象であったこの種の表現物の被写体の児童に対してマトモな調査を行っていたのかどうかすら疑問です。

このような数々の非合理を正当化する理由附けとして提示し得るのが、この種の連中の貧困な想像力が捻り出した、あるんだかないんだかわからないオバケのような「社会法益」だと謂うのであれば、それこそ「根拠を示せ」と謂う話です。一般国民の摘発が前提視されている法律の制定について、厳密な検証に耐え得る合理的根拠や統計的データを一切提示出来ないと謂うのは、法治国家としてダメダメでしょう。

投稿: 黒猫亭 | 2009年7月23日 (木曜日) 午前 08時28分

割と何にでも興奮する体質ですし、余り上品でない所に出入りしたりもしておりますので、実はそう他人事とも思えないネタでございまして、一連の記事は関心を持って拝見しております。

やはり思想・信条(というか趣味なんですが)を統制される不快感はたいへん大きく、何に興奮しようがツベコベ言われる筋合いはねえ、という反発が先に立ちます。
そして、お上が好きな時に好きな判断でしょっ引けるといういい加減さがコワい。役人(警察含む)が職権を濫用しないわけがないので、絶対にロクなことにならないだろうと。

よく似た法案に「共謀罪」がありますが、最近あまり話題にならないのですっかり終わった話かと思っていたら、同じく今回の解散で廃案になっていたらしく……危ない危ない。

「暴力団でもテロリストでもないから」「ロリじゃないから」関係ない、ということではないはずなので、もう少し勉強しながら引き続き注視していかねばと思っています。

と、ごく一般的な女子(のつもり…)的立場でコメントさせて頂きました。

投稿: 604 | 2009年7月24日 (金曜日) 午前 08時28分

>604さん

>>割と何にでも興奮する体質ですし、余り上品でない所に出入りしたりもしておりますので、実はそう他人事とも思えないネタでございまして、一連の記事は関心を持って拝見しております。

そう仰って戴けると安心します。オレの周囲の女性やニセ科学問題にコミットしている女性論者の方なら、「何に興奮しようが法律で取り締まる筋合いじゃない」「性的嗜好と遵法意識は別問題」と言えば一瞬で意味が通じるんですが、やはりかなり多くの女性にとっては他人事感覚だったり被害者感覚なのかもしれません。

この種の問題の恐ろしい部分とは、他者の性的嗜好への不寛容さと謂うのが一般にかなり強力な影響力を持っていると謂うところではないかと思います。度々例に引くのもアレなんですが(笑)、同性愛やスカトロ趣味と謂うのは、その趣味がない人にとっては生理的な嫌悪感を催させますよね。SMだって男性のマゾヒストを視て激しい嫌悪感を催す人はたくさんいるでしょう。

では、女性の性的マイノリティはエロいのかと謂えばそんなこともないわけで、やはり気持ち悪いものは気持ち悪い。たとえば、殊更に若くも美しくもない極普通の年輩の女性が同性愛者で、長年同居しているパートナーがいると識ったら、大概の人は何らかの嫌悪感を抱くでしょう。同性である女性の感じ方であれば尚更ではないでしょうか。

これは同性愛者「だから」気持ち悪いのではなく性的嗜好のズレが強烈な不快感として感じられるわけで、若くて美しい人の間の同性愛がそれほど気持ち悪くないのは、一般的に若くて綺麗な人間はそれ自体が欲望の対象として観念上対象化されているから、その欲望の対象同士が性的関係にあること自体は、大概の人々の性的嗜好とズレがないからだと思います。

しかし、本来同性愛と謂うのは個人の性的嗜好の在り方にすぎないのですから、大半の場合は極普通の生活人の日常的な性の営みにすぎません。そうそう都合好く若くて美しい者同士が同性愛の関係になるわけではないですから、オッサン同士、オバサン同士の同性愛に対して覚える感覚がスタンダードな感じ方なわけですね。

これはつまり、自分の性的嗜好と他人の性的嗜好のズレと謂うのは気持ち悪いものだと謂うことなんだと思います。男性なら、たとえば綺麗な女の子が好きで、普通の性行為を楽しんでいる分には大多数の人々とそれほど嗜好のズレはないですから、「気持ち悪い」と謂う感覚には結び附きにくいと謂うだけですね。

ちょっと不謹慎な例ですが、極端に高齢の女性を好むとか、極端に肥満した女性を好むと謂う嗜好の人だって世の中にはいるわけで、その種の嗜好と謂うのは多くの人がズレを感じるものですから、年齢や体型と謂う極一般的な嗜好の判定基準の範疇の要件でも極端化すると嫌悪感を感じる人が多いと思うんですね。TVのバラエティなんかでそう謂うカップルが紹介されると、「変態だ」と感じる人も多いのではないかと思います。

また、何かしら不幸な幼児体験の故に性行為自体に生理的な嫌悪感を抱くようになってしまった方もたくさんおられるわけで、性の問題は本能的な欲望と観念的な概念と謂う相性の悪い要件が相互に強力に関係しているだけに、極端な嗜癖や嫌悪感に結び附く可能性が非常に高い。快感だけに結び附いているわけではなくて、強烈な不快感とも結び附く可能性が高いんですね。

自分が気持ち悪いと思うことを寧ろ好むような人は気持ちが悪い、これは誰にでもある不寛容性です。気持ちが悪い人と同じ社会で暮らしたくない、一歩進んで気持ち悪い人のいない社会で暮らしたい、これも本音の部分では誰でも感じていることです。しかしそこからさらに一歩進んで、気持ち悪い人を実質的な手段で排除してしまおうと謂う方向に社会の風潮が流れると非常に危険なことになります。

残念ながらこれも誰もが内心ではその誘惑を感じていることはたしかで、その実行を留めているのは理念や理性の力でしかありません。ですから、理性が納得するような尤もらしい理屈を附けて背中を押してやれば、排除の方向に流れる人は決して少なくないでしょう。

嘗てはそのようにして同性愛者が弾圧され排除されてきた歴史があるわけですが、小児性愛者の場合は対象が幼弱者に固定されている為に、「児童の人権保護」と謂う一見近代的で非常に「尤もらしい理屈」が附きますから、大人同士の関係なら誰に迷惑を掛けるわけでもない同性愛者よりも排除しやすいことはたしかですね。

勿論、強度の小児性愛と謂う性的嗜癖の在り方は、この現代社会において非常に不幸な嗜好であることは間違いありません。「小児に対してエロスを感じる」とか「小児に対して性的妄想を抱く」程度の軽度な小児性愛それ自体は非常にありふれた嗜好ですが、病理的に問題になるのは、「性成熟に達していない小児との性行為以外で性的満足を得ることが出来ない」と謂うレベルの嗜好ですから、これはつまり社会法益がどうしたと謂う問題ではそもそもないんですね。

現代社会においては概念的にも法的にもその実行が認められていない手段でしか性的満足が得られないのですから、これは本人の精神的苦痛や社会生活に及ぼす困難を中心としてそのような概念が成立しているわけで、「そう謂う人間は気持ち悪くて危険だ」と謂う意味ではないはずなのですね。

当然のことですが、性的嗜好と遵法意識は全然別の事柄ですから、大多数の「病的小児性愛者」は、実行によって満たされることのない欲望を抱えて精神的苦痛を覚えているわけで、だから「治療」が必要なんですね。そうでないとしたら、精神病理学と謂うのは、社会秩序の敵となる人間を見つけ出して排除する為の判定基準だと謂うことになってしまいます。これはマトモな民主主義社会の容れるところではない危険な発想と謂えるでしょう。

その意味で、葉梨議員が「ペドファイルとの戦い」なんてアジ的なスローガンを掲げること自体、非合理な偏見や差別を助長する人権侵害発言です。これはつまり「精神病院や神経科の通院歴がある人間」を犯罪者予備軍か実質的に犯罪者と変わりのない人間と見做すのと同じ理屈ですから、重大な人権問題です。

そんな理由で「社会法益」を根拠にした立法が可能な状況があり得るとしたら、それは実際に無視出来ない高率で精神障害者による犯罪が多発して社会秩序が危機的状況にあるような場合だけでしょう。この「危機的状況」と謂うのは、国民の基本的人権を一部制限するわけですから、要するに「戒厳状態直前のレベル」と謂うことでなければならないはずです。今の日本がそんな異常な状況に在ると謂えるでしょうか。

そもそも、立法府の人間が個人の或る性的嗜好それ自体を政治的な手段で弾圧すると謂うのは、憲法違反と謂われても仕方がないですね。そしてこの場合問題なのは、単に不見識な議員が講演やインタビューのついでに不適切な発言を漏らしたと謂うだけのことではなく、実際に一般国民を刑罰によって取り締まる法律を議論する場でそのような発言を繰り返したと謂うことです。

法案作成にコミットしている政治家がそのような思想を持っていて、野党案に対する正式な反論として国会の討論で公言しているのであれば、その法案にそのような思想が強力に反映されていると判断するのは自然なことですし、現に法案を視る限りそのようにしか解釈が出来ません

たとえば、現代日本には同性愛に対する公私に亘る差別がありますが幸いなことにそれを禁止するような法律はありませんし、同性愛者に対する理解を呼び掛ける声も大きくなってきています。この場合、同性愛は別段違法ではありませんが、合意のない同性に対して暴力的に性行為を強要すれば違法行為だと謂うのは更めて説明するまでもないことで、同性愛と謂う性的嗜好と同性間の性犯罪は完全に別の事柄です。

ただし、同性愛は成人のパートナーさえいれば行為として実現可能ですが、小児性愛の場合はそれが許されない、それだけの違いです。同性愛にだって、同性にエロスを感じるとか性的妄想を抱くレベルの嗜好もあれば、同性との性行為以外では性的満足を得られないレベルの嗜好もあります。その嗜好の頻度や強度は、社会的な許容度に緩く比例していると思いますし、小児性愛の場合、日本国内の児童を対象とした性的犯罪においては小児性愛者の占める割合は決して高くないと仄聞しております。

異性に対する好奇心や欲望を満たす手段として、容易く抵抗を排除出来る幼弱者を対象に選ぶ場合が多いそうですが、これと小児性愛を混同するのは乱暴すぎますね。この種の社会風潮の元凶となった有名な埼玉幼女連続殺人犯も、別段小児性愛者ではなかったと謂う情報もあります。これが大きく採り上げられたのは、たまたま同時期にロリコン文化が隆盛を窮めていて、その風潮に顰蹙している層が多かったと謂うことでしょう。

そして、児童ポルノ法の成立は、児童に対する性的犯罪発生率に対して何の影響も及ぼしませんでした。それは統計的データに表れています。この種の犯罪において児童が犠牲になる主要な理由が「実行容易性」の故であって、対象が児童であることそれ自体が主要な「動機」ではない以上、それは当たり前の話です。

「それは取締が手ぬるかったからだ、法律を厳格に改正すれば効果が出る」と謂うのは理屈になっていません。それは結局「国民の生活が良くならないのは改革が進まないからだ」式の理屈で、それを言い出すのであれば、最早何をしても取り返しの附かない事態になるまで幾らでも同じことを主張出来てしまいます。

そして、いざ取り返しの附かない事態になったらさっさと言い出しっぺがいなくなっていると謂うのは、大昔からある詐欺の手口ですね(笑)。

こう謂う言い方は犯罪犠牲者やそのご家族に対して冷淡ですが、日本の国情においては児童に対する性的犯罪の絶対数は国際的に視て社会システムが抑止可能な範囲では理想的なレベルですから、小児性愛的傾向の弾圧はまったく犯罪予防とは原理的にリンクしていなかったのですね。

もしも児童ポルノ法が与党案のままに成立して、国民の小児性愛的傾向を激しく弾圧したとしても、犯罪発生率にはまったく目立った増減はないはずです。このレベルの国情においては、どれだけ治安の良好な国家でも犯罪発生率をゼロには出来ないと謂う程度の発生率でしかないからです。そこから一歩踏み込んで限りなくゼロを目指すなら、そこからの射程に入るのは、「動機」の領域ではなく国民全体の遵法意識の涵養と謂う領域であるべきでしょう。

性的犯罪において「実行」と「妄想」を隔てる決定的要件が性的嗜好や欲望の強度ではなく個々人の遵法意識の強度なのですから、論理的に謂ってそうあるべきです。そうでなければ、強姦を予防するには男性が持っている女性に対する欲望一般を弾圧して抹殺してしまえば好いと謂う理屈になってしまいます。

そして動機の領域に踏み込んで犯罪予防を徹底しようとすれば、それは「必然的に」人権問題に発展します。貧乏でカネを欲しがっていると謂うだけで窃盗者予備軍と見做され、女好きなくせにモテないと謂うだけで性的犯罪者予備軍と見做され、怒りっぽいとか性格が粗暴だと謂うだけで殺人者予備軍と見做されることになってしまいます。そんな社会は、一体誰にとって住みよい社会なのでしょうか。

基本的に、民主主義社会と謂うのは「気持ち悪い他者」と公平且つ円満に共存することを目指す社会であって、「気持ち悪い少数者」の排除や弾圧によって多数者や強者のみが気持ちよく暮らせることを目指す社会ではないはずですね。

>>「暴力団でもテロリストでもないから」「ロリじゃないから」関係ない、ということではないはずなので、もう少し勉強しながら引き続き注視していかねばと思っています。

不思議なんですが、たとえばこの改正法案が与党案のまま成立していたら、たとえば女性視点で考えても、自分の家族や親しい友人の男性が「アイドルの際どい写真集を持っていた」と謂うだけで逮捕され、場合によっては実刑に処されると謂う「当たり前のこと」を想像出来ない人がたくさんいるのはどう謂うことなんでしょうかね。サンタフェ論争が象徴しているのは、要するにそう謂うことなんですが。

たとえば少女のエロにまったく関心のない主婦の方でも、旦那さんが出来心で変なエロサイトに接続して、そこのサイトがたまたま未成年の女性を使っていたら、そこに接続した人間が芋蔓式に逮捕されてしまい、当然その方の旦那さんもしょっ引かれて社会的に抹殺されて収入の途を断たれ、配偶者である自分の生活にも甚大な影響が出てくるなんてのは、特別な知識がなくても普通に考え附く理屈です。

これの何処が他人事なんでしょうか。

オレが学生だった頃の何十年も前の話ですが、これは友人が電車の中で聴いた若い女の子同士の会話の実録です。

「あと何十年かしたら、日本は高齢化社会になるんだって」
「ええ〜マジぃ〜? あたし年寄りって嫌いなんだよな〜」

繰り返しますが、これは実話です。その「年寄り」ってのはおまえたちのことだよ、と謂うツッコミを入れる想像力もないことが許されるのは、社会に対して何の責任も持たなくても好い子供のうちだけでしょう。

投稿: 黒猫亭 | 2009年7月25日 (土曜日) 午前 11時53分

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