「単純所持罪」を巡る諸問題
野党の審議拒否で実質的に国会が閉会状態に突入し、審議中の法案はすべて事実上廃案になったので、今国会における改正児ポ法成立の目はまずなくなった。
将来的にこの問題がどう転ぶのかは、総選挙の結果次第でまるで見通しの附かない状況になってしまったわけであるが、結果的には現行法や改正要求における様々な問題性が浮き彫りになった上で次なる攻勢まで猶予期間が得られたわけであるから、これを奇貨とすることも出来るだろう。
前回反省したように、この問題を論じるならもっと早い段階できちんと考えを詰めておく必要があったわけだが、泥縄の謗りを甘んじて受けると開き直って今更ながらいろいろと考えてみたい。
今回の改正案の最大の眼目は「単純所持」を規制すると謂うポイントだが、これが今朝までの時点においては「単純所持禁止で与野党の原案を一本化」と謂う状況であったわけで、これについてオレは窮めて楽観的な観測を表明した。
これまでこの問題を詳細に検討してきた方々には自明のことだが、与党案と野党案の違いが最もわかりにくいのは、この「単純所持罪」と「購入罪・反復取得罪」がどのように違うのかと謂う部分だろう。
与野党案の具体的な相違については、この辺りを参照して戴くと網羅的に説明されているが、単純所持に関する最も大きな違いは、遡及的処罰を前提にしているか否かではないかと思う。
与党案では「単純所持」を処罰すると謂うことなのだから遡及的処罰が前提に置かれているわけだが、野党案では施行後の購入や反復取得のみを対象にしている。以前に挙げた枝野VS葉梨国会討論の単純所持を巡る議論がどうも噛み合っていないように聞こえるのは、枝野議員は施行後の入手を前提において語っているが、葉梨議員は入手の時点は問わず現在只今の所持を前提において語っているから、「取得意志」の問題を論じると双方の語る意見に時制の喰い違いが生じるからである。
与野党の審議により一本化された原案では、単純所持罪に関しては「遡及的処罰は行わない」と謂う方向で検討が進められており、取得意志の立証が義務附けられ、三号定義が削除され具体化しているわけであるから、与党原案が内包していた問題点の幾つかについては最低限クリアされたと視るべきだろう。
勿論、単純所持罪よりも取得罪のほうがかなりマシであるが、単純所持罪でも遡及的処罰を回避すれば実質的にはかなりマシになる。遡及的処罰の現実的な問題点とは、施行後に新規製造される表現物の取締事例などによってようやく具体的な形で国民に周知される取締基準が、施行後直ちに一般国民に適用されると謂う部分である。
これはつまり、施行直後の時点における相当数の一般人摘発がすでに織り込まれていると謂うことである。普通、この種の表現物に関する取締は専ら製造者の側を対象にしたものであり、製造者には消費者よりももっと重い社会的責任があるから、製造者を摘発対象とすることで有害表現物を取り締まるのが常識的なパターンであった。
これまで単純所持罪も取得罪もなかったのは、それが製造者を超えて一般国民に適用される法律になるからである。そして、単純所持罪なり取得罪なりが検討されると謂うことは、一般国民に製造者と同列の責任を負わせると謂うことである。
この場合、移行期間中に国民が自己責任で対象物に該当すると推定される表現物を完全廃棄する義務が生じるわけで、それに伴って多大な混乱と権利侵害が発生するし、国民の不注意や認識不足からの廃棄漏れによる過剰な取締や冤罪被害も予想出来る。
そんなことを一般国民の義務として課すのはどう考えても現実的ではないから、施行後を区切りとして新規取得のみを対象に段階的に規制していこうと謂うのが取得罪の考え方であり、購入・反復取得と謂う基準は、違法性を認識していながら意志的に取得したことの立証を取締における必須の条件としているわけである。
この取得罪は見送られ単純所持罪のほうが通ったわけであるが、遡及的処罰を行わないことを前提とするなら、実質的には必ず施行後の意志的取得が前提になるわけであるから、与党原案の最大の問題点は緩和されると謂うことである。実質的には野党案の取得罪とそれほど変わらないが、所持が違法なのか取得が違法なのかと謂う法定義上の名目が違うと謂うことである。
しかし、付帯条件によって危険性が緩和されているとは謂え、単純所持をこのような強引な形で違法化することそれ自体に筋論的な問題が内在することも事実である。
元の与党案の「単純所持罪」が憲法第三九号の規定する「法の不遡及の原則」に抵触すると謂う問題点はすでに散々指摘したことだが、前掲リンクの解説によると、与党側はこれを例によって例の如しの「憲法解釈」で合憲と強弁して単純所持の規制を検討していたわけである。
つまり、「所持罪」と謂うのは継続犯であるから、施行後の時点で所持していることを罰することに遡及的処罰としての違憲性はないと謂う解釈である。これはこの件に関して捻り出した詭弁ではなく、単純所持を禁止する法律に共通する憲法解釈のようだが、専門家がどう考えているかはさておき、普通に考えてこの理屈は窮めてわかりにくい。
念の為に前掲リンク先から憲法の当該条項を引く。
日本国憲法 第39条
何人も、実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。また、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。
たしかに、単純所持罪がすでに存在する時点を基準に考えるなら、「所持」と謂う現時点の継続的行為を違法化したのであるから、過去に遡る入手の経緯や適法性は問題ではないと謂うことになるわけだが、「継続的行為」である以上、入手の時点を起点として現在にまで連続的に接続している行為であることもまた間違いない。
そうすると、憲法の規定にある「実行の時」と謂う時制は何処に置くべきかと謂うことが問題になってくる。単純所持を「行為」として視れば、その行為の時制は入手の時点から現在に至る一定の時間的スパンに遍在していると謂うことになる。「単純所持罪は継続犯であるから施行後の所持は違法で合憲」と謂う解釈は、普通に考えれば「所持」と謂う継続的行為を「施行前の所持」と「施行後の所持」の区分と謂う恣意的な基準で二分しているわけである。
一方、憲法によって「実行の時に適法であった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない」と規定されている以上、これは不当で苛酷な法律の適用を回避する為の免責条項であるべきである。だとすれば、一般的な法理念として免責される側に有利な基準で適否を判断するのが筋だから、普通の理屈で考えれば「所持と謂う継続的行為」の「実行の時」は「法律施行以前」でも在り得る以上、そちらを基準に採るのが自然に感じられる。
その法律の成立以前の時制において考えるなら、「実行」する「行為」とは、法的に定義可能な人の行為一般を指しているわけであるから、「継続的な行為」において施行前と施行後に実体的な意味での区分は存在しない。ただし、単純所持を違法とする法律が一旦成立してしまえば、その法律が指示する「行為」が違法と規定されている以上、この憲法解釈は成立してしまうことになる。
…あのぅ、言ってる意味、わかりますか?
この憲法解釈のややこしいところと謂うのは、法律施行後の「単純所持」と謂うのはたしかに施行前と連続している継続的行為であるが、それ以前の「単純所持」とは法的な意味が変わっていると謂う部分にあると謂うのがオレの理解である。
つまり、単純所持が違法と規定されることによって、憲法に規定された「実行の時に適法であった行為」と謂う実質的に連続不可分である「継続的行為」は、概念上「適法認識に基づく単純所持」と「違法認識に基づく単純所持」とに劃然と二分されてしまうのである。
この場合の前者と後者は、法律的な意味ではまったく別の行為なのであるから、従って法律として「単純所持罪」が成立した後の処罰は遡及的処罰に当たらないと謂うのがこの「憲法解釈」のキモだとオレは理解している。行為者の違法認識がこの憲法の核心にある以上、「違法と識りつつ所持する」と謂う行為は、必ず法律施行後の時点における行為を基準として解釈される必要がある。
与党案が「憲法解釈で乗り切れる」とする根拠はこの辺にあって、これを物凄くわかりやすい言葉で言うなら「やったもん勝ち」と謂うことである。つまり、憲法第三九号の免責要項は「単純所持を違法と規定する法律」を制定する時点では最大限に考慮されねばならないが、一旦法律として成立してしまえば、その運用は違憲ではないと謂うことになるのである。
憲法が保障しているのは、わかりやすく謂えば「国民が適法であるとの認識で行った行為を、後から処罰するような法律はつくりません」と謂う意味だが、国民の大多数が賛成して成立した法律でそれを違法化する分にはその限りではないと謂うことである。そして、一旦法律が成立してしまえばこの憲法の条文は法律の運用とは関係がなくなる。
であるから、単純所持罪と謂うのは、法律として成立する以前の段階でしかその違憲性を問題に出来ない。法律が成立していない時点においては、単純所持は入手の時点からその後にかけて連続的に繋がる行為であるから、それを処罰する法律を設けることは違憲ではないかと謂う議論は在り得るが、一旦法律として成立してしまえばその運用は違憲ではなくなってしまう。
この点については、オレ自身考えを詰め切れていなかったから説明が雑だったと謂う反省があるのだが、最大限に厳密に言えば「単純所持罪を処罰すること」が違憲であるとは一概に謂えないが、「単純所持を違法化すること」には憲法上の問題が多分にあると謂うことである。単純所持を違法と規定する法律が一旦成立してしまえば、それに遵わないことには憲法上の原理的支援がない。
与党側の改正法案の違憲性を指摘する場合、それは「法律として成立するとその運用に違憲性が生じる」と謂う意味ではなく、「その法律を制定することには違憲性が潜在する」と謂う意味である。この辺のややこしい事情は、法律を制定する側が親切にわかりやすく教えてくれるわけがないから、精々広く訴えていく必要がある。
また一方、国民が憲法で保証されている「遡及的処罰から免責される権利」を放棄する以上、どのような行為や範囲を処罰対象とするのかを国民に対して可能な限り詳細に提示する責任が立法府には存在する。この辺の説明責任を有耶無耶にしていたこともこの法案の大きな問題である。
今回の場合、たとえばそれは「我が子の入浴場面のスナップ」の所持であったり「サンタフェ」の所持であったりするわけで、これによって間接的に児ポ法の最大の問題点が三号定義であることが広く周知されるに至ったわけである。
たとえば幼女が強姦されている図画であるとか、少年がいたずらされている図画を単純所持することなら、一般的な国民の倫理観として「許されない」と感じるのも自然であるし、そう謂う犯罪性の高い図画であれば、そんなものを所持する権利は放棄すべきであるし、正当な財産権とは見做すことが出来ない、と感じるのも主流的な感覚だろう。
本来、ユニセフの謂う「児童ポルノ」とはそう謂うものを対象として定義されるべきだと謂うことであるし、単純所持を規制している諸外国もそのような基準で単純所持罪を規定している。何度も繰り返しているように、ここを有耶無耶に胡麻化して、殆ど何処の国も単純所持罪の適用対象とはしていない三号ポルノまでこっそり混ぜようとしたのが最大の問題であったわけだが、これは翻って三号定義それ自体に内在する問題性をも炙り出すわけである。
つまり、現行法制定当時想定されていた対象を一律弾圧することは、果たして正しい選択だったと謂えるかどうかと謂うことである。「制定当時想定されていた対象」とは、つまり少女ヌードである。これがあまりにも安直に幼児性愛的な性欲の対象として市場を形成していたことが社会問題視されたわけだが、それは一律の撲滅を目指すべき対象だったのかと謂う問題もまた問われなければならない。
最も象徴的だったのは、従来の基準ではアートに分類される清岡純子の諸作品が児童ポルノ認定を受け、国会図書館ですら閲覧が禁じられた一件で、一般的に識られている範囲ではモデル本人と保護者の完全な同意の下に撮影され、刊行当時適法であった表現物が、事後の新法成立によって完全に闇に葬られ抹殺されると謂う事態は、明らかに異常な文化的状況である。
その意味で、三号定義と謂うのは原理的な厳格適用を予期しない「少女ヌード」を具体的なターゲットと想定した目的的定義であったわけで、目的自体に内在する問題性を捨象して謂えば、少女ヌードを目的的に撲滅すると謂う観点においては、この程度のいい加減な定義でも一向差し支えなかったわけである。少女ヌードと三号定義の関係性で考えれば、三号定義は少女ヌードを完全にカバーしているわけであるから、目的的な定義としては何の過不足もない。
しかし、三号定義から遡って児童ポルノを指定していくならば、これは無制限な拡大解釈が可能だと謂うことになる。現行法制定当時必要だったのは「少女ヌードを概念的に完全に包含する定義」であって、「三号定義>少女ヌード」の関係さえ満たすのであれば「三号定義=少女ヌード」のような厳密な対応性は必要なかった。目的的に少女ヌードを取り締まる法律なのだからその程度で好い、少なくとも、国民はそう理解していたはずである。
しかし、この具体的な目的性を取り払って考えれば、三号定義が原理的に指示すると視られる対象は夥しい範囲に亘るわけで、幾らでも拡大解釈の余地がある。少なくとも、この法律が制定された九九年の時点では、国家が国民のコンセンサスを無視して法律を拡大運用する可能性は低いと謂う、国家に対する最低限の信頼(と謂うか民主主義に基づく法律運用に対する信頼)はあったのだろうと思う。
しかし、〇〇年代に入って小泉内閣を経験することで、その種の国家に対する最低限の信頼も怪しくなってくる。「改革」の名の下に、個人の権利を制限し強者の権利を拡大する不公平で乱暴な法律がバンバン突き附けられてきたわけである。
この影響で、現行法制定当時は大多数の国民が「小さな女の子をいやらしい目で視る変態」が損をするだけの法律だと思っていたのが、改正案では「小さな女の子に対して感じる性的関心」それ自体を裁く法律に早変わりしてしまったわけである。
そして、それを原理的に徹底して考察すれば、男性視点で謂っても稚ない少女に性的関心を覚える状況がかなり普遍的に存在することが暴き立てられたわけで、それに女性視点も加えるとなると、この三号定義に基づくなら大多数の国民の心性や性の在り方が法律によって裁かれ得る原理的な可能性があることが判明したわけである。
何度も繰り返しているが、稚ない少女に対する性的関心それ自体を裁くのであれば、それはハダカであろうが着衣であろうが関係ないのであり、その時点で少女ヌードと謂う具体的な対象物を超越して、未成年の少女に感じるエロス一般の問題に拡散してしまうのである。さらには男女の分け隔てさえも取り払ってしまうのであれば、これは社会の成員全体の性的関心の在り方そのものを特定の倫理観によって裁くことにも繋がってくるのである。
これがオレの強弁ではないことは、たとえばMIAUの声明で要求されている、
児童ポルノの定義を客観的・限定的にし、アイドルの水着写真まで含むような法文を改善すること
と謂う一条に関しては、与党案の作成に大きく関わっているECPATや日本ユニセフ協会の認識では、アイドルの水着写真もそれが未成年なら立派な「子どもポルノ」なのであるし、寧ろそう謂うものも取り締まるべきだと謂う主張を展開している。
MIAUの声明は「アイドルの水着写真は児童ポルノではないはずなのに、この法文では含まれてしまう」と謂う認識に立っているが、これは与党案やそのバックにある運動においては潜在的に児童ポルノと見做される可能性が濃厚である。
日本ユニセフ協会大使のアグネス・チャンが堂々とそのように国会で発言しているのであるから、少なくとも日本ユニセフ協会は最終的に未成年者の水着写真が法律で児童ポルノとして規制されることを目指して活動しているわけである。だとすれば、法文の解釈次第で水着写真も包含されるのであれば、それが児童ポルノとして現実に規制を受ける可能性は非常に濃厚である。
このような宗教的性道徳の圧し附けには、やはり対抗しておくべきだろう。
今回の改正問題では、与党やバックに立つ団体側の見苦しい理不尽な言動によって規制反対派に属する立場にとっても或る程度得るものがあったと思うが、児童の人権保護を錦旗に掲げて尖鋭な主張を繰り返すこの種の団体の非合理性や反社会性を広く訴えていくことも必要だろうし、また、野党案からフィードバックして規制反対の見地から逆に改正を訴えると謂う手法の可能性も在り得るわけである。
殊に、三号定義の危険性がこれだけ明確になった以上、現行法が制定された当時と同じ認識でこの定義を許容することは出来ない。使いようによっては全国民の内面に国家権力が土足で踏み込み、下半身の事情に口を挟むことが出来るようになると謂う、民主主義社会においてあってはならない事態の一歩手前まで進行したわけである。
とりあえず、「麻生太郎の政治的パフォーマンス」と謂う何だかわけのわからないものによって一旦法案審議はチャラになったわけだが、その意味では首相として何の取り柄もなかった麻生太郎にも時の氏神としての有り難みがあったと謂えるだろう。
やっぱり閣下は、マンガやアニメの味方なのだなぁ(笑)。
このパフォーマンスに繋がるすべての振る舞いが、児ポ法の適用範囲拡大を阻止する為の捨て身の行動だったら、或る意味オレは麻生太郎を尊敬するが(木亥火暴!!)。
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