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2009年7月 8日 (水曜日)

こっそり混ぜたもの

ココログニュース経由でこの動画の存在を識ったのだが、まあ法案自体がろくでもないとマトモな応対も出来ないんだろうと謂う感想を持った。これはもう、何が何でも通す腹だとしか思えないわけで、このデリケートな時期に「自民を下野させないと真剣にヤヴァい」と謂う危機感を煽るのはどんな自殺点ですかと思わないでもない。

そう謂えば、以前apj さんの旧ブログで児童ポルノ規制法改正問題が話題に上ったことがあって、そのときにちょっとこの問題を考えてみたんだが、やたら裾野が広がって収拾が附かなくなったので、エントリの形に纏めるのを諦めた覚えがある。ただ、その頃よりも今は情報が整備されてきているので、以前よりは若干語りやすい状況にはなってきているだろう。

この改正案の主眼とは、児童ポルノの適用範囲をより厳格化すると謂うことと、一般人の単純所持まで規制すると謂うポイントだが、これが問題含みであることは様々に論じられている。以前考えてみたときは、どうにも論点が拡散して考えが纏まらなかったのだが、窮めて現実的な問題として、この改正案をどのように考えるのか、旗幟を鮮明にしておく必要はあるだろう。

結論を言えば、与党案には断固反対で、民主党案のほうが改正の意味がある、と謂うのがオレの立場である。理念的な部分を迂回して言うなら、そもそも或る種の規制法を改正するのは、現行の法律で実態に対処するのが困難だと謂う理由であるべきで、諸外国が要求しているから改正する、改正しなければならないから改正する、と謂うのは、財産権をも含む国民の基本的な権利を直接的な処罰を伴って厳格に制限する根拠としては窮めて薄弱である。

ただ、そもそも日本で謂う児童ポルノと諸外国が問題視している児童ポルノはまったく違うものなのだから、国際世論が国内へ伝達する過程の何処かで意図的な論点のすり替えが行われていると視るのが自然かもしれない。

どうやらG8諸国が児童ポルノと謂っているのは、低年齢の少年少女が「性行為やそれに限りなく近い行為」を強要されている図画のことらしく、単純なヌード自体は規制の対象にすらなっていない国もある。その意味では、日本のほうがより厳しい基準で取締を行っているとすら謂えるだろう。また、アメリカでは二次元の創作物について児童ポルノには当たらないと謂う最高裁判決が出ている。

それやこれやを考えると、与党案は何処から出てきた代物なんだかサッパリわからないと謂うのが正直なところで、おそらく国連ユニセフとは別団体である日本ユニセフ協会だのECPATだのが提唱している「子どもポルノ」撲滅運動を丸飲みしただけではないかと謂う気がする。

この運動は「割れ窓理論」と謂うアヤシゲな理論に基づくゼロリスクの予防主義思想であり、児童に関するエロティックな表現一般が未成年者への性犯罪や性的虐待に結び附くと謂う極論を主張しているのだが、これは、強力効果論が学術的に否定されている現在においては、ほぼ科学的根拠のない思い込みに基づく主張と視られている。

しかし、「割れ窓理論」と謂うのは、懲りもせずによくいろんなことを思い附くものだと感心する。これ、昔は「腐ったミカンの方程式」とか「ドミノ理論」とか言っていたと思うんだが(笑)、パッケージとラベルを換えて類似品が常に出回っているのだなあ。

どうやら日本国内における児童ポルノ関連の法規制には、ECPATと日本ユニセフ協会が重要な役割を果たしているらしく、そもそもこの改正案の問題点はこれらの団体の働き掛けによるところが大きいそうな。ゲームやアニメ、マンガなど二次元の創作物をも含めようと謂うのは、主にこれらの団体の主張に基づく要件らしい。

なんでも今国会での成立に向けて自民と民主が一致したようで、これは解散総選挙にでもならない限りもう後戻り出来ない趨勢なんだろうが、まあどっちがマシかと謂われたら民主党案がマシだと謂うしかあるまい。単純所持罪の骨抜き化と三号規定の削除、創作物を含めないと謂う点で、法律の主旨を明確化する意味はあるだろう。

与党案の単純所持罪に対して民主党案では取得罪・購入罪と謂うことを提案しているわけで、これはまあ元々現行法でも販売したり頒布してはいけなかったのだが、民主党案では購入・取得した側も罰せられると謂うことで、この程度ならおそらく社会的に許容範囲だろう。与党案の重大な問題点である法の不遡及の原則に反する部分も、新たな取得や購入を禁ずると謂う形ならまあギリギリクリア出来る。

問題の「三号規定」と謂うのは、児ポ法に定める児童ポルノの三番目の定義で「衣服の全部又は一部を着けない児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」と謂う曖昧な規定で、ご覧の通り幾らでも拡大解釈が可能な代物であるから、児ポ法制定当時から散々問題視されていた部分である。

この定義は、一号が「児童を相手方とする又は児童による性交又は性交類似行為に係る児童の姿態」、二号が「他人が児童の性器等(性器、肛門又は乳首)を触る行為又は児童が他人の性器等(性器、肛門又は乳首)を触る行為に係る児童の姿態であって性欲を興奮させ又は刺激するもの」と窮めて具体的な規定で、ふむふむと読み進めるといきなり三号で「つか、子供が映っててペドがハァハァするものはみんな児童ポルノ」と謂う怒濤の卓袱台返しが来るわけである。

これで八〇年代に全盛を窮めた少女ヌード写真集が軒並みアウツになって、厳しく規制されて現在に至るわけである。この問題含みの三号規定が削除されれば、この規定に基づく三号ポルノと呼ばれるソフトヌードの類は理屈の上では復権する可能性はあるが、国内的な風潮から視て多分そう謂うことにはならないんじゃないかと思う。

ただ、「児童ポルノ」と謂う名称を「児童性行為等姿態描写物」と改めるのは、名称改変だけだとすればちょっと問題じゃないかと思う。たとえば清岡純子の写真集のようにストックホルム合意から児童ポルノの例外と解釈可能で、剰え撮影当時はアートと謂う形でモデルが認識していた刊行物が改正後も法規制の対象となるのであれば、ただ全裸でその辺の山の中だの海辺だのを歩いている写真や映像を「児童性行為等姿態描写物」と表現することになるわけで、ちょっとこれは問題アリだろうと思う。

規制推進側が事ある毎に引き合いに出す欧米諸国の基準では、主に一号、二号規定が中心的な問題となっていて、アート的な作品におけるヌード撮影によってモデルが覚える程度の性的羞恥は性的虐待に当たらないと解釈出来るのだから、清岡純子の作品などは平均的な国際基準では何処も児童ポルノではないはずである。

しかし、そのような作品が規制対象から外れることもなく名称だけ変更されれば、少女がただ衣服を身に着けていない状態も「児童性行為等姿態」だと謂うことになる。アート的なソフトヌードを規制対象から除外するのであればその名称でも好いだろうが、現状のままで名称だけ変更するのなら、少女の裸体がそれだけで性行為に直結する猥褻なモノだと謂う決め附けに繋がるのではないかと思う。

或る種、欧米の基準で性行為の有無が重視されているのは根拠のあることで、対象それ自体を猥褻物と規定してしまったら社会秩序の収支が附かなくなる。現行の児ポ法の問題点とは、三号定義によって未成年者の肉体に対してエロスを感じることそれ自体を違法化している部分にあって、これは今回の与党案ではもっと尖鋭化している。

先頃話題になった枝野VS葉梨国会討論でも、自民党の葉梨議員は「ペドファイルとの戦い」と謂う物騒なスローガンを連呼していたが、これは要するに未成年者にハァハァするような輩はみんなペドで、何らかの犯罪的な行為に及ばなくてもペドであること自体を犯罪化して撲滅すると謂うんだから、えらい意気込みである。

その例として、枝野議員の問うたジャニーズタレントの乳首露出や宮沢りえの「サンタフェ」も条件に合致するなら「例外ではない」そうだから、ペドなんて他人事だと思っている人は考えが甘いだろう。葉梨議員が言っているのは「一八歳未満の少年少女に性的興奮を覚えるような欲望の在り方自体を犯罪と規定する」と謂うことなんだが、人間のエロスが一八歳以上の異性にだけ選択的に生起するわけがないんだから、たとえばアイドリングとかAKB48とかベリーズ工房にちょっとでも入れ上げたと謂うような人は軒並み犯罪者予備軍つか犯罪者そのものである。

日本ユニセフ協会大使のアグネス・チャンなど「何故一八歳まで待てないのか。一八歳未満の水着を視る必要が何処にあるのか」と豪語しているから、今時の現役アイドルの水着写真集は彼女の基準では軒並みアウツである。

いや、「必要が」とか言い出すのなら、エロスに関しては必要のないことだらけで一番不必要なのが芸能人ですが何か? 芸能人に萌えてるくらいなら、恋人つくって結婚しろって話でしょう。そう謂うことを他ならぬアイドル出身の芸能人が口にするのは、儲けるだけ儲けといて「こんなことにカネを遣うのは不道徳だ」と批判するのも同然で、おにいちゃんそれは感心しないな(笑)。

そう謂えば、アグネス・チャンは日本デビュー当時一七歳の未成年だったわけだが、ミニスカ・ハイソックスで殊更に少女性や健康なエロスを強調する売り方をしていたわけで、当時の感覚でもそれは一種ロリータ的な性的関心に訴える売り方だったと思うのだが、なんでこの人は一八歳になるまでデビューを待てなかったのだろうか。大方それも大人の性的搾取の犠牲になったのであろうから、大変お気の毒な話である。

児童ポルノの定義において、性行為の有無を重視すると謂うことは、未成年者にエロスを感じることが猥褻であったり性的虐待に当たるのではなく、その欲望を充足する為に実行為として未成年者と性行為を行うことを性的虐待や猥褻性と規定しているわけで、本質的な児童ポルノとはそのような性的暴力の視覚的記録のことだろう。いろいろ調べてみると、国家毎の文化様態によるブレを捨象した国際的なコンセンサスはその辺りに落ち着くようである。

そこに留めるのが法治国家として当然求められる節度である。欲望とは個人の内面の問題であるから法権力は立ち入らないが、その欲望を直接実行に移したら処罰する、これが法治国家の護るべき最低限の建前である。

その定義において「児童ポルノは性的虐待の成果物である」「単純所持も原則禁じるべきである」と規定されても何処からも文句は出ないはずである。ざっくり「未成年者が肌を見せてる図画」とか言われたら大いに異論はあるが、幼女が「くぱぁ」させられてるとか性行為を強要されている図画であるなら或る程度仕方あるまいと言う話になる。

九九年の児ポ法施行に至る流れの中で三号規定を誰も阻止出来なかった事実が覆られないとしても、三号規定と単純所持の非合法化はそもそも相容れない。三号規定と単純所持の合わせ技だから重大な人権上の問題が生起するわけである。

つまり、ジャニーズの乳首だのサンタフェだの自分の子どもの入浴写真だのゲームだのアニメだのマンガだのと謂うてんこ盛りな性道徳ピューリタニズム的なゼロ・トレランスの予防主義的主張を軒並み全部「単純所持」の一項に盛り込もうとするからおかしなことになるのである。

そもそも、そんなおかしなことになるような要求は何処からも出ていないのだし、何処の国もそこまでやってはいないのだし、日本国内のペド予備軍を虱潰しに殲滅せよなんて指令は葉梨の脳内以外には何処からも出ていないのだし、そもそも指令が出たらやるのか、そんならおまえこそ危険分子だろうと謂う話である。

現行法も今回の与党案も、この辺の事情をまるっと有耶無耶にして何処かでそっと混ぜられた不可思議な附録を附け日本独自のとても奇妙な「児童ポルノ」と謂う概念を形成しているわけで、その奇妙な問題点を全部諸外国の外圧のせいにしているわけである。

つまりですね。

諸外国が単純所持を問題視している「児童ポルノ」とは、主に少年少女が他人や自分の性器を弄んでいたり、性行為に及んでいたり、性器の露出などを含む性行為に附随する種々の猥褻行為を強制させられている犯罪性の高い図画類のことであって「未成年者の裸体」じゃないんです。性犯罪を前提にしないと成立しない表現物を視るのも所持するのも性犯罪、と謂う割合わかりやすい理屈なんですよ。

そこに「先進国が児童ポルノの単純所持はいかんと言うてます」と謂う名目で、児童ポルノの定義に「未成年者の裸」と謂うざっくり要件をそっと混ぜたからわけのわからんことになっているわけです。「未成年者の裸」を撮影することは必ずしも性的虐待や性犯罪を構成しないのだから限りなく裾野が広がって混乱するのが当然で、与党案では本来性的虐待や性犯罪とイコールでないものまで犯罪と定義しているから「これを犯罪と決めたんだからこれをやる奴は犯罪者」と謂う具合に論理が循環しているわけですね。

つまり、本来児童ポルノ固有の定義は性的虐待の人権被害を基本的な要件に据えるべきで、ソフトヌードの猥褻性は別立てで判定すべき(通常の猥褻物の規定で対処して猥褻性を認定したら人権上の問題に抵触して児童ポルノに含めるとか)ものを、ご丁寧にどうとでも解釈出来るような曖昧なヌードの定義まで児童ポルノに混ぜたから、単純所持云々と謂う展開になったときに問題が起こるわけである。

さらに葉梨議員はそこに、このような「俺定義」の変梃な「児童ポルノ」を所持していたら、それは性的欲望を満たす目的以外には考えられないと謂う強弁までしているわけである。ここまで論理がズレてくると、本来の国際スタンダードな法理念とは全然違う話になっていることが理解出来るだろう。

この辺のズレにズレまくった話を、「ペドファイルとの戦い」と謂うスローガンで情緒的に胡麻化しているわけで、「自分の子供に赤の他人がハァハァしたら、気持ち悪いでしょう、怖いでしょう、そう謂う奴を全部パクっちゃえば安心ですよ」と国民感情に訴えようとしているわけである。この葉梨と謂う人は警察官僚出身だそうであるが、そう謂う人が立法府に来ると、やっぱり社会の危険分子を効率的にしょっぴける予防主義的法律の制定に情熱を燃やすんだと視られても仕方ないだろう。

これを国民視点で謂えば、そう謂う為政者がぶっちぎりの危険分子なんだけどな。

まあ、与党側が完全に折れることはないだろうし、民主党案にも不満な点はあるとは謂え、こう謂う気持ちの悪い十字軍的なデムパ法案をそのまま通してしまったらゆくゆくえらいことになってしまうので、民主党に精々頑張って欲しいところである。まあそれよりも可決前に解散総選挙でワヤになってほしいところではあるが。

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コメント

こんにちは

この改正案は絶対にヤバイと思います。「単純所持」と「見なしポルノ」の合わせ技で掛けられる網が、線引き曖昧のまま広がってしまいます。国民のほとんどが規制の対象はエロゲームだと思っているから(思わされている)無関心なんですかね、こんなざっくり法案が成立したら何が起きるか判らないのになぁ。

国会では自民党議員が「ジャニーズ上半身裸は『1つの思い出』だからOK」で「ジャニーズがアウトになるのは民主党案」とか最低答弁して、馬鹿丸出しだなーと思っていましたが、やっぱり官僚上がりでしたか。
海の向こうのアメリカで、ゲイバッシングの急先鋒で有名だったハガード牧師に実は男の愛人がいて、いまゲイの「治療中」とかいう笑い話があるんで、あんまり極端な主張すると邪推しちゃうんですけど(笑)。

公明党が改正に相当力を入れているみたいですし、自民党も選挙向けにパフォーマンスしときたいんでしょうかねぇ。今その前哨戦とも言うべき都議会議員選挙をやっていますが、都議会は自民・民主が呉越同舟なので、既存の政治に反対するなら共産党に入れるべきなんだそうです(by父)。

投稿: うさぎ林檎 | 2009年7月 8日 (水曜日) 午後 02時33分

>うさぎ林檎さん

お暑うございます。昨日は出先で汗の小一升もかいて、ぐったりしておりました。

>>国民のほとんどが規制の対象はエロゲームだと思っているから(思わされている)無関心なんですかね、こんなざっくり法案が成立したら何が起きるか判らないのになぁ。

与党側の当初の思惑としてはそんなとこだったと思うんですが、今回ばかりはやりすぎたと思いますね。二次元創作物にまで適用範囲を拡大することと、単純所持をも違法化すると謂うのは、ちょっと聞くと現行法の厳罰化のような印象を覚えますが、実は法理念がまったく別のものになっていて、際限のない警察権の拡大に繋がると謂うことは、さすがに社会の広い範囲で論じられていて、国民の関心も高いのではないでしょうか。

この辺は現行法制定当時とは社会状況が違っていると謂うこともあります。現行の児童ポルノ法が議論されていた当時は、社会の側に若者の間で蔓延するロリータ的嗜好に対する反撥とペドファイルの犯罪に対する恐怖や警戒が強かったので、少年少女についてのエロス的表現を弾圧することに寛容だった…と謂うより、野放しにせずに積極的に取り締まるべきだと謂うのが与論だったと思います。

この時代はホラーとロリータが有害文化の両横綱だったわけですね。幼弱者に対する猟奇的犯罪の実行犯が、大概セットでホラーとロリータの愛好者だったと謂う事情がありますから、ドラマやアニメでのホラー的(と謂うか直截にはスプラッタ的)表現についての圧迫が始まります。首を絞める、四肢を切断する、刃物で刺す、大量に流血する、こう謂う残酷表現について自粛の圧力がかかるわけですね。公共表現に対するこの種の圧力は、未だに何らかの事件が起こる度に振幅が繰り返されています。

一方でロリータ的嗜好のほうは、八〇年代に全盛を窮めた少女のヌード写真集やビデオについては猥褻性の基準を見直すことによって一旦対処が行われます。つまり、そもそも少女ヌードのジャンルが急成長したのは猥褻性の基準の都合からで、ヘアヌードが解禁される前は陰毛と性器がポルノ表現における猥褻性の決定的な判定基準だったわけですが、少女の陰裂については性器と見做されていなかったわけですね。

なので、勃興期の少女ヌードでは、現在とは違って大人と遜色のないグラマラスな体型の少女が好まれたと謂う嗜好の違いがありまして、これはつまり初期の少女ヌードは少女であることそれ自体は必須要件ではなく、陰毛が未発達であることが規制逃れに都合が好く、陰裂が準性器表現としてアピールしたと謂うだけで、当時規制されていた成人女性のフルヌードの代替物と謂う側面があったわけです。

これが意外とニーズがあったわけで、次第に成人女性のフルヌードの代替物から少女のフルヌードそれ自体を目的的に志向する性格のものにシフトしてきて、大きな市場として成長するわけですが、「毛が映ってなきゃいいってもんじゃねーだろ」と謂うのは普通の人でも顰蹙するところで、アート的な映像表現において陰毛が許容される一方、少女の陰裂も性器の一部と見做すと謂うように基準が変わってきました。つまり元々の事情が逆転したわけですね。

成人女性のヌードにおいては陰毛までの表現が大っぴらに為されるようになる一方、少女ヌードのジャンルではそれ以前の成人女性ヌードのレベルまで自粛を要求されるようになるわけで、社会の側に少女ヌードをアモラル視する風潮があったことで、猥褻物としての厳しい取締は勿論、児童福祉法などの既存の法律とも併せて取締を強化する動きに繋がります。

また別の事情として、青少年の性行動の乱れのようなものが社会問題化していて、小遣い稼ぎに大人に肉体を売る少女たちの非行が問題視されることで、九〇年代半ばには青少年保護育成条例みたいな動きも出てきて、未成年者に対する性的搾取を社会が抑止しなければならないと謂う動きが出てきます。少女ヌードについても、大人による未成年者の性的搾取の観点から、猥褻性とは別の観点でこれを規制するべきではないかと謂うことになってきて、児童ポルノと謂う概念が出てくるわけです。

そう謂う背景があったことから、児ポ法制定当時の国内的に主要な問題の対象と謂うのは少女ヌードだったわけで、欧米的な意味での性行為を強要するタイプの児童ポルノはすでに既存の法律の埒内で厳しく取り締まられていたわけです。なので、欧米の基準をそのまま持ってくると国内的な問題にはまったく当てはまらなくなるので、欧米では児童エロチカとして一定の理解が得られている対象を児童ポルノの概念に含める工夫が必要だったわけですね。

これはこれで、国内固有の問題性ですから一定の理解の範疇です。嘗てあれほど全盛を窮めた少女ヌードの撮影においては、やはり本人の自発意志に基づくものなど考えにくいわけで、根拠なく決め附けるのも問題ですが、親御さんの小遣い稼ぎと謂う動機も多分にあっただろうと推測することが出来ます。親が金銭目的で安易に我が子のヌードを撮らせると謂うのは、子供の側にそれを拒絶出来るだけの意志的な自由があるとは考えにくいですから間違いなく性的虐待に当たるわけで、そう謂う意味ではあの当時の風潮に何らかの対処が必要だったことは間違いありません。

ただここで履き違えが起こったのは、少年少女のヌードが公的表現として公開されることそのものが絶対悪として捉えられたことで、本来は少年少女のエロスがアート表現として公表されること自体は悪ではないと謂うことです。

ペドファイルによる性犯罪が猖獗を窮めていると謂う「治安上の問題」を抱える一部国家以外では、国際的なコンセンサスとして少年少女の肉体性にエロスを感じること自体は異常で病的なことだとは捉えられていないと謂うのがオレの認識です。

本文で触れた葉梨議員は「ペドファイル」と謂う言葉を意図的に拡大解釈していると思うのですが、「ペドファイル」とは「性成熟に達していない児童との性行為以外に性的満足を得られないと謂う社会的に不都合な嗜癖を持つ人物」を指していて、少年少女の肉体に性的関心を覚える心性それ自体を指しているわけではありません。

それは一種、普遍的に誰にでも潜在する欲望の在り方であって、単にその欲望の対象が成人と同様の自己決定能力を持たない社会的弱者であるから、最大限に慎重な態度で扱われねばならないと謂うだけの違いです。

たとえば、芸能界では大昔から上原ゆかりだの杉田かおるだの安達祐実だの美山加恋だの志田未来だの、常にアイドル的なポジションの子役が出てきますけれど、これはつまり、誰でも普遍的に持っている程度の稚ない少女に対する性的な関心を窮めて穏当な形で満たす社会機能だと見ることが出来るでしょう。あれだけ未成年者に対する性的犯罪に神経質で児童ポルノに対して厳格なアメリカでも、成人の俳優を超えて子役俳優が絶大な人気を集めると謂う風潮は一度も弾圧されていないわけです。

一方では「アート」と謂う体裁で少年少女のヌードと謂う視覚表現も一定範囲で公表されているわけで、これは常に猥褻性との鬩ぎ合いで扱われていますが、それが社会の具える節度と謂うものです。美しい成人男女のヌードが見たいと望むエロティックな動機と美しい少年少女のヌードが見たいと望むエロティックな動機は、本質的には何も違わないものですが、後者の場合は前者よりも厳格な配慮が必要とされると謂うことです。

前者には実際の性行為と近接するニュアンスがあっても構わないけれど、後者の場合は実際の性行為と可能な限り距離をとらなければならない、何故なら、成人男女との性行為は原則的に自由だけれど、未成年の男女との性行為は「正式な婚約関係」などの例外を除けば原則的に一切禁じられているからですね。ですから、未成年者に対して感じるエロスが表現物として公表される場合、エロスと具体的性行為が観念的に分離されているかどうかが社会が許容するか否かの基準となると謂えるでしょう。

このように、近代においては未成年者に対して感じるエロスは実際の性行為による欲望充足とは観念的に分離すると謂うのが建前で、未成年者のヌードの猥褻性と謂うのは、実際の性行為との距離によって量られる性格があると思います。ですから、未成年者のヌードの表現に関しては、客観的な定義によって機械的に猥褻性が判定されるのではなく個別要件毎の最終判定が必須となるわけで、客観定義はその前段階の粗い篩いとして機能すると謂うくらいに考えるのが妥当でしょう。

この辺、与党案の単純所持に関する考え方のように、エロティックな表現物に接して鑑賞者が自慰行為をするかしないかみたいなくだらない基準が対象物の猥褻性判定で浮上すること自体幼稚な部分があるわけで、自慰行為をしようが「綺麗だなぁ」と感動しようがそれは別段お上が考えることじゃないわけです。そのエロスが性行為との観念的な関連附けにおいて生起しているかどうかが基準でなければならない。

対象に対してエロスを感じるか否かと謂うのは完全に鑑賞者の内面の範疇に属する事柄で、公権力が介入すべき事柄ではありません。たとえば未成年者のヌードが犯罪性や猥褻性を帯びるのは、その表現の中に、対象に対して感じるエロスと謂う欲動と性行為と謂うその反社会的な充足手段に観念的な関連附けがある場合でしょう。そのエロスが芸術的な感動と謂う形で心に響こうが、自慰行為と謂う下世話な形で下半身に響こうが、お上がとやかくや口出しすることではないわけですね。

ここを混同すると、たとえば未成年のアイドルの着衣の写真集を見て自慰行為をすることも犯罪なのかと謂う途轍もなく変な話になってくるわけで、未成年者に対して感じるエロスそれ自体を犯罪視するなら、着衣であると裸体であるとは原理的に無関係でなければなりません。エロスを感じるから自慰行為を行うわけで、だったらハダカだろうが服を着ていようが関係ないのが当たり前でしょう。

枝野VS葉梨国会討論で浮上したジャニーズの乳首とかサンタフェの問題とは、葉梨議員の側にまったくそう謂う考えがなく、「俺定義」の「犯罪的資質」を持つ者に対して犯罪実行以前に摘発すると謂うアタマしかないと謂うことだろうと思います。しかし、彼が勇ましく叫んでいる「ペドファイルとの戦い」と謂うスローガンは、未成年者に対する性的犯罪が頻発していて、一種治安上危機的な状況にあるアメリカやカナダでは保守層に対して説得力のある旗標でも、統計的に発生率が非常に低い水準にある日本では意味のあるスローガンではありません。

これは、国内においては別段それが考慮に値しないと謂うことではなく、民主主義の根幹を脅かすような緊急避難的な予防主義的捜査を一般化する名目とは成り得ないと謂うことです。低水準にあるとは謂え、一定頻度で発生する痛ましい犯罪を未然に防止する為には、「危なそうな奴を未然に摘発する」と謂う暴力的な権力行使ではなく別の手段において目的が追求されなければならないと謂うことです。

それはたとえば未成年者の自衛策の実効性を上げるとか、累犯者の監視体制を整備するとか、幾らでもあるはずなのですね。「危なそうな奴を未然に摘発する」と謂うのはたしかに抜本的な効果がありますが、「疑わしきは黒」の原理ですからそれが「抜本的」なのは当たり前です。効果的であっても、よほどの危機的状況でなければ決して採用してはならない恥ずべき選択肢だと謂うことですね。

たとえば規制推進派は、事ある毎にアメリカなどではもっと厳格な規制が為されていると謂うようなことを口にしますが、児童ポルノの定義が違うと謂う話とはまた別の観点の問題として、児童ポルノ摘発に関して囮捜査をも含む荒っぽい摘発作戦が行われていること自体、民主主義国家としての「恥部」だと謂うことがあります。

アメリカにおいては、それほど未成年者に対する性犯罪が日常的に多発していると謂うことで、そのような危機的状況に対処する為には国民の人権の一部に抵触する弾圧もやむなしと謂うことで、これは公益と人権の兼ね合いの問題です。公益の為に人権が制限される度合いが高いこと自体、民主主義国家においては内政の失敗を物語るもので、これは誇れた筋合いの事柄ではありません。

アメリカとは比較にならない低水準の発生率である日本が、何故アメリカの恥部に追随して恥ずべき人権侵害に踏み切らねばならないのか、それには何ら正当な理由はありません。しかも、本文で触れた通り、強力効果論が学術的に否定されている以上、情報のボーダレス的な流入が当該国の治安上の問題を助長していると謂う主張には何の科学的根拠もないわけで、これは単に取締の都合論の問題にすぎないでしょう。

児童ポルノの単純所持を人権を侵害してまで捜査しなければならないほど危機的な状況にある国に、他国からそれに類するものがダダ漏れで入ってきては取締上不都合だと謂う、そう謂う話ですね。つまり、葉梨が言っている「ペドファイルとの戦い」と謂うのは、本当は「アメリカの」ペドファイルとの戦いだと謂うことでしょう。

たとえば「未成年に見える」人物のポルノが国境を越えてアメリカに流入したら、アメリカではその人物が未成年であるかどうか立証が困難である、これはそう謂う理由から添えられている要件ではないかと思います。

そして、これはアメリカ視点においても原理的に正当性のある都合かと謂えば、これもまったくそんなことはないんです。児童ポルノの単純所持を取り締まる理由としては、個人法益の観点と社会法益の観点の問題がありますが、個人法益の問題に関しては、それが外国人である以上、日本から流入した「未成年に見える」人物のポルノには何ら人権上の問題はありませんし、社会法益の観点から謂えば、強力効果論が否定されている以上、他国人による児童ポルノ類似の図像が流入したからと謂って、アメリカの性犯罪を助長することにはなりません。

これが問題になるのは、アメリカでは児童ポルノを所持していることを理由に摘発することでペドファイルを未然に処罰し排除する方針を採っているが、ネットから流入した他国人の図像であれば、それが未成年であることが立証出来ないから摘発出来ないと謂う都合論ですね。原理的な問題であれば他国の問題と謂っても配慮する必要があるとは思いますが、都合論と謂うのは当該国内で処理すべき事柄であって、他国に対して人権侵害を伴う法制定を要求する正当な根拠にはなりません。

少なくともアメリカからの要求に何だかよくわからないところがあるのは、その辺の問題を有耶無耶に胡麻化しているからでしょう。自国には人権侵害を犯しても捜査を優先すべき内政的事情があるが、それにはどうも他国の方針が邪魔になる、だから協力してくれと謂う話ですね。しかし、日本国内の事情の要請でもないのに、人権侵害を容認する法律の制定を他国にごり押しされたのではたまったものではありません。

これはネットの出現によって情報の流通がボーダレス化した全世界的な現状を背景にした問題ではありますが、決して呑んではいけない要求だと思います。それが不都合だと謂うのであれば、申し訳ないがアメリカに自助努力で何とかして戴くしかありません。そうでなけば、国際社会は須くボトムランナー方式になってしまって、それこそ一国家の都合が全世界的に波及して、良好な国家の経営状況まで、それこそドミノ倒しのように悪化すると謂う事態になりかねません。

今回の改正案において、日本の国内的な実態を正しく踏まえた結論が出せるか否かと謂うのは、大袈裟に謂えば日本が独立国家としての威信や矜恃を保てるか否かの問題でもあると思います。少なくとも、「アメリカの」ペドファイルと戦う為に自国民の人権を制限すると謂うような法律の制定を決して許すべきではありません。「アメリカの」ペドファイルと戦うのはアメリカ人の責任であって、それに協力するにも限度と謂うものがあります。人権侵害は、他国に要求可能な「協力」の範疇には入らないはずです。

念の為に申し添えておきますと、アメリカ等の諸外国が「流入すると困る」と主張している「児童ポルノ」と謂うのは、推測するにミドルティーンの女子学生が援助交際的な感覚で出演している地下AVや、成人女性が制服を着用して演じているAVのことではないかと思います。これは欧米人の感覚ではそのものズバリ「児童ポルノ」に見えるはずなんですね。

欧米人視点では、日本人女性が実年齢よりも稚なく見えると謂うことは誰でも識っていますし、ミドルティーンなんて一三歳以下の欧米の小学生と見た目が変わらないわけですね。また、「未成年に見える」女性も実年齢よりも童顔の女優が演じているわけですから、これもやっぱり外見上小学生と変わらないわけです。

それが制服を着て性行為を演じているのですから、欧米人の目から見るとまさしく児童ポルノそのものに映っても仕方がありません。ところが、日本国内における感覚ではミドルティーンの女子学生が性行為を演じるAVは、「児童ポルノ」の問題と謂うより青少年の保護育成の観点からの問題に見えるわけです。日本では「女子中高生とエッチしたい」と謂う欲望を抱いている男性は、嗜好としてあどけない外見の女性を好むと謂う意味で「ロリコン」とは呼ばれていても「小児性愛者」ではないと見做されていると思うんですよ。

或る種、日本人の感覚では、今時の女子中高生の肉体は大人の女性とそれほど変わらないので性行為の対象として自然に見えるわけで、しかし幾ら肉体的には成熟していても大人が未成年と性行為をしてはいけないし、況やそれをビデオに撮って流通させるのは重大犯罪であると謂う倫理に抵触しているわけですね。

それが「日本の『児童ポルノ』は青少年の非行の問題」と謂われる所以で、現在行われている議論では意図的にそこを曖昧にして胡麻化しているわけです。欧米から要求されているのは「女子中高生の淫行ポルノ」を何とかしろと謂う話ですが、国内的に必然性があるのは前述の通り少女ヌード、所謂三号ポルノの規制なんですね。この少女ヌードが無思慮な性的ビジネスの具とされてはいけないと謂うオレのスタンスはすでに申し上げましたが、少女のエロス=ペドファイルと謂う短絡が重大な問題になってきます。

そこから拡大解釈して水着や体操着なんかもいっしょくたに混同しているわけで、アグネス・チャンなんかが言っているのは、日本のローカルNGOである日本ユニセフ協会とECPATが独自に主張している「子どもを性の対象として視るな」と謂う極論なわけで、実は国連ユニセフがそう主張しているわけでもないし、国際的なコンセンサスがあるわけでもないんです。

国連ユニセフのストックホルム合意では「児童エロチカと児童ポルノは別のもので、前者は国毎の文化固有の基準で容認され得るが、後者は如何なる文化・国家でも一切許容されない」と謂うことが明示されているのですから、そう謂うことになります。

これはつまり、「児童の姿態にエロスを感じることは自然なことだが、そのエロスの欲動を性行為に移すことで満たしてはならない」と謂うことです。ここでははっきり動機と行為が峻別されているんですね。それを混同したのは、その下位にあるローカル団体の独自主張です。

本来児童の人権問題に絞るなら、性的関心を持って児童を視る心性の問題ではなく、性行為の対象として扱う虐待の問題でなければならないのですが、性的関心=性行為=性的虐待と謂う動機と行為の粗雑な混同を行っているわけで、そこの短絡を無理矢理繋げているのが「割れ窓理論」と謂うことになります。

このように、様々なレベルの雑多な「都合」が未整理なまま盛り込まれているのが与党案で、これは法治国家においてはそのままでは決して実現不能な無理筋だと謂うのがオレの結論です。一方、民主党案には筋論レベルでは不備もあるのだろうけれど、現実的なラインとしてはこんなもんだろうと謂う現実性があると謂うことですね。

>>海の向こうのアメリカで、ゲイバッシングの急先鋒で有名だったハガード牧師に実は男の愛人がいて、いまゲイの「治療中」とかいう笑い話があるんで、あんまり極端な主張すると邪推しちゃうんですけど(笑)。

なんか時々、自身の性的嗜癖に対する厭悪からか過激なマイノリティバッシングに趨る人が出てきますね。何度か語ったことですが、「個人の思想には必ず個人性の動機がある」と謂うところでしょうか(笑)。まあ、察するに葉梨議員には小児性愛的なエロスと謂うものがあんまり理解出来ないだけじゃないですかね。この人をよく識っているわけではないですけど、何だか物凄く散文的な人間に見えます。

>>公明党が改正に相当力を入れているみたいですし、自民党も選挙向けにパフォーマンスしときたいんでしょうかねぇ。

まあ特定宗教がバックに附いている政党はともかく(笑)、この改正案を通すことが総選挙にプラスに働くと視ているなら、自民党も相当大ボケですよね。どうもネットをいろいろ渉猟してみても、たとえば彼らがアテにしていると視られる女性層とか児童の保護者層の関心は非常に薄くて、一般層には寧ろ人権侵害の脅威のほうがアピールしているみたいですから、広汎な支持は得られないでしょうね。

その意味では、ジャニーズとかサンタフェを例に挙げた枝野議員は上手かったんじゃないかと思いますね。かなり話題にもなりましたし、ロリペドが困るだけで自分たちには関係ないと思っていた女性層もヤヴァさを実感出来たと思いますし、サンタフェ買った人間がどれだけいるかを考えると、「どっちが言い出したか」とか無関係にこの改正案が相当危険で広汎な影響を持っていることが印象附けられたでしょう。

>>都議会は自民・民主が呉越同舟なので、既存の政治に反対するなら共産党に入れるべきなんだそうです(by父)。

これはオレの友人もそんなことを言ってましたね。投票しないと民意は伝わらないけれど、与党も野党も支持出来ないと謂うことをアピールするには、現実的に謂って幾ら議席を伸ばしても政権に届かない共産党に投票するのが一番だそうです(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年7月 9日 (木曜日) 午前 08時52分

>>「個人の思想には必ず個人性の動機がある」

ちなみに、オレがこの問題にコミットしている「個人性の動機」もまた表明しておくのが公平を期すことになるだろうが、これは一種の私怨である。…と謂っても、まあ普通に考えて、未成年のアイドルに対する嗜好を一切隠していないのだから、どうせそれが動機だろうと思われるかもしれないが、実はもっと直截な動機がある。

左側の柱のリンクをご覧になればわかる通り、オレは実写版セーラムーンの専門ブログを開設しているくらいこの番組に入れ込んでいるのだが、この番組の放映当時、オレの友人の奥さんのママ友の一人が「あんな『子どもの性を売り物にする番組』は絶対子どもに見せない」とか言いやがったそうな。

オレは、一回も観ずに先入観だけでそんなことを言いやがったこの見ず知らずの人物を今でも決して許していないのだが、この「子どもの性を売り物に」と謂う紋切り型のテンプレの出所こそECPATの「なくそう!子どもポルノキャンペーン」であったと謂うわけである。

はっきり謂って、この番組ではミニスカートの下のレオタードの下半身を殊更に強調した撮り方をしたことなど一度もないのだし、元々の原作のコスチュームがあのようなものである以上、それを実写化すれば一見してエロティックな印象になるのは仕方のないことである。

そして、たしかにセーラームーンと謂うアニメ作品は、大人の男性ヲタクが熱狂した作品でもあっただろうが、それ以前に対象年齢の女児の憧れのヒーローであり夢の世界であったはずである。実写版セラムンはそう謂う原作の性格や女児の憧れの念を最大限に尊重したシリアスなヒーロー番組だったのだが、それは一度も観ないで「子どもの性を売り物に」とかほざいていやがる輩には絶対に通じないことである。

その種の粗雑な輩は、何はともあれ文芸の敵である。オレは割合相対主義的な物の見方をするほうだから、滅多に特定の対象や特定の思想を敵認定しないのだが、こう謂う輩だけは一切妥協なく敵視するし、このような輩を生み出す思想もまた敵である。

投稿: 黒猫亭 | 2009年7月 9日 (木曜日) 午前 11時43分

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