欺瞞の野合
そう謂う次第で、連続して児ポ法改正を論じてきたわけだが、この辺でこれまでのおさらいを兼ねてまとめを。この問題には様々なレベルのアプローチが在り得るが、最も大きな問題点として、この改正案が検討されるまでに多くの意図的欺瞞があったと謂うことが指摘出来るだろう。そこで今回は、割合論じている方が少ない部類の欺瞞の指摘を中心に考察してみようと思う。
たとえば、二〇〇八年の内閣府の調査で「単純所持を規制すべき」との意見が九割を超えたと謂う話があって、「児ポ法改正は全国民の民意」みたいな主張があるが、これもまた大きな欺瞞であると謂えるだろう。
●「国民の九割支持」は本当か
当該調査の報告書(PDF)を読むと、P3のグラフを視る限り、平成一九年の調査では「規制すべきである」「どちらかといえば規制すべきである」の合計がたしかに九〇%を超えているが、P7を視ると、アンケートに際しては回答者に対して「児童ポルノとはこう謂うものです」と謂う説明の為の以下の資料が提示されている。
【資料6】
現行の法令(いわゆる児童ポルノ禁止法)では、児童ポルノの所持について、他人へ提供することを目的として持つこと等は規制されていますが、個人が自らの趣味として単に持っているだけでは処罰されません。
これに関して、個人が持つだけであれば他に害を及ぼさないため現行のままで問題はないとの意見があります。一方、被写体となる児童の権利を守る観点から、単に持っているだけでも処罰の対象とすべきとの意見があります。
※ 「児童ポルノ」とは、写真、ビデオ、DVDなどであって、次に示す児童の姿を描写したものをいいます。
1 児童による性交等の姿
2 児童の性器を触る姿等であって性欲を興奮・刺激させるもの
3 衣服を着けないか又は衣服の一部を着けない児童の姿であって性欲を興奮・刺激させるもの
この資料に対応する質問と回答数の割合は以下の通り。
Q6 〔回答票21〕児童ポルノを単に持つことも法律で規制することについてどう思いますか。この中から1つだけお答えください。
(69.6)(ア)規制すべきである
(21.3)(イ)どちらかといえば規制すべきである
( 3.5)(ウ)どちらかといえば規制すべきでない
( 1.2)(エ)規制すべきでない
( 4.4) わからない
資料6を読ませて質問するなら、一号、二号定義がある以上「規制すべきだ」と謂う意見を持つ回答者が多いのも頷ける。「児童による性交等の姿」「児童の性器を触る姿等であって性欲を興奮・刺激させるもの」だったら、それが大人によって強制されたものであれば普通の意味では撮影しなくても違法性が高いのであるから、そんなものを記録した画像や映像なんて単純所持も規制したほうが好いだろうと謂う意見を持つ人が多いのも当然である。
少なくとも、健全な市民意識においては「性欲を満たす手段として犯罪の成果物を利用することに罪悪感を感じる」のは自然な感覚であり、他者にもそれを許してはならないと感じる規範意識があるのも当然である。
つまりこの質問の仕方だと、一号、二号定義の児童ポルノの単純所持規制に賛成なら自動的に単純所持規制全体に賛成票を投じざるを得ないわけだが、問題はやはり三号定義のほうで、国際的なコンセンサスのある一号、二号定義の児童ポルノの単純所持規制に投じた賛成票が、そのまま国内ローカル要件である三号ポルノにも適用されることになるわけで、それ以外の選択肢が存在しない。
三号定義まで含めて現行法における児童ポルノの定義として認められている以上、それ自体はおかしなことではないし、調査の不備と指摘するのも少し微妙(現行法が制定されるまでに議論が尽くされているでしょ、国民が理解していないのが無責任なんですよと謂う論理で)だが、この調査手法では三号ポルノと単純所持規制の合わせ技が導き出す矛盾それ自体を国民が許容しているかどうかは決して視て取ることは出来ない。つまり、民意を完全に反映した調査結果と断ずるわけにはいかないのである。
この三号定義は、文字面だけを読めば「衣服を着けないか又は衣服の一部を着けない児童の姿であって性欲を興奮・刺激させるもの」と記述されているのだが、定義である以上「性欲を興奮・刺激させるもの」と謂う条件が客観的に判定可能かどうかは問われない。大多数の国民の意識として、「児童」が全裸または半裸で鑑賞者を性的に興奮・刺激させる「ポルノ」であれば、やはり単純所持も規制したほうが好いだろうと謂う意見に傾くのも、一般的な意識として一種自然なことである。
しかし、再々繰り返している通りその間の事情は逆で、これらの定義は「どんなポルノが児童ポルノか」を定義したものではなく、「どんな表現物が児童ポルノか」を定義したものであり、「この条件に当てはまる表現物が児童ポルノだ」と謂う定義なのだから全裸または半裸の児童の姿が鑑賞者を性的に興奮・刺激させる「ポルノ」などと謂う限定は何処にもない。
全裸または半裸の児童の姿が鑑賞者を性的に興奮・刺激させる「場合がある」と解釈可能ならそれがすなわち「児童ポルノ」なのだと謂うフリーハンドの定義なのだが、この資料だけを読んでそこまで理解して回答した回答者はほぼ皆無に近かったのではないだろうか。そうでないとすれば、九割以上の国民が「自分の子供の全裸写真」や「サンタフェ」の廃棄に賛成していたと謂うことになる。
その意味では「児童ポルノ」と謂う呼称に誤解を招く部分があることは事実で、この問題に対して関心も知識もない人が「児童ポルノ」と謂う文字面だけを視れば、「児童ポルノ」とは「ポルノグラフィ」の下位概念で、したがって「児童ポルノ」の定義には大前提としてそれが「ポルノグラフィ」であることが担保されていると解釈するのが当たり前だろう。
しかし、三号定義がターゲットとしていたのは、実は児ポ法以前の従来的な意味においては「ポルノグラフィ」と明確に認識されていなかった少女ヌードだったわけで、従来的な「ポルノグラフィ」の概念においては、稚ない少女のアート的な口実のヌードがポルノグラフィとして機能する状況が想定されていなかったわけである。
これを再定義する必要性に基づいて制定されたのが三号定義で、この定義が適用可能なものは社会的な認識を超越して「児童ポルノ」と指定可能である。そんなことが意識調査で詳細に説明されるはずがない(説明されていたとしたらご教示を乞う)のであるから、これら三つの定義の中に事実上のフリーハンドが含まれていると謂う認識がないままに、九割以上の人々が一号、二号定義の犯罪性にのみ着目して、三号については「要するにエッチなハダカだろ」「エッチしたりあそこに触るんだから、ハダカだってことだよな」と謂うような認識で単純所持規制に賛意を示した、それが真相だろう。
この例のように、国民の無理解に附け込んだ牽強付会は幾らでもあって、たとえば今現在「自分の子供の全裸写真」を所持している者が逮捕される可能性については、法の過剰適用の矛盾の喩えとして認識している方々も多いと思うが、たとえばアメリカでそれが問題になるのは、アメリカでは遺伝上の親による実子の性的虐待が珍しいことではないからである。よく識られた或るアメリカの「幼女殺害事件」において、実の父親が性的虐待と殺害の容疑を掛けられたことは記憶に新しいだろう。
つまり、日本でも単純所持が違法化されたとして、「自分の子供の全裸写真」を所持した咎で逮捕されることは、実の子供に対して性的虐待を行っていたと謂う嫌疑をも意味するわけであって、法の機械的運用に基づく矛盾には留まらない。「機械的に適用するとこんなおかしなことが起こりますよ」と謂う仮定の問題ではないのである。これはつまり、自分の子供に対する性的虐待と謂う重大な犯罪が、子供の全裸写真の所持と謂う曖昧な間接的基準で立件が可能になると謂うことである。
割合多くの人が、「自分の子供の全裸写真」を所持していた咎で逮捕されても、世間からは「杓子定規な法適用の犠牲者」と視て貰えると思っているかもしれないが、そうではなくて、忌まわしい家庭内性的虐待の加害者として視られる可能性が高いと謂うことである。
たとえば、近所に子供に優しいオジサンがいるとして、それが小児性愛的な動機に基づくものか、性的なニュアンスを伴わない単なる子供好きなのか、その態度だけを視て判定することは困難であるから、法に背くような行動をしない限り逮捕することは出来ない。これが現在の社会通念である。これを「赤の他人なのに子供に優しい」と謂う状況証拠に基づいて逮捕出来て、それが間接的に小児性愛者であることや何らかの性的虐待の存在を暗に示唆するなら、これほど恐ろしいことはないだろう。
「自分の子供の全裸写真」を所持していた咎で逮捕が可能だと謂うのは、それと同じことである。家庭内における性的虐待の加害者が「自分の子供の全裸写真」を所持している可能性はたしかに高いが、論理的に謂って「自分の子供の全裸写真」を所持しているすべての人間が性的虐待の加害者だと謂うことには決してならないし、本邦の現状においてはそうでない可能性のほうが圧倒的に高い。
この不可逆的な理路を事実上逆転可能にすることになるわけであるから、これは決して許されてはならない。たしかにそれによって、外部から容喙困難な性的虐待をもっと容易に罰することが出来る場合もあるだろうが、それは極限られた特殊事例にすぎない。
与党案の主張は、つまりこう謂う場合には「家庭内の性的虐待の加害者が自分の子供の全裸写真を持っている場合にだけ捕まえるから大丈夫だ」と謂う理屈で、これがどう考えてもおかしいことは直観的に理解出来るだろう。じゃあ、性的虐待の事実の立証はどうなるんだと謂う話で、立証されてもいない事柄を基準に違法性が判断されると謂うのは恣意的判断以外の何ものでもないし、またそれが立証可能なら児童ポルノの所持で処罰すべきではなく性的虐待で処罰するのが筋である。
にも関わらずこう謂うことが想定し得ると謂うのであれば、警察が「こいつは性的虐待をしている」と睨んだ人間を、「児童ポルノ」の単純所持によって間接的に家庭内性的虐待者として裁くことが可能になると謂うことである。
性的虐待の事実があるのであれば、飽くまでその事実を立証することで逮捕するのが筋であって、性的虐待の一環として実子の全裸写真を所持していた咎で逮捕する、それを以て実子の性的虐待に対する懲罰に代替させる、と謂うのは、完全に筋違いであり別件逮捕と何処も変わらない。これが通るなら、法治国家としてはすでに終わっていると謂えるだろう。
民主主義にコストが必要だと謂うのは、こう謂う「疑わしきは黒」の手段によって国民の人権を制限することで秩序を維持してはいけないと謂うことで、それが可能ならもっと効率的に秩序維持が可能であったとしても、その手段の採用は許されないと謂うことである。それが許される場合があるとすれば、飽くまで秩序維持が絶対的に困難な危機的状況においてのみであり、それが常態化することは決して許されない。
また、有権者の大多数は自分の子供を持っている親の立場だろうから、児ポ法と謂うのは自分の子供を赤の他人から護る法律だと謂う「誤解」をしていると思うが、少なくとも最も正確な意味では、児童の人権保護と謂うのは親と赤の他人を区別しない理念に基づいているのであり、むしろ児童の周囲の大人を最も警戒する論理の考え方である。
たとえば少女ヌードの問題で謂えば、被写体の少女たちに性的虐待が加えられたと解釈するのであれば、直接の加害者はその少女たちの保護者と謂うことになる。撮影者たちは、何も何処かから少女をさらってきて監禁し、秘密のアジトで撮影したわけではないのである。
保護者と本人の同意に基づいていると謂う建前で、適正な謝礼を支払って、その当時合法だった範囲内で堂々と撮影しているのであるから、この場合少女自身の自己決定能力に疑いがあると謂う理由で犯罪性が生じると謂うのなら、最大の直接加害者は児童の保護者である。
しかし、法の不遡及の原則から考えれば、その当時アート目的として法的に認められていた写真撮影に我が子の出演を認め、それによって報酬を得たことに、どれだけ違法性があると謂うのか。少なくとも、児童エロチカが文化に依存して基準を設定可能なのであれば、その当時アート視されて合法だったメディアで撮影を許すことのみを以て明白な性的虐待と断定することは法律には不可能である。
それが児童虐待であるかないかは、一律に判断可能なことではない。少なくとも、国家権力なんかにそれを決められるものではない。いわんや、赤の他人が得手勝手な想像で何かを言うべきことではない。
●「アジアの子ども」をダシにすな
また、ECPATが散々アピールしているタイやフィリピンにおける少女売春やポルノ撮影に関しても、日本の少女売春の場合とは違って、親が承知で性的サービスに従事させているのであるから、最大の直接加害者はその家族である。
ECPATや日本ユニセフ協会のキャンペーンではそんなことは一言も触れられておらず、買春ツアーに興じる日本人が悪いとか、子供を性的対象と視る風潮が悪いと謂うふうに訴えているが、未成年者の売春において最も重大な責任が親にあるのは当たり前の話である。
日本の場合なら、親の保護後見のコントロールが子供に及んでいないと謂う意味の保護責任になるが、タイやフィリピンにおける問題では、子供の売春を家族の重要な生活手段として親や親族が認めているところに最大の問題がある。アジアの貧困層における性的サービスの問題の本質が貧困にあることは莫迦でも識っていることで、単に性的サービスと謂う生活手段は、どんなに貧乏でも女性の肉体は資本として活用可能だから問題として表出しているだけのことである。
たとえば日本ユニセフ協会のこのページだが、ちょっと視ればどれだけ馬鹿馬鹿しいことが書いてあるかわかるだろう。被害実例として挙げられているフィリピンの実例を視ると…
性産業で働く女の子は、マニラにあるバーで日本人観光客に声をかけられました…
過去に性産業で働いていた女性(Aさん)は16歳のとき、他の数人の女の子と共に売春斡旋業者によって…
性産業で働く15歳の女の子は、彼女の叔母から、家政婦としての働き口を紹介してもらうはずでしたが…
…つか、「子どもポルノ」以前に、未成年者が「性産業」に従事していること自体がおかしいだろ。なんでそこにツッコミを入れないで「児童ポルノ」が最大の問題のような顔が出来るのか、神経を疑う。下段で「調査結果」として問題点を挙げているのだが、普通なら誰でも指摘する「保護者の責任」については、「子どもを守るために最も責任のある立場にいる親や保護者が『子どもポルノ』についてあまり理解していない。」と謂う「無知故の過失責任」と謂わんばかりの表現になっている。
いや、つっこむとこ、そこじゃねーし。
親が納得尽くで子供を性産業に従事させているのに、児童ポルノが最大の深刻な脅威だと謂わんばかりの顔が出来る人権保護団体って、一切信用出来ません。親も本人も納得尽くで性産業で働いているのだとすれば、最大の問題点は性感染症や犯罪被害の脅威であって、児童ポルノがどうしたとかヌルいことを言っている場合ではないだろう。一方で「ストップ!子ども買春キャンペーン」みたいな活動も展開しているくせに、場合によって論点を使い分ける辺りがとても信用出来ない。
調べた限りでは、フィリピン国内では売春行為は年齢を問わず違法なんですが、人権保護団体として、それはスルーなんですか? それとも、何だかよくわかんないけど未成年者が従事しても合法な「性産業」があると謂う意味なんですかね? まあ、それ以前にユニセフってのは児童の人権保護を看板に掲げた団体なんだから、日本ユニセフ協会がアジアの児童の性産業従事をスルーってのは在り得ないでしょう。
日本国内における売春と児童ポルノの関係は、青少年の非行による自発的な売春と謂うものが殆どで、ECPATや協会はこれを「自己被害化」と呼んでいる。或る種これは生活の必要に迫られたものではないから、本質的には青少年の教育の問題であるが、アジアのそれはまったく違う。貧困層の家族の生活を女児が売春によって支えていたりするわけで、貧民の持つ唯一の資本が女性の肉体だと謂うことが最大の問題である。
買う奴がいなくなれば売る奴もいなくなるはずだと謂うのは底の抜けた論理で、買う側の動機よりも売る側の動機が切迫している場合、売り先を換えても何としても売るか、売春以上に違法性の高いことに手を初めるだけの話である。
早い話、女性の肉体を売ることが出来なくなれば、次は犯罪しか残されていない。日本国内においては、買う側を厳しく罰すれば、売る側に切迫した経済的必然性がないのだから、或る程度売る行為を抑止することが出来るが、アジアの場合は貧困が直接の原因なのだから、売春を弾圧すれば治安の深刻な悪化が懸念されるわけである。
これはこれで国際社会が解決を目指すべき大変重大な人権問題である。売春を弾圧すれば犯罪に走るからバランスをとっているなんて状況が許されるもんでもないわけだが、アジアの状況においては児童ポルノがどうこうとか言う以前に未成年者の売春が大きな人権上の問題だと謂うことである。
単に、その状況と日本国内の法改正はまったく因果的な関係性を持たないと謂うだけのことで、寧ろオレには、外国の子供たちの深刻で悲惨な状況を国内における活動推進の口実としてこじつけられる神経のほうが許し難い。協会の連中は、募金で募った善意の浄財をこんなくだらないことに使っているのである。
それ以外にも、日本ユニセフ協会の「子どもポルノの現状と取り組み」の項目にある記事は、事例自体は悲惨な児童の人権問題を扱っているのだが、それが何一つ児ポ法改正と謂う目的性と論理的に結び附いていない。
協会が提唱している「子どもポルノ」と謂うタームは、現行法で規制されている「児童ポルノ」と協会が独自に提唱している「準児童ポルノ」を併せた概念で、ただでさえ三号定義の影響で「子供が映っていれば何でも児童ポルノ」と謂う曖昧な概念に、マンガやアニメ、ゲームなども含めて「子どもの性を『商品』として取引するもの」全般をそう呼称しているのだから、事実上協会が「子どもポルノだ」と謂えば何だってそうなるわけである。
その曖昧窮まる概念を利用して、深刻なレイプ被害や海外における極端な事例などを挙げて「子どもポルノはこんなに悪辣なんですよ」と情緒的に訴えているのだが、これらの主張が現行法で十分カバーされていることはすでに指摘した通りで、改正の要望とはまったく論理的に繋がっていない。
再々指摘している通り、現行法で対象となる「児童ポルノ」については、少女ヌードに関してはすでに新たな生産が根絶され、本邦における児童エロチカと見做すことが出来る少女写真集やビデオのラインと、女子中高生の非行や家庭内の性的虐待が関係する淫行ポルノのようなラインの二種類があって、前者は場合によっては児童ポルノと見做されて摘発を受ける程度で、明白に違法であり国際的に問題となるのは後者であることはすでに語った。
協会のサイトで力瘤を入れて語られているのは、ほぼ後者に類する実例で、国内事例としては家庭内の性的虐待やレイプの被害に伴って写真や映像を撮られた事例の話に終始しているが、誰が視てもそれは現行法で十分摘発可能であり、多くの人が指摘している通り、それが野放しにされているとすれば、法律の不備ではなく取締の怠慢である。
法律を変えなければそれが摘発出来ないとか、法律を改正すればそれを根絶出来るなどと謂う理屈は一切成り立たない。協会が主張する通り、明白な犯罪の映像的記録であるような虐待画像や映像がネット上で野放しになっているのであれば、明らかに現行法においても違法なのに、何故それを取り締まらないのか、納得の行く説明は存在しない。
警察がやっているのは、米国内では合法なサイトを紹介した人間を法解釈を拡大して逮捕するようなことだけで、協会が紹介しているような悲惨な虐待記録の頒布を喰い止めることには何故か消極的なようである。
さらに、協会が主張しているのは何故かそのような虐待映像の頒布や人権被害とは一切関係のないマンガやアニメ、ゲームにまで規制対象を広げることと、三号ポルノまでを含む単純所持規制の実現で、これらはほぼカナダ一国でしか実施されていない。これが児童の人権保護と謂う法理念から、ゼロ・リスクの予防主義思想への転換に繋がると謂う問題点もすでに語った。児童の人権保護を目的に謳う団体が、何故わざわざ現行法の人権保護的な性格を明後日のほうにねじ枉げようとしているのか、大変不可解である。
そして、カナダでだけ何故そのような厳格な規制が実施されているのかと謂えば、前述の通り未成年者に対する性犯罪の発生率が先進国中でも群を抜いて高率で推移していることと、以下のような法理念の特徴があるからである(ウィキより抜粋)。
カナダでは、道徳を堕落させる罪(カナダ刑法典第163条)[234]として、被写体の存在しない創作物が規制の対象とされている。具体的には「(a)事実にせよフィクションにせよ、犯罪の実行を扱うもの(b)犯罪の実行の前後を問わず、事実にせよフィクションにせよ、犯罪の実行に関連するイベントを扱うもの」が「犯罪コミック」として刑事罰の対象とされている。
このカナダの規制は、いわゆるリーガル・モラリズムに立脚したものであるが、ある個人の行為が、たんに道徳的でないことを理由として、その当人のものではない特定の価値観を、外部から法によって国家権力が強制的に実現すべきことを主張するリーガル・モラリズムは、充分な判断能力をもつ個人の自己決定権(ことに精神的自由権)を擁護するリベラリズムとは鋭く対立する[235]。
またリーガル・モラリズムは、不快感情を根拠として他者の自由の制限を求める不快原理[236](ただし不快物非公開の原則は、リベラリズムと調和する)によって助長される[237]ものであるが、弁護士で衆議院議員の枝野幸男は、2008年7月のオープンミーティング[238]で、法と倫理の区別をはかる立場から、不快感情[239]を根拠とした規制が、ポルノグラフィ全般の規制に及ぼされることに危惧を表明している。
つまり、カナダには道徳の維持を目的とした法律があるわけで、或る特定の性道徳を国家が個人に強制しているわけである。これは先進国としては見習うべき法理念ではないだろうし、ここまで極端な法律は民主主義国家には希有である。そして協会の主張がカナダの法律に似ているのは、やはりこの運動が性道徳の強制と謂う本質的な性格を持っているからだろうと推測出来る。
元々この運動はECPATと謂う国際NGOの下位組織である「ECPAT/ストップ子ども買春の会」が提唱したものであるが、国際ECPATと日本のECPATの関係はちょうど国連ユニセフと日本ユニセフ協会のようなもので、密接な連携を持ちながらも別団体として独立に運営されている。
この国内ECPATの共同代表は宮本潤子と謂う人物だが、この人物は「日本キリスト教婦人矯風会、性・人権部幹事」と謂う肩書きを持っている。
つまり、日本のECPATを代表する人物は特定の宗教的倫理観に基づく宗教右派的な組織に所属していて、リンク先で同会の歴史を視て戴ければわかるが、元々こう謂う運動を起こしそうな組織の人間である。そして、ECPATの児童ポルノ関連の主張は、人権保護運動と謂うより基本的に宗教的な性道徳の規範に基づいた矯風活動だと解釈したほうがスッキリ理解出来るわけで、このような法改正が行われなければならない合理的な理路や科学的な根拠がまったく示されていないのは、そのような宗教的倫理観ありきの活動だからではないかと推測することが可能である。
これも再々指摘しているが、「割れ窓理論」や強力効果論には科学的な根拠がないのだし、児童ポルノ規制と未成年者に対する性犯罪の発生率はまったく統計上相関していないのだから、何の根拠もないことを強硬に主張しているわけである。その核心にあるのが特定宗教の倫理観だとすれば、これは重々傍迷惑な話である。
これを何故か宗教的な性格を何も帯びていないはずの日本ユニセフ協会が丸飲みにしていて、アグネス・チャンのようなよくわからない文化人様がオルレアンの乙女のように情緒的で尖鋭な非合理発言を繰り返しているわけである。
●「しかねない」の秤量
それでは、ECPATの性道徳的主張を丸飲みにした日本ユニセフ協会の言い分がどれだけ無根拠かをちょっと視てみよう。
アダルトゲームやアニメ「禁止」 「表現の自由を侵す」と反発
このニュース自体はこの問題を巡る報道の中でとくに重要だと謂うわけではないが、たまたま日本ユニセフ協会のコメントが載っていて、この辺りが標準的な彼らの言い分だろうから例に挙げてみた。
日本ユニセフ協会・広報室の担当者は、「先進7か国(G7)でいえば、日本だけが単純所持を規制しておらず、根絶の取り組みが遅れている」とし、まずは今国会で議論されている「単純所持の禁止」を訴える。同時に、今後も「準児童ポルノ」の違法化や被害者の保護を要望していくという。
先進七カ国と日本で「児童ポルノ」の定義が違う以上、国際的な水準において「根絶の取り組みが遅れている」と一口に言うのであれば、どのような定義における「児童ポルノ」の根絶がどの程度遅れていると謂うのか、実数を挙げて指摘すべきだろう。
外国の水準に倣えと謂う理由で単純所持規制を導入するなら、一号、二号定義のみに適用を絞り、もっと謂えば、一般人の罰則を伴う法改正である以上、諸外国のように刑法上の性的同意年齢を取締対象の基準にすべきはずであるが、その辺はどう謂うわけかツルッと忘れているらしい。ちなみに、日本における性的同意年齢が「一三歳」であることは改めて強調しておく。
自分に都合の好いことだけを言うのなら何だって言えるのだから、体感治安論みたいないい加減なことを言うのではなく、きちんと公平にデータを出すべきである。
前回のエントリの繋がりで謂えば、日本国内では違法な少女のフルヌードが米国内で合法とされていて、ネットを通じて幾らでも日本からアクセス可能なのであれば、根絶の取り組みが遅れているのはアメリカのほうである。しかし、規制推進派でそんなことを言っている人間を視たことがない。
本来なら「我が国では違法視している未成年者のフルヌードが、何故諸外国では野放しにされているのか、G8諸国の児童ポルノ根絶の取り組みは遅れている」とぶち上げても一向差し支えないはず…と謂うか、そうしないと矛盾しているはずである。
三号定義を児童ポルノの中核的な要件と捉えている限り、日本は国際的な水準では最も児童ポルノに厳格な国家であり、先進国の中でそのレベルの厳格さは性道徳を法律で強制する法理念を持つ国以外には視られないのであり、これを一種の文化的不寛容性と視ることも出来るだろう。つまり、一概に褒められたことではないのである。
その意味で、不必要な改正案だった与党案の対案として民主党案を評価するのは、この三号定義の削除を盛り込んでいるからである。少なくとも、三号定義を削除して新たな基準を模索するのであれば、改正するだけの意味はある。
現行法の最大の問題点が三号定義にあることは間違いなく、翻ってそれが単純所持規制の障害となっているのだから、現行法を改正して厳格化するなら、三号定義の削除はマストであり、欲を謂えばアート的なヌード表現も運用解釈の範囲内で慎重に合法化すべきだと謂うのがオレの立場である。成人であれ未成年であれ、人間のハダカがそれだけで性行為を連想させる猥褻物だなんてのは、厳格な宗教国家か野蛮な文化後進国の国民が言うことである。
諸外国から日本では児童ポルノ根絶対策が遅れているとか「児童ポルノ大国」呼ばわりされているのは、まったく合理的根拠のない印象論なのだから、国政を担当する者は国家の威信を賭けて謂われなき非難に毅然として抗議するべきではあっても、御説御尤もと拝聴して盲従すべき理由などは足の小指の爪の先ほどもない。
前出の日本ユニセフ協会の担当者はこうした反論に対し、
「実在しないキャラクターであっても、児童を性的対象として描写すると、結果として実在の子どもが性的対象として見られることにつながりかねない」
そらまあこう謂う言い方をするなら、「つながりかねない」と言う言い方は便利だねと謂う話にしかならんだろう。実際、強力効果論は否定されているとは謂え、それに代わる限定効果論に基づくなら、或る特定の資質を持つ人物に対してポルノ表現が性犯罪の誘因と成り得るわけだから、それがマンガやアニメ、ゲームであろうと「つながりかねない」ことは事実である。
しかし、限定効果論と謂うのは、「限定的に効果がある」と謂うより「限定的な効果しかない」と謂う性格のもので、或る人物が犯罪を犯す場合、環境よりも資質のほうが重大な決定要因であり、そのような資質を持つ者に対しては複数の誘因が影響を与えるのであって、ポルノ表現はその一つでしかない。なので、幾らポルノ表現を取り締まっても犯罪抑止の観点の効果は一切ない。ポルノ表現に接しなくても、別の誘因によって結局犯罪に踏み切ると視られているからである。
ここで、「それでもポルノ表現が原因に成り得るのがたしかなら、排除するに越したことはないじゃないか」と思われる方もおられるだろうが、それは元々の考察の筋道を忘れているのである。ポルノ表現が性犯罪を引き起こすから排除すべきだと謂う筋道で考えているのであるから、これは逆に謂うとポルノ表現を排除することで性犯罪を未然防止する効果があり、ポルノ表現の排除にはポルノが果たしている社会的・文化的機能を超える社会的なメリットがあると謂う前提の話のはずである。
幾らかでも効果があるのであればその可能性をも考慮すべきだろうが、限定効果論に基づくなら、性犯罪に踏み切る人間はポルノ表現を排除しても一切変わりなく犯罪を引き起こすのであるから、ポルノ表現の排除は性犯罪の直接誘因がポルノでなくなるだけの違いをもたらすにすぎず、未然防止にはまったく効果がないことになる。
論点は、「ポルノが僅かでも性犯罪の引き金となることは許されない」と謂う特定の倫理観の問題ではなく、「性犯罪は許し難い犯罪であるから、その未然防止に効果があるのであればポルノ規制も必要である」と謂う問題だったはずである。未然防止に効果がない以上は、ポルノ表現を排除すれば単にポルノが果たしている社会的・文化的な機能が喪失されるだけで、それに見合うだけの社会的なメリットは何もない。
それどころか、「しかねない」レベルの話をするなら、誰でも思い附くのが「ポルノ鑑賞によって穏健な形で処理していた性欲のはけ口がなくなり、現実の対象に欲望が向くことにつながりかねない」と謂う理屈である。その場合、厳格なポルノ狩りと重なる時期に「たまたま」性犯罪が一定の期間増加したら、その理由としてポルノ規制が槍玉に挙がる可能性があるわけである。非常識な人権制限を伴う法律によって逆に犯罪発生率が上がったのだから、これは世紀の愚策として責任を問われることになるわけである。
しかし、またしても卓袱台返しをするなら、この推定にも科学的根拠やその推定を裏付ける統計的なデータは存在しない。要するに、「しかねない」レベルの話はどうとでもこじつけが可能だと謂うことであるから、多くの国民の人権を制限する法案を検討する際に、そのレベルの議論をしていてはいけないと謂うことである。
嘗てはその種の議論が「合理的類推」だった時代があったとしても、今では科学と謂うツールによってさらに高精度で物事の成り行きを予測することが可能なのだから、結論ありきの無根拠な思い込みで重大な政策を検討してはならない。科学的に否定されていると謂うことは、その辺の素人が何となく印象論で考える推測よりは遙かに確実な精度で確からしさが否定されていると謂うことである。
だからこれも欺瞞の強弁なのである。
「児童ポルノ」と謂う特殊な要件を外して謂えば、これは単に特定の性道徳に基づくポルノ撲滅運動と何処も変わりがない。本質的には宗教的性道徳の強制にすぎないものに無理矢理「児童の人権保護」と謂う反論しにくい大義名分を附けているから、支離滅裂で筋の通らない主張になっているのであるが、その実彼らの主張は人権保護とはまったく関係のない方向にねじ曲がっている。
つまり、「つながりかねない」のはたしかだが、それにはまったく法改正を要求する意味がない。そして、この法改正を強行すれば、さまざまな「人権上の問題」が発生「しかねない」ことは多くの人が論じている通りであるから、二つの「しかねない」の間のコスト対効果比のバランスを適当に秤量すれば、日本ユニセフ協会の言い分に耳を貸す必要など一切ないことがわかるだろう。
●それぞれの欺瞞
そしてこのことからわかるのは、日本ユニセフ協会と謂うNGOには、高効率の集金組織としての存在意義を超える組織的権威や見識は存在しないと謂うことで、無根拠な思い込みレベルの理屈で児童の人権保護を嵩に着て国民の権利を弾圧する強硬なロビー活動を行うと謂う反社会的な一面があると謂うことである。
同協会は本質的に集金組織としての性格が強いのであるから、こう謂う不見識な活動を軽率に行うと、その集金活動の目的性の正否まで疑われてしまう。つまり、カネを募る名分として、何か大向こうの耳目を惹く派手な花火を打ち上げたかっただけなんじゃないかと謂う目で視られてしまうだろう。
また、ECPATのほうも、代表の宮本氏が社会通念との穏健な摺り合わせもなく宗教的な情熱で尖鋭な矯風活動を強行すれば、そのバックにある日本キリスト教婦人矯風会の歴史ある宗教慈善団体としての存在意義にも関わるだろうし、児童の人権保護と謂う美しい旗標も泣こうと謂うものである。
動機が宗教的倫理観であることそれ自体は、別段問題ではない。単に、それを国政レベルに反映させるのであれば、多くの人々が納得可能な合理的理路と科学的根拠、統計的データを提示するのが筋だと謂うことである。特定宗教の倫理観と謂うのは、特定個人が採り得る個人的規範の一つにすぎないのだから、それを赤の他人に無根拠に圧し附けるのでは、犯罪的新宗教と何処が違うのかと謂う話になるだろう。
元々宗教と謂うのは不寛容なものではあるのだろうが、外来の宗教関係者が国民の内心の自由を侵害するようなアイディアを情熱的に推進するのは如何なものか。信教の自由と謂うのは、まさしく内心の自由と理念的根拠を共有しているのであるから、それを迫害の歴史を持つ宗教の関係者が弾圧すると謂うのは笑えないギャグである。
また、日本ユニセフ協会大使(「ユニセフ親善大使」とか間違って紹介するなよ)のアグネス・チャンと謂う人物も沙汰の限りの不見識な愚物で、「アグネス・チャン」と謂う芸名が背負っているのは、一七歳で日本デビューした香港生まれの中国人アイドルとしての知名度であって、それは要するにミニスカートに白いハイソックス、甲高い声に舌足らずな片言の日本語と謂う、何処からどう視ても少女性と清楚なエロスを強調した売り方で獲得したものである。
彼女が主張するように、一八歳未満の未成年者の水着に性的興奮を覚えることすら犯罪的だと謂うのであれば、そのような犯罪的な手段で獲得した知名度に載っかってこれまで裕福に生活してきたわけであるから、現在のような感情的で非合理な主張を声高に叫ぶのであれば、デビュー当時の自分の男性ファンは軒並み未成年者に対する性的搾取の加害者だと糾弾してからにしてもらいたい。
彼らの不潔な犯罪的視線に曝されて、過去の自分は耐え難い精神的苦痛を覚え、性的な虐待を受けたのだ、そして、自分をそのように売ったプロデュースサイドもまた、未成年者に対する性的関心を商品として扱う犯罪的な産業従事者である…つまり、普通の常識的な意味では彼女が今日在る為の礎を築き、恩恵を施した多くの恩人たちを性的搾取の加害者としてちゃんと糾弾して戴きたいものである。
その程度の生き様や信念の整合もとれない人物が、思い附きで国政を動かして多くの国民の人生に影響を与えようなどと大それたことを考えてくださるな。イギリスにおける児童ポルノの一斉摘発作戦では多数の冤罪被害が発生し、生活を破壊された人々が何十人も自殺しているのである。そして、それだけ多くの犠牲を出しながら徹底された単純所持規制の努力を嘲笑うかのように、イギリスにおける未成年者に対する性犯罪の発生率には目立った変化がない。
翻って本邦のかなり頼りない警察力の在り方を鑑みるに、同様の混乱が起こらないとは誰にも言えないのだし、そこで無辜の人命が幾許か失われたとしたら、この運動を推進した人々は遺された子供たちにどんな顔をするつもりでいるのか。
それが世界を変える為のやむを得ない犠牲なのだと考えるなら、今現在も自分の思い通りに世界を変えようとしている人々が世界中で多くの「必要な犠牲」を出し続けているのであり、ユニセフが相手取っている世界の子供たちの悲惨な状況は、その種の不寛容さが絶え間なく生み出し続ける「必要な犠牲」の落とし子なのであるから、そのような不寛容な人々と何処が違うのかと謂うことになる。
このように、この法改正を推進する主体となっている人々は一人残らず非合理な欺瞞を強弁しているわけで、児童の人権保護と謂う反撥しにくい錦旗を掲げて、私的な情熱や自己の権益拡大を、多くの国民の犠牲なんか識ったことではない身勝手な態度でごり押ししているわけである。
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コメント
一応、念の為に補足。
現時点における三号ポルノの違法性については、非常に適用基準が曖昧であることは再三強調しているが、山本弘さんの「あなたの知らない児童ポルノの真実」と謂うページでは、「実は今でも少女ヌードの一部は合法なのではないか」と謂う疑問が提示されている。
たしかに当該ページで例に挙げられている作品は現在でもアマゾンで購入可能だし、イオネスコと並んで有名なデヴィッド・ハミルトンやジャック・スタージェスの作品も同様である。ただ、度々触れた清岡純子をはじめ、国内の写真家の作品群が次々と児童ポルノと認定され、国会図書館での閲覧も禁じられていることは事実である。
おそらく、海外の写真家の作品については、当該国において児童エロチカとして芸術性を認定されていることから、国内で販売する際にも「猥褻か芸術か」と謂うような議論にはなりにくい。と謂うか、国内の流通時点ですでに「芸術」のお墨付きが附いているわけで、逆にこれを取締対象に指定することが国際的な軋轢を生むのではないかと謂う懸念から曖昧に胡麻化しているのではないかと思う。
山本さんが挙げている「少女アリス」については、たしかに国内の作品でも芸術性の高い写真集なら許容可能であると謂う原理的な可能性を示しているわけだが、これはつまり「モデルが外国人であり、人権被害が想定出来ない」と謂う理由に基づくものかもしれない。現行法が人権保護の観点で制定され運用されていることはすでに説明したが、その観点で謂えば、外国人がモデルであり見るからに芸術性が高そうな写真集であれば或る程度許容範囲だと謂うことかもしれない。
しかし、おそらく日本人がモデルの作品については、基本的には頒布を認めない方針なのではないかと思う。芸術か否かと謂う観点で謂えば、清岡純子は一種の名士であり文化人であるから、猥褻性の観点で彼女の作品が抹殺されたとは考えにくい。「芸術か猥褻か」と謂うのは、所詮は社会の認知の問題に過ぎないのだが、作品の大半が日本人モデルを対象としたものであったと謂うことが、おそらく人権保護の観点で抵触したのだろう。そこに捜査の恣意性があるわけだが、罷り間違って三号規定の削除が通れば将来的にどうなるか、そこは現時点ではわからない。
ちなみに、国内における少女ヌード撮影の実態については、力武靖の姿勢などが参考になるのではないかと思う。
日本ユニセフ協会やECPATなどが、当時のモデルの少女たちにどれだけ聴き取り調査を行っているのか、大変疑問に感じる。個人的には、嘗ての少女ヌード写真集のモデルたちを最も痍附けたのは、撮影時の性的羞恥とかではなく寧ろ「児童ポルノ認定」の無神経さ、そして「ポルノ出演者」のレッテル貼りや迫害だったと考えているのだが、これも彼女たちの直接の声を聞いたわけではないから、想像の域を出ない話ではある。
投稿: 黒猫亭 | 2009年7月12日 (日曜日) 午後 01時26分