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2009年7月18日 (土曜日)

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或る程度エントリ数が纏まったので、「児童ポルノ」のカテゴリを追加した。

今国会での成立は見送られたものの、どうせまた暫くすれば再浮上してくる問題だろうから、そのときになって過去エントリを探すのも面倒なので(笑)。

改めて一連のエントリを総括するなら、オレが漠然とこの改正の動きに感じていた不快感の正体とは、「国家が個人の心性の在り方を裁く」ことへの反撥だったと謂うことがはっきりしたと思う。国家や法が裁くことが可能なのは社会的な行為のみであって、個人の内面ではない。喉から手が出るほどカネが欲しいと欲することと、カネを盗むこととはまったく意味が違うのであって、法が裁けるのは後者のみである。

これは葉梨議員が口にした「ペドファイルとの戦い」と謂うスローガンで改めて意識されたことであるが、三号ポルノと単純所持規制の合わせ技が意味しているのは、本来権力が立ち入ってはならないはずの個人の内面への容喙であることが、他ならぬ法改正の推進者の口から明言されたことになる。

これによって明らかになったのは、たとえば現行法における三号定義が被写体となった未成年者の蒙る人権被害を防止する観点から定められているのに対し、ECPATや日本ユニセフ協会、そしてその動きに乗じた与党の規制推進派は、これを個人の心性を裁く基準として拡大しようとしていると謂うことである。

誰一人被害者が存在しなくても、或る個人が児童に対して性欲や性的関心を抱くことそれ自体を違法化しようとする運動だと謂うことである。そんなことを実施している国家など、G8諸国の中ではカナダくらいしか存在しないし、それに対しては先進諸国の間でも批判が多いくらいであって、決して先進国家間の趨勢でも国際的なスタンダードでもないのである。そう謂う意味でも、規制推進派の主張には活動の方便としての許容範囲を遙かに逸脱した数多くの非合理な欺瞞があるのであり、考慮に値する根拠は何一つ提示出来ていない。

ただ、今回の改正の動きについては、野党側の対案に視るべきものがあって、たとえば三号定義の削除による定義の明確化は、現行法の具える制定当時の社会状況に対応する為の急場凌ぎの側面への手当として「改正」の名に値する提案であったと思う。既述の通り、オレ個人としては、現状の形なら今国会で成立していたとしても、根本的な問題は改善されていたと解釈している。

ECPATや日本ユニセフ協会等の「グリーンピースレベルの反社会的な圧力団体」の横車や、強権的な犯罪予防主義者の思惑に乗じられない為にも、表現規制反対の観点からの法改正を訴えていくと謂う方向性もアリだろうと謂うのが現時点での結論である。

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