危なすぎた橋
最悪の状況は脱したとは謂え、ブラウニング中将に倣って「そう…あの橋は少し危なすぎましたな」とでも言いたい気分である。今更騒いでも審議の成り行きには一ミリの影響もないわけで、つくづく昨年の時点できちんと考えを詰めきれなかった自身の怠慢が悔やまれる。
いや、オレが何か言ったところで与論に対する影響なんかこれっぱかりもなかったとは思うが、やはり「不作為の責任」と謂うものがあるんじゃないかと思う。「この野郎、土壇場の今頃になってキョドってやがるぜ」とお嗤いくだされても結構、これはやはりネットで聞いたふうな高言を弄する者の一人として後生一生の痛恨事である。
その悔恨序でに、今朝の一報を受けて繰り言をもう少し。
昨日の「欺瞞の野合」と謂うエントリで、オレは以下のように書いた。
じゃあ、性的虐待の事実の立証はどうなるんだと謂う話で、立証されてもいない事柄を基準に違法性が判断されると謂うのは恣意的判断以外の何ものでもないし、またそれが立証可能なら児童ポルノの所持で処罰すべきではなく性的虐待で処罰するのが筋である。
この理路については、自分でも少し詰め切れていないと謂うか、本筋を衝いていないのではないかと謂う自覚があったのだが、いろいろ考えてみると、一つには「併合罪による厳罰化」と謂う考え方が在り得るだろう。この場合に、たとえば自分の子供を性的に虐待して、さらにそれを写真やビデオに撮って所持していたような場合であれば、それぞれ単独の犯罪よりも重罰を科すことが出来るようになる。
そのような場合には、性的虐待の事実を立証した上で児童ポルノの単純所持についても立証すると謂うことが考えられるから満更無意味でもないと謂うことになるが、そう考えたとしても、児童ポルノの単純所持それ自体で処罰することが出来ると謂う事実には変わりがない。
筋道を整理して考えると、併合罪による厳罰化と謂うのは、性的虐待を罰する場面において、児童ポルノの所持を犯罪とすることでもっと重い量刑を科すことが出来ると謂うメリットがあると謂うことである。
しかし、この場合に必ず性的虐待とセットで運用するなどと謂う客観的規定は何処にも存在しないのだし、そもそも性的虐待が必ずセットなら、別の犯罪を規定することで厳罰化するのではなく、性的虐待自体を厳罰化するのが筋である。
児童ポルノの単純所持規制と謂うのは、本筋の意味においては性的な欲望を満たす為に児童ポルノを所持することを罰すると謂う主旨であるから、性的虐待を罰するオマケとしてではなく、それ単独で罪を問うことの是非を考える必要がある。
本邦の実情では物凄く考えにくい例えだが、たとえば実の親が性的虐待を伴わない我が子のヌード写真や映像、つまり入浴場面とか砂浜や公園でハダカで戯れているようなものを所持している場合に、もしもそれに性的な興奮を覚えたとしたら、それを単独で罰する必要があるのか、もしくは罰することが許されるのかと謂う観点の問題である。
性的虐待を伴うのであれば、これは簡単である。その種の欲望を実行為によって満たしているわけであるから、これは何らかの形で処罰する必要もあるしそれを処罰することは原理的に許されている。しかし、性的虐待を伴わないヌードを所持していてそれに性的興奮を覚えると謂う状況においては、行為ではなくその内心を法律が裁くことになるのである。
たとえばこれが、子供が厭がっているのに無理矢理撮影されたものであれば、それは一種の性的虐待と謂えるだろうから、型通り性的虐待で処罰すれば好い。しかし、表面上は単に平凡な「家族のスナップ」として撮影されていて、子供の側にも無理強いされた自覚がないのであればどうか。
これは親の側が飽くまで自分の内心の性欲の在り方を周囲に漏らさないと謂う特殊な状況の想定になるわけだが、児童ポルノ、就中三号ポルノの単純所持を規制すべきか否かと謂うことを考える場合には、法律の原理的な核心を考察する必要があるのだから、そう謂う特殊な状況を想定する必要があるだろう。
親の側にそのような欲望が存在することが自他に明確で、その前提で我が子の全裸乃至半裸の撮影を強要乃至強行するなら、これは立派な性的虐待乃至盗撮である。しかし児童ポルノの単純所持を独立した犯罪として規定することの可否を考える場合、性的虐待と謂う別の犯罪を完全に切り離して、それ単独で視た場合に犯罪視することが可能なのかと謂う原理的なモデルを考察する必要がある。
つまり、我が子の全裸や半裸をスナップとして撮影する際には性的な動機がなく、それを閲覧する際に性的な興奮を引き起こされた、と謂うようなモデルである。この場合、性的な興奮を引き起こされた時点で犯罪性が発生するのか、その時点で「家族のスナップ」は「児童ポルノ」に変容するのか、と謂えばそうではないだろう。撮影時と閲覧時における個人の内心の変容によって対象物の法的性格が変容する、などと謂うわけのわからない恣意的な法的定義は在り得ないだろう。
そんなことは傍目には判断出来ないから一律禁止してしまえ、と謂うのは最早合理的な法理念ではない。この問題には、国家権力が個人の内面に介入することが許されるのかどうかと謂う大きな原理的問題があるのである。
我が子の全裸乃至半裸の図画を所持すると謂う行為は、行為自体ではなく内心によってその意味が大きく変わるのだが、誤解をおそれずに謂えば、この想定において行為の意味が変わったとしても、それは飽くまで個人の倫理の問題であって法律が裁くべき問題ではないと謂うことである。
客観的に内心を判断することが困難だから行為を一律禁止すると謂うのは、権力の暴走以外の何ものでもないし、これは結局行為ではなく内心「のみ」を裁いていることになるだろう。行為とは独立して内心のみを裁くことが法律に許されるのか、これが最大の原理的な問題である。
児童に対する内心の欲望が行為として表出した場合にこれを罰する法律は、児童ポルノ法以外にも幾らでも効果的に整備されているのである。にもかかわらず、現状で十分対処可能な目的を実現する為に内心を裁く法律を制定すると謂うのは、完全に個人の内面への不当な権力の介入であり、予防主義的な人権侵害である。これを政府与党は当たり前のことのように熱心に推進しているわけである。
まあ、この一文は昨日のエントリに対する自己レスとして、与野党による原案一本化の一報を耳にする以前に漫然と書き始めたのだから、今更そんなことを考えることに意味はないようにも思えるが、日本の社会がどれだけ危ない瀬戸際にあったのかを考える意味では或る程度意義があるだろう。
さらに、今朝の一報の時点では、「法の不遡及の原則」を遵守すべきだと謂う野党側の主張に対して与党側は頑なに抵抗しているのであるから、定義の明確化が為されたとは謂え、法理念の大原則を蹂躙する条項に飽くまで固執していると謂うことで、依然として危機的な状況にあることは否定出来ない。
この「法の不遡及の原則」と謂うのは、新たに制定された法律は施行以前に遡って適用されないと謂う「法律の基本的なルール」で、この原則が遵守されなければ、合法的だと謂う前提で行われた行為を遡って処罰することが可能になってしまう。
これでは国民の遵法意識において維持されている社会秩序が成立せず、国家権力による一方的な権利侵害が罷り通ってしまうだろうから、新しい法律は制定された後の行為にしか適用されないわけなのであるが、与党側の単純所持規制案はこの原則を大胆に侵犯しているのである。
「所持」と謂う現在只今の行為を規制する法案に見せ掛けてはいるが、或る私有財産は法律施行の時点で何処からか降って湧いたわけではなく、過去の時点において法的に正当な手段によって獲得され占有されたものである。
従って現時点における「所持」を違法化すると謂うことは、過去の時点における入手と占有の法的正当性を法施行の時点から遡って否定すると謂うことで、原理的な意味では法の遡及的適用に該当するはずである。このような法案の安易な成立は、普通の意味では決して許されない。無闇矢鱈に法の遡及的適用が可能で私有財産の放棄を命じることが出来るのなら、そんな国家で安心して経済活動を行うことなど出来ない。
この原則の例外としては、たとえば銃器や麻薬・覚醒剤などの所持が挙げられるが、これは対象物の社会秩序に対する重大な脅威に鑑みて、国民が原則的な総意に基づいてその権利の放棄に同意したと謂うふうに解釈が可能だろう。
以前に挙げたリンク先の動画では、葉梨議員が「児童ポルノは銃器や麻薬・覚醒剤などと同様で違法な目的以外には存在し得ない」と強弁していたわけである。これは一号、二号定義に関しては犯罪の成果物であることが明確であるから一理あるが、少なくとも三号定義には適用不能な論理である。
これは前述のように、個人の内心の変容によって「家族のスナップ」であったり「児童ポルノ」であったりと意味が変容するような三号定義の曖昧さを考えれば、「違法な目的以外には存在し得ない」と断ずることには論理的に無理がある。
三号ポルノが違法なのはまさに児ポ法が存在するからであって、同法の埒内で違法だからと謂って同法改訂の議論において「違法な目的以外には存在し得ない」と強弁するのは循環論理である。「この法律で違法と規定されているから違法な目的以外で存在し得ない」と謂うのは、同法内部にしか違法性の根拠がないので、根拠を相持ちしているわけである。
そして葉梨議員自身が、「性的虐待との戦い」でも「児童の人権侵害との戦い」でもなく「ペドファイルとの戦い」と何度も主張しているのであるから、「ペドファイルとして何をするか」ではなく「ペドファイルであるかないか」と謂う基準で、国民の内心を裁く目的で国民の権利を制限すると主張しているわけで、これは権力の横暴にも程があると謂えるだろう。
これが通るなら、嘗ての共産主義国家や軍事独裁国家と同レベルの警察国家と呼ばれても仕方がない。それを警察官僚出身の議員が口にするのだから、剰りにも底意が見え透いていて寒気がする。
葉梨議員の「一年の移行期間がありますから、児童ポルノと疑われるものはすべて廃棄してください」と謂う主張を聴いて強い違和感を覚えた方も多いだろうが、何故違和感を覚えるのかと謂えば、懲役等の罰則を伴って国民に私有財産の廃棄を命じる法律の施行と謂うのは、少なくとも現在存命の大多数の人々は経験がないからである。
大多数の国民は、生まれたときにはすでに銃器や麻薬・覚醒剤の所持が禁止されていたのであるから、現在所持しているとすれば、それは確実に「入手」と謂う違法なプロセスを経ているわけである。
常識的に考えて薬物なら公示から施行までの移行期間中に消費されるわけで、実質的には新法施行後所持が禁じられると認識していながら公示以降に入手した薬物の所持でパクられているわけであるから、世代間でそれほど実感に違いはないが、銃刀法が施行される前から銃器を所持していたと謂う世代の人間が滅びつつある以上、単純所持が違法であると謂うことと入手が違法であると謂うことの違いを実感的な記憶として持っている国民は殆どいない。
与党案がそのまま通っていれば、おそらく現在の世代の人々が初めて経験する合法的に獲得した財産の放棄を命じる法律と謂うことになるだろう。これが如何に異常なことかを、大多数の国民はそんなに理解していなかったのではないか。
それが銃器や麻薬なら軍人上がりや暴力団や薬物中毒者だけの限定的な問題だが、当初の与党案では「サンタフェ」レベルでも「例外ではない」と謂うことだったのだから、全国民に波及する大規模な問題で、一口で謂って沙汰の限りである。
そして、今朝の時点でも法の不遡及の原則を遵守すると謂う「当たり前のこと」に与党内で根強い抵抗があると謂うのであるから、この政党内の立法感覚や遵法意識は一体全体どうなっているんだと謂う深甚な不信感を喚起する。
オレは別段民主党支持者ではないが、ことこの問題に限っては民主党はかなりまともな主張を展開している(まあ、後攻めの優位と謂うのもあるだろうが)と思うので、この一条に関しても譲ることなく主張を維持して欲しいと思う。別段今国会でこの法案を通さねばならない必然性など国民視点では一切ないのであるから、そこを譲らなかった為に土壇場で物別れに終わったとしても、少なくとも妥協するよりは国民の支持を得られるのではないかと思う。
とりあえず、解散総選挙があれば、うさぎ林檎さんの御父君ではないが共産党にでも入れようかと思っていたのだが、自民党が下野しないと真剣にヤヴァいような気がしてきたので、民主党にはまったく期待していないものの自民下野への意思表示の為だけでも民主党に投票しようかと思う。これはもう、緊急避難的な「自衛策」である。
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コメント
お邪魔します。
>それが銃器や麻薬なら軍人上がりや暴力団や薬物中毒者だけの限定的な問題だ
旧銃刀法の摘発の際の「8マン事件」などはご存じないでしょうか?
コレクションなどとして、それまで特別な規制が無く所持していたものに対して、有名人を狙い撃ちして摘発がありました。
確かその際も、個人の財産を破棄するようにされていたはずです。
現在の「改正」銃刀法でも、これまでは所持そのものは認められていたナイフ類の廃棄を強制されているはずです。
この国で法律を作って規制する側には、
個人資産の保護という感覚は希薄だと思われます。
投稿: shunsoku | 2009年7月13日 (月曜日) 午後 08時45分
>shunsokuさん
>>旧銃刀法の摘発の際の「8マン事件」などはご存じないでしょうか?
>>コレクションなどとして、それまで特別な規制が無く所持していたものに対して、有名人を狙い撃ちして摘発がありました。
いや、よく存じております。若かりし頃の恥ずかしい想い出として、高校時代には平井和正の愛読者でしたから(笑)、彼が怨念を込めて回顧する「8マンの作者、銃器所持で逮捕さる」と謂う事件はよく存じておりますが、法理念を論ずる際には枝葉のことだと考えている次第です。
これは「8マン」の作画を担当していた当時の一流マンガ家である桑田次郎が短銃の不法所持で逮捕されたと謂う事件ですよね。作画担当者の不祥事とはまったく無関係な原作者の平井和正までが「8マンの作者」と謂う報道で十把一絡げの誤解を蒙り、執筆依頼が激減して長らく冷や飯を喰わされたと恨み言をネチネチ書いていたのを覚えております。
たとえば麻薬・覚醒剤所持でも、淫行条例違反でも、それどころか「酒を呑んで公園で全裸になって騒ぐ」と謂う軽犯罪レベルの非行に関しても、著名文化人や芸能人が一罰百戒の「見せしめ」のターゲットにされるのは毎度のことですが、それは別段、それらの法律が著名文化人や芸能人の非行を取り締まる目的で設定されたことを意味するわけではないでしょう。
桑田次郎の逮捕も、彼が著名人だったから見せしめにされただけで、それはshunsokuさんも「有名人を狙い撃ち」と表現されている以上、取締側の底意を見通しておられるわけですよね。しかし、銃刀法と謂うのは基本的に社会秩序の安全性を維持する目的で運営されています。元々は進駐軍による武装解除の一環だったわけですし、それが戦後の混乱期に暴力団が台頭するに連れてヤミの武器流通を取り締まる目的にシフトしたわけで、基本的には「銃器や刀剣類を本来の目的に使おうとする対象」を取り締まる為の法律です。
ただ、銃器と謂うのは生命を殺傷する目的以外は考えられませんが、仰る通り刀剣類の取締については「どこから殺傷目的の対象物と見做すべきか」について恣意的な判断が罷り通っていることはたしかです。そこに児ポ法と同様の「取締の都合論」があると謂うのは共通していますね。
ナイフ類についても、「それを使用した事件が起きた」と謂う根拠で安易に取締対象に含められてしまうことはたしかですが、優れたナイフにはたしかに対人殺傷能力が潜在するので、その辺は判断の難しいところです。
ただまあ、個人的な意見としては、趣味の領域とは謂え「対人殺傷行為を機能的に行うように設計された刀剣類」が、安易に流通するのはたしかに望ましくないだろうとは思います。たとえばバタフライナイフなんてのは、そもそもあれは一種のコンシールウェポンですから、それが簡単に買えると謂うことには問題があるでしょう。サバイバルナイフなんかも、名称通りサバイバル用途もありますけど、その「サバイバル」には敵兵との近接格闘が最も大きな意味として内包されていますよね。
ただ、じゃあ大型狩猟用ナイフなんてのはどうなるんだと謂うお話ですよね。その辺に関しては、スイスアーミーナイフの取締なんてのが端的に顕れていて、警察の取締基準としては、キャンプや渓流釣りに行くわけでもないのに大型のスイスアーミーナイフを日常的に携帯していればパクる要件となると謂うもので、これもかなり微妙な運用基準ではありますね。これは優れたナイフは用途を間違えるとかなり危険な武器と成り得ると謂う多義性故の難しい問題だと思います。
ナイフ類が銃器とは違うのは、「ナイフ」類を一掃したところで、対人殺傷能力を持つ刃物自体を一掃することは不可能なのだから、結果的に著しい効果はないと謂う部分ですね。包丁類もプロユースの柳刃包丁や牛刀、マグロの解体に用いるような大型包丁はもとより、普通の文化包丁でも十分人は殺せるわけですから、それらの刃物類も実は銃刀法で結構厳しく持ち運びなどを制限されているわけですね。
しかし、たとえば牡蠣の殻向きナイフや蜂蜜採取用のナイフの一部が取締の対象となると謂うのも、どうも微妙と謂うより明確に踏み外しているように感じます。この辺については「道具を排除することで特定の用途に対する使用を抑制することに実質的な意味があるのか」と謂うことを突っ込んで考えると長くなりますし、議論の本筋とは違いますのでこの辺でご容赦を。
>>この国で法律を作って規制する側には、
>>個人資産の保護という感覚は希薄だと思われます。
ただそこは、たしかに公益との兼ね合いの問題ではあるのですよね。国民の理解を得て法が制定される限り、財産権の侵害は、財産権の限定放棄とも見做し得るわけですからそこが悩ましいわけです。
児ポ法についても、反社会性の高いポルノグラフィの単純所持を禁じると謂うだけであれば、それはたしかに理解の範疇ですし、国民のコンセンサスも得られていると思うんですが、問題は取締側に有利なことだけを考えて基準を設定されると徒に国民の財産権を侵害する結果に終わるし、それ自体法の大原則を無視しているのですから当たり前のような顔をしてごり押しされても困ると謂うことですね。
投稿: 黒猫亭 | 2009年7月14日 (火曜日) 午後 07時33分