Do you know MSG?
前回のラーメンのエントリでは、コメント欄で多々収穫があって、化調問題に関してこれまでよりも考えが煮詰まってきたように感じた。一番大きな認識の変化として、オレはこれまで「美味しんぼ」の流れを汲む化調忌避の傾向がラーメン業界に浸透すれば、必然的にラーメンのバリエーションの中に高級食志向の一派が生じてくると考えていたのであるが、おそらくそうはならないだろうと考えるに至った。
そのように考えていた根拠として、美味しんぼの化調批判は「真正な食品」「至高の美味」を追求する思想とワンセットのものであり、化調忌避だけを独立して切り出すのは片手落ちだろう、ならば化調を排除する正当性を持つ料理としての在るべき姿である高級食への道を歩み出すしかないだろう、と考えていた。
しかし、いろいろな方から情報を得て突き詰めて考えていくと、どうやら化調問題と謂うのは、そのような食に対する求道的思想の派生物ではなく、独特の背景と経緯を持つ独立した問題と捉えたほうが妥当ではないかと思えるようになった。もっと言うなら、美味しんぼに代表される化調批判の論旨は誤解と偏見の賜物であって、求道思想とは何ら関係ない、寧ろ逆行する言説ではないかとすら考えている。
まず、どらねこさんの裏ブログ「不良猫の暗黒面」から少し引用させて戴く。ちょっとだけ遠い過去(笑)のどらねこ少年が、好奇心からうまみ調味料を直に舐めてみてヒドイ目に遭うと謂う、窮めてほのぼのした昔話の一節である。
どらねこ少年は手のひらにパラリとやって口に持って行ったのですね。
まぁ、この文を読んでくださる方には予想通りなのでしょうが、アホ少年の予想を大きく裏切りトンデモない味がしたのですよ。『べにゃぁ〜』と口に広がり、しつこく残るいやあな後味。何度も口をすすぎましたよ、でもとれない。そのまま食すものではありませんのでそんなの当たり前です。しかし、少年にある種の偏見を植え付けるには十分な出来事であったと推察されます。
これは前回のコメント欄で語ったように、オレの母親も同様の経験をしているが、その後も別段の変わりもなくうまみ調味料を普通に使用して料理をしていた。実はオレも割合最近、うまみ調味料を直に舐めてみた経験がある。それは母親から「物凄く不味かった」と聞かされていたからこそ、逆に「どのくらい不味いのか」を確かめる為に極少量だけ舐めてみたわけである。
そりゃもう、誰が舐めても、不味いものは不味い(笑)。
どらねこさんはハイミーを舐めたと仰っているが、ウチの母親はたしか味の素だったと思うのでオレが試してみたのも味の素である。まあ、前回説明した通り、味の素とハイミーの違いはイノシン酸ナトリウムやグアニル酸ナトリウムなどの核酸系うまみ成分の含有量の違いのみであり、これはどちらも一割以下の含有量なので、大部分がグルタミン酸ナトリウムであることに違いはない。したがって、この舌に触れた途端に拡がるいや〜な味の正体は、おそらくグルタミン酸ナトリウム(MSG)と視て間違いない。
前回、moharizaさんへのレスで「何故そんなに不味いのかわからない」と謂うふうに書いたが、それはつまりMSGは普通の食塩のように大量に舐めたからと謂って「鹹すぎる」と感じるようなことはないと聞いているからである。ウィキの「グルタミン酸ナトリウム」の項目の記述によると、
ただし、グルタミン酸ナトリウムの性質として、味覚から過剰摂取を感知できないという問題がある。通常、塩などの調味料は投入過剰状態になると「辛すぎる」状態となり食べることができないが、グルタミン酸ナトリウムはある程度の分量を超えると味覚の感受性が飽和状態になり、同じような味に感じるため、食べすぎに気づきにくく、また飲食店も過剰投入してしまいがちである。その結果、調味料としての通常の使用では考えられない分量のグルタミン酸ナトリウムを摂取してしまう場合があり、注意が必要である。[3]グルタミン酸ナトリウムのうまみは耳かき一杯程度で十分感じることができる。
つまり、MSGの最大の特徴として、少量でも十分うまみを感じるし、大量に入れてもまったく感じ方が変わらないので、入っているか入っていないかの二分法になると謂うことが挙げられるだろう。これは、前回のコメント欄で摂津国人さんが「少量のダシ昆布でかなり大量のダシがとれる」と謂うふうに仰っていたことと符合する。
これは、MSG独特の特徴で、たとえば前回のコメント欄でもうさぎ林檎さんから和食における鰹ダシの話題が出たが、イノシン酸ナトリウムは大量に使用すればするほど強いうまみを感じるのだから、MSGとは性格が違う。前回掲示した味の素のQAでハイミーのほうが少量でうまみやコクを増すことが出来ると書いてあったのは、量が関係してくる核酸系うまみ成分が三倍に増量されているからだと考えられる。
ならば、飲食店などでうまみ調味料を過剰に投入するのはまったく無意味だと謂うことで、MSGのうまみは極少量でも感じ取れると謂うことなのであるから、大勝軒のオヤジの「二刀流」も果たして適切な分量なのかと謂う疑問は残るのだが、これはもしかしたら、MSG自体は幾ら入れても同じ味になるから投入量自体は関係ないが、二・五%配合されている核酸系のうまみ成分の量が関係するのかもしれない。
つまり、味の素をどれだけ入れるか、と謂う問題は、核酸系のうまみをどの程度求めるかによって決まってきて、量を増やしても味覚に反映されないMSGは必ず余分に入れることになると謂うことかもしれない。如何にプロの調理人でも、自分がMSGのうまみを求めているのか核酸系のうまみを求めているのか、一々意識せずに「うま調」として包括的に認識していると謂うことなのかもしれない。MSGのうまみは一定量で頭打ちになるのだから、投入量の味加減は核酸系のうまみの度合いを基準にして確かめていることになる。
だったら、最初からハイミーを使っていれば原価的にもそちらのほうがお得(価格は二倍強だが核酸系のうまみ成分が三倍強に増量されているので、味覚に反映されない余分なMSGの分量も相殺すればかなり割安な計算である)だと謂うことになるだろう。そうすると、飲食産業におけるMSG使用総量を低減するには、味の素ではなくハイミーを使えば好いと謂うことで、それが結果的には経済的なのだから、製造者にとっても消費者にとってもウィン・ウィンの選択肢だと謂うことになるなぁ(笑)。
とまれ、食塩ならそのまま舐めた場合は「鹹すぎる」と感じるだろうが、ウィキの記述を読む限りでは、MSGをそのまま舐めても、すぐに感受性が飽和して「味が濃すぎて気持ち悪い」とは感じないはずである。だから、味の素を直に舐めるとなんであんなに気持ち悪いのか、ちょっと理由がわからないわけだが、どうもどらねこさんの記述やオレの経験から謂うと、量や濃度の問題ではないような気がする。
どらねこさんにしろオレにしろ、大量に一掴み口に入れたわけではなく、極少量をそのまま舐めただけである。一応註釈しておくと、ウチの母親は欲張ってガッツリ一掴み口に入れたので大変な目に遭っているが(笑)、これは実は笑い事ではなく、ウィキによると、通常の使用レベルならMSGに健康上の問題はないが、非常識レベルの大量摂取で急性中毒に似た症状が確認された事例もあるそうである。
なお日本では1972年に味付昆布にグルタミン酸ナトリウムを「増量剤」として使用し、健康被害が起きた事故があった。その症状は中華料理店症候群に似たものであった(頭痛、上半身感覚異常等)が、問題の商品には、製品の25.92%〜43.60%のグルタミン酸ナトリウムが検出され「調味料としての一般的な使用」とは程遠いものであった。(とはいえ、同量の食塩であればもっと深刻な被害が出ていたであろうとされる。)[2]。
つまり、食塩だったら鹹いから気が附くが、MSGは一定限度を超えると味覚では過剰摂取に気附かないから昆布の嵩増しに使われ、大量に摂取してしまったと謂うことで、食塩と比較されているところを視ると毒性と謂うより物性に近い観点で健康被害が出たようである。要するに、大量に食塩を喰ったのと同じことで、塩だろうが砂糖だろうが水だろうが砂だろうが、人間の口に入るものにはすべて半数致死量が存在すると謂うことだろう。
さらに断っておくと、複数の研究で「中華料理店症候群」はMSGと無関係だと謂う報告が為されていて、どうやら「中華料理店症候群」とは「医学的には食事後に発生するいろいろな原因の病的症状の総称」と謂うことになっているらしく、これもざっくり謂うなら、「日頃食べ附けないものをたくさん食べると具合が悪くなる」と謂う以上のことではなさそうである。
本題に戻ると、オレやどらねこさんは、漬け物などに掛ける分には別段多すぎもしない量を直接舐めたと謂うだけのことであるから、量や濃度に関係なく、結晶のまま直に舐めると物凄い味がすると謂うことになるだろう。
で、この「物凄い味」と謂うのは、どうもうまみを感じる通常の味覚とはまた別の感覚なのではないかと謂う気がするのだが、この辺は調べても何だかわからなかったので、あまり突っ込んだ話は出来ない。はっきりしているのは、どらねこさんが書いているように、味の素をそのまま舐めるとうまみと似てはいるがちょっと違う強烈で不快な味がして、その不快感はうがいをしたり舌を洗ったくらいではとれないと謂うことである。
つまり、MSGは液体に溶かして使うもので、直に舌に触ると不快な味覚と後味を残すと謂うことで、たとえばオレは炒飯に味の素は欠かせないと謂うやしきたかじんの主張をほぼ認めるものだが(笑)、炒飯の調理法だと味の素がそのまま溶けずに混ざり合うので、直に舐めたときと似たような後味が残ることが課題となっている。
一応、仕上げに醤油を一垂らし加えると風味が附く上に若干味の素が溶けるので後味が和らぐが、オレは基本的にあんまり醤油の味が附いた茶色い炒飯は好きではないので、ちょっとこの辺は課題として残るところである。
あちこち寄り道してきたが、ここまででもMSGと謂うものがかなり不思議な代物だと謂うことがわかる。
これまでの話を纏めてみると、まず第一にMSGには「味が濃すぎる」と謂う事態は想定出来ない。食塩を入れすぎた場合のように「鹹すぎる」と謂うような感じ方はしない物質である。にもかかわらず、MSGを結晶のまま舐めると強烈に不快な味を感じ、それは後々まで尾を引く。
また、MSGは極少量でうまみを発揮するのだから大量に投入する必要はないが、通常使用の範疇なら過剰摂取によって健康被害が出ることはない。健康被害が出るとすればそれはおそらく、食塩と同等のナトリウムの過剰摂取によってもたらされるのだから、非常識に大量摂取するのでない限り、直接的な中毒症状は想定出来ない。うまみ調味料を用いて濃いめに味附けすると強い飢渇感を覚えるのは、つまり食塩とうまみ成分で二重にナトリウムを摂取するからだろう。
一方で、核酸系のうまみ成分であるイノシン酸やグアニル酸は、普通に量に相関してうまみの強度のグラデーションがあるようだから、調理の場面においてうまみ調味料の投入量を決定する要素は核酸系のうまみ成分ではないかと思われる。これはうまみ調味料に含まれている割合が二・五%と極低いので、核酸系のうまみを強めに求めると必ず無駄なMSGを投入することになるが、その過剰は味覚としてはまったく感じられない。
だとすると、巷でよく聞く「化調入れすぎ」のような意見はどう解釈したら好いのかが問題となってくる。MSGのうまみ自体は、入れすぎようが適量だろうがほぼ感覚的には同じである。一方、核酸系のうまみは量に相関してグラデーションを感じるわけだから、「入れすぎ」と感じるのはそちらのほうなのだろうか。
しかし、個人的には、一般的に人々が「化調の味」と認識しているのは核酸系のうまみではなくMSGのほうではないかと考えている。うまみ調味料を直接舐めたときに感じる厭味な感覚は、おそらく主成分のMSGによるものではないかと思うし、これはうまみエキスの昆布ダシを舐めたときに感じる感覚に近い。
勿論、市販の昆布ダシにも化学調味料が使われているわけであるが(笑)、節系のうまみエキスを舐めてもこれに近い感覚は覚えない。しかも、核酸系のうまみ成分は多ければ多いほどうまみを感じるもので、一流料亭でも大量に投入するものなのだから、そんなにたくさんの人が「多すぎる」と不快に感じると謂うのも不自然である。
だとすれば、普通の人が液体に溶けていれば感じないようなMSGの厭味な感覚を、もしかして液体に溶けていても感じると謂う人がいても不思議ではない。或いは、極少量でもうまみを感じると謂う以上、普通の人では極狭い幅しかないはずの「或る程度の分量」の振れ幅が、相対的に広い人がいるのかもしれない。
つまり、大多数の人よりもMSGの濃度のグラデーションを広いスペクトルで感じられる人がいるのではないか、と謂う推測である。その場合、多くの人の味覚ではすぐ感受性が飽和してしまう為に核酸系のうまみ成分の分量に合わせて無駄に投入されている分のMSGの濃さが、そのような人には「濃すぎる」と感じられると謂うことは考えられるかもしれない。
少し都合の好すぎる推測だが、普通の人ならうまみを感じた辺りから先はどれだけ投入してもそれ以上の味を感じないが、もしかしたら「濃すぎる」と感じられる人が存在するのかもしれない。
これを物凄く簡単に言うなら、世の中には単離されたグルタミン酸のうまみが嫌いな人も無視出来ない割合で存在するのではないかと謂うことである。つまり、体質的な好き嫌いの嗜好である。だとすれば、それは、鋭敏な味覚の持ち主なら化調を受け附けないはずだとかそんな話ではなく、単に個人の体質の問題である。
ところが、美味しんぼの思想においては、アレルギーは存在しても基本的に好き嫌いと謂うものは存在しないことになっている。何かを嫌いだと謂う人物が現れると「それは本当に美味い○○を食べたことがないからだ、オレに一週間くれれば本当に美味い○○を喰わせてやる」と山岡士郎が言い放つのが誰でも識っている黄金パターンだが、それは、大多数の人々が美味いと感じる味覚体験それ自体を生理的に受け附けない人がマイノリティとして必ず存在すると謂う可能性を考慮していない。
つまり、美味しんぼには潜在的に「過度の一般化」に陥りやすい傾向があるわけで、美味とは万人にとって普遍的な感覚だと謂う前提が置かれている。そして、おそらくこの原作者の雁屋哲と謂う人物は、前述のような「単離されたグルタミン酸のうまみが嫌いな人」の一人なのではないかと謂う推測が可能であるし、単にそれを個人的な好き嫌いではなく、化調それ自体に問題があるからだと考えていると謂う推測も可能である。
たとえば、もしもMSGの味に敏感で、食品にMSGが混入していたら味の素を直接舐めたような感覚を覚えると謂う人がいたら、今時の大量生産食品や外食の料理は喰えた代物ではない、絶対健康に悪いに違いない、と感じるのも自然である。
また、MSGの濃度のグラデーションを広めに感じることが出来る人がいるなら、その人にとっては大半の喰い物はMSGを入れすぎていることになる。前述のような機序で核酸系のうまみを基準にして無駄に投入されているMSGが多いのだとしたら、MSG自体の分量に関しては、一般的に謂って適切なコントロールが殆ど為されていないことになるからである。
これは、鋭敏な味覚を持つプロの調理人と雖も、MSGのうまみの性格がそのようなものである以上、大多数の人々と同様の体質だったら知覚出来ないのも無理はない。
そして、これは何故高級料理だけではなくラーメンのような下世話な料理でも化調使用が問題になるのかと謂う疑問に対する答えにもなるだろう。hietaro さんは前回のエントリへのコメントで、蕎麦やうどんのつゆに比べてラーメンのスープはブラックボックスになっていて、そこにどうしても不安が紛れ込むのではないかと謂う推測を述べておられるが、それに加えて、東西を問わず蕎麦やうどんのつゆは鰹節ベースだと謂うことが挙げられるかもしれない。
つまり、日本でポピュラーなスープ麺において、スープにこれだけMSGが大量使用されている麺類はラーメン以外に存在しないと謂うことがあるのではないか。
普通の蕎麦屋やうどん屋は、厚削りの鰹節や鯖節でダシ汁をとり、そこに「かえし」や白醤油を合わせてつゆを作る。ダシ昆布はそれほどメジャーなダシ原料ではない。昆布で取るダシと謂うのは、実は考えてみるとそんなに大量にスープに仕立てて飲むような使い方はされないものである。精々吸い物に仕立ててちょっと一杯啜る程度である。
昆布のうまみをそのまま味わうものとして昆布茶があるが、これはそんなにメジャーな飲料ではない。オレは先日コンビニで見掛けて久しぶりに昆布茶を飲んでみたのだが、これはあんまりガブガブ飲むものではないな、と思った。口切りの一口は美味いと感じるのだが、何せ飲めば飲むほど喉が渇く(笑)。
昆布系の食品である以上、これにもうまみ調味料が使われているのは当然だろうし、ならば主成分は塩と昆布とMSGであるから喉が渇くのは当たり前である。海水を飲めば飲むほど喉が渇くのと同じ理屈である。
つまり、ラーメンにおける無化調問題の根幹は、化学調味料か天然由来調味料かの対立が問題なのではなく、核酸系のうまみ成分かMSGかの問題であり、もっと限定して謂えば、MSGはそんなに大量にスープに仕立てて飲むような使い方をしないのが本来の用法だと謂うことになるのかもしれない。
この論点が曖昧なまま、化学調味料か天然ダシかと謂う対立をでっち上げたことで話がどんどんねじ曲がっていったのではないか。本当はもっと簡単な話で、実はラーメンでも蕎麦やうどんと同様に重要なうまみは核酸系のうまみ成分であって、MSGはそれほど重要な要素ではないと謂う話になっていれば、化学調味料が理不尽に悪玉に仕立てられることもなかったはずである。
たとえば前回のエントリへのコメントで、どらねこさんが「焼き干しを使えば化学調味料を使わなくても美味しいスープが出来ます」と仰っているし、実際無化調ラーメンでも魚粉や魚介スープでパンチを出すと謂うセオリーがあるように聞いているが、これはつまり核酸系のうまみ成分をうまみ調味料の代わりに用いていると謂うことだろう。
hietaro さんは「関西人はうどんのつゆを飲み干す」と謂うふうに仰っているが、核酸系のうまみ成分は量に相関してうまみが増すのだから、「仰山鰹節を奢った」つゆを残さず飲み干すとしても全然おかしくはない。しかし、おそらくMSGを大量に投入したスープには核酸系よりも好き嫌いの幅が大きいのだろう。
ラーメンのスープが昔から「鹹い」「飲み干すと喉が渇く」と謂われているのは、おそらくMSGが必ず余分に使われているからではないか。舌で感じる塩加減の倍くらいの食塩を摂取したのと同様の状態になって、実際の塩の味よりも強い鹹さを感じ、喉が渇くと謂うことなのだろう。
「段々見えてきた」と謂うのはそう謂うことで、そもそもラーメンには潜在的に化調問題が存在する、しかしそれは自然崇拝の問題でも美食の求道の問題でも食の安全性の問題でもまったくなく、つまり、美味しんぼや環境貴族の方々が仰っている文脈で捉えると必ず本質を見失うのである。ラーメンにおける化調問題の本質とは、歴史的なプロセスにおいて、MSGがとくに目的視されないままに使われ続けてきたと謂うことではないかとオレは結論附けた。
それはMSGやうまみ調味料が悪だと謂う問題でも何でもなくて、中華麺を日本食に移植するに際して、そのまま飲む獣肉系のスープには本来量に相関してうまみを増す核酸系のうまみ成分を合わせるべきだったものを、うまみが頭打ちになって加減がわからなくなり、食塩と相乗して飢渇感をもたらすMSGを主成分としたうまみ調味料に配合されている核酸系うまみ成分で賄った為に、MSGを大量に含んだスープと謂う、普通の日本食ではあまり一般的ではなく体質によって好き嫌いの多いスープの型が成立してしまったわけである。
これには、何らかの歴史的な理由があることで、非合理な思い附きと謂うわけではないのだろうし、これはこれで好きな人も多いわけである。おそらく、アジア人は一般的にMSGのうまみを好む人がマジョリティで、アジア人にとっては、MSG主体の調味料でスープを仕立てても、それをそんなに不快に感じる人が少なからず存在すると謂う発想がなかったのかもしれない。
しかし、核酸系のうまみ成分をメインにしたつゆが日本食においてマジョリティであることを考えると、アジア人でさえも少なからぬ数の人々がMSGの大量摂取を不快に感じる体質だと謂うことではないかと思うし、これは前述のような核酸系うまみ成分とは違うMSGの特殊な性格の故だろう。
つまり、美味しんぼが何処で間違えたのかと謂えば、「アジア人はみんなMSGのうまみが好きだ」と謂う前提を疑わなかったことである。アジア人なら誰でもMSGのうまみが好きなはずだし、昆布でダシをとった料理は誰が喰っても美味い、それなのに、うまみ調味料を使ったラーメンは厭な味がする、だからうまみ調味料は良くないものに違いない、それはうまみ調味料が人工的に合成された不自然な食品だからだ、こう謂う短絡があるわけである。
日本食でさえも、昆布ダシベースの汁物を丼一杯飲み干すような料理はそれほど一般的ではない(すべて調べたわけではないから断言は出来ないが)。そのような場合には、鰹節の核酸系うまみ成分をメインに据えれば大多数の人々の嗜好に合う。だからこれは何がマジョリティであるかと謂う問題でもあるのであって、味覚の真正性の問題なんかでもなければ、食品の素性や安全性の問題などでもないのである。
また、たとえば前回のエントリのコメント欄で紹介した、「昆布粉の小瓶を常に携帯する人」のエピソードについて謂えば、昆布粉と味の素の何処が違うのかと謂えば、昆布粉の主成分はMSGではなく昆布の食物繊維だと謂うところである。
であるから、昆布粉とはMSGで味附けされた食物繊維の粉末だと謂うのが正確なところで、MSGで直接料理に味附けをするのではなく、MSGの味が附いた食物繊維を振り掛けるからそれほどMSGが前面に立たないと謂うだけで、昆布粉は天然食材だから味の素と違って安全で美味いと謂うわけではない。
また、前回のエントリへのコメントでhietaro さんは、
あと、前述した私の行きつけの店の主人は無化調ラーメンを作っていますが、それをウリにしていることもありませんし、化調を毛嫌いしていることもありませんね。チャーハンには使っていますし、以前テレビに出た時も、無化調でラーメンを作ると紹介されたあと、「でも、白菜の浅漬けに味の素と醤油かけて食ったらうまいよなあ。(^O^)(^O^)」なんて堂々と言っています。(^O^)
…と謂うふうに仰っているが、これも前述の機序で考えれば当然のことである。
ラーメンにおける固有の化調問題が、「化調を使うか使わないか」と謂う観点の問題ではなく「ラーメンのスープにMSGは適しているのか」と謂う問題だとすれば、炒飯に化調を使うか使わないかはまったく別問題なのだし、白菜の浅漬けに味の素と醤油を掛けて喰ったら美味いのが当たり前である。
何故なら、浅漬けとは野菜を塩漬けにして切り昆布を混ぜたもので、その塩気と醤油の塩気でご飯を食べる「おかず」だからである。これにちょっとくらいMSGを足したからと謂って何か問題が出るわけがないし、これは丼一杯のスープにMSGが大量に投与されることとは完全に別の問題である。
どらねこさんが仰った「美味しんぼの呪縛」はまだまだ生きていたのである。
オレもhietaro さんも、どうしてもラーメンにおける化調問題は「化学調味料を使うか使わないか」と謂う一般論の範疇の問題の一部であると謂う思考の枠組みから抜けきれなかったと思うのだが、何のことはない、気附いてみればラーメンと謂う料理固有の問題であって、潜在的には美味しんぼや環境貴族たちの思想とは関係のない問題だったと謂うことである。
不幸だったのは、ラーメン業界における化調使用の問題が、まず化調に敏感な人間たちによって化調それ自体の是非の問題として提示されたことである。そして、そのように感じる人々が調理人の側にも客の側にも決して少なくなかったからこそ、ラーメン業界において化調使用は大きな問題となった。
このような経緯において、ラーメン業界の化調問題は必ず「化調是か非か」と謂う枠組みにおいて捉えられてきたわけで、しかもMSGの味が嫌いな人はMSGを主体としたうまみ調味料を否定するのにまったく抵抗がないわけであるから、化調是非論の枠組みから脱却することは窮めて困難だったわけである。
hietaro さんもまた、うまみ調味料それ自体の是非を考察する観点から、当初は調理人としての心映えと謂う部分に着目したわけだが、最終的に摂津国人さんの仰るように無化調でも原価率がそれほど変わらないのであれば、手間もコストもそれほど変わらないと謂うことになるから、まず心映えとは関係ないことになる。
にも関わらず、有名店の店主がうまみ調味料を使うのであれば、それは素材のブレを安定させると謂う補助的な使用法が考えられる、しかし、これには味の画一化と謂う問題点がある、これが現時点でのお考えだろう。この辺の理路を摂津国人さんの「味が決まる・決まらない」と謂うお話を参考に図示したのが以下の図である。
この図では、形を素材、色を味として表現しているわけだが、若干わかりにくいかもしれない(笑)。
微量でもしっかりうまみとして認識されるMSGが加わることで、バラバラの図形群に地色が与えられ、統一的な一体感の下に個々の図形がくっきりと顕れてくると謂う模式図である。MSGのうまみが全体的な味の統一感を生み出し、別の味覚成分との接点においてより一層輪郭線を際立たせると謂う概念である。
そして次に掲げる図は、それが「画一的」に感じられるのは何故なのかを図示した模式図である。
この図では、図形を味の組み立て、地色の有無をうまみ調味料の有無として表現しているわけだが、横着して図形を一個だけにしたので、やっぱりわかりにくい(笑)。そして今回オレが述べた論旨は、「黄色が好きな人が多数派である」と同時に「黄色が嫌いな人も意外に多い」と謂うことである。
そのような人々は、「世間の喰い物がみんな黄色くなったらイヤだ」と感じていると謂うことであり、うまみ調味料は喰い物をみんな黄色くしてしまう可能性を秘めているが故に「悪」として認識されると謂うことである。本来は、前述の通り何がマジョリティであるかの問題にすぎないわけであるが、マイノリティにとってはそれが悪であることが正当化される必要がある。
この対立を解消する為には、青い絵や赤い絵もあれば好いわけで、要はマジョリティがマイノリティを圧迫しないように多様性が確保されていれば好いわけである。その意味で、無化調ラーメンと謂うのは単に青い絵であったり赤い絵であったりするだけのことで、本来黄色い絵はダメだと謂う話ではないのである。
別の言い方をすれば、ラーメン業界における化調問題とは、化調を使用するのかしないのかの問題ではなく、ラーメン業界固有の化調問題と環境貴族的な化調是非論の強固な関連附けだと謂えるのではないかと思う。
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コメント
いやもう、何回「前回のエントリのコメント欄で」って書いたのかしら(笑)。
本当にこのエントリは、「前回のエントリのコメント欄で」戴いたたくさんのコメントのお陰で何とかでっち上げることが出来たものですから、ご意見・情報を戴いた皆さんには謹んでお礼を申し上げます。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月16日 (日曜日) 午前 07時31分
素晴らしいです、特に図が。
自分のもやもやっとしていた気持ちが可視化されたという感じです。
ありがとうございます。
投稿: どらねこ | 2009年8月16日 (日曜日) 午後 04時30分
>どらねこさん
こちらこそ、いろいろどらねこさんがお書きのことを美味しく戴かせてもらったのでお礼を申し上げます(笑)。
図を褒めて戴くと嬉しいですね、実は摂津国人さんのお話を伺ったときに、自分の中でイメージしたことを形にする為に作図してみたのですが、ホントならもう少し手を掛けたかったところです。本来、最初の図のバリエーションのミニチュア版が次の図に四つ並んでいればもっとわかりやすくなったはずなんですが(笑)、そこまでの気力がなかったので図形一個だけでズルをしてしまいました。
その関係で、最初の図と次の図では、同じオブジェクトを使っているのに表している概念の階層が変わっているので、誤解を招くおそれもあるとは思ったのですが、まあ何とか言葉で説明することで勘弁して戴こうかと。
また、この図はMSG溶液の中に個々の味覚物質が漂っているところを具象的に表したもの「ではない」と謂うことも、ちょっとわかりにくかったかと思います。それやこれやで、概念図と謂うのは前提が通じればわかりやすくなりますが、前提が通じていないと逆に誤解を招くおそれもあって、けっこう難しいものですよね。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月16日 (日曜日) 午後 04時48分
こんばんは。
えーとえーとと思いながら読んでいましたが、黄色で御主旨を納得致しました。我ながら血の巡りが悪い(笑)。
高野山でおうどんを食べた時に、出汁に首をひねった事を思い出しました。不味くはないのですが、違和感が強くて味わえなかったのです。今考えると、精進料理だから出汁に鰹節が使われていなくて、昆布だけだったのでしょうね。
そもそも調味料は天然由来でもそうでなくても、毒である事は変わりませんよね。亭主様も種の異なるご家族をお持ちですからご承知でしょうが、人間以外の動物にとって調味料は忌避すべきものです。そもそも安全な調味料なんて発想そのものがナンセンスだと思います。「天然素材で安心」とあまりくどくど言われると「あなた(表現自粛)の頭の中身がな」と言い返したくなります。
因みに山岡士郎に一週間待ってくれと言われても、私は”海鼠”だけは絶対に食べません(断固)。
投稿: うさぎ林檎 | 2009年8月16日 (日曜日) 午後 08時13分
>うさぎ林檎さん
すいません、今回のエントリは自分でも考えが固まらないままに考えながら書いているので、他の方には尚更わかりにくいだろうとは思います(笑)。
>>今考えると、精進料理だから出汁に鰹節が使われていなくて、昆布だけだったのでしょうね。
ああ、なるほど、やっぱり動物性タンパク質を使わないと、そう謂うことがあるんですね。そうか、精進料理ってダシにグルタミン酸系統の味附けしか使えないんだな。昆布だけでうどんのダシをとるのは、ちょっと想像しただけでも何だか違和感がありそうに思えます。要するに、湯豆腐に醤油掛けたみたいな味ですよね(笑)。
今回の論旨の芯にあるアイディアと謂うのは、蕎麦・うどん・ラーメン等スープ麺の他の料理にはない特徴って何だろうと考えると、丼一杯の大量のスープを飲むと謂う部分だろうと謂うことなんです。普通の料理の汁物って、精々汁碗に一杯くらい啜るのが普通で、汁をそんなに大量に飲むと謂うのは特殊なケースですよね。
hietaro さんが「関西人はうどんのつゆを全部飲み干す」と仰っていますが、ラーメンなんかもスープを全部飲むのが当然、みたいな話がありますよね。ただ、うどんつゆは鹹くても飲めるが、ラーメンのスープは全部飲むのがキツいと感じます。それは脂っ気だけの問題ではないように思いました。
うさぎ林檎さんが「ラーメンのスープは美味しいと思っても全部飲んだことはない」と仰って、料理の先生のお話をされていたように、ラーメンのスープは実際に味覚で感じる以上に体感的な塩分濃度が濃いと感じますよね。それは何故なのか、と謂うのが推理の出発点でした。
>>そもそも調味料は天然由来でもそうでなくても、毒である事は変わりませんよね。
すでに酸素からして毒だったって話がありますからねぇ(笑)。本文で少し触れましたけど、人間の口に入るものには何だって半数致死量があるんですから、毒と謂えば何でも毒になるんですね。
そもそも、毒と薬と栄養は基本的に同じもので、それを隔てるのは量の問題だと謂うのは基本ではありますね。ちょっと舐めただけで死ぬようなものが普通は劇毒物と謂われていますから、毒と謂うものが別に独立してあるように思うんですけど、食塩や砂糖を喰っても死ねますし、醤油飲んでも死ねますね。
hietaro さんのところで「世の中の動物なり植物なりってのは別に人間に食われるために存在してるわけでもない」と謂うお話が出ていますけど、人間はそれを何とか喰えるようにしてきたわけで、野菜だって原種そのままの形で喰ってるものなんか殆どないですよね。天然自然の食材でも、強い発ガン性を確認されているものが幾らでもありますよね。
人間はそう謂う、毒性が強いとか栄養価が低いとか不味いとか、食用に不向きな特質を品種改良によって改変してきたわけで、人間に喰われる為に目的的に存在するものが人工物以外に存在しない以上、食と謂うのは基本的にリスクと隣り合わせで当たり前のものです。動物だって一々狩猟していたんではいつ喰えるんだかわからないし、そのまま喰って美味いとは限らないから品種改良して家畜化しているわけですし。
日本の場合、そのまんま喰えるような美味い魚介類が豊富に獲れたので、比較的そう謂う意識が薄いのかもしれないですね。
>>因みに山岡士郎に一週間待ってくれと言われても、私は”海鼠”だけは絶対に食べません(断固)。
もうすぐ終わっちゃう今年の仮面ライダーと同じ嗜好ですね(笑)。好き嫌いせず何でも食べなきゃダメだと謂うのは、人類の食制の戦略上正論ではあるんですが、嫌いなものは誰でもあるんですから、絶対的な意味で何でも喰えなきゃダメだと謂うことでもないわけで、適切なリスク分散が可能な程度の嗜好の幅がないと危ないと謂うだけの話なんですね。それはそもそも、あらゆる喰い物は毒になり得ると謂う事実から導き出された生き残りの戦略なのですが、美味しんぼではその辺を曖昧な美食の求道で胡麻化していると謂う印象です。
味覚の偏差と謂うのは、突き詰めて考えればやはり体質で、そこに観念(美味しんぼ十八番の不幸な原体験とか先入観とか(笑))が加わることで嗜好が成立しているわけで、観念の部分は幾らか改めることが出来ても、限界と謂うものが必ずあるでしょうね。現時点で最高の品質の食材を最適な調理法で喰わせれば、嗜好まで改変出来るはずだと謂うのも圧し附けがましい理屈ですよねぇ。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月17日 (月曜日) 午前 01時56分
>黒猫亭さん
まだこの考察については考えがまとまりません。
ですから本題の部分についてはもう少し考えてからコメントさせていただきます。
なのでこれはちょっと枝葉末節的な部分になると思いますが。
>つまり、美味しんぼが何処で間違えたのかと謂えば、「アジア人はみんなMSGのうまみが好きだ」と謂う前提を疑わなかったことである。アジア人なら誰でもMSGのうまみが好きなはずだし、昆布でダシをとった料理は誰が喰っても美味い、それなのに、うまみ調味料を使ったラーメンは厭な味がする、だからうまみ調味料は良くないものに違いない、それはうまみ調味料が人工的に合成された不自然な食品だからだ、こう謂う短絡があるわけである。
この部分はなるほど!と思いました。
そしてこれは肯定派・否定派の双方にある。この問題の典型的なパターンである、
「化調入れすぎ。舌がヒリヒリする」
「あーまた出たよ。ウマけりゃいいじゃん。ウマいと感じてるくせに後付けの知識で化調に過剰反応しやがって」
みたいなものも、まさにこの、「みんなみんなMSGのうまみが好きだ」から発していると思います。
>また、前回のエントリへのコメントでhietaro さんは、
あと、前述した私の行きつけの店の主人は無化調ラーメンを作っていますが、それをウリにしていることもありませんし、化調を毛嫌いしていることもありませんね。チャーハンには使っていますし、以前テレビに出た時も、無化調でラーメンを作ると紹介されたあと、「でも、白菜の浅漬けに味の素と醤油かけて食ったらうまいよなあ。(^O^)(^O^)」なんて堂々と言っています。(^O^)
…と謂うふうに仰っているが、これも前述の機序で考えれば当然のことである。
ラーメンにおける固有の化調問題が、「化調を使うか使わないか」と謂う観点の問題ではなく「ラーメンのスープにMSGは適しているのか」と謂う問題だとすれば、炒飯に化調を使うか使わないかはまったく別問題なのだし、白菜の浅漬けに味の素と醤油を掛けて喰ったら美味いのが当たり前である。
そういうことなんですね。あの記述で言いたかったことは、その店主は別に、「化調=悪」説に依って不使用というわけでもなく、しかも客の「化調=悪」説にアピールして商品価値を高めようとしているわけでもない。そういう「無化調」の姿勢もあるのだということを示したかったわけです。
>hietaro さんは「関西人はうどんのつゆを飲み干す」と謂うふうに仰っているが、核酸系のうまみ成分は量に相関してうまみが増すのだから、「仰山鰹節を奢った」つゆを残さず飲み干すとしても全然おかしくはない。
となれば、実は関東の方が「飲み干す」文化があっても不思議じゃないですよね。にもかかわらずどうして、という部分は、ひょっとしたらうま味とは別の観点を入れて考えなければ行けないかもしれません。
このエントリを読んで私も試しに味の素を直接(少量)舐めてみたのですが、「もんわりと舌全体にまとわりつく感覚」があって、その上で「ボンヤリとしたつかみどころのない味」を感じるという感じでした。食塩などであれば、もうちょっと舌の一部(つまり舌に乗せた部分周辺)だけでシャープな味覚を感じるのに、味の素はあっという間に舌全体でぼんやりと「感じる」感じになるようなイメージ。
ただ、「これにもうちょっと輪郭のはっきりした『味』と同時に入れば、それを助ける役割はあるのだろうな」と思いました。
助手だけがたくさんいて、肝心の教授がいませんよ!みたいな感覚。
この「舌にまとわりつく感覚」がよくいう「舌のシビレ」であるとか「後味の悪さ」といった感覚につながるのだろうなあ、とか思ったり。
で、ふと思いついた仮説。たった今の思いつきだけですが。(^^;
MSGの役割はあくまでも他の味の「助手」という部分が大きく、甘さなどの他の感覚とはまったく違う舌への刺激の仕方をするのではないかと。
一般的な「味」というものが実は味覚だけではなく、臭覚や触覚などが組み合わされた複雑なものであるのと同様に、今言われている「味覚」というのも、舌で「どう」感じるかはそれぞれの味によってさまざまなのでしょう。例えば辛さはヒドくなると「痛い」と感じますが、甘さでそう感じることはありません。それぞれに舌に与える刺激が違い、それらが複雑にからみ合って味が決まる。
で、ひょっとしたらうま味というのは、この「舌にまとわりつく感覚」や「舌のシビレ」と表現される刺激を与えることで、他の味が舌に与える刺激にバリエーションを加える働きをするのではないかと。これによって他の味が増幅したり引き立ったり別のものに変わったり……。
だから単独で摂取しても助けるべき刺激がないからキモチワルイだけだという。
正しいかどうかわかりませんが、なんとなくこういうのをイメージすると、単体で非常にマズいことなどはそれなりに理解できます。
投稿: hietaro | 2009年8月17日 (月曜日) 午後 09時38分
>hietaro さん
>>まだこの考察については考えがまとまりません。
>>ですから本題の部分についてはもう少し考えてからコメントさせていただきます。
お待ちしております。オレのほうでは、もう今回で「無化調ラーメン問題」に自分の中で一旦ケリを附けてしまおうと謂う意気込みですから(笑)、hietaro さんのご意見が楽しみです。とは謂え、性急な議論では意味がありませんから、気長に行きましょうか。
>>「化調入れすぎ。舌がヒリヒリする」
>>「あーまた出たよ。ウマけりゃいいじゃん。ウマいと感じてるくせに後付けの知識で化調に過剰反応しやがって」
一口に「体質の問題」と謂うと凡庸なんですが、どうもMSGのうまみは感じ方の個人差が大きいように思います。美味いと感じるか感じないか、好きか嫌いか、と謂うのではなく、味覚体験の質が個人によって違う、そんなイメージでしょうか。
また、一口に「化調が入っているとわかる」と謂っても、意識しなくても強い不快感として感じると謂う感じ方と、MSG+リボヌクレオタイドのうまみの組み立てのパターンを経験から感知する感じ方があるのかもしれません。なので、「化調が入っているとわかる」と仰る方の中でも意見が纏まらない。
それに加えて、MSGが微量でも味覚に作用して一定量でうまみの感じ方が頭打ちになる性格上、うまみ調味料の投入量の調節を調理人が核酸系のうまみで判断しているとすれば、MSG自体の投入量は「必ず」必要以上になる、そんなうまみ調味料固有の性格との合わせ技なのではないかな、と思います。
核酸系のうまみ成分は、そんなに人によって激しく違うようなところはないように思うんですよ。イノシン酸のうまみは基本的に誰でも好きですよね。好き嫌いがあるとすれば「椎茸のうまみ成分」であるグアニル酸のほうですが、ただ、椎茸の嫌いな人は椎茸の臭いや食感が嫌いな人が殆どなので、単離されたグアニル酸のほうにそれほど好き嫌いがあるとも思えません。椎茸から直接ダシをとると、どうしても椎茸の臭いも一緒に抽出してしまうことになりますから、うまみ調味料のグアニル酸については椎茸と結び附けてイメージしている人は少ないのではないかと思います。
そうすると、おそらく「化調問題」の正体とは、一般的に暗数となっていて人によって感じ方の違うMSGの投入量によるもので、その感受性が人によって偏差の大きい部分であるが故に、大多数の人々と敏感な人々との間で不寛容な論争が発生し、その実味覚体験自体は共有されていない為にすれ違い続けたのかな、と。
>>そういう「無化調」の姿勢もあるのだということを示したかったわけです。
前回コメントで「ラーメン店主たちがどの程度意識化しているのかに興味がある」と謂うふうに言ったのは、そこなんですね。多分、その方(麺哲の庄司氏でしょうか)の考え方とは「うまみ調味料はラーメンの味附けに向かない」と謂う、非常に単純で直截な認識が基本になっているんだと思うんですが、それは無化調ラーメンを提供する調理人一般が共有している認識でもなさそうに思うんですが、どうでしょう。
おそらく、うまみ調味料がラーメンスープの味附けに向かない部分があるとすれば、前述のように「必ずMSGが過剰に投入される」部分にあると思いますので、これを解決するには、昆布と魚介の投入量でそれぞれのうまみを別々にコントロールしてやれば好いと謂うことになります。天然ダシを使うメリットがあるとすればそこで、天然物だからそちらのほうが優れていると謂うことではないでしょう。
ダシ昆布でMSGのうまみを抽出する分には、うまみが効き始める絶対量が感覚的にわかるけれど、うまみ調味料として九七・五%のMSGと二・五%の核酸系うまみ成分の割合がプリセットされていると、どうしても二・五%の核酸系のほうでうまみを判断する形になるけれど、MSGはMSGで投入量を調節し、核酸系は核酸系で調節する、これなら何かが過剰に投入されることにはならない。
コスト面で考えると、本来核酸系のうまみ成分は、入れれば入れるほど美味いのですから、美味を追求すると天井知らずになるはずなんですが、これがたとえば蕎麦やうどんならうまみ成分が鰹節やサバ節一本になるので上等なものを大量に使う必要があるが、ラーメンのスープの場合は主成分として獣肉系のエキスがとれているので、飽くまで補助的な役割で好いと謂うことになり、それほど上等なものを大量に使う必要はない。或る程度現実的なラインで妥協が可能でしょう。
そうだとすれば、コスト面で大した違いはないのだから、可能ならラーメンのスープにはうまみ調味料を使わないほうが好い、この理路なら納得出来ますね。うまみ調味料を使うことで、味の嗜好にMSGの感受性と謂う体質依存の要素が決定的役割を果たすことになり、うまみ調味料の味を肯定する側も別段その余剰MSGが必須だと感じているわけではなく「感じない」だけなのだから、使わないに越したことはない。
そして、その「感じない」と謂うことも厳密に言えば正確ではなく、うまみとしては感じていなくても、「喉が渇く」と謂う感じ方として実際の塩加減以上の塩分濃度を感じると謂うふうに感じてはいるわけですから、毒性はなくともそれほど健康に良いとも謂えないわけで、一口で謂ってうまみ調味料を用いるスープの味附けには方法論的に大きなデメリットがある。
たとえば「オレとうま調」の店主たちのような使い方はどうなのかな、と考えると、これは実際に調理してみないと、「素材のブレの調整」がうま調を使わないとコントロール出来ないのかどうか一概に謂えないですね。MSGの性格から謂えば、最初から適度に昆布でうまみ成分を抽出しておけば、それが仕上がりのブレを吸収してくれるようにも思いますが、名店の店主たちが長い試行錯誤の末に出した結論ですから、推測だけでそう言い切れるかどうかはわからない。
ただ、経験則だけで手探りで考えるのではなく、演繹された一般則から考えていけば効率的に正解に近附けるような気がします。
一つだけ謂えることは、これまで述べてきたような考察の手法は、たとえば美味しんぼの「ラーメン戦争」における鹹水のそれに近いと謂うことです。つまり、うまみ調味料を使うと謂う調理法には、MSGのうまみが頭打ちになると謂う特殊な性格を前提に考えれば便利だけれど、余剰なMSGは絶対的に必要な要素ではない。それにデメリットがあるとすれば、別の調理法を模索すべきだ、それだけの話ですよね。
そう謂う料理に対する科学的・合理的アプローチをわれわれに教えてくれたのは、他ならぬ美味しんぼだったはずなんですが、その美味しんぼ流のアプローチが作家個人の思想性によってねじ曲げられ、迷信紛いの「化調批判」と謂う非合理で間違った迂路に迷い込んでしまったのだとすれば、何とも謂えない感慨があります。
>>となれば、実は関東の方が「飲み干す」文化があっても不思議じゃないですよね。にもかかわらずどうして、という部分は、ひょっとしたらうま味とは別の観点を入れて考えなければ行けないかもしれません。
これは軽々に謂えない事柄ですが、その「別の観点」とは、まず「醤油」の問題、それと「蕎麦とうどん」の問題に行き着くように思います。これはこれで大きな拡がりを持つ考察課題で、この場で手短には言えないように思いますが、醤油と麺の素材、さらにそれに歴史的な事情が関わってくると考えています。
うまみに関しては、東西どちらもメインはイノシン酸ですね。ただ、関東では蕎麦が好まれ、関西ではうどんが好まれると謂う麺の違いがある。これはおそらく、麺に向く小麦の栽培が日本ではそれほど全国的な拡がりがなく西日本で盛んで、関東近郊では蕎麦のほうが供給が容易だったと謂うことかもしれません。
そして、蕎麦とうどんと謂う地域的な棲み分けを前提に考えると、蕎麦粉には際立った風味があるからつゆには生醤油を効かせたほうが合うけれど、うどんつゆには寧ろ白醤油のように醤油のうまみだけ残して醸造臭や色を抑えた醤油のほうが合う。
さらに考えていくと、おそらく江戸時代くらいだと江戸人の味覚の嗜好は地域的に東北なんかに近かったと思いますので、盛りだろうが掛けだろうが、あの醤油の臭いの強い蕎麦つゆをガンガン飲んでいたんではないかと思うんですね。
今でも盛り蕎麦を食べたらつゆを蕎麦湯で割って飲むと謂う食習慣がありますよね。あれは今では、蕎麦を茹でた湯には栄養と風味があるから、蕎麦湯を飲む為につゆで味附けするんだと謂うふうに逆に解釈されていますけれど、本来蕎麦つゆを飲む為に塩気を薄めるほうが主目的だろうと思います。蕎麦を茹でた後の湯なんて、昔は棄てるものに過ぎなかったけど、薪代が勿体ないから使っていただけでしょう。
たとえば、幕末の頃の旗本の子息だった岡本綺堂の懐旧談によりますと、普通の経済レベルの幕臣の家庭でも、漬け物に醤油を必要以上に掛けると厳しく叱られたと言っていますので、武家の家庭では質素倹約の風が強かった。それは一面では、醤油を無駄なく消費すると謂う発想ですから、蕎麦つゆくらい大量に使った醤油は残さずに全部飲んでいたはずなんですね。
単に蕎麦つゆを割る湯として蕎麦屋には蕎麦を茹でた湯が大量にあるからそれを使っていただけで、それが今では栄養学的に優れた栄養価があることがわかったから、蕎麦の推進団体がそれをアピールしているだけ、そう謂うことだと思うんです。で、関東人の味覚として、蕎麦つゆくらい醤油臭い汁を飲むのは全然平気と謂うか、寧ろ美味いと感じていたんじゃないかと思います。当たり前ですよね、江戸ではああ謂う醤油が美味いと感じるからああ謂う醤油が流通していたわけで。
関東では蕎麦つゆを全部飲まないと謂うことになったのは、おそらく明治以降になって東京に地方人が集中するようになってからのことじゃないでしょうかね。個人的な経験から謂うと、国内で異なる食文化圏に移ってみて一番最初に戸惑うのが醤油の風味の違いです。これはこちらでも以前語ったことがありますよね。
オレなんかも上京当初は関東の醤油を漬け物に掛ける気がしなかったんですが、おそらく、地方から上京してきた人間にしてみれば、関東の醤油を大量に使った蕎麦のつゆをそのまま飲んで美味いとは到底思えないと謂うことがあると思います。あれは関東の醤油が好きでないと、やはり全部は飲めません。
翻ってうどんつゆを考えますと、うどんつゆに使われる白醤油と謂うのは、元々料理に醤油の色と臭いを附けないと謂う嗜好から生まれたものですから、醤油の地域的嗜好に左右されないと謂うところがあるんじゃないでしょうか。オレなんかも、ラーメンや蕎麦のスープは残すこともありますが、関西風のうどんつゆは大概全部飲み干しますよ。
今ではネット通販なんて便利なものがありますから田舎のほうの醤油を購入することもありますし、郷里に住んでいる妹が何本も送ってきてくれますから、醤油で困ることはありませんが。
>>この「舌にまとわりつく感覚」がよくいう「舌のシビレ」であるとか「後味の悪さ」といった感覚につながるのだろうなあ、とか思ったり。
そうなんでしょうね、MSGには舌全体に搦んで圧迫するような後味があることはたしかなんですよ。また、後段で仰っているように、鹹いと謂うのでも甘いと謂うのでもない、不思議な感覚なんですね。
後味がいつまでも残るのは、MSGが微量でも効くことと関係があるのでしょうね。食塩なら味を感じない程度の量が残っていてもMSGでは味を感じてしまう、そう謂うことなのかもしれません。それが「いつまでも後口が変わらない」と謂う不快感として感じられると謂うこともありそうです。舌を圧迫するような感覚は、MSGを感知する部位の構造的な問題ですかね、これは流石に詳しい人に聞いてみないとわからないです。
>>だから単独で摂取しても助けるべき刺激がないからキモチワルイだけだという。
つまり、MSG単体では美味いと感じないと謂う仮説ですかね、それは考慮に値するように思います。何というか、MSGの味わいと謂うのは、たしかに何だとも表現出来ないボンヤリとした不思議な官能ですよね。
敢えてわかりにくい喩えを弄すれば「鹹くない塩」みたいな感覚で、これはやはり核酸系のうまみにはない性格ですね。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月18日 (火曜日) 午前 03時46分
>>「鹹くない塩」
逆に考えてみると、「鹹いMSG」と謂うものが存在することに思い当たりました。それはつまり、食塩とMSGの混合物である「アジシオ」ですね。念の為にアジシオがどのようにして作られるのかを味の素のサイトのQAで調べてみました。
>>Q:「アジシオ(R)」は、どのようにして作られるのですか?
>>
>>A:塩(塩化ナトリウム)とグルタミン酸ナトリウム(粉末)を混合し、液体のグルタミン酸ナトリウムを吹き付けてコーティングします。その後、乾燥、冷却して包装します。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月18日 (火曜日) 午後 10時17分
>黒猫亭さん
いろいろ考えるために、引っかかってる点など出していこうと思います。
まだよくわからないので結論めいたものはないのですが、材料として。
>つまり、MSGの最大の特徴として、少量でも十分うまみを感じるし、大量に入れてもまったく感じ方が変わらないので、入っているか入っていないかの二分法になると謂うことが挙げられるだろう。
という部分は、どうなのでしょう。これは単にデータを私が持っていないから疑問になるだけなのですが、「少量でも十分うまみを感じる」から「ある程度の分量を超えると味覚の感受性が飽和状態」までの部分にどのくらいの幅があんでしょうね。つまりここでいう「ある程度の分量」とはどのくらいの分量を指すのかと。
俗に言う「耳かき一杯」が0.4~0.7g位だそうですから、摂津国人さんの計算に乗っかって1日のスープが20リットル80人前とすれば、80人前で充分うま味を感じるために必要なMSGは32~56g。味の素の家庭用瓶であるところの「アジパンダ瓶」は1本で75gだそうですから、家庭用の大きめの瓶を1日で半分から1本使えば、「少量でも十分うまみを感じる」という計算になるようです。
1人分は少なくても、寸胴に投入する分にはそれなりの量になるという当たり前の話なんですけども。で、
>ならば、飲食店などでうまみ調味料を過剰に投入するのはまったく無意味だと謂うことで、MSGのうまみは極少量でも感じ取れると謂うことなのであるから、大勝軒のオヤジの「二刀流」も果たして適切な分量なのかと謂う疑問は残るのだが、これはもしかしたら、MSG自体は幾ら入れても同じ味になるから投入量自体は関係ないが、二・五%配合されている核酸系のうまみ成分の量が関係するのかもしれない。
ここで大勝軒の「二刀流」を引き合いに出しちゃうと気の毒かも、という気がします。記述からして大勝軒の方は恐らく穴あき缶で少量ずつ味を見ながら振り入れていたのでしょうから、「過剰」になる事態はあまりなさそうな気がします(大勝軒なら1日80杯ということもないでしょうから、1杯あたり「耳かき一杯」であっても1日でアジパンダ瓶1本分以上投入することになります)。
むしろ「過剰」の例として引き合いに出すなら「『味の素』は大体スプーン1杯、丼に直接入れてます」という「なんつッ亭」あたりになるのじゃないかなあと。(^O^)
とはいえ、
>核酸系のうまみをどの程度求めるかによって決まってきて、量を増やしても味覚に反映されないMSGは必ず余分に入れることになると謂うことかもしれない。
というのはかなり「ある」話だろうと思いました。
日本うま味調味料協会の「うま味調味料の種類と表示」というページ
http://www.umamikyo.gr.jp/spice/kind.html
によると、業務用うま味調味料は「アミノ酸系うま味調味料」と「核酸系うま味調味料」になるようです。
しかし他の業界はともかく、ラーメン業界で使われる化学調味料は「アミノ酸系うま味調味料」や「核酸系うま味調味料」の単体のものはあまり使われていないようで、この図の中で「主に国内で家庭用として発売」とされている、両者をブレンドしたもの(「低核酸系うま味調味料」「高核酸系うま味調味料」)が主流のようです。(どうしてそう判断するかというと、ラーメン系の食材商社が扱っている商品がほぼすべてブレンドものだからです)
「低核酸系うま味調味料」の代表が味の素やグルエースであり、「高核酸系うま味調味料」の代表がハイミーやミック、いの一番であるということですね。
メーカー各社は核酸系の配合で個性を出しているようです。
つまり、うま味調味料の主成分はアミノ酸系(MSG)であるが、そこにブレンドされる核酸系が旨味にかなり大きな影響を与えるのだと。
「低核酸系」に属する味の素(核酸系2.5%)ですら、「MSG100%製品に比べて、うま味が強く経済的」と宣伝されています。
これはそのまま、味の素と比較してハイミーをアピールする宣伝文句と同じですね。(^O^)
つまり核酸系の割合が高くなればなるほどうま味は強くなり値段も高くなる……。
といった結論を出してしまいそうになりますが、それはちょっと違うようです。
うま味は足し算ではなくかけ算(?「うま味の相乗効果」)のようで、両者がブレンドされていることに意味があり、その割合は8%がベストなのだとか。(ハイミーやいの一番で採用されている比率)
となると、まず、
うま味調味料として「高核酸系うま味調味料」(ハイミーやいの一番)ではなく「低核酸系うま味調味料」(味の素)を使った場合、やはり核酸系の不足を感じるのかどうか。
というのが問題になるような気がします。
個別の料理によって料理人が自然に感じるうま味の種類は違うのかもしれませんしあまり変わらないかもしれません。アミノ酸系こそがラーメンのうま味という人の方が多いのなら核酸系を求めるためにアミノ酸系の過剰摂取という岐路は踏まないように思います。
あるいは核酸系、あるいはアミノ酸系と核酸系による「うま味の相乗効果」こそが、求められる「うま味」だということであれば、核酸系の不足感は感じられるかもしれません。
ただ、相乗効果として「割合」が影響を与えるのだとすれば、核酸系の飢餓感を満たすのにブレンド率が同じ調味料をいくら増やしても同じようにも思います。
しかしこれも、アミノ酸系(MSG)が「ある程度の分量を超えると味覚の感受性が飽和状態」になる(そして核酸系はそうではない)のであれば、ある量以上投入した時点からは増えていくのは核酸系のうまみだけであって、たとえ投入するのが低核酸系うま味調味料(アミノ酸系97.5% 核酸系2.5%)であっても、大量投入することで擬似的に高核酸系うま味調味料(アミノ酸系92% 核酸系8%)のような相乗効果を得ることができる……のか……。
できるとすれば、黒猫亭さんの考察(核酸系をもっと求めるためにMSG過剰になる程度にうま味調味料が投入される)も裏づけられるような気がします。
そしてハイミーの方がwinwinとなると。
さらにたいていの「補助的に」うま味調味料を使う店の場合、もちろん素材が出しているうま味もあって、このあたりの相乗効果は個別のもので、どの程度単純化して考えたらいいのか、よくわからないのです。
こういうのも含めて、
「MSGが微量でも味覚に作用して一定量でうまみの感じ方が頭打ちになる性格上、うまみ調味料の投入量の調節を調理人が核酸系のうまみで判断しているとすれば、MSG自体の投入量は「必ず」必要以上になる」
というのも、「必ず」というのは、投入量が核酸系のうま味を求めることで決めているという仮定の信憑性を高めないと言えないわけで、さらなる考察なり現場の御意見なりが必要かと思います。
>多分、その方(麺哲の庄司氏でしょうか)の考え方とは「うまみ調味料はラーメンの味附けに向かない」と謂う、非常に単純で直截な認識が基本になっているんだと思うんですが、それは無化調ラーメンを提供する調理人一般が共有している認識でもなさそうに思うんですが、どうでしょう。
どうなんでしょうね。そのへんの割合はよくわからないのですが、少なくとも摂津国人さんが挙げられた「店側の立場」での
3)店側にしてみれば旨み調味料を使わないというのは良い材料を手間をかけて作っているという印象をアピールすることが出来ると考えられる。
4)旨み調味料が体に悪いという迷信もあり店側は無自覚にでもそれを利用している部分も否定できない。
あたりではない無化調の店主もいることを示したということでして、まあこの店主が非常にレアケースであるという可能性も捨てきれませんが、身近に普通にいると、そんなに少ない割合だとも思えないんですよね。(^^; まあこのあたり、量の過多はほんと、わからないんですけども。
で、その方は庄司氏ではないです。(^O^) いや件の私の行きつけの店です。
>中華麺を日本食に移植するに際して、そのまま飲む獣肉系のスープには本来量に相関してうまみを増す核酸系のうまみ成分を合わせるべきだったものを、……MSGを主成分としたうまみ調味料に配合されている核酸系うまみ成分で賄った……これには、何らかの歴史的な理由があることで、非合理な思い附きと謂うわけではないのだろうし、これはこれで好きな人も多いわけである。
というのはなかなか興味深いですね。
「化調を使ってよかったか悪かったか」ではなく、この食材にMSGを使ったのが正解だったかという問題なのでは、ということですよね。
「何らかの歴史的な理由」というのはやはりコスト的な問題なのでしょうね。無化調とのコスト比較ではなく、単純に言えば味の素とハイミーのコストの違い。ラーメンに化調が入りだしたのがいつ頃からかわかりませんが、他の食材に使われていたもののうち安くて入手性のよかったMSG主体のうま味調味料が定着し、ある世代まではこれこそがラーメンの味になっていったと。
投稿: hietaro | 2009年8月19日 (水曜日) 午後 07時33分
>hietaroさん
>>これは単にデータを私が持っていないから疑問になるだけなのですが、「少量でも十分うまみを感じる」から「ある程度の分量を超えると味覚の感受性が飽和状態」までの部分にどのくらいの幅があんでしょうね。つまりここでいう「ある程度の分量」とはどのくらいの分量を指すのかと。
>>味の素の家庭用瓶であるところの「アジパンダ瓶」は1本で75gだそうですから、家庭用の大きめの瓶を1日で半分から1本使えば、「少量でも十分うまみを感じる」という計算になるようです。
これはかなり個人差があるんじゃないかと謂う気がするんですねぇ。ウィキでは「耳かき一杯で十分うまみを感じる」と書いてありますけど、経験的には「まだうまみが足りない」「まだ少し薄い」と謂う感覚はあるんですね。
ラーメンのスープだと補助的な扱いだから好いんでしょうが、今ちょっと炒飯で確かめたいことがあって四食続けて炒飯を喰ってウンザリしていまして(笑)、炒飯のように直接味附け要素に使うような使い方だと、入っているのはたしかにわかるけれど明らかに薄いと謂う場合があるんです。このことから考えると、普通の人でも味覚が飽和状態になるまで或る程度のグラデーションがあるんじゃないかと思います。
味の素には「売上を上げる為に瓶の口の穴を大きくした」なんて謂う都市伝説がありますが(笑)、一振りで耳かき一杯なんてことはありませんよね。おそらくアジパンダ瓶一本だと、精々四、五〇回も振り出せれば好いところなんじゃないでしょうか。なので、一回当たりの使用で耳かき何杯分も使っていると思いますし、それで薄いとか足りないと感じることがあります。
今ウチではアジパンダ瓶にハイミーの詰め替え用パウチを入れて使っているので、後段でhietaro さんが仰っている「味の相乗効果」の問題はクリアしていると思いますが、それでも「足りない」「薄い」と感じることがあって、これを「だしの素」のうまみで補うことではハイミー単体の不足感の代替にはならないんですね。
なので、味の相乗効果が保たれた割合の高核酸系うまみ調味料には薄いとか足りないと謂う感覚があって、それは核酸系のうまみだけを足しても補填出来ないと謂うことになりますから、MSGのうまみのグラデーションがそれほどあるかはさておき、少なくともMSGの量に相関するうまみの感じ方はあるんだと思います。
>>ここで大勝軒の「二刀流」を引き合いに出しちゃうと気の毒かも、という気がします。
いやまあ、決定的にこれはダメだと判明しているわけではないんですから、誰を引き合いに出しても気の毒ではあるんですが(笑)、仰る通り二刀流「だから」入れすぎになると謂うこともないでしょうね。単に、「微量でも十分」だと仮定するなら二刀流で投入する必要はないんじゃないかと謂う疑問が「在り得る」と謂う話をしているだけで、過剰になるとしたら、その理由はそこにはないですよね。
>>むしろ「過剰」の例として引き合いに出すなら「『味の素』は大体スプーン1杯、丼に直接入れてます」という「なんつッ亭」あたりになるのじゃないかなあと。
これは本当にそうなんですかねぇ(笑)。何度読んでも信じられないと謂うか、そのレベルの分量だと味の調整の域を超えて、「ダシをとっている」レベルになるように感じるんですが。本当だとしたら、それこそ誰が味わっても味覚が飽和状態になるように思いますから、マストを狙いすぎには感じます。ちょっとこの辺、後ほどまた触れますね。
>>うま味は足し算ではなくかけ算(?「うま味の相乗効果」)のようで、両者がブレンドされていることに意味があり、その割合は8%がベストなのだとか。(ハイミーやいの一番で採用されている比率)
この「うまみの相乗効果」については、調べているうちにオレも行き当たりまして、今実験しているのもその辺の事柄なんですが、MSGと核酸系の成分が混在したほうがそれぞれ単体で使用するよりもうまみが強くなると謂うことですね。そしてそれにはベストマッチな割合がある。
>>また、アミノ酸系のうま味成分と核酸系のうま味成分が食品中に混在すると、うま味が増すことが知られている。これを「うま味の相乗効果」と呼ぶ。実際に日本料理では昆布出汁と鰹出汁を合わせるといった調理が行われ、中華料理でもシイタケと鶏がらスープを合わせるといった調理が行われている。
(ウィキペディア「うま味」の項目より)
>>これらの呈味性ヌクレオチドと、うま味を生じるアミノ酸であるグルタミン酸の相乗作用が発見されたことから複合調味料が誕生し、市販されるようになった。
(ウィキペディア「呈味性ヌクレオチド」の項目より)
次のエントリでこの辺に触れようかと考えていたところだったので、詳しいご説明を戴けてちょうど好かったです。
>>しかしこれも、アミノ酸系(MSG)が「ある程度の分量を超えると味覚の感受性が飽和状態」になる(そして核酸系はそうではない)のであれば、ある量以上投入した時点からは増えていくのは核酸系のうまみだけであって、たとえ投入するのが低核酸系うま味調味料(アミノ酸系97.5% 核酸系2.5%)であっても、大量投入することで擬似的に高核酸系うま味調味料(アミノ酸系92% 核酸系8%)のような相乗効果を得ることができる……のか……。
考えているのはそう謂うことなんですが、これが本当にそうなのかどうかわからないんですよねぇ。たしかに重量当たりの単価で考えると低核酸系のほうが安いんだと思いますけれど、この考え通りだとすれば、無駄に投入されているMSGの分だけ高核酸系を使ったほうが結果的に安上がりになると謂うことになります。
実際、炒飯を作る場合でも、味の素を使うとハイミーの倍くらい使いますね。核酸系成分は三倍強なんですが、三倍入れると「諄い」から入れないんですね。この諄さは味で感じると謂うよりやはり体感的なもので、後味や飢渇感から逆算したものです。喰ってガツンと美味いくらい入れると、何だか後味が悪いんですね。
ですから、ハイミーを使うと味の素を使う場合のデメリットがないので、かなり感じの良い仕上がりにはなります。大体、米一合半(炒飯を作る場合、一回当たりの量はそれが一番作りやすいと思いますので)に対して、ハイミーを二回振り出すくらいでちょうど好い感じですかね。
元々八%の核酸系配合がベストなら、最初から高核酸系調味料を使えばMSGの過剰投入にはならないし、味の調整をうまみ調味料で行うことにも一定の必然性が出てくると謂うことになるはずなんですが、飽くまでその考え通りだとすれば、と謂う仮定の話ではあります。
しかし、最初のほうで触れたように、MSGの味わいにも広いグラデーションがあるのだとすれば、うまみ調味料を多く使うのは味覚が飽和する限界までMSGのうまみが強い味附けそれ自体を求めていると謂う考え方も出来るわけで、「なんつッ亭」の丼当たりスプーン一杯と謂うのはその方向性で考えることも出来るわけです。
この方向性だと、最初から「感じない」分の余剰投入は織り込んで、誰にとっても味覚が飽和状態になる限界を超えるほど投入することで、MSGのパンチを目的的に求めていると謂うことになります。この方向性になると、それこそ好きずきの話になってしまい、一般化するのが本当に正しいのかと謂う疑問もあります。
たしかにそれ一色になってしまったら、ラーメンと謂うのはそう謂う料理だと謂う話になりますが、化調問題や無化調ラーメンが登場する以前から、それ一色ではなかったはずなんですね。一口に大概の店でうまみ調味料を使っていると謂っても、その投入量は店それぞれでしょうし、使い方も違うでしょう。
それこそ、本来痛覚で感じている刺激に過ぎない激辛志向と同様に、或る味覚や刺激を極端に誇張した嗜好と謂うことになって、それ自体を不自然だとか悪だと規定することが本当に正しいのか、と謂う疑問が湧きます。舌が重い、喉が渇く、それはたとえば激辛料理を食べて舌や内臓が痛くなるとか、翌日排便時に痛みを感じるとか、その種の事柄と変わらないと謂うことになります。
そうすると美味しんぼの「舌がしびれるほど入っているとかえって喜んだりする」と謂うのは本当に「ラーメンの恥部」なのかと謂う疑問が、別の観点から立ち上がってきますね。いずれにせよ、うまみ調味料を悪玉に仕立て上げると謂うのは最も安直な思考停止で、現場の調理人たちの仕事や工夫のプロセスをよく識りもしないで弾劾する愚に繋がると思います。
ただ、考えるだけなら幾つもの方向性が考えられるわけで、それこそhietaro さんが仰るような「空中戦」を別の観点で作り上げることになりかねない。以前の麺の話のように、現場の方や事情通のご意見をガツンと伺って、しっかりした足場を一段獲得したいところですね。
>>「何らかの歴史的な理由」というのはやはりコスト的な問題なのでしょうね。無化調とのコスト比較ではなく、単純に言えば味の素とハイミーのコストの違い。
現時点ではオレもそのように考えています。「うちはハイミーやで」と謂うのが実話かどうかはわかりませんが(笑)、単純に高核酸系は高価だと謂う理由で「低核酸系主体で組み立てる」と謂う出発点に繋がったと謂うのがありそうに思えます。やはり、持続的に飲食店を廻していく場合、削れそうなところからコストを削っていくと謂う発想になるのは自然でしょう。
この辺についても、匿名で好いのでご意見が欲しいところです。「最初は高核酸系を使用してみたけど、こう謂う理由で向かなかった」「低核酸系にしてみたらこう謂う理由で具合が好かった」なんてご意見があれば物凄く参考になりますよね。味の観点の理由だけではなく、経営の観点の理由でも好いでしょう。やはり何か、高核酸系の調味料で味を組み立てると、持続的なラーメン店経営において低核酸系に比べて何らかのコスト的なネックがあるのかもしれません。
オレが個人的に嫌いなタイプの化調批判は、化調を使用している大多数のラーメン屋を「ズルをしている」「楽をしている」「精進を怠っている」と、よく実情を識りもしないで決め附けるタイプの言説で、そもそも「うま調使用のぶっちゃけ」+「調理人の心映え」の論に絡んだのもその辺の動機があったからなんですが、これも現場の人の話を聞かないことには何とも言えない話ではあります。
オレが常々プロの仕事を考える際に座右の銘としているのは、「人がやらないことにはやらないだけの理由がある」と謂う言葉で、素人目にはとても良い思い附きに思えるのに玄人が誰もやっていないと、「プロなんて大したことないな」と謂う侮りに繋がりますが、その「理由」を理解することで、プロの仕事に対するリスペクトが生まれます。
まあ、飲食業界固有の事情があって表立って言いにくいこともあるとは思いますが、実態を識ることで変な偏見を抱く輩がいるなら、それこそ「大人になれよ」と謂う話になるかと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月20日 (木曜日) 午前 04時45分
タイミングがずれたコメントですみません。
私の居住地は首都圏でも展開しているラーメン一杯290円(税別)の店の、ほぼ地元です。
その会社はいろんなものを工場で大量生産するので、「化学調味料」のお世話にならなくとも済むようです。
その会社の人事担当者が以前話したことによると、目標は「誰が作っても同じ味の、火を使わない外食産業」だそうです。
こうなると、「プロの仕事」なんて、一切無視、ですね。MSGとは別の問題になりそうです。
投稿: 憂鬱亭 | 2009年9月29日 (火曜日) 午前 01時26分
>憂鬱亭さん
>>その会社はいろんなものを工場で大量生産するので、「化学調味料」のお世話にならなくとも済むようです。
何というか、化学調味料とは別次元で「効率化」を窮めていますね。オレは食糧供給においては「飢えない」と謂うことが最重要で、「美味い」と謂うのはそれがあってこその贅沢だと考えていますから、大量生産の食品も否定しないんですが、美味いことと対立的な関係になるような大量生産はどうなんだろうと思いますね。
>>その会社の人事担当者が以前話したことによると、目標は「誰が作っても同じ味の、火を使わない外食産業」だそうです。
それはそれで立派な「思想」なんでしょうけれど、将来的に何らかの重要な概念と排除的な関係になるような危惧がありますね。「飢えない」ことは重要だけれど、それ一辺倒になると多分文化は貧しくなるのだろうと思いますし、個人体験の価値と謂う重要な要素がスポイルされない多様性は維持されてほしいと思います。
ただ、ビジネス発祥の思想は文化と対立的な関係になることは多いですね。
それと、システムが人的スキルを代替し得ると謂うビジネス思想は、個人的には好きではありません。結局それが今の日本製品の国際競争力を喪わせ、内政的には社会不安を醸成した元凶だと思いますので。
投稿: 黒猫亭 | 2009年9月29日 (火曜日) 午前 06時20分
憂鬱亭さんの挙げられているチェーン店はこの界隈にもたくさんあって(隣県ですからね)。で、当該の一杯290円(税別)のラーメンと云うのは、確かに凄いと思うのですよ。もちろん「旨い」と云う形容にあてはまるようなものではないのですが、価格から考えて食える味を実現している、と云うだけで凄い。
黒猫亭さんのおっしゃる感覚に同意するところのぼくではありますが、洗練されたマスプロダクションの威力、と云うのも相当なものがあるのだなぁ、と(年に1回くらい)食べるたびに感じます。
投稿: pooh | 2009年9月30日 (水曜日) 午後 10時40分
>poohさん
>>もちろん「旨い」と云う形容にあてはまるようなものではないのですが、価格から考えて食える味を実現している、と云うだけで凄い。
今時のご時世で、三〇〇円弱の売価で汁麺を喰わせてペイすると謂うのは、たしかに凄いことではありますね。一杯のラーメンが成立するまでの様々なコストが、高々三枚の一〇〇円玉に収斂する感覚と謂うのは、たしかに圧倒的なものがあります。仰る通り、それは同じような味のラーメンを六〇〇円内外で提供する商売よりも、もっと精密で集約的な技術ではあるんだろうと思います。
それはたとえばビジネスの側面でも食糧安定供給の側面でも優れた技術だと思うんですが、多分人間が食に求めるものをこの方向性だけが満たすわけではないですし、それは誰でも識っていることだと思うんです。たとえば日清のカップヌードルなんてのは偉大な発明だと思うんですが、そればっかりだったらそんなに文化としては優れたものではなくて、それがきっかけとなって生まれたカップ麺文化の多様性こそが文化として意味を持つんだと思います。
しかし、その一方でこの種のビジネスの在り方は文化の多様性と対立的な関係になりやすい、そこに注意が必要なのかな、と思います。市場原理の観点では圧倒的に有利なわけですから、社会が市場原理一辺倒に傾くと文化の多様性が犠牲になる、そこが危うさを秘めているのだろうな、と思います。
この方向性がスタンダードになれば、食物における「美味い」と謂う感動は相対的に途轍もなく贅沢な価値観になってしまうのが問題なんでしょうね。大袈裟に謂えば、食の領域で支配的な思想が食糧安定供給と市場原理一辺倒になってしまえば、行き着く先にあるのはソイレント・グリーンのような未来なんだろうと謂う気がします。
poohさんのところとは満更無関係でもない原作者による原作は未読なんですが、あの映画の一番厭な場面と謂うのは、チンケな林檎や不味そうな肉を、それが「本物」の喰い物だと謂うだけでこよなき美味であるかのように食す場面ですね。そう謂う意味では、われわれだって人々が化学調味料を嫌う動機や、有機野菜を好む動機の大本にある原始的な感情は共有しているんですが、結局それは現状の世界の在り方に対して妥当なバランスの感情か否かと謂うことが問題なんでしょうね。
投稿: 黒猫亭 | 2009年10月 1日 (木曜日) 午前 12時02分