ラーメンだって作っちゃう(笑)
一連の喰い物関連エントリにおいて、オレが「一般家庭では作れないもの」として避けて来たのはラーメンである。多分、ラーメンだけは一般家庭で作れない、それがオレの先入観だった。しかし、表題通りそのラーメンを作っちゃったのである。とは謂え、今回はこれまでのような調理上のコツを考察する話ではない(或る意味ではコツの考察でも在り得るが(笑))ので、それは一応お断りしておく。
事の発端は、いつも利用している業務スーパーである。「業務スーパー」と謂う名称があまりにも突っ慳貪なので一般名詞だと思いがちだが、これは歴とした商標であって、神戸物産と謂う企業が展開しているスーパーマーケットチェーン店の固有名詞である。関西資本だから、関西の人ならよく識っているかもしれない。
ここで扱っている商品は、一般的な食品企業のブランド品もあるが、普通のスーパーで売っているようなブランド食品はそんなに安いわけではない。ここの商品の大半は神戸物産が独自に仕入れて商品化している食品で、聞いたこともないようなブランドの品物が多いのだが、大量パックで激安を謳っているのである。
当然ながら「安かろう悪かろう」な品目もあって、ここでは生鮮食料品を扱っていないので、肉や野菜はすべて冷凍食品と謂うことになるのだが、精肉の冷凍食品類は鮮度の悪い脂特有の臭みがあって、とてもじゃないが喰えたものではない。にもかかわらず相当量置いてあると謂うことは、一定数ハケていると謂うことだろうと思うが、あれを我慢して喰っている家庭があると謂うのはちょっと想像出来ない。
魚介類もまた大味なものが多く、生の魚介類の冷凍食品は精肉ほど臭みはないが、歯応えや微かな風味が残っているだけで、旨味が殆ど残っていない。なので、素材としての肉や魚をここで買うことはないのだが、下ごしらえ済みのフライやハンバーグ、揚げ物等の半調理品や加工食品の冷凍物はそこそこ喰えるし、乾物、漬け物、調味料や食用油の類は、多少大雑把な味に目を瞑れば大量に安く仕入れることが出来る。
中でもオレがよく利用しているのは、麺類一般である。乾麺、生麺ともに、ここの商品では麺類がそれほど不味くない。と謂うか、一般家庭で入手可能な範囲では優秀な部類ではないかと思う。随分以前に報告した焼きそばの麺も、専らここの商品を使っているのだが、誰でも識っているシマダヤ、日清食品、東洋水産のパックに比べて別段遜色のない味で、しかも一袋二十数円であるから半値以下である。
乾燥パスタも五〇〇グラムで一五〇円前後と、ディ・チェコやバリラに比べて三分の一程度の価格なのだが、多少表示の太さよりも細目であることを除けば、これは調理次第で十分喰えるレベルである。オレはコンビニでよく見掛けるマ・マーや昭和産業のパスタは腰がなくて嫌いなので、輸入品と同様の食感で輸入品よりも格安なパスタがあると物凄く助かるのである。生麺のうどん・蕎麦・ラーメンなども二人前×四包一パックで三〇〇円弱だから、コンビニで乾麺や調理品を買うよりも劇的に安くて美味い。
ただし、ここの麺類には基本的にソースやスープが附いていないから、味附けについては自前で用意する必要がある。焼きそばなら、ここでもオリバーソースやオタフクソースを扱っているからソース焼きそばなら誰でも出来るし、うどんや蕎麦なら麺つゆや白だしを売っているので問題ないのであるが、ラーメンスープに関してはどうかと謂う不安がある。ところが、実はここには「ラーメンの濃縮スープ」と謂う大胆な代物も売っているのである。しかも、でっかいペットボトル入りで(笑)。
これはちょっと味がわからない限りペットボトルを一本買うのも躊躇われるのだが、とりあえず濃縮スープは今回パスすることにして、他の麺類が悪くないのでラーメンも試してみることにして、一パック買ってみた。
そうなると、スープを自製しなければならないわけであるが、つけ麺全盛の現在では麺の重要性が再認識されているとは謂え、一昔前の感覚で謂うならラーメンはスープで喰わせるものと謂うイメージがあったくらいで、ラーメンのスープは調理の難しいものと謂う印象がある。
まあ別段インスタント麺のレベルでも好いのだから顆粒スープでも好いわけだが、インスタントラーメンのスープですら、普通に家庭にあるスープの素とはかなり違った味がすることはたしかである。かと謂って、野菜だの肉だのをぐらぐら煮込んで一からスープを作るほどのことでもないので、ちょっと悩んでいたのだが、たしか某美味しんぼのエピソードで、鶏ガラスープであっさりしたラーメンを作る話があったような記憶があるし、コンソメで作ったスープは上品だがラーメンらしい味がしないと謂うふうに書いてあったので、鶏ガラスープベースでいくことに決めた。
これは当然顆粒スープの素で済ませるとして、それだけではラーメンのスープに合わないことはたしかである。これは当然このスープの素を何度も使っているので、間違いはないところである。そのまま飲んだり中華料理の餡に使う分には十分美味いが、ラーメンを浸して美味いとはちょっと思えない。
普通の醤油ラーメンの汁と謂うのは、要するに日本蕎麦のかけつゆの削り節を獣肉系のスープに置き換えた組み立てだから、ベースとなるスープと醤油や味醂、それに生姜くらいが構成要素だろう。スープのほうは鶏ガラスープで、そのまま飲めるように最初から味が附けてあるので塩は加えないとして、これに醤油と味醂と生姜を混ぜればとりあえずラーメンの汁のような味にはなる。
しかし、スープのベースが単なる鶏ガラ一本だから、店のラーメンのような濃い風味にはならないだろう。このパンチ不足を補うとしたら、やっぱりそれは
うま調である。
何度かこちらにコメントを戴いているhietaro さんは、大阪のラーメンを知り尽くしたラヲタの貌も持っている…と謂うか、もしかしたらラヲタとしての知名度のほうがニセ科学論者としての知名度より高いのかもしれないとすら思うのだが(笑)、あちらのブログでトップアクセスを誇る記事が「アイドルのエッチと、ラーメンのうま味」と謂う良エントリで、ここのコメント欄で「うま調」を巡って侃々諤々の議論を楽しんだのも今は昔の想い出である(笑)。
この「うま調」と謂うのは「うまみ調味料」の略で、世間的には「化学調味料」と謂う呼称のほうが通りが好いが、化調忌避の風潮に配慮してメーカー側が「化学」と謂う語感を避けて「うまみ」を前面に押し出した名称を名乗っているわけである。
味の素のCMでも「Do you know umami?」のフレーズで「うまみ」と謂うタームを必死でプッシュしているが(笑)、美味しんぼ辺りが急先鋒となって化学調味料を目の敵にして攻撃し、「化調濫用はラーメン業界の恥部」とまで糾弾しているので、肩身の狭い立場にあるわけである。
オレなんかは、母親が味の素だのハイミーだのを何の抵抗もなく使って調理した喰い物を喰って育ったので、「おふくろの味」なんてものがあるとすればそれには化調の味も含まれてしまうわけだが(笑)、美味しんぼなんかの化調攻撃によって化調が悪者扱いされているので、今では使わない家庭も増えているのだろう。
しかし、hietaro さんのこのエントリでは、名だたる有名店の店主たちが業界誌と謂う安心感から堂々と化調使用をぶっちゃけまくっているわけで、それが表題の「アイドルのエッチ」に擬えられているわけである。「いや、陰でやってるってことはみんな識っているけど、それって言わぬが華じゃない?」と謂うニュアンスなのだが、まあオレ的には「化調使ってどこか悪いの?」と謂うところである。
そんなことを言おうものなら、山岡士郎には「それはおまえが喫煙やジャンクフードのせいで鼻も舌もダメになっているからで、猫にも劣る味覚の持ち主だ」と言われかねないが(笑)、あのアジの干物と猫のエピソードなんかを読むと、雁屋哲って猫のことを何にも識らねえのな、とか思っちゃうね。猫なんてのは、強い臭いで喰い物を識別しているので、猫風邪を引いて嗅覚が鈍ると命に関わるなんて言われている。
これはもう、強い臭いであれば何でも好いのであって、ウチの猫なんかだとオレが一日働いて帰ると汗と脂と垢でベタベタになった足の裏を舐めに来たりするから油断がならない。友人が遊びに来ると、まず靴下の臭いを嗅ぎに行ったりするので、自分の足の裏ならともかく、他人の足の裏に擦り付けた顔で甘えて来られてもちょっとアレだったりする(笑)。
足の裏の臭いと喰い物の臭いの区別が附かないのが猫なんだが、このエピソードだと干物を乾燥させる機械の燃料油の臭いが附いているから猫が喰わなかったと謂う話になっている。莫迦だよなぁ、機械乾燥の干物を猫が喰わなかったのは、臭いがあるからじゃなくて臭いがないからに決まっているじゃないか(笑)。
まあ、雁屋哲の物識らずを嗤うのは程々にして、hietaro さんの当該エントリを拝読すると、素人がラーメンを作る場合に参考になるフレーズが結構ある(笑)。
「うちは味の素なんか使ってへんで。うちはな、ハイミーや」
と、自慢げに話したラーメン屋のオヤジがいたとか。
ハイミーは味の素の2倍以上するので、「高級品を使っている」という素朴な自慢なわけだ。
そうなんだよ、ハイミーは高いんだよ(笑)。味の素とハイミーはどこがどう違うかと謂えば、味の素の公式サイトのQAではこのように説明している。
Q:「うま味だし・ハイミー(R)」と「味の素(R)」の違いと使い分けを教えてください。
A:うま味調味料「味の素(R)」は、昆布のうま味に代表されるグルタミン酸ナトリウムに2.5%の5’—リボヌクレオタイドナトリウム(しいたけやかつお節のうま味成分)を配合したものです。食材のおいしさを引き立てたり、料理の味をととのえる基本的な調味料として、下ごしらえから仕上げまで味の補いとしてあらゆるメニューにお使いいただけます。
「うま味だし・ハイミー(R)」は、前出の5’−リボヌクレオタイドナトリウムが8%加わり、うま味調味料「味の素(R)」よりうま味が強く、かつコクがあります。「うま味だし・ハイミー(R)」は、汁物や煮物のだしとして、お使いいただけます。中華でもこってりとした料理やとろみのあるスープ、味噌を使った料理、野菜をじっくり煮込む料理、吸物、酢によく溶けるため酢の物の調味などに適しています。
「うま味だし・ハイミー(R)」の方が少量でうま味をきかせることができます。
このリボヌクレオタイドナトリウムと謂うのは、イノシン酸ナトリウムとグアニル酸ナトリウムの混合物で、イノシン酸ナトリウムは鰹節、グアニル酸ナトリウムは椎茸の旨味成分である。そして、言うまでもなくグルタミン酸ナトリウムとは昆布の旨味成分であるから、味の素やハイミーには、和食の旨味成分がすべて配合されていると謂うことになる。
味の素はグルタミン酸ナトリウムにリボヌクレオタイドナトリウムを少量配合したもので「味の補い」として下ごしらえや仕上げの補助的な使用法、ハイミーはリボヌクレオタイドナトリウムが三倍強に増量されていて少量でもうまみが強く、そのままダシとして使えると謂うわけである。
二倍近い価格の差は、この増量分のリボヌクレオタイドナトリウムの分だと謂うことになるから、グルタミン酸ナトリウムに比べてかなり高価なのだろう。
大勝軒のオヤジなんて、こんなことまで堂々と口にしている。
大勝軒山岸:「長時間煮込んで、スープがほぼ出来上がったところでバーーーツと『味の素』をでっかい鍋に振り入れるんだ。スープの味を見て、量は感覚で調整する。『味の素』の缶を両手に持って入れてたから『二刀流』なんて言われたりしてたね」
…二刀流なぁ(笑)。まあ、たしかにメーカーの推奨する「仕上げの補助」として用いているわけであるから、正しい使用法である。ハイミーだけでスープのダシを取っていたら老舗の名が泣くが、味の素で味を調整する分には許容範囲だろう。
本題である一般家庭におけるラーメンスープについて考えると、そもそもスープの組み立てが鶏ガラスープだけであるから、「仕上げの補助」よりも「ダシ」としての用法になるだろう。ここは「ちょっと贅沢に」ハイミーを使ってみようと謂うことで、前述の構成のスープにハイミーを…
チャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャッチャ
…と大体こんな感じで振り掛けてみた。いや、大勝軒のオヤジが味の素の二刀流を使うくらいなんだから、素人はこんな感じでも好いはずである(笑)。顆粒のスープだからこれだけでは脂気が足りないので、鶏脂や豚の背脂の代わりにラードを少量垂らしてやると、濁ってはいるが見た目的には醤油ラーメンのスープらしく見える。
これでとりあえずスープはクリアしたので、麺を茹でて湯を切りスープに浸して予め用意した具材を載せ、いざ啜り込んでみるとですね、
…哀しいくらいにラーメンの味がした。
そうか、オレみたいなラヲタでも何でもない人間が大まかに「ラーメンらしい味」として認識しているのは、やっぱり獣脂と化学調味料の味なんだなぁ(笑)。
何かこう「皆さんもお試しあれ」と胸を張って言いたくないような気がするのは何故だろう。以前の揚げ物のエントリでも触れたことだが、喰い物について「ああ、こう謂うことだったのか」と卒然と理解することは、常に何かちょっとした幻滅を伴うような気がする(笑)。
まあ、これで終わっても尻すぼみなので、急に思い立ってラーメンを作る場合に、冷蔵庫のあり合わせのもので具材を仕立てるやり方を書いてお茶を濁しておこう。
まず、普通の一般家庭には、ラーメンの具の主役である煮豚なんかは常備していないだろう。オレも以前は豚モモのブロックを買ってきて煮豚を自製していたのだが、今は季節柄そんなにラーメンや炒飯を喰わないので作り置きがなかった。
煮豚の味の組み立てを考えると、生姜とニンニクと葱の青いところを加えた水で豚肉を三〇分〜一時間くらい茹でて、醤油と味醂、砂糖、生姜、ニンニクを煮立てた汁に漬け込んで一晩くらい置いたものである。この場合は、大体そんな味がすれば好いわけであるから、いつぞや紹介した「にせトンカツ」の考え方で、豚小間で代用が可能だろう。
豚小間を適量、油を敷かないテフロン鍋で炒めて、豚肉が浸かる程度に酒を多目に掛ける。これに醤油と味醂、砂糖、生姜、ニンニクを加えて暫く煮詰め、豚肉に火が通り醤油の色が附いたら、一旦ステンレスのざるに空けて煮汁を切る。別の鍋でも同じ鍋をすすいで使っても好いが、やはりテフロン鍋を熱して油を敷かずにざるの中の豚肉をぶちまけると、少し焦がし気味にザッと火を通し、仕上げに少量の醤油を垂らして焦がす。
これで何となく炙った煮豚のような味になるので急場の代用としては十分だ(笑)。
次に、やはり煮玉子もないと恰好が附かないのだが、煮玉子と謂うのは別段茹で玉子を煮て作るわけではなく、濃いダシ汁に長時間漬けて浸透圧で味を染み込ませたものだから、そんなに短時間には作れない。茹で玉子そのままでも好いのだが、やっぱり表面に何の味も附いていないと何だか物足りない。
そこで、白だしを二倍くらいに薄めたダシ汁を保存用のビニール袋に半カップくらい入れて、そこに半熟の茹で玉子を入れ、空気を抜くようにびっちり絞って口を結ぶ。これで少量でも満遍なくダシ汁に玉子が接触するから、後はこれを一時間程度冷蔵庫に入れておけば、少なくとも表面にだけは味が染みる。以前語ったように、白だしは見た目とは違って物凄く塩分濃度が濃いので、二倍に薄めてもガンガン玉子に浸透してくれるのである。一度茹で玉子に塩を振ってラップしておけばどうだろうかと思って試してみたのだが、塩の附いた箇所が凸凹になって甚だ見場が悪かった。
後は、もやし、菠薐草、しめじなどを塩茹でにしたもの、それに晒し葱をあしらえば最低限の具材にはなる。残念ながら、ナルトは切らしていたので使わなかったが、斜めに切ったものを添えれば彩りも好いし、あれば必ず添えることにしている。
メンマ、ザーサイがあればなおよしで、前述の業務スーパーではメンマの大量パックや丸のザーサイも売っているので、ウチには大量のストックがある。丸のザーサイはそのままでは塩辛くて喰えないので、塩抜きや下ごしらえをしてやる必要があるが、普通のパックのザーサイなら細かく刻んでごま油とラー油で炒めて載せるだけで好いだろう。メンマのほうも、瓶詰めで構わないがごま油で炒めてやると香りが違う。ただ、あまり高温で炒めるとメンマやザーサイの肌が醜く揚がってしまうので、比較的低温で油を廻すくらいの感覚で好いようである。
本題のラーメンのほうはアレだったが、具材のほうは皆さんにお試し戴いてもそんなに恥ずかしくないだろう(笑)。
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コメント
私、その業務スーパーのラーメンスープ買いました。ペットボトルのヤツ。
買わなくて正解だったと私は思います、ハイ。(^^; あれはヒドイ。
ところで、最近は化学調味料に関する見解が変わってきました。というか、やっと立ち位置がわかったというところでしょうか。
よく行くラーメン屋さんの話を聞きながら自分で豚骨スープを取ってみたりして気づいたのですが、化学調味料を使うラーメン屋(というか、ラーメン)には2種類あるのだと。
つまり、ベースとなるスープがあってそれに補助的な役割として化学調味料を加えるのと、メインの味として化学調味料を使うのとです。
前者は主に味のブレを安定させる(平均化する)役割ですね。だからあくまでも脇役。後者は全くの主役です。(^O^)
それぞれ担う役割も、味も違います。
この2つをごっちゃにするから化学調味料を巡る議論は無茶苦茶になる(傾向が強い)んだと思います。お互い、同じ話題なのに別のことを話してるんですよね。
このあたり、ネット上にあるのはall or nothing の議論ばかりです。
あと、私は大阪のラーメン、全然知り尽くしてませんので。(^^;
それに弱小ブログなんですよ、ほんとに。
相手にされてない感(^O^)は結構感じてるんですよ。
こんなマトモなことをいうラーメンブロガーはそういないのにね。(^O^)(^O^)
ところで、煮玉子はどうして煮豚モドキをつくった煮汁を使わないんですか?
……あと、モヤシはラーメンを堕落させる具材ですので、断固反対です。(^O^)
投稿: hietaro | 2009年8月14日 (金曜日) 午前 05時35分
おはようございます。
おうちラーメンはカップヌードルでもいいや派なので、いつもながらの亭主様のこだわりに感心致しました。
ラーメンは、ずーーーーっと昔に父が北海道出張のおりにお土産で買ってきてくれる”熊五郎ラーメン”が楽しみでしたねぇ。味噌ラーメンなんて東京にはありませんでした(中華そばOnly)から、新鮮で美味しかった記憶があります。
昔は、「味の素」か「いの一番」が家庭の台所に普通にありましたよね。今は「だしの素」に姿を変えて浸透しているのでしょうか。
OL進化論(4コマ漫画)のネタに、結婚の挨拶に来る未来の嫁に、姑が上品なだしを取ったお吸い物を出すと、嫁はOLでグルメなので”デキルな!”と威嚇を感じ、姑は”勝った!”とサイキックバトルを演じるわけですが・・・夫と息子が”味が薄い、いつもと違う、だしの素入れた?”と聞く事で普段がばれるというオチがありました。
多分一般家庭はこんなものですね。
投稿: うさぎ林檎 | 2009年8月14日 (金曜日) 午前 10時30分
こんにちは。
美味しんぼの呪縛から完全に解き放たれていない黒猫です。我が家には味の素の類は未だに置いてありません。
タイトルを見て、手打ち麺!!などと勘違いしてしまいました。黒猫亭様ですので、あり得る話だと・・・。実は、パスタマシーンを使用して、中華麺を作ったことがあるのですが、コシがなくてがっかりな出来映えでした。それこそ、業務スーパーの麺の方がだいぶマシでしたよ。
旨み調味料を使用したスープも無化調(旨み調味料不使用)を謳うスープも美味しければどちらも大好きです。無化調ラーメンを食べた後にはイカにも使っていますというスープが恋しくなりますし、逆も又しかりです。
手軽に美味しさを演出できる発明も旨みを訴求する食文化のどちらも素晴らしい行為であるし、批判される云われは無いと思います。利点と欠点を理解し、上手に使用する事が大切だと思いました。
あと、hietaro様も仰っているように、煮豚の煮汁はとってもラーメンに合うと思いますよ。煮詰めてグラスドビアン風にすると保存しやすいです。
投稿: どらねこ | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 01時49分
>hietaroさん
>>買わなくて正解だったと私は思います、ハイ。(^^; あれはヒドイ。
あ、やっぱり(笑)。あの色がすでに凄いですよねぇ、なんか毒々しく真っ茶色で。やはりここのオリジナル商品には、あまり多くを求めてはいかんですね。ドレッシングなども大雑把な味のものが多いですから、フレンチの白は我慢出来ても赤はちょっと戴けないとか、当たり外れがあります。総じて、毎日のおかずとして平均点の出来なら当たりと謂うレベルであることは間違いないですね。
>>つまり、ベースとなるスープがあってそれに補助的な役割として化学調味料を加えるのと、メインの味として化学調味料を使うのとです。
仰る通りなんですが、もしかしたらそちらの当該エントリで議論した際にはそう思っておられなかったと謂うことでしょうか。うーむ、そうすると少し前提がすれ違っていたかもしれません。
仰っているようなことは、「オレと『うま調』」のインタビューで店主たちが言っていることそのままなのですね。「うま調」がスープの味を決めるなんて話は誰もしていないわけで、自分の編み出したスープを最終的に調整してブレを吸収し、その調整の幅が経営的なメリットももたらしてくれる、と謂うような言い方ですよね。これはうま調を便利なスープの素として視る考え方とは全然違って、物凄く現実的なラーメン店経営の現場の生理を感じました。
中でも「素材のバラつきをうま調で調整する」「うま調を使うと塩の角が取れる」なんて謂う意見は、非常に現場のリアリティがあると思いました。おそらく、それをそのまま受け入れるか「ホンマかいな」と一度懐疑してみるかの違いだろうと思うのですが、オレは「ああ、これはそうなんだろうな」と割と素直に受け容れてしまったので、そう謂う前提で話をしています。
多分ここで言われている「うま調」とは専ら味の素のほうでしょうけれど、グルタミン酸ナトリウムには、食塩ほどではないですがマイルドな鹹味のようなものがありますから、それが食塩のキツい鹹味を和らげる効果はあるでしょう。逆に謂えば、グル曹の鹹味から逆算して食塩の量を調整していると謂うことでしょうから、それが結果的に塩の角を取っているような見え方になると謂うことかもしれません。
また、基本的に一〇〇〇円以下の定価で提供している喰い物商売にはそれほど大きな利幅がないですから、季節要件として変わってくる食材の味や品質、価格の高低と謂う条件の変化を吸収する体力が、「時価」でコストを客に負担させられる一部高級料亭や高級寿司店、毎日メインディッシュをアレンジ出来る一流料理店などとは違いますね。可能な限り店がコストを被ったとしても自ずからなる低い限界があります。
そこのバラ附きを調整して一定のレベルに維持するのがうま調の役割なんだろう、と謂う意味で商売の話もさせて戴いたわけですが、やはり外食の料理を論ずる場合にはどうしても経営的な観点の問題も出てくるわけで、料理を商品デザインとして視る観点も必要になってくると思うんですね。
たとえばhietaro さんは以前の記事で、名店の店主たちのインタビュー本を紹介しておられて、その中で「スープを失敗したら店を休むべきか」みたいな話があって、それに対しては店ごとに全然違う考え方がありましたよね。休むべきだと言う店主もいれば、ちゃんとリカバリーして店を開けるのがプロだと言う店主もいましたが、おそらくそれと原理的には同じ問題なんだと思うんですよ。
自信のない商品を提供して、たった一度の客との出会いの契機をふいにすることを潔しとしない店主もいれば、或る程度のレベルで自店の味を見切って、失敗してもそこのレベルまで持っていくことで次善を目指し、不定期休業による信頼性の低下を回避すると謂う方針の店主もいるでしょう。それはホスピタリティの精神論であると同時に、現実的な店舗経営の戦略や方針の問題でもあります。
そのどちらが好いとも言えないように、化調を使うか使わないかでラーメンの味の評価が決定すると謂う考え方もナンセンスだと思うんですね。勿論、無化調で頑張っているラーメン店主の大半は美味しんぼ直撃世代でしょうから、化調=悪と謂う認識の方も多いのでしょうけれど、本来無化調ラーメンと謂うのは付加価値商法としての商品デザインの問題に過ぎず、一種有機農法野菜と根は同じだとオレは視ています。
無化調ありきでスープの組み立てを考えるのは、無農薬ありきで考えてストリキニーネを使う愚かさに繋がる危険性を秘めていると思うのですね。化調使用もまた選択肢として捉えたうえで、自分のイメージする味には必要ないから使わない、そう謂う距離感が本来じゃないかと思うんですよ。
また、無化調志向の大本の根拠が何であろうと、それによって現実に客の嗜好のトレンドが変わってきた、だからそれに対応する、こう謂う考え方でも好いと思います。これはもう、薄味がトレンドだとかこってりがトレンドだとかと選ぶところのない話で、客の嗜好には流行り廃りがありますから、それに対応するのも商売でしょう。
また、別の観点で謂えば、何故化調だけを特別視するのかと謂えば、これにもさしたる根拠はないんだと思うんですね。食塩だって重曹だって同じように化学的に製造されているわけで、詰まるところ化調を食塩や重曹と違うものとして認識させているのは、自然崇拝みたいな印象論なんだと思うんですよ。化調は、そのままの形では自然界に存在しない人工物だ、これが根拠と謂えば根拠でしょう。
それを謂うなら、化学的に製造された食塩もそのままの形では自然界に存在しないわけですが、これは単に「天塩や岩塩に比べて味が貧しい」と謂うだけの評価だと謂うのがどうも整合していません。たとえば美味しんぼの八九巻には、昆布粉の小瓶を携帯して何にでも掛けてしまう人のエピソードが収録されているんですが、落とし所としては昆布粉を掛けること自体は何ら批判されていないんですね。
しかし、これって早い話がグル曹中毒ってことで、何にでも味の素を掛けるのと同じことでしょう(笑)。しかしそれが一級品の高級昆布でグル曹以外にも豊富なミネラルやら何たらが含まれているから、ゆう子さんまでが育児食として「何にでも混ぜて食べさせています。強い子に育ってくれるわ」と豪語しているんですね(笑)。グル曹中毒は現代病だと謂う話は何処に行ったんだと思わずツッコミを入れてしまいます。
「天然物で高級でミネラルや栄養のあるグル曹の中毒なら身体に好い」ってのは、どんなおまじないなんでしょうか(笑)。
現場の生理では、すでに化調は塩や味噌や醤油と同じで、それ自体普通の調味料の一つと謂う感覚なのだと思うのですが、自然崇拝に基づく化調批判が化調だけがそれらの調味料とは別種のものだと謂う認識を作り出してしまったのだと思います。中華料理店で化調が何の抵抗もなくふんだんに使われているのは、中国人の現実的合理性と謂うか、自然由来かどうかなんて基準では化調を視ていないからでしょうね。
>>相手にされてない感(^O^)は結構感じてるんですよ。
>>こんなマトモなことをいうラーメンブロガーはそういないのにね。(^O^)(^O^)
いや、仰る通りです。はてなとか通行量の多いところにあって、ブクマとかにも積極参加しておられたら、一桁以上はアクセスが違うんじゃないかと思いますよ。現状のブログ言論では、やっぱりはてなとそれ以外と謂う感じになってしまって、ニセ科学の論壇でも、きくちさんやapj さんみたいなビッグネームを除けば、はてな以外のブログはそんなに爆発的なアクセスはないですよね。
でも、多分それは一長一短があって、やはりブクマなどのシステムでガーッと一気にトラフィックが盛り上がると、じっくり考察を深めると謂うより活発なコミュニケーションで議論のテンションを上げていくみたいな形になりますから、話題や論者の性格や戦略によっては向き不向きがありますよね。
>>ところで、煮玉子はどうして煮豚モドキをつくった煮汁を使わないんですか?
複数の理由があります。
まず、段取りの問題として、短時間で味の附いた茹で玉子が必要だとしても、玉子を茹でるところから始めると一時間半くらい掛かるわけですが、当然玉子を漬ける前に漬け汁を作らなければなりません。つまり、煮豚モドキを一時間以上前に作らなければならないわけで、本物の煮豚ならいつ切って喰っても美味いですが、単に豚小間にそれらしい味を附けて炒めただけの大雑把な代物ですから(笑)、作ってすぐ喰ったほうが美味いので一時間も前に作りたくないと謂う理由が一つあります。
次に、漬け汁の問題ですが、煮豚の漬け汁と謂うのは、茹でた豚肉をそのまま漬けるだけですから、煮豚を漬けた後でも脂を掬ってやれば割と使い回しが効きますね。オレも普段煮玉子を作るときは煮豚の汁を使ったり、豚と玉子を同時に漬け込んだりします。
しかし、この場合は同じ汁を豚肉と共に炒め合わせて肉に味を附けるわけですから、鍋に油を敷かなくても豚肉自体からアクだの脂だのが出ますし、その上で煮詰まりますからそんなに美味いもんじゃありません。転用を考えないほうが好いと思います。
さらに、煮玉子乃至味附け玉子と謂うのは、本来浸透圧を利用して長い時間を掛けて味を附けるものですから、煮豚の漬け汁のようにそのまま普通に喰える塩加減だと、汁が芯まで染み込んだ状態で仕上がりですよね。これには長い時間が掛かります。
一時間くらいで附けられる味と謂うのは、要するに濃いめの塩加減で表面にだけ強めの塩味を附けるわけですから、茹で玉子の表面に塩をなすった程度の鹹味です。そのまま塩を振り掛けると凸凹になるとしても、濃い食塩水で十分味が附くのですが、濃い食塩水と謂うのはお湯に塩を入れて丹念に攪拌しないと出来ないので、塩分濃度の濃い白だしを倍に割ったものが簡便で醤油の味附けにも合うだろうと謂うことです。勿論スープの味附けと白だしが合わないようなら食塩水で十分だと思います。
>>……あと、モヤシはラーメンを堕落させる具材ですので、断固反対です。(^O^)
そうなんですか、うーん(笑)。昔からもやしの入ったラーメンを喰って育ったので、もやしのないラーメンと謂うのは寂しく感じるのですが、その辺はラーメン観の違いと謂うか、地域性や食事観の違いなんかもあるんですかねぇ。
多分、hietaro さんとオレの嗜好が最も違う部分とは、オレは食材の構成がシンプルな料理が嫌いだと謂うところかな、と思います。蕎麦とかうどんでも種物以外喰わないですし、ラーメンも麺とスープに薬味的に具材が添えてあるだけだと、何だか好きじゃないんですねぇ。
これは多分、ウチのオヤジが「とにかくお膳の上にたくさん皿が並んでないと気に入らない人」だったせいですかね。何かとご飯、と謂うようなシンプルな構成の食事は嫌いだったみたいで、常に大皿小鉢合わせて一汁五菜くらい並んでないと気が済まなかったみたいですし、所謂「膳の上で呑む」人でもあって、そう謂う人の嗜好に合わせた田舎の食卓で育ったから、と謂うこともあるかもしれません。
ご飯と漬け物みたいなシンプルな食事は小腹凌ぎの間食みたいなもので、日に一度は少しずついろんな食材をたくさん喰う、と謂う感覚が染みついているんでしょうね。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 03時46分
>うさぎ林檎さん
いやあ、今回は「濃いめに作った鶏ガラスープに醤油と味醂と生姜を混ぜてハイミーをガンガン入れるとラーメンスープの味になるよ」と謂う、物凄く大雑把な結論でお恥ずかしい次第です(笑)。多分これ、ラーメンブームや無化調志向が出てくる前の、美味くも不味くもない一般的な町場のラーメン屋のスープの味附けの基本骨格だったんでしょうね。
つまり、「志村屋です」でダチョウ倶楽部の肥後が演じているような、昔からある脂の煤が染み附いたような小汚いラーメン屋の味と謂うか、炒飯に附いてくるスープと謂うか(笑)、あの辺の味の骨格に、蕎麦のかけ汁の節を鶏ガラスープに換えて代わりに化調を加え生姜で味を整えると謂う一般的セオリーがあったんでしょう。
勿論、現在のようにラーメンのバリエーションが豊富になって、結果的に無化調ラーメンと謂うデザインの料理が市民権を得てしまえば、「ラーメンらしい味」そのものに幅が出てきますから、これは町場のラーメン屋とかインスタントラーメンで育ったオレの世代の感覚で謂う「ラーメンらしい味」です。
今の融通無碍なバリエーションでラーメンの味を認識している世代が、どこそこの店の味こそが俺のラーメンの味だ、あれを再現したい、と考えたら大変でしょうね。そこまで凝り出したら大変だと思います。ただ、今は大きめのスーパーに行けば、中華料理の顆粒スープが数種類出ていて、貝柱や干しエビなどバリエーションがありますから、それを組み合わせると謂う手がありますね。
所詮一般家庭では一からスープを煮るのはコストパフォーマンスが悪いですから、そこはインスタントレベルと割り切ってしまうのが好いでしょうね。ゲンコツだのモミジだのを買い込んで家族の人数分のスープ作っても虚しいですよね(笑)。
>>味噌ラーメンなんて東京にはありませんでした(中華そばOnly)から、新鮮で美味しかった記憶があります。
ああ、東京には味噌ラーメンがなかった時代があるんですか。オレの記憶だと北陸には昔からあったように思います。北陸地方って、交通の関係だとは思うんですが、何だか意外な地域圏の食文化が変な具合に流入していて、近畿圏と中京地区の食文化の影響が強いんですね。東北や北海道の食文化も、もしかして日本海沿いに流入していたのかもしれません。
>>昔は、「味の素」か「いの一番」が家庭の台所に普通にありましたよね。
農協で味の素やいの一番の缶入りを売っていて、それが常に台所にあったと謂う記憶がありますね。ハイミーはやっぱり当時から高かった(いや、いきなり高くなるもんではないから当たり前ですが(笑))ので、あんまり使っていなかったように思いますが、中元や歳暮で貰うと謂う感じだったかと思います。結婚式の引き出物なんかにもたしか化調の缶を混ぜることがあったように記憶しております。
ウチの母親は味の素が出たときに「こんな美味いのだからそのまま舐めたら凄く美味いに違いない」と思ってこっそり一掴みくらい口に入れたら、気持ち悪くなって吐いてしまったそうです(笑)。莫迦だなぁ、オレの親だけあってネタに事欠かないよ。
>>今は「だしの素」に姿を変えて浸透しているのでしょうか。
だしの素はまた、味の素とかいの一番とはカテゴリーが違うことは違うようです。味の素などのグル曹や核酸系のうまみ成分はうまみ調味料で、ほんだしなどはうまみエキスとかそんなカテゴリーになるようですね。つまり、うまみ成分を合成したものか食材のうまみエキスを抽出したものか、と謂う区分ではなかったかと思います。
まあ、だしの素自体にも補助的にうまみ調味料が用いられているようですが(笑)、基本的に規格外品などからうまみエキスを抽出したものが主成分のようです。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 03時47分
>どらねこさん
>>美味しんぼの呪縛から完全に解き放たれていない黒猫です。我が家には味の素の類は未だに置いてありません。
いやあ、五十代以下で料理や食文化に関心のある人間なら美味しんぼの影響を受けていない人なんていないんじゃないでしょうか。みつどんさんやTAKESAN さんも美味しんぼにやられた時代があったと思いますし、オレだって二十代の頃は熱心に読みました。全巻とは行かないですが、ほぼ大半のコミックスを持っていますし、コンビニで新刊を見掛けると惰性で購入してしまいますね(笑)。
今や美味しんぼは非合理な自然崇拝の発信源みたいな扱い…と謂うか本編そのものがそのような性格になってしまいましたが、出現当時の歴史的意義って大きいとは思うのですよ。それまでは感覚的・経験則的に語られていた料理を科学的観点から視ると謂う視点は、美味しんぼが最初に提示したものだと思いますし、「美味いと謂うことはどう謂うことか」と謂う科学的な視点があったと思うんですね。
スタート当初の主張が一八〇度変わった例もありますが(笑)、それは科学的知見と謂うものそれ自体が絶えざるアップデートを蒙るものである以上仕方のない側面はあると思いますし、その時点において確実性の高い情報を発信していけばそれで好いと思うのですが、段々思想的な部分が偏重されてくると、逆に非合理性が支配的になってくると謂う好例ですね。科学する心って、やはりイデオロギーとは相性が悪いんだと思います。
>>タイトルを見て、手打ち麺!!などと勘違いしてしまいました。黒猫亭様ですので、あり得る話だと・・・。
お恥ずかしい次第でございます(笑)。何度も強調しているように、オレは物凄く手先が不器用な人間ですから、調理技術自体はかなり低レベルで、みつどんさんやどらねこさんやうさぎ林檎さんにはとても及ばないと思います。
その代わり…と謂うのも烏滸がましいのですが、あそこで喰ったああ謂う喰い物はどうすれば一般家庭でも喰えるのか、夜中にあれが喰いたくなったらどうやって作れば満足出来るのか、と謂うのは物凄く考えるんですね。イメージした料理がイメージした通りに出来ないと、何故だろうと謂うことをしつこく考えるところがあるんです。
若い頃のオレは今よりもっと大食漢で、たとえば中華の五目焼きそばと肉絲焼きそばのそれぞれ大盛りを一度に喰ったりしていましたから(笑)、外食だと高く附く上に第一見場が悪すぎます(笑)。それやこれやで、喰いたいものを自宅で再現することには昔から熱心だったと謂う事情がありますね、自宅で作る分には安上がりだし人目を気にしなくても好きなだけ喰えますから(笑)。
で、結局一連のエントリで語ったようなことって、やはり美味しんぼが最初に提示したセオリーに則っているわけじゃないですか。一般人の料理観においては「料理を科学的に視る」と謂う視点の提示は物凄く重要な転換点であって、オレもやはり美味しんぼの呪縛の範疇で料理を考えているところはありますね。
>>旨み調味料を使用したスープも無化調(旨み調味料不使用)を謳うスープも美味しければどちらも大好きです。無化調ラーメンを食べた後にはイカにも使っていますというスープが恋しくなりますし、逆も又しかりです。
基本的に、価値的な高低はないと思うんですよね。たとえば、吉野屋の牛丼やマクドのハンバーガー、ケンタのフライドチキンなんかも、たまに喰う分にはあれはあれで美味しいわけですし、そのような価格設定になっているわけですから。
人間の食の在り方って、「これだ」と決めたところから何か思想的な動機で逸脱していくんではないかと思いますね。元々人間の食の戦略って、いろんなものをとにかく何でも幅広く喰うと謂うリスク分散の方法論ですよね。それが地域性によっては喰えるものに制限があるから国や文化ごとにバリエーションの多寡がある、そんなところじゃないかと思うんです。
マクロビなんかの「日本食宇宙スゴイ」な思想も根拠がないわけで、日本食ってそれぞれの食文化圏毎に視ていくと、それほどバリエーションの幅がないですから、リスク分散の方法論から謂うとそんなに理想的でもないと思うんですね。そう謂う意味では、今のようにいろんな選択肢がある状況のほうが、昔の日本食よりもよほど健康に良いわけで、実際に平均寿命も延びているわけですよね。
>>手軽に美味しさを演出できる発明も旨みを訴求する食文化のどちらも素晴らしい行為であるし、批判される云われは無いと思います。利点と欠点を理解し、上手に使用する事が大切だと思いました。
そちらで語ったことにも通じる感覚ですが、つい半世紀かそこら前には、割と日本人は常に飢餓感を抱えて生きていたわけで、美味しいものを腹一杯食べたいと謂う原始的な欲求を抱えて懸命に働いていたところがあると思います。
食料の安定供給が確立されるには、たとえば農薬や化学肥料、そう謂うものの貢献が計り知れないわけで、今現在の農業技術は素人が「残留農薬が」とか指摘出来るほどペラいものではないわけです。食の安全を脅かしているのは、個々の企業や特定人物の不正や怠慢による「事件」であって、食のシステムそれ自体ではないはずです。
オレ自身はコンビニ弁当とかカップラーメンは嫌いなんですが、それは単なる嗜好や体質の問題で、それらに象徴されるような「日常的な食」の流通システムの維持が飢えずに済む世の中を支えていることは事実です。
昔の日本にはハレとケと謂う区別があって、たとえば日頃は美味くも不味くもないものを喰って満足していても、ハレの日にはみんなでご馳走を食べる、そう謂うオンとオフがあったわけですね。今だってそれで好いじゃないかとオレは思うんです。それなりの手間を掛けて不味くないくらいのものを日々の糧として喰って、たまに飛びきり美味いご馳走を食べに行く、それで好いんだと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 04時47分
>うさぎ林檎さん
追記です。「たしか味噌ラーメンてのは結構最近出来たラーメンだったよな」と思ってウィキで確認してみたら、昭和三〇年代に札幌で生み出されたそうですから、われわれくらいの世代(勝手に同世代にしてますが(笑))だと北陸と東京で伝達に時差があったと謂うのも頷けますね。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 04時59分
>黒猫亭さん
>>>つまり、ベースとなるスープがあってそれに補助的な役割として化学調味料を加えるのと、メインの味として化学調味料を使うのとです。
>仰る通りなんですが、もしかしたらそちらの当該エントリで議論した際にはそう思っておられなかったと謂うことでしょうか。うーむ、そうすると少し前提がすれ違っていたかもしれません。
あの時は実感としてはこの区別がもうちょっと不明確でした。すれ違っていた部分もあったんだろうというのが、振り返っての感想ですね。
>仰っているようなことは、「オレと『うま調』」のインタビューで店主たちが言っていることそのままなのですね。
そうなんですよ。これが面白い?ところで、この区別があらかじめ出来ている人と出来ていない人とでは、まったく違うように読めてしまうわけですね。
あのエントリは今でもよく2chあたりで貼られるんですが、たいていの場合はラーメンの化調がどうのという話題が出て、そこに「何言ってんだよ」という感じで貼られるというパターンです。
この場合など、ほんとにこのすれ違いがはっきりしていて、「そりゃこれじゃあ議論にはならんなあ」という感じです。
しかしこれはなかなか共通認識にはなりづらいです。
おそらくは「化調メイン」の味(^O^)を食べていた世代とそうでない世代、あるいは『美味しんぼ』との距離感あたりでもバラツキのある理解なんだと思います。
>また、基本的に一〇〇〇円以下の定価で提供している喰い物商売にはそれほど大きな利幅がないですから、季節要件として変わってくる食材の味や品質、価格の高低と謂う条件の変化を吸収する体力が、「時価」でコストを客に負担させられる一部高級料亭や高級寿司店、毎日メインディッシュをアレンジ出来る一流料理店などとは違いますね。可能な限り店がコストを被ったとしても自ずからなる低い限界があります。
というところなんですねえ。
結局、その日1日だけうまいものを出せればいいという考え方であれば無化調でまったく構わないわけです。それを毎日営業することの味のブレのリスクをどう吸収しようかという部分での選択肢になってくるんですね。
ただ、「リスクヘッジとしての化調」という選択肢について、では「もともとはない方がいい」ものなのかどうか、といった議論は可能だと思いますが。
>そのどちらが好いとも言えないように、化調を使うか使わないかでラーメンの味の評価が決定すると謂う考え方もナンセンスだと思うんですね。
そういうことだと思います。
自分のところで最近も少し書きましたが、これは「スープがぬるいからダメ」とか「麺が軟らかいからダメ」みたいなのと大して変わらないのではないかと思います。いや実際、最終的には好みの問題なので、化調の味がダメという人もぬるいスープがダメという人も柔らかい麺が嫌いという人もいるわけですが、こういうのは「総論」にはなり得ないと思います。つまり個別のラーメンとして、「うまければいい」という単純な話に落ち着くわけで、「それがウマいラーメンなら、そうすればいい」ということに落ち着くのだと思います。
で、「スープがぬるいからダメ」とか「麺が軟らかいからダメ」とかいうラヲタさんもたくさんいるように、「化調を使うからダメ」という人もたくさんいる、というだけのことなのではないかと。
>無化調ありきでスープの組み立てを考えるのは、無農薬ありきで考えてストリキニーネを使う愚かさに繋がる危険性を秘めていると思うのですね。
……
また、別の観点で謂えば、何故化調だけを特別視するのかと謂えば、これにもさしたる根拠はないんだと思うんですね。食塩だって重曹だって同じように化学的に製造されているわけで、詰まるところ化調を食塩や重曹と違うものとして認識させているのは、自然崇拝みたいな印象論なんだと思うんですよ。化調は、そのままの形では自然界に存在しない人工物だ、これが根拠と謂えば根拠でしょう。
このへん、どうなんでしょうね。実は私は、化調が「体に悪いから」という理由というのは、ほとんど頭にないんですよ。これは(昔コメント欄に書いたように)『美味しんぼ』をほとんど読んでなかったからかもしれませんし、三一書房が嫌いだったからかもしれません。(^O^) このへん判然としませんが(^^;、どうなんでしょう。
私はどちらかといえば「化調=味の画一化」あたりの文脈での捉え方をしていたんですが。
いや、「化調=危険」が結構ハバを利かせているのも認識してるんですが、これって何故なんでしょうねえ……という、素直な疑問です。「化調は、そのままの形では自然界に存在しない人工物だ、これが根拠と謂えば根拠」ってことなんですかね。
>「何にでも混ぜて食べさせています。強い子に育ってくれるわ」と豪語しているんですね(笑)。
なんか、某プルーンみたいですね。(^O^)(^O^)
>「天然物で高級でミネラルや栄養のあるグル曹の中毒なら身体に好い」ってのは、どんなおまじないなんでしょうか(笑)。
まあ一般的な「精製」の功罪というのはあるのでしょうけども、一体何が批判したかったのか、わかりませんね。
投稿: hietaro | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 05時24分
こんばんは。
保存技術と物流が劇的に向上した事で、日本人の食生活は変化したんですね。たとえば”富士宮”がどこにあるかよく知らなくても、”富士宮やきそば”は食べている、という具合に。おそらく我々世代(・・・おそらくと書く辺りが女心(笑))では、食料が豊富になった時代であっても厳然とした地域食(東京だって例外じゃありません)がありました。
私は「化学調味料=石油で出来てる」を長い事信じていました。調べてみるとそんな事は勿論無くて、サトウキビを発酵させて作る天然由来の添加物です。どこでそんな思い込みをしたんでしょう?それともそんな時代が本当にあったんでしょうかね?
必要以上に「化調=危険」認識は、「中華料理店症候群」なんかとセットで意識した覚えがあります。誰かの料理エッセイで、香港の料理本を読むと化調を大さじ何杯と書いてあってびっくりするなんてのを読んだ事があります、それで”やっぱり”なんて思ったものです。
でもちょっと調べてみると化調で気分が悪くなった当該者は西洋人で、彼らはグルタミン酸に慣れていなかったから、なんて説もあるみたいですね。
今回、ちょっとだけ入れてコクを出すのもアリな気がしてきました、料亭のだしは素人がびっくりするほど鰹節を入れるそうですから、一般家庭でこれを再現するのは現実的じゃありませんよ。
投稿: うさぎ林檎 | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 07時57分
>hietaro さん
>>あのエントリは今でもよく2chあたりで貼られるんですが、たいていの場合はラーメンの化調がどうのという話題が出て、そこに「何言ってんだよ」という感じで貼られるというパターンです。
別のエントリで仰っていた「なにカマトトぶってんだよ」と謂う論調ですよね。そんなことは当たり前じゃん、何を今更、大人になれよ、みたいな論調で引き合いに出されても、そう謂う話じゃないんだけどなぁ、みたいなところがありますね。
ただ、今になってコメント欄を視ると、これはまず手っ取り早く情報を得ようとする人は読まないわなぁ、と責任を感じますが(笑)。
>>ただ、「リスクヘッジとしての化調」という選択肢について、では「もともとはない方がいい」ものなのかどうか、といった議論は可能だと思いますが。
おおぅ、いきなり核心部分を(笑)。では、ちょっと現時点でのオレの考えを整理して語らせて戴きます。オレ個人としては、化調と謂うのは味覚の観点で美味いから生み出されたものだとは考えていませんので、一概に「ないほうがいいのか」と謂う観点で判断は出来ませんね。
強いて言うなら「なくては困るもの」と謂うのが正確なところだと思います。化調と謂うのは、それ自体がたとえば昆布より美味いと謂う性格のものではありません。飽くまで昆布のうまみ成分を化学的に再現したもので、昆布よりも安価に昆布のうまみを提供する為に生み出されたものであると思います。
勿論、昆布と同じくらい美味いものを喰いたかったら昆布を喰えば好いのです。それが美食の観点では最上の選択肢であることは論を俟ちません。ただ、現在において化学調味料は単なる昆布とは別の独立した存在であることもたしかで、昆布のうまみだと謂う意識を経由せずに化調の味と謂うものが捉えられているとは思います。
それは、謂ってみれば、何だかわらからないけど喰い物を美味くする魔法の粉、みたいなイメージですから、これが美食の観点では一種の邪道であることはたしかです。化調より美味いダシとしての食材は幾らでもあるんですから、そんな邪道の魔法の粉が大手を振って罷り通るのは、美食の観点では堕落でしかないでしょう。
一方で、化調の登場によって天然の昆布ダシだけでは賄いきれないほどの食品のダシが安価に供給可能になっていると思うのですね。それは、化調がなかった頃なら昆布がないと味わえなかったうまみであって、その時代には、昆布が手に入らない、昆布を購入する経済力がない、そんな場合は昆布の味は諦めていたわけです。塩か何かで間に合わせていたわけで、それだけ貧しい味の組み立てだったわけです。
昔の天塩は今の化学的に合成された食塩より有機成分を含んでいて美味かったから、塩だけでも十分美味かったなんてのは幻想です。庶民の手に入る塩なんてのは下級品ですから、塩は所詮塩であって、鹹いから飯が進むと謂うだけの調味料です。
化調の存在意義と謂うのは、飽くまで食料供給と謂うマクロなシステムにおいてそこそこの味を楽しめると謂う部分にあって、昆布より美味いと謂うことではないですよね。ですから、化調がダメだと謂うのなら昆布を使えば好いんです。その場合、間違いなくラーメン一杯の平均的な価格は倍くらいになるわけで、ラーメンを喰うことは贅沢な外食になるわけです。そんな時代が、つい最近まであったわけですよね。
化調の存在と謂うのは、美食の観点で意義が認められるのではなく、われわれが日々飢えずに済むことや、ちょっとしたポケットマネーでそこそこ美味しい外食が食べられるような社会の在り方との関連で考えられるべき事柄だと思うんです。われわれがたとえば小腹塞ぎに吉野屋の牛丼を掻き込んで「ああ、うめぇなぁ」と満足する、そんな日常的な安い口福を満たすことに存在意義があるのです。
たしかに、無化調のラーメンと謂う方向性も在り得るだろうし、それはそちらの当該エントリのコメント欄で語ったように、ラーメンの高級料理化と謂う方向性を潜在的に内包しているんだと思いますが、ラーメンにはやはり絶対的な相場と謂う価格帯の縛りがあるわけですね。
「時価」を掲げた高級ラーメン店と謂うのは、とりあえず現段階では変わり種としか扱われないわけで、普通に無化調ラーメンと謂った場合には相場通りの価格帯で化調を使わずに美味いスープを作ることを指すわけですね。オレがこれをあんまり好いことだと思わないのは、これって価格競争力を自力で何とかしろって話だからです。
本来、これほど貧しい経済状況でなければ、正論の商論理と謂うのは「価値あるものにはその価値に見合うだけの報酬が正しく与えられるべき」と謂うもので、これは以前千両みかんを扱ったエントリでも語ったことです。一方的なコスト努力を要求する経済観と謂うのは(タダより安い価格は存在しないので)いつか破綻します。
本来、無化調と謂うのは化調を使用することによるコスト的なメリットを棄てると謂うことなのですから、原価が掛かるのが当たり前で、普通に考えて高級料理化の方向性であるのが当たり前なんです。原材料の品質のブレを吸収可能な程度の利幅を含んだ、現在よりも明らかに高額な価格設定を想定しないと安定した商売としては成立しないはずのものです。それを従来と同価格帯で何とかしろと謂うのは、少なくとも価値あるものをその価値よりも安価に提供しろと謂う無理筋の要求ですから、正常な経済論理じゃないと思うんです。
無化調を叫ぶなら、ラーメン屋が無理をしなくても提供出来る価格、たとえば一杯千数百円のラーメンを化調使用のラーメンと同じくらい喰うだけの覚悟があるのかと謂う話なんです。勿論、適切なコスト努力と謂うのは必要ですが、原理的にどうしても化調を使うより原価が掛かって当たり前のものを同価格帯で提供すると謂うのは、何処かで無理をしていると謂うことでしょう。
そんなことは商売をする側が考えることだ、と謂うのであれば、コスト努力を要求して何でもかんでも安く買い叩こうとする資本家中心の経済論理を嗤えないでしょう。このコスト努力と謂うのは、たとえばちょっと前までマンパワーについても盛んに謂われていたことですよね。
流動的な労働市場を云々とか、労働者側が自助努力でコスト努力を云々とか、つい最近まで声高に論じられていたわけです。労働力を企業側に安く提供して、それで暮らせるかどうかはおまえたちが考えろと謂う論理です。これは、一般労働者なら通らない話だがラーメン屋なら通る話かと謂えばそんなことはないでしょう。
前述の通り、今時の無化調ラーメン店と謂うのは店主側も化調忌避を信念としている場合が多いでしょうから、自ら進んでそのような努力を行っているのでしょう。しかし、客観的に視ると、それはかなり破綻したイビツな経営理論ではあるんですね。
少なくとも化調を使用したラーメン店よりも経営的には無理をしているわけで、簡単に言えば「潰れやすい」。そのようなリスキーな商売が時代のニーズだと謂うふうに言わわれると、オレとしてはかなり抵抗を覚えるわけで、無化調ラーメンがこのまま正当化されて化調使用=悪と謂う根拠のない風潮が一般化してしまえば、ラーメン店経営は今よりもっと難しくて苛酷な商売になります。働いても働いても一向に暮らし向きが楽にならないと謂う悲惨な状況に追い込まれるかもしれません。
今は少し安直にラーメン店起業が乱発されていますから、淘汰が進んで好いことだと謂う考え方もあるでしょうけれど、それはかなり冷たい見方ですよね。hietaro さんが以前別のエントリで紹介されていたエピソードで、「ラーメン屋には夢がある」と謂う話がありましたが、同価格帯で無化調が当たり前と謂う風潮になると、その夢は悪夢に変わるかもしれません。
オレは、無化調ブームが来る前の化調を使用したラーメンがその価格帯でやっていけたのであればそれは正当な商売だったと謂うことだろうし、無化調ラーメンを提供しようとすればそれより価格が高くなるのが窮めて当たり前のことだと考えています。価格が高騰していないのに無化調で提供しているのであれば、それは潰れる覚悟で無理をしているのかもしれないと疑いますし、それは一種の間接的な価格破壊でしょうから、潰れては困る老舗ラーメン店にとっては迷惑な話でしかないでしょう。
結局オレは、無化調で頑張っている店を視ても、それは単なる無謀なコスト競争としか思えないんです。無化調が正義だと謂う信念でそうしているのなら、堂々と原価を載せた高めの価格設定で勝負すれば好い。同価格帯にする為にいろいろ工夫していると謂うのであれば、それは高めに価格設定すれば当然クリア出来ることを、安くする為に迂回して次善を選んでいると謂うことですから、邪道には変わりないんです。
無化調がインセンティブになるのだとしたら、それは普通より歴然と高価格でも、消費者がその価値を認めて積極的に選ぶと謂うことでなければならないでしょう。
そうでないとしたら、思想を動機にして経済合理性を無視した非合理な商売だと謂う見方も出来るわけで、そんな思想的な動機で市場を混乱させるのは、業界全体にとってあまり好いことだとは思えません。たとえばマクドの低価格戦略が業界に混乱を招いたように。化調忌避には根拠なんてないんだから、無理してまでコスト競争で頑張る必要なんてないのに、としか思わないんですよ。
何か曖昧な誤解があると思うんですけど、無化調無化調と叫んでいるような人々は、付加価値を載せた高価なオーガニック野菜を日常的に食べているような人々であり、無化調ラーメンが一杯二〇〇〇円でも全然困らない人々なんですね。
ただし、ラーメンが無化調になっても、半年に一度くらいの酔狂でしか喰いに行かないし、そのラーメン屋が潰れても「あら、潰れたの。近所にあって便利だったのに」とかそのくらいしか思わない、そう謂う無責任な人々でもあるわけです。
>>私はどちらかといえば「化調=味の画一化」あたりの文脈での捉え方をしていたんですが。
オレの識る限りでは、化調使用を味の画一化の観点で批判している一般論と謂うのは少数派じゃないかと思います。美味しんぼでも、化調中毒が現代人の味覚を退化させているとか、化調の味自体が刺々しくて不味いと謂うのが主要な主張で、化調が健康被害をもたらすと謂う主張は素知らぬ顔をして引っ込めていますね。
以前は山岡士郎がしたり顔で「化調を過剰摂取すると病的な状態になる」と謂うことをチャイニーズ・レストラン・シンドロームと謂う言い方で主張していましたが、これはかなり後になって、別の登場人物に言わせておいて、山岡と栗田が「それは集団ヒステリーで根拠がない」と否定させていますね。
美味しんぼ批判では、こう謂うふうに過去に自分から流布させておいて、俗説として普及した途端に山岡に「嘆かわしい俗説」として批判させると謂うマッチポンプ的な手法がかなり批判されています。これはまあ、科学的知見がアップデートされた際の対処法としてはかなり阿漕なやり方であることはたしかですね。素直にその情報を発信した登場人物が誤りを認めるのではなく、別の登場人物に言わせておいて、主人公がそれを訂正する側に廻ると謂うのは、やっぱり無責任です。
また、化調使用で味が画一化すると謂う考え方もあまり根拠がある主張だとも思えないですね。それこそ化調を「スープの素」として使っているならそうなるかもしれませんが、苟も名店と見做されるような店は、概ね自分の店のスープの骨格をちゃんとした食材で構築しておいて、その調整要素として化調を用いているわけですから、化調で味が画一化すると謂う主張は、何がベースになっていようとも化調を使えば同じ味になると謂う考え方ですから、ちょっとおかしいのではないかと思います。
それは、どの店のスープも塩胡椒の味がするから画一的だと謂うのと同じことではないかと思う次第です。
まあ、こんなことを熱く語っても「味の素の廻し者」とか言われるのがオチだとは思うんですけどね(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 08時06分
こんばんは。とても素晴らしいコメント欄になっておりますね。
私も影響を受けまして、暗黒面という裏(?)ブログにエントリを書いてしまいました。
>無化調で頑張っている店を視ても、それは単なる無謀なコスト競争としか思えないんです。
これについての反論というわけではないのですが、無化調でも贅沢品とまではいかない価格設定は可能なのではないか、という事をちょっと言わせてください。
深い味わいのスープとなれば、相当なコストがかかりますが、焼き干し等の薫り高い魚系のスープであれば化学調味料を使用せずに十分美味しい、寧ろ入れる必要のないラーメンを提供できると考えております。でも、無化調を売りにする必要も全くないのですけれど。
私も多数人が気軽に美味しいラーメンを食べることのできるよう、化学調味料を適正に使用することについては賛成です。
失礼いたしました。
投稿: どらねこ | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 08時54分
>うさぎ林檎さん
>>おそらく我々世代(・・・おそらくと書く辺りが女心(笑))では、食料が豊富になった時代であっても厳然とした地域食(東京だって例外じゃありません)がありました。
おそらくわれわれ世代(社交的儀礼表現(笑))においては、たとえば「関東のうどんはつゆが真っ黒で喰えない」と謂うような地域性がまだ残っていたんだと思います。今では「うどんと謂うのは関西や香川が本場で、白だしや生醤油で喰うもの」と謂う知識が普及していますから、蕎麦と同じ黒いつゆでうどんを喰わせる店も段々減ってきていますよね。
これってホントについ最近の話で、昔何かの出来心で読んだキャプ翼のアニパロマンガで、日本代表に選ばれた関西校の選手と関東校の選手が、合宿所のうどんのつゆを巡ってバトルを繰り広げると謂う話がありました(笑)。
>>私は「化学調味料=石油で出来てる」を長い事信じていました。調べてみるとそんな事は勿論無くて、サトウキビを発酵させて作る天然由来の添加物です。どこでそんな思い込みをしたんでしょう?それともそんな時代が本当にあったんでしょうかね?
これは、調べてみると実際に或る時期までは石油生成物から抽出していた時代もありまして、ウィキの記述でも、
>>また、「原料は石油」という噂も存在した。実際、グルタミン酸は石油由来原料のアクリロニトリルからも生成することができ、かつてはこの方法を用いて製造されていた時代もあったが[2]、現在は天然のサトウキビ由来のものが用いられている。
と書いてありますし、リンクされたソースで視ても事実だったようです。オレも幼少時に学年誌でそのような記事を読んだ記憶があります。これが「石油から食べ物を作るなんて…」と謂う生理的な反撥や不信感に繋がったのが、現在の化調忌避にも尾を引いているのかもしれませんね。
雁屋哲はおそらくわれわれよりも(婉曲表現)一回り上の、四〇年代生まれの世代ですから、そう謂う情報に接したショックが動機としてあるのかもしれません。公害問題の真っ直中で青春時代を過ごしたわけですし、「敗戦国民だからって石油なんか喰わせやがって」みたいな思い込みがあるのかも、です。
AGFのほうでも、サトウキビ由来の成分に転換して「サトウキビから味の素」と謂うキャンペーンを展開したわけで、現在はその過去の名残である「化学」調味料と謂う呼称を忌避して「うまみ」調味料と謂う呼称をプッシュしているわけです。
>>でもちょっと調べてみると化調で気分が悪くなった当該者は西洋人で、彼らはグルタミン酸に慣れていなかったから、なんて説もあるみたいですね。
これ、たしかチャイニーズ・レストラン・シンドロームなんてことを紹介した美味しんぼ自体が「集団ヒステリー」と言ってるんじゃなかったでしたっけ。何話だったか忘れましたが、たしかそんなことを得々と語っている山岡士郎の姿を視た記憶があります。
hietaro さんへのレスに書いたように、美味しんぼは長期連載の弊害として、その種の知見の変化に対してマッチポンプ的な姿勢で対処するので、そうした姑息な姿勢が批判されてもいますね。
ただ、グルタミン酸ナトリウムに対する反応は体質次第だろうな、と思うのは、どうもオレも味の素を擁護しておきながらこう謂うことを言うのもアレですが、オレ自身もグル曹を摂取すると、たとえばケンタのチキンとかマクドのハンバーガーのような極端に鹹いものを喰った後のような飢渇感を覚えると謂うことがありますね。尋常でなく喉が渇きます。
>>今回、ちょっとだけ入れてコクを出すのもアリな気がしてきました、料亭のだしは素人がびっくりするほど鰹節を入れるそうですから、一般家庭でこれを再現するのは現実的じゃありませんよ。
あ、これは「瓢亭の朝がゆ」の餡の話ですね? 「ウソッ!やめてぇっ!というくらい鰹節を大量に入れる」と謂うのは、「まったりとしてコクがある」とか「これ以上泣かせるようなこと、せんといてほしいわぁ」と並ぶ美味しんぼの名台詞の一つだと思うんですが(笑)、してみるとうさぎ林檎さんも美味しんぼ直撃世代ですねぇ。
オレも美味しんぼには大分影響を受けましたが、「日々の糧」とか「日常の口福」と謂う観点において絶対的に雁屋哲の思想とは相容れないものを感じるので、事ある毎に対決的な姿勢を露わにしていると謂うところがあります。
どらねこさんへのレスに書いたように、今現在美味しんぼを批判している人々は、概ね嘗て美味しんぼの画期的な性格に影響を受けているのではないかと思うんですが、やはりその意義を歪めてしまったのは、お定まりの「個人の思想」だと謂うのが何ともやりきれないものがあります。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 08時55分
>どらねこさん
実はオレが批判的な関心を持っている非合理の大きなテーマとして、化調否定と農薬否定がありまして、無化調と有機農法は仮想敵とも謂えるんですが(笑)、安価に無化調を実現する手法として魚粉系のセオリーが存在することは存じております。
また、この※欄で話題になっている美味しんぼでも、三八巻の「ラーメン戦争」の落とし所として、通常の醤油よりもグルタミン酸含有量の高い長期熟成の丸大豆醤油と謂う食材を挙げています。で、この特級品の醤油の原価がどのくらいであるか、町場の平凡なラーメン屋がスープの味附けに常用してペイするものであるかどうかは、作中では一切言及がないんですけどね(笑)。
>>深い味わいのスープとなれば、相当なコストがかかりますが、焼き干し等の薫り高い魚系のスープであれば化学調味料を使用せずに十分美味しい、寧ろ入れる必要のないラーメンを提供できると考えております。でも、無化調を売りにする必要も全くないのですけれど。
これはおそらくイノシン酸系のうまみを安価な食材で補うことでダシのコクを補うと謂う方向性だろうと思います。それはそれで美味しいのだろうし、多分仰る手法で化調を使用する必要性はなくなるのだと思います。ただ、これはこれでその店固有の味の組み立てのスープに、化調的な役割で味のブレを調整しているわけですよね。
そして、焼き干し系の味わいと謂うのもそれはそれで「あ、焼き干し」と謂う特徴的な風味を持っているわけですから、これが味のブレを抑える手法として確立されると謂うことは、焼き干しを使うか化調を使うかと謂う選択肢が等価なんだと謂う話じゃないかと思うんですね。その意味で、単なる嗜好として化調の風味はイヤだと謂うトレンドへの対応としては意味があると思います。
オレが批判すべきだと考えるのは、化調は悪だと謂う無根拠な思い込みから、無化調ありきで味の組み立てを考える思想性ですから、グルタミン酸はちょっと体質に合わないし、それ一辺倒だと画一的じゃないかな、と謂う嗜好に対しては効果的じゃないかなとは思います。
結局、化調を使わず化調と同レベルでうまみを補おうとすれば、選択肢はそれほど多くはないわけで、それが手法化してしまえば、化調を使うこととの差は「自然由来の食材であるかないか」だけになります。だとすれば、化調以外の手段を採択する理由が本当に店主がイメージする味の組み立ての必然性に基づいた模索なのかどうか、と謂うことが問われるんじゃないかな、と思います。
実際、友人のラヲタのブログのレビューなんかを読むと、大体無化調の店の味と謂うのは手法のパターンが決まっているようで、逆に無化調に縛られることで選択肢が制約されて無意味に画一的になるんじゃないかと謂う危惧もありますね。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 09時26分
>黒猫亭さん
>化調がダメだと謂うのなら昆布を使えば好いんです。その場合、間違いなくラーメン一杯の平均的な価格は倍くらいになるわけで、ラーメンを喰うことは贅沢な外食になるわけです。そんな時代が、つい最近まであったわけですよね。
ん? これはどういうことなんでしょう?
引っかかるのは、「価格は倍くらいになる」と「最近まであった」という部分です。
私の認識の、特に「補助的に」使う店の場合、化調を[使う|使わない]でそこまで劇的にコストが変わるとは思わないんですよ。いや、確かに「無化調で同じ味を出そうとしたら」という架空のコストと天秤にかければもちろんけっこう安くはなるでしょうが。
「間違いなくラーメン一杯の平均的な価格は倍くらいになる」というのは売価ですよね、原価ではなく。人件費、家賃、原材料費などを含めた「原価」の中で、化調を使うことで削れるコストを計算した上で、売価が「倍くらい」になるような差は、ないと思うんですよ。それこそ、「苟も名店と見做されるような店は、概ね自分の店のスープの骨格をちゃんとした食材で構築しておいて、その調整要素として化調を用いている」のであって、仮に、他の材料をまったく使わず化調のみでやるということになれば話は別ですが。
……という部分も含めて、「補助的に使うのか、メインに使うのか」というのは別に考えるべきではないかと考えています。
そして例えば幸楽苑やびっくりラーメン(消えましたが)のような低価格を売りにしている店は、それこそ「化調メイン」で、店舗で一切調理を行わないことで徹底的なコストダウンが出来ています。びっくりラーメンには具材はすべてカットされた状態で店舗に配られており、厨房には包丁すら置いていなかったそうです。
そこまですると材料費はもちろん、スープを自前で作ることでかかる人件費、ごみ処理のコストまで劇的に下げることが出来るでしょう。しかしそこまでコストをカツカツに削減しているような店であっても、600円が平均として、その1/3~1/2の値段設定で、しかも低価格ラーメン単体で収益が出るようなシステムではない。サイドメニューやトッピングを頼んでもらうことで成り立つくらいの商売なわけです(実際、幸楽苑はこのラーメンだけだと赤字だということで、やめるかどうか議論になりました)。これは原材料費だけではなく、オペレーションなどいろんな手法を駆使してもそうなんですね。
そしてこういう「化調メイン」の店の味は、「併用」の店や「無化調」の店に比べるべくもない……というか、与えられる評価は味以外の部分であるし、味の話は「まあこの値段だから」という枕詞をつけてでしか語られないわけです。
そこまでの店であっても価格面では1/2~1/3の値付けでほぼ採算がとれず、味も随分と低い評価になってしまうのです。(存在意義を否定するわけでもありませんし、「これはこれで」ウマい部分もあると思います。もちろん)
で、「化調メイン」ではない「併用」の店と「無化調」の店であれば、どのくらいの原価の差が出るのかというのは、私にはよくわかりませんが、私のサイトでもよく話に出す、私の行きつけの「純情屋」という店は、それこそ無化調で650円(値上げ前は500円)ですし、ほかの化調使用の店であってもその+100円内外で出しているように思います。
経験上、「無化調」を謳う店とその他の「併用」の店が、特別値段が違うような印象はないんですよ。
ですから、
>本来、無化調と謂うのは化調を使用することによるコスト的なメリットを棄てると謂うことなのですから、原価が掛かるのが当たり前で、普通に考えて高級料理化の方向性であるのが当たり前なんです。
という部分も、そう決めつけていいものなのか、というのがそもそも疑問です。
いやもちろん、無化調の方が「原価がかかるのは当たり前」はその通りですが、「高級料理化の方向性であるのが当たり前」というのが、よくわからない。上記のように、コスト的にそこまで劇的な差はない、という考え方なので。……これはもちろん「化調メイン」ではなく「補助」の店との比較でのことです。「化調メイン」と比べるなら、現在すでに「高級料理」なのでしょうし、これ以上「高級料理化」の指向に行くかどうかは言えないでしょう。
結局、
>無化調を叫ぶなら、ラーメン屋が無理をしなくても提供出来る価格、たとえば一杯千数百円のラーメンを化調使用のラーメンと同じくらい喰うだけの覚悟があるのかと謂う話なんです。
という部分、おそらくこれが黒猫亭さんの論の根底の部分だと思うのですが、これについてどうも同意が出来ないので、この部分をもうちょっと説明していただければと思います。コストは確かに少しは違うと思います。しかしそれはそんなに劇的なものか、ということです。
どのような「差」を想定して「そこまで」コストが違うとおっしゃっているのか、現在の「平均相場」が、「化調メイン」「併用」「無化調」のどの部分の商売によって構成されていると認識されているのかもお聞かせいただきたいと思います。
あ、もちろん、私は「化調否定」には批判的です。あと、私の場合は「添加物否定」に対しても。……ただ、私は化調否定(特に「体に悪い論」としてのそれ)にさほど触れていなかったのか、その部分での意識は低いです。
あと、
>化調使用で味が画一化すると謂う考え方もあまり根拠がある主張だとも思えないですね。
というのはまさに、「化調メイン」なのか「補助」なのかという話であって、化調メインであればそういうことになると思いますが。
(よく化調メインの店が開き直って「懐かしい味」なんてキャッチコピーを使うのは、そういうことなのでしょう)
投稿: hietaro | 2009年8月14日 (金曜日) 午後 11時00分
あ、あと、小さいことですが。
うさぎ林檎さんへのレス中、
>AGFのほうでも、サトウキビ由来の成分に転換して「サトウキビから味の素」と謂うキャンペーンを展開したわけで、現在はその過去の名残である「化学」調味料と謂う呼称を忌避して「うまみ」調味料と謂う呼称をプッシュしているわけです。
とありますが、AGF(味の素ゼネラルフーヅ)はコーヒー関連の会社で、化調系統は販売してなかったと思います。もし販売してたとしても、キャンペーンを担ったのは味の素本体だったと思います。
小さいことでスンマセン。m(_ _)m
投稿: hietaro | 2009年8月15日 (土曜日) 午前 12時13分
>hietaro さん
>>ん? これはどういうことなんでしょう?
>>引っかかるのは、「価格は倍くらいになる」と「最近まであった」という部分です。
後者のほうは、あんまり長くなって前段の説明を削除しちゃったので何だかわからない話になっていますが(削除してあれかよと謂うのはさておき(笑))、外食と謂うのは昔はかなり高く附いたと謂う話です。
以前、時うどんの話題が出た際に少し調べたのですが、江戸時代には二八の十六文そばが現在の貨幣価値に換算して千数百円くらいに相当したそうで、実質的には今われわれが二〇〇円くらいで喰える立ち食いのかけ蕎麦と同等かそれより美味くないものが、そのくらいしたわけですね。
「鰹節、仰山奢ったなぁ」と謂う台詞がありますけど、その当時の鰹節ってのは、人間が一本一本手作りで作っていたわけですから、かなり高級食材だったわけですね。「始末の極意」なんかでは、使い物の鰹節を一本買うかどうか決めるのに丁稚が一人鰹節を持って自宅まで附いてきたと謂うくだりがあります。
自宅で飯を喰ったり手弁当が一般的だった時代は、外食自体が贅沢だったわけで、たとえば「住吉駕籠」なんかでは「仰山ごっつぉ並べて銚子一八本呑んで、ポチも入れて二分一朱」なんて台詞がありますけど、二分一朱って一両の半分以上ですよね。
勿論落語の台詞ですから正確な貨幣感覚だとは謂えませんが、一両あれば一年暮らせると謂われた時代に料亭で散財するとそのくらいとられたわけです。また「宿屋仇」では伊八に与えた心付けが二朱だと謂うくだりがありますが、二朱と謂うのは一両の八分の一ですから、庶民の一カ月分の生活費に近いわけで、相対的に謂って結構な高額です。宿屋に泊まって主持ちの武家がチップを渡すとなると、そのくらいのカネを払っていたと謂うことになります。
万事が落語尽くしで恐縮ですが(笑)、「持参金」と謂う噺では、これは明治以降の設定になっていますから通貨が違いますが、独身者が炊事を面倒に思って外食すると、一食の代金で夫婦の三度の食費が賄えると謂うような台詞がありますから、外で飯を喰うと謂うのは、今のように普通のライフスタイル上の日常の食事と謂う感覚ではなかったわけで、かなりの無駄遣いだと考えられていたわけです。
前者のほうは、「倍くらい」と謂うのはざっくりすぎですかね(笑)。売価の問題も含めて、無化調志向には高級料理化の方向性が潜在していると謂う趣旨は、以前の議論でも通じなかった部分だと思うんですけど、基本的な問題は「何故化調を使わないのか」と謂う部分の突き詰めなんですね。
化調を使わないと謂うことが、無化調志向と謂うトレンドへの対応であれば、無化調にはそれほどの意味はないですよね。化調を使わないのは、化調を嫌う客に対応する為だと謂うことですから、客の側に化調はイヤだと謂う嗜好が存在するから仕方ないので合わせると謂うだけの話になります。
したがって、無化調の料理を提供するコストは化調とその代替物との差額と謂うことになりますね。多分、hietaro さんが仰っている無化調の店のコストってそんなものだと思いますから、たしかにそんなに変わらないでしょう。
>>で、「化調メイン」ではない「併用」の店と「無化調」の店であれば、どのくらいの原価の差が出るのかというのは、私にはよくわかりませんが、私のサイトでもよく話に出す、私の行きつけの「純情屋」という店は、それこそ無化調で650円(値上げ前は500円)ですし、ほかの化調使用の店であってもその+100円内外で出しているように思います。
>>経験上、「無化調」を謳う店とその他の「併用」の店が、特別値段が違うような印象はないんですよ。
ないでしょう。と謂うか、ラーメンにおける無化調は、インセンティブとして価格に反映させるわけにはいかない要素なんです。これは結果としてそうなっているわけではなくて、最初から値段を変えずに無化調を実現すると謂うデザインで考えられているわけですから、値段に差が出ないのは当然です。そして、そこで考えられているのは、「化調を使わない」と謂うことが目的視された倒錯した思想です。
この観点で考えれば、ラーメン業界における無化調ってホントに意味があるのかと謂う疑問が出てくるわけで、他に化学調味料を使わない外食産業を考えると、一〇〇〇円以下の相場の料理店で、化学調味料を使っていない分野はないと思うんですよ。
これはラーメン店よりももう少し相場の高いファミリーレストランなんかでも、化学調味料や合成保存料、結着剤等の食品添加物によってその程度の価格設定で何とか利益を捻出しているわけで、ラーメン店の場合は人件費を削り回転率を上げることでようやく利益が出ていると謂うのが現状だと思うのですね。
基本的に、流行っているラーメン店と謂うのはゆっくり食事を楽しむ場ではなく、営業時間前に店の前に客を並ばせて、開店と同時に効率よく客を回転させ営業時間を無駄なく活用してようやく儲けが出るものです。そして、店を閉めている間は、夕方や翌日の仕込みの為にフル稼働で店員が働いているわけです。そう謂う意味では、ラーメン店と謂うのはそんなに儲かる商売ではないですよね。
化学調味料を忌避する思想と謂うのは、食材本来の味わいを最高度に活かし、持てる限りの技術で美食を提供すると謂う方向性になるわけですから、本来は化学調味料も合成保存料も結着剤も着色剤もお呼びではありません。冷凍保存もクール宅急便も関係ない話であって、一番美味いものを一番美味い喰い方で喰うと謂うのがその到達点ですね。
その場合、たとえばグルタミン酸のうまみが欲しければ昆布を使うのだし、イノシン酸のうまみが欲しければ鰹節を使い、グアニル酸のうまみが欲しければ椎茸を使うのが唯一の正解なのです。その観点で差別化を打ち出すなら、昆布や鰹節や椎茸の産地や特性や品質に拘ると謂う方向性になるのが当たり前で、「鰹節っぽいうまみ」を出す為に他のもっと安価な食材を模索すると謂うことではないはずです。
実際、美味しんぼの「ラーメン戦争」でも山岡士郎が辿り着いた結論は、従業員が一人もいない零細ラーメン店で日常的に使用するのがおよそ現実的ではない「長期熟成の醤油」と謂うものでしたよね。「丸大豆を使い二夏かけて熟成させる極上の天然醸造醤油より、さらに一夏余分に寝かせ、じっくり味を引き出したもの」だそうです。これって一体一升幾らするんでしょう。一体、総量としてはどれだけ生産しているんでしょう。これが、この時点の美味しんぼの思想が唯一許容可能なラーメンの姿なわけですね。
結局、無化調の思想が最終的に人々を導くのは、「真正な食を貫く為にはカネと労力と時間には糸目を附けない」と謂う境地でしかないはずです。この劇画では、もてなしに対する人の丹精の意義を強調して語っていますが、人の労力や時間と謂うのは無尽蔵に使えるタダの資源ではないんです。
一食の為にどのくらいの労働や時間が割けるか、それは経済の問題でもあるわけで、たとえば一日一二時間くらい働いている人が、夕飯を一食食べる為に三時間の時間と労力を割けるかと謂えば、それは不可能です。美味しんぼの思想は、この辺のマンパワーの経済価値を曖昧に胡麻化すことで成立している無理筋でしかありません。
化調を使わないと謂うことが信念なら、その信念が最終的に導くべきは、合成保存料も着色料も結着剤も使わない「真正な食品しか口にしない」と謂う思想であり、農薬も化学肥料も使わずに育てた野菜であり、地産地消に通じるような朝獲れた食材を夕方には食卓に出すと謂うアルカディアのような牧歌的理想郷の食の在り方であって、それは美味しんぼでもちゃんとそのように主張しているのですね。
ただ単に「化学調味料は毒だから使うな」と主張しているわけではありません。ただ単に化学調味料を使わなければそれで好いと謂うのは、美味しんぼにも劣る短絡的な発想です。ですから、無化調を謳うラーメンが本当に真正な美食を追求するのであれば、それは最終的には高級料理と軌を一にせざるを得ないはずなんですね。
単に「化調が健康に悪いから使わない」と謂うのであれば、それは何の根拠もない誤解にすぎません。「化調を使ったラーメンより無化調の味が好きだ」と謂うのであれば、化調を魚粉か何かに変えれば済む話で、大した問題ではありません。しかしそれは、本来化調忌避が内包する思想性とは全然関係ない枝葉の話でしかありません。
本来的な化調忌避の思想性とは、経済合理性から離れて他の一切を顧みず純粋に美食を追求する志向でしょう。
本来化調の必要性と謂うのは、経済合理性や食糧供給の利便性の観点の問題でしかありませんから、それを否定し得る唯一真正な論理とは、「グル曹は昆布より美味くない」と謂う事実でしかありません。化調と謂うのは要素還元的な代替物に過ぎませんから、グル曹のうまみは昆布のうまみを完全に再現しているわけではありません。何度も強調しますが、昆布と同じくらい美味いのは昆布だけです。
…対消滅に勝てるのは(ry
いや、すいません、ネタを入れてしまいました(笑)。
前回のコメントで、「倍くらいになる」「潜在的に高級料理化を志向する」と言ったのは、この辺の考えが念頭にあったわけですが、たしかにただ単に化調を使わないと謂うだけならそれほど高額にはなりませんから「倍」はオーバーですが、「ラーメンは無化調」がスタンダードになれば、結局そこから差別化を打ち出す為には無化調思想が指し示す未来に進んでいくしかないだろうと思います。
どらねこさんに申し上げたように、単価を変えずに化調の代替物を模索するとなるとそれほど多くの選択肢はありませんから、いずれ横並びになっていきます。或る程度の店を経験したラヲタなら「ああ、このパターンなのね」と謂うマンネリズムを感じることでしょう。それは化学調味料による「味の画一化」とどれほど違うのでしょうか。
無意味な化調忌避が一過性のブームで終わるとか、化調さえ使っていなければ消費者が満足すると謂うなら、それはそれでも好いんですが、多分それだけには留まらないんではないかと思うんですよ。無化調志向は大勢として嗜好の一種ではなく、農法や牧畜法なども含む包括的な美食追求の思想ですから、「本物の食」と謂うあるんだかないんだかわからない理想を追求するのが本来の運動性です。
一食五〇〇〇円とか一万円とか謂う単価の商売で化調を使わないのは、これは当たり前の話です。その単価にはホスピタリティや技術料も込みで入っているのだし、当然最高の食材を吟味するコストも載っています。結構な利幅があるわけですから、そこで肝心要の料理において化調を使って味を「合理化」されるんでは、結構な金額を払う客のほうが堪ったものではありません。本来、無化調がどうのと謂うのは、このような価格帯の料理に対して要求すべきことです。
しかし、一食六五〇円のこまかしい商売で「化学調味料は使っていませんよ」と謳うことにどんな意味があるでしょう。それは化学調味料を使わない調理法が目的的に追求されていると謂うだけのことで、無化調思想とは全然関係ないことです。では、無化調思想とは関係ないのに、何故化学調味料を使わないのか、これが更めて大きな疑問として立ち上がってきます。
またまた美味しんぼの話題に戻ると、そもそも美食倶楽部ではラーメンなんか下司な喰い物として相手にしていないんですよ。それでもラーメンが喰いたいなら、「丸大豆を使い二夏かけて熟成させる極上の天然醸造醤油より、さらに一夏余分に寝かせ、じっくり味を引き出したもの」くらい使えと謂うのが、美味しんぼの主張する無化調思想が指し示す未来です。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月15日 (土曜日) 午前 01時59分
>hietaroさん
>>とありますが、AGF(味の素ゼネラルフーヅ)はコーヒー関連の会社で、化調系統は販売してなかったと思います。もし販売してたとしても、キャンペーンを担ったのは味の素本体だったと思います。
ああ、仰る通りですね、うっかりしておりました。なんでここだけAGFって書いたんだろう(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月15日 (土曜日) 午前 02時03分
>>ただ単に化学調味料を使わなければそれで好いと謂うのは、美味しんぼにも劣る短絡的な発想です。
ちょっとこれは、hietaro さんの懇意の店をよく識りもしないのに貶めているように読める表現ですね。自重したいと思います。たとえば、「俺が美味いと思わないから使わない」と謂うのも、それは十分納得の行く説明ではあると思います。
単に、「何故使うのか」と謂うことについては納得の行く説明が在り得るのに、「何故使わないのか」と謂うことには、突き詰めて考えると個人の嗜好と謂う以上の納得の行く説明がない、そう謂うことなんです。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月15日 (土曜日) 午前 02時36分
最近、東京のラーメン屋によくおいてあるフリーペーパー(名前は失念しました、すいません)のメインのリレー連載の記事は、ずばり「うま調の魅力」というもので、
内容は有名ラーメン店の店主がうま調がいかに不可欠かを語るものとなっております(味の素のパブ広告ですね)。
ほんとに有名店ばかりなので、堂々としているものですよ。
投稿: r | 2009年8月15日 (土曜日) 午前 07時14分
初めまして、黒猫亭さん。
ラーメンとうまみ調味料ってそんなに大問題だったのですか・・面白いですね。うまみ調味料が嫌いな人はハイソを気取っていて「高級品」しか食べないと言っている人たちが多いのかなと思っていましたから、ラーメンのような、いわゆるB級グルメでも問題だなんて。
うまみ調味料は料理の幅を増やす、という黒猫亭さんの主張、まさしくその通りだと思います。昆布でも魚でも、出汁をとるとどうしても磯臭さや魚くささが一緒についてきてしまいます。うまみ調味料にはそれがないので、純粋にうまみだけ足せるんですよね。
だから甲状腺疾患があっても魚アレルギーでもトマトアレルギーでも大丈夫、最近化学調味料無添加をうたっている製品に必ずといっていいほど使われているタンパク質加水分解物による雑味や発がん物質混入の心配もないし。
ふろふき大根に余計な風味をつけたくないときはうまみ調味料が一番だと思います。
だからバランスをとるのに使う、というのは使い方をわかってる、と思います。だしの原料となる天然物にはどうしても自然のばらつきがありますから、常に安定した味を出そうと思うなら調整用には純粋なうまみが便利です。
蛇足ですがどなたかがおっしゃっていたほんだしは全く別の製品で、かつおや昆布の風味が欲しい場合に使うものですね。
目的に応じて賢く使うことで手間やお金に縛られず味の選択肢がひろがるのに、使わないなんてもったいない、と思います。
投稿: uneyama | 2009年8月15日 (土曜日) 午前 09時44分
>rさん
>>最近、東京のラーメン屋によくおいてあるフリーペーパー(名前は失念しました、すいません)のメインのリレー連載の記事は、ずばり「うま調の魅力」というもので、
内容は有名ラーメン店の店主がうま調がいかに不可欠かを語るものとなっております(味の素のパブ広告ですね)。
ああ、もしかしてそれは、本文でリンクしたhietaro さんのエントリで紹介されている小冊子と同じものなのでしょうか。全国のラーメン店にDMで送付されているそうですから、多分同じものだろうと思います。
>>「味の素」「ハイミー」でおなじみの味の素KKが制作した、対象をラーメン屋に絞った業務用商品の販促小冊子。
>>「明日のラーメン界を担う精鋭に贈る、独立企業支援ブック ラーメン界のリーダーたちに聞く独立奮闘秘話 オレの味を探せ!」
うーん、凄いなぁ、ラーメン店主が「こっそり」読んでいるだけじゃなくて「ラーメン屋によくおいて」あって、客にも読ませているわけですね。単にマスコミでも有名なカリスマ店主たちのインタビュー記事だから、客も関心を持つだろうと謂うくらいの軽い気持ちで読み物として置いてあるのか、それとも店主側に積極的に読んで貰いたいと謂う動機があるものか。
hietaro さんの記事も、ラーメン店主たちが内輪で読むものだろうと謂う想定で書いておられると思うのだが、まさか店に堂々と置くような形で出回っていると謂うのは想定外だったなぁ。勿論、hietaro さんによれば全国のラーメン店は三八〇〇〇軒もあってそこに軒並みパブを打っているわけだから、こう謂う事態も十分在り得るわけですが。
なんかこう、やはりラーメン店側でも「我が意を得たり」みたいな気持ちがあると謂うことなんでしょうかね。いや、裏を返せば「こんな有名店の店主がそう言ってるんだから」みたいな虎の威を借るところもあるんでしょうけど(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月15日 (土曜日) 午前 10時52分
>uneyamaさん
>>ラーメンとうまみ調味料ってそんなに大問題だったのですか・・面白いですね。うまみ調味料が嫌いな人はハイソを気取っていて「高級品」しか食べないと言っている人たちが多いのかなと思っていましたから、ラーメンのような、いわゆるB級グルメでも問題だなんて。
昔からよくラーメン店には美味しんぼが置いてあるんですが、美味しんぼってラーメンについては厳しい評価なんですよね。前述の通り化調使用を「業界の恥部」として糾弾を始めたのは美味しんぼが最初だったんじゃなかったかと思います。まあ、無化調志向を美味しんぼの観点だけで論じるのも乱暴ですが(笑)、無化調志向の旗振り役であることは間違いないです。
で、本来美味しんぼの思想ってのは、仰る通り「真正な美食を追求する」とか「危険な食品を食べない」と謂う、一種の環境貴族みたいな人々とバックボーンを共有しているわけで、化調だけじゃなくて農薬も食品添加物も認めないわけですね。
まあ、食材や料理の描かれ方を視ると、たとえば業務スーパーで一食二〇〇円くらいで何とか賄っている人間から視ると、まさに「高級品しか食べない」と謂う人々なんだなと思います。その意味で、ラーメン店から視ると、化調を使っていると謂うだけで恥部呼ばわりまでされているわけですから、何もこの種の人々の主張に乗っかって無化調に鎬を削る必要はないと思うんですが、なにせ客商売ですからねぇ。
この前のrさんのコメントにあるように、ラーメン店に問題の小冊子が置いてあるとしたら、そのくらいがラーメン店側のささやかな抵抗ってところですかね。
>>昆布でも魚でも、出汁をとるとどうしても磯臭さや魚くささが一緒についてきてしまいます。うまみ調味料にはそれがないので、純粋にうまみだけ足せるんですよね。
そうなんですよね。すでに「昆布のうまみ成分」と「昆布の味」は別のものとして扱うべきだと思いますし、その意味でうまみ調味料とうまみエキスを使い分けると謂うこともありだろうと思います。多分、プロの調理師なら昆布や魚をダシに使っても臭みをうまく除く技があるんだと思いますが、一般家庭においてその技や知識の不足を補うのがうまみ調味料と謂うことになると思います。
要は使いようだと思いますし、基本的にうまみ調味料ってのは、外食店における使用に関しては安直な結論が出せないとしても、一般家庭で使う分には十分合理的だと思うんですよねぇ。何というか、多分化調を使わない家庭料理の組み立てって、正直何かイマイチ感を感じる部分があるんじゃないかと思ったりします。
実はオレ自身が三十代くらいまで化調など使わなかったし、砂糖も使わなかったんで台所に置いてなかったんですが、或る時点で「これ、やっぱり使わないと、思うような味にならないんじゃないか」と思うに至って、使ってみたらたしかにそう謂う味になるんですよ(笑)。
まあそのときの悔しかったこと(笑)。食材をふんだんに奢ることが出来て調理技術がプロ並みで、一食に二時間も三時間も掛けられると謂うならともかく、普通に一般家庭で料理を作る分にはやはり不可欠ではないかなと思いましたし、そのときから変な背伸びはしないことにしました。
>>目的に応じて賢く使うことで手間やお金に縛られず味の選択肢がひろがるのに、使わないなんてもったいない、と思います。
仰る通りだと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月15日 (土曜日) 午前 10時53分
こんにちは。
メインの話題についてはまた後ほど。
>uneyama さん
>黒猫亭さん
私自身は化調についてさほど気になりませんが(わからないので)、しかし「他のメニューについては化調使用を気にしないのに、ラーメンだけは気にする」ような人の機序の想像はつきます。
外食でこんなにスープが重視されて、それを大量にすするようなものは他にないからなんでしょう。関西人はうどんのダシを飲むという習慣がありますが、それがラーメンほど化調が話題にならないのは、うどんやそばのダシはラーメンほどには「ジャンク臭」というか、「何入ってるかわからない」感が薄いからじゃないかなあと思います。(^O^)
つまりラーメンスープは本道がない分、客にとっての「ブラックボックス」であり、これは楽しみであると同時に、不安でもあるんですよね。多かれ少なかれ。
これは黒猫亭さんの「オレが「一般家庭では作れないもの」として避けて来たのはラーメンである」といった意識とも通底するのかもしれません。他の料理は「家でも作れる」ものの(遥か彼方であっても)延長上にあるのに、ラーメンは別の次元である、みたいな。
この「不安」がラーメンと化調が話題的にくっつきやすい要素なのではないかと思っています。
そういう「不安」を背景にしているから、この話題は味そのものよりも「入れている|入れていない」みたいな all or nothing の議論に陥りがちなのでしょう。
>rさん
>黒猫亭さん
例の小冊子の抜粋版のようなものがそのまま雑誌に掲載されるようになっています。ラーメンに特化した雑誌ですが、一般客の目に触れるのが前提となっていますから、「客への啓蒙」あたりも視野に置いているのでしょう。
今年味の素は100周年だそうで、それを記念してか(^O^)、あの小冊子もよほど大量に刷ったようです。
投稿: hietaro | 2009年8月15日 (土曜日) 午前 11時32分
>hietaro さん
>>つまりラーメンスープは本道がない分、客にとっての「ブラックボックス」であり、これは楽しみであると同時に、不安でもあるんですよね。多かれ少なかれ。
なるほど、蓋し卓見だと思います。オレが冒頭で「ラーメンは一般家庭で作れないものと謂う思い込み」をマクラに置いたのは、そちらでの議論でhietaro さんが仰ったご意見を「なるほどなぁ」と思ったからなんですが、仰る通り、蕎麦やうどんのダシ汁ってのは「節、醤油、味醂、砂糖」みたいにハッキリしていますよね。
その辺、ラーメンのスープはとにかく何だかわからない。何だかわからないけど蕎麦やうどんとは別種の美味さを感じる、これはちょっと不気味ではあるでしょう。今回のエントリの結論も少し予定調和的でしたが(笑)、ラーメン文化がこれほど多様化する以前の時代性においてラーメンの味を覚えた世代が、「ラーメンらしい味」として感じているのは、獣肉主体のスープのうまみを、うまみ調味料と謂う基本的な和食のうまみ要素で纏めた味附けだと思うんですね。
これは、シンプルな分美味しんぼ的な「真正性」を追求しやすい蕎麦・うどんに比べると、「化学調味料」と謂う下世話の横綱みたいな調味料が絡んでいるだけに非常にジャンク感が強い事実です。そこが化調を問題視する風潮に繋がっているのだろうと謂うのは説得力があります。
>>ラーメンに特化した雑誌ですが、一般客の目に触れるのが前提となっていますから、「客への啓蒙」あたりも視野に置いているのでしょう。
うーむ、粘り強い啓発作戦ですねぇ(笑)。盲目的な化調否定ではなく、現場の実態を踏まえた化調論議に繋がれば好いとは思いますが、読んだ客の反応が気になります。
>>今年味の素は100周年だそうで、それを記念してか(^O^)、あの小冊子もよほど大量に刷ったようです。
オレは味の素の一社提供の「ウチゴハン」と謂う番組を毎週観ている(長女役の少女の成長が楽しみなので←キモイなぁ(笑))のですが、昨年辺りから三〇秒スポットでうまみの父である池田菊苗先生が大活躍しているのにはそんな事情が(笑)。しかも今を時めく小栗旬が演じていると謂うのがまた一〇〇年分の力瘤を入れてますね。ウィキの池田菊苗の項目にまで、
>>小栗旬が池田に扮した味の素社のテレビCMが2008年より放映され、一般に認知度を広めている。
なんて書かれているくらいで(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月15日 (土曜日) 午後 12時42分
こんにちは。
なんだかラーメンの深イイ話になってるので、口挟みづらいですね(笑)。
サラリーマンだった頃(OLではなかった、大学生だったけど女子大生ではなかったように・・・orz)に、昼休みに誰かが買ってきた、モーニング、ヤンジャン、スピリット、ビッグコミックetc.を読んでいました。でも美味しんぼは、最初の方しかフォローしてないんですよ、「高いお金だして美味しいものが出てくるのは当たり前じゃん、出てこなかったら逆に詐欺でしょ」とだんだん思い出して(結構バブルでしたよね)、父と子の相克といっても随分チープな感じで、ストーリーそのものにはついて行けなかったんです。
お出汁の話は、TVで見た料亭の人がお店のこつを紹介している時に見たもので、げげっと思うぐらい鰹節を使ってました。・・・今ふと思ったんですけど、この場合鰹節も良い物を使わないと駄目でしょうね、安いものを使ったら生臭さが勝つんじゃないでしょうか。
料理研究家の山本麗子さんが、おうちで作るラーメンを紹介した時に
「これは一口飲むと”薄いな”と思うかもしれません。でも全部ごくごく飲んで美味しいなと思う味付けになっています。お店の料理は一口飲んだ時に”美味いっ”と思わせなければならないので、味付けがどうしても濃いんですよ。」
これに私はなるほどと思ったんです。美味しいと思ったラーメンでもスープを全部飲み干す事って、そう言えば無かったなって(お店の人ごめんなさい)。
投稿: うさぎ林檎 | 2009年8月15日 (土曜日) 午後 01時41分
>うさぎ林檎さん
>>なんだかラーメンの深イイ話になってるので、口挟みづらいですね(笑)。
いやいや、どんどん脇道に行っちゃって結構ですよ。このエントリはたしかに化調の問題を論じるきっかけみたいなことも考えて書きましたが、話自体は自宅で窮めて大雑把なラーメンを作ったと謂う莫迦話ですから(笑)。
hietaro さんとのお話がディープに突っ込んだ感じになっているのは、以前の議論のリターンマッチと謂うのも変ですが(笑)、すでにかなり突っ込んだ議論を経験していて、それが中途半端な形で途絶したと謂う経緯があるものですから、あのとき惜しくも詰め切れなかった地点に、今回は踏み込むことが出来るかな、と謂う期待があると謂う事情があるんです。
リンク先の記事のコメント欄がそれなんですが、ちょっとこれを全部読んでくださいとお願いするのも気が引けるので(笑)、以前の議論の経過をご存じない方には不親切な流れになっているかな、と謂う部分もあります。あのときに、何とかhietaro さんとオレとの間で共通理解に達したと思える部分も十分に説明出来ないですから、まあこの流れはこの流れで、そう謂う以前の経緯を踏まえた流れだと視て戴いて、お好きなようにコメントを戴けると嬉しいです。
>>でも美味しんぼは、最初の方しかフォローしてないんですよ
あ、これは非ぬ疑いを掛けて申し訳ないです(笑)。美味しんぼにも同種のエピソードがあったものですから、何となくそうじゃないかと。
>>お出汁の話は、TVで見た料亭の人がお店のこつを紹介している時に見たもので、げげっと思うぐらい鰹節を使ってました。
これはもう、鍋から溢れるくらい大量に使うんですよね。まあ、削り節ですから湿ると嵩が減るんですが、それにしても、普通の汁物や煮物に使う場合の軽く一〇倍くらい大量使用するんですよね。そんなに節のうまみ成分が濃縮されて気持ち悪くないのかと謂うと、節のうまみ成分は多ければ多いほどうまみを感じるらしくて、そんな一方的な話があるのかしらとちょっと眉唾には感じたんですが、現に一流料亭で名物料理になっているそうなんで、間違いはないようです。
勿論、薄味のお吸い物なんかに使う場合は上等の削り節を使わないと、殊に鰹は血の臭いがしますから、生臭くなっちゃうんでしょうね。ウチでは、本物の鰹節を使うのは蕎麦やうどんの汁を作る際に厚削り節を使う場合だけなんで、こっちはもう醤油の臭いが強くなるから安物でもそんなに気にならないんですが。
>>「これは一口飲むと”薄いな”と思うかもしれません。でも全部ごくごく飲んで美味しいなと思う味付けになっています。お店の料理は一口飲んだ時に”美味いっ”と思わせなければならないので、味付けがどうしても濃いんですよ。」
そう謂う傾向はあるかもしれませんね。ただ、hietaro さんのところや友人のラヲタのレビューを読むと、仰るような薄味の仕立てで全部飲めるようなスープも増えてきているように思います。「あ、薄いな」みたいな飲み口でも、飲んでいるうちに段々美味さを感じて最終的には全部飲んでしまうような。
オレは北陸人なんで濃い口好みですから、あまり薄味は好きじゃないですけどね。でもこれもどうやら慣れが大きいらしくて、友人の東北人は嘗て漬け物に掛けた醤油の残りを全部飲むほど濃い味好みだったんですが、四国出身の奥さんを貰って薄味の料理に親しんだ結果、オレなんかがたまに食事を呼ばれると味附けを忘れたんじゃないかと感じるような味の薄い料理を何とも思わずに毎日食べているそうです。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月15日 (土曜日) 午後 02時15分
こんにちは、プロの端くれの立場から少々。
旨み調味料の使用感についてラーメン店主さん達の仰っている事を補足するつもりで少々私見を。
鰹と昆布でとる和食の出汁においても旨み調味料を使うお店も有ります。
その場合の旨み調味料の使用目的はどちらかと言うと「味をつける」とか「旨みをつける」というよりも「味をキメル」為につかう部分が多いのではないかと感じます。
実際に出汁にあたりを決めてからでもホンの少々、それこそ出汁10㍑に小匙半分でも旨み調味料を入れると、はっきりと味のメリハリがたち「味がキマリ」ます。味全体がくっきりと輪郭線が見えるように「角が立つ」様な感覚です。女性の化粧で言うと口紅みたいな物でしょうか。
旨み調味料抜きでも基本的に有る程度は「決まる」のですがその「決まり」具合にはバラツキがあります。旨み調味料を入れるとそれが安定的に「キマリ」ます。これは「天然」の昆布を使ってもなぜか出来ません。原価の問題では無いのです(それに昆布は軽いので有る程度良い物で100g1,000円とかいっても嵩は大きく大量の出汁が引けるのでそれほど高価でも有りません)。
流石にちゃんとしたプロは口に入れると味を「決めて」いるのか「キメテ」いるのかは有る程度判りますが、寧ろ多数のお客さんには「キメテ」いるほうがうけが良いのも現実です。店のジャンルや客層によっては「キメテ」いない料理だと味が薄いとか言われる事も多くなります。
ただ「キメテ」いる物は「キマリ」かたがどれでもほぼ単一で特徴が有り、どこでも味が似たような物になるので、それが判ってしまう人が「味」として評価しない理由も解ります。逆に「キマッテ」いないと気持ちが悪いと感じるプロも多くいます。
ラーメン屋さんでも少量の旨み調味料を使うのは「味をつける」為というよりも「味をキメル」為ではないかと思います。
ラーメンはそれ程詳しくは無いのであくまで私見ですが。
投稿: 摂津国人 | 2009年8月15日 (土曜日) 午後 02時45分
割り込ませて、頂きます。
ラーメンだけで、これだけ盛り上がるんですね。
仕事上、過去に全国を回ったことがありますが、
ラーメンに限らず、麺類は、その地方、地方でうまいものがあります。
個人的な見地から云うと、ラーメンでは、旭川で食べた塩ラーメン、札幌ラーメン(店による…)、喜多方ラーメン;
そして、(育った所の)博多の長浜ラーメン、久留米ラーメン、熊本桂花ラーメン、鹿児島のやはり豚骨ラーメンがうまいと思います。
東京に来て、始め、黒い醤油味のラーメンには抵抗がありましたが、神田にあった「シナそば」の薄味の醤油ラーメンが、美味く感じだして、今は平気なり、神田では、(最近うまいラーメン屋が多くなり、)私的には、コッテリした「神田ラーメン」が好きです。
他の麺類では、関東に来て、蕎麦の味を知ったのですが、山形、新潟、長野、茨城で食べた、腰のある蕎麦がうまかったです。
うどんは、関西の薄味汁のものが好きですが、(博多もうまいですが、)香川讃岐の店で食べた(だし汁とおろし大根とネギのみの)醤油うどんが一番でした。
冷麺は、やはり韓国のものでしょうが、盛岡のものは、食感が近く、旨いです。
そうめんは、兵庫の揖保でしょうが、小豆島で食べたそうめん、そして北海道名寄のそうめんも、おいしかったです。
要は、ラーメンに限らず、全国各地の地元の食材を使った麺類は、麺及びその汁とも、美味しいものです。(もちろん、店に依りますが…。)
調味料について、一言。
昔、「味の素」が出た時、「味の素をかけると、頭が良くなる。」との噂が上がり、何でも、「味の素」を掛けていた記憶があります。
その後、「味の素」=「(合成)化学調味料」との風潮が広まり、個人としても、そのまま振りかけたお新香等を食べた時の「味の素」類の<いかにも化学物の結晶>の食感と<味そのもの>を食べているようで、直接掛けることは、自身では絶対やら無くなり、家でも、食卓には、置いていません。
(その感覚は、「化調忌避」のドグマから来ていると思いますが…。但し、カミさんが、煮込んだりする分に使うには、抵抗感はありません。)
たかが、ラーメンの作り方の拘りや「旨味」に化学調味料を使うか?を議論できるのは、アフリカやアジアの食糧難の国々から見ると、食料豊富な国の贅沢な戯言とも思えますが、
食べ物については、民族としての味覚として拘りが、どこかあり、人類としての<欲求>として、一種の<文化>と思います。
なお、漫画<美味しんぼう>は、最初の頃、床屋においてあり、その味への探求に唸らせたものですが、どだい、<持てる者の贅沢の極み>のようで、今は読む気はしません。
庶民は、例え化学調味料を使おうと、カミさんの手料理(家庭料理)で満足するのが、<分相応>と思います…。
この頃、カップ麺でも、腹を満たすには、十分に美味しいと思うようになった人間より。
投稿: mohariza | 2009年8月15日 (土曜日) 午後 02時47分
それと長くなりますが経営についてです。
黒猫亭さんの疑問に思われる>「何故使わないのか」と謂うことには、突き詰めて考えると個人の嗜好と謂う以上の納得の行く説明がない、そう謂うことなんです。
なのですが「店側の立場」で幾つかのポイントを
1)旨み調味料を使わずに味を作るのは手間は係り安定しない部分は有るが可能である。
2)旨み調味料を使った味と使っていない味を利き分ける客は有る程度は居る。
3)店側にしてみれば旨み調味料を使わないというのは良い材料を手間をかけて作っているという印象をアピールすることが出来ると考えられる。
4)旨み調味料が体に悪いという迷信もあり店側は無自覚にでもそれを利用している部分も否定できない。
5)旨み調味料を使わずに味を作るのは実はラーメンでも1杯あたり数10円程度のコストアップなので他の固定費等とも比べて極端に大きな物ではないので、経営方針としてそれを選択することは不合理ではないです。
初期投資(内装等)や立地条件(家賃)、人件費(サービス内容)と同じで飲食店の場合は薄利なので客の回転さえ上げる事ができれば経営的に充分に成り立ちえるわけです。
上で書いた良い目の昆布100gで一番出汁で10㍑は取れます、1杯200ccとして50杯、1杯20円です。
ラーメンだと昆布メインで出汁をとるわけではないので量ももっと取れるでしょうし、安い昆布を使えば1杯10円以下でも昆布を使うのは可能です。
本気で「無化調」を目指したとしても、ほぼ出来合いのスープで旨み調味料を多用して作った場合に比べて1杯あたり50円程度のコストの上昇で抑えられるのでしたら経営戦略上の選択肢としては充分ありえます。仕入れの工夫やメニュー構成でもう少し何とかなる範囲内でも有ります。
薄利多売のラーメン店で多少のコストの上昇が有っても印象を良くする事が出来、それによって客数の増加が見込めるのなら「無化調」は”お客さんが理解している”かは別にして、それほど不合理な経営方針とはいえないと思います。
(安物の醤油だとリットルあたり100円程度でもありますがマアマアの醤油で300~500円、丸大豆2年熟成醤油で大体1,500円まで、醤油ラーメン1杯あたり醤油30ccだとして10~15円か50円、流石に35~40円差で醤油は高いですね。)
一応ラーメンスープ一人仕上がり量250ccで乱暴に計算してみました。仕込みは20㍑80人前で。
豚骨又は鶏がらが仕上がりスープの50%で10㌔。㌔500円(高め)で5,000円。
秋刀魚節500g1,000円。干し貝柱50g1,000円。昆布100g500円。野菜酒等500円。光熱費別で8,000円。
高級スープにしても一人前100円程度、調味料込みで150円強。全部一般価格で計算したので業務仕入れだと8掛けにはなるでしょうか?。
麺は自家製麺で40円位、麺専門店で買うと60~80円位でしょう。
具材によりますが200~300円までで「高級無化調ラーメン」は作れるはずです。
原価率で普通は30%~40%ですから有る程度の売り上げが見込めるのなら650~800円でもあり得なくはないですね。
寧ろフランチャイズの「無個性化調ラーメン」でも仕入れを握られていると600円のラーメンでも原価200~250円は掛かっているはずです。
ラーメン店をやる場合一番怖いのはフランチャイズ料なので、無化調自家製のオリジナルのほうが押し付けられる半製品のスープより旨く出来る自信があれば同じ値段だと経営が楽な場合があります。
投稿: 摂津国人 | 2009年8月15日 (土曜日) 午後 02時53分
>摂津国人さん
>>実際に出汁にあたりを決めてからでもホンの少々、それこそ出汁10㍑に小匙半分でも旨み調味料を入れると、はっきりと味のメリハリがたち「味がキマリ」ます。
>>ただ「キメテ」いる物は「キマリ」かたがどれでもほぼ単一で特徴が有り、どこでも味が似たような物になるので、それが判ってしまう人が「味」として評価しない理由も解ります。逆に「キマッテ」いないと気持ちが悪いと感じるプロも多くいます。
>>旨み調味料を使った味と使っていない味を利き分ける客は有る程度は居る。
プロの方のご意見に対してあんまり安直に「わかる」と言ってはいけないような気がしますが、「そう謂う感覚があるんだろうなぁ」と謂うふうに感じます。「味が決まる」と謂う感覚は何となくわかるような気がしますね、バラバラの素材の味が何か一本の筋道に纏まる感じ、そのようなものでしょうか。
そうすると、グルタミン酸のうまみ成分が加わることで、個々のうまみ成分に地と図の関係が出来るような感じなんでしょうかね。その一方で、グルタミン酸で味が決まると謂う状態には或る明確な特徴があり、それを画一的と感じる人もいる…
うん、段々見えてきました。
>>これは「天然」の昆布を使ってもなぜか出来ません。原価の問題では無いのです
なるほど、uneyama さんのご意見とも併せて考えていくと、どうやらうまみ調味料には昆布や鰹節の代替物としてではない、独自の役割がありそうに思えてきます。昆布としての風味や香り、食感が却って邪魔になる場面がある、純粋にグルタミン酸だけワンポイントで欲しい、こう謂う局面が料理には在り得ると謂うことですね。
一方では、たとえば美味しんぼでも、昆布粉を何にでも掛けることや、鰹節を大量に使用したダシの取り方それ自体は肯定されているわけで、この間の違いは何なのかと謂う疑問が立ち上がってきます。そして、うまみ調味料についてオレは「要素還元的な代替物」と謂う表現をしましたし、その一方でうまみ成分とうまみエキスとは別のものとして考えるべきだとも言い、「うまみ成分を含んだ食材」ではなく「うまみ成分」それ自体が必要な場面もあると謂う情報が出てきました。
何と謂うか、段々問題の全体像が見えてきたような気がします。
>>本気で「無化調」を目指したとしても、ほぼ出来合いのスープで旨み調味料を多用して作った場合に比べて1杯あたり50円程度のコストの上昇で抑えられるのでしたら経営戦略上の選択肢としては充分ありえます。
これはプロの方が具体的な原価率を挙げてそのように仰っているのですから、その通りなのでしょうね。もしhietaro さんが反論を書き進めておられるようなら申し訳ないのですが、この辺の意見については撤回したほうが好さそうです。
しかし、その場合でも摂津国人さんが挙げられた理由を要約すれば、「手間を掛けていると謂うイメージ作り」「化調に敏感で嫌いな人もいる」と謂うことになります。これはまあ、イメージ戦略や迷信への対応と謂う理由附けになるでしょうし、化調を嫌う人への対応と謂う意味では、一種吉野屋の牛丼の葱抜きみたいなものと謂えるでしょう。
また、どらねこさんの裏ブログを拝読すると、たとえばウチの母親と同様な原体験の故に化調に敏感な体質乃至味覚になっていると謂うことも考えられるわけですし、たとえばオレがグルタミン酸ナトリウムの味自体は嫌いではないが、それを摂取した後に強い飢渇感を覚えると謂うようなこともあるわけです。
それらの材料を有機的に考えていくと、或る一本の筋道に纏まってくるような印象を覚えました。ちょっとこれは、もう少し煮詰まるまで考えてみたいと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月15日 (土曜日) 午後 04時36分
>moharizaさん
>>ラーメンだけで、これだけ盛り上がるんですね。
>>仕事上、過去に全国を回ったことがありますが、
>>ラーメンに限らず、麺類は、その地方、地方でうまいものがあります。
どうも、食に纏わる話題、就中国民食とまで謂われるラーメンの話題と謂うのは非常に幅広く人々の関心を刺激するものらしくて、注目度の高い話題のようです。
お仕事の都合とは謂え、全国を股に掛けていろいろなものを食べておられますね。オレは最近めっきり旅行をしなくなりましたので、羨ましい限りです。しかし、麺類がこれほど全国でポピュラーだと謂うのも、歴史的に考えると不思議な話で、現在のような形の細長い麺は、古来から日本にあるものとしては素麺くらいで、それも昔は今のように細くなかったそうです。うどんや蕎麦はたしか江戸時代中期くらいに現在のような細長い形になったそうですし、そう謂う意味では割合短期間に爆発的に普及した食べ物だと謂えるかもしれません。
>>昔、「味の素」が出た時、「味の素をかけると、頭が良くなる。」との噂が上がり、何でも、「味の素」を掛けていた記憶があります。
グルタミン酸が脳内で情報伝達の役割を担っていると謂う話から、グルタミン酸を摂取すると頭が良くなると謂う俗説が生まれたようですが、これはまあ、「田蛙の喉のスープを飲むと喉に良い」と同列の話ですね(笑)。
>>その後、「味の素」=「(合成)化学調味料」との風潮が広まり、個人としても、そのまま振りかけたお新香等を食べた時の「味の素」類の<いかにも化学物の結晶>の食感と<味そのもの>を食べているようで、直接掛けることは、自身では絶対やら無くなり、家でも、食卓には、置いていません。
これは、どらねこさんやウチの母親の例じゃないですが、味の素の結晶それ自体を舐めると強烈な不快感を感じますね。あれは何故だかわからないんですが、液体に溶かすとそれほど感じないんですが、そのまま舐めると何とも謂えない不快な味がしますね。
ウチのオヤジなんかはやっぱり漬け物に味の素を掛けていましたが、あれはまだ醤油がかかっているから喰えたのかもしれません。オレは炒飯を作るときは必ずうまみ調味料を入れるんですが、炒飯のような調理法だと、結晶が溶けずに残ったりしますから、醤油を少量垂らして少し蒸らしたりしますね。
>>庶民は、例え化学調味料を使おうと、カミさんの手料理(家庭料理)で満足するのが、<分相応>と思います…。
日常的には奥さんの手料理が一番のご馳走なんじゃないですかねぇ。敢えて美食だ何だと謂うのも、それはハレの場の話だろうとしか思わないんですよ。もっとぶっちゃけて言うなら、鋭敏な味覚を誇る人を視ると、まあ料理も一種の藝術ですから鑑賞する優れた能力と謂うことになるでしょうけれど、食事本来の意味から謂うと無駄に敏感なのも善し悪しだなと思います(笑)。
オレ程度の味覚でも、もっと鈍感で何でも喜んで喰えるほうが面倒がなくて好いのにとか思ったりしますが、どうもカップラーメンやレトルトカレーが喰えないとか、コンビニ弁当がイヤだとか、パンはちゃんとパン屋がその日に焼いたのでないと喰う気がしないとか、無駄に贅沢な好き嫌いがあります。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月15日 (土曜日) 午後 04時37分
>黒猫亭さん
>もしhietaro さんが反論を書き進めておられるようなら申し訳ないのですが、この辺の意見については撤回したほうが好さそうです。
摂津国人さんのお話を読ませていただいても、とりあえず、少なくとも「補助」的に化調を使っている店と無化調の店とでは化調使用のコスト面でのメリットはさほど大きなものではない、ということでいいようですね。
このコメント欄での黒猫亭さんの主張はこれを前提にしている部分が多かったようですし、
>それらの材料を有機的に考えていくと、或る一本の筋道に纏まってくるような印象を覚えました。ちょっとこれは、もう少し煮詰まるまで考えてみたいと思います。
とのことですので、そちらを待ちたいと思います。m(_ _)m
>。「味が決まる」と謂う感覚は何となくわかるような気がしますね、バラバラの素材の味が何か一本の筋道に纏まる感じ、そのようなものでしょうか。
「バラバラの素材の味が何か一本の筋道に纏まる感じ」というのを、私がお話しをした職人さんは「化調を少し使うと、味がうまく手をつなぐ」と表現していましたね。(^O^)
あと、前述した私の行きつけの店の主人は無化調ラーメンを作っていますが、それをウリにしていることもありませんし、化調を毛嫌いしていることもありませんね。チャーハンには使っていますし、以前テレビに出た時も、無化調でラーメンを作ると紹介されたあと、「でも、白菜の浅漬けに味の素と醤油かけて食ったらうまいよなあ。(^O^)(^O^)」なんて堂々と言っています。(^O^)
投稿: hietaro | 2009年8月16日 (日曜日) 午前 02時30分
>hietaroさん
前宣伝を煽るわけではないですが、考えていくうちに何だかとんでもないストーリーが出来上がって困っているんですよ(笑)。言うならば、「オレたちはとんでもない勘違いをしていたんだよ!」と謂うところです(笑)。
うまく行けば、従来の化調論争が何処で変な具合にねじ曲がったのか、その辺の問題点を議論の俎上に載せることが出来るんじゃないかと思います。
>>このコメント欄での黒猫亭さんの主張はこれを前提にしている部分が多かったようですし、
いや、高級料理化についてはこれだけが理由と謂うわけではないんです。飽くまで雁屋哲や環境貴族みたいな人々の主唱する無化調思想に則るなら、いずれは高級料理化せざるを得ないはずだ、と謂う論旨だったんですが…考えていくうちに、それ自体美味しんぼに刷り込まれた間違った思考の枠組みに囚われていたのだと気附きました。
>>以前テレビに出た時も、無化調でラーメンを作ると紹介されたあと、「でも、白菜の浅漬けに味の素と醤油かけて食ったらうまいよなあ。(^O^)(^O^)」なんて堂々と言っています。(^O^)
うまく行けば…ってこればっかりですが(笑)、その辺の一見矛盾に見える事柄も無理なく説明出来るんじゃないかと目論んでいます。寧ろ気になるのは、オレが今用意しているような考察は、何処まで現場の人々が意識化しているのかと謂うことなんですが、それはまあ、書き上がったときに更めてお話しさせて戴きましょう。
投稿: 黒猫亭 | 2009年8月16日 (日曜日) 午前 05時43分