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2009年8月26日 (水曜日)

首を切られた王様もいる

巷で頻りにばななばなな言っているので、てっきりまたバナナダイエットでも流行っているのかと思ったら、吉本ばななが何かをやらかしたらしい。いろいろブクマなんかを辿ってみると、単に世間識らずの物書きが非常識なことをした挙げ句に勝手な理屈で正当化していると謂うだけの話らしく、老害作家の渡辺淳一が勝手にグリーン席に座った挙げ句に注意した乗務員に説教を垂れた一件の焼き直しである。

ただ、どうもこの件を巡るネットの言説をちょこっと視ると、何だか賛否に別れているようなんだが、これは賛否を論じるような話ではないね。一人の客として吉本ばななが間違っている、それだけの話である。では何故この種の問題はややこしくなるのか、その辺について、昔類似の問題をちょっと考えたことがあるのでちょっと纏まったことは言えると思う。

結論から先に言えば、何故この問題がややこしくなったかと謂えば、まず大前提としてばななのほうが客として間違っているが、店長の側も店のほうの事情で勝手に決めている規則について客を説教したことが間違っているからである。

そして、これをそんなにややこしい問題ではないとオレが考える根拠として、よしんば店長の対応が間違っているからと謂って、先に間違ったことをした客である吉本ばななはそれを批判出来た筋合いではないと考えるからである。

今回は、その辺の筋道について語ってみよう。

基本的にオレは、客が商売人に対して商売の心得を説教するのは間違っていると考えている。商売の心得なんてのは、商売人自身が考えることで、客が自分の考えを圧し附けることでは決してない。

昔その種の問題を考えた際、まず大前提に置くべきだと結論したことは、客商売だろうが何だろうが、人間の商行為においては、客とサービスを提供する側は飽くまで原理的には対等の立場だと謂うことである。

では、何故客の側が威張っていて商売人の側が謙っているのが当然だと思われているのか。それは単に力関係の問題であって筋論の問題ではない。ここを見損なうからいろいろ混乱するのであるとオレは考えている。選ぶのは客の側であって、力関係の上で強い立場にいる、だから商売人の側は謙って接する。「数ある店の中から当店をお選びくださりまして誠に有り難うございます」と感謝する、それだけの話である。

そして、この客とサービスを提供する側の関係性における力関係は、一種利害の観点では相互排除的な関係にある。つまり、客の立場が強いことはサービス提供者にとって不利に働き、サービス提供者の立場が強いとその逆になるわけである。一般的には客の側の立場が強いわけだから、潜在的にサービス提供者は客に比べて不利な立場に置かれている、そのように整理することが出来るだろう。

ここに「もてなしの心」とかの精神論を入れる向きもあるが、ちょっと立ち止まって考えてみましょうよ。「もてなし」ってのは本来何ですか?

これは基本的に、自分の家に他人を招いて歓待することである。であるから、そもそももてなされる側と謂うのは、相手の厚意でご馳走になる側であって、もてなす者と謂うのはその一家の主人である。であるから、客は本来一種の寄食者であって、筋論から謂えば、主人が客に対して謙る必要なんかない。つまり、もてなされる側には、本来もてなし方に対して注文を附けられる筋論的根拠なんかないのである。

この辺の事情が変わってくるとすれば、それもやはりもてなしの関係性とは別の関係性に基づく力関係の故である。たとえば、会社の上役や取引先の偉い人を一席設けて歓待する、これももてなす側ともてなされる側の間の関係の筋論とは別に、ビジネスの観点における力関係が働いているからもてなす側が謙るわけである。

この二つの筋道を総合して考えれば、料理店のホスピタリティの性格がどのようなものであるかがわかるだろう。

料理店と謂うのは、形式的には「自宅に客を招いて歓待する」と謂う私的な慣習を模しているわけであるが、そのもてなしに対価を取って商売にすることで、商売の上での力関係が働いてくる。つまり、たくさんの料理店の中からその店を選ぶのは客のほうであり、店の側で客に来店を強制することは出来ないわけである。その意味で、一般的に商売人と客では圧倒的に客のほうが強い立場にある、これはすでに語った。

そこにさらに別の条件を加えるとすれば、そこで何を商品として扱うかは基本的に商売人の側の自由裁量に一任されていて当たり前だと謂うことが一つある。以前、仮面ライダーカブトの「喫煙問題」を語った際に少し触れたが、町場の小汚いラーメン屋に対して一流ホテルや一流レストランと同様のホスピタリティを期待するのは間違っているわけで、町場の小汚いラーメン屋で売っているのは、「料理それ自体と最低限の給仕」と謂うだけの商品である。

一流のホテルやレストランは、これに加えて洗練されたプロのホスピタリティもセットで商品として売っていてこれが単価に上乗せされている、このような違いがある。そして、法律上の問題が何もなければ、特定の単価で何を商品として売ろうが、それは売る側の勝手である。敢えて雑駁に表現するなら、特定の単価で炒飯にスープを附けようがザーサイを附けようが何も附けなかろうが、それは店の側の勝手であって、気に入らないと思ったら二度と行かなければ好いだけの話である。

たとえば、料理店についてよく問題になるのが「職人気質を履き違えた頑固亭主」に対する批判であるが、これも、オヤジの態度が気に入らないなら二度と行かなければ好いのである。「あそこのラーメンは美味いんだけど、オヤジの態度がなぁ。あれさえなければ好いのに」とか謂う意見はよく目にするが、それは大変ごもっともな感想ではあるが、これはつまり客よりオヤジのほうが立場が強いと謂うことであって、オヤジの態度の不快さのほうがラーメンの味より気になるなら、一番正しい行動は四の五の言わずに二度と行かないと謂うことである。

ここで客が「商売人として間違っている」とか言い出すから、論理が整合しなくなってくるのである。その「間違っている」とする理路が「もてなしの心」式の精神論なら論外で、そこの店はラーメンは売っているがオヤジのホスピタリティは売っていないと謂うだけの話であり、客の態度にオヤジが口うるさく注文を附けると謂うオマケが附いてワンセットの商売だと謂うだけのことである。そう謂う商売が厭なら、客に出来る抗議の方法は一つだけで、それは「その店を選ばない」と謂うことである。

当然、最初からそんなことはわからないから、判断する為には一度は不愉快な想いをする必要があるが、それは単に「不幸な出会いだった」と謂うだけの話で、商売と謂うものは、売る側も買う側も互いのニーズがマッチせずに不愉快な想いをするリスクが潜在していて当たり前なのである。

また、「そんな商売をしていたら今に客が寄り附かなくなる」と謂う理路であれば、客の側がそんな心配をして差し上げる必要などはない。客が寄り附かない店は抛っておいてもいずれは潰れるのだし、それ以外の報いなど存在しない。そんな態度でも商売が続いているのだとしたら、それは店主の立場が強い関係性でも商売が成立する、それだけ商品に力がある、と謂うだけの話である。

商売人なんだから客に謙るのが当たり前だなんてのは、突き詰めて考えれば何の根拠もない恣意的な主張である。「気に入らない」と謂う話なら出来るが、「筋として間違っている」なんて話にはならないのである。

では、「もてなしの心」式の精神論はナンセンスなのかと謂えば、それも違う。

客をもてなす心映えの問題と謂うのは、商売人のスキルの観点で意味のある概念なのであって、商売人のコミュニティにおける教育や相互批評の観点で論じられるべき問題であるから、客の立場における一方的な要求や批判としては何の意味もないと謂うことである。そして、この種の問題を論じる場合は、論者がいずれの立場を採るのであるかを自他に明確化しなければ、話は必ず混乱する。

客の側が「もてなしの心」とか言い出すなら、町場の小汚いラーメン屋にも一流レストラン並のホスピタリティを要求しても構わないとか、そんな話になってしまう。この種の言い分をドライブしたのは、やはり「美味しんぼ」辺りではないかと謂うことになるだろうが(笑)、この点においては別段そんなに間違ったことは言っていない。

たとえば海原雄山と謂う人は、何かちょっとでも気に入らないことがあるとすぐ「亭主(女将)を呼べ」と大騒ぎをして説教を垂れ、「もてなしの心」を滔々と弁ずるわけであるが、これは海原雄山が料理人の世界で尊敬されている優れた見識の持ち主だから成立する話であって、説教をカマしている雄山は別段一人の客としてクレームを入れているわけではない。

プロの料理人が教えを請うべき人物として認めているからこそ、一度雄山が獅子吼すると料理店が平服するわけで、一種の押し売りコンサルとか一流剣客の道場破りみたいな立場である(笑)。この雄山固有の立場には、一人の客としての当事者性を離れた苛烈な真剣勝負の指導としての側面があるわけで、一人の客として気に入らない扱いをされたと謂う文句を言っているわけではない。

この件に関するブクマを視ると、みつどんさんなんかはばななに同情的と謂うか、寧ろ店長に対して批判的な論調で一貫しているが、これは商売人としての立場における観点を明確に採用していると謂うことだろう。商売人のコミュニティにおいては、基本的に客が我儘を言うのは当たり前であって、その我儘をどう巧みに捌くかと謂うことも含めて接客スキルのうちである。

ただ、ここまで述べてきたことを総合して判断するなら、やっぱりばななが悪いと謂うことそれ自体は動かないと思うんですよ(笑)。店長の商売人としてのスキルを批評する観点においては、ばななが我儘なのは当たり前の前提ではあるけれど、客の態度についての批評の観点で謂えば、ばななは明確に頭の悪い自己中心的な我儘を述べているにすぎない。

単に、商売人の側が客を批評しても何の進歩も益もないと謂うだけの話で、要するに商売人視点においては、客が間違ったことをしても、それに対して間違っていると指摘することでは客の我儘を捌くことが出来ないと謂うことである。カネを払ってその店で飲食している客が、「あんたは間違っている」と指摘されたら「あたくしが悪うございました」と恐れ入って言うことを聞くのか、と謂う現実論である。

また、気持ちよく飲食を楽しむ場において、客に不快な想いをさせる選択肢を最初に採ることは正しい接客と謂えるのかと謂う話であって、これは商売人としての立場を明確に標榜しない限り、客や当事者としての立場で論じ得ることではない。客や当事者の立場で論じるなら、客として間違ったことをした側が悪いと謂うことに疑問の余地なんかないからである。理不尽な我儘を言った側が「客が我儘なのは当たり前」とか嘯くのは正しい主張と言えるのか、と謂う話である。

つまり、客が悪いことをしても、客が悪いと謂う前提で扱うことでは何も解決しないと謂う話であって、客が悪くないと謂う話でも何でもないと謂うことである。

この問題においては、ばななが悪いことは勿論だが、店長の対応も商売人のスキルとして褒められたものではない、それは謂えるだろう。しかし、それを間違ったことをした当事者であるばななが商売の観点から批判するのは二重に間違っている。少なくとも、この問題において、吉本ばななは客であり一当事者である固有の立場からは決して逃れられないはずである。

つまり、この店長が間違っているかいないかと謂う問題は、ばななが悪いか悪くないかと謂う問題とはまったく関係がない。そして、少なくとも当事者であるばななだけは店長が間違っていると批判し得る立場にはない。その「間違い」を犯させる原因を作ったのは自分の「間違い」だからで、何を他人事のようにお為ごかしのご高説を語っているんだと謂う話である。その理由として「勢いのある人間には客を呼び込む力がある」とかオカルト紛いの話までしているのは沙汰の限りだろう。

別の観点で謂えば、たとえば持ち込みを禁止している店で特定の客にだけそれを許すのは正しくないのかと謂えば、これは別段間違っていないだろう。ハナから「持ち込み厳禁」とか一律禁止を臭わせる形で掲示してあればやめておいたほうが好いだろうが、たとえば「持ち込みはご遠慮ください」と謂うふうなニュアンスなら、理由を話して頼めば場合によっては許してくれる可能性があると謂うことであり、その可否を判断するのは店側の自由裁量である。

ばななの語るような事情があるのであれば、最初から事を分けて責任者に相談すれば好かったのであり、その結果ダメだと言われたら別の店に移動して同じことをすれば好いだけの話である。最初から断られるだろうと謂う認識で、バイトにこっそり頼むなんてのは下品な泥棒根性であって、そんなことをするから「バイトが可哀相」とか謂う話が出てくるわけである。

たとえば、近所に日頃懇意にしているビストロがあって、そこの料理を味わいながら是非このワインを味わってみたい、そう謂う機会だってあるだろう。そのつもりなら最初からそう謂うふうに店主に相談しておけば好いわけである。店側だって、ただ場所を提供しているだけではなく酒食を提供する商売なのだから、無闇にそんなことをされては困ると謂う理由で持ち込みを禁じているのであるから、納得出来る理由があれば特例としてそれを許すことに何ら筋論的問題はない。

一律にこれを禁じる店が多いのは、「あいつらは好くてなんで俺らはダメなんだ」とか他の客にねじ込まれたら、うまく説明出来ないからであって、ちゃんと確信を持って説明出来るのであれば、店主が個人的に信頼出来る客に特例として持ち込みを許すことを誰に非難される謂われもない。

つまり、この問題はきちんと他の客に説明出来るか出来ないかの問題でもあって、そんなことがポンと即興で判断出来るものではないのだから、普段から考えて自分なりの結論を持っていれば対処出来ると謂う、商売人のスキル論である。未熟な頃にそのような機会に遭遇し、「相済みません、当店ではお断りしているんです」と謂うふうに応対してしまったとしても、その経験からいろいろ考えて自分に出来る最善の選択肢を模索する、それが商売人としての研鑽だろうと謂う話で、そう謂うことをしていない商売人にたまたま当たったからと謂って、客の側が偉そうに説教するようなことではない。

商売人が未熟なことで困るのは商売人自身であって、その事情を共有する観点においてのみそれを批判し得ると謂うことで、一人の客として自分の我儘が通らなかった、そのような場合に、単に相手を非難し得る根拠として商売人の心得を得たり顔で批判することなど、単なるダブルスタンダードである。

ばななが何故間違っているかと謂えば、その特定の店においてその特定の持ち込み行為が許されるべきだと謂う手前勝手な前提を置いていて、その前提に則って責任者の断りを得ると謂う正規の手続きも踏まず強引に自分の意志を通しているからで、本来その可否を判断するのは店側であって客であるばななではない。しかも、見附かって説教を喰らったことを、理屈を附けて非難しているのがもっと醜悪である。

その店が将来的に繁盛するかどうか、その商売人が将来困ったことになるかどうか、そんなことには何ら関心なんかないくせに、相手を非難したいと謂う動機の故に、それを間違っていると見做し得る特定の観点を恣意的に採用するのは醜い言論である。

それは、一人の客としての心映えが醜悪だ

また、たとえば老害作家のグリーン車ただ乗り事件について謂えば、JRなんてのは公共輸送機関であって一流のホスピタリティを提供する商売ではないんだから、高級寿司屋か何かのような感覚で「こう謂う場合は気を利かすものだよと説教した」と偉そうに嘯く辺り、鈍感力にも程があるだろう。

ガラガラに空いていればちょっとくらい座ったって構わないだろうと謂うのは、客の態度についての批評の観点で謂えば、泥棒や無銭飲食と変わりがない。商売の観点から謂えば、そう謂う盗人猛々しい客でも客なんだから、もっと洗練された態度でやんわり排除するのがもっと好ましいと謂うだけで、泥棒や無銭飲食をした当人が「気を利かせろと説教した」と謂うのは、筋論的には説教強盗と変わりがない

まあ、それ以前にグリーン車にただ乗りするのは犯罪だと謂う話ではあるが。

ばななにせよ老害作家にせよ、一人の客として不行跡なことをしておきながら、それを注意された途端に「商売を教えてやる」と謂うメタな批評的立場に転じるのは、普通に考えて傲慢な逆ギレである。

世の中にはこの種の「自称・海原雄山」みたいな人が多いのだが、作中の海原雄山は別段いっときのお楽しみの為に外食しているわけではなく、興味を覚えた料理店の店主の心映えに対して真剣勝負を挑んでいるのであるし、店主の側でもそれは納得済みの勝負なのである。ばななや老害作家にそれだけの覚悟があるのか、あったのか、それは問うだけ虚しいだろう。

そもそも雄山が、盛り場の安価な居酒屋にこっそりワインを持ち込んだり、ガラガラのグリーン車にただ乗りしたりするかどうか、そこから考えてみると好い。

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コメント

こんにちは。

ばななはホメの人なので、私には要注意物件です。
がしかし、それはそれとして。

彼女の書いた一件の顛末を読んでみた感想は一言「品がないな-この人。」です。
反論できない相手にメディアを使って鬱憤晴らししたと思われても仕方のない内容で、一般論に昇華しているとはお世辞にも読めない。

”あの”ばななが、普通の下品な中年おばさんだったら、商品イメージ上よろしくないのでは?、は余計なお世話ですかね。

投稿: うさぎ林檎 | 2009年8月26日 (水曜日) 午後 01時48分

この件についてはずっともやもやしていて、書こうか書くまいかちょっと決めかねていた(結局書いてません)んですが。

ぼくはそれほどよしもとばななの熱心な読者じゃなくて。それでも10年くらい前まではそこそこ読んでいたんだと思うんですよ。でも最近はすっかり読まなくなった。面白くないから、ですが。

ぼくはだいたい同世代で(黒猫亭さんもそうですよね)。で、彼女がデビューした時代には、彼女のようなSmall World(だけ)にフォーカスをあてた感受性とそれを表現する文芸に、それなりの意義があったんだと思うんですよ。好き嫌いはともかくとして、ぼくもその意義を感じていたから読んでいたんだろうと思うんです。
で、彼女はいまでもそこにいる。

「懇意にしているビストロ」とか、そう云う「懇意なひとたちのサークル」だけで充分に経済が廻っていた(あるいはそう錯覚できていた)時代があったんだと思うんです。で、そのころから彼女にとって時代が動いていないのではないかと。
結果、書くものがどうにも古臭くて面白くない。

どうもぼくぐらいの世代にはそう云う「時代が動いていない」連中がけっこういて、「an-an」や「Hot Dog Press」を読む替わりに「Leon」や「ソトコト」を読んでいる(でも行動様式は変わらない)、みたいなものすごく嫌な状況があるのではないか、と云う気がしています。

投稿: pooh | 2009年8月26日 (水曜日) 午後 07時28分

>うさぎ林檎さん

>>ばななはホメの人なので、私には要注意物件です。

うわああああああ、そうなのですか。何と謂うか、行くべき人は行くべきところに行くのだと再認識してしまいます。

>>彼女の書いた一件の顛末を読んでみた感想は一言「品がないな−この人。」です。
>>反論できない相手にメディアを使って鬱憤晴らししたと思われても仕方のない内容で、一般論に昇華しているとはお世辞にも読めない。

マスコミやそれに属する作家や文化人って昔は権力があったと思うんですね。自分の意見を発信するメディアを持っている者は、情報を排他的に流布させることが出来るので強力な影響力を持っていたと思うんです。今はネットがありますから、マスコミが勝手な情報だけを排他的に流すことは出来ません。勿論、今でも強い影響力を持っていますけれど、それは規模だけの問題であって、マスコミの情報だけが「事実」として流通するわけではないと謂うことくらいは言えるでしょう。

ばななや老害作家の下品な屁理屈も、ネットのない時代だったら「一つの見識」として通用していたおそれがあります。作家の意見発信は、原則同じ作家や評論家以外は批判しないものと謂う不文律がありましたから、出版物と謂うメディアを握っている一部の人間たちだけの都合で「正論」が決定されていた時代があったわけですね。

勿論その頃だって、釈然としないものを感じていた人はたくさんいたでしょうが、そのような声は情報として流通しないので多くの人の判断に影響を与えないわけです。そう謂う意味で、個人的には何とかネットが普及した時代に間に合って好かったと思いますね。とにかく、作家なんて一般に大した見識の持ち主ではないことがわかっただけでも収穫ですよ(笑)。

そして、仰る通りばななの発言には、どうも権力を嵩に着た弱い者苛めのような動機がぷんぷん臭うわけで、ペンと謂う武器を持っている自分を粗略に扱いやがって、今に見ていろ、みたいな下品さを強烈に感じるんですよねぇ。

ただ、そのレベルの鬱憤晴らしってのは、2ちゃんの一番程度の低いスレと同じくらい下品な情報発信であるわけで。何だか公論に託けている辺りがさらに醜悪です。

>>”あの”ばななが、普通の下品な中年おばさんだったら、商品イメージ上よろしくないのでは?、は余計なお世話ですかね。

まあそれは彼女自身が考えれば好いことで(笑)。商売人の都合は商売人自身が考えるべきことですから、彼女の商売が将来的に失敗しようが、彼女自身が困ろうが一切関心なんかない人間としては、別段考慮する必要はないでしょう(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月26日 (水曜日) 午後 09時04分

>poohさん

>>ぼくはそれほどよしもとばななの熱心な読者じゃなくて。それでも10年くらい前まではそこそこ読んでいたんだと思うんですよ。でも最近はすっかり読まなくなった。面白くないから、ですが。

オレは一冊も読んだことがありません。何だかまったく興味を覚えなかったんです。

これまでいろいろ書いたことで大体お察しのことと思いますが、オレの文藝の嗜好はかなり偏っていて、時代の空気に密着したような作品って殆ど興味がなかったんですね。なので、同世代人なら通過しているような鑑賞体験と謂うのは、割合欠落しているところがあります。古典とやジャンル作品、それ以外だとノンフィクションばかり好んで読んでいたんですね。

>>ぼくはだいたい同世代で(黒猫亭さんもそうですよね)。で、彼女がデビューした時代には、彼女のようなSmall World(だけ)にフォーカスをあてた感受性とそれを表現する文芸に、それなりの意義があったんだと思うんですよ。好き嫌いはともかくとして、ぼくもその意義を感じていたから読んでいたんだろうと思うんです。

オレも同世代ではあります。彼女の全盛期には、通時的な文学の骨法それ自体を学ぶことや、社会的な大状況には興味があったのだけれど、それが個人性の小状況に落ちていくフェイズにはあんまり興味がなかったわけで、ばななを読むんだったら少女マンガでも読んだほうが好いかな、と。その頃は白泉社系の少女マンガ誌の全盛期でしたから、そっちのほうが面白かった。

ばななの作品は、「こう謂う作家性ですよ」「こう謂う内容ですよ」と謂う情報を視ても、格別それが面白いことだとは思えなかったわけですね。なので、オレには吉本ばななを通過した経験が一切ないんです。

>>「懇意にしているビストロ」とか、そう云う「懇意なひとたちのサークル」だけで充分に経済が廻っていた(あるいはそう錯覚できていた)時代があったんだと思うんです。で、そのころから彼女にとって時代が動いていないのではないかと。

>>どうもぼくぐらいの世代にはそう云う「時代が動いていない」連中がけっこういて、「an-an」や「Hot Dog Press」を読む替わりに「Leon」や「ソトコト」を読んでいる(でも行動様式は変わらない)、みたいなものすごく嫌な状況があるのではないか、と云う気がしています。

下世話な言い方になりますが、人間は四十路を迎えることで一旦生き方を見つめ直す転機を迎えると思うんですが、昔好い目をみた人間はなかなか生き方を変えられないと謂うことなのかもしれません。殊に、一流作家と謂う人種は、文化人枠で何となくヌルい生き方を通していけますから、芸能人みたいに浮き沈みの激しい世界の住人よりも、若い頃の活け作りみたいな人が多いように思います。

この辺、同世代近辺の作家がネットで下品な本性を晒す流れと謂うのは、とくにそう謂う人々が下品だと謂うより、「識者」幻想が崩壊する時代なんではないかな、と謂う気がしますね。

先日栗本薫の訃報に接した際もモニョモニョ言ったことですが、作家と謂う職業人はとくに一般人よりも見識があって然るべき理由なんかないんです。面白い物語を作る職能があると謂うだけなんですから、それは見識とは関係ないわけで。

オレの知人にも同世代の小説家が二人ほどいるんですが、どちらもジュニアとかラノベと呼ばれるジャンルの出身なので、「先生」扱いされず「業者」として扱われてきた経緯があるせいか、二人とも常識的な見識の持ち主ですね。ネットで識り合ったこととも関係ありますが、要するに何か意見を言っても「ご説ご尤も」と奉られずに常に反論を受けるから議論慣れしていると謂うことだと思うんです。

ばななや栗本薫の垂れ流し日記なんかを視ると、「面白い物語を作る」と謂う職能を外して考えたら、この種の作家は単に「極端にエゴの強い非合理な人物」と謂う辺りに落ち着いてしまいがちなのかな、と思ってしまいますね。これに坂東眞砂子を加えると、どうもこの年代の女流作家って「非合理な女性性」みたいな作風を無批判に評価された経緯があって、それが結構危険なのかな、と思います。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月26日 (水曜日) 午後 09時05分

ぼくは30ぐらいまでは近い世代の作家とか、ちょっと先行する世代の作家(龍さんや春樹さんはこのへん)をけっこう本気で追っていました。鷺沢萌まで読んでた。

> 白泉社系の少女マンガ誌の全盛期

これは猛烈にわかります。
当時確か浅田彰が、ばななを大島弓子の出来の悪い亜流、と評していたような記憶があります。

> 若い頃の活け作り

そう云う側面はあるんだろうなぁ、と思います。「三十四歳の男の子」とか云っちゃうわけですし。

投稿: pooh | 2009年8月26日 (水曜日) 午後 09時49分

本題とはまったく関係なくてすみませんが「料理を作るときには必ず大量に“グルタミン酸ナトリウムのたぐい”を使用する吉本隆明」について一言コメントが欲しかったところです。
http://www.yoshimotobanana.com/cgi-bin/diary/diary.cgi?page=5&yy=2005&mm=02
↑ここの「2005.02.03」の記事なんか、笑っちゃいます。

投稿: Leo16 | 2009年8月26日 (水曜日) 午後 09時49分

>poohさん

>>ぼくは30ぐらいまでは近い世代の作家とか、ちょっと先行する世代の作家(龍さんや春樹さんはこのへん)をけっこう本気で追っていました。鷺沢萌まで読んでた。

オレの三十代と謂えば、フラフラ流行り廃りを追って一端文藝通のつもりでいたら、何だかいろんなところで古典から繋がってくる膨大な文芸の縦糸みたいなものが言及されていて、自分がその種の縦糸を何にも識らないと謂う事実に打ちのめされて、とりあえず周回遅れでも基礎から追っていくしかないと謂う考え方が確立していた、そんな時代でした。ですから、やっぱりリアルタイムの文藝にはあんまり接点はなかったです。

多感な世代だった八〇年代には、もう何だか娑婆のエネルギッシュな狂躁に附いていくだけの体力がないなと(二十代のくせに(笑))自覚して、とにかく古典から入らないと文藝はわからないと思い込んで、専ら古典ばっかり読んでいましたね。単にそれが精一杯だったと謂うことですが(笑)。

村上龍や村上春樹に関しては、多分通過しければならない範囲には入っていたと思います。村上龍なんかは「純文学の系譜の末端」と謂う自意識があるようですし、中上健次や村上龍辺りが日本の純文学の終わる地点なのかな、と思います。それで一応、「コインロッカー・ベイビーズ」や「愛と幻想のファシズム」辺りまでは読みましたが、その辺まで追えばもういいかな、と(笑)。「五分後の世界」とか「半島を出よ」辺りになると、もう系譜を追う意識では読まなくて好いんじゃないか思ってどうでも好くなっていますね。

調べてみたら、「コインロッカー・ベイビーズ」の映画化が今頃企画されていると謂うことで、ちょっと衝撃を受けたんですが(笑)、村上龍自身が映画に強い関心を持っていて監督作品が何本もあるわけで、出演俳優の話を聞くと「撮影よりも撮影後に酒を呑むことのほうが好きだった」みたいなことばっかり謂われていますね(笑)。

まあ村上龍の映画でそこそこ好きなのは、「だいじょうぶマイ・フレンド」くらいなんですが、この映画でデビューした広田玲央名が広田レオナになって単なる不気味なオバサンになっている時代ですから、随分昔の話ではあります。

ただ、村上龍を通過することで影響を受けたのは、自身のことを「勉強する作家」と自覚していた部分ですね。また、文学が全体的な大状況を描き得ると考えていた最後の世代じゃないかと思いますので、「愛と幻想のファシズム」は好きでした。

そこから時代が降ってばななの世代になると、もう大状況はどうでも好いから個人性の部分を描こうと謂う話になっていて、その辺はもうこっちのほうでもどうでも好いと思いましたね。吉本ばなな個人の小状況なんて全然興味がなかったですから。

村上龍の世代までは「あなたとわたしが共通して関心を持っている全体的な世界の在り方を考えましょう」と謂う問題意識があったのが、世代が一回り下るともうそれは文藝の主題ではなくなっているわけですね。雑な言い方ですが、村上龍の時代から吉本ばななの時代に至るまでの間に、部分のことも考えながら全体を考えましょうと謂う行き方が破綻して、部分と全体が分極しちゃったんだと考えています。

部分としての小状況と全体としての大状況が、それぞれから出発して考えていくとどうもすれ違う、そう謂う形になってしまったんじゃないかと。それが尾を引いて、学の細分化とホリスティックな概念が、一見全然無関係な形で分裂してしまったのではないかと考えています。

今でも村上龍の作家的関心の対象としては、その種の全体的な世界があるように思えますので、村上龍はあんまり嫌いになれないですね。だったら、吉本ばななの作品は彼女個人に興味がなかったらそこで終わりの話じゃん、とか思っていたんですね。で、村上春樹の話が全然出て来ないのは、どうも個人的に村上春樹って何処がどう面白くてあんなに爆発的な一般人気があるんだか全然わからないからなんですが(笑)。

>>当時確か浅田彰が、ばななを大島弓子の出来の悪い亜流、と評していたような記憶があります。

大島弓子って、基本的にプロットで書く作家ではないんで、細部の感覚だけが突出していますよね。当時の少女マンガではそんなに珍しいことではなかったとは謂え、たとえば「課外授業」のストーリーをパクッたり、他にも洋画の換骨奪胎みたいな作品が結構あるんですが、その感覚的な部分が大島弓子の作家性以外の何ものでもないわけです。

なので、オレだったらばななよりも大島弓子を読みますね。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月27日 (木曜日) 午前 12時13分

>Leo16 さん

>>本題とはまったく関係なくてすみませんが「料理を作るときには必ず大量に“グルタミン酸ナトリウムのたぐい”を使用する吉本隆明」について一言コメントが欲しかったところです。

ご紹介戴いたエントリは大変笑えますね。

>>とてもおいしかったのに化学調味料によってだるくなったりしびれたりして、全くひ弱になってしまったものよのう

それは多分うまみ調味料のせいではなくて、加齢(ry

やっぱりpoohさんが仰っている通り、この人は二十代くらいの感覚で時計が止まっているらしい。

>>鋭敏になるということは、リスクも高まるということだ。

それは一般論としては正しいけど、各論としては適用対象が間違っている(笑)。

>>ヒロチンコなんか、眠気が襲ってきてばったりと寝てしまった。

食べ過ぎ。

ヒロチンコ(夫の田畑浩良)って、たしかばななの一個上くらいだろう。そもそもどのくらい食べたんですか? もう若くないんですよ。四五歳なんだから、普通は若い頃の半分くらいに食が細るもんです        とオレが言っても説得力がないだろうけど(笑)、中華料理を腹一杯喰ったら眠くなるのは誰だってそうだ。

>>きっと、あれはそのくらいすごいものなのだろう。うちのお父さんの味の素好きは、当時、はっきりしすぎていた頭を意図的にぼんやりさせたかったのではないか?とさえ思う。他のドラッグは手近になかったのだろう・・・。

妄想乙。

まあ、考えてみれば、ホメな人でロルファーの妻なんだから、この方面に進んでしまうのは水が低きに流れるように自然なことで、別段不思議ではないのかもしれませんね。

>> 夜中にランちゃんの「ドリームタイム」を読むが、むちゃくちゃ面白くてすごく怖かった。なんてうまいんだ!なんて怖いんだ!トイレに行けないくらい怖かったぞ!ランちゃんはすごいなあ。どんどん面白くなってくるので、もうどんどん読みたいと思う。

誰だろうと思って調べてみたら、「田口ランディ」のことでわありませんか(笑)。

いろいろな意味で「なるほど」な人です。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月27日 (木曜日) 午前 12時14分

いろいろ調べてみると、ばななにとって「世界」と謂うのは、「ともだち」と「ともだちのともだち」で構成される極狭い範囲の領域のことで、それ以外の事柄は、たとえばスナネズミにとって餌を与える飼い主が「世界の外側」の住人であるように、世界の外側の事柄なのだなぁ、とか思ってしまった。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月27日 (木曜日) 午前 12時28分

おはようございます。

ベストセラー(と言われる)の小説は読まない主義です。ダ・ヴィンチ・コードは推理小説ということで、例外扱いで手に取ってみて時間を無駄にしたので、また当分読むことはないでしょう。

ばなな作品はですねぇ、異常なシチュエーションの中に住む特殊な感性の人達のお話で、それはつまりシットコムみたいなもんだろと思って興味が湧きませんでした。
ばななはスピリチュアル警報がんがんです、これからもっとあからさまになっていくと思います。ホメも元々はご子息のアトピーが切っ掛けみたいです。この手の人(さくらももことか)は、興味のある人の入り口を低くするから、本当に迷惑なんですよ。

ところで大島弓子ですが、こっちはこっちで何だかなぁになってますよ。
大島弓子は一戸建てに移り住んで、箍が外れてしまったらしく猫の数が尋常じゃなくなっているみたいなんですよね。お定まりの野良猫への餌やり問題でご近所とトラブルを起こしているみたいですし。
漫画どころではなくなってしまったみたいで、グーグーシリーズも最新刊の絵の酷さ(なげやりさ)に仰け反ってしまいました。同世代の萩尾望都がギラギラの現役なので、引き比べると哀しくなります。
大島弓子のあの可愛らしい絵柄でどんなに明るい話であっても、どこかホラーと紙一重な作風が好きだったんですけど、もう無理だろうなぁ。

投稿: うさぎ林檎 | 2009年8月27日 (木曜日) 午前 09時53分

>うさぎ林檎さん

>>ダ・ヴィンチ・コードは推理小説ということで、例外扱いで手に取ってみて時間を無駄にしたので

その節はお世話になりました(笑)。まあ、ベストセラーに名を連ねる為には、良書であることよりもマーケティング的な諸条件を満たすことのほうが重要なので、良書であるかどうかは後回しになりますな。これは理屈から言っても必ずそうなるので、ベストセラーを読んでがっかりする率はたしかに高いです。

なんでそうなるかと謂うと、世の中には良書をじっくり堪能したいと謂う人よりも流行り物を自分も体験したいと考えている人のほうが多いので、その多い人を巻き込まない限りベストセラーにはならないけれど、それをリードするのは読み巧者な人々の意見ではなく版元の販売戦略だからですが。

>>ばななはスピリチュアル警報がんがんです、これからもっとあからさまになっていくと思います。

>>この手の人(さくらももことか)は、興味のある人の入り口を低くするから、本当に迷惑なんですよ。

まったく困ったものです。表現者一般には、強力な発信手段を持っているだけに知的誠実性について責任があると謂う意識のない人は、大概害毒を垂れ流しますな。どうも、ばななの日記をざっと読むと、友達と面白おかしく過ごすこと以上に重要なことはこの世に何もないと考えているとしか思えませんから、こう謂う人がその辺の世間の狭いオバサン以上の知性の持ち主である理由はないとは思いますが、困ったことに影響力だけは持っているんですよね。

まあ、こう謂うことが度重なれば、友達以外の人間は離れていくとは思いますが、この人もどうやら「神楽坂の師匠」の予備軍の一人だったようです。「神楽坂の師匠」で検索を掛けて戴けば、どれだけ誹謗しているかおわかり戴けると思いますが。

>>ところで大島弓子ですが、こっちはこっちで何だかなぁになってますよ。

ああ、この人も「子猫を殺さない坂東眞砂子」になってしまいましたか。近所の迷惑な猫婆さんと謂うのは江戸時代から存在したそうですが、カネがないわけじゃないんですから不妊処置くらいすれば好いのに。坂東眞砂子のように避妊手術を施すこと自体を自身の女性性と関連附けして耐えられないとなると立派な心の病気だと思いますが、猫がたくさんいたほうが嬉しいと謂うだけの動機なら、それも心の病気かもしれません。

ただ、猫は犬と違って手が掛かりませんから、二頭目を飼ってしまうと際限なくどんどん増やしたくなると謂うのはあるかもしれません。たくさんの猫に囲まれて暮らしたいと謂うのは猫好きの夢ではありますね。

それと、どうも犬を飼っていた人に聞くと、犬の場合は死なれること自体に物凄く強いインパクトがあるので、一度飼い犬の死に立ち会うともう飼いたくない、少なくとも暫く時間を措かないと飼えないと謂う人が多いように思いますが、猫の場合はいなくなったことが強烈に寂しいと謂う感覚のほうが強いから、すぐに次の猫を飼う人が多いように思います。自分のことで考えても、そうするんじゃないかと謂う気がしますね。

>>大島弓子のあの可愛らしい絵柄でどんなに明るい話であっても、どこかホラーと紙一重な作風が好きだったんですけど、もう無理だろうなぁ。

実生活がホラーと紙一重ですからね。坂東眞砂子の問題を論じていた頃、たしか二十数頭の猫を飼っていて面倒をみきれなくなったオバサンが閉め切った自宅に猫を遺棄して失踪した事件がありました。これは物凄いホラーですね。

しかし、商売柄仕方がないとは謂え、社会との接点がないままイビツな心性を肥大させるマンガ家の何と多いことかと嘆息してしまいますね。スピリチュアル属性の強い人がやたら多いですし、アヤシゲな宗教に行く人が無闇にたくさんいますし。ミウッチーとか山本鈴美香なんか「信者」じゃなくて「教祖」のほうですから、さとうふみやなんて可愛いほうかもしれません。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月27日 (木曜日) 午後 05時08分

おはようございます。

>ミウッチーとか山本鈴美香なんか「信者」じゃなくて「教祖」のほうですから

”ミウッチー”??と一瞬思いましたが、仮面の人ですね(笑)。あれはストーリーの方もなんだかトンデモ無いことになっていると聞いてからは近寄らないことにしました。夢中になって読んだ世代ですから、見なかったことにしておきたい、と思うのはヘタレですかねぇ。どうせ描けないのならば、サイボーグ009みたいに墓場に持って行ってしまえば良かったのに(暴言)。

どちらも妙な話を描くなぁと思ったら、遠い世界に行ってしまいました。山本鈴美香は、御船千鶴子の超能力がどうしたこうしたという話、仮面の人は”読むだけで幸福になれる”天照大神の話。一見してやっちまった感たっぷりのものでした。本当になんであぁなるんですかねぇ。

御大は小説道場でしか知らないんですよね。連載されていた小説はどうも趣味に合わなくて、他を読んで見ようと思わなかった。
確かあの頃は御大って呼んでたよなぁと思って”栗本薫 御大”で、ググったら”もしかして:栗本薫 温帯”て言われちゃいました(アイタタ)。寂しいことになってたんですね。

私は唐沢盗作問題ウォッチャーでもあるので、そちら経由で拾った弔文ですが、ファンの人の気持ちは判るような気がしました。

http://wagamamakorin.client.jp/tsuitou-kaoru.html
http://unasama.at.infoseek.co.jp/kurimoto/soyonara.html

プロの同人作家、ばななもその部類かもしれませんね。

投稿: うさぎ林檎 | 2009年8月28日 (金曜日) 午前 08時57分

>うさぎ林檎さん

>>”ミウッチー”??と一瞬思いましたが、仮面の人ですね(笑)。

なんか、ネットでは普通にミウッチーって呼ばれているらしいですよ(笑)。確認の為にググったら、なんかプラダの孫娘がゴロゴロ検索に引っ懸かって困りましたが。

>>夢中になって読んだ世代ですから、見なかったことにしておきたい、と思うのはヘタレですかねぇ。

いや、ちょうど栗本薫のグインサーガについても、昔のファンの間でそんな話が頻繁に語られていましたね。近刊の展開の剰りの腐臭に辟易したファンが、どの時点で講読をやめるかと思い悩むのがパターンですね。見苦しく凋落していく作品を見限るのも勇気だろうと思います。

ほら、谷崎の春琴抄みたいなもんですよ(笑)。

>>山本鈴美香は、御船千鶴子の超能力がどうしたこうしたという話、仮面の人は”読むだけで幸福になれる”天照大神の話。

御船千鶴子の伝記もアレですが、個人的にアレだったのはやはり「白蘭・青風」ですかね。御船千鶴子のほうは、曲がりなりにも主人公の伝記を描いていましたが、こちらのほうは本筋のストーリーはすぐに中断してオカルト談義で大半が埋め尽くされていると謂う、何だか読んでいて頭痛が痛くなるような作品でした。調べてみたら、七回で中断しているんですね。本人都合みたいに謂われていますけれど、周りが止めたのかもしれませんね。

御船千鶴子の伝奇、読んだ覚えがあるけどどんなんだっけと思ってググったら、「超能力者列伝」とか謂うそのまんまなタイトルで、「祥伝社・微笑別冊」と謂う素晴らしい形式だったようです。道理で何だか紙質が安かったような覚えがあります。内容については下記のサイトくらいしか見付かりませんでしたが、相当アレな代物だったことが覗えますね。

http://www.chukai.ne.jp/~gallery/baka13.html

>>確かあの頃は御大って呼んでたよなぁと思って”栗本薫 御大”で、ググったら”もしかして:栗本薫 温帯”て言われちゃいました(アイタタ)。

ええ、現在はそう呼ばれているそうです。頭が温かいからだそうですが。ご紹介戴いた一つめの弔文の主は賢いですね、オレも訃報に接した際にこの手のことを書きかけたんですが、全然愛情がないので単なる誹謗中傷になりそうでやめました。どうも、晩年の彼女の話を聞けば聞くほど考えるのが厭になります。

この弔文でも触れられていますけれど、この人の偏食は物凄かったそうで、喰えるもののほうが少なかったみたいですね。そのくせ食通ぶっているのでかなり莫迦にされていましたが。何度も語ったことですが、昨年瀬尾準教授の発言が問題になったときにこの人も引き合いに出されましたけど、醜悪な垂れ流しぶりで温帯の右に出る者はいないので、彼女に比べると瀬尾準教授なんて小物と謂う評価でしょうね。

この弔文に書かれていることは全部本当でして、晩年は相当ひどいことになっていたそうですから、神楽坂倶楽部をヲチしていた人々は「やっと死んでくれたか」と謂う心境だったんではないかと思います。

なんで女性作家やマンガ家にこう謂う病的な方向に行ってしまう人が多いような印象になるのか、本当に「多い」と謂えるのか、それはよくわかりませんが、目立つと謂うことはたしかなのではないかと思います。

肥大したエゴの暴走には、女性創作者固有のパターンがあるように思うんですが、それが何故そうなるのかはよくわかりませんね。「女性性」なんてのは性役割から派生した虚構的な観念に過ぎないとオレなんかは思うんですが、女性に対して排除的な社会構造の故に、社会との接点を喪った女性は男性に比べて社会性を完全に喪失しやすいと謂うことがあるのかもしれません。

>>プロの同人作家、ばななもその部類かもしれませんね。

殆ど識らない人なので何とも言えませんが、今回みたいなことを垂れ流していると神楽坂の師匠の轍を踏むことになるのは目に見えています。こう謂う問題は、有名人のリスクマネジメントみたいな観点で論じられることも多いですけど、そもそも本人に健全な常識や見識があれば別段ブログで何を書こうが問題はないわけで、マスコミとは無縁の素人のブロガーだってこんな阿呆なことを書く人は少数派でしょう。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月28日 (金曜日) 午後 12時04分

こんばんは。
とっても納得のできるエントリでした。一連のばなな騒動(?)は、文学やその周辺には殆ど興味のない自分にとって、接客業が抱える囚人のジレンマみたいなものを連想させるものでした。
こういうヤツがいるから・・・みたいな感想ですね。
雄山の登場のさせ方がとても素晴らしいです。

私もモロに影響を受けてエントリ挙げてしまうほどでした。
良いものを読ませていただきました。

投稿: どらねこ | 2009年8月28日 (金曜日) 午後 08時42分

>どらねこさん

>>一連のばなな騒動(?)は、文学やその周辺には殆ど興味のない自分にとって、接客業が抱える囚人のジレンマみたいなものを連想させるものでした。

本当に、接客業は難しいですよね。オレは生涯で一度も普通の意味で謂う接客業に従事したことはなく、接客の絡まない商売はないと謂うレベルの接客しか経験したことはないんですが、人間と人間がサービスを介して関係するだけに難しいと思います。

そちらのエントリにもコメントさせて戴きましたが、オレは基本的に商売人に対して居丈高に振る舞う人間は虫酸が走るほど嫌いです。客の側にも、良い客として振る舞うべく努める倫理的な責任があると思うんです。商売人やサービス業者と謂っても、所詮相手は自分と同じ人間なんですから、威張って好いなんてことはないんです。

エントリで述べたように、客と商売人は本来利害が排除的な関係にあるわけですが、だからこそ、互いが互いに対して公正に振る舞うべく努めるべきだと思うんですね。勿論客はカネを払う側で、商売人はカネをもらう側ですから、カネをもらうほうが払うほうに対してより大きな義務を担ってはいますが、だから何をしても好い、下品なことをしても好いと謂うことではないはずです。

商売人の視点から謂えば、そんなことは望むらくもない理想論ですが、客の視点で謂えば、それは強制力こそないけれどそのように努めるべき倫理的な行動規範であり、同じ客の立場の人間が下品なことをしていれば、「それは不当だ」と批判すべきではないかと思います。

突き詰めて考えれば、職業を介して社会にコミットしている人間は、常に或る場面では商売人でも、別の場面では客であるわけですから、人が人に対して遍く公正であるべく努めると謂うのは、こんな場面でも問題になるわけです。

商売人の行為を批判出来るのは商売人としての視点だけなのだし、客の行為を批判出来るのは客としての視点だけである、そして、その両者の視点は便利に使い分けることが許されない、これが今回のエントリで明らかにしたかったことです。

自分がされて納得出来ないことは他人にもしない、敢えてそれをする必要が生じた場合は可能な限りの配慮を払う、それは固有の立場を超えた当たり前の倫理だとオレは思います。相手が自分より立場が弱ければ何も考えずにそれをすると謂うのは、窮めて品性下劣な行為だと謂うのがオレの感じ方です。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月28日 (金曜日) 午後 10時13分

要は、自分が「有名人」=「一言出来る存在」と思っている(錯覚している)ことから来る<驕り>から発生しているのでは…?

投稿: mohariza | 2009年8月29日 (土曜日) 午後 04時30分

>moharizaさん

それは確実にあるでしょうね。

そもそもの言い分が、「自分のような多くのコネクションを持つ上客を見抜けず杓子定規に規則を墨守するのは商売がわかっていない」と謂う言い分ですし、「勢いのある人間はたくさんの客を呼び込む」と謂うふうに言ってますから、とにかく自分が特別な客であることが前提となっています。

おそらく、自分の我儘が通らなかったことより、居酒屋の店長「風情に」自分の非を咎められたことが勘に障ったんじゃないですかね。自分はそんな凡人より見識があるんだと言わぬばかりの論調で説教をお返ししなくては気が済まなかったのでしょう。

上のほうで話題になっていた栗本薫と謂う人物も強烈な選民意識の持ち主で、一般人がネットで意見発信することを物凄く見下していましたね。「莫迦にメディアを持たせるな」と謂う持論だったようで、ヲッチャーの人々はみんな「或る意味で」それに賛同していたようです。

彼女のサイトである神楽坂倶楽部自体が、「莫迦にメディアを持たせた」が故に発生した悲劇だからですね(笑)。

いい加減、職業作家の人々は、自分たちが社会から尊重されているのは「面白い物語を作る」と謂う職能の故で、衆に優れた見識の持ち主だからではないと謂うことに気附いてくれれば好いのに、と思いますね。寧ろ、一般人が思い附かないような着想を思い附く人間と謂うのは、普通に謂って非常識な人間が多い理屈になりますから、迂闊に物を言うと恥を掻くと謂うくらいの意識でちょうど好いでしょう。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月29日 (土曜日) 午後 10時49分

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