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2009年8月22日 (土曜日)

炒飯を熱く語る〈考察編〉

当ブログで「炒飯の考察」と謂えば、この辺で血迷って大長文を書いて没にしたことから連綿と続く因縁のネタで、その経緯を識る人からは炒飯の話題が出る度に「また黒猫亭の『書く書く詐欺』かよ」と嘲られ、若い人たちからは「また爺様の『炒飯』か、今時そんなもんがいるかよ」と揶揄されてしまう体たらくで、「昔からの言い伝え莫迦にすると、今におめぇたちは『炒飯』の餌食にしなきゃなんねぇぞ」と言い返したくなるくらいの秘蔵のネタである。

…何だか意味のわからない喩えはさて措き(笑)、みつどんさん辺りからは面白半分に期待されているのだが、すっかり語るしおをなくした恰好でお蔵入りしていたネタなのであるが、最近のうまみ調味料を巡る議論の流れで語る分にはちょうど好い機会である。

そこで今回は、昔血迷って書いたテクストを、その流れに沿って大幅に改稿したものを公開しようかと思う。出るぞ出るぞと謂う言葉が一万回くらい嘘だったとしても、一万一回目にはホントに狼が出ないとも限らないのである(笑)。しかも、何だかこの狼は最初に視たときよりも丸々と肥っていやがるのだ。

さて、今はそれほどでもないが若い頃は炒飯が大好物だったので、立ち回り先にラーメン屋があれば、ラーメンなんぞ喰わずに炒飯を喰ったものである。「ラーメン屋」と謂えば現在では「ラーメン専門店」的なニュアンスのタームとなっているが、この場合はラーメンをベースに据えた町場の中華定食屋のことである

ラーメンに一家言あるような方ならご賛同戴けるだろうが、ラーメンというのは不味い店が七割、まあまあの店が二割五分、美味い店が五分くらいの割合のもの(具体的な数字については異論もあろうけれど(笑))なので、フリで入った店のラーメンは大概不味いものと相場が決まっている。

その点、炒飯というのは、苟も商売でラーメン屋をやっているような店で、喰えないほど不味い代物はまず出て来ない。その意味で炒飯というのは、中華料理ジャンルにおける黄金の安全パイである。

これまでにオレが喰った中で、最後まで喰うのが苦痛なほど(喰う分には必ず残さず喰うのでこういう言い方になる)不味い炒飯に出会ったのは二回だけで、それは「作り置きの炒め直し」という、炒飯作りにおいては基本中の基本の禁じ手を使っていたからだというのは、以前何処かでお話しした。

炒飯というのは、つまるところ油で炒めて具を加え味を附けた飯である。如何様にも作ることが出来るし、たとえば香港辺りの中華料理は西欧文化との接点もあって発想が柔軟なので、従来的なイメージとは乖離のあるバタ臭いレシピもある。

片や、一般家庭でも冷や飯と冷蔵庫の余り物を炒め合わせ、テキトーに味を附ければそれなりに喰えるものが出来上がるわけで、そういう意味では、それなりに料理の腕があれば喰えないほど不味い炒飯を作るほうが難しいくらいのもので、「こうでなくてはならない」という決め事なども実は存在しない。

そもそも「炒飯」と謂うから中華料理としての調理手順が推奨されるだけで、これを思い切って雑駁に「焼き飯」と謂ってしまえば、何を使ってどう作ろうが誰かにとやかく謂われる筋合いのものではない。要は炒めた飯に味が附いていて、何某かの具が入っていれば、それは少なくとも「焼き飯」では在り得る。「焼き飯」というカテゴリーは、定義的には具の存在さえ必要としないのだから、フライパンで白飯を炒めて塩を振っただけのものですら立派に「焼き飯」なのである。

このような幅広く寛容な「焼き飯」というカテゴリーの料理に、そこはかとなく中華のテイストが漂ってさえいれば、それは「炒飯」なのである。

しかしその一方で、大概の主婦(家庭における調理担当者)が家族から「ウチの炒飯は不味い」という批判を蒙っていることも事実であり、簡単に作れる割には美味く作るのが難しい料理、と謂うイメージがあるのではないだろうか。また、加熱して味を附けた具入りの飯というだけでは、実体としては油っぽい炊き込みご飯や混ぜご飯と何ら変わりがないものになることも多いだろう。

そういう「焼き飯」とさほど距離のない「炒飯」と、ラーメン屋や中華料理店で供される本格的な「炒飯」はまったく別物だという実感を、多くの人が抱いているのではないだろうか。嘗てはオレもその一人であった。簡単そうに見えて奥が深く、専門的なノウハウや調理技術が必要な料理なのではないか、そう謂うふうに考えていた。

しかし、炒飯というのはラーメンとは違って、大量に仕入れる必要がある特別な食材があるわけでもないし、麺のように専門的な加工技術が必要な食材も存在しない、長時間手の離せない労力が必要なわけでもないのだから、一般家庭で作るものと玄人が作るものは一体何処が違うのか。これを四半世紀に亘って考え続けてきたのであるから、オレも相当ヒマな人間である(笑)。

炒飯には秘伝のレシピとか特殊な素材が必要なわけではないし、味の組み立ては基本的に一般家庭で作る場合と変わらない。調理時間とて、熟練の調理師なら五分かそんなものである。調味料だってそんなに特別なものを使っているわけではなく、塩とうまみ調味料と少量の醤油くらいである。

普通一般の店の炒飯というのは、特別な調味料などは使っていないのであり、調味料自体、基本的に上記三種類以外はほぼ使っていない。つまり、調味料使いに味の秘密があるわけではないのである。

ただし、店によっては一般的にイメージされる味附けとの振れ幅があって、東南アジア系のエスニック料理の炒飯は「炒飯」と名が附くがかなり変わった味附けだし、本場の中華料理でも、オレが識る中で最も変わった味附けは、一〇年くらい前に銀座の維新號で喰った炒飯のそれで、中華料理専門店の炒飯にしてはかなり色が濃くて強烈に甘かった記憶がある。中華醤油とココナツミルクをかなり多めに使っていたようだが、これはまた普通一般にイメージする中華の炒飯の味附けとは別物ということになるだろう。

その意味で市販の「炒飯の素」「中華あじ」「味王」的なアプローチは、少なくともこの考察の観点では本道ではない。中華風の旨味エキスを加えれば、たしかに炒めた飯が中華風の味附けになるのだから「炒飯」と呼んで差し支えないわけで、たしかにこれも間違いではないが、しかし我々が普通の店で喰う炒飯とはまったく別物の味になることも事実である。我々が普通の店で供される炒飯は、多彩な旨味エキスの足し算の味ではなく、もっとシンプルな味附けのはずである。

斯様にして、炒飯というのは実は不可解な喰い物なのである。還元主義的に考えるならば、一般家庭で作る炒飯と店で作る炒飯は、実体としてほとんど違いのないもののはずなのである。それなのに、「中華料理店の炒飯の味」という味のイメージが確固としてある、これは非常に不思議なことだろう。

そういうことを四半世紀の余も考え続け、いろいろな店で炒飯を喰い、可能な場合は調理の実態も観察したその結果、或る程度の結論が得られたと思う。

では、その結論とはどういうものか。

●とにかく油を大量に使う

これが一番重要なポイントである。

この場合、「大量」というのは普通の主婦が考えるイメージとは桁違いに「大量」の油のことである。多分、玄人が実際に炒飯を調理しているところを傍らでつぶさに視るならば、体重計の目盛りが気になる方は怖くて炒飯が喰えなくなるだろう。中華料理で使う巨大な玉杓子は誰でも識っているだろうが、あの小さめのお椀くらいある先端のカップでおおよそ半分見当くらい油を掬い入れる。

これは、一般に「鍋肌に油を馴染ませる為」というふうに説明されるし、料理店で使われる一般的な中華鍋は小さいものでも三〇センチ径以上なので、鍋全体に油を馴染ませるには大量の油が必要なことは事実である。しかし、では、炒飯を炒め終えて皿に移した後の鍋底に油が残っているかと謂えばそんなことはない。でかいお玉に半分くらいの大量の油の少なくとも半分以上は残らず飯に行き渡っているのである。

炒飯というのは、基本通りに作るとまったく鍋が汚れない料理である。高温の油で焦げ付かないように飯を炒め、その油は残らず玉子と飯が吸ってくれるのだから、上手く炒飯を調理した後の鍋は湯で流してキッチンペーパーで拭くだけで綺麗になる。

一般家庭で炒飯を作ろうと思ったら、思い切って大量の油を使えば格段に美味くなるのだが、女性がそれほど大量の油を鍋に投入するのは抵抗があるだろう。中華料理の炒飯とは、一粒一粒の飯に熱い油を廻した喰い物であって、英語で「fried rice」と呼ぶのは伊達ではない。

調べてみたら、焼きおにぎりのことは「grilled rice ball 」と呼ぶそうなので、少なくとも英語的な意味において炒飯を炒飯たらしめているのは、白飯を加熱調理して味附けすることではなく、高温の油をムラなく廻すことだということになる。

この際、飯に油を廻す媒介としてよく炒り玉子が用いられる。卵はマヨネーズの原料としても用いられるが、ご存じの通り、マヨネーズというのは身近にある代表的なエマルジョンであり、卵という食材は油にも水にもよく馴染むのである。

言い方を換えれば炒飯と謂うのは「炒めた溶き卵に絡めた高温の油を白飯に廻して味附けした料理」であり、玉子炒飯というのは大部分の炒飯において具を炒め合わせる前のベースとなるもので、炒飯の最小限の本体とも謂うべきものである。後に調理法を詳述する際に説明するが、この卵の使い方にも少しコツがある。

ダイエット的な目的から、油要らずのフッ素加工のフライパンで油少なめかほとんど使わずに作ろうとする人もいるだろうが、それでは健康にはよろしくても炒飯らしい味にはならない。勿論これは、それが邪道だとか間違っているということではなく、単にこの考察で想定しているオーセンティックな味附けにはならないというだけの話である。

また、簡便にパラパラ炒飯を作るティップスとして、最初にご飯に溶き卵を絡めてしまう方法も伝わっているが、これも否定はしないが今回の考察とは無関係である。今回考察するのは、われわれが一般的に認知しているプロの炒飯はどのようにしたら作ることが出来るのかと謂うことである。その意味で、炒飯の飯粒がパラパラしているのは高温且つ大量の油がムラなく廻っているからであってそれ以外の理由はない。

そして、大概の料理本では炒飯に用いる油の分量は少なめに表示されていて、「大さじ一杯」とか書かれている場合が多いが、とてもそんなものではない。これは玄人が実際に使う分量(三分の一カップとか、カップ単位)を正確に記載したら、普通の日本人は気持ち悪くて喰う気がしなくなるからではないかと邪推している(笑)。

●鍋の温度を落とさない

これは近年では比較的よく識られている知識である。「炒飯は常に強火で」というのはよく聞くティップスだが、プロユースのレンジと一般家庭のレンジは違うので、ここでかなり違いが出てくることは事実である。

たとえば、後述するように本来的には炒飯には冷や飯を使うのがベターなのだが、鍋を幾ら予めよく灼いて高温にしても飯が冷たかったら鍋の温度は一気に下がってしまう。一旦下がってしまったら、家庭用のガスレンジではハイカロリーレンジですら再び鍋を高温に戻すことは出来ないので、少し事情は違ってくるのである。

中華のプロ用ガスレンジが大火力なことのメリットというのは、調理上鍋をかなり高い温度にすることが必要だという意味ではなく、冷たいものを投入して鍋の温度が一時的に下がっても、瞬時に必要な温度までリカバリー出来るということではないかと思う。

一度炒め鍋を可能な限り空焼きして試してみたのだが、中華料理だからと謂って無闇に鍋の温度が高ければ好いというものではないようで、他の料理ジャンルよりは相対的に鍋を高温にするが、もっと重要なのはその温度を維持することのようである。

オーギュスト・エスコフィエ以来のフランス料理は「火の芸術」とも呼ばれるほど火加減が重要で、とろ火から強火まで自在に火力を調節する調理法であって、銅の鍋が珍重されるのは精妙な火加減に瞬時に反応する熱伝導率の良さの故であるが、中華料理は火力の繊細な調節よりも高温を維持することが重要なように思う。あのごつい鋼鉄製の中華鍋は、熱伝導性と蓄熱性のバランスがその目的に適している。

それ故、家庭で炒飯を作ろうと思ったら、冷たい食材を使ってはいけない。少なくとも室温程度には温まった食材を使うべきである。この場合に、鍋の温度を最も左右するのは、最も水分保有量の大きい卵と飯であるから、これは最低限冷蔵庫から出してそのまま鍋に投入してはいけない。卵は調理の一時間以上前には冷蔵庫から出して温度を室温に戻しておく必要があるし、必要に応じて湯に浸けるという手間も必要である。

また、冷や飯を使う場合は一旦レンジ加熱することが必須である。炒飯に冷や飯が適しているのは水分が飛んでいるからであって、温度が低いからではないのであり、寧ろ温度に関してはその逆である。また、冷たいままの飯を力任せにほぐすと、飯粒が割れたり潰れたりして、べしゃっとした厭な食感の仕上がりになる。

鍋の温度が下がると、焦げ附いたり全体に油っこくベタベタした食感になるということもよく識られているが、前項で指摘したように、実際にはかなり大量の油を使って一粒一粒揚げるようなイメージで油を絡めていくわけだから、揚げ物と同様に鍋の温度は極力下げないことが肝要である。

●うまみ調味料を使う

味附けには塩と味の素やハイミーを使う。オレも以前は美味しんぼの影響で(笑)化学調味料には抵抗があったし、グルタミン酸が直接舌に触るとかなり強い不快感と飢渇感を覚えるので、うまみ調味料を使うという発想はなかった。

たしかに、入れなくてもそれなりに味附けは出来るが、我々が一般的に記憶している炒飯の味附けというのは、実際には塩とうまみ調味料の味なのである。味の素を入れるとかなりわかりやすく「炒飯の味」になるのだから、ここから推して一般的な店の炒飯には必ずうまみ調味料が使われていると視るべきだろう。

嘗て関西の某著名タレントが「味の素がなかったら焼き飯が作れるか」と叫んで大暴れしたのは、まあその行動の是非はどうあれ言い分としては正しいだろう(笑)。この場合に想定される特定の味附けにおいて、味の素は欠くべからざる要素である。

好みにもよるが、オレは個人的には「中華あじ」や「味王」のような中華エキス調味料は使わないほうがよいと思う。何と謂うか、エキス系の調味料を使ってもそれなりに美味いが、多種多様な味の成分が混淆しているのでかなり野暮ったい味になると思うし、そう謂う炒飯を出している店は極々の少数派だろう。時々その手の家庭料理っぽい炒飯を出す店にでくわすと却ってビックリするくらいである。

また、これが最も重要なポイントであるが、炒飯の調理法を想定するとペースト状や顆粒状や況や液状の調味料はパラリと全体に油が廻った仕上がりには不向きであり、おそらく炒飯におけるうまみ調味料は主にこの観点において重要なのである。

つまり、何故炒飯にうまみ調味料が必須なのかと謂えば、それはうまみ調味料の登場以前は、うまみ成分は必ず液状乃至ペースト状の形態でしか得られなかったからで、うまみ調味料は乾燥した結晶状になっているから便利なのである。前述の通り、炒飯とは油の廻った飯の美味さを味わう料理であるから、調理段階で水気を足すと著しく食感が落ちる。液状乃至ペースト状の調味料では味を附けられないのである。

それ故に、乾燥した結晶状に成形されたうまみ調味料は、炒飯の味附けに画期的な幅をもたらしたわけで、飯や具材から出る最小限の水分でそれを溶かすわけだから、塩に加えてうまみ調味料を振ることで、塩だけの場合よりも浸透圧が関係してさらに飯粒がパラパラになると謂うメリットもある。

しかし、ごく最近のうまみ調味料を巡る議論を経て、オレはもう少し突っ込んだことを考えるようになった。つまり、炒飯作りにおいて本当に味の素やハイミーがベストなのかと謂うことである。MSGのうまみが本当にごく少量で効くのであれば、少し疑問に感じることがあって、以前のオレはうまみ調味料こそ使わなかったが、味附けの塩にはアジシオを使っていた。

これは伯方の塩などの普通の食塩を使うよりアジシオを使ったほうがマシな味になったことから使うようになったのだが、前回のエントリでコメントしたように、アジシオと謂うのは、ほぼ「鹹いMSG」と表現して差し支えないものである。

であるなら、すでにアジシオを使用した段階でMSGのうまみは足りていたはずであるが、さらにうまみ調味料を使うことで「炒飯らしい味」になったと謂うことは、おそらく「炒飯らしい味」の必須要素はMSGだけではないと謂うことではないか。

MSGのベースに二・五%配合されている核酸系うまみ成分、実はこの組み合わせが重要なのではないかと考えられる。ならば、ラーメン同様に塩とMSGと核酸系うまみ成分を別々に調節してやればどうか、と謂う疑問が湧いてくる。さらに具体的に考えていくと、塩は普通の塩を使えば好いし、MSGはうまみ調味料を使えば好い、しかし核酸系うまみ成分は何によって調節するのか、と謂う課題がある。

炒飯固有の調理技術上の問題として、うまみ調味料は欠くべからざる発明であるが、やはりMSGの性質上、ラーメン同様に「入れすぎ」の問題が出てくることが考えられるだろう。また、前述のようにアジシオを使っても決定的な味にはならず、味の素やハイミーを使うことで炒飯らしい味になるとしたら、差引勘定で核酸系うまみ成分が味の決め手を担っているのではないかと推測出来る。

であれば、MSGの過剰投入を防ぐにはラーメン同様うまみ成分を別々にコントロールしてやれば好いと謂う発想も可能だろう。しかし、そうだとしても、その核酸系うまみ成分を何によって調節するのか。考えられるのは鰹節系統のうまみエキスで、それなら液体に溶かして使う前提の顆粒状の商品よりも、粉末状のほうが汎用性があって扱いやすいだろう。

数種のかつおだしが市販されているが、最もメジャーな「味の素 ほんだし」は顆粒状だからあまり具合が好くないとして、「シマヤ だしの素」は細かい粉末状なのでこの場合の目的に合う。早速購入して実験してみたのだが、どうもこの思い附きは空振りのようで、アジシオ+だしの素の組み合わせでは、うまみ調味料を用いた場合よりもイマイチ感が強かった。

味噌汁なら二人前相当くらいの分量を投入しても、どうも何だか想定していたのとは違う微妙にストライクゾーンを外した味になる。少なくしてみてもそれほど味に変わりはない。鰹節のうまみはしっかり効いているのだが、それでは「炒飯の味」にならないのである。それやこれやでいろいろな組み合わせを試してみて、ここ数日間で四食続けてイマイチな味の炒飯を喰っていて、もうウンザリしているのだが(笑)、結局判明したのは、やはり炒飯にはうまみ調味料、それもハイミーを使うのがベストだと謂う面白みのない結論であった。

これはつまり、うまみ調味料はうまみ物質を直接合成したものだが、うまみエキスと謂うのはだし汁をフリーズドライ等によって粉末エキス化したものなのだから、単位重量辺りのうまみ成分の含有量は全然桁が違うわけであって、以前のエントリへのコメントでuneyama さんが仰っていたことや、昆布粉の主成分の話同様に、核酸系うまみ成分以外の成分のほうが多い。つまり、だしの素は「核酸系うまみ成分」ではなく「鰹節のうまみエキス」でしかないのだから、この場合には役に立たないのである。

「うま調」は何故必要か

では、そもそもMSG主体のうまみ調味料には、何故核酸系うまみ成分が僅かに配合されているのか、ここから考えてみよう。こんなときには、とりあえずウィキを調べてみるのが早道である。

また、アミノ酸系のうま味成分と核酸系のうま味成分が食品中に混在すると、うま味が増すことが知られている。これを「うま味の相乗効果」と呼ぶ。実際に日本料理では昆布出汁と鰹出汁を合わせるといった調理が行われ、中華料理でもシイタケと鶏がらスープを合わせるといった調理が行われている。
(ウィキペディア「うま味」の項目より抜粋)

呈味性ヌクレオチド(ていみせいぬくれおちど)は、1913年に小玉新太郎博士により発見された鰹節のうま味成分であるイノシン酸、1957年にヤマサ醤油の国中明らや武田薬品工業の緒方浩一・大村栄之助・杉野幸夫らによって作られたシイタケのうま味成分であるグアニル酸など、うま味を感じさせる核酸関連物質の総称である。ヌクレオチド呈味物質とも言われる。

これらの呈味性ヌクレオチドと、うま味を生じるアミノ酸であるグルタミン酸の相乗作用が発見されたことから複合調味料が誕生し、市販されるようになった。

(ウィキペディア「呈味性ヌクレオチド」の項目より抜粋)

つまり、うまみ調味料に数%の核酸系うまみ成分が配合されているのは、MSG主体の組み立てのうまみを核酸系うまみ成分との相乗効果によって強化する為と考えられる。そして、MSGと核酸系うまみ成分の配合の割合には相乗効果を発揮するベストマッチの割合があって、それが大体ハイミー等の核酸系八%になるようである。

つまり、炒飯の塩気以外のうまみは、うまみの相乗効果が出るベストマッチの状態のうまみ調味料の投入量で決定するわけで、MSGや核酸系成分を別々に調節しても求めているような味にならないと謂うことである。

また、ここからわかってくるのは、だしの素を使った炒飯の味がイマイチなのは、炒飯の味附けに相応しいのは「イノシン酸のうまみ」であって、決して「鰹だしのうまみ」ではないと謂うことではないかと思う。

だとすれば、MSGもまた「昆布のうまみ」ではなく「グルタミン酸のうまみ」でなければならないと謂うことで、総体的に謂えば、炒飯に用いられるうまみ調味料の本質は汁物に使われる場合とは違ってかなり特殊な味であることになる。昆布や鰹節のような食材それ自体ではない純粋なうまみ成分が求められているわけである。

前出のuneyama さんのコメントでも「鰹や昆布の風味が要らない場合」について有益な示唆があったが、炒飯の味附けはその極端な例と謂うことになるだろうか。この事実からわかるのは、中華料理の炒飯の味が何故独特なのかと謂えば、昆布でも鰹節でも椎茸の味でもない実体的な由来から断絶した特殊な味だからではないかと謂うことである。

ラーメンスープの場合は、獣肉や野菜を主体にした基礎部分+うまみ調味料と謂うふうな認識が為されているわけだが、炒飯の場合は塩+うまみ調味料だけであるから、普通そんな味附けの料理はほぼ存在しない。塩とうまみ調味料だけで何故味附けが成立するのかと謂えば、油の廻った飯があまりに美味いからである。

白飯は塩を振っただけでも十分美味いし、塩すらなくても喰える人も存在する。その美味い白飯に塩と油と醤油が廻っているのだから、油っ気の強いこってりした料理が好きな人間には堪らない。うまみ調味料の登場によって、そのままでも美味いものにさらに昆布と鰹節と椎茸で馴染みのあるうまみ成分が加わったのだから、炒飯が嫌いな日本人は物凄いマイノリティと謂うことになるだろう。

炊きたて熱々のご飯に、切り昆布の佃煮を載せる、とろろ昆布を載せる、上等な薄削りの削り昆布で巻く、これはもう悶絶するほど美味い。削り節を載せて醤油をサッと掛け廻した猫まんま、これもとにかく美味い。椎茸に至っては…すまん、ちらし寿司以外に何も思い附かなかったが(笑)、つまり、白飯は大概のうまみ成分と合う。

炒飯のうまみ調味料は、この昆布や鰹節や椎茸のうまみを抽象化したもので、決して昆布と鰹節と椎茸それ自体ではない。炒飯にうまみ調味料を加えると謂うことは一杯の飯に昆布と鰹節と椎茸のうまみが同時に加わると謂うことだが、これは実体としての昆布と鰹節と椎茸が加わったらそれぞれの風味が煩瑣くておそらくそんなに美味くはない。

炒飯の場合、最小限の味附けとしてうまみが加わっても好いが、だし食材自体の風味や食感は基本的に不必要であり、寧ろ邪魔なのである。

炒飯の場合に限っては、日本人の大好きなだし食材の「うまみのいいとこどり」の実体的由来から断絶した味だから美味いのである。そしてこのうまみは、風味を伴って食材の足し算のような感覚で効くのではなく、「塩味」の延長上の味附けとして効くことで炒飯らしい味が成立するのではないかとオレは結論附けた。

たとえば、ラーメンスープにうまみ調味料を加えた場合には「化調問題」が出て来るわけであるが、炒飯の「化調問題」と謂うのは聞いたことがない。当然汁物に溶解する場合と飯粒や具材の表面に味を附ける場合とでは投入する総量がまったく違う。

おそらく、大多数の人々は炒飯の主要な味附けがうまみ調味料であることなど殆ど意識していないのではないかと思うし、意識したとしても不快には感じないのではないかと思う。不快に感じるとしたら、それは美味しんぼ流の迷信的な化調批判が念頭にあるからではないかと思う。「うまみ調味料を使うこと」それ自体を悪だと視ない限り、炒飯にうまみ調味料を用いることにはほぼ問題はない。

●美味しんぼと炒飯

では、うまみ調味料を目の敵にしている「美味しんぼ」は、炒飯と謂う料理についてどのように述べているのかと謂えば、オレの記憶している限りでは、この作品で「炒飯」が採り上げられた例は二回しかない。

オレは一〇〇巻前後から新刊を買わなくなったので、続刊において採り上げられているのかもしれないし、買いそびれて抜けている巻もあり、全巻子細に精読しているわけではないので正確な言明は出来ないのだが、多分そんなものだろうと思う。もしも漏れがあるようなら、是非参考までにご指摘を戴きたい。

ざっとググった限りでは、第四巻の「直火の威力」と第七二巻の「料理の勘」以外には「炒飯」は出てこない。第二〇巻の「カキの料理法」でチラッと出て来る料理は、実は「ヤキメシ」である。そして、「料理の勘」で山岡が出した「炒飯」も、実はこのエピソードに出てきた「ヤキメシ」と大略同じ料理である。

「料理の勘」では「チャーハン対決」と謂う名目で出てきているから炒飯として認め得るだけで、初出の「カキの料理法」の海原雄山の注文は「ヤキメシを作ってみろ」と謂うものなのだから、実体的には「ヤキメシ」である。このシンプルなヤキメシが「飯の美味さを味わう」と謂う炒飯の本質を衝いた組み立てであるが故に、具材に贅を凝らした本格中華の炒飯に勝つと謂ういつものロジックのエピソードである。

このレシピは「カキの料理法」では調理人が台詞で説明しただけだが、「料理の勘」では絵入りで具体的に説明されていて、たっぷりの油でネギのみじん切りを熱して香りを立て鰹の塩辛を投入し、鰹の香りが立ったところで飯を投入して炒め合わせ、さらに卵を加え軽く炒めて出来上がり。味附けについては、第二〇巻でも第七二巻でも一切触れられておらず、塩を加えたと謂う説明すらない。

この場合のうまみ成分は、鰹の塩辛だから核酸系かと謂えば、発酵食品なのでタンパク質が分解されてグルタミン酸などのアミノ酸も幾らか含んでいるだろう。つまり、これが第三八巻丸々一冊を使った「ラーメン戦争」のエピソードにおける長期熟成醤油と同様のうまみ調味料の代替物と謂うわけである。

その「ラーメン戦争」では、日本人のMSG好きに対応する形で「このくらいなら勘弁してやらぁ」と謂わぬばかりに長期熟成醤油を使う理由が説明されていたが、このヤキメシについては、鰹の塩辛が「うまみ調味料の代替物」であると謂う理路は二度とも説明されていない

これは、塩辛の塩分が味附けとして効いているから、それ以上塩を加える必要もないと謂う意味にもとれるが、それでも普通なら「塩辛の塩分があるから、塩を入れる必要はない」とか「塩で味を調えて出来上がり」くらいの補足は入れるはずなので、意図的に味附けに触れるのを避けたとしか思えない。

さらに、これはこれで美味いのだろうが、これが「炒飯」かと言われたら少し疑問の残るところで、やはり「無国籍料理店の創作料理」や「気の利いた男のアイディア料理」と謂うところが相応だろう。調理法としても、まず玉子炒飯を作ってから具を炒め合わせると謂う一般的なセオリーから外れているが、これは炒飯名人の周富徳(周大人のモデルとも謂われている)のレシピでも二、三そう謂う例外的調理法の変わり種炒飯があるくらいで、「炒飯」のごく周縁に位置する調理法であり、主流的な調理法ではない。

これを炒飯の本質を剔抉したモデルとして語ることは、天下一品のラーメンをラーメンの王道として語るようなものである。

そう謂う遠慮があるからこそ、第二〇巻の時点では敢えて「炒飯」とは言わずに「ヤキメシ」と表現したのだろう。オレはこのエピソードを初めて読んだとき、この「ヤキメシ」と謂う表現に強い違和感を感じたことを覚えている。何故「炒飯」ではなく「ヤキメシ」なのか、それが大変不可解だった。

この「ヤキメシ」と謂う呼称は正式な料理名でも何でもなく、単に「炒めて味を附けた飯」の全国で通じる俗称にすぎない。プロの料理人が作るものではなく、家庭で残り飯を使って好き勝手に作るものだから正式名称も決まったレシピもないのであり、プロの料理人が作る料理なら、それは「炒飯」であるほうが自然である。

ここで「ヤキメシ」と謂う名称を挙げるのは、幾ら「和、洋、中華、東南アジア、アフリカ。特定の料理にこだわらずに美味いものばかり集めよう」と謂う無国籍レストランでも、名称の階層が違っている。海原雄山がこの料理人の手腕や心映えを評価していないとしても、だからと謂って「ヤキメシ」はないだろう。

深読みすれば、炒飯とうまみ調味料の切っても切れない関係を識っているから、化調否定の美食倶楽部を主宰する海原雄山に「炒飯」を注文させるわけにはいかなかったと考えることも可能である。これは、逆に言えばうまみ調味料を使わずに本格的な炒飯を作ることが出来ないことを原作者が認識していたととることも出来る。

また、第四巻の「直火の威力」は、ウチに収録巻のコミックスはないけれど誌上で読んだ記憶がある。この話は、横浜中華街の顔役である周大人に一人前の料理人として評価されておらず出店資金の融資を受けられない男を山岡が助けると謂う筋書きの挿話で、周大人に炒飯を作ってみろと言われて満足なものを作れなかった男に対し、山岡が炒飯の秘訣を伝授し併せて料理人としての欠落を指摘すると謂う話である。

これは、連載開始から間もないと謂う事情の故なのか、取材の甘い部分があるように思われ、厨房で実際に炒飯を調理しながら山岡は…

「王さんは炎の主人になっていない。鍋から放り上げられた飯が空中で炎の上を通り抜ける。その時炎に直に炙られる。それによって余分な油がとんで、飯がパラリとなり香ばしくなるんだ。鍋の中でイジイジかき回しているだけじゃ本当のチャーハンはできないんだよ」

…なんて説教をカマしているんだが、普通に考えればこれは「虚構」である。中華鍋の煽り方をご存じの方なら、宙を舞う飯の下には必ず鍋があるのだから、煽られた米粒が直火に触れることなど一度もないことをご理解戴けるだろう。詳しくご存じない方は続くエントリでその辺を説明するのでそれも参考にして戴きたい。

「鍋を煽る」と謂うのは、半球径の鍋底を角度を附けながら五徳の上で前後に滑らせて回転運動を加えることであるから、具体的に想像してみればわかる通り、鍋から離れて宙に浮いた内容物の下には必ず鍋があるのが当たり前で、この説明のような状況はまず在り得ない。

内容物が直火に触れるとしたら、鍋の側面からはみ出して鍋の上で踊るほど豪快に炎が立ち上っている必要があるが、幾ら高熱調理主体の中華料理でもそんなワケのわからない「常時フランベ状態」みたいな火の扱い方はしない。前述の通り、火力の強さは鍋の温度を高温に維持する為に必要なのであって、温度それ自体を高温にする為ではない。

実は、炒飯と謂う料理には美味しんぼの美食思想には合致しない部分があるわけで、その故にマトモな言及を避けている部分があるのではないか、と謂うのがオレの見解である。ラーメンの場合には、はっきりうまみ調味料の使用を悪と規定して「ラーメンの恥部」とまで誹謗しているわけであるが、美味しんぼ流の化調否定の思考の枠組みでは、何故うまみ調味料を使った炒飯が美味いのかを説明出来ない

おそらく原作者の雁屋哲は、うまみ調味料を使ったラーメンは嫌いだが、うまみ調味料を必ず使っているはずの炒飯は大好きなのではないかと思う。これは、全連載期間を通じて事ある毎に頻出する米飯好きの嗜好から謂って間違いのない推測だろう。

炒飯乃至ヤキメシを扱った三つのエピソードでも、炒飯と謂う料理自体をラーメンの場合のように「下司な喰い物」的に誹謗してはいない。つまり、雁屋哲は米の飯が大好きなのだし、米の飯を使った調理法の決定版とも謂える炒飯も大好きなのだが、化調=悪の立場を貫く限り、炒飯が何故美味いのかを合理的に説明出来ない、そう謂うことだろうと思う。

そして、炒飯好きで料理に関心のある人間なら、炒飯にうまみ調味料が使われていることを識らないはずがない。カウンター式の中華料理屋で炒飯を注文して調理手順を観察していると、調理人は或る時点で必ず白い粉を二種類振り掛けるのだから、一つが塩だとすればもう一つがうまみ調味料ではないと考える理由などはない。

だから美味しんぼでは炒飯の話題は鬼門なのである。ラーメン同様にうまみ調味料を使用しているはずの炒飯が何故美味いのか、これを合理的に説明しようとすれば、美味しんぼ流の化調批判の理路が非合理だと謂うことが明らかになってしまうのだ。

連載開始当初の素朴なスタンスなら、それは「架空の原理」としての「直火の威力」と謂う理屈が附くわけだが、或る程度美味しんぼの提供する食の情報に対する社会からの信頼や、それと表裏の関係にある批判的関心が高まり、作品全体を通じたテーマとしての無化調思想が確立した後では、炒飯の問題には触れにくい。

美味しんぼの思想に基づくなら、世の中の殆どの炒飯は美味いはずがないのである。

炒飯乃至ヤキメシが題材に出た三つのエピソードでは、一切うまみ調味料使用の問題には触れておらず、これはうまみ調味料の使用を「恥部」とまで断じたラーメンの場合と比べて明らかに不自然であり不公平である。炒飯におけるうまみ調味料の使用を仄めかすのは、他のエピソードで何度か出てくる「現在の中華料理店では何にでも大量に化学調味料が使われている」と謂う間接的な指摘に留まる。

これは端的に謂ってダブルスタンダードである。うまみ調味料を用いたラーメンをうまみ調味料を使用していると謂う理由で誹謗するのであれば、世の中の殆どの炒飯も同様に扱うべきであって、この両者に同じ論理が適用出来ないのだとすれば、美味しんぼ流の化調批判の論には、矛盾する諸事実を過不足なく説明可能ではないと謂う致命的な欠陥があると謂うことになる。

当ブログにおけるうまみ調味料を巡る議論は、もう一段確実な足場が確保されない限り目立った進展はないだろうと思うのだが、それでも現時点では、もしもラーメンにおいて「化調問題」が存在するとすれば、それはうまみ調味料を用いた一般的調理法にラーメン固有の問題性があるからであって、うまみ調味料それ自体が悪だからではないと謂うことくらいは謂えるだろうと思う。

ここでうまみ調味料それ自体を悪玉視するのは単なる思考停止であり、そこから先には何も穣りはない。たとえばhietaro さんが挙げられたようなスタンスの無化調ラーメンですら、美味しんぼが生み出したものではないと謂えるだろう。

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コメント

みつどんさんのブクマと「これはすごい」タグの威力で、爆発的に一〇〇〇PVくらいアクセスが急増した。やっぱりみつどんさんの影響力は凄いなぁ、とくに食と美味しんぼの分野では(笑)。

参考になるブコメを幾つも戴いたのだけれど、ブコメと謂うものの性格上、会話状態になるとご迷惑だろうから、独り言っぽく。

>>今迄で一番マズイ炒飯:電気釜からお皿に直接盛りつけヘイお待ち!と……

オレも一度あるなぁ。飯田橋近辺だったかと思うけど、麺類に附いてくるサービス炒飯だったから仕方ないかな、と。でも、麺類ではなく炒飯を注文していたら、炊飯器から皿一杯に盛り附けて出てくるだけの違いだったらゾッとしますなぁ(笑)。

因みに、味はやっぱり「炊き込みご飯」以外の何ものでもなかったなぁ。それも具に油揚げが入った鄙びたやつ。と謂うか、アレって「炒飯」と銘打っているけどホントに炊き込みご飯だったんじゃないかと謂う疑いが(笑)。なんせ「炒飯」なのに「八角の匂いがした」ので、絶対炒めご飯でだけはないだろう、と。

でもねぇ、電気釜からよそった炒飯は「炊き込みご飯」だと思えば諦めが附くけど、炒め直しの真っ黒な炒飯は、あれは人間の喰うものではないなぁ(笑)。だとすると、この世で一番不味い炒飯とは、「作り置きの炒飯を一度炒め直してさらに電気釜で保温したもの」と謂うことになるなぁ、あなおそろしや、桑原小原。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月24日 (月曜日) 午前 01時32分

以前上げたことのある動画をご紹介しまっす。

周富徳の弟子(^O^)の炒飯↓。
http://taizo3.net/hietaro2/2007/06/post_592.php

いくら大量に作るとはいえ、これにはそれまでの「炒飯観」が覆されました。(^O^)

まず最初に投入される油の量にビビりますね。(^^;;
その割に玉子が少ない。
そしてビックリするくらい大量の米を投入。確かに温かかったと思います。
ここまではいいとして……。
いいのか玉子が焦げないのか……というくらいのんびりと米と具材の投入に時間をかけ……。
そして鍋を一度も振らないのですね。
もちろん周大人のように煽ったりもしません。
なんせ両の手で杓子を持ってるんだから……。
まあこの量の材料の入った両手鍋を振ろうと思ったらエライことになるのは間違いなくて、これが現実的なやり方だとは思うのですが……2本の杓子で混ぜ混ぜしてるだけで大丈夫かなあと思うわけですよ。
しかしできた炒飯は……「パラッパラ」とまではいいませんが、別にベトベト感もなく適度のパラ度のある、非常にウマいものでした。
なんか、ダマされたような気分です。(^O^)

宝塚の吉四六の炒飯↓
http://members.at.infoseek.co.jp/hietaro_4/hy_east.htm#satsuma

私が一番好きな炒飯です。主人の味含め。(^O^) ここでは「焼飯」と呼んでいます。

大阪狭山市の純情屋の炒飯↓
http://members.at.infoseek.co.jp/hietaro_4/minami-osaka.htm#junjouya

これが一番「炒飯」っぽい作り方ですよね。

いずれも大量の油・塩・化調・玉子はデフォですね。

投稿: hietaro | 2009年8月24日 (月曜日) 午前 05時47分

>hietaroさん

うおおおお、げらげらげらげら。なんか凄い動画ですね(笑)。

>>いくら大量に作るとはいえ、これにはそれまでの「炒飯観」が覆されました。(^O^)

本文でも触れたことですが、鍋を煽る調理法だと、たしかに三合くらいから辛くなるんですよ。これが四人前とか五人前だったら、おそらく普通の人間だと鍋が煽れないのでどうやって作るんだろうと思ったら、こんな力業があったのか(笑)。

たしかに、あの玉杓子の二刀流なら、もう鍋を煽るとかそんな次元じゃないですね、鍋の中でお椀くらいある玉杓子が二本も動いているんですから。あの玉杓子一杯半くらいで大体並盛り一皿見当ですから、豪快な調理法です。

>>しかしできた炒飯は……「パラッパラ」とまではいいませんが、別にベトベト感もなく適度のパラ度のある、非常にウマいものでした。
>>なんか、ダマされたような気分です。(^O^)

いやあ、このやり方なら鍋を煽らなくても内容物を根こそぎ返すことが出来ます。オレも目から鱗が落ちました。みつどんさんじゃないですが、たしかに中華玉杓子は炒飯作るのに最適の道具です。ただ、やっぱり一度にこの分量を作るのは、やっぱりイレギュラーと謂うか、プロでもやめといたほうが好いんじゃないかと(笑)。

>>まず最初に投入される油の量にビビりますね。(^^;;

ちょっと幾らなんでも…と思ったら、その後に投入される飯の量を見て納得。たしかにあのくらいの量の飯全体に廻る油の量と謂ったら、あんなもんでしょう。卵はたしかに飯の量に比べて圧倒的に少ないですね、L玉二つ分より少ないでしょう。

多分、炒り玉子が十分細かくなって飯全体に満遍なく混ざっているので、あのくらいで足りるんでしょうね。流石にプロの技術です。

>>いいのか玉子が焦げないのか……というくらいのんびりと米と具材の投入に時間をかけ……。

各人それぞれ時間を掛けるポイントが違うのが面白いですね、オレは寧ろ純情屋さんが鍋を焼きすぎじゃないかと思いました(笑)。あの業務用レンジの大火力で鍋を焼いているのに、のんびり卵を割って飯を盛って…でも、鍋に卵が入ってからの手早さは打って変わってスピーディーで気合い勝負ですね。ネギの刻み方が細いのを除けば、たしかに純情屋さんの炒飯がオレのイメージしている炒飯に一番近いです。

吉四六さんのほうは、仕上がりを見ればわかりますが、茶色い系統の炒飯ですね、調理手順を見ても結構多目に醤油を入れています。調理の途中で飯の真ん中に大胆に掛けているように見えますね。オレは色の薄い系統の炒飯が好きですが、これはこれで芳ばしくて美味そうではありませんか。

思うに、細かく刻んだニンジンなんかも入っていて、具がかなり細かくて飯の味わいがメインになる辺り、「炒飯」とかしこまるよりは「焼き飯」と砕けたほうが相応しいと謂うことなんじゃないですかね。

それと、ちょっと伺いますが、大阪のラーメン屋だと刻んだニンジンが入ってる炒飯がけっこう多いとか、そう謂うことはありますか? どこだか忘れたんですが、大阪から出店していると謂う中華料理屋でも、やはり刻んだニンジンが入っていた記憶がありますので、どこかの流儀なのかな、と。

>>いずれも大量の油・塩・化調・玉子はデフォですね。

最大公約数的な炒飯は、やはりその組み合わせじゃないと作れないんじゃないかと思うんですよねぇ。周富徳の炒飯本なんかを見ても、玉子を使わない炒飯は仕上がりの見た目からしてかなり違うんですよ。そこの基本から、どう謂う工夫を加えるか、自分なりのアレンジを加えるか、そんな感じじゃないかと思います。

いずれにせよ、かなり面白い動画を見せて戴きました、有り難うございます。

なんか興奮してわーわー言いながら見てしまいました(笑)。まさに炒飯作りは数分の僅かな時間内の手際の勝負ですね。やはり、本来は鉄鍋に玉杓子で作るのが一番適していると謂うことが、これを視ればわかります。オレも一度やってみたんですが、油や玉子や食材をあれで掬えると謂うのが大きいですし、お玉の底で飯を拡げたり、伏せて縁のほうで飯を返したり、物凄く便利なんですよね。

大概の人がイメージしている八角形の炒飯皿に丸く盛られた炒飯は、あの玉杓子でないと無理ですし、トッピングの剥き海老とかうずら玉子なんかも、まずあの玉杓子にイケてから鍋を煽って炒飯を載せ、皿の上に伏せて盛るんですよね。やっぱり不器用な人間だと、鍋を煽って玉杓子に炒飯を載せるのはちょっと無理そうです(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月24日 (月曜日) 午前 06時39分

>それと、ちょっと伺いますが、大阪のラーメン屋だと刻んだニンジンが入ってる炒飯がけっこう多いとか、そう謂うことはありますか? どこだか忘れたんですが、大阪から出店していると謂う中華料理屋でも、やはり刻んだニンジンが入っていた記憶がありますので、どこかの流儀なのかな、と。

ああ、どうなんでしょう。

中華料理の店ではそこそこあるような気がしますね。あと、ミックスベジタブルを使うけしからん店と。(^O^)

ラーメン屋さんの場合はあまりないですね。吉四六はラーメンの具に珍しくニンジンを使ってるので入ってるのだと思います。

私はそう頻繁に炒飯を頼まないので、全体の傾向までわからないですねえ。

こういう↓素晴らしいサイトがありますので、ちょっと覗いてみてください。(^O^)
http://marontocahan.blog67.fc2.com/

投稿: hietaro | 2009年8月25日 (火曜日) 午前 12時35分

>hietaro さん

>>中華料理の店ではそこそこあるような気がしますね。あと、ミックスベジタブルを使うけしからん店と。(^O^)

東京だと、細切れのニンジンを使っている店はあんまりないように思うんですよ。勿論最近だとどんなものでもありますが(笑)、昔いろいろな店で喰った経験で謂うと、殆どの店が「醤油ラーメンの具を流用した炒飯」だったかと思います。

カウンターが油でベタついていて、ビールを呑むコップでお冷やが出てくるようなところだと、まず間違いなく、煮豚とナルトを大きめに刻んで晒しネギが入っているようなタイプの炒飯が出てきますね。炒飯とラーメンは一番出るメニューですから、大体具が共通しているんですね。仕入れとか仕込みの関係で効率的だからだろうと思いますが。

ただ、これは東京乃至関東の地域性じゃないかと思いますので、他の地域だとまた流儀が違うんではないかと。吉四六さんみたいに具を細か〜く刻んで入れていて、ニンジンが目立つようなタイプは、多分、東京ではあんまり見掛けない流儀かな、と思います。

勿論、オレも東京中のラーメン屋を廻ったわけではないですから(笑)、単なる印象論にすぎず、異論のある向きもあるかと思いますが。

>>こういう↓素晴らしいサイトがありますので、ちょっと覗いてみてください。

ああ、素晴らしいですね(笑)。ラーメンサイトってのは珍しくないですが、炒飯と餃子と謂うのはあんまりないかも。時間があるときにじっくり覗かせてもらいます。

投稿: 黒猫亭 | 2009年8月25日 (火曜日) 午前 05時08分

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