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2009年9月21日 (月曜日)

舌が肥えているといいことがあるか

いきなり変な設問だが、結論から言えばいいことがあるに決まっている。喰い物が美味いと謂うことは、生きる上で非常に大きな感動である。人間、年をとってあっちのほうがそれほど楽しくなくなってくると、喰い気一方に凝り固まるものである。

あっちのほうは若い盛りをすぎて子供の一人も儲ければ「もういいか」と謂う気分にもなるが、喰い気のほうは死ぬまで続く日常的な行為なのでどうやっても縁が切れないわけで、喰い物が美味いと謂うことは人間にとって最もカジュアルな快楽である。

ただ、今回考えようと謂うのは、そう謂う意味合いにおける「いいこと」ではない。

人間は何故美味い物を喰おうとするのか、美味い物を喰うことには生存において何らかのメリットがあるのか、最終的には味覚が優れていると謂うことは生物として有益な能力なのか、そう謂う問題である。なんでまたそう謂うことを考えるかと謂うと、これがおそらく俗流グルメ論の自然崇拝と何か関係があるのではないかと思うからである。

普通に考えれば、喰い物が美味いと謂うことは、肉体がそれを要求しているからだと謂うふうに考えられる。喉が渇いているときに一杯の水を飲めば、それが水道水でもこよなく美味に感じるし、くたくたに疲れているときに甘いものを食べると普段よりも美味しく感じる。汗を掻いたら塩気が欲しくなる。そう謂うふうに、今身体に必要なものを口にすればそれが美味と感じられる。それは身体が欲しているからである。

しかし、本当にそれだけか。身体が必要とするものだけが美味に感じられるなら、必要以上に塩分や脂質や糖分を摂りすぎることなどないはずである。われわれは、明らかに現在只今の肉体生理上好ましくないものや、長期的には命取りになるようなものでも美味いと感じることが多い。その意味で、味覚的な快感が元々肉体生理上の必要から生じた報酬系に基づく感覚だとしても、肉体の生理上の必要性と美味と謂うのは必ずしも直結しているとは限らない。

このような傾向は、たとえば猫程度の動物にもあって、猫でも個体毎に喰い物に対する独自の好みがある。味覚と謂うのとは少し違うかもしれないが、ウチの摩耶などはコンビニ袋を囓るのが大好きで、空き袋をその辺に出しっぱなしにしておくと、丹念に咀嚼して呑み込んでしまうので、棄てるか手の届かないところに仕舞っておく必要がある。

幾ら猫が浅ましい畜生でも、肉体生理がコンビニ袋のポリエチレンを求めているとは考えにくい。これは単に、コンビニ袋を囓ると摩耶的には気持ちが好いから囓るのだと謂う以上の意味はないだろう。

唐突に尾籠な喩えを出して恐縮だが、たとえば人間は性的快感を目的的に追求する技工では他の動物の追随を許さない。猿くらい高等な生物になると、遊戯的な性行為や同性愛、自慰行為など、生殖に直結しない、快楽を目的的に志向した行為を営むそうであるが、人間が行う性行為乃至それに類似した行為の大半は生殖と無関係である。まず、愛情を確認するとか単に快楽を求めるとか、そう謂う生殖とは無関係な動機の性行為がありきで、条件が許せば生殖の為に行うと謂う程度の割合である。そして人間はその生殖に直結しない性的快感を楽しむ為に、考え得る限りの知恵を凝らす。

多分、猫がコンビニ袋を囓ったりするのは、これに類似の行為なのだと謂う推定はどうだろうか。何はともあれ、喰うことは快感である。生き物は何かを喰わねば生きていけないから、何かを喰うと快感が得られるような仕組みになっている。大体の生き物は、生息環境と肉体生理と謂う条件下において、喰えば生存に益するものを喰うと快感が得られるように出来ているのが本然である。

であるから、自然状態においてコンビニ袋だけを喰っているような猫はあっと謂う間に死んでしまうわけだが、普通に餌を喰っている合間にコンビニ袋をちょっと囓るくらいなら生きていけるだろう。ちょっと試しに喰ってみたら気持ち良かった、だからそれが癖になった。これは生存とはまったく無関係に、食の快感を目的的に追求していると謂えるだろう。まあ、昔のようにビニール製だったら消化器に詰まって死ぬかもしれないが、物を喰う行為はどんな生物にも共通の日常的な営みであるから、割合単純な動物でも快感が目的化しやすいのかもしれない。

これが生殖となると種と個体の存亡に直結する一大事業だから、本能図式によって規定されている行為を逸脱して快感を目的的に追求出来るのは、或る程度以上の高等生物に限られるのだろうが、食と謂う行為はそれよりも日常的な性格があり、食習慣に流動性があることは生存戦略にも関わってくるだろうから、どんな生き物でも本能からの逸脱の可能性が割合高く設定されているのではないかと思う。

こう謂うふうなごくユルユルの推測のみの考察ではあるが、その伝で考えていくと、人間の食習慣と謂うのは、非常にイビツなものではないかと思えてくる。人間は雑食性と謂うか、たとえば草食動物のように草だけ喰っていれば生きていけると謂う生き物ではない。コアラやパンダのように、特定の食物を主に喰っていれば万事上手く行くと謂う仕組みの生き物ではない。現在の栄養学の常識から謂えば、かなり広汎に亘る多種多様な食品を摂取しないと健康で長生き出来ないことになっている。

これは普通に考えて、とても奇妙なことに感じられる。

どう考えても、人間が三大栄養素と必須ビタミンを過不足なく摂取出来るようになったのは精々この数十年くらいのことで、本邦の食習慣で考えても、江戸時代くらいまでは日常的には一汁一菜くらいが上等のところで、漬け物や目刺しで飯を喰って味噌汁かすまし汁が附けば好いほうだと謂うのが普通の食事だったわけである。現在の常識で謂えば、そんな食生活で健康で長生きしようと思うほうが間違っている。

しかし、これは日本人の食習慣がとくにおかしかったと謂うわけではなくて、同時代の欧米人だって、肉や乳製品に穀類、それに少し野菜が附けばマシと謂う程度の、現代の水準で謂えば栄養学的に偏った食習慣だったはずである。

割合大昔から何でも手当たり次第に喰っていた中国人や半島人でも、地域毎に視ていけば必ず栄養学的な偏りはあったはずで、現在のように流通が発達する前の時代は、何処でもその土地その土地の生産性の特質と謂う縛りが必ずあったはずであるから、必ず何かしら偏った部分があったはずである。

全世界的に視てそれが当たり前であるのなら、人間と謂うのはそう謂う食制の生き物だと見做しても構わないはずである。その土地その土地で入手可能な食品を可能な限り幅広く摂取して数十年生きて死ぬのが当たり前の動物で、平均寿命はその土地の生産性に依存する、そう謂う生存戦略を採用した生き物だと謂うことである。

であれば、栄養学の発達によって人体に必要な栄養素が特定され、それがどのような食材にどれだけ含まれているのかと謂う知識が蓄積されることで、人間の平均寿命は技術として延長され、健康は技術として獲得されたのだと謂うことになる

また、それぞれの栄養素の物質的な特性に応じて最適な調理法や忌避すべき調理法が研究され、食による健康な延命の技術は飛躍的に進歩したから人間の平均寿命は八〇年前後になったと謂えるだろう。

だとすれば、現代人が享受している食の恩恵と謂うのは、技術や知識の発達によるものであって本能の賜物ではない。であるならば、美食と謂う快楽の体系は、そのような技術の進歩がもたらした比較的新しい官能のスキルだと考えるのが妥当である。

ここで大本の疑問に戻るなら、舌が肥えていること、つまり、食に要する官能が鋭敏であることには、どのような意味があるのかと謂うのが改めて不思議に感じられてくるだろう。普通に考えて、個体の生存上何の役にも立たないのである。

食材の危険性を感知する機能としては、味覚は殆どアテにならない。危険な物質が含まれていたら必ず特定の味がするわけではないのだから、味覚で毒性の有無を確認することはまず不可能である。甚だしい刺激のあるものは多分飲食可能ではない、と謂うくらいのものだろう。

特定のものを喰ってみて苦痛を感じたとか死んだとか謂う場合、それは知識として蓄積されるから毒性の強い食物を忌避し得るのであって、味覚で判断されるわけではない。勿論、それを味覚として認識し記憶する役には立つだろうが、これはそれほど重要な機能ではないはずである。

何かを喰って非道い目に遭った場合、その味を記憶しておけば次にまた同じ目に遭うことは避けられるが、これはマストの知覚機能ではない。まず視覚的な判断があるわけだから、味覚的な判断は視覚的な判断が出来ずにうっかり口に入れてしまったときに吐き出すと謂うフェールセーフの役に立つだけである。

いろいろ考えていくと、たとえば水や酒の利き分けが出来るレベルで味覚が鋭敏でもそれほどいいことがないと謂うことになる。まず、味覚が鈍感な場合よりも不味い物が増えるわけだが、不味いからと謂って命に関わる喰い物と謂うのはまず以て存在しないだろう(笑)。殺人的に料理が下手は人もいるにはいるだろうが(笑)、喰って安全な食材だけを使って人が死ぬようなものを作るには物凄く特殊な才能が必要だ。

基本的に、健康上の問題がなく栄養になる食物を喰って、それを不快に感じると謂うのは贅沢な感覚である。大昔からあるお説教を繰り返すつもりは毛頭ないが、生産性の低い土地に住んでいる人々は、信じられないほど不味いものを疑問も感じずに喰っているわけである。以前マクロビに関連してテンペの話題が出たが、あれだっておそらく大豆の調理容易性と保存性を両立させる目的で生まれた食材で、多分あのように処理すれば美味くなるからあのような食材が存在するわけではないと思う。

われわれは何となく伝統的な食材は美味の追求の過程で生まれたと思いがちだが、おそらくそれは単に結果的に美味いほうが成功例として残りやすいと謂うだけで、元々は保存性や流通性を目的として加工されたものが殆どだろう。だから、テンペのような美味くも不味くもない食材は加工食品として非常にプレーンな位置附けになるわけで、所期の目的には合致したが大して美味くならなかったわけである。

ただ、ここまでの文脈だと恰もオレが美食の意義を否定しているように感じられるかもしれないが、冒頭で念を押したように、美食は人間の生において大変素晴らしい感動であると考えている。喰い物が美味いと謂うことは、「生きてるだけで丸儲け」と謂うぐらい虫の好すぎる快楽なのである。

それが快楽だから、さらなる深みと高みを求めて味覚を鋭敏に研ぎ澄ます、これは別段否定さるべき方向性ではない。赤身と白身の味わいを区別出来たほうが魚を味わう上で深い感動が得られるし、個々の魚の味わいや風味を区別出来ればもっと深い感動を味わうことが出来る。そんな感動をごくカジュアルに得られるのが、食の快楽の優れたところである。

この考察の意味は、それを否定する為のものではなく、味覚の鋭敏さは美味を味わうと謂う目的に特化した感覚に過ぎないと謂うことを明らかにするものである。人間は味覚によって外部環境の変化を感受しているわけではない。そのような意味合いにおいて味覚が人間の数万倍鋭敏な生物も存在するが、人間の味覚の鋭敏さは食がもたらす快楽を十全に感受する為だけにある

生存の実用性だけを考えるなら、味覚は鈍感なほうが有利である。どんな不味いものでも平気で喰えるとか、何を喰っても美味いと感じるほうが生存に有利なのは当たり前の話である。

間違いが生じるのはここからである。

本来、美食と謂うのは一種の芸事であると見做すべきだろう。人間の味覚を研ぎ澄ますには節制と訓練、そして知識の蓄積が必要である。それを経験によって高めていって、より深い感動を得るのであるから、端的に謂ってこれは芸事である。

味覚を研ぎ澄まし、美食を追求することは、つまり不味いものを増やしていくことなのだし、何が美味いのかと謂う観念を体験と摺り合わせて確立していく作業である。これは体験の価値を高める為の訓練であり、生物としての人間の本然とはそれほど直接的な関係があるわけではない。

同じ材料を使ったものなら、不味かろうが美味かろうが生存の上でのメリットは同じであるし、そもそも美味い食材と不味い食材に栄養学的に決定的な差はない、少なくとも無視し得る程度の差でしかないと謂えるだろう。にも関わらず、人間は喰って美味いと感じる感動をより高め、豊穣なものとする為に日々研鑽を積む。これは生存可能性の観点から謂えば、どんどん不自由になっていくと謂うことである。

繰り返しになるが、それはそれでも構わないのであって、人間は自分の生の体験の価値を高める為に生存とは別次元で必死に足掻き努力するものであるから、それが食の分野であっても何ら否定さるべき理由はない。寧ろ、食と謂う生物の生活と切っても切れない日常的な事柄にまで複雑精妙な感動を求める姿勢は、人間の貪欲なまでの生の意味への追求が生んだ至高の藝術と呼んでも過言ではないだろう。

ただ、やっぱりそこから間違うのである。

美食の価値と謂うのは、人間の感動体験の文脈においてしか意味はないが、それが生存の観点においても意味がある、一歩進んで美食を追求することこそが人間として生物として正しい姿勢であると謂う正当化の情熱、これがいろいろな間違いを生むのだろうとオレは思う。

飽くまで美味を追求するなら、安定供給の為に本来の生態にそぐわない環境で肥育された養殖食材よりも天然食材のほうが美味いに決まっているし、旬の食材を新鮮なうちに喰ったほうが美味いのは当然である。或る種の農産物は、近代農法で育てるよりも前近代的な有機農法で育てたほうが美味いのかもしれないし、加工食品なども、手作業で生産したほうがオートメーション化の過程でスポイルされた要素が維持されていて美味いのだろう。

近代が生んだ農業技術や食品加工技術が、何らかの食味を犠牲にしている可能性があると謂うことは否定しようがないことであるし、流通効率や通年安定供給の観点でさほど美味くもない食材が流通している側面も否めない。食品添加物が不可避的に食味や風味を害することはあるだろうし、合成調味料も工業規格品である以上、プロの一流調理人が一から手を掛けたダシやスープより美味くないことは事実である。

美食の観点においては、たとえば美味しんぼが主張しているようなことは何ら間違いではない。美食と謂うのは、本来そのような共有コードに則って成立しているシステムなのだからそれが当たり前である。なべて芸事と謂うのはそう謂うもので、送り手と受け手が共有しているコードに則って価値の体系が構築されている。

しかし、美味しんぼが間違うのは、美味であることが体験の価値と謂う限定を超えて正しいと主張し始めた瞬間である。美味であることは健康にも良いし、健康に良いものは美味である、これは何の根拠もない非合理な思い込みである。この思い込みから出発するなら、健康に良くないものを美味に感じる感覚は間違っていると謂うことになる。たとえば、インスタントラーメンが美味いとかハンバーガーやピザなどのジャンクフードを美味いと感じる感覚は間違っているのだと謂うことになる。

本来これは、体験の価値として相対的に貧しいと謂う言い方が出来るだけで、それは美食と謂う芸事の枠組みの中での価値体系に基づく判断であり、詰まるところは当人の価値観の問題なのであるから、要らぬ世話であると謂う言い方も出来る。或る芸事を選択しないからと謂って、別段それが故に貶められねばならない謂われはない。文化的な嗜みの一つとして、美食と謂う芸事にも一通り心得があったほうが文化性を威張れると謂うだけの話である。

勿論、体験の価値が高められることで精神的な充足感は得られるだろうから、その意味で美食が健康に益すると謂うのは間違いではないが、健康に良いと謂うことが精神的な意味ではなく実体的な意味だと主張し始めるといろいろな無理が出てくる。自然教の信者と謂う言い方が穏当かどうかはさておき、そのような傾向のある人々が屡々データを改竄したり改竄データに飛び附く傾向があるのは、そのような無理のしわ寄せだろう。

元々そんな主張に客観的な根拠なんかないのである。美味と謂うのは、ああ美味い、この上なく幸せだ、と謂う感動の体験以外の意味はないのが当たり前なのである。人間の味覚は、自身の健康に益するものだけを選択的に美味いと感じることが出来るほど神懸かりに合目的的なシステムに則ってはいない

美味しんぼ的な美食思想が登場する以前は、美食家はゆきすぎた快楽追求の酬いとして早死にして当たり前と謂うのが通り相場であったのだが、美味であることは実体的にも正しいと謂う思想が登場することで、寧ろ美食家こそが健康で長命するのであり味覚の鈍感な一般人は様々な健康リスクに包囲され病気になったり短命なはずだ、と謂う認識の逆転が起こる。

統計的なエビデンスはないが(笑)、これは多分間違いだろう。単に、近代料理一般の健康志向(ヘルシーで美味しい)と、美食家の側に栄養学的知識が普及した為に、昔に比べて美食家が健康になったと謂うだけの話だろうと考える。その恩恵は美食の観点では価値的に劣る「不味い食物」にも遍く及んでいるのだから、美食だけが健康をもたらすわけではないのである。

また、美食とは別の文脈になるが、マクロビのような食養思想の根源にあるのは、たとえば草食動物が草だけ喰って天命を全う出来るように、たとえばコアラがユーカリだけ喰って普通に生きられるように、人間にも「正しい」食制が存在して、それが悪しき文明の浸食によって忘れられているだけである、と謂うような考え方だろう。

どらねこさんの労作エントリ群を拝読すると、そのような「正しい」食制と謂う考え方が一種の民族主義や国粋主義的心性と結び附くことによって、日本の「架空の」伝統食こそが長寿食であり健康食であると謂う無根拠な思想に帰結するのだろう。

本来、人間の食の領域において合理的に正しい情報は自然科学に基づくプルーフがある知見だけであるが、それに基づく限り、マクロビ的な観点で「正しい」食習慣などこれまでこの世に存在したことはないのだし、美味が実体的な意味で「正しい」と主張し得る根拠など存在しない。

何が健康に良いのかと謂うことが科学的に研究されたから、その知見に基づいて健康に益する食習慣の在り方が構想可能なのであって、その研究以前に経験則だけで理想的な食習慣が成立可能なはずはないのだし、美味であることが健康に益することの証になるほど人間の味覚は合目的的に出来ているわけではない。

人間の健康に益する食材でも不味いことは在り得るのだし、健康を害する食材でも美味いことは在り得る。この両者に必然的な相関は存在しない。繰り返すが、健康や長寿と謂う恣意的基準と整合的に味覚が成立しているわけではないのである。多分、どらねこさんに伺えばご存じだと思うが、毒キノコでも美味いキノコと謂うのは存在するのであるし、命取りの危険な喰い物なのに物凄く美味いものとしてトラフグなんかが挙げられるだろう。不十分な処理によるトラフグの毒が味覚で感知出来るなら、フグ中毒で死ぬ人などはいないのである。

非常に凡庸な結論であるが、美味しんぼインスパイアの俗流グルメ思想が何故自然崇拝に結び附くのかと謂えば、或る限定的な概念体系の内側でのみ有効な価値体系が、その外側の領域に対しても有効であると謂うお定まりの規範の越境の問題があるからであると謂うのが現時点での結論である。

これは、たとえば水伝なんかとも根を共有しているし、その関連で、たとえば良質な音楽には芸事の範疇を超えた特別な力があると謂う信仰とも共通した問題だろう。本来それらは、特定の概念体系の中でしか意味のない価値基準であるが、それだけではなく実体的な有効性も具えているのだと主張し始めることから、この種の間違いが起こるのである。

美食や音楽に実体的な有効性があるとしたら、それは人間の精神活動を介したものでしかないと考えるのが、現時点では妥当である。しかし、美食を通じた自然崇拝は、美味いと謂うことが実体的にも有効なのだと謂う規範の越境から始まるのである。

その「自然」もまた本来の意味で「自然」なのかと謂う問題もそこにはある。われわれが今現在摂取している食物の大半は、人間の食用に適するように改造したものであるから、文字通りの意味での「自然な食材」など限られたものでしかない。水圏と謂う広大でダイナミックで制御しづらい環境に棲息する魚介類が、辛うじて人間の手が加わっていない食材だと謂える程度である。

農産物や畜産物は概ね人工物であるから、そもそも自然な野菜とか自然な畜肉と謂う概念は矛盾している。野菜と謂うのは、九割方原種を辿れば可食性の低い「雑草」に似た代物でしかない。「雑草」を人間が喰えるように改造したのが「野菜」だと謂う言い方すら出来るだろう。

では何故「自然な食材」と謂う虚構の概念が発生するのかと謂えば、おそらく近代における食品技術の発達は、必ずしも「美味い」ことを目指す方向では進まなかったからだろうと思う。まず第一に、効率的な生産と安定供給、流通の自由度を確保する方向性で進んだわけで、食味や風味の観点の技術はその後を追う形でしか進歩してこなかったわけである。

一点一点に手を掛けて美味くする方向性ではなく、マッスとして捉えて効率的に生産し安定的に供給することがまず第一に追求されたわけであるから、その過程で犠牲になったものもあることは事実である。そして、それが実現されることで、少なくともわが国においては飢えと謂うのは現実的な感覚ではなくなった。

人間は飢えから解放されれば美食の快楽を目的的に追求する、これはそれこそ天然自然の本然である。そこで効率生産・安定供給の観点を超えて食味や風味を追求する食の技術の進歩がそれを追っていく形になる、これも自然な成り行きである。

その観点においては、効率生産・安定供給の文脈における近代的な食品技術の方向性とは一見逆行するような、小規模生産において人間が一点一点気を配り手数を掛けて生産する食品技術が発達していく。たとえば有機栽培の農産物が近代農法の生産物より美味いとしたら、それは単にその農法が特定の農産物の特性に合致していたか、生産者の目が十分に隅々まで届く小規模な範囲で手を掛けて育てるからだろう。

これはこれで、近代が目指した方向性とは別種の方向性の在るべき食品技術の在り方であると言えるが、それには詰まるところ「美味い」と謂う意味しかない。

美食の求道の観点では、一見して「近代が喰い物を不味くした」と錯覚することが可能である。それはつまり、生産性の低い時代なら人間が小規模に手作業で食品を生産することしか出来なかったから、大量生産品よりも美味いと謂うことは在り得るが、絶対数が少ないから一部の富貴な階層や中流層のたまの贅沢としてしかそのような美味いものを喰うことが出来なかった。

しかし、近代はまず中間所得層以下の一般庶民でも、それなりのレベルの食生活を安定的に享受出来るような方向性で進歩したわけで、一般庶民の食生活レベルの安定的な底上げと謂う目的性がフォーカスされているのだから、その方向性はトップエンドの美食の観点から視れば全般的に食材が不味くなったと見做すことが可能である。

しかしこれは一面的な見方であって、昔のレベルで高いカネを出せば今でも美味いものを喰うことが出来る。一般庶民の食生活を豊かにする方向性を追う形でトップエンドの食材の美味さを追求する方向性の技術もまた進歩しているからである。

俗流グルメの自然礼賛が概念的に混乱しているのは、この部分の考え方が混乱しているからだろうと思う。たしかに昔の食材は相対的に美味かったのかもしれないが、その意味で謂えば、その程度の供給量の美味い食材は現在でも生産されている。単にわれわれのような下々のものでも安定的に喰えるレベルの、相対的に不味い食材がそれより豊富に供給されていると謂うだけの話である。

美味いものを喰う為にカネが掛かるのは、昔も今も変わっていない。単に、昔は相対的に美味いものを少量生産するだけの生産力しかなかったから、下々のものは普段バラエティに乏しい不味いものを喰っていてたまに美味いものが喰えただけで、健康でも長命でもなかったと謂うだけの違いである。

差引勘定で謂えば、下々の庶民でもそこそこ美味いものを安定的に喰えるようになっただけ、確実に社会は進歩しているのである。その上で美味いものが喰いたければ、昔の人のように大枚を叩いて贅沢すれば好いのであって、日々の食事が美食の求道の観点で及第するほどに美味いのが当たり前だと謂うのは嗤うべき錯覚である。

そんな時代なんて、これまで一度もなかったのだし、これからもないだろう。

そのような錯覚を正当化するのが自然礼賛で、これは裏を返せば「喰い物を不味くした近代」に対する拒絶反応だと謂う言い方も出来るだろう。「近代技術が自然をスポイルしたから喰い物が不味くなったのだ、近代以前の人々は自然と共生し美味いものを喰って健康に長生きしていたのだ」と謂うありもしない過去の捏造である。

少なくとも、幕末や明治期の一般庶民の写真を視る限り、近代以前の日本人の体型は貧弱で歯も弱くとても健康とは謂えなかった。遺伝的に体質に恵まれなかったものは容赦なくどんどん死んでいったのであり、結果的に心身壮健な個体だけが生き延びたから昔の日本人は頑健だったと謂う錯覚が在り得るだけである。

たとえば米なんてのは近代になって美味くなった食材の代表格だと思うが、昔の日本人が日常的に喰っていた米が標準米より美味かったと考える根拠はない。そう謂う相対的に美味くない米を炊いて、漬け物か目刺しの塩気で毎日毎日三度三度の飯を喰っていたのが昔の日本人の食生活である。

さらに謂えば、それは比較的所得水準の高い都市住民の話で、農村部になると米は大事な生産物であり租税であるから、雑草に毛の生えたような雑穀を混ぜて嵩増ししたような主食を喰って露命を繋いでいたわけで、時代を遡れば遡るほど人間の食生活は貧相で不健康なものになる。

現代人が空想するような「自然と共生していた佳き時代」なんてものは何処にも存在しないのである。

大分話が横道に逸れたが、たとえば美味しんぼの原作者の雁屋哲は昔「若いうちは不味いものを三度喰うより、一回美味いものを喰ったほうが好い」と謂うようなことを言っていたと記憶しているが、これは間違った考え方ではない。美食と謂うのは、本来個々の食の体験の価値を高める為の自己研鑽なのであって、健康の観点で謂えば、不味いものを三度喰ったほうが美味いものを一回喰うより健康に良いのは当たり前である。

いずれ年齢を重ねて所得が向上すれば、日に一回しか味わえなかった美味が三回喰えるようになる、その分個人が享受可能な価値体験が豊かになる、その為に若いうちから元手を掛けろと謂うのは、芸事の文脈では正しい考え方である。

そのようにして、不健康であろうが何だろうが、自己の感覚を研鑽し、知識を蓄え、経験を積むことで、或る特定の価値体系の中で価値の高い体験を享受することが出来る、これが美食と謂うものの正体であり、それ以上でも以下でもない。そのことさえ忘れなけば、美食と謂う芸事にはそれほどの害はないのである。

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コメント

まさに、昔の農作物、食品についての認識はその通りだと思います。現代日本人が長寿命であるのは、食という一面から見れば、日本の伝統食に美味く西洋などの食を取り入れ、独自の文化としてバランス良く発達させてきたからといえるわけです。

そんな中で、「舌が肥える」というのは色々な食材や味を経験することでそれらの「味覚」としての知識が蓄積されていくことではないかと思います。

しかし、学生時代体育会系の部活をやっていた頃は塩辛く脂っこい食い物がうまくてたまりませんでしたが、今ではそう言う味付けの学生向け食堂へ行くと胸が悪くなって少ししか食べられません。これも「舌が肥えた」からでしょうか(笑)。

投稿: がん | 2009年9月21日 (月曜日) 午後 04時09分

>がんさん

>>現代日本人が長寿命であるのは、食という一面から見れば、日本の伝統食に美味く西洋などの食を取り入れ、独自の文化としてバランス良く発達させてきたからといえるわけです。

以前話題に出た地産地消運動なんかも、地道に地方農村部の人々の食生活を改善してきたわけですよね。そのような活動によって、間違いなく現代人は昔の人々よりも健康で長生きが出来るようになったはずですが、或る種の人々はどうしても現代人が嘗てなく不健康なのだと思い込みたがっているようです。

長寿命化すれば高齢化に伴う病気が多くなってくるのは当然なんですが、それをたとえば「癌が増えた=不健康になった」と強弁するような幼稚な主張もあるわけで、この件については以前NATROM先生もエントリを上げていますね。また、中高年の成人病が増えたことはたしかに食生活の変化とも関係がありますが、直接には不摂生なライフスタイルの問題が大きいですし、第一近代以前の中高年はすでにいつ死んでもおかしくない年齢域だったわけですね。

マクロビなんかでも日本の伝統食は完全だと謂う立場のようですが、栄養学的に完全な食生活なんてのは近代以前には在り得ないわけで、「ありもしない過去の捏造」と謂う欺瞞のパターンは食の分野では定番とも謂える詐術ですが、それは、未来の人々の幸福を願って努力してきた先人たちの営為を理不尽に貶める行為だと思います。

また、近代以前の農法の問題で謂えば、寄生虫病の問題も無視出来ませんね。日本人の大半が腸内に何らかの寄生虫を飼っていたわけで、栄養状態は窮めて不良だったと謂うふうに聞いています。

>>これも「舌が肥えた」からでしょうか(笑)。

いや、多分、肥えたのは舌ではなく下だと思います(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年9月21日 (月曜日) 午後 05時01分

こんばんは。言及ありがとうございます。(テレっ)
一応、お約束ですのでお答えいたしますと、毒きのことされる、テングタケは旨かったです。それと、ちょっと古いキノコナビのような本を読むと、『大量に食べるとお腹をこわすので注意』といった内容が書かれている事があるのですが、現在では毒成分が同定されているケースがよく見られます。でも、旨いのですよね。

このエントリは(も)大変参考になりました。
拙エントリ、『期待』http://d.hatena.ne.jp/doramao/20090906/1252241410
このエントリでは、自分の予想通りを求める欲求が味覚に与える影響を書いてみたのですが、所謂『美食文化』の段階以前では、どうだったのだろうと疑問が湧いてきたりしてとても面白かったです。

>美食と謂うのは、本来個々の食の体験の価値を高める為の自己研鑽

芸事としての美食であれば、当事者や娯楽の鑑賞者を超えて適用されるものではありませんものね。その辺の誤解というか、未必の故意というか、なんとなく感じるイヤラシサはそこからやってくるのかも知れないなぁ、と思いました。

今飲んでいるキノコ汁はとっても旨いです。この美味しさ、みんなにも伝えたいという気持ちは大事ですが、そこに『栄養・健康』や『日本人は』だのを持ち込むからおかしくなるのかもしれませんね。

投稿: どらねこ | 2009年9月21日 (月曜日) 午後 08時46分

>どらねこさん

どうもです。やはり、マクロビや食養関係については、どらねこさんのところを一読して戴くのが一番だと思いますので、便利に使わせて戴いています(笑)。

>>一応、お約束ですのでお答えいたしますと、毒きのことされる、テングタケは旨かったです。

シイタケのうまみ成分であるグアニル酸なんかはうまみ調味料なんかにも配合されていて無害ですが、うまみ成分自体に毒性があるキノコもあるんじゃなかったでしたっけ。つまり、美味しい毒(笑)。そう謂う意味で、人間が味覚でその対象が飲食可能かどうかを判断していると謂う説明にはちょっと頷けない部分があります。じゃあ、飲食不能な味ってどんな味なんだよ、と。

>>このエントリでは、自分の予想通りを求める欲求が味覚に与える影響を書いてみたのですが、所謂『美食文化』の段階以前では、どうだったのだろうと疑問が湧いてきたりしてとても面白かったです。

いろいろ調べてみると、特定の食味や風味が「美味い」か「不味い」かの判断には、観念が深く関わっているような話もありますね。それまで味わったこともない味を経験した場合、たとえばそれが一般的に「美味い」と見做されているか「不味い」と見做されているかと謂う認識は、人間の味覚体験に大きな影響を持っているのではないかと思います。

これは、観念だけで美味い不味いが決まっていると謂う話では勿論ないですし、生理的に快感を感じる味覚的刺激と謂うのは勿論存在して、だからうまみ調味料なんかの問題も出てくるわけですが、美食の分野で一般的に「わかりやすい美味さ」として低く視られている味覚的刺激以外の、「複雑精妙な味わい」みたいな味覚体験と謂うものは、かなり観念の影響が大きいのではないかと思ったりします。

たとえば、ブルーチーズの青カビを美味いと感じるかどうかと謂うのは、これはかなり観念が決定している部分が大きいんではないかな、と。それを美味いと感じる感じ方が在り得ると謂うのはわかるんですが、それはたとえば土や砂を喰いたがる異常嗜癖と何処が違うのか、と謂う問題ですね。

本文で猫とコンビニ袋の例を挙げましたけれど、かなりマイノリティだとは謂え、一定の割合で土や砂を好んで喰う人が存在しますよね。それはカビを美味いと感じる感覚と何処が違うのかと謂えば、まず喰って安全かどうかと謂う基準もありますが、最終的にはそう感じる人が多いか少ないか、そう謂う問題に決着するように思います。

なので、芸事としての美食の文脈では、至高の美味と謂うのは訓練と学習によってしかもたらされないのだろうと思います。美食の概念体系において美味と見做されている味覚情報を十全に感受すること、その為に感覚を研ぎ澄まし、知識を蓄積し、経験を積むことで、調理人と食客との間に味覚を介した濃密なコミュニケーションが成立し、それが一皿の料理を味わう際に深い感動をもたらす。そう謂う種類の概念体系だと思うんですよ。

>>その辺の誤解というか、未必の故意というか、なんとなく感じるイヤラシサはそこからやってくるのかも知れないなぁ、と思いました。

そうですね、何と謂うか、「美味いだけじゃ何故ダメなの?」って話なんですよね。

喰い物が美味いと謂うことが、単なる贅沢な口福と謂う意味を超えて他の文脈でも力を持っていて絶対的に正しいのだと主張し始める辺りから、どうにも胡散臭い虚構が始まるように思います。

健康に良くてしかも美味しく、と謂ういいとこどりの発想が間違っているとは毫も思わないんですが、それがいつの間にか、健康に良ければ美味い、美味ければ健康に良い、健康に悪いものを美味いと感じるのは間違っている、と謂う循環論法に化けると途端にイヤらしい「思想」になるんだと思います。

マクロビだって、日本の伝統食にも栄養学的に優れた一面があると謂う程度の強度の主張なら誰も反対しないはずですし、その半面では決定的に欠けている部分や過剰な部分があるから、それを見直して洋食の優れた部分も採り入れていこう、と謂うのが地産地消の食生活改善活動だったわけですね。

ところが、マクロビオティックはワケのわからない非合理な理屈を附けて、日本の伝統食は完璧だったのだ、西欧文明の流入がその完璧を損なったのだ、と謂うイビツな歴史観を圧し附けてくるわけです。これはもう、芸事ではなく思想なわけで、思想で喰い物を云々されるのは真っ平だと謂う強い反撥を感じます。

>>今飲んでいるキノコ汁はとっても旨いです。この美味しさ、みんなにも伝えたいという気持ちは大事ですが、そこに『栄養・健康』や『日本人は』だのを持ち込むからおかしくなるのかもしれませんね。

美味いと謂うただそれだけであることを、恥じたり物足りなく感じたりする必要なんかないんですよね。健康に悪かろうが何だろうが美味いものは美味い、本来これが食通の矜恃だったはずで、海原雄山のモデルになった北大路魯山人なんてのは、やめとけと言われながら無闇にタニシなんかを喰って肝臓ジストマで死んだわけですから、これこそが美食家にとって覚悟すべき「末路哀れ」であるはずなんですよね。

この一瞬の美食の快楽の為なら次の瞬間に死んでも好い、そのくらいの業に憑かれている「異常者」が美食家の果てであるべきで、魯山人の末路には、たまにそこそこ美味いものを喰って健康で長生きしたいと謂う俗人の望みとは対極にある、体験の価値を極限まで高めたいと謂う異常な執着があるわけで、その苛烈な聖俗の対立を安っぽい自然崇拝の作り話で調停しようなんてのは、単なる怯懦にしか思えません。

投稿: 黒猫亭 | 2009年9月21日 (月曜日) 午後 09時54分

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