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2009年10月 2日 (金曜日)

モダンなホラー

今回は久しぶりに落語の話だが、厳密に言うと落語ダネではあっても講談師が語っているので講談と謂うことになる。すでに時季はすぎてしまったが、タイトル通り怪談の話である。

ポッドキャスト落語の老舗格「ニフ亭寄席」が配信を停止して以来、残ったメジャーなポッドキャスト落語はフジテレビの「お台場寄席」とピザハットの「ピザハッ亭」だけになってしまったが、ピザハッ亭のほうは演者が好みではないのと更新頻度が少ないのが難で、毎週曲がりなりにも楽しめるのはお台場寄席だけになった。この他、落語協会のインターネット落語会でも落語を動画配信しているが、これはDL不可なのでPCがないと観られないと謂うハンディがある。

このエントリの為に久しぶりにニフ亭のサイトを覗いたら、有料コンテンツ化に向けて検討を重ねているようなので、ご興味のおありの方はポチッとして戴けると有り難い。二つ目中心の人選なので、一本一〇〇円くらいだとちょっと微妙だが、まあ多分ペイするのがその辺りなんではないかと思う。

さて、お台場寄席のほうは落語に限らず寄席芸能を幅広く採り上げるのが特徴で、逆に謂えば講談や色物の割合が多くて落語ファンには少し物足りないところもある。まだしも講談や漫談・漫才なら話はわかるが、奇術なんかまで音声配信するので、つまらなくはないものの、もう少し落語が多くても好いんではないかと思う。

先週の配信は一龍斎貞水の「江島屋怪談」で、恥ずかしながらこの配信の解説で初めて識ったのだが、講釈・講談の世界でもこの一龍斎貞水が人間国宝に指定されているとのことである。六十代半ばのことであるから、落語界の二人よりも一回りくらい若くして指定を受けている。

知名度で謂えばたしかに近年の講釈師の中では群を抜いているだろう。夏場になると稲川淳二と並んで忙しくなる人で、真っ暗な高座でフットライトで不気味な表情を演出しながら鳴り物などで外連味たっぷりに古典怪談を語る禿頭の講談師、と謂えば誰でも顔を想い出すだろう。深夜番組なんかだと、貞水が大きく声を張る怪談のクライマックスで、スタジオの二重から木偶人形が降ってきて雛壇の女の子がキャーキャー泣き喚くと謂う定番のパターンが今でも視られる。

この人は「怪談の貞水」と綽名されるほどの怪談の名人で、オレはTVでしかこの人の口演を観たことがないが、子供の頃から今に至るまで怪談以外の演目を演じているのを見たことがないくらいである。今年で古稀と謂うことだが、何だか若い頃から殆ど風貌の変わらない芸人で、大昔からこんな顔をしていたように思う。

四十代くらいから顔を識っていて、いつ見てもまったく見た目が変わらないから、そんな「若い」人が人間国宝だと謂われてもピンと来ないのだが(笑)、ガキの時分にこの人の口演を通じて圓朝の怪談を識ったので、何処かで記憶が混乱して三遊亭圓朝と謂うのはこう謂う顔をした人だろうと長いこと思い込んでいた(笑)。今に残る圓朝の肖像写真を視ると貞水の風貌とは全然似ていないが、ガキの勘違いなんだからそんなことは当たり前の話である(笑)。

演者の紹介はこのくらいで切り上げて、ここでたっぷりと寄席芸能と怪談の歴史性について語り倒したいのは山々だが(笑)、それではいつまで経っても本題に辿り着かないのでさっさと本題に切り込むと、この「江島屋怪談」と謂うのはよく考えるとかなり異色の構造を持つ怪談である。

講談にしろ落語にしろ、怪談と謂うのは一種勧善懲悪の因果話で、悪い奴がいて被害者がいて、理不尽に苦しめられ殺された被害者が悪い奴のところに化けて出て仇を討つと謂う構造の話である。それはこの江島屋怪談でも共通しているのだが、一般的な怪談と違うのは、悪い奴と被害者の間にほぼ面識がなく、その「悪事」と謂うのは直接被害者を殺したとか謂うものではなく、現在で謂う「製造者責任」に関する悪徳商法だと謂う部分である。

つまり、悪い奴のほうでは不特定多数を相手に悪徳商法を展開していて、それが間接的に被害者に不幸をもたらすのだから、直接的な面識はないし対面的な関係において被害者を苦しめたわけではないのである。外題にある江島屋と謂うのは古着商で、悪徳商法と謂うのは火事場で焼け残った劣化した衣類を安く買い取って、良品に見せ掛けて高く売ると謂うもので、同じ小悪党の悪事でも切り取り強盗を働いたとか邪魔者を殺したとか謂う悪事よりも随分せこい。

前掲の粗筋をお読み戴ければわかるが、この江島屋が見知らぬ母子に祟られることとなる因縁話と謂うのも随分廻り諄くて、この粗筋(つまり圓朝版)では雨に降られたから糊が溶けたことになっているが、貞水の口演では時間の関係で粗筋の「下」に当たる部分から説き起こしていて、娘が恥を掻いた原因も酔った客がうっかり花嫁衣装の裾を踏んでしまった為に衣裳の下半分が破れてしまったことになっている。

結局のところ、イカモノを掴まされたことまで含めて、この娘は重々運が悪かったと謂うところに落ち着くわけだが、この一連の悲喜劇的なプロセスの中で、人間の悪意が関わっているのがイカモノの花嫁衣装を騙して売り附けた古着商なので、廻り諄い因縁ながらこの結末一切の恨みつらみが江島屋に降り懸かるわけである。

この噺のすっきりしない部分と謂うのはそこで、如何に急に降って湧いた縁談で時間がなかったからと謂って、器量望みの縁談なのに花嫁衣装を貧乏な嫁方のほうが用意していて、しかもそれが古着だと謂うのがどうも噺の構成として作為的であり、しかも花嫁が恥を掻いたのに舅が怒り出して縁談が流れると謂うのがかなり不自然だからである。

倅が娘に一目惚れして死ぬだ生きるだと騒いだから嫁にくれと謂う話になったのであるから、名主一家ともあろうが花嫁衣装の一着も用意してやらなかったと謂うのもケチな話であるし、倅の生き死にが掛かった縁談なのに、祝言がぶちこわしになったと謂うだけで破談になると謂うのもどうなんだと謂う話で、そもそも大騒ぎして嫁に貰おうとした倅は縁談が流れてどうなったのか、娘に死なれてどうなったのか、と謂う話も有耶無耶であるから、突き詰めて考えれば名主一家が一番悪いじゃないか、と謂う見方も可能である。

そう謂う意味であんまり出来の良い怪談だとも思わないのだが、面白いのは、そう謂う不自然な構成にしてまで、不特定多数に対する悪徳商法の商売人が、たまたま製品事故を起こした見知らぬ消費者に祟られると謂う話に仕立てているところである。

一対多と謂う加害被害の構図で怪談を仕立てるなら、普通は悪党である一者を権力者や豪商などの絶対的強者に設定するのが普通である。強い力で多くの人々を惨たらしく苦しめた強者が、不特定多数の中でも取り分け悲惨な目に遭った弱者に祟り殺される、こう謂う構図であるほうがすっきりした話になるだろう。

人の一念に祟られるほどの悪事と謂うのは、やはり殺人やそれに準じる悲惨な状況がもたらされねばならないが、それほど重大な悪事を不特定多数に対して為し得るのは権力者や大富豪や任侠集団のような極々の強者以外在り得ないからである。

一方、悪徳商法もまた一対多の加害被害の構図であるから、悪人が見知らぬ他者から祟られると謂う物語を仕組む余地があることはたしかであり、しかも悪人のほうでは予期しなかったがいずれ当然もたらされるであろう事故の酬いで祟りを蒙ると謂う斬新な趣向の噺になる、そこに目を附けた圓朝は慧眼の士と謂えるだろう。ミステリのタームに倣って謂えば、「プロバビリティの因縁話」である。

しかし、圓朝の時代の悪徳商法と謂ってもこの江島屋のようにイカモノを騙して売り附けるくらいのところが関の山で、被害と謂っても或る種多寡が知れている。本来ならば「イカモノを掴ませやがって」「カネを返せ」と怒鳴り込んで、口論になったり公事沙汰になったりが穏当なところで、人一人非業の死を遂げるまでの悲劇に発展するには、この話のような無理筋を仕立てる以外にはなかっただろう。

怪談の因縁話として考えると、「どうーなってるの?!」や「こたえてちょーだい」の失敗談みたいな話なのでどうしても微妙な気分になってしまうわけで(笑)、今の感覚で謂うなら「ウェディングドレスの裾を踏まれてパンツ丸出し」みたいな話だから、音声を変えた声で「恥ずかしいなんてもんじゃないですぅ、もうあのときのことは一生忘れられませんね、けらけらけら」みたいな笑い話にしかならないわけで、昔はそんなことで人が死んだんだねぇ、くらいの印象である。

この辺のところで大体お察し戴けていると思うが、圓朝が現代の人だったらさぞかし因縁話のタネに事欠かなかっただろう、と謂う辺りが今回の落とし所である。この江島屋怪談の心霊的な部分を除いて語るなら、ウールリッチの「喪服のランデヴー」と似たような構造の噺になるだろうが、この場合は「復讐される者が自身の行為の結果を識らない」と謂うシチュエーションによって「身に覚えのない恨みを買う」と謂う不条理感やサスペンスが興趣となるが、心霊的な怪談で、しかも悪徳商法と結び附くことによって別の観点の興趣が立ち上がってくる。

たとえばウールリッチの例のように「飛行機から空き瓶を投げ捨てた」と謂うのは、それだけをとってみれば無思慮な行為に過ぎないが、たまたまそれが一人の命を奪ってしまったことで復讐の連鎖が始まるわけである。これは、悪事の卑小さと結果の重大さのバランスが破れている為に、一種復讐が達成されてもカタルシスのない不条理な悲劇を構成する。

しかし、悪徳商法の場合には最初から欺罔の悪意が存在するわけで、程度の差こそあれ被害者が苦しむことは予想の範疇であるから、「予期せぬ事故」と言ってもそれは単に程度問題であるに過ぎない。江島屋怪談のすっきりしない感じと謂うのは、偶然の巡り合わせで最悪の結果に終わった一件の中で、明確に悪事を働いたのが江島屋だけだったから祟られたと謂う部分で、これもやはり悪事のチンケさと結果の重大さのバランスが破れているのですっきりしないわけである。

だが、今なら、十分悪事と結果の重大さのバランスがとれた悪徳商法は枚挙に暇がないのだから、幾らでもこの種の怪談が作れるだろう。

たとえばこれは、無限連鎖講なんかでも比較的下世話な因縁話を作りやすいが、ニセ科学商法の場合にはもっと劇的な噺になるはずである。ニセ科学商法の場合、大本の仕掛人はもとより、中間で媒介するビリーバーもまた、ニセ科学商法のもたらす末端における個々の悲劇的状況とは距離がある。だからこそ、ニセ科学商品が人々に幸福をもたらすものだと強弁出来るわけだが、怪談の物語構造では、現実的には距離のある行為と結果の因果関係を虚構的な原理で直結する機能がある。

ニセ科学がどのようにして人を不幸にするのか、それは識りたいと思わなければ識らないで済む事実である。「善意のビリーバー」は、それをどれだけ説明されても一切耳を貸さないのだし、自分に都合の悪い事実を識りたいとも思わない。その不誠実さが大きな悪でも在り得るわけである。

しかし、結果のほうから強制的に行為者に対して直接責任を取り立てにくるのが怪談の物語構造である。たとえばpoohさんどらねこさんが採り上げられたホメオパシーと助産師の問題にしても、原因と結果が虚構的な原理で直結されて強制的にその事実を知らしめられ責任を問われるのが怪談の原理である。

たとえば、脳天気に「ホメオパシーは有望な代替医療」とか公言している「自称医療政策通」みたいな輩を視ると、感情レベルでは、このお子さんを亡くされた方のもとへ襟首掴んで引っ立てて行きたい気持ちになるが、ニセ科学を無思慮に推奨する者たちは決してニセ科学が不幸にした人々の悲惨な現実と向き合おうとはしない。

雲一つない青空の彼方にある嘘っぱちの幸せばかり視て、足許でいろいろなものを踏み附けにしていることに気附こうとしない。その鈍感さが憎い。所詮は感情論ではあるのだが、そう謂う無責任な人々が強制的にその無思慮な行動の結果と向き合わされる機会があれば、さぞかし溜飲が下がるだろうと想像しないでもない。

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コメント

>>器量望みの縁談なのに花嫁衣装を貧乏な嫁方のほうが用意していて、しかもそれが古着だと謂うのがどうも噺の構成として作為的であり

>>名主一家ともあろうが花嫁衣装の一着も用意してやらなかったと謂うのもケチな話であるし

書き上げてからよく粗筋を読むと、一応名主側から五十両の支度金を出していて、四五両二分も出してイカモノを掴まされているんだねぇ。こいつはうっかり。古着なのは急場の婚礼だったから、と謂う説明もあったし、一応その辺の理由附けはしているわけだが、大筋の印象はあんまり変わらないなぁ。

やっぱり、たしかに詐欺は詐欺で悪いことなのだが、花嫁衣装がイカモノだったせいで不幸になったと謂うほど直接の因果関係が感じられないからだろうと思う。詐欺を恨むのと娘が死んだことを恨むのは、本来別立ての問題のはずなんだが、そこの筋道が「これと言うのもあの古着屋が」と混同されているのが八つ当たり的に感じられて気持ち悪いと謂うか。

どちらかと謂えば、幾ら時代性が違うとは謂えその程度のことで自分から持ち掛けた縁談を破談にした名主のほうに祟るのが本筋じゃないかと謂う気がするんだよなぁ。

投稿: 黒猫亭 | 2009年10月 2日 (金曜日) 午後 03時42分

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