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2009年10月19日 (月曜日)

本音と建前

構造改革マンセーの論調に辟易して最近殆ど読んでいなかった日経ビジネスオンラインだが、今週のメルマガに先日のエントリに関連した記事が紹介されていたので、久しぶりに読んでみた。

「家族的経営」と「心中」したがる私たち

小田嶋隆の連載コラム「ア・ピース・オブ・警句」の最新記事であるが、先日亀井静香が「家族間殺人が増加したのは経団連の責任」と発言したことを論じている。勿論この論者だから、体感治安悪化論関係の思い違いもなく、戦後一貫して殺人事件件数が減少しており、家族間の殺人も減少しているが、その両者の減少の割合が違うことで「家族間の殺人が増えている」と謂う見え方になるのではないか、では何故家族間の殺人の減少の速度は鈍いのかと謂えば、それはイエ制度の影響や無理心中に寛容な風潮と関係しているのではないか、と推測しているように思う。

小田嶋隆の芸風はhietaro さんのところの「名言集」における断片的なフレーズでしか識らないのだが、サブカルっぽい砕けた語り口でズバズバと「ご尤も」な指摘を積み重ねていく辺り、説得力はあるのだが、ちょっと首肯出来ない意見もあった。

とにかく経団連は、雇用の確保と労働条件について責任を持ってくれれば良い。
それ以上の責任は無い。

実質的にはその通りである。国家における企業の最大の役割は、雇用を安定的に創出することで、そんなことはどうでも好いと謂うのであれば、国家のほうで企業の権利を保護する謂われはない。国民の三大義務と謂うのは、憲法上は教育・勤労・納税と謂うことになっているが、教育の義務と謂うのは次世代育成の義務だし、勤労の義務と謂うのは現在の社会活動にコミットする義務で、納税と謂うのは国政を維持する義務だろう。

この内企業が関わっているのは勤労と納税の義務で、企業が国家において求められる役割を果たすのであれば、勤労の義務の履行の受け皿を用意し、収益の拡大に伴って国庫に妥当な財源を提供する義務がある。経団連の主張は、この先は安定した雇用を創出するのは無理だし、法人税を減免してくれないと困ると謂うものだから、憲法上期待されている義務の履行をほぼ拒絶しているわけである。

当該記事の前段において小田嶋隆は、

企業の拝金主義については、これ以上突っ込まない。自明だからだ。いったいどこの国の企業が人間を「利益を上げるための道具」以上の存在として扱うだろうか。冗談ではない。経団連に慈悲心を期待するのは、木に縁りて水を求むるのと同じ。感傷に過ぎない。無い袖は振れない。見当違いお門違い。思い違い考え違いの間違いだと思う。

…と明快に斬って棄てているが、これは亀井静香が発言した「責任追及」の是非を論じる文脈上では間違っていないが、筋論的には不十分な指摘である。亀井静香の発言によれば、「家族間の殺人の増加は、企業が従業員を人間扱いしなかったことで非情な風潮が醸成され、家族間の絆が破壊されたことによるもの」としているから、その文脈上で考えれば、なんで利潤追求組織である私企業が、従業員の人間性の涵養や情緒的な社会風潮にまで責任を持たなきゃならないんだ、と謂う話になる。

家族間殺人が増加したように見えること、言い方を変えれば、一貫して減少する殺人件数の中で家族間殺人だけ減少の幅が少ないことに理由があるとすれば、寧ろ家族と謂う共同体を特権視し、尊属による卑属の殺人に寛容な社会風潮こそが批判されねばならないと謂うロジックである。

まあこれはこれで一面の真理ではあるだろう。ただ、引き籠もり系ライターと謂う芸風もあるのかもしれないが、小田嶋隆が依拠しているのは、一種極端な個人主義と謂うか消極的社会参加のロジックである。

企業が従業員を「利益を上げるための道具」と視ていることを指摘すること自体は何も間違っていない。企業と謂うのはそう謂う論理で成立しているものだからである。しかし、それは企業の当事者的視点における都合論であって、国家や社会の中で占める位置附けについての視座が入っていない。

先ほど挙げた国民の義務に絡めて謂えば、憲法で国民に勤労の義務が課されている以上は、企業の側ではその受け皿を用意する社会的責任がある。であるなら、それと幸福追求の権利とのセットで、前掲の「雇用の確保と労働条件について責任を持ってくれれば良い」までは首肯出来るが、それに続く「それ以上の責任は無い」と謂うのはかなり違うだろうと思う。

この記事全体のロジックでは、最終的に日本のイエ制度がもたらした前近代的な社会風潮のようなものに原因を求めているが、じゃあその風潮を維持している主体は誰かと謂えば個々の国民である。さらに、何故個々の国民がその種の前近代的な社会風潮を維持しているのかと謂えば、それは「世間」にそのような感情を肯定する同調圧力があるからだと考えることも出来る。

無名の個々人の集まりが曖昧な集団として括られることで発生する「世間」と謂う場の力が、個人の主義主張を超えて特定の社会風潮を醸成している、そう謂うことになるだろう。ではこれをどうすれば好いのかと謂えば、個々人が責任ある主体として社会にコミットしてそのような社会風潮を批判することしかないだろう。世の中が自然に変わるのを待って何もしなければ、多分何も変わらない。何もしなくても変わったのだとすれば、それは「偶然」変わったのであるから、いつまた「偶然」逆行するかわからない。

つまり、何もしないで変わるのを待つと謂う姿勢は、言い方を変えれば無前提の現状肯定と何ら変わりがないと謂うことになる。個々人が「偶然」現出された現状に満足するか不満を覚えるか、それだけの違いだと謂うことになる。変わることに必然を求めるのであれば、主体的・継続的なアクションによって変えなければならない。

これを個人の社会に対する責任と謂うふうに視ることが出来るだろう。

では、社会風潮と謂うのはすべて個人と謂う単位に責任が一元的に還元されるのかと謂えば、それは違うんではないかと思う。個人は社会に責任を持っているけれど、組織はそんな責任なんか持っていないと謂うのもおかしな話である。組織、就中私企業と謂う単位もまた社会に責任を持っているのだし、その責任を果たしてこそ企業都合における利潤追求が許されると謂う筋道ではないかと思う。

個人の視点で視ても、誰も社会的責任を果たすのが楽しいからアクションを起こすのではないだろう。まあ、中にはそう謂う人もいるんだろうが(笑)、極普通の個人が社会的責任を履行しようと努めるのは、そうすべきだと謂う理念があるからである。たとえばブログで意見発信したからって一足飛びに社会が変わるわけではないが、出来る範囲で可能な限り有効なアクションを起こすと謂うことではやらないよりも随分マシだろう。

たとえばオレみたいなろくでもない人間がブログでご高説を垂れたからと謂って、何万人もの人間の意識がいきなり変わるものでもない。精々一人か二人の考えが変われば儲け物くらいのところだろう。一人か二人の人間の考え方を変えるのであれば、実生活における直接的なコミュニケーションで親しい人間の考えを変えていけば好いと謂う言い方もあるが(笑)、そのくらいのことは一応しているつもりである。

ネットで意見発信する意味と謂うのは、縁もゆかりもない不特定多数の人々に向けて訴えることで、幾らか実体的コミュニケーションよりも効率的に多様な意見を社会に伝えることが出来ると謂う観点で有意義なんだと思うが、それはまあさて措き、この程度のことでも一応何らかのコストは懸かるわけである。誰かが反応してくれて、自身の知見を深められる有意義な意見交換をするのが楽しいと謂う側面もあるが、望まざる議論や感情的トラブルに巻き込まれるリスクもある。

元々オレは個人主義者だし相対主義者だから、本当はろくでもない一個の特ヲタで一向に差し支えないのである。ただ、ブログを開始した当初は、小泉政権の政策について何も発言しなかったし、社会問題についても基本的な理解を得る為の情報を収集するのが面倒だから何もコメントしなかった。で、結局当時の怠慢のツケが廻ってきて今や非道い目に遭っているわけで、個人に求められる社会的責任と謂うのは絵空事ではないことをこの歳になって思い知ったと謂うわけである。

近年幾らか積極的に社会問題にコミットしているのは、別段それが楽しいからではないし、誰かを糾弾すれば気持ちが好いからでもない。こんな人間でも一応社会の隅っこで何とか生きている大人なのだから、今の社会に良くないところがあれば、それは今やオレの親とか祖父母の世代の責任ではなくて、すでに大人であるオレの世代の責任だと思うからである。

で、個人のレベルでこんな責任が求められるのに、組織のレベルでは責任なんかないんだなんて話は、少なくとも筋論的には通らないよ。そんなことを言い出すんなら、個人だって自分都合の幸福を追求する為に生きているんであって、社会の為に生きているわけでも何でもない。オレだってトクサツとかドラマとか映画の話だけしていたほうが楽しいんだし、小難しい社会問題のことなんかホントは考えたくはない。面白い娯楽を楽しんで、美味いものを呑んで喰って、オレが毎日楽しく生きられればそれで好いんだ。

しかし、そんなわけにはいかないだろう。それは要するに、社会がオレ個人を楽しませる為にだけ存在するのだと考えることと何の違いもない。オレのような半端な人間が何とかこの歳まで生きてこられたのは、問題を抱えながらも社会がちょっとずつ良くなっていったからだし、それは抛っておいても勝手に良くなるわけではない。

企業が利潤追求の為に存在すると謂うのはたしかに当たり前のことであるし、従業員をその為の道具と視ているのも当たり前のことである。しかし、だから企業なんてそんなモンで仕方ないんだなんて話にはならないわけで、社会に対する責任が個人に求められるのなら、組織や集団にだって求められるのが当たり前、と謂うのも一方の筋道ではあるわけである。

本題の小田嶋コラムの問題に戻るなら、尊属殺人を厳しく罰し卑属殺人である無理心中に甘いと謂う判例の傾向がたしかにあるのだとして、それを容認する暗黙裏の社会的風潮が潜在するのだとして、そのように想定したとしても、たとえば顔のない無名の群衆としてではなく一個人として意見を求められて無理心中を肯定する人は少ないだろう。

無理心中は殺人なのだし、殺人は如何なる場合も容認されてはならないと謂う筋論は誰だって理解しているのである。「でもなぁ」と謂う本音の部分で、何となく尊属殺人は他人同士の間の殺人や卑属殺人よりも許し難いように感じたり、無理心中は単純な人殺しとは違うと曖昧に感じる部分が問題なわけで、顔のない群衆の一人になった途端にその建前を翻すことが問題なのである。

そう謂う意味では、「企業は利潤追求の為に存在する」「従業員をその為の道具と視ているのは当たり前」「だから企業には社会的風潮の醸成に責任はない」と謂うことを、少なくとも建前上は当然視してはならないとオレは考える。それは要するに、顔のない群衆が「尊属殺人は厳しく罰するべき」「無理心中は殺人とは違う」と曖昧に考えているのと同階層の「本音」の都合を肯定することである。

繰り返しになるが、企業は自己都合の本音丸出しでも構わないが、個人は建前を通さなければならないなんて偏った理屈は通らない。企業の事業活動が何らかのネガティブな社会風潮の醸成に寄与しているなら、やっぱり責任は問われるべきなのだし、企業活動は可能な限り社会全体の公共福祉に貢献するものであるべきだ、と謂う筋目は外してはならない。

これは実は、市場原理主義とも矛盾しない考え方であって、たとえば以前のエントリのコメント欄で有意義な資料をたくさん紹介してくださったYJS さんがせとともこさんのブログで紹介しておられた書籍のサマリー(PDF)でも、企業活動や市場原理が必然的に社会正義と整合する根拠として「評判」の重要性を挙げている。

つまり、不正義な企業の商品は買わない、大義に則った企業の商品は積極的に買う、と謂う消費者のアクションによって、経済原理以外の価値観が市場原理に組み込まれていると謂う理屈である。これはコーズ・マーケティングやCSRなんかにも通じているわけで、別段正義の味方の善人揃いの企業でなくても「そのほうが儲かるから」不正義を廃して社会的責任を履行するはずだ、と謂うロジックである。

これはつまり、企業なんて利潤追求の為に何をしても当たり前、と謂う物の考え方とは相容れない。おそらく日本の国情において市場原理が社会正義に反する結果をもたらすとしたら、企業の社会的責任に対する諦念があるからではないかと思う。不正義な企業の商品でも、物が良くて価格が安ければ買う、これもまた一種の合理性であるが、それでは市場原理が社会的正義と整合するはずがない。

逆に謂えば、「期待される社会的責任を企業が果たさない限り絶対儲けさせない」くらいの厳格な社会風潮でもない限り、企業の自己都合を動機とする利潤追求活動はいずれ間違いなく社会的正義を侵犯するのは当たり前である。

そう謂う危うい要素を組み込んで成立している時点で市場原理主義と謂うのはかなり胡散臭いところがあると思うが、それはそれとして、社会の側に企業の不正義を許さない厳格な姿勢が必要なことは事実だし、企業の側でも不正義の糾弾を受けない範囲で利潤を追求し、社会的責任を果たしていることをアピールすることでインセンティブが生じるような仕組みが企業悪の抑止力として必要なことも事実である。

企業論理が社会正義と整合しないことに諦念を覚えることは、要するに娑婆にならず者がたくさんいるのは仕方ないから、真っ当な堅気は搦まれないように生きていくしかないんだと言っているのと同じことである。それはやっぱりおかしいだろう。

企業が社会において実体的な領域を占め、その組織の実体を国民の一人である個人が構成している以上、責任自体は当然あるんだよ。外国人が侵略的な破壊活動を行っているんではないんだから。企業組織に何の責任もないから亀井静香の発言が間違っているのではなくて、その種の糾弾は特定の殺人事件を「犯人が悪いんじゃない、社会が悪いんだ」と社会全体の責任に帰すような論理と構造が同じだから間違っているのである。

なので、

企業の拝金主義については、これ以上突っ込まない。自明だからだ。いったいどこの国の企業が人間を「利益を上げるための道具」以上の存在として扱うだろうか。冗談ではない。経団連に慈悲心を期待するのは、木に縁りて水を求むるのと同じ。感傷に過ぎない。無い袖は振れない。見当違いお門違い。思い違い考え違いの間違いだと思う。

これは好いんだ、たしかにその通り。しかし、

とにかく経団連は、雇用の確保と労働条件について責任を持ってくれれば良い。
それ以上の責任は無い。

これは間違っている。企業には「それ以上の責任」があるけれど、本音の都合で言えばそんな責任は果たしたくないし、今のところ日本の社会には、その履行を強制したり企業の履行努力に正当に酬いる有効な仕組みがない、だからあんまり強く社会的責任の履行を迫ることが出来ない、と謂うのが正確な言い方だろう。

これは、市場原理主義に懐疑的な欧州各国はもとより、市場原理主義マンセーなアメリカ「ですら」それを担保する一定の仕組みを具えているから、未だに新自由主義者が幅を利かせているわけであるが、日本にはそんな仕組みは存在しない。

トヨタが如何に阿漕な雇用システムで動いていても、それとトヨタ車の売上は関係ないのだし、国産車の国内販売数が低迷しているのは、単に長期不況の故に生まれたときから生活が貧しかった世代が大人になって、最早嘗てのような「一八になったらクルマを買ってドライブを楽しむ」と謂うライフスタイルに興味を喪ったからであり、苦しい家計をやりくりして長期ローンを組んでまでクルマを買う人が少なくなったからである

一方、雪印が潰れたのは安全管理を疎かにしたことが「不正義だから」ではなく、毎日安心して飲み食いしていたものが、得体の知れない薄気味悪い屑だったことに基づく生理的な嫌悪感や憤りによるものだろう。企業活動の大義がどうこうではなく、商品が悪ければ売れない、カネを取って屑を売り附けたら看板に瑕が附く、日本ではただそれだけの話である。

企業活動の是非と商品の選択は分けて考えるのがまだまだ日本の国情なのだし、商品の風評は命取りのリスクを内包しているが、企業活動の評判と企業の存続はおおむね関係はない。前述の通り、どんな不正義な企業の商品でも、物が良くて安ければ売れる。それはつまり小田嶋隆のように考えている人がまだまだ大多数だからだろう。

だから「それ以上の責任はない」なんて言っちゃダメなんだし、企業なんてろくでもないのが当然と考えるのが現実主義だなんて考えていてもダメなんだよ。なんでそこまで企業に対して「お人好し」になれるんですか、と謂う話である。

はっきり言ってそれは、「子供の個性を尊重する親」が「ウチの○○ちゃんはこう謂う個性なんだから」と言って、万引きをしようがカツアゲをしようが人を殺そうが一切咎めないようなものである。

とにかく経団連は、雇用の確保と労働条件について責任を持ってくれれば良い。それ以上の責任は無い。」と謂うのは、「親なんて子供を喰わせて学校に行かせればそれで好い、それ以上の責任なんかない」と謂うのと同じことで、多分小田嶋隆はおおむねそのような考え方なんだろうが、オレはそれで妥当だとは思わない。

じゃあ、泥棒や人殺しをするような粗暴な資質を持っている子供の社会への適応訓練に対しては誰が責任を持つんだと謂うことになる。それは、教師なのか、警察官なのか、それとも本人の自己責任なのか。

しかし、親が「子供を喰わせて(ry」なら、教師は「子供に勉強を教えればそれで好い」のだし、警察官は「泥棒や人殺しを捕まえればそれで好い」のである。では本人が自助努力で社会に適応すべきなのかと謂えば、そもそも子供には社会に対する責任能力なんかない。何処にも責任の持って行き場がなくなってしまう。極端な個人主義は、要するに他者に対して直接的な筋合いのない責任を引き受けない考え方であるから、社会的な問題を何も解決しないのである。

社会的な責任と謂うのは、「これをする為の代償としてこれをする」と謂う等価交換的な性格のものではなく、人々にとってより良い社会を実現する為の積極的なコミットメントを約束することである。

経団連だって、より良い社会を実現する為の積極的なコミットメントが求められているのだが、欲が絡めば人間は誰だって建前よりも本音が前に出てくるものである。それはやっぱり、社会の側で監視し抑制しなければならないことで、「所詮企業なんてそんなモノ」と斜に構えて現状肯定していても何の解決にもならないのである。

ちょっとしたアイコンタクトをこっそり入れると、これは小田嶋隆の固有の主張に対する「反論」ではなく「対抗言論」であることは断っておいても好いだろう。これはオレと小田嶋隆が直接「対話」する機会なんて最初から想定不能だから、選択の余地はないと謂うことになるが(笑)。

結論部分についての小田嶋隆の記述は若干混乱しているので、彼の謂う「責任」が亀井静香の謂う特定の「責任」と文脈上イコールなのかどうかが明確ではないし、前掲の箇所に続けて、

というよりも、企業は雇用より先のことに関わるべきではないのだ。
従業員の人生観は、元来、会社とは無縁なものだ。
生き方や辞め方も。無論、死に方や殺し方についても、だ。

仮に、貧困が殺人の遠因になり得るのだとしても、それについて企業が直接に責任を負う必要はない。

…とも言っているので、多分小田嶋隆の中でもこの辺の理路はそれほど分明ではないのだろうし、おそらく前段で語られた彼自身の来し方を読む限り、個人に対する組織の過干渉を厭う個人主義寄りのバイアスがあるだろうと謂う推定に基づいて、少し強い調子の対抗言論を置いた次第である。

…つか、実はもっと気に喰わないのは、文藝の文脈上の心中物の評価と、現在只今の無理心中に纏わる社会的風潮を関連附けて語っていることなんだが(笑)。それってホラー映画の流行と猟奇犯罪の増加とか、少女ヌード写真集の流行と未成年に対する性犯罪の増加を関連附けて語るようなもので、まさに「体感治安悪化論」や「割れ窓理論」そのものだぞ。

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コメント

>こんな人間でも一応社会の隅っこで何とか生きている大人なのだから、今の社会に良くないところがあれば、それは今やオレの親とか祖父母の世代の責任ではなくて、すでに大人であるオレの世代の責任だと思うからである。

短いコメントで申し訳ありません。
この件に同調したい欲求が抑えられなかったもので・・・
それだけです。リアルと離れているからこそ、届く台詞もあるわけで、貴重かどうかは別として時間を割いてまでキーボードを叩く毎日だったりします。

おかしいことに対しておかしいと謂えない人々を見て育った子に対し、誰が責任を負うというのでしょうか。

投稿: どらねこ | 2009年10月19日 (月曜日) 午後 09時00分

>どらねこさん

ご意見、ありがとうございます。

今、実はちょっと、個人的な事情で綺麗事よりも泣き言を言いたい気分は腹一杯なんですが、オレの泣き言を聞いても誰の腹も膨れないので、何だかいつもと変わり映えのしない偉そうな話をしております。

>>おかしいことに対しておかしいと謂えない人々を見て育った子に対し、誰が責任を負うというのでしょうか。

ガキの頃は結構大人を恨んで育った子供だったりしたんですが(笑)、その大人だって自分が作ったわけでもない世界の責任を引き受けて頑張っているわけで、そう謂うふうに考えていくと誰を恨めるものでもないんですよね。いろんなところで言っていることですが、大人は穢いと思ったら自分が穢くない大人になれば好いんです。

他人のバイクをかっぱらっておいて、大事なバイクを盗まれた奴の痛みよりも自分のむしゃくしゃのほうが大事なんだと嘯いているガキを視ると、「可哀相に」ってアタマを撫でてやる気にはなれません。それは単に、大人を恨んで全部人のせいにして生きていたガキの頃の自分のアタマを撫でてやるだけのことですから。

投稿: 黒猫亭 | 2009年10月19日 (月曜日) 午後 09時59分

法学にはあまり造詣がないんですが、こう、このへんのところって、企業と云うより「法人」と云う概念から考えるともうすこしすっきりと「求めるべき部分は求められる」と云う理解が可能かも、とか思います。
社会的存在としての自然人に求められるものは、なにも遵法だけじゃないじゃないですか。法人格を持つ以上、企業が所有するのは法的な権利だけではないはずで、当然社会的な存在としての常識的な義務も発生するはずですよね。

投稿: pooh | 2009年10月19日 (月曜日) 午後 11時39分

>poohさん

仰る通り、法人格と謂う概念で説明出来たほうがわかりやすいと思うのですが、法学の知識が殆どないものですから、あまり迂闊なタームの使い方はしないほうが好いかと思いまして。

>>法人格を持つ以上、企業が所有するのは法的な権利だけではないはずで、当然社会的な存在としての常識的な義務も発生するはずですよね。

本来そうであるべきですよね。村上某ではないですが「金儲けの何処が悪い」と謂うなら、金儲け自体は悪くないんです。人間、金がないと生きていけないんですから、正当な利潤追求は何処も悪くない。村上某のように不正な手段で儲けるのは論外としても、それこそpoohさんが仰るように遵法だけが求められているわけではなくて、或る種の公正な振る舞いを期待されているわけですね。また、国内有数のシェアを誇る巨大な企業ともなれば、一握りの経営層だけが潤うのではなくて、社会全体を豊かにするような企業活動の在り方が期待されるわけですね。

オレが仕事でCSRに携わっていた頃は、欧米並に「私たちは事業活動を通じてこんなに社会に貢献しているんですよ、地域社会にも、従業員にも、株主にも、消費者に対しても、あらゆるステークホルダーに対して公正に振る舞っています」と謂うようなことをアピールしていたはずなんですが、たった数年間でそれどころではなくなってしまいました。

経団連の歴代会長さんたちのところなんて、「我が社は、従業員を重要なステークホルダーと認識してこれだけ公正に扱っています」みたいな話をしゃあしゃあとしていたわけですが(笑)。まあ、その当時からトヨタのトップの人はアレだとか、次のヒトも相当アレらしいと謂うような話は出ていましたが、まあ、ここまで恥も外聞もなく自分の都合を堂々と主張するようになるとは思っていませんでしたね。

ただ、その当時は「不正義な企業は企業社会で生き残ることは出来ない」みたいな文句が常套句でしたが、輸出が好調で生産拠点を次々に海外移転するようになってみると、別段、不正義な企業でも生き残れないわけじゃないって話になったんでしょうかね。

投稿: 黒猫亭 | 2009年10月20日 (火曜日) 午前 12時14分

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