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2009年10月31日 (土曜日)

微笑む声かさねたなら

なんだかすでに条件反射的にOP曲を聴いただけでじわっとくる今日この頃(笑)、今週の「マイガール」第四話も良い出来でした。唯一気になったのは、幾ら幼稚園の状況にフォーカスしたエピソードだからと言って、笠間・塚本両家の親世代の人々や大家夫妻など、ギャラの高そうな俳優さんが一切出演しなかったことくらいか(笑)。

第四話にしてすでに緊縮財政とは、堅実路線にもほどがありませんか(笑)。

脚本が第二、三話の荒井修子から代わったのでちょっと不安だったのだが、高橋麻紀と謂う名前に覚えがあったのでググってみたら、「おせん」の脚本を半分くらい書いたライターだった。なんだかここ二、三日妙におせんの話題に縁があるが(笑)、過去のエントリではこのライターに割合好意的な評価を下している。

勿論、おせんと謂うドラマ総体で考えると作劇が致命的に弱い作品だったんだが、過去記事でも少し仄めかしているように、これは多分ホン書きの技倆の問題と謂うより全体の舵を取る人間のコンセプトやアイディアがダメだったんだろうと思う。

たとえば、スタッフリストを視ると「神ひとえ」と謂うネタ臭いPNのホン書きが名を連ねていて、最終二話の前後編も含めて全部で四話書いているんだが、これはネットの噂では、プロデューサー氏の変名ではないかと謂われている。で、この神ひとえの担当回が、普通にドラマ性を追求している高橋麻紀の担当回に比べて相当ひどい。なんと謂うか「美味しんぼ直撃世代」って感じの思想性が鼻に附いてダメダメな最終回だった。

日テレの内情にはあんまり詳しくないんだが、噂されているPと謂うのは日テレ側の櫨山裕子かオフィスクレッシェンド側の内山雅博と謂うことになるんだが、女性名であることから櫨山のほうなのかな、と思わないでもない。

櫨山Pのこれまでの作歴を視ると、anegoを当てて以来ハケンやホタルの中ヒットを放ち、ごくせんが土九に移行した後の水一〇枠の復興を支えた後、おせんで新設の火一〇枠のローテーションを一回こなし、今は主に土九枠で制作しているらしい。

現行のサムハイも櫨山プロデュース作品らしいんだが、まあ識り合いのレビューを視る限り、やっぱり内容はかなり微妙らしい(笑)。まあ、ハケンもホタルもピンポイントで面白い部分はあったが、全体的には微妙なドラマだったしなぁ。どの辺が問題なのかについて突っ込んだ考察は控えるが、過去記事を読み返すとおおむね嫌いじゃないのに細かく考えていくと微妙に苛つく作品ばっかりなんだよなぁ。

まあ、おせんとか櫨山Pの考察が本題ではなく、高橋麻紀の話のついでなので道草はこのぐらいにするが(笑)、おせんとマイガールの共通点としては、局Pが女性で脚本家も全員女性だと謂うことも挙げられるかもしれない。

第一話を書いた大島里美がこのままフェードアウトするなら、まあ大石静ほどではないが花形ライターを一話だけ起用したと謂う共通点もあるし、大島里美は今季関テレ「リアルクローズ」のメインに入っているのでその公算は高い。関テレ火一〇を全話書いてその合間にマイガールのこれまでのレベルの脚本が書けるとも思えないので、おそらく書いても後一本くらいじゃないだろうか。

マイガールもリアルクローズもコミックス原作物と謂う意味で共通点があるが、「曲がり角の彼女」はおろか「ウーマンドリーム」の頃からまったく変わり映えのしない関テレ業界物のマンガ的な語り口と、マイガールのかなり繊細なドラマ性の切替は大変だろうし、ヤングシナリオ大賞出身で火九枠の「1リットルの涙」で当てた経歴から、多分大島里美はあっちに専念するんではないかと予想する。

今後のローテーションは、おそらく荒井修子と高橋麻紀で廻していくんじゃないかと思うのだが、二人ともこう謂う素材では一定の信頼性があるので、あんまり先行きの心配は要らないかな、と思う。

さて、今回の第四話は、これまでの伏線や前回の前フリを受けた友哉先生の家庭事情が軸となる筋立てで、多芸多才で園児からの信頼が厚く保護者に対しても厳しく忠告する友哉先生が、実は自身のハンパが原因の離婚経験があり、実の息子との面会も一度も許されない立場だったことが判明する。

まあ、殆ど家に寄り附かずに遊び暮らしていたら、そう謂うことにもなるわなぁ。そもそも二〇歳くらいのときの出来婚で根性が座っていたわけでもないし、自分のハンパさと向き合うのが厭だからって、妻子から逃げて回っていたら向こうのほうから愛想を尽かされても仕方がない。

ここまではよくある若さ故の過ちだが、現在の友哉先生が保護者、就中正宗にキツく当たるのはその八つ当たりと謂うか自分を重ね合わせて視てしまうが故の反動と謂う意味で相変わらずハンパなんだが、その一方でちゃんと幼稚園の保育士としては優秀な仕事をしているわけで、一応保護者に対する忠告も子供を一番に考える立場からの正論であるから、鬱陶しくはあっても、それなりに半端者が頑張ってここまでマトモになったわけである。

実際には友哉先生が語ったような単純なばかりの話でもなくて、夫婦の間のことだからいろいろあったんだろうけれど、幸福にする自信がなくて逃げて廻っていたせいで本当に相手を不幸にしてしまったと謂う自責の念が今の彼をつくっている。正宗にキツく当たるのも、口で言っているように羨ましかったと謂うだけじゃなくて、やっぱり自分と同じように若い身空で突然子持ちになった正宗の様子が、あんまり危なっかしくて抛っておけないと感じていたからだろう。

もっとこうしていたら、ああしていたら、こんなことにはならなかったのに、と謂う昔の自分に対する苛立ちを重ね合わせて煩瑣く口出ししていたのだろうから、正宗のほうもたまったもんではないが、幾ら幼稚園で子供を預かっている立場だからと謂って、ここまで家庭事情に立ち入って口出しして好いものかどうかと謂うのはあるが、普通に考えて、正宗が頼りなくて子供に負担を掛けているのは事実だから仕方がないよな(笑)。

そんな頼りない半人前の男でも、これまでコハルやいろいろな人々との触れ合いの中で気持ちがたしかなものに育っていったことを視聴者は識っているけれど、友哉先生は全然識らないわけで。

そんな二人の正面対決の筋立てってのは、実は中の人としてはジャニーズ対決だったりするんだけれど、嵐で一番地味な奴と関ジャニで一番地味な奴の地味対決だから絵面的には地味なこと夥しい(笑)。この道具立ての地味さ加減がすでにもうこのドラマの持ち味と謂っても過言ではない(笑)。

これまでは専門家として非の打ち所のない仕事をこなし、それを踏まえて保護者に対して上から目線の注文を附ける立場だった友哉先生だが、私事に囚われて園児に対する目配りを忘れ、よりにもよって日頃口喧しく苛めている正宗の娘に怪我をさせてしまったわけだが、明らかな自分のミスと謂うきっかけでもない限り、正宗と腹を割って話す機会はないだろう。

正宗のほうでも、さすがに大事な娘の身に危険が及び、且つはその直前に自転車の練習の件でDVと謂うあらぬ疑いまで掛けられていると謂う因縁があり、もっと言えばやはり正宗のような温厚な人物でも日頃の友哉先生の言動には内心面白からぬところがあっただろうから、らしくない厭味な言葉で責めてしまったりするわけだが、まあこのくらいヘコませないと折れない相手だしな(笑)。

普通なら、友哉先生の事情を識った笠間親子の活躍で事態が修復される、みたいな展開になるところだが、筋立てだけを視る限り、正宗もコハルも事態の実体的な解決には何も益していないし、結局友哉先生は息子と親子の名乗りを上げることすら出来ずに別れていく。客観的事実だけを視るなら、何も状況は変わっていない。なるようになっただけのことである。父親だとは言わないから最後に一度だけ息子に会わせてくれ、なんてのは解決のうちに入らないだろう。

しかし、これを気持ちのドラマとして視れば、正宗の言葉とコハルの言葉、それが友哉先生を勇気附け、そして友哉先生と息子の裕介の気持ちの通い合いが、逆に同じ父親である正宗の胸にも何かを残す。さらに、友哉先生の言葉と裕介の言葉が響き合って、それが今は友哉先生が辛い過去の自責の念から解放されて前へと進む一歩を踏み出す勇気に繋がるのだけれど、おそらく遠い将来には裕介の生き方にも大きな影響を与えるだろう、そう謂う心情の機微が巧みに語られていて清々しい余韻を残す。

友哉先生の事情を識った正宗が何をしたのかと謂えば、ただ自分の気持ちを語って彼を励ましただけである。後悔を抱えているのは友哉先生だけではなくて、すれ違った気持ちを伝え合うことのないままに相手が死んでしまって、最早やり直しが効かない状況にある正宗だって同じことだけれど、それでもコハルと共に暮らすことで欠落を埋め合わせることが出来る。

人生には取り返しの附かないことってたしかにあるのだけれど、前を向いて生きていけないくらい決定的な欠落もまたないんだと謂うことで、でも、今出来ることがあるのなら精一杯やらなければダメだと謂うデリケートな落とし所である。

この場面、正宗のほうは淡々と独り語りを続けるだけなので、奥手の友哉先生のリアクションで動きを附けていて、若干村上信五の芝居が煩瑣いが、それは映像的なバランスと謂うものだろう。村上もここで一番集中して芝居を見せている。

コハルのほうの働き掛けは、まあこれは第一話を観ていないとよくわからないことなのだけれど、原作の第一話を立ち読みする限りでは糸電話がキーアイテムになっていて、正宗に対する素直な気持ちを伝えられない陽子の真情を感じ取ったコハルが「弱虫」な母親の為にホントの気持ちを言えるように作ったものである。しかし、結局その母親はホントの気持ちが言えないままに帰らぬ人になってしまった。

コハルはコハルなりに、人生には取り返しの附かないことがあることを識っているのだし、だから正宗が陽子の死やコハルとの出会いを通じて学んだように、ホントの気持ちは伝えられるときに伝えなければダメなんだと識っている。

コハルと正宗の気持ちを繋げた糸電話による対話を通じて、そんな気持ちが友哉先生にも伝わっていく。ここもやはり積み重ねの作劇と謂うものである。また、この糸電話のくだりに繋げるまでに、コハルが何を気に懸けていて何を識っているかをちゃんと絵面で見せているのも丁寧な描き方である。

そんな優しい働き掛けに背中を押され、妻子との間の過去を乗り越える為にアクションを起こすのは結局友哉先生自身で、劇中事実のレベルで謂えば、息子を呼び出して自転車の乗り方を教えると謂う割と平凡なアイディアなのだが(笑)、ドラマとしては考え抜いたアイディアだなと思う。

親が自転車に手を添えて転ばないように面倒を看てやりながら、それでも子供が自力で走ることが出来るようになったら手を離す、ベタながら映像的な比喩として物凄く効いていて、自力でペダルを漕ぎ出した裕介の自転車のサドルから友哉先生が手を離す一瞬のスローモーションがとても切なく感動的な映像となっている。

今まで出来なかったことが出来るようになって、大人に手を添えて貰わなくても自分で自由に走ることが出来るようになって、歓喜の声を挙げてグルグルと走り回る息子の姿を視て、友哉先生もまた我を忘れて息子の名前を呼び捨てで何度も呼ぶ。

それまでは母親の友人と謂う設定で他人として振る舞っていた為に「裕介くん」と呼んでいたのが、無意識のうちに父親としての気持ちで「裕介」と呼び捨てで呼んでいる。ここはやっぱり何度観てもグッとくるところで、子供が自分の手の内から離れたら寂しいのが当たり前だけれど、それ以前にやっぱり嬉しいのが人の子の親と謂うもので。

大筋乗れている裕介に対して友哉先生が与えたアドバイスとは、「ペダルを踏み込む勇気、前へ進む勇気」と謂うものであったが、そのアドバイスを胸に刻んで勇気を奮い起こすことで裕介は自転車に乗れるようになった。

それはまた、実の父親への想い(芝居やセリフで表現されていなくても、それがないわけがないんだ、これまでのドラマの語り口を考えれば)を吹っ切って母親の配偶者を父と呼んで暮らしていく勇気でもあるだろうし、それは友哉先生に先んじて将来に向けて一歩を踏み出した母親と共に裕介が自分の人生を歩んでいく勇気でもある。こう謂う呼吸が気持ち良い。

そして、迎えに訪れた母親に連れられて帰ろうとする裕介に対して、今度はハッキリと意識して「裕介」と呼び掛け、父親として「元気でな」と訣別の言葉を口にする友哉先生に、裕介は「先生、勇気だよね」と答える。友哉先生がサムズアップで応えると裕介も同じようにサムズアップを返す、そして、裕介の背中が小さくなっていくに連れ友哉先生の目に滂沱と涙が溢れる。

もうここ、やっぱり泣いちゃうなぁ(笑)。

まあ、某さんだったらテレ朝のドラマで「裕介」と「サムズアップ」を交わすことに物凄く反応しちゃうんだろうけれど(笑)。

友哉先生は自分が父親であることを隠して新しい生活に一歩を踏み出す息子に大事な言葉を伝えたんだけど、その言葉を息子が父に向けて返すことで、友哉先生もまた過去の後悔から解放されて新たな一歩を踏み出す勇気を得る。

物語全体を通じて、「与えることは与えられることでもある」と謂う明確なテーマが一本通っていて、主人公が何か嘘臭い大活躍をして八方丸く収めて目出度し目出度しみたいな安い話になっていないのが観ていて気持ち良い。

で、多分裕介は新しい父親との生活の中で友哉先生のことなんか忘れてしまうのだろうし、一緒に自転車の練習をしたことや大事な言葉を貰ったことなんか忘れて生きていくのだろうけれど、多分それは忘れてしまうだけで、消えてしまうわけではない。

たとえば第三話は正宗と母親の光代の関係が軸になったストーリーだったけれど、このエピソードを通じて語られていた機微と謂うのは、親と子の絆なんて日頃意識することなんかないのだし、普段はお互い昔のことなんか忘れて生きているけれど、それは消えてしまうわけではなくてずっと胸の中で生きているんだと謂うものである。

たとえば第三話の落とし所となったオムライスの件だって、正宗は気附いていなかったし光代ももう忘れているのかもしれないけれど、タマネギが嫌いな正宗の為に摺り下ろしたタマネギを加えたオムライスを作ることで、いつの間にか正宗はタマネギが食べられるようになっていた。それはその限りではお互い覚えている必要なんかないのだし、最終的に正宗のタマネギ嫌いが克服されればそれで好いだけの話である。

それをたまたま覚えていた父親から聴かされた正宗が、今度はコハルの為に苦手なシイタケを摺り下ろしてシイタケ嫌いを克服させようと奮闘する、親と子の絆なんてのはそんなもので好いのだろう。そして、コハルの為に懸命に奮闘する正宗の姿が、すでに光代が忘れていた父親との間の濃密で幸福な時間の記憶を蘇らせ、自分は子供の頃片親で育てられて不幸だったんだと謂う光代のわだかまりを解消する。

子供の頃、母親はいなかったけれど父親に大きな愛情を注がれて暮らしていた光代はそれなりに幸福だったんだろうけれど、多分大人になって「片親で子供を育てることは大変なことだ」「両親健在じゃない子供は差別を受ける」と謂う世間知が附いて、それなりに現実の苦労も味わって、そこから遡る形で子供時代の幸福な記憶すら忘れてしまっていたのだろう。

でも、そんな温かい記憶はやっぱり光代の胸の中で生きていて、自分が育てた子供の姿があの日の父親に重なることで、自分の子供時代の幸福な記憶を取り戻す。これもやっぱり与えることは与えられることでもあると謂うテーマが根底にあるのだし、親が子に一方的に与えるばかりではなく、子から与えられるものもあるのであって、親子の絆と謂うのはそう謂うものじゃないのか、と気附かされる。

そして、今回の友哉先生と裕介の通い合いも、多分この先忘れられていくんだろうけれど、決して消えてしまうわけではないんだよ、と謂うことがこれまでのドラマで担保されている。やはり、このドラマは積み重ねが活きているんだよな。

中盤で自転車の練習法を考える正宗が先輩の木村に相談する場面、そこで木村は「父親が手伝ってくれたような気がする」と言い、そして正宗は自分の場合は母親で「正宗、乗れてるよー!」と叫んだ瞬間だけリアルに覚えていると謂う会話がさりげなく伏線として仕込んである。それはやっぱり「裕介、乗れたぞ!」と謂う友哉先生の言葉の先取りだったりするわけで、だったらやっぱりその場面の記憶は未来の裕介の胸にも生き続けていくわけで。

正宗の母親がどんな人物であるかは第三話で描かれている通りで、浮世離れした父親に代わってあれこれと正宗の面倒を看てきたわけであるから、ああ、あの母ちゃんなら自転車の練習にも附き合うだろうな、と(笑)。で、正宗も自分の子供の練習と謂うきっかけがなかったらそんなことは忘れて生きてきたわけだが、光代が歓喜の声を上げた瞬間だけをリアルに覚えていると謂うことは、やっぱり正宗自身も嬉しくて胸の中にその記憶が生きていたと謂うことである。

多分、裕介も同じように今回の経験なんか忘れていくんだろうし、友哉先生の記憶が鮮烈な印象を残すことなんてないわけで、後であれが父親だったと識らされても「ああ、あの人が」くらいの感じ方だろう。この場合、裕介が友哉先生の正体に気附いていてもいなくても、そんなことは重要ではないわけである。

感動的な記憶でも忘れ難い劇的な記憶でもないけれど、やっぱり消えずに胸の中で生き続けていく大事な記憶、それが当たり前にタマネギが食べられたり自転車に乗れたりする今の自分を形づくっている。

なんかこう、テレ朝のドラマにしては真っ当すぎるくらい真っ当で、気持ち悪いくらいである(笑)。

次回予告を視ると、どうやら上司の林の家庭事情に迫る話らしく、断片的な映像で視る限りでは、林自身は家族の為に写真家になる夢を諦めた過去があるらしい。つまり友哉先生同様、現在の正宗の姿に自分を重ね合わせているわけで、光代もまた父子家庭で育てられた自分と正宗父子の姿を重ねて視ていたのだろうから、正宗もいろんな人から自己を投影されて大変である(笑)。

前回ちょっと触れたんだが、このドラマの正宗の夢に対するモチベーションと謂うのはそれほどハッキリ描かれているわけではないから、どうしても「子供の為に一生懸命働くのも悪くない人生じゃないか」みたいに感じてしまうし、たしかに子育ての為に職場に迷惑を掛けているわけだが、これも正宗が男だから気になるだけで、子供を育てている労働者に対して社会が配慮するのは当たり前だろうと思う。

勿論、ちゃんと一人前に仕事をするのも社会に対する貢献ではあるが、子供を育てることだって社会に対する貢献なんだから、本来は可能な限り社会が子育てに協力するのが筋だろう。正宗のような事情で、半人前が子供をつくったのがアレだの何だのと今更言うのも無意味だし、こう謂う事情を抱えるシングルファザーに周囲が協力するのが悪いことだとも思わないんだけどねぇ。

ただ、実際問題カメラマンを目指すのであれば、ただ労力を提供するだけでは喰っていけないのは事実であって、マンガのプロアシと違って一生カメアシで喰っていくわけにはいかないだろう。いずれ一本になって一人前のカメラマンとして仕事をしていかなければならないわけである。

そこで正宗がどの程度カメラマンの夢に対して本気なのか、と謂うモチベーションが問題になってくるわけで、その為に周囲が協力することに特段の問題はないにせよ、本気でカメラマンになる気あるの?と謂う部分はやっぱり問題である。それほど大切な夢ではないなら、潔く転職すると謂う道もあるわけだし、この辺がフリーランサーとかアーティストとかプロフェッショナリズムが重視される職業領域の微妙なところである。

つまり、不都合な事情があるんなら無理してそれをやらなくても好いじゃん、と謂う見え方にどうしてもなってしまうわけで、それを正当化するのはやっぱり本人の気持ち次第なわけである。フリーランスのアーティストなんて、マトモな理屈を言っていたら務まる仕事じゃないだろう(笑)。

現状の正宗は、一人前の労働力としての勤務に育児と謂うハンディがあるわけではなくて、プロフェッショナルになる為の修行時代にハンディが在るという事情なのだから、そのハンディを周囲の協力で埋め合わせたとしても、修行を完遂して一本になれるかどうかは本人の気持ち次第である。

ここをどう捌くのか、と謂うのは案外難しいところで、総じて女性脚本家はお仕事物のロジックが弱い(どうしても被雇用者視点の甘えが残る)傾向があるので、その辺がどうなるかが次回の見どころだろう。

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コメント

録画しておいた第4話、今日見ました。
分析はもう黒猫亭さんが充分に書かれていて、私の入る余地なぞ無いのですが、感想を書かせていただきます。
予告を見て、下手をすると第4話でコケるんじゃないかと心配していたのです。感動の押しつけをするような展開になるのではと、ハラハラしながら見ておりました。
見終わって「うまくまとめたなぁ、良かった良かった。」と。
地味に作っているところに好感持ちました。

早速毎週予約の設定をいたしました。

投稿: DH98 | 2009年11月 1日 (日曜日) 午後 10時55分

>DH98さん

>>予告を見て、下手をすると第4話でコケるんじゃないかと心配していたのです。感動の押しつけをするような展開になるのではと、ハラハラしながら見ておりました。

これまでは正宗とコハルを巡る問題で推移してきましたが、第四話は直接にはこの親子の問題ではなく、友哉先生の抱える問題に正宗親子がどんな影響を与えるのか、と謂う筋立てですから、これまでとちょっと性格が違うんですよね。

仰る通り、オレもちょっとその辺に危惧はあったんですが、これまで通り良い出来で安心しました。なんか、正宗親子が大活躍して友哉先生の苦境を救う、みたいな絵空事だと、やっぱりこのドラマの語り口とは違うかな、と思いますし。

たしかに道具立ては地味なんですが、われわれ視聴者がドラマを観る動機として、何か斬新なものが観たいとか派手で目を惹くものが観たいと謂う動機も勿論あるんですが、ありふれた素材をキチンと丁寧に作り上げるタイプの物語も観たいと謂う動機はあるんですよね。

素材やアイディアの斬新さだけではなくて、ありふれたシチュエーションでもその語り口や見せ方に個性や新奇性が出るもので、そう謂う基本を押さえた作りのドラマがまだ存在することにホッとします。

最後までこのまま順調に行ってほしいですね。

投稿: 黒猫亭 | 2009年11月 2日 (月曜日) 午前 08時10分

こんにちは。

・・・やっぱり見なくてもいい気がします(笑)。嘘です、見ました。

嵐の人というと、凄く派手な顔をした人と凄く地味な顔をした人、二人は知っていましたが、この人も嵐の人なんですね。というプリミティブな疑問の解決からの出発でした。

結論から言えば、見て良かったです。
ご紹介通りの(笑)地味なお話でしたし、お金掛かっていない感じがよくわかりました。主人公はヒーローじゃないフツーのヘタレで、何にも解決はできない。でも普通の人達がほんの少し心を寄せ合うことで、少しだけ前に進むことが出来る。それで充分だと思わせてくれるお話でした。

コハルちゃんは名前もそうですけど、アノ声は反則ですねぇ。

投稿: うさぎ林檎 | 2009年11月 2日 (月曜日) 午後 12時49分

>うさぎ林檎さん

>>・・・やっぱり見なくてもいい気がします(笑)。

…オレはオレなりに、人の為によかれと思ってですねぇ(涙目)。オレが礼を言う筋合いのことでもないのですが、観て戴いてありがとうございます(笑)。

>>凄く派手な顔をした人と凄く地味な顔をした人

派手顔が松潤だと謂うのは鉄板ですが、地味顔は大野かニノか。いや、派手顔のほうも櫻井と謂う可能性もあるけど、あいつは派手と謂うより悪人面だしなぁ(笑)。

嵐のメンバーを指を折って数えていくと、松潤、櫻井、二宮と来て、何とか大野までは思い出せる人も、そこで力尽きて相葉雅紀まで辿り着かないのが一般人のレベルではないかと思います(笑)。なかには二宮が嵐のメンバーだと識らない人も結構な割合でいるんではないかと思いますし。

>>ご紹介通りの(笑)地味なお話でしたし、お金掛かっていない感じがよくわかりました。

第三話までだと、山崎一とか室井滋とか八名信夫が出ていましたので、そこそこギャラ高い人使ってる感があったんですが(笑)、第四話はジャニの人と芸人さんと小劇団の人と子役さんしか出ていないので、どうも「東京少女」や「恋する日曜日」みたいな低予算のBSドラマみたいな絵面に見えますねぇ(笑)。

>>主人公はヒーローじゃないフツーのヘタレで、何にも解決はできない。

主人公の正宗だけではなく、基本的にこのドラマでは他人の問題を解決出来る人物が出てきませんからねぇ。自分の問題は自分で解決するしかないわけで、解決と謂っても現実的に在り得る事柄しか起こらないですから、詰まるところ人の気持ちが動くことでしかないわけですね。

正宗の人物像も、真面目でいい奴だと謂う以外の取り柄はないんですが(笑)、その真面目さにどんどん好感を抱くような作りになっています。中の人には一切興味も関心もないですし、取り立てて上手い芝居だとも思わないんですが、割とこの笠間正宗と謂う主人公は好きですね。

>>コハルちゃんは名前もそうですけど、アノ声は反則ですねぇ。

頼りないあどけなさ全開の可愛さが保護欲を掻き立てて何とも狡いですねぇ(笑)。あんまり個性的な顔立ちでもなくて、単に綺麗な子供と謂う造作なんですが、あの全身から滲み出る健気の波動とかオーラとかバイブレーションとかアセンションとかフォトンベルトとか「ありがとう」の正体は一対何なんでしょうね。

第四話では、冒頭のコントで正宗がゼッケンの縫い附けに失敗したので膨れっ面をしていましたが、コント的場面とは言え、これまで何でも「平気です」「コハルは大丈夫です」と気を遣っていた正宗との距離が段々縮まってきて、他人行儀な遠慮がなくなってきたんだな、とちょっと思いました。

次回予告を視ると正宗との間にちょっとした諍いが起こるみたいで、そう謂うふうに少しずつ本当の親子になっていくプロセスを描いていくのも丁寧だなと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2009年11月 3日 (火曜日) 午前 09時29分

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