「インターネット以下です」
随分前にコンビニの店頭に出ていたのだが、重複がないか確認してから買おうと思って先延ばしにしていた(何度か重複購入した経験があるので)「美味しんぼ」の最新巻を昨日漸く買って読んだのだが、前回で和解した雄山と士郎に代わって、飛沢と岡星良三の代理戦争編に突入した模様。
まあ、これはこれで良い工夫で、連載中盤くらいから士郎に対する雄山の圧倒的な優越性が強調されてきたのだから、このまま勝負を続けても、雄山のお情けでもない限り士郎の勝ちがないと謂う流れが定着しつつあったが、飛沢と良三が代理で戦うのなら、参謀の格の違いは歴然としていても競い合う本人たちが同レベルなので、着眼点やプレゼンテーション次第ではどっこいの勝負になるから、目先が変わって好いかもしれない。
まあ、本編の話自体は今回の主題ではない。最新巻のメインは全県味巡り和歌山編と謂うことなのだが、初っ端から東西・帝都の両社主が雁首揃えて関係者に頭を下げ、業績低迷で赤字に転落し対決企画の打ち切りもやむなしと謂う現状を告げる。
当然、それに対してお馴染みの東西新聞の面々が反論するのだが、中でも部下一同の意見を代表して発せられた谷村部長の発言が面白かった。
新聞と人間は同じです。一度自分の格を下げると二度と浮かび上がれない。
特に文化面を一度落とすと、それまで支えて下さった方達が引いてしまいます。
文化のない新聞はインターネット以下です。
原作者のネット言論嫌いが如実に顕れた名言である(笑)。これを素直に解釈すると、インターネットには文化がないと謂う意味になるが、そう謂うバイアスを抜きにして言うなら、主張自体はそんなに間違っていない。
つまり、本来新聞と謂うのは一次情報に対する組織的な取材力があり、専門家の助言を仰ぐことも可能であり、専業のプロが情報発信しているのであるから、ネット言論以下であってはおかしいのである。文化があるかないかなんてのは、「多寡が」サブカルにすぎない劇画の原作者が別種のサブカル叩きをするのは噴飯ものだが、まあそれはいつもの理不尽な偏向だからさて措くとして。
正直言って、オレはこと言論の面では、新聞社系列のメディアなんてTVも含めてインターネット以下…と謂うか未満だと思っている。優越性と謂うのは、一次情報を優先的に取材可能だと謂うところだけで、そこから先のレベルでは全然ダメだろう。しかもその優越性ですら、記者クラブ制度みたいな閉鎖的なシステムで他のメディアを排除することで成立しているのであるから、逆に謂えば、今や情報の自由な流通を阻害していると言っても過言ではない。
たとえば、ニセ科学の問題なんてのは本来真っ先にマスメディアが採り上げなければいけない問題だろうし、政治や経済についての重要な情報を多くの人々に送り届ける使命はまず第一にマスメディアにあるはずである。しかし、これらの領域の問題性に関してマスコミは寧ろ問題を拡大する情報を流すほうに働いている。
ダメじゃん。
不景気だから文化がなくなってインターネット以下になるんではなくて、日本のマスメディアなんてのは、実体的には組織の都合でインターネットで個人が出来ること以下のレベルで廻っていたと謂うことが暴露されつつあるだけなんじゃないかと。
結局、マスコミの力ってのは情報統制の力だったわけで、一次情報を独占出来ることによるものでしかなかったのなら、最初から権威なんかカケラもない。
たとえば、大分以前某海外映画の劇伴が差し替えられた問題でファンと配給会社が揉めたときに、一般の映画ファンがネットで本国の情報を収集していることに対して、配給元の人間が物凄く感情的に批判していたことがあったのだが、つくづく莫迦じゃねーのかと呆れた。
つまり、従来の映画興行の常識では、作品についての情報と謂うのは配給元が独占しているものであって、本国における情報の何をどれだけ伝えるかの決定は一義的に配給元に権利があると謂う感覚だったわけである。「全米ナンバーワン大ヒット!」と謂う惹句が実質的にどう謂う意味なのかを一観客が確認する術はなかったわけで、作品に関する情報は配給会社が独占していたわけである。
それがネットの登場で、誰でも多少の語学力さえあれば本国のネットにアクセスすることで情報が収集可能になってしまったので、それが「けしからん」と権利を侵害されたように怒っていたわけであるが、そもそも作品に関する一般情報って配給会社の独占物じゃなくて公共情報だろう。単に今までは海外の一般情報が相互的に流通する手段がなかったと謂うだけなんだから、作品に関するすべての情報を配給会社が独占出来ると謂う考え自体が錯覚である。
これは映画配給会社の例だが、紙メディアしか存在しなかった時代にはマスメディア全体がこのような認識だったのではないかと思う。マスコミ情報を検証出来るのは組織的な取材力を持っている者だけで、さらに検証した結果として対抗言論を発信出来るのも組織的な発信力を持っている者だけであった。
TV番組のやらせ体質なんかが時折問題になるが、結局一次情報がマスメディアの独占物だと思えば、そんなことは幾らでも起きるだろう。「『真実』なんてメディアが作るんだ」と謂う傲りがあれば、やらせなんて何の問題もないと謂う感覚にもなるだろう。
オレはその種のメディアの傲りが大嫌いであるから、まずTVのドキュメンタリー番組なんか観ないことにしている。TVでわざわざ「ホントのことです」と断って発信している情報なんて、九分九厘まで嘘である。TVと謂うのは、紙メディアに比べても比較にならないほど巨額の企業資本が関わっているのだから、「ホントのこと」を伝えるには最も不便なメディアのはずなのである。
それ故に、テレビっ子世代であるオレとしては、ホントだと断っている情報については必ず裏を取ることにしている。で、裏を取ってみると九分九厘まで嘘だったりするのだから、改めて愕然とするほどTVってのは信頼性の低いメディアである。TVには、速報性と映像的臨場感以外に情報源としてのメリットはない。
マスメディア側の視点から視れば、ネット言論なんてマスメディアが資本を投下して取材した一次情報に只乗りして勝手なことを言っているだけ、と謂う見え方になるのかもしれないが、筋から謂えば舞台裏を暴かれて困るようなことはしていない建前なんだから、そんな理屈は通用しない。
マスメディアは、資本を投下して組織的に一次情報を取材して、それを可能な限り正確に流通させることが使命なのだから、情報の独占なんて特権はハナから存在しないはずである。情報それ自体は公共財で、マスメディアはその流通に関わっているだけのはずである。単に従来は情報を取材するメディアが不可避的にそれを独占する状況に在らざるを得なかっただけの話で、その変な状況が解消されたんだから、誰も文句を言う筋合いなんかないはずである。
結局日本の情報産業なんてのは、大規模な組織力によって情報を独占出来る仕組みに一義的に依拠していただけじゃないのか、多様な視点から検証されても胸を張って主張出来るだけの信頼性を獲得することを怠ってきたのではないのか、組織の都合やお台所事情を許されるべきではないレベルで優先させて来たツケが廻ってきたのではないか、そのような不信を感じている。
そろそろマスメディアは、ヒステリックにインターネットを叩いていられるような状況ではなく、本格的に襟を正さねばならない時期に来ているんではないか、そのように思う。日本のマスメディアの信頼性の低さってのは、これは国際的に視ても相当低レベルなんじゃないかと。
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コメント
あ、美味しんぼネタだ!
コメント書くチャンスだ。と、思っていたら新聞媒体話でしたか。
勿論、新聞を購読していない私ですので、いろいろ考える処もあるのですが、酔っぱらい過ぎているので、他の方のコメントを待つことにしたいと思います。
日本のマスメディアの信頼性が低いことを補ってきたのは、皮肉にも平均的な教育レベルの高さであったのかも知れません。
投稿: どらねこ | 2009年10月22日 (木曜日) 午後 11時11分
>どらねこさん
>>と、思っていたら新聞媒体話でしたか。
すいません、本編自体についてはあんまり書くことがありませんでした。まあ、和歌山取材中に例によって雄山とバッタリ遭遇した士郎が、例によって雄山にツンデレな態度でコキ下ろされても感情的に突っかからなかったのが、前回の和解を一応踏まえてはいるかな、くらいですね(笑)。
なんかこう、「こいつはこう謂う言い方しか出来ないんだから」みたいな感じで、一旦相互理解が成立すると男同士・親子同士のほうがちゃんと通じていて、逆に嫁のゆう子のほうが雄山の物謂いに眉を顰めると謂うのが斬新かな、と。この辺、前回のラストみたいに「黙って酒を酌み交わせば千万言を費やすよりよっぽどわかり合える」的な原作者のマッチョな資質が出た部分ですかね。
内容的には、有田ミカンの有機栽培の話がちょっと面白かったですね。「ミカンの栽培は害虫との戦いが大変」と謂うことで、ゴマダラカミキリやナガタマムシと謂う害虫にどう対処していくかが今後の課題(未解決かよ、みたいな)としておきながら、「有田ミカンの銘柄だけで通用するのに、さらに有機栽培にも挑戦する和歌山県人の進取の気風」を称揚しているんですが、「じゃあ慣行農法でいいじゃん」とならないのが美味しんぼ流(笑)。
安全性の面でも官能の面でも何のメリットもないと思うと、そんな無意味な苦労を称揚するのも、消費者・生産者双方に対して無責任だなぁ、と。ただ、無化調・有機栽培マンセーのいつもの道具立てについては、全体中でこの程度しか触れられていないので、若干慎重になっているような印象はありますね。
まあ今まで散々主張してきたから、と謂うこともあるんでしょうが、有機栽培のミカンのほうが美味しいとか安全だと謂う趣旨の主張はなくて、困難なことにチャレンジする精神性のほうを評価しているわけですから、従来と少し印象は違います。
もしかしたら、もう暫く待てば例のマッチポンプの卓袱台返しで「有機栽培の野菜が美味しいとか安全だと謂う迷信を信じているなんて嘆かわしいね」なんて士郎が言い放ったり、雄山が「無農薬や無化調を有り難がるのは日本人の権威志向や科学教育の貧しさを物語るものだ」とか豪語するんじゃないかと真剣に悩んでしまいます(笑)。
しかし、「美味しんぼ」に対するわれわれのこう謂う愛憎相半ばするような感情って何ですかねぇ。
>>日本のマスメディアの信頼性が低いことを補ってきたのは、皮肉にも平均的な教育レベルの高さであったのかも知れません。
それはあるかもしれませんね。物凄く教育レベルの低い階層が最大多数を占めると謂うような最悪の状況ではないですね。ただ、ゆとり世代って今は揶揄の対象になっていますけれど、笑い事ではないような気がします。
教育政策の誤りがどう謂うふうに現実に影響してくるのかと謂うのは長期的に視ていかないとわからないので軽々には言えませんが、お上のちょっとした思い附きでハンディのある教育しか受けられなかった世代が社会の中核を担うようになってくると、どう謂うマクロな影響があるのか、これは注目していかないといけないでしょうね。影響がないわけがないんですから。
新聞媒体については、どらねこさんのところの「新聞は必要か」と謂うお話もちょっと関係してくるかな、と思います。
オレを含めて、ネットにアクセスする環境がある者には少し想像しずらいのですが、世間全体で視ると、ネットで情報を収集する習慣を持つ人間なんてまだまだ少数派なんですよね。その分、マスメディアの責任は重いはずなんですが、そんな責任をちゃんと果たしていないくせにネット叩きや規制論をぶつなんてのは、既得権益絡みのポジショントークと視られても仕方がない。
先般の唐沢なをきの件なんかを視ても、得手勝手な「物語」しか語らないマスメディアには最低限の信頼性すらないとしか思えません。ただまあ、「これは国際的に視ても相当低レベルなんじゃないか」と謂うのは、正直、詳しく調べたわけでもないのに印象論で感想を言っていますね(笑)。
マスメディアの頽落ってのは、何処からか紐附きのカネを取って運営している私企業である限りどうしても避けられないわけで、問題は偏向した情報が流通した場合にそれを批判する対抗言論の発信が容易なフェイルセーフが設けられているかどうか、自浄作用の仕組みがあるかないかなのかな、と思います。
投稿: 黒猫亭 | 2009年10月23日 (金曜日) 午前 01時17分
おはようございます。
昨今、新聞の購読数が減っている話はよく耳にします。
屋台骨がぐらいついちゃ、こんなバブル時代の亡霊みたいな企画を続けるのは大変でしょうねぇ。
谷村部長の発言にも”天下の新聞社”みたいな幻の気概が感じられることに涙を誘われます(笑)。
これは勝手な憶測ですが、新聞社も東大卒が多そうです。東大卒が集まるようになるとその業種は没落していくのは歴史が証明している、と私は思うんですけど、どうでしょ?(製鉄とか造船とか銀行とか、役人とかね)
投稿: うさぎ林檎 | 2009年10月23日 (金曜日) 午前 10時28分
>うさぎ林檎さん
>>屋台骨がぐらいついちゃ、こんなバブル時代の亡霊みたいな企画を続けるのは大変でしょうねぇ。
逆に言うと、情報流通の領域で特権性がなくなったら、新聞社なんて文化振興くらいしか出来ることがなくなるんじゃないかみたいな考え方もありますね(笑)。「○○新聞社主催」で文化事業を興すとか。そう謂う意味では、両新聞社の社主たちは文化面を圧迫して何処に注力するつもりだったのか、そっちのほうが気になります(笑)。
オレが子供の頃までは新聞記者ってのは格好良い職業の一つで、主人公や二番手くらいの関係者が新聞社の敏腕記者、みたいな設定がよくありました。何か最近では、結局お上や警察から優先的に情報が貰えていただけ、みたいな現状が見えてくると、あんまり格好良い職業でもないですね(笑)。
このエントリを書くに当たっては、別のエントリでYJS さんが紹介してくださったダイヤモンド社のコラムの影響もあったんですが、新聞メディアの危機みたいな話は、近年のインターネットの登場だけではなく、TV・ラジオが台頭してきたときも盛んに言われていたことですよね。
まあ、TV・ラジオとネットの違いは、前者は基本的に新聞社系列資本ですから、所詮は同一資本内部の事業戦略の問題ですが、後者は既存のマスメディアとは無関係な領域から出てきたメディアだと謂うことで、危機感が違うんだと思いますが。
TVやラジオが台頭した時期においては、結局放送時間が限られているTVやラジオでは速報性や臨場感が重視され、詳しい情報については新聞で収集する、と謂うような棲み分けが為されたわけですが、記事を書いている人々に取材対象についての専門的な理解(知識がないのは仕方ないとして)なんかなかったんだとすれば、われわれが一定の信用を置いていた新聞社の見識ってのは一体何だったんだろう、と。
見苦しくオタオタしてネット叩きの言論を垂れ流したり、ネット規制論を後押しするような真似をしても、結局何の意味もないと思うんですけどね。社会全体の効率化や最適化の趨勢を支持していたマスメディアが、情報流通の領域でそれが起こったら途端に護りに入って保主的な主張をするなんて醜悪ですね。
>>東大卒が集まるようになるとその業種は没落していくのは歴史が証明している、と私は思うんですけど、どうでしょ?
どうなんですかね。一つ考えられるのは、勿論東大卒はエリート階層ですから、新規の人材としては最優先で採用されるわけで、豊富な選択肢があります。当人たちも社会において特権的なポストを獲得する為に東大を目指すわけですから、その時点で最も美味しい領域に入り込みますね。
そうすると、現時点で最も美味しい社会的な領域なんてのは永続的に繁栄するものではないですから、いつかは真っ先に没落するわけです。で、その領域が美味しくなくなったら、エリート階層はその時点で最も美味しい別の領域に移動するわけですね。官僚なんてのはその最たるもので、特定の領域が没落しても本人が困らないような社会的なシステムになっているわけです。
投稿: 黒猫亭 | 2009年10月23日 (金曜日) 午前 11時37分
私は、マスメディアは、「権威と権力」の関係を誤解し、自分らに報道に対する「権威」があると誤解していると思っています。
「権威」は自分らが作った妄想でしかなく、記者クラブ等の既得「権力」をかざしているだけで、インターネット上で活躍している上杉隆氏や神保哲生氏らのフリーの記者の方が、<既得権益にしがみ付く最も保守的な>組織となっているマスメディアよりも、「組織」に属してない分、却って、独自の判断力によって、真実に迫っていると思います。
今後、マスメディアは、「虚構の権威」を振りかざす限り、益々凋落して行くと思われます。
但し、ネット上の報道情報は、ウヨ・サヨが入り混じっているので、ネット受信者に、どれが真実か?を選りすぐる「選眼力」が必要とされると思いますが…。
投稿: mohariza | 2009年10月25日 (日曜日) 午後 05時00分
>moharizaさん
>>私は、マスメディアは、「権威と権力」の関係を誤解し、自分らに報道に対する「権威」があると誤解していると思っています。
政権交代して実感したことの一つとして、マスコミの頽落と謂うのは、おそらく政治の頽落とセットなのかな、と謂う感想が挙げられます。一口で謂って、五五年体制が長く続き過ぎた為の過適応だったんではないかと思うんですね。
これは官僚政治なんかもそうだと思うんですが、この先永続的に現状の社会システムが変わらないと謂う根拠のない想定に則って、その状況に適応しすぎたことがマスコミや政治の倫理的な頽落を招いたのかな、と思います。
先般の総選挙でオレが最も危機感を抱いたきっかけは、何度も申し上げている通り児童ポルノ法改正の動きだったんですが、与党案のままなら極普通の一般市民がお上が恣意的に運用可能な曖昧な基準に則って刑事罰を蒙る可能性が出てくると謂うのに、そんな重大な問題点なんか存在しないかの如くに振る舞っている、これは相当危険な状況だと考えたのですね。
普通、たった数年後に下野する可能性を視野に入れていたらそんな危ない橋は渡れないはずなんですが、どんなに厳しい選挙戦になっても自公政権が大敗するはずがないと謂う無根拠な安心感があったから、こんな杜撰な法案を粗雑に通そうなんて考えていたのでしょう。それが参院のねじれ現象で政権交代の可能性が出てきたことで、何とか野党案との妥協が成立した、そう謂う流れになるでしょう。
つまり、議席を減らして苦しい議会運営になるくらいのリスクは想像可能でも、与党の座から滑り落ちると謂う決定的な危機感がなかったわけで、この体制が永続的に継続すると謂う想定で安易な立法が罷り通っていたわけです。
マスコミも結局は既得権益のような情報の独占状況の中で、情報流通に携わる限り相当シビアな基準で考えねばならないことを、業界内部のなあなあで済ませてきた嫌いはあると思うんです。広告主の利益に反する情報は流せないとか、視聴率を基準とした広告収入で成立している以上視聴率を上げねばならないとか、許認可事業である以上はあまり政権から睨まれるようなことは言わないとか、ぬるま湯的な状況の中で「出来ないこと」の言い訳が罷り通っていたように思います。
そこから変な過適応の一つとして「真実はマスコミが作るんだ」みたいな傲りも出てくるわけで、これは逆に言えば「真実そのままを流すことが出来ない」ことに対する居直りみたいなものだと思うんです。TV番組のやらせ問題なんかも、視聴率至上主義の弊害みたいな言われ方がされますが、実態そのままだとつまらないから脚色する、制作側が勝手に考えたストーリーを取材対象に圧し附ける、そう謂う問題が、「そうしないとやっていけない」と謂う、本来受益側には関係ない事情に基づいて罷り通っていたわけです。
しかし、そこで居直って「真実はマスコミが作るんだ」と謂う意識を持つなら、自分たちが作った真実に対してマスコミが責任を持たなければならない。それなのに、その責任すら引き受けないと謂う無責任な姿勢で恣意的に整形した情報を垂れ流しているのですから、まあ信頼性が揺らいでも仕方がないでしょう。
>>但し、ネット上の報道情報は、ウヨ・サヨが入り混じっているので、ネット受信者に、どれが真実か?を選りすぐる「選眼力」が必要とされると思いますが…。
差し当たり、必要な情報が誰でもその気になれば入手可能な形で流通すること、それが重要だと思います。マスコミ以外の情報源が存在しない場合、業界全体の都合で出て来ない情報があるわけで、それは従来は組織的な取材力がない限り入手不能でした。
まず、必要な情報が十分に流通すること、それが第一段階なのかな、と思います。
投稿: 黒猫亭 | 2009年10月26日 (月曜日) 午後 01時48分
こんにちは。
>差し当たり、必要な情報が誰でもその気になれば入手可能な形で流通す
>ること、それが重要だと思います。
だとするとロハス・メディカルなぞは究極(至高?)のネット情報かもしれません。(多分)ICレコーダで録ってきた会議内容をそのまま文字おこしして載せたりしています。
例えば「新型インフル 議論そのものを公開 足立政務官ヒヤリング」は
http://lohasmedical.jp/news/2009/10/20010545.php?page=1
2009年10月19日晩に行われたものが、20日1:05にアップされています。
ネットだと容量制限がかなり緩和されますが、丸ごとのせる手口を手抜きと見るか英断と見るか・・・見方が分かれる所でしょう。でも妙な要約やバイアスの掛かっていない情報が知りたい人間には有り難い存在だと思えます。
ですが、私がロハス・メディカルが取り上げるネタについて”記者が書く記事”を鵜呑みにしていないのは言うまでもありません。
「インフル予防接種、奨励される理由・・・?」
http://lohasmedical.jp/blog/2009/10/post_2094.php
製薬会社の陰謀を匂わせた上に、そのネタ元としてよりにもよって元国立公衆衛生院疫学部感染症室長の母里啓子を引き合いに出す迂闊な記者(?)もいるみたいですから。
投稿: うさぎ林檎 | 2009年10月26日 (月曜日) 午後 04時31分
>うさぎ林檎さん
>>だとするとロハス・メディカルなぞは究極(至高?)のネット情報かもしれません。
実は、オレが考えている現段階における情報流通のあるべき姿と謂うのは、そう謂うロウデータの公開性がファーストステップだろうと思います。
たとえばネットの議論では、「恣意的な引用」みたいな話が頻繁に出てきますよね。特定の論者の特定の言説の都合の好い部分だけを引っ張ってきて、それを恣意的な文脈に則って提示する。しかし、ネットの言説なら、引用者の恣意的な意味附けを施される前のロウデータは、ログと謂う形で残っていて、その気になれば誰でも閲覧出来ます。
ところが、マスコミが流通させる情報と謂うのは、ロウデータを恣意的に意味附けした成果物しか提示されないわけで、それがどのようなバイアスを蒙っているのかは、同一の対象を報道している他社の情報から類推するしかないわけです。これが誌面・紙面の限界、放送時間の限界と謂う口実の下に、恣意的な引用でしかない情報が真実であるかの如く流通してしまったりするわけです。
たとえばご紹介の議事録ですが、これについて「○○○は○○○と謂う主張をした」と謂うふうな、取材者の主観によって幾らでも抽出可能な特定の意味内容しか情報として流通せず、それが真実であるかの如くに扱われるわけですね。これは情報としては窮めて精度が低いわけで、如何に取材者が極力主観を排したとしても、かなり低い限界があるわけです。
たとえば近年のIR情報は、定量的なデータのリファランスは容量の制限が緩いネットに一任して、定性的なハイライト情報だけを報告するような趨勢になっているわけですが、取材者の主観を排除したロウデータが参照可能であることで、一定の透明性を担保しているわけですね。
つまり、ハイライトで何か調子の好い嘘っぱちを語っていても、その気になって定量的データを検討すれば簡単に嘘が見破れるわけで、そこをキチンと提示しているなら定性的記述についても安直な嘘は吐けないだろうと謂うことで信頼性が確保出来るわけですね。嘘を吐いていることがバレてしまえば、調子の好い嘘っぱちを並べるメリットよりもデメリットのほうが大きいわけですから。
だとすれば、マスコミ情報の信頼性の低さは、特定個人の取材者が限られた容量を前提に情報を整形すると謂う必要に基づくもの、とも謂えるわけですが、まあ現状のマスコミの姿勢はそれ以前の段階なのではないかと思えるわけです。寧ろ、提示する媒体の限界から居直って、取材者の意味附けこそが情報それ自体のコアなのだと謂う錯覚があるように思えます。
そこから頽落が始まって、そもそも情報の取捨選択の緩さにまで繋がっている、客観的に妥当な理解よりも、取材者の主観に基づく恣意的な物語性のようなもののほうが重視されている、そこが大問題だろうと。
この極端な例が、たとえば「プロジェクトX」のやらせ問題であるとか、先般の唐沢なをきのドキュメンタリーの問題だったりするのだろうと思うのですが、結局このような状況が長く続きすぎた為に、受け手の側でも「情報と謂うのは詰まるところ『物語』である」と謂う妙なバイアスが定着してしまった。そう謂うことなんではないかと考えています。
>>ですが、私がロハス・メディカルが取り上げるネタについて”記者が書く記事”を鵜呑みにしていないのは言うまでもありません。
仰るように、取材者の主張や意見があってはいけないと謂うことではないんだと思いますが、それを信用するかどうかは別問題と謂うことなんではないかと思います。そして誠実な報道と謂うのは、情報に付加された取材者固有の意見や見解が妥当であるかどうかを、読み手の側が客観的に検証可能かどうか、その材料となる情報にアクセス可能であるかどうか、これに依拠するのかな、と思います。
投稿: 黒猫亭 | 2009年10月26日 (月曜日) 午後 06時08分
こんばんは。
えーと、poohさんのところでも似たようなお話なんですがロハス・メディカル繋がりなのでこちらで失礼します。
ロハス・メディカルで紹介されていた協議会の議事録内容に確認したいことがあったので閲覧の希望を申し出たところ、これが案外あっさり許可されて手に入れました(月曜日に電話した時は”まだ出来てない”と言う話でしたが、水曜日に”出来ました”と連絡があり、木曜日に郵送されてきました)。
ところが議事録を読んでみると、肝心の私が知りたかった発言は前後を通じて丸ごとありませんでした。問い合わせた時に担当の方は「関係各所と調整して作成後に公開できます」と仰有っていました。ですから誰の判断で当該の議論を議事録として残さないことにしたのかは判りません。
でも載っていないだろうなというのは、資料を手にする前からある程度予想はしていました。これは別に後出しジャンケンではなく、そのまま公表すれば一部(組織)に差し障りのある内容なのが明白だったからです。
こうなってくるとロハス・メディカルから得られた情報は貴重ですよね。メディアが無ければ、その会議に参加していない人間にはこの情報は耳には入らなかったのです。
なんか、こう、もやっとですけどメディア(マスコミ)に期待する部分はあるか・・・な・・・?と感じました。
投稿: うさぎ林檎 | 2009年10月29日 (木曜日) 午後 07時58分
>うさぎ林檎さん
>>えーと、poohさんのところでも似たようなお話なんですがロハス・メディカル繋がりなのでこちらで失礼します。
ご紹介の事例、興味深いですね。
>>ところが議事録を読んでみると、肝心の私が知りたかった発言は前後を通じて丸ごとありませんでした。問い合わせた時に担当の方は「関係各所と調整して作成後に公開できます」と仰有っていました。ですから誰の判断で当該の議論を議事録として残さないことにしたのかは判りません。
公式文書を作成する場合には一定の取捨選択の尺度があって、テープ起こしをそのまま文書化することはないわけで、それには或る程度妥当な理由があるのだろうとは思いますが、その一方で、協議会がオーソライズしていない逐語的な記録が正式な報道として残っていると謂う二重の状況になっているわけですね。
つまり、ロハス・メディカルに掲載されているのは聴いたままの会議内容で、おそらくその正確性には大きな問題はない。その一方、協議会の公式記録では一定の尺度で編集が入っているわけで、外部に対する統一見解として発信したくない情報はオミットされているわけですね。
これ、私企業なら「関係各所が責任を持てる統一見解として情報発信する」と謂うのもわからなくはないんですが、国家の省庁と専門家のヒアリングなんですから、都合の悪いところは摘みます、では済まないでしょうね。
>>なんか、こう、もやっとですけどメディア(マスコミ)に期待する部分はあるか・・・な・・・?と感じました。
poohさんのところのお話とも関係してきますけれど、こう謂うケースを視ると一定の期待は持てますね。あちらでオレは、
>>評判や噂話のような実体的なコミュニケーションで流布する玉石混淆の情報に対して、妥当性のガイドラインを示すことがマスコミ情報の本来的な役割で、ネットが登場してもマスコミの情報容量の限界を補完する形になるのが理想なんですが、現状ではマスコミ情報が信頼出来ないからネットでロウデータに近い位置から発信された妥当な情報を漁ると謂う形になっています。
…と謂うふうに申しましたが、ネットの容量を活かして全文掲載と謂う形でロウデータを公開し、それに記事として意見を付与すると謂うのは、現時点では結構マシな手法なのかな、と思います。
ただ、理想を謂えば記事自体の質の向上が伴わないと、言ってみればただのアリバイ作りと謂う形になってしまいますので、意味附けの妥当性がセットで揃ってこそマスコミが十全に役割を果たしていると言えるのでしょうね。このやり方でも、やっぱり受け手の側がロウデータに当たって妥当性を検証するコストがあるわけですから、まだまだ過渡的な手法だと言えるでしょう。
IRの分野なんかで、定量的データは容量に余裕のあるネットに振って、紙ベースではハイライトしか述べないと謂うのは、やっぱりカネが絡む事柄ではシビアな妥当性判断の基準があるからで、実際にカネを出す側には半端な嘘が通じないからなんですが、一般的なマスメディアでは、まだまだイッパンタイシューに対して安直な牽強付会が通じると謂う認識でしょうし、要はマスコミの堕落を監視する仕組みや動因がまだまだ弱いと謂うことなのかもしれません。
投稿: 黒猫亭 | 2009年10月30日 (金曜日) 午前 05時50分