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2009年10月27日 (火曜日)

都会では

最近ウチやせとさんのところで経済の話をする機会が増えているが、別段オレが経済に明るいからとか経済の話をするのが面白いからしているわけではない。それどころか、オレは自他共に認める経済音痴であるし、まあ、あんまり楽観的な見通しを許さない状況であるから、気の滅入る話題であると謂う言い方が出来る。

しかし、どうやらYJS さんのご意見を伺うと、ここ二〇年くらいで経済が悪化した理由はかなりハッキリしていて、何故かそれが表立って論じられていないし、政治の舞台でも注目されていないと謂う大きな問題があると謂う認識を得た。

たとえば、小泉構造改革が失敗した理由は、間違ったタイミングで間違った政策を実施したからだと謂うことで、これは普通に経済学の教科書に書いてあることなのだそうである。だとすれば、小泉政権並びに構造改革路線を強行した旧政権の責任は甚大で、何も道標がない状況で間違ったことして失敗してしまったのであれば、それを過酷に追及するのは下司の後知恵と謂うものであるが、普通の専門家なら誰でも識っていることを無視して間違ったことをして予想通り失敗したのであるから、その責任は大きい。

こう謂う問題を論じていると、理路や動機はさまざまながら、何故か「現状で仕方がないんだ」「小泉構造改革は困難な状況の中でよくやったほうだ」と謂う意見が一定の頻度で出てくる。その種の意見を視ると、現在只今困窮生活のど真ん中で喘いでいる者としては強い苛立ちを抑えきれない。

経済を論じる場面で、現状を肯定してどうするよ。

経済学と謂うツールに一定の信頼を置くなら、現状において経済活動が鈍化していることには、政策の失敗と謂うハッキリした理由がある。罪人を罰したところで腹は膨れないから、その戦犯追及だの断罪だのなんかはどうでも好いことだが、間違いを間違いと認めてもらわないと、間違った現状が肯定されてしまうし、間違った現状が継続する、それで今日明日にも死んでしまう人間が無視出来ない規模で存在するのだと謂う、それだけの話をしているのである。

それを直接的に表す指標は自殺率の推移である。

パッと検索してみると、警察庁統計資料に基づいたグラフや厚労省の「自殺死亡統計の概況」のグラフが出てくるが、少なくともここ一〇年に亘って自殺率の異常な爆上げが高止まりしていることが一目瞭然である(前者は総数、後者は一〇万人当たりの自殺率を扱っているので、ご注意を)。

警察庁資料の「職業別自殺者数の年度推移」を視ると、爆上げの主体が失業者であることがわかるが、九七年から九八年の橋本政権の構造改革の失敗とアジア通貨危機の影響による歴史的景気後退を受けて四〇〇〇人近く失業者の自殺が増えている

元々の傾向として、失業者の自殺が多く、その次が被雇用者、次いで自営業者の自殺が多いと謂うのは、まあ普通に社会の人口構成と自殺の関係を考えれば当たり前の順番だが、被雇用者と自営業者でも、それぞれこの時期に一三〇〇人近く増えていて、全体で八〇〇〇人程度前年から急増している。これは、当時盛んにマスコミで報じられたことなのでご記憶の方も多いだろう。

実は、あれ以来一向に問題は解決していないのである。

国民の総人口一億二千万人の中で八〇〇〇人規模と謂うとそれほどでもないように感じるだろうが、阪神淡路大震災の総死者数が六四三四人であるから、それを上回る規模の急増があったと謂うことである。自殺と謂うのは専ら当人に責任があると謂うのが普通の感覚だろうから、自殺者が八〇〇〇人増えたと識って「景気が悪くなった」と感じる人はあっても阪神淡路大震災のようなショックは覚えないだろう。

しかし、地べたがグラッと揺れただけで数千人の人々が圧死することが悲惨なら、職を喪って人生に絶望した数千人の人々が死を選ぶことも同じくらい悲惨である。これを小泉政権では「自己責任」と謂う強弁で表現したわけである。だとすれば、経済政策の誤りと景気の後退の間の因果関係が客観的に指摘可能なのであれば、政治の責任で死んだ人々に対して一切救済の手を差し伸べず、それどころか「自業自得」の烙印を捺したと謂うことになる。

厚労省の統計データでもっと長期的な傾向を視ると、おおむね景気や社会の動向とは無関係に総数で二万人前後、一〇万人当たり比率では一七、八人の人間が死を選ぶと謂うことが見て取れる。

つまり、政治や社会の問題が上手く行っていても、如何に社会に希望が満ち溢れていても、おおむね二万人規模の割合の人々が、何らかの理由で自殺を選択するわけであるから、このレベルの自殺者と社会状況の相関は薄いと視るべきだろう。

社会全体の積極的な取り組みによって幾らか減少させることは可能かもしれないが、それは大局的に視て誤差の範囲かもしれない。勿論、それでも自殺者の増加を意志的に喰い止めようとする社会的な試みで一人でも救うことが出来るのであれば、それには大きな意味があるだろう。

しかし、九七年から九八年に掛けての歴史的自殺率急増を視ると、総自殺者数が一挙に三万人の大台に乗り、一〇万人当たりでは二四人前後に増えている。これは経済が若干持ち直した二〇〇四年前後にも微減に留まっている。

つまり、平時のレベルから視れば現在毎年一万人前後の人間が景気後退の影響で自殺し続けているわけで、総自殺者数の推移を視ると、九八年から一〇年以上連続して三万人台を割っていない。昨年のリーマンショック以来明るい材料がないのだから、今年もそのレベルで推移するだろうと謂う観測が可能である。だとすると、景気後退に直接の原因を求めることが出来る自殺者が、延べ一二万人以上存在すると謂うことになる。

普通に考えれば、自民党政権の長期経済政策の誤りが橋本構造改革の影響で一挙に顕在化し、小泉構造改革がそれを固定化したと視ることが出来そうである。以前YJS さんが紹介してくださった松尾匡教授のコラムによれば、小泉構造改革はその時点の経済状況を基準にして考えれば正反対の方向性のものだったと謂うことになるから、まあこの観測で鉄板と謂うところだろう。

厚労省のデータは明治三二年を起点とする一〇〇年以上に亘るもので、十分超長期的な傾向を示すものであるが、ここ一〇年余の自殺者数の爆上げは、たとえば終戦後から高度成長期に至るまでの未曾有の社会不安が蔓延した世情における爆上げよりも大きく、しかも長期化しつつあるわけで、こんな異常な状況を「仕方がない」と容認している言論には考慮を払うだけの意味なんかない。

自殺率と謂う一局面だけを切り取って社会全体を俯瞰すると謂うのは、まあ参考程度にしかならない観測であることは事実だろう。しかし、このデータを視る限り、近年の社会状況は、従来の歴史の常識では消耗戦争にボロ負けして占領統治されるくらい巨大な社会不安でもない限り在り得ないレベルにあって、それが未曾有の規模で長期化していると謂うことが見て取れる。

この現状でも「仕方がない」と考えるのであれば、それは「もうすぐ世界は破滅するんだ」と言っているのとほぼ変わりがない。平時よりも一万人規模で増加している自殺者に対して「現状の社会に養う力がないから淘汰されつつある人々」と言っているのと意味的には変わりがない。普通は、これは今すぐにでもどうにかしなければならない喫緊の社会問題のはずであるし、そう謂う前提となる認識を共有していない議論をしても意味がないだろう。

なんぼ社会的な価値観が大きく揺らぐ激変期に来ているからと言って、敗戦レベルの深刻な社会不安が一〇年以上続いているのが仕方ないと謂うのは、まあ普通一般の生活者には何の関心もない議論である。

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コメント

こんにちは、黒猫亭さん。気の滅入る話題を出して申し訳ない。

「経済学は何のためにあるか?」「経済学者が飯を食うためにある」という悪口があるんですね。実のところ半分当たっている面があって、経済学はまだまだ発展途上の学問で、将来をきちんと予想するとか、将来の経済状況を構築するための経済政策を間違いなく出すとかに達していないのです。そのため、予想に反した事が起こってはあたふたとその解析をして理論づけを行う面があって「経済学者が飯をくうためにやっている」と言われてしまう訳です。

少し説明しますと、おそらく「普通に経済学の教科書に書いてあること」はケインズ時代のケインズ経済学の教科書のことではないかと思うんですね。ケインズ学派はフリードマンらの新自由主義経済学に「石持て追われた」面があるんですが、それもまた、「予想出来ない事態」に直面したからなんです。それが「スタグフレーション」です。私がせとさんのブログで「需要と供給」とか「消費性向」にこだわった理由は、まさにケインズ学派が予想出来ず、また有効な対策も提案出来ずに新自由主義学派に追われる理由となった「スタグフレーション」が「消費者の消費性向」と強く結びついた事態だったからです。

なんていうかな、古い教科書(ケインズ時代のケインズ理論)では予想出来ない事態がおこり、新しい教科書(フリードマンの新自由主義)では、その対策が間違いかも知れない社会で我々は生きている訳です。我々にできることは、今の間違いの理由を精一杯明らかにすることしか無いのかも知れないのです。

なんていうかな、理論の無い社会で生きるためには、修正するべきかどうかを早く判断するしか無いのだろうと思ったりします。

投稿: 技術開発者 | 2009年10月27日 (火曜日) 午前 09時25分

>技術開発者さん

やはりここでも、「そんな話はしていない」とか「その話はもうした」とか申し上げねばならないのが心苦しいのですが。

まず、「そんな話はしていない」から。

今回の書き込みは、せとともこさんのところに書き込まれるべき事柄だったように思います。このエントリの論点は、「景気悪化の直接的な影響によって年に一万人の自殺者が増えていることを、経済を論じる場面で看過するか否か」です。「看過する」と謂うのであれば、本文で申し上げたように、そのようなご意見の方とこれ以上経済を議論しても意味はないので、そこで議論を打ち切ることが出来ます。

どうもせとさんのところの書き込みを拝読する限り、技術開発者さんはこのひどい社会状況は国民の選択の結果の自業自得なのだとお考えのようですから、もしかしたら看過すると謂うご意見なのかもしれませんが、そうであればこれで対話は終了すると謂うことです。

また、看過しないのであれば、それは具体的にどう謂うことをすれば好いのかと謂う議論になりますから、国民が悪いだの政治家が悪いだのと謂う話とは全然関係のない建設的なお話にお附き合い戴くことになります。

次に、「その話はもうした」を。

>>そのため、予想に反した事が起こってはあたふたとその解析をして理論づけを行う面があって「経済学者が飯をくうためにやっている」と言われてしまう訳です。

この表現はどうなんでしょう。それだと、技術開発者さんと違う意見は経済屋が飯を喰う為の後附け解釈だが、技術開発者さんのご意見はそうではなくて正しいと謂う話になりますが、この書き込みだけを拝読する限り、何の根拠も述べられていません。

>>私がせとさんのブログで「需要と供給」とか「消費性向」にこだわった理由は、まさにケインズ学派が予想出来ず、また有効な対策も提案出来ずに新自由主義学派に追われる理由となった「スタグフレーション」が「消費者の消費性向」と強く結びついた事態だったからです。

ケインズ学派がスタグフレーションを予想出来なかったと謂う話は、ウチでもせとさんのところでも議論の出発点になっているはずですが、技術開発者さんは読んでいてお気づきにならなかったのでしょうか。技術開発者さんが今頃になってスタグフレーションのお話をされたのには、失礼ながら大きな徒労感を感じました。

まだしもそれを踏まえた上でのご反論なら意味があったと思いますが。

どうもですね、以前YJS さんが紹介してくださったダイヤモンド社のコラムで田中教授が経済ジャーナリズムに対して指摘していた事柄なんかが脳裡をよぎるわけです。

投稿: 黒猫亭 | 2009年10月27日 (火曜日) 午前 11時05分

こんにちは。YJSです。

> ウチでもせとさんのところでも議論の
> 出発点になっているはず

あ、でも、せとともこさんのところでのコメント欄では、私は明示的には言及していませんでした。
かなり話が難しくなるのと、私の力量では多く生まれるはずの疑問に全て答えるのは不可能なので。
とりあえず、答えられる範囲の内容だけ、せとともこさんのところに書きました。(後は…私も精進しないと。)

投稿: YJS | 2009年10月27日 (火曜日) 午後 01時47分

>YJS さん

なんか、オレが引き合いに出したお陰で、以前の再現になってしまって申し訳ない次第です。

>>あ、でも、せとともこさんのところでのコメント欄では、私は明示的には言及していませんでした。

そうですねぇ、なので「気附かれなかったですか」みたいな言い方になるんですが、こちらの別のエントリでその説明はありましたから、それを踏まえた話にはなっていたはずなんですよね。

まあ、われわれの議論にはあまりご関心がないと謂うことかもしれません。

投稿: 黒猫亭 | 2009年10月27日 (火曜日) 午後 02時23分

こんにちは。YJSです。

> 以前の再現

力量不足で、本当に申し訳ないです。

あと、飯田泰之さん(駒澤大学准教授、マクロと実証と政策がご専門)が以下のURLで田中秀臣教授のシノドスレクチャーを宣伝しているんですが、宣伝のすぐ下で「エコノミスト格付けのための第一関門と第二関門」を書いているんです。

http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20091027#p2

私、第二関門は全然ダメでしたのでっ! 精進ショージンっと。

投稿: YJS | 2009年10月27日 (火曜日) 午後 02時39分

>YJS さん

>>力量不足で、本当に申し訳ないです。

いや、気が進まないと仰っていたのに、こっちが無理筋で召喚掛けて、専門的議論では下駄を預けてしまったんですから、こちらこそ申し訳ありませんでした。

>>あと、飯田泰之さん(駒澤大学准教授、マクロと実証と政策がご専門)が以下のURLで田中秀臣教授のシノドスレクチャーを宣伝しているんですが、宣伝のすぐ下で「エコノミスト格付けのための第一関門と第二関門」を書いているんです。

いやー、第一関門の前を素通りするオレが言うのも何ですが(笑)、何かいろいろ面白いことが書いてあります。何処が面白かったかはわざわざ言いませんが。

投稿: 黒猫亭 | 2009年10月27日 (火曜日) 午後 03時05分

こんばんは。

 上のコメントで触れられている飯田泰之氏の書いた本を何冊か読みました。
議論の進め方等については同意できる点が多い反面、
彼の論では、私の妻が以前従事していたような時給100円以下しかもらえない内職を
日本国内で行い続けている人がいることが説明できないように思います。

 「生きるプライド」とか「他人からは無駄に見えてもどうしても譲れない(気がする)こと」とかは飯田氏の経済学から零れ落ちる部分です。飯田氏の経済学の説明でいうところの「合理性」の原理から離れて動いています。、
 そういう「合理性」では説明できない行動をする人の多さが、今の日本の自殺の多さにつながっていると私は考えています。
 切羽詰まった人間に、ゆとりがあるときと同じ選択ができるだろうと期待するのは、困難なんですよ。

投稿: 憂鬱亭 | 2009年10月28日 (水曜日) 午前 01時31分

>憂鬱亭さん

仰っていることをよく理解出来ていないと思いますし、飯田泰之の著書も読んでいないので、迂闊なことも言えませんが、或る種人間と謂うのは、個人として切り離して考えればそれほど合理的なことばかりしているわけではないとは思います。

また、たしかに切羽詰まった人間にゆとりがあるときと同じような選択を期待することも出来ないでしょうし、プライドと謂う経済合理性とは別の動機で動く部分もあるとは思います。素人考えでは、経済理論と謂うものはどうしてもそう謂う経済合理性以外の基準によって揺らぐ部分があるんではないかと謂う気もしますね。

ただ、その一方で経済活動と謂うのは経済のルールを前提にして大局的には合理的に動いているわけですから、科学として洗練させていくことは可能だろうと謂うふうにも思います。その場合、憂鬱亭さんが仰るような不確定性を如何に理論モデルから切り離すことが出来るか、みたいなことが重要なのかな、とぼんやり思います。

つまり、経済学と謂うのは経済合理性以外の個人の行動規範を理論モデルから切り離したり織り込んだりすることで、不確定性を排除することが重要なのかな、と思うんですが、この辺は門外漢なのでよくわかりません。

要するに、イメージとしては、経済学も科学である以上、洗練されていく過程で恣意性や不確定性を排除していく方向に進むわけで、それ自体は経済学の瑕疵ではないんではないかな、と謂うことなんですが。そう謂う意味では、経済学からこぼれ落ちる部分があるのは当然で、逆に謂うとそんな部分まで経済学で云々されたくないよと謂うことだろうと思いますし、そこは「科学」では量的な変数としてしか扱わない部分なのではないかと思います。

>>そういう「合理性」では説明できない行動をする人の多さが、今の日本の自殺の多さにつながっていると私は考えています。

そこはよくわかりません。自殺を選ぶ理由を突き詰めていけば、やはり個人性の部分に行き当たるのは当たり前だろうと思いますし、それは一律に語り得るものではありませんし、経済の切り口で考えることでもないだろうと思います。

間違いなく謂えることは、おそらくこの自殺率の向上は社会的状況の変化と因果関係があるだろうと謂うことで、偶然経済の動きと連動していると考える理由はないだろうと謂うことです。だとすれば、非常に強い確度で、景気の悪化によってそれまで死ななくてもよかった人が死んでいるのだろうと推測出来るわけで、景気が回復すればそのレベルの人間の自殺を防止することが出来るだろうと予測出来るわけです。

この場合、個々の自殺者を個人として視てその動機に立ち入ることは、経済を論じる場面ではやるべきではないだろうと謂うことなんですね。死者をマッスとして捉える視座の考察になるので、動機の部分は経済で切り取るべき領域ではないと思うんです。個人として視るなら、死者はマッスではありませんし、一個人の死は個人性の観点では他人の死と同じものとして扱うことは許されません。

個人性に立ち入って自殺を喰い止めるとするなら、本文で少し触れたように個々人と向き合ってカウンセリングなどによって動機の面を考える必要がありますが、経済の切り口では「景気の動向次第で一万人規模の自殺者の増減がある」と謂う事実のみを取り扱うのが節度だろうし、そこは分けて考えるべきだろうと思う次第です。

投稿: 黒猫亭 | 2009年10月28日 (水曜日) 午前 08時38分

どう考えても、金の使い方間違えてますよね・・・。経済政策がどうとか言うまえに、リスクがあるやらないやらわからんBSE対策とか、農薬のランダムサンプリング分析やらに使う金があったら、中高年の自殺対策にその分回した方が、よほどたくさんの人の命を救えるのに、と思います。

数年前、仲の良かった同期の同僚を失ってるだけに、他人事とは思えんのです。

投稿: がん | 2009年10月29日 (木曜日) 午後 07時46分

>がんさん

>>どう考えても、金の使い方間違えてますよね・・・。経済政策がどうとか言うまえに、リスクがあるやらないやらわからんBSE対策とか、農薬のランダムサンプリング分析やらに使う金があったら、中高年の自殺対策にその分回した方が、よほどたくさんの人の命を救えるのに、と思います。

これ、難しいですね。

昔いろいろ聞きかじった知識や、このエントリに関連して調べた範囲では、特定の国家においては常に一定数の自殺者が存在して、社会的な状況が変わっても自殺率の傾向それ自体を大きく改善することは難しいようです。

つまり、大きな社会不安が醸成された場合にそれによって自殺率が大きく上昇することは在り得ても、その社会不安が解消されて社会状況が安定しても一定程度の自殺者は必ず存在する、と謂うことのようです。日本では大体一〇万人当たり一七、八人の自殺者が社会状況の如何に関わらず常に存在して、時代の大きな変動期には数割程度増えると謂うことのようです。

個人サイトのようですが、主要国の自殺率の推移を論じた資料がありますので、参考までにリンクを掲げます。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2774.html

日本は嘗て自殺率世界一と謂う芳しくない時期があったわけですが、キリスト教圏では自殺を禁じる倫理規範が自殺率を低く抑えていると謂う傾向があるようです。アジアでは、アジア通貨危機以降の社会不安によって韓国の自殺率が急上昇し、日本を抜いていますね。

これを視る限り、自殺率を低く抑える方向には宗教的禁忌が有効で、高く跳ね上げる方向には経済の影響が強いと謂う一般的な傾向があるようです。欧米先進諸国ではプロテスタントとカソリックと謂う伝統宗教の倫理や宗教心が自殺率を低い水準で抑えているけれど、日本にはキリスト教に相当する穏当な権威を認められた伝統宗教が存在せず、その空隙にミニ宗教やニセ科学が入り込んで社会問題を引き起こしている、と謂う構図なのかもしれません。

なので、低く抑える方向についてはさまざまな議論が在り得るとは思いますが、ひとまずこちらのエントリでは扱いきれません。国家の枠組みや国民性、文化、宗教等の幅広い領域に亘るかなり大きな議論になりますので。ここでは高く跳ね上げる方向の要因、つまり経済的動向の、しかも単純な側面に絞って考えていると謂うことです。

hietaro さんのところでも自殺を扱ったエントリが上がっていますが、自殺と謂うのは非常にセンシティブなテーマです。憂鬱亭さんへのレスでも申し上げましたが、不景気で自殺率が上昇すると謂う事実が、ただちに個々人の自殺の動機面を直接的に説明するものだとはオレは考えていません。

たとえば「失業して将来を悲観したからだ」とか「経済的に逼迫して人生に絶望したからだ」とか「リストラのしわ寄せで被雇用者の業務が繁忙化したからだ」とか考えてみても、多分それは正解ではないんです。

人一人が自ら死を選ぶまでには、それまでのさまざまな来し方が複合的に関連していると考えるのが妥当でしょうし、それは人それぞれで一様ではないでしょう。自殺を動機面に立ち入ってマッスとして考察するなら、勝手な想像や憶測だけでストーリーを組み立てるのではなく、もっとエビデンスに即した学問的なアプローチが必要でしょう。

つまり、それだけの用意がないのに、数万人に上る人々が自ら死を選んだ理由を一括りにして雑駁に論じることは許されない、それが言論の倫理的な節度だろうと謂うことだと思うのですね。

ですから、このエントリでも「近年の景気の動向が毎年一万人前後の自殺者の増加をもたらしている」と謂う事実以上のことは扱うことが出来ませんし、経済を切り口として考えるのであれば「不景気を解消すれば一万人前後の自殺を抑止することが出来るだろう」と謂う確度の高い予測にフォーカスするしかないですし、それは景気回復を喫緊の課題と見做す理由附けとして一万人前後の人命が十分な重みを持つと考えるか否か、と謂う問い掛けになると謂う問題提起ですね。

もしかしたら、これまでの一〇〇年以上に亘る統計からの妥当な推測を超えて、今のこの時代の日本においては、一〇万人当たりの自殺率が二〇人以上なのがスタンダードになりつつあるのかもしれませんが、それは今結論として予測すべき妥当な根拠がまったくないわけですね。それは、現状で推測出来る主要な動因を解消して、なおも自殺率が下がらなかったときに初めて採用可能な推測です。

この問い掛けをスルーして、事実上一万人前後の人命の損失を黙過することになる意見を発することは卑劣だとオレは考えますし、このエントリで主張しているオレ個人の意見とは、延べ一二万人にも上る人命の損失を黙過する意見など、大局を論じる見地では顧慮すべき価値などないと謂うものです。

投稿: 黒猫亭 | 2009年10月30日 (金曜日) 午前 05時49分

黒猫亭さん お返事ありがとうございます。

個人的な事情で、書き込みに間が空いてしまいました。

>景気が回復すればそのレベルの人間の自殺を防止することが出来るだろうと予測出来るわけです

 という話は、一般論としては同意します。しかし、昨年中盤までの日本の「好景気」のように、自殺者をむしろ増加させる「景気回復」もあるわけです。
 「全体のパイが増えれば、規模の大きさに違いはあっても、すべての人に恩恵がいきわたる」というのは、飯田氏も含めて、経済学者(マル経は除く)が揃って主張するところですが、「文化的生活」が補償されない程度の恩恵では、自殺防止の効果は期待できません。

 という意味で、「自由経済は他のものよりもマシだ」という飯田氏の主張には、私は賛成できません。

 もう一つ。

 常識的には、自殺は「非合理的な行動」と区別されることが多いと思われます。しかし、「経済学」では、「(すべての)人間は常に最大の満足度を得るように行動する」と前提し、そのような選択を「合理的」と呼ぶのだそうです。
 この場合「合理的」の指す意味に違いはあるのですが、「経済学」の主張を援用すると、「最大の満足度を得る」ための選択が「自殺」になっている人たちが一定数いる、ということになると思います。
 「自殺が私にとって最良の選択だ」と思い込む人の心理は、私には理解・納得できてしまいます。
 が、「経済学」が、学問としてそれを肯定するような論理構造を持つとしたら、「経済学」を援用しての自殺防止には、私は違和感を禁じえません。

 「経済学」が全部ダメだとは主張しません。しかし、バブルこの方、日本の「経済学」がわれわれをどの方向に導いてきたかを検証せずに、「経済学ではこっちが本当は正しいんだよ」という話に乗っかることに、強い抵抗感があるのです。

投稿: 憂鬱亭 | 2009年11月 2日 (月曜日) 午前 01時20分

>憂鬱亭さん

>>しかし、昨年中盤までの日本の「好景気」のように、自殺者をむしろ増加させる「景気回復」もあるわけです。

本文で掲げた自殺率の年次推移のグラフを視てください。昨年中盤までの「好景気」でほんの僅かだけ二〇〇三年をピークとする自殺率の上昇を抑止しています。勿論、それ以前の水準に戻していませんから微増してはいるわけです。

九八年以降の自殺者の激増の背景には間違いなく景気悪化があるわけで、この景気悪化とはYJS さんが仰るように「非自発的失業率の激増」と謂う意味ですね。そう謂う意味では、自殺率を平時の水準に戻すほどの「景気回復」などなかった、つまり非自発的失業率の低減などはなかったと謂うだけの話になるのかな、と思います。

ですから、本文の文脈で自殺率を視るのであれば、まず失業率との相関を視ていく必要があります。

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2740.html

ご覧の通り、失業者数と自殺者数の推移には非常に強い相関があります。さらにこれに格差社会の貧困問題が関係してグラフの曲線が複雑化していますが、大枠では自殺者数の高止まりは失業率の高止まりを解消することで解決可能で、平時の二万人台に戻すことが可能であることを示唆しているわけです。

また、憂鬱亭さんは誤解されているようですが、経済学と謂うのは経済を分析し原理原則を抽出する科学ですから、科学である以上それを活用する側の視点では道具にすぎませんし、それと経済の切り口で社会問題を視ると謂うことはイコールではありません。

たとえば、経済学の有力な理論でGDPを倍増する方法が在り得るとして、その通りにするなら自殺者数が四万人台に跳ね上がると謂うのであれば、これは経済政策として採り得るものではないと謂うことです。

経済学が人間の幸福に益するとしたら、高止まりしている自殺率を解消するには経済学のほうにどんなアイディアがあるのか、と謂う観点で経済学を扱うのが本筋だと謂うことです。そして、このエントリで問い掛けているのは、経済学者も含めて、経済に携わる人々は、毎年一万人の自殺者増と謂う問題を放置するのか、と謂う問い掛けです。

>>「全体のパイが増えれば、規模の大きさに違いはあっても、すべての人に恩恵がいきわたる」というのは、飯田氏も含めて、経済学者(マル経は除く)が揃って主張するところですが、「文化的生活」が補償されない程度の恩恵では、自殺防止の効果は期待できません。

この場合、国民全体の「文化的生活」が保証されるレベルの恩恵を目指すのが経済活動の社会的使命だと謂うことですね。つまり、一部の人間だけが総取りするようなシステムにすることで経済活動が活発化しても、それは経済政策として間違っていると謂うことです。経済学が道具であるにすぎない以上、国民全体の文化的生活が保証されるには如何なるアイディアが在り得るのか、と謂うのが学に対する社会の期待です。

たとえば自然科学と政策の間の関係を考えてみてください。自然科学は人間の都合で左右されるような学問ではないですし、非情な真理しか語りませんよね。そのように人間の都合とは独立して存在する知見を活用するのは活用する側の価値観であり、その価値観自体が学に包摂されていないのは当然ではないでしょうか。

>>「経済学」が、学問としてそれを肯定するような論理構造を持つとしたら、「経済学」を援用しての自殺防止には、私は違和感を禁じえません。

どんな科学であれ、平時に二万人前後の自殺者が存在すると謂う事実に対して、価値観で対処する学問はないでしょう。それは学問的観点では「事実」であって「問題」ではありません。それを「問題」と視るのは、飽くまで科学を活用して社会問題の解決に当たる者の価値観です。

>>「最大の満足度を得る」ための選択が「自殺」になっている人たちが一定数いる、ということになると思います。

経済学で自殺者をそのように見做すのであれば、では「最大の満足度を得るための選択が自殺である人々」の総数を減らすには、経済学にどんなアイディアがあるのか、と謂う観点で考えるべきだと謂うことではないかと思います。

科学と謂うのは、時に…と謂うかおおむね人間から視て非情で無神経なことを平然と言いますね。経済学も科学である以上、非情で無神経なことを言います。これは、経済活動と謂うものが、人間の営みでありながら人間の恣意性とは別に存在する外在的な原理で動いている以上、仕方のないことです。

これはつまり、現実の経済活動は如何にあるべきかと謂う問題と、経済学とは別なんだと謂うことですね。

そして、たとえば平時においても二万人台で存在する自殺者を如何にして救済するのかと謂う問題に迫り得る学は経済学ではないのだし、経済学にそれを求めてもないものねだりだと謂う、それだけの話だろうと思います。

経済学が解決に与し得るのは、景気の悪化が直接原因と視られる一万人の上乗せ分の低減と謂う局面のみです。だからこそ、何度も諄いくらい経済の観点で考えるなら自殺の動機面に立ち入った考察はオミットすべきだと強調しているのですね。

オレがここで主張しているのは、それこそ科学万能主義のような、学と社会問題の間の変な混同がなかったですか、と謂う話なんですよ。社会問題についてはさまざまな価値観を公平に勘案する必要がありますし、その上で、たとえば経済活動は如何にあるべきなのかと謂うビジョンが確立される必要があります。そのような総合的ビジョンに則った上で、では学問にはどんなアイディアがあるのか、そう謂う順序になるでしょう。

>>バブルこの方、日本の「経済学」がわれわれをどの方向に導いてきたか

ここで論じているのはまさにその問題です。自殺者が一万人増加するような経済活動は間違っている、そう謂う話ですし、その為に経済学が何を為し得るのかを考えるのが本筋であって、経済学に振り回されるのは間違いだろうと謂う話です。

その問題に対して、やはり在るべき経済活動のビジョンと経済学を混同して批判しても意味がないでしょう。それはたとえば科学万能主義の裏表のようなものです。

投稿: 黒猫亭 | 2009年11月 2日 (月曜日) 午前 08時10分

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