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2009年11月24日 (火曜日)

misery

…つか、おまえはいい加減自分が可哀相だと謂うことに気附け。

そう謂う次第で「小公女セイラ」のレビューであるが、大凡半分の話数を消化した段階で思うのは、志田未来のキャスティングが活きている企画だな、と謂うこと。ホントにこの志田未来の柄が醸し出す「おまえの言い分は正論だけど、なんかむかつく」と謂う絶妙のバランスが効いている(笑)。

今週の第六話でも、大人の権力者である三村千恵子を向こうに廻して「一文無しの使用人にだって、正しいことと間違っていることの区別は附きます」「どうぞ、殴って戴いて結構です。ただし、疵付くのは私じゃない、間違っているあなたです」なんてことを言っちゃうから、こいつは或る種の人間に憎まれるんだよなぁ、と。

それってつまり「あんたは文無しの使用人にもわかる善悪の区別が附かない人間で、その事実は相手を屈服させてみたところで何も変わらない」と言ってるわけだから、三村千恵子のような空っぽの中身を高圧的な空威張りで取り繕っているような人間にとっては、自己の存在の全否定である。

この辺の、「よくぞ言った」とスカッとする感情と「でもなんかむかつく、こいつ」と感じてしまうアンビバレンツな感情が同居する辺り、これは志田未来でないと出せないバランスではあるよな。こんな人間が身近にいたら、たしかに鬱陶しい。

この流れは、その直前のかをりとの会話が予言している通りで、誰でもセイラのように真っ直ぐに生きられたら好いと謂う憧れは抱くけれど、その正しさがそうは生きられない人間を誰彼構わず痍附けてしまう種類のものでもあることがわかるだけに、セイラのような生き様に対して苛立ちを感じる部分がある。このかをりの言葉は視聴者の感じ方の代弁になっている。

で、三村千恵子と謂う人物は、それでもセイラを殴って見す見す疵附いちゃうから自分を追い込んでしまうんだよなぁ、と。まあ、その直後に何事もなかったかのように取り澄まして朝食の席に就く三村千恵子の姿を切り返す辺りに演出の皮肉があるわけだが、そもそもの出発点から三村千恵子はセイラの母である黒田薫子に対して敗北感を抱いていて、成人後の現在もそのルサンチマンから脱却出来ておらず、剰えそんなことは一切与り知らないセイラに薫子の姿を重ねて虐待を重ねているのだから、一種毀れた大人である。

以前擬えた「女王の教室」の阿久津真矢が和美をいじめ抜く動機と違って、三村千恵子のセイラに対する悪意と冷遇には最初から何の正当性もないのだし、それは黒田薫子に対する感情もまた同じことである。冷たい言い方をすれば、セイラや薫子のような人間に接して痍附くのは、筋から謂えば痍附く側の人間の責任であって、痍附ける側の責任ではない。どちらが「悪い」のかと謂えば、痍附いて悪意を抱く側の人間が悪いと謂うことは当たり前の話である。

それは単に、セイラや薫子のようにどんな逆境でも強く美しく生きていける人間がいる一方で、自分はそうではないと謂う事実が不公平に感じられると謂うだけの話で、人間が生きていく上で出発点の不公平さを嘆いてみても始まらない。それはそうなんだけれど、その正論はやっぱり大多数の弱い人間を痍附けるのである。

この一連のシーンを視るに、やっぱりこのドラマはセイラと三村千恵子の間の愛憎劇が本筋で、苦難に耐え忍ぶセイラの強さや美徳を描くドラマではないと思うが、セイラの持って生まれた資質や薫子の教えに基づく正しさだけでは三村千恵子のルサンチマンを解消することは出来ないのだろうし、二人の和解が成立する為には、一方の三村千恵子が何も学ばず自身の問題を問題として認識していない人間である以上、セイラが苦難を通じて何事かを学び成長しなければならない、そう謂う構造の物語だろうと予想する。

さて、今回のエピソードは、原作のロッティのエピソードを下敷きにしたもので、まさかこの設定で幼女を絡めることが出来るとは思わなかったが、意外にエピソードレベルでは原作を忠実に踏襲しているようで、次回予告を視るとアンヌとパン屋の婦人のエピソードまで拾うらしい。この辺、原作物の消化とアレンジが抜群に上手い岡田恵和らしい手際の良さではある。

かなり大胆に変えているように見えて、子細に検討すると結構原作の骨子を抽出している、そう謂うバランスである。何処かの「原作原理主義者」のPに爪の垢でも煎じて飲んでほしいくらい、プロとして洗練されたスキルである。

ただ、メインプロットはカイトの自称婚約者である田所ゆかりがカイトを追って学院で働き、セイラと張り合うと謂う窮めて高橋留美子チックなドタバタラブコメがコアで、そこに何だかよくわからない盗難事件が絡んで、さらに謎の要潤の陰が見え隠れすると謂う、相変わらず予告だけを視ても何が何だかわからない筋立てである(笑)。

第六話の話に戻ると、今回のエピソードはシリーズ構成のレベルでは前回のラストで学院追放のピンチに陥ったセイラを救済する為の辻褄合わせのネタであるから、そんなに主要人物にフォーカスした必然性のあるドラマではない。

謂わばヒマネタの一種であるから、折り返し点に来ての一休みと謂う性格のエピソードで、全一一回と視るなら、第九話のラストから一〇、一一話と二話掛けて風呂敷を畳む大ネタの展開になると考えれば、後三回くらいで現時点で提起されている物語上の課題は収束すると視て好いだろう。

すでに生徒レベルの人間関係上の問題は第四話までに或る程度解消されてしまっているので、現在の真里亜は潜在的にはセイラの敵ではないし、そうすると、これまで傍観者的な立場だった水島かをりの当事者的なエピソードをどのように処理するかと謂うのが残る物語上の課題である。生徒レベルの対立のドラマに一旦の収まりが附いているから次回は外部の人間であるゆかりを引き入れてエピソードを起こしているわけである。

これまで岡田脚本作品について論じてきたエントリで語ったように、岡田脚本の特長と謂うのは、物語全体の展開が窮めて論理的で、各話のシリーズ構成上の意味性が数行に要約可能であり、散漫なバラエティ要素を詰め込んでいるにもかかわらず、物語のメインプロットがその数行の要約から些かもブレないと謂う理知的な部分と、その論理性をわざとらしく感じさせない実感的な叙情性にある。

前回の第五話でも、これまでのドラマで語ってきたセイラとカイトの関係性に一歩進展を加えると同時に、形式上「息子が嫁を連れてきた」形に見せることで、生まれながらにダイヤモンドプリンセスであるセイラが、生まれも育ちも違うカイトの人間性の拠って来たるところを実感すると謂うロマンチックな叙情性を演出している。

ただ、セイラとカイトと謂う元々接点のない立場の少年少女が惹かれ合ったのは、飽くまでセイラの零落と謂うアクシデントがあったからで、このアクシデントがいずれ回復されることが既定事項である以上、すっきりこの二人が結ばれて目出度し目出度しと謂う形にしづらいと謂うことも事実である。言ってみれば「ローマの休日」みたいな非日常のシチュエーションにおける関係性であるから、セイラの境遇が常態に復した後にどのような成り行きにするかと謂うのは考えどころである。

原作では、セーラとベッキーが共々に隣家の富豪に引き取られると謂う形になっているのだが、この筋書きはベッキーを少年に設定したことで派生した恋愛要素を如何に処理すべきかと謂う課題に対しては何のヒントにもならない。

乱暴に予想するなら、人間関係上の物語的課題が収束した後の終盤の大ネタは、常套的にはそのようなドラマを成立させた場の危機と謂うものだろうから、これまで散々仄めかされてきたミレニウス女学院の経営危機みたいなパターンになるだろうが、何やかやのすったもんだがあった末に伝統ある女学院が共学校になって再出発し、第一期の男子生徒の一人となったカイトとセイラがクラスメイトとして机を並べると謂うような顛末ならすっきり収まるわけだが、まあ勿論根拠のある予想ではない。

そもそもこの物語を原作通りのハッピーエンドで収めるつもりがあるのかどうかもわからないのだから、余計な憶測は控えて後半戦を楽しませてもらおうと思う。

そういえば、以前のエントリで三村千恵子の少女時代を演じる溝口まりもを「ぶっさいく」と表現したが、よく視るとそれほど「ぶっさいく」でもなかったので、ちょっとだけ訂正しておこう。まあ、贔屓目に見積もって「多部未華子よりちょっとブス」レベルだから、あんまりフォローになってないが(笑)。

それと、これは是非言っておきたいのだが、岡本杏理はめざましテレビの「MOTTO いまドキ」とか「東京少女」を見る分には普通にスタイルの良い美少女なのに、なんであんなに当たり前のように三枚目キャラとして扱われているのだろうとかねがね不審に思っていたのだが、これは思うに「ヤッターマン」なんかに出ちゃったのが一生の不作だったのだろう。

三池崇作品における女優の扱いなんて、エロ要員かギャグ要員なのだから、まあ不幸な成り行きと言うしかない(笑)。

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