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2009年11月 7日 (土曜日)

少し題材が難しかったか

先週少し懸念を表明した「マイガール」第五話だが、やはり第四話までと比べると少しテンションが落ちた部分があるように思う。

つまらないと謂うほどでないが、「いつもの金曜ナイトドラマ」と謂う感じ。

何が理由なのかな、と考えてみると、今回のエピソードの根幹にあるものが、人と人の間の関係性や気持ちの問題ではなく、直接的には林夫妻の社会的役割分担にあると謂う部分が少しこれまでと違うのかな、と思った。

勿論、夫と妻の仕事が今在るような形に落ち着いたことには、人と人の間の想いが動機になっているわけだが、たとえばその想いがすれ違うことで痛みを伴う喪失に繋がると謂う筋道でもなくて、夫・弘和の写真に対する未練と、妻・ユカリの不安や罪悪感が前面に出る構造のエピソードである。

わかりやすく言うと、仕事と家庭のいずれを採るのか、その場合、どちらがどちらを引き受けるのか、家庭を受け持った者は自分の社会的自己実現を諦めねばならないのか、そう謂う問題である。

ただ、林夫妻のそれぞれが抱える問題性に一本に収斂するロジックがないのと、さらにそれが正宗が現在抱える問題、コハルとの諍いと謂う劇中イベントにも合流しないと謂う問題があって、少しバラけた印象の構成になっていると感じた。

ただこれ、やっぱり題材が難しいよ。

仕事と謂う形で社会との接点が出てくると、これまでのドラマ作りのように気持ちの解消で納めると謂うロジックが使えず、「仕事とは」とか「ジェンダーとは」とか難しい問題が出てきて、その部分は社会的規範に抵触してくる部分だから、本人たちが納得していれば他人も納得すると謂う筋合いの問題ではない。

たとえば林夫妻の場合だが、弘和の話を聴く限りではユカリの仕事に対する想いの部分が伝わってこないし、劇中のユカリの言動を聴いても仕事が面白くて仕方がないとか社会的自己実現を諦めきれないと謂うニュアンスは感じられず、弘和の収入が不安定だから家計を支える為に働いていると謂うふうに聞こえる。

ただ、その弘和は不安定な写真家の道を諦めて家事担当を選び、それだけではなく写真スタジオのマネジャーとしても働いているわけである。ハンパなことが出来ないタチであれば、社会的自己実現そのものを諦めて家事と子育てに専念すると謂う選択肢もあったはずだが、現実には弘和のほうは仕事と家事を両立させているわけである。

ユカリのほうの仕事に対する想いが弘和のそれに匹敵する、と謂うか競合関係にあるほどのものでない限り、この林夫妻の選択には視聴者を納得させられるような気持ち的な重みがない。

普通、劇中で描かれたレベルのポジションにユカリがいるのであれば、ユカリの収入で十分林一家は暮らしていけるわけで、だったら写真家を諦めた弘和が写真スタジオのマネジャーとして働いているのは何故だ、と謂うのがどうも引っ懸かる。

それは普通に自分の出来る範囲の仕事として定職に就いたと謂うことなのだろうが、これまでの劇中の描き方で視れば、正宗や木村よりもよっぽど暇で時間に融通が利く立場と謂うわけでもないのだから、写真家の道を諦めて家庭を選んだ人間が、何故わざわざ隣接職業で忙しく働いているんだ、と謂う違和感を覚える。

そこが弘和の未練で、写真家の道を諦めた選択は間違いだった、と謂う落とし所なら理解出来るのだが、弘和の選択自体は正しい、ただ実は必ずしも気持ちの部分で吹っ切れていたわけではなかった、と謂う形なのが少し釈然としないわけである。

それには、林一家の暮らしぶりが、気持ちの部分で納得出来るほど掛け替えのない家庭的幸福としてリアリティを感じない、薄っぺらいものとして描かれていたこととも関係があるのかな、と思う。この一家の幸福とは、小洒落た一戸建てに住んで娘の誕生日をケーキやプレゼントで祝ってあげるような経済的豊かさにフォーカスされているような印象で、結局林夫妻の選択はこの薄っぺらな豊かさを得る為のものにしか見えないところが問題なのかな、と。

ユカリが「もう少し頑張ってみようかな」と言うのも、こう謂う描き方だと家族の生活を支える為にもう少し無理をしようと謂うニュアンスに聞こえてしまうのが難で、ユカリ自身の問題として自己実現に挫折しかけていると謂う状況設定でもなく、家庭の中で居場所がなくなるからと謂う、仕事以外の部分に仕事を諦める動機を求めているからそう謂う印象になってしまうわけである。

であれば、ユカリがこれまで通り仕事に没頭するのは、やっぱり弘和の収入だけでは豊かな生活が出来ないから、と謂う見え方になってしまって、このような筋道になっている為に、弘和が妻の気持ちを想い子供たちを想うが故に自分の夢を断念した、それは間違いではなかった、と謂う落とし所に素直に落ちていかないのである。

非常に俗っぽいカタログ的なイメージの「豊かな生活」の為に、夫婦が最適な選択肢を選んだ、と謂う形にしか見えない。そこは現実的な処世の問題なので、素直に気持ちの問題に落ちてこない事柄である。

正宗に対しても、前回予想したように「俺のようになるな」と謂う気持ちで厳しく接しているのなら納得出来るが、今の自分の選択が正しいと思うのであれば、正宗が同じように家庭を選んだとしても弘和に説教出来た筋合いはない。

林夫妻の側のドラマがこのようなものである以上、そのドラマに接した正宗が「写真を頑張ってみよう」と謂う結論を得るのはロジックが通っていないし、寧ろ林のように夢を諦めて娘の為に安定した職業に就くことも意味のある生き方なのだ、と謂う着地点のほうが相応しいと感じる。

さらに、大人の側の事情が社会的問題に偏していて気持ちの問題に収斂しない以上、幼児のコハルが果たし得る役割もないわけで、今回の使い方は腹を割って何でも話してくれない正宗の態度に怒って臍を曲げると謂う形になっているのが芸がない。

こう謂う難しい大人の事情を幼子とどうコミュニケーションするかと謂うのも、それはそれで文芸のテーマになり得ると思うのだが、今回の描き方だと、拗ねているコハルを苦労して正宗が一方的に宥めると謂うだけの話になっていて、これまで語ってきたような「与えることで与えられる」と謂う気持ちの通い合いの呼吸になっていないのがかなり残念である。

これまでのエピソードでは、すべての要素が上手く一本に繋がって、気持ちの通い合いと謂う落としどころにスッキリ収斂し、それだからこそ幼児のコハルの純真な言動が大人の心にも響いて、それがドラマに関わったすべての人々に少しずつ温かいものを残していくと謂うデリケートな作劇になっていたのだが、今回はちょっと最初の違和感が連鎖的にすべて裏目に出た印象。

今回のレビューはかなり批判的なものになったが、これはやっぱり、こう謂う作劇は難しいんだと謂うことだろう。社会的な領域の題材を個人の気持ちの領域に導くのは状況設定にかなり周到な詰めが必要だが、そこで躓くとすべての作劇のロジックが上手く繋がらないわけである。そう謂う次第で、今回はちょっと残念な出来だったと謂う感想になった。

公式サイトで次回予告を視ると、山崎樹範演じる瀬山の恋が軸になるストーリーで、そこに写真に打ち込む正宗と剣玉に打ち込むコハル(笑)のストーリーが絡んで、さらに相撲大会まで絡むと謂う盛りだくさんの内容だが、さて、脚本家氏はこのバラけた材料をどう繋いでいくのか、そこに期待して観てみようと思う。

それにしても、やっぱりこの枠ではそう謂う役を振られるのか、載寧龍二(笑)。

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コメント

こんにちは。

・・・忘れてました(ToT)ゞ。仕事がそば屋の出前状態で、一緒に寝ているモジャモジャにも文句を言われています(側まで来て”まだ!?”と言わんばかりに”ウヮウヮ”吠えると言うより喋ってる)。
ということで、来週は見ます。

投稿: うさぎ林檎 | 2009年11月 7日 (土曜日) 午後 02時27分

>うさぎ林檎さん

>>・・・忘れてました(ToT)ゞ。

まあ、今回のエピソードは、「これを観ておけば正宗が真面目に写真家を目指すようになった動機に説得力を感じる」と謂う性格のものでもないので、「ああ、この子はやっと本気で写真家になろうと思ったんだな」と理解して戴ければ好いんじゃないかと思います。

>>仕事がそば屋の出前状態で、一緒に寝ているモジャモジャにも文句を言われています(側まで来て”まだ!?”と言わんばかりに”ウヮウヮ”吠えると言うより喋ってる)。

実はオレも今月から多少忙しくなったのですが、予想を超える力仕事で大分へたっております。校正の仕事で翌日筋肉痛が出ると謂うのも初めての経験ですねぇ(笑)。まあ、今のご時世では、仕事はないよりあったほうが好いので、死なない程度に頑張るしかないですね。

覚えていたら、来週は観てやってください(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年11月 7日 (土曜日) 午後 02時39分

ドラマでは主人公は写真家志望の人なんだなぁと、ドラマサイトの人物相関図を見ると、これって原作ものって言っていいの?というくらい何もかも違うんですね(^^;

ドラマとしてよく出来てても、原作既読だと評価に困るところではありますね。

投稿: About | 2009年11月 8日 (日曜日) 午前 12時29分

>Aboutさん

原作は未読なんですが、ウィキの記述を視てもかなり設定が違いますよね。まあ、原作物ならこのくらいの脚色は普通にありますが、そうは言っても原作物は原作の知名度や人気を当て込んで作るわけですから、その辺の距離感が問題ではありますね。

原作だと、写真家と謂うのは正宗の父親の職業で、正宗自身は文具メーカーの企画部勤務と謂う地味な設定ですね。このドラマのタッチから謂うと、この設定は変えないほうが好かったかな、と思わないでもないです。

今回のサブタイトルの「子供の未来か自分の夢か」みたいなテーマと謂うのは、ドラマで扱うのは難しすぎるような気がするんですね。現実的に謂うと、おそらくどちらかを選ばないといけないけれど、どちらを選んでも後悔はあるんだろうし、それを円満に調停するような選択肢と謂うのは多分ないんだろうと思います。

正宗が写真家を目指すようになったきっかけが陽子にあると謂うところで、陽子が残してくれた夢と子供と謂う二つの選択肢の間で揺れる、と謂うのであれば綺麗に繋がりそうな気がするんですが、夢のほうは割と何となくやっている部分があるので、正宗の子育てを困難にする事情と謂う以上には左程効いてない設定変更だな、とは思います。

>>ドラマとしてよく出来てても、原作既読だと評価に困るところではありますね。

オレ個人はあんまり原作との違いは気にしないタチなんですけどね。実写化であれアニメ化であれ、原作そのまんまで動かしてもつまんないですから、同じ題材を使って別の作品を作るものだ、くらいのスタンスです。

それで原作よりよっぽどつまんないモノが出来てしまったら、面白い題材をドブに棄てたようなもんだな、と思いますけど、こう謂う感覚になったのはやっぱり、昔の特撮やアニメを観てから石森章太郎や手塚治虫、永井豪なんかの原作を読むと、あんまり話が違うので愕然とした経験が大きいかもしれません(笑)。

手塚治虫の「サンダーマスク」とか「海のトリトン」なんて、殆ど原作やコミカライズとテレビ番組は別物ですからねぇ(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年11月 8日 (日曜日) 午前 01時17分

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