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2009年11月26日 (木曜日)

だらにすな

似たようなタイトルの使い回しで恐縮だが(笑)、「だら」とは北陸地方の方言で阿呆とか莫迦とか尾籠とか謂うような意味である。

であるから、「だらにすんな」と謂えば「莫迦にするな」と謂う意味になるが、こう謂う言い回し自体は比較的新しい用法で、おそらく戦前とか明治大正の頃はなかったんではないかと思う。つまり、「だら=莫迦」の意味だとしても「莫迦にする」「虚仮にする」と謂う言い回しは一繋がりのもので、莫迦や虚仮をそれに相当する方言で代替すると謂う発想は、比較的新しい言語感覚だと思うからである。

たとえば木村祐一が屡々「ありえへんど」と口にするが、彼の口癖として定着する以前は、関西では関東で「ありえなーい」と言うようなニュアンスで「ありえへん」と謂う言い方をする慣習は一般的ではなかったのではないかと思う。つまり、「アンビリーバブル」と謂うニュアンスで「信じられない」とか「ありえなーい」と謂うふうに言うのは、英語の感覚を無理矢理日本語に翻訳したもので、それはTVやマンガ・小説などの中央文化が発信源であり、マスメディアを通じて全国に流布したのだと考えられる。

であるから、「ありえへんど」と謂うのは、地方色のない中央文化の「ありえない」と謂う言い回しを方言に翻訳した言葉であるから、何と謂うか非常に違和感を感じることがある。実際、木村祐一以外の関西TV人が「ありえへん」と謂う言い方をしているのはあまり聴いたことはないが、関西人の間では一種「東京の若者言葉」と謂う認識をされているのではないかと思う。

近年の若い世代はそうでもないだろうが、或る程度以上の年齢の大阪人には、関東…と謂うか「日本の中心」みたいな顔をした東京文化発祥の言葉や文物には対抗意識があるだろうから、「東京の流行り言葉」を大阪弁に翻訳して使う、と謂うのはかなり抵抗がある言い回しなのではないかと思う。

のっけから随分話が逸れたが(笑)、北陸地方の「だらにすんな」と謂う言い回しも、おそらく「莫迦にするな」の莫迦を代替語で翻訳した言葉だから、あんまり古い成り立ちの言葉ではないと思う。上方落語には比較的古い大阪言葉が残っているが、「莫迦にする」と謂う意味で「阿呆にする」とは言っていない。「莫迦にする」は「莫迦にする」であって、莫迦=阿呆だから「阿呆にする」でも好いだろう、と謂うわけにはいかないようである。

莫迦や虚仮と謂うのは仏教用語由来であるが、阿呆の場合は阿房宮由来説と謂うのは勿論俗説で、正確な語源は不明であるらしい。であるから、莫迦にする・虚仮にすると謂う言い回しの莫迦や虚仮は、同じような意味の言葉で代替して好い性格のものではないわけである。

とまれ、本題は「だら」のほうである。オレは長らくこの「だら」の語源がよくわからなかったのだが、標準語の語源すら曖昧だと謂うのに、まして方言の語源となるとネットの検索程度で調べるのは困難である。関西弁の「あほんだら」の「だら」と同じような意味かとも思うのだが、ではその「だら」と謂う語は何処から来たのかと考えると、「あほんだら」由来と謂うだけでは何の説明にもならないわけである。

ざっくりググってみると、やっぱりこの「あほんだら」の「だら」が何処から来たのかについては定説がないようで、俗に謂う「阿呆陀羅経」から来たと謂う説は順序が逆である。「あほんだら」と謂う言葉が先にあって、その「だら」と「陀羅尼経」を掛けて「阿呆陀羅経」と謂う洒落が出来ているわけである。

郷里を出でて早三〇年近く経とうかと謂う頃合いで、実家とも長らく疎遠な人間が、なんで今更こんなことを想い出したのかと謂うと、今年に入ってから上方落語をよく聴くようになったことが関係している。

上方落語のマクラでよく言われるのが「男の道楽は『さんだら煩悩』」と謂う言い回しなのだが、これは勿論「呑む、打つ、買う」の三拍子を指すのだから「さんだら煩悩」と謂う場合は数字の「三」に「だら」と謂う言葉が附いた言い回しである。

この「だら」が「あほんだら」の「だら」で、「三つの愚かな煩悩」と謂うのが「さんだら煩悩」と謂う言葉自体の直接の意味だろうと解釈出来る。しかし「さんだら」と謂う音の響き自体は、意味から考えて「三+だら」で作られたのではないのではないかと思う。それでは何の洒落にもなっていないし、大阪言葉で莫迦とか阿呆とか尾籠と謂う意味で「だら」と謂う表現がまず候補に上るとは考えにくい。

この辺、いつも重宝にリンクさせて戴いている世紀末亭さんではどう説明しているかと謂うと、

三ダラ=「ダラ声」大きくて下卑た声。どら声。という言葉があることから「下卑た」の意か?

…結局よくわからないと謂うことになる。この説明の「どら声」は「銅鑼声」で銅鑼の音のように大きくて耳障りな声と謂う意味だろうから、この「だら声」の「だら」と謂うのは「あほんだら」の「だら」と同一だとは考えにくい。「阿呆銅鑼」が由来と謂うのでは、どうも意味的にしっくりこないものがある。

つまり、関西では「だら」単体で阿呆や莫迦と謂う意味になる例はあまりないと謂うことだろう。とすると、北陸の「だら」と関西の「あほんだら」と「だら声」の三つの間には語源的・意味的に何の関係もないと謂うことすら考えられるわけである。だとすれば、「三つの愚かな」と謂う意味を表す為に数字の「三」に「だら」を足したから「さんだら」と謂う言葉が出来た、と謂う説明には絶対ならないわけである。

では、「さんだら」とは何かと調べてみると、ちゃんとそう謂う言葉がある。

さんだら‐ぼうし〔‐ボフシ〕【桟▽俵法師】
さんだら‐ぼっち【桟▽俵法▽師】

「桟俵(さんだわら)」に同じ。

つまり、「さんだら」とは「桟俵=さんだわら」の転訛で、その「桟俵」とは何かと謂うと、円筒形の米俵の上下の底面を構成する円形の部分のことである。意味を聞いてみると何と謂うこともないつまらない言葉なのだが(笑)、昔の一般庶民が米俵の一部パーツのことをそんなに意識していたとは思えないので(笑)、なんで「さんだら」と謂えば済むところにわざわざ「法師=ぼうし・ぼっち」と擬人化するような接尾語が附いているのか、これも新たな疑問である。

しかし、これも実は単なる地口であると考えれば辻褄は合うわけで、パッと「さんだらぼっち」と聴いた場合にまず連想するのは「だいだらぼっち」と謂う言葉だろう。この「だいだらぼっち」と謂うのは伝説上の途方もない巨人のことだが、この語源をさらに調べてみると、大太法師(だいだぼうし)の転訛とある。ウィキによると、

柳田国男は『ダイダラ坊の足跡』(1927年(昭和2年)4月中央公論社)[1]で日本各地から集めたダイダラボッチ伝説を考察しており、ダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加した「大太郎法師」で、一寸法師の反対の意味であるとしている。

以下は同記事内の「要出典」となっている記述であるが、オレの記憶とも一致するので念の為に各地の異称を述べた記述を引用する。

「でいだらぼっち」、「だいらんぼう」[要出典]、「だいだらぼう[2]」、「でいらんぼう」、「だいらぼう」、「だだぼう」等[要出典]がある。

ただ、「だいだらぼっち」の伝承は東日本のほうが多く、「播磨国風土記」にも伝承があると謂うから、大昔の関西にも巨人伝説は勿論あったと思うが、「だいだらぼっち」と謂う名称自体が伝わっていたかどうかは定かではない。

とりあえず伝わっていたと仮定しての話だが、前述の「桟俵=さんだわら」の「わ」が脱落して「さんだら」になったのは納得可能だとして、桟俵のような普通の人があんまり頻繁に話題に上せるとは思えない物に「法師=ぼうし・ぼっち」と謂う擬人化を思わせる接尾語が附いているのは、桟俵それ自体のイメージに理由があるのではなく、転訛した結果出来た「さんだら」と謂う音の響きが「だいだら」に似ていたから「だいだらぼっち」の地口として「さんだらぼっち」と謂う言葉になったと考えれば自然である。

ここまでで「さんだら」と謂う言葉が何処から来たのかまでは大略わかったとして、では何故それが「煩悩」と結び附くのかと謂う疑問が残る。

「さんだらぼっち・さんだらぼうし」の「ぼっち・ぼうし」が「ぼんのう」と謂う音に似ているかと謂えば、これは全然似ていない。出だしが「ぼ」だと謂う共通点しかないので「ぼっち・ぼうし」の響きのほうは無関係だと考えたほうが妥当だろう。

最初の出発点では「だら」が北陸地方と同様に莫迦とか阿呆と謂う意味だろうと考えたから「三だら=三つの愚かな煩悩」と解釈したわけだが、関西弁では「だら」自体には莫迦や阿呆を示すニュアンスがなく飽くまで「あほんだら」と一繋がりでしか用いられず、「だら」をネガティブな意味の接頭語として使う「だら声」の「だら」が「銅鑼」と謂う別経路から来ているのであれば、この解釈は成立しないことになる。

とすると、「さんだら煩悩」と謂うのはつまり「三煩悩」と謂う程度の意味で、語呂が好いように「桟俵=さんだら」の音を籍りているだけだと考えればどうか。「さんぼんのう」と謂う言葉がとくに言いにくいとかリズムが悪いとも言えないが、「さんだらぼんのう」のほうが言いやすくてリズムが好いことはたしかである。

そして「煩悩」と謂うのは仏教用語であるから、「阿呆陀羅経」と同様「陀羅尼経」との連想で「だら」と謂う言葉が入ると尤もらしく聞こえることも事実である。だとすれば、「三だら煩悩」と謂うのは単に「三つの煩悩」と謂う意味の言葉だが、「だら」の響きが抹香臭い為に「桟俵=さんだら」の音を籍りて尤もらしい用語に見せ掛ける地口だと謂うふうに解釈すると納得がいく。勿論、「さんだら」が「曼荼羅=まんだら」と謂う言葉に音が似ていることも理由の一つだろう。さらに、「さんだら」は「さんだら法師」とも言うわけだから、そこにも仏教的な臭いがある。

つまり、意味から考えても仕方がないわけで、具体的な意味なんか何もないが、何となく音の印象が仏教用語臭く聞こえるからそう謂う地口が定着したと考えるほうが自然ではないかと思う。

結論まで推理してみると何と謂うこともない拍子抜けな話であるが、大本に立ち戻るなら、北陸地方の「だら」と謂う言葉の語源にはまったく迫り得ていないことに気附いてさらにガッカリしてしまうわけだが(笑)、一つ面白いヒントになるのは、ウチの田舎である能登のほうだけの言い回しかもしれないが、「だら」と謂う言葉をさらに強調した罵倒表現として「だらぶち」と謂う言葉があると謂うことである。

「だら」のほうは「だらな」「だらみたいな」と謂うふうに形容動詞的に用いることが多いのだが、「だらぶち」のほうは「だらぶちな」「だらぶちみたいな」と謂う用い方はしない。「だらぶち」の一語で完結した罵倒語である。

この「だらぶち」の「ぶち」が何処から来たのか長らく疑問だったのだが、これまでの考察を踏まえれば「さんだらぼっち」の「ぼっち」がその正体ではないかと推測が可能である。ただし、依然として「だら」の謎は残っている。「さんだら」乃至「さんだらぼっち」が「だら」や「だらぶち」の語源と考えても、単なる米俵の一部パーツになんで莫迦や阿呆と謂う意味がくっつくのかサッパリわからない(笑)。

多分、この方向性で考えても尤もらしい説明は幾らでも附けられるだろうとは思う。

たとえば、「俵」と謂えば米俵と並んで炭俵がメジャーだが、米俵と炭俵の違いと謂うのはまさにこの「さんだら」が附いているかいないかの違いである。円筒形の部分を構成する薦だけで出来ていて開口部を雑に縫い附けたのが炭俵で、円形の当て物をして丁寧に括り附けたのが米俵である。

米は細かい粒だが炭は一番小さくても炭団くらいで普通は木炭だから、そんなに丁寧に開口部を塞がなくても用が足りるし、円形の別パーツを附して円筒形に成形して容積率を良くしなければならない必要もないから「さんだら」がないわけである。

そこから「いなくても用が足りるもの」「それほど必要がないもの」を指して「さんだら」と呼ぶようになった…これ、割とよう出来たぁるニワカやろ?(笑)

巷の俗説なんてみんなその伝で、語源と謂うのは幾らでも尤もらしい説明が附くものであるが、今の作り話程度の纏まった意味的ストーリー性を持つような説話はまず後世のこじつけと視て良いだろう。

たとえば「さんだら煩悩」なんてのは歌の文句のような特定の言い回しであるから、特定の誰かが考えた地口が広まったものと考えて差し支えないだろう。だから前述のような推理が可能だが、「だら」は特定の誰かが考えた言葉でなどあるはずがない。

モヤッと考えているのは、関西弁の「あほんだら」と謂うのは元々「阿呆垂れ」から来ていて、上方落語に出てくる古い大阪言葉には、下品な言い回しとして「垂れ」と謂う接尾語が附く場合が多いし、たしか、「あほたれ」と謂う言葉自体があるはずである。

「垂れる」と謂うのはつまり、何かが上から下に落ちることを指す言葉で、上から下に落ちる物として最も普遍的に連想されるのは大小便である。であるから、大小便や屁や涎の類はすべて「垂れる」わけで、漢籍のニュアンスで謂えば「垂範」と謂う言い方もあるが、これが「説教垂れ」となると下品なニュアンスになる。つまり、他人の説教を大小便並に扱っているわけである。

大阪言葉には「へたれ」「なまたれ」「あほたれ」など、くだらない無価値なものを垂れ流すと謂う成り立ちの語が結構あるし、関東のほうでも「ばかたれ」と謂う言葉があるので、この「あほたれ」が「あほんだれ」になって「あほんだら」になったと謂うのが実態ではないかと推測しているのだが、これも根拠がある考えではない。

で、北陸地方と謂うのは昔から関東よりも関西との交流が盛んだったわけで、交通の観点から視ると分水嶺が邪魔をするので関東よりも関西との行き来のほうが容易だったと謂う事情がまず一つあるのと、加賀の前田家が京都との繋がりを密接にして人や文物の往来が盛んだったようだから、言語的・文化的には伝統的に関西の影響が強いらしい。

そのような歴史によって、随分以前に関西から「あほんだら」と謂う言葉が入ってきてこれが「あほ」と「だら」に別れたと謂う推測はどうだろうかと考えている。「阿呆陀羅経」と謂う言葉があるくらいだから、「あほ」も「だら」も同じような意味だろうと謂う解釈で、「あほ」と「だら」の二つの言葉が罵倒語として残った。実際、北陸地方では「ばか」と謂う言い回しはそれほど頻繁に使われず、「あほ」「だら」の二つがメジャーで、どちらかと謂うと「だら」のほうが意味として強く一般的には「だら」のほうをよく使う。

「あほ」が一番ソフトで、「だら」はそれより強いが、一番強いのは一般的には使わない「ばか」と謂う言葉である。「あほ」や「だら」には「ほんなあほな・だらな」と謂う関東で「ばか」が占めているようなソフトな用法があるが、北陸では「ばか」と謂う言葉は日常語としてメジャーではないから、罵倒語としてより強調されて聞こえるわけである。これは少なくともオレの子供時代くらいまではそうだったと謂う話で、今ではマスメディアが発達して言語感覚も大分全国一律に均質化しているから、そうでもなかろうと思う。

加賀能登と京大阪の遠くて近い距離感の故に微妙に言葉の伝達が錯綜して、上方では単に「阿呆」を「垂れる」と謂う意味の一般動詞にすぎなかった「だら」が「阿呆」と同様の意味性を獲得し、そこに何処かのプロセスで「さんだらぼっち」が混入して「だらぶち」と謂う派生語が出来た、こう謂う経緯だったんではないかと謂うのが、オレの個人的な推測である。

そう謂う次第で、何だかわかったようなわからないような込み入った話になったが、オレ的には大分すっきりしたのでよしとしよう(笑)。

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コメント

さらにちょっと調べてみたら、「へたれ」は「垂れる」とは無関係で「へたり込む」の「へたる」から来ているようで、意味から考えるとたしかにそのほうが説得力がある。たしか「へたる」は「ひだる」と関係した言葉だったと謂う記憶があるので、これは完全に別系統の言葉と謂うことになる。

「垂れる」と謂う言葉が附く古い大阪言葉として挙げるなら、「がしんたれ」や「あかんたれ」と謂う例があるが、このくらいになると「〜たれ」と謂うのは具体的に何かを垂れると謂うニュアンスが薄くなってくるようで、下品な言い方で人一般を示すような意味のようである。

そうなると気になるのは「たれ」一語だけで成立している語があることで、「たれをかく」と謂うような飛びきり下品な表現が大阪言葉にはあるらしい。この辺の事情を推測していくと下品な話にならないとも限らないので、ここまでにしておこう(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年11月26日 (木曜日) 午後 03時56分

 こんばんは
 関西人一個人の特に根拠の無い印象ですが「たれ」は「彼」とか対象になる人間を示して言っているつもりがあります。「だら~(巻き舌)」は「お前」とか「てめえ」とかいった強調表現だと思って使っています、「へたれ」は「へた(る・った)(か・た)れ」の省略。

 「たれをかく」も「彼(女)をかく(行為の対象にする)」との理解です。
 「たれ」が人間を示さない例は「してやれ」の略との場合でしょうか。

 本来の意味とは違うかもしれませんが。

投稿: 摂津国人 | 2009年11月27日 (金曜日) 午前 12時18分

>摂津国人さん

>>関西人一個人の特に根拠の無い印象ですが「たれ」は「彼」とか対象になる人間を示して言っているつもりがあります。

実はオレも「たれ」とだけ表現する場合は、「垂れ」ではなく「誰」辺りが語源なのかな、と漠然と考えています。「誰某=たれがし」と濁らずに読む場合がありますから、関西的な人称の感覚なのかな、と。

まあ、「かく」は「掻く」で鉄板ですから、下品な行為表現ですが(笑)。

>>「だら〜(巻き舌)」は「お前」とか「てめえ」とかいった強調表現だと思って使っています

ああ、そう謂う遣い方もあったか。これも「たれ」同様「誰」と謂う意味なのだと推測すると、関西人が「だら」と口にする侮蔑のニュアンスがスライドして北陸の「だら」になった可能性もありますかね。

もう一つ候補として考えているのは、関西起源であるかどうかはともかく「しだら」の「し」が脱落したと謂う可能性で、それだと意味としてはピッタリきて一対一で置換可能ですが、言語学的に在り得る転訛なのかどうか今ひとつ確信が持てません。形容動詞的に用いる場合は矛盾がありませんが、「だら」とだけ罵る場合がありますから、まったく同一だとも言えないですしね。

また、「だらぶち」の「ぶち」が「ぼっち」の変化であると謂うのも、そのまま素直に「打ち・撲ち」と解釈したほうが好いかもしれないな、とも考えています。この辺になると、すでに推理ごっこの域を超えて、きちんと言語学的なツールで決着を着けるべき事柄になるので結論は出ませんけどね。

投稿: 黒猫亭 | 2009年11月27日 (金曜日) 午前 03時02分

カミさんの実家(静岡県磐田<浜松方面?>)では、会話の語尾に「…だら~。」を多く使います。
黒猫亭さんの考察は面白く拝見しましたが、
カミさんの実家の語尾の「だら」は、北陸地方の方言の、阿呆とか莫迦とか尾籠の「だら」の意味合いとは違うと思いますが、
狭い日本で、地方によって、同じ「音」でも、違うニュアンスで使われ、異文化の地方の人間には、違う印象を受けるのは、面白いと思いました。
私は、幼い時、九州と北海道を行き来したので、小学校5年から長く居た九州弁(博多弁)は、板についておらず、大学時代も、全国から人間が集まった所為もあり、関東語と関西語が、ごちゃ混ぜの未だイントネーションが定かでない言葉になっています。

投稿: mohariza | 2009年11月29日 (日曜日) 午後 06時51分

>mohariza さん

>>狭い日本で、地方によって、同じ「音」でも、違うニュアンスで使われ、異文化の地方の人間には、違う印象を受けるのは、面白いと思いました。

語源に興味を持って調べてみると、同じ音でも元になった言葉が全然違う、従って意味もニュアンスも全然違うと謂うことは割合よくある話ですね。逆に、似ても似つかない言葉が同じ言葉から発展していたりすることがありますから、言葉の変化は面白いテーマです。

たしかdlitさんの専攻がその辺りじゃなかったかと思うんですが、まあウチの記事は勿論単なる推測ですから、根拠のあるものではありません。それと、以前hietaro のところでもそんな話が出たんですが、関西の音便の傾向は結構他府県人にはよくわからないところがありますね。

>>私は、幼い時、九州と北海道を行き来したので、小学校5年から長く居た九州弁(博多弁)は、板についておらず、大学時代も、全国から人間が集まった所為もあり、関東語と関西語が、ごちゃ混ぜの未だイントネーションが定かでない言葉になっています。

今は人間の移動が頻繁で、昔のように一箇所に長く定住するとは限らないので、そう謂う人も増えているんではないかと思います。言葉は人が遣うものなので、人の移動に対応して地域の言葉も変わっていく部分があるようですね。

投稿: 黒猫亭 | 2009年11月29日 (日曜日) 午後 09時29分

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