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2009年11月29日 (日曜日)

落語のくらし 第一回 〜老少不定〜

今年に入ってから落語を聴くようになって、俄然落語関係のエントリが増えてきたのだが、ビギナーの怖い物識らずで個々の噺家や演題について突っ込んだ考察を加えるのも面白いが、雑感レベルの思い附きも追々増えてきて、気楽なエッセイ風の記事も書いてみたいな、と厚かましいことを思うようになってきた。

普通そう謂う落語随筆めいたものは、何十年も落語と親しんできて一定の知識や見識を具えた人が書くもので、今年聴き始めたばかりの初心者が偉そうに書くものでもないような気がして少しく気後れしていたのだが、まあそこで遠慮するのも却って図々しいような気もするので、至らぬところがあれば笑い物になるだけ、元々落語通でも何でもないのだから何を喪うわけでもない、と割り切って怖い物識らずを通すことにした(笑)。

趣向としては、毎回テーマを決めて古典落語で語り伝えられている昔の人々のくらしぶりに想いを馳せてみようと謂う凡庸なもので、併せて落語の代表的な演題のざっくりした紹介になれば読み手の便宜にもなるかな、と謂うくらいの考えである。

第一回のお題は何にしようかと考えたのだが、これが実は難題で、たとえば幾ら落語の代表的な舞台だからと謂って、昔のくらしぶりを語るのにいきなり遊郭の話から始めると謂うのも気持ちが悪いので(笑)、ここはちょっと気取って死生観と謂うか、生と死と謂うようなところから語り起こしてみようかと思う。

しかし、そう決めたは好いのだが、考えてみると落語のテーマとしては、死の話はゴロゴロしているが誕生に纏わる話は極少ない。

乏しい知識の範囲内でざっと考えたところで「子ほめ」「お七」くらいで、子供の誕生を扱った噺は殆どないと言っても好い。うんとオマケして妊娠を扱った噺に「持参金」なんてのがあるとか、子供の誕生に言及する噺として「寿限無」なんてのもあるが、これは寧ろ原型を考えれば死の噺のほうに算えるべきではないかと思う。

対するに、死それ自体を扱った噺はかなりたくさんある。以前から屡々引き合いに出している「らくだ」もタイトルロールの死それ自体がテーマと言えるだろうし、以前「らくだ」のエントリで触れた「算段の平兵衛」も、「らくだ」とはまた違った形の死体を巡るバッドテイストなドタバタだから、これも同様に死の噺である。死体繋がりで謂うなら、「粗忽長屋」なども慌て者が行き倒れの別人の死体を自分だと思い込むと謂う窮めてシュールな噺だから、死と人の意識が主題である。

圓朝がグリム童話から翻案した「死神」なんて噺も人の寿命そのものが主題であり、寿命を扱ったネタとしては、ちょっと考えオチだが「短命」なんて噺もある。米朝が復刻した「地獄八景亡者戯」と謂う噺も、死後の世界を扱った噺だから死の噺と言えるだろうし、地獄を扱ったものとしては、そのものズバリ「死ぬなら今」なんて噺もある。また、「品川心中」や「心中の心中」のような心中噺も死が中心的なテーマだと言えるだろうし、「首提灯」も普通に考えれば洒落で死を笑い飛ばす噺である。

さらに、冠婚葬祭のテーマのほうに重点が掛かっているとは言え、通夜の弔問客を主題にした「くやみ」も、故人を偲ぶ登場人物たちの語りがメインだから死の噺に算えて構わないだろう。その他、主人公なり劇中人物なりが死ぬと謂う筋書きの噺も枚挙に暇がないわけで、落語には死が溢れている…と謂うか、死が極日常的で身近な主題として扱われていて、それが笑い事として扱われていると言って好いだろう。

本来、創作滑稽譚の品評会から発生した笑いの話芸である落語に、これほど死が頻繁に扱われているのはどう謂うことなのか、これを少し考えてみよう。

サブタイトルに掲げた「老少不定」と謂うのは、YAHOO!辞書の大辞林によると、

人の生命は予測しがたいもので、年齢の大小にかかわりがないということ。

…と謂う意味の仏教用語である。近世どころかほんの戦後くらいまでは、「明日死ぬかもしれない」と謂う可能性は今よりももっとリアルな実感であって、子供だろうが大人だろうが、今から考えると実につまらない理由で簡単に死んだわけである。

この辺の事実性とそれに基づく実感の今昔の相違については、幾ら強調しても強調しすぎることはないくらいで、たとえばどらねこさんのゼンメルワイスについての物語で語られているように、出産一つとっても昔は簡単に人が死んだわけで、「自然な人の営みだから安全で当たり前」ではない。

そのような時代性における「自然な人の営み」とは、つまり「子供を産んで運が悪ければ死ぬこと」だったわけである。命懸けで子供を産んでも死ななかった妊産婦だけが生き残ってその後もたくさんの子供を産んだわけで、それは結果論でしかない。

また、「昔の人は身体頑健で歳をとっても矍鑠としている」と謂う認識も、原因と結果を取り違えた錯覚で、昔の人は身体頑健でなければ生きられなかったし、当然長生きも出来なかったから、昔の年寄りは結果論として頑健で矍鑠としていると謂うだけの話である。そうでない人は、単に年寄りになる前に死んでいるわけである。

たとえば、先週のお台場寄席の内容は二年前の「フジテレビ目玉名人会」の鼎談で、このほど同イベントを再開すると謂うのでその宣伝も兼ねているのだと思うが、落語の口演のほうは勿体振って来月に廻し、三遊亭圓丈を聴き手の塚越孝と佐々木恭子が囲んで師の圓生や落語協会分裂騒動について談話を聴き取る形のものだった。

その中で圓丈は圓生を「本当に丈夫だった」「七九とは思えない体力だった」と回顧しているが、これを「昔の人間だから丈夫だったんだろう」と解釈してはいけないだろうと思う。昔の噺家だって丈夫じゃなかった人はいたんだが、単にそう謂う噺家は才能があろうがなかろうが年寄りになる前に死んでいるだけのことである。イエ制度から発した名跡制度に依拠する長幼の序が絶対的にモノを謂う噺家の世界(決して年功序列の世界ではないが)では長生きした者が勝ち、生き残った者が勝ち、そう謂うことである。

大多数の一般的な人々は、喰い物の内容がお粗末だっただけ現代人よりもひ弱で簡単に死んだが、死んだ人は年寄りにならないから目立たないと謂う、それだけの話である。現に落語には、たとえば「崇徳院」とか「千両みかん」「肝つぶし」「紺屋高尾(幾代餅)」など気病で人が簡単に死にかける噺がたくさんあるが、心理的な理由で食欲不振に陥ると、たちまち生命の危機に直結すると謂うのは滑稽譚の誇張や絵空事ではなかったはずである。

江戸時代の日本の一般的な都市生活者の食事内容は飯と鹹い漬け物がメインで、必須ビタミン類やタンパク質や脂質が圧倒的に欠けていたわけであるから、そんな炭水化物主体で塩分過多な食事すら摂らなくなれば、必然的にあっという間に具合が悪くなるのは当然である。

飯と漬け物に汁か魚が附けば上首尾、と謂う内容の食事を三度三度三六五日繰り返すのだと想像したら、現代人ならうんざりするだろうが、これは勿論現代では食の選択肢が豊富にあるからだとは言え、昔の人だって変わり映えのしないものをひたすら繰り返し喰うのはそんなに楽しくなかったはずである。

ならば、少し神経の細い人や非肉体労働者が食欲不振に陥ることはそんなに稀なことではなかったわけで、夏場に熱々の飯とか煮臭くなった冷や飯をそんなにバクバク喰えるかと謂えば、喰えない人もたくさんいたわけである。

さらに、江戸時代どころから戦後くらいまで日本人の大半は腹に寄生虫を飼っていたわけで、ギョウチュウやサナダムシくらいならさほど甚大な健康被害はないが、もっとポピュラーな寄生虫であるカイチュウはかなり大きな健康被害をもたらす。

ウィキによれば、カイチュウの寄生率は「1960年頃でも、都市部で寄生率30〜40%、農村部では60%にも及んだ」とあるから、ほぼ下肥一〇〇%(魚肥など人糞以外の肥料はわざわざ買わなければならないので高く附いた)だった江戸時代くらいまで遡ると、大概の人は体内にカイチュウを飼っていたわけである。カイチュウの害は栄養障害だけに留まらず、分泌する毒素で体調を悪化させ、内臓を食い破って破壊するなど多岐に亘るもので、これがほんのオレの子供時代まで根絶出来なかったわけである。

食生活をメインに据えた肉体条件だけで考えても、到底昔の人が丈夫だったとは言えないわけで、これに医療技術の未熟や医療機会の不均等と謂う条件を加えれば、江戸時代までの人々にとって、死の原因は日常生活の至るところにゴロゴロ転がっていたと言えるだろう。

また、都市部を離れて考えると、これは小佐田定雄作の新作落語だが「幽霊の辻」と謂う噺では、貧しい農村部の悲惨な生活が因縁話の背景として用いられていて、間引きされた水子だの強姦者と間違われて私刑で殺された旅人だの急流に掛かる橋の人柱に立てられた母子だの男に騙されて売り飛ばされた挙げ句足抜けして首を縊った娘だのと謂った陰惨な因縁話が笑い話のネタにされている。

この噺では、普通の落語ではあまり正面に出て来ない農村部の貧困と閉鎖社会のもたらす闇が堂々と主題に据えられているところが新作らしい創作性で、近代以降の活字文学で赤裸々に描かれているような前近代の暗部が色濃く残る農村部の生活が窮めて悲惨なものであり、日常の至るところに死が影を落としていただろうことは想像に難くない。

昔の人は今の人よりも簡単に死んだのだし、それは何も医療技術の未熟さや食生活の偏りだけの問題ではなかった。貧困や閉鎖社会の因習、迷信、性差別等々、現代では人の生き死にには直結しないような些末な理由で簡単に人は死んだ。

たとえば米朝が噺のマクラでよく「昔のお侍さんは『もしも約定を違えたときは人中にてお笑いくだされても構わじ』てな証文でお金が借りられた」と謂う話をするが、これが米朝の言う通り「結構な話」でなどあったわけがない。

識っていて敢えて洒落のめしているわけだが、苟も武士たる者が町人に金を借りて踏み倒し、人中で笑い物にされたなら、到底のめのめと生きているわけにはいかなかったわけだから、それは婉曲的に「金を返せなかったら腹を切る」と書いているわけである。

まあ、徳川三百年の泰平の世の中では武士の気風も大分下世話に落ちたようだから、証文にはそう書いても平気で踏み倒した不良武士もいたんだとは思うが(笑)、岡本綺堂の「半七捕物帳」なんかを読むと、徳川も末の幕末の頃に至るまでやっぱりマトモなお武家さんの飯のタネは、いつでも腹を切って引責すると謂う気構えにあったことは事実のようである。

平和な世の中ですっかり官吏としての処世に明け暮れ、武芸修行はそっちのけで刀の裏表もわからないような平和ボケしたお武家さんでも、何か不祥事があれば腹を切って事を丸く収めるのが当時の武家社会のシステムだったのだし、侮辱を受けて体面を潰されたら相手を斬って自分も腹を切るのが絶対的な価値観だったわけである。

これは忠不忠とか武士道精神とかとは無関係に、そう謂うふうに不測の過ちや悶着や不祥事を、事もなげに人命を抛ってケリを附ける殺伐としたシステムで成り立っていたのが武家社会だったと謂うことである。

これはこれで、是々非々で理非曲直を糾すと大勢怪我人が出るような問題について被害を最小限に食い止めるシステムではあったわけだが、問題の抜本的な解決を先送りにするシステムでもあったわけで、そうした体質は現代にも脈々と受け継がれていると言えるだろう。

日本人はおおむね、屍山血河を踏み越えてでも絶対正義を追求すると謂うような姿勢は好まない。狭い国土の中で人的資源も限られていたわけだから、とにかく被害を最小限度に抑えることが優先されたわけで、誰かが犠牲になって死ねば大勢の人が助かると謂う場合には潔く死ねと謂う価値観の社会だったわけである。

一方、人が簡単に死ぬものであれば、それより何倍もたくさん子供を産まないと人口が増えないわけで、戦後くらいまでの生涯出産率が今より段違いに高かったのは、今より段違いに簡単に人が死んだからだと言っても差し支えはあるまい。

であれば、死が日常的に遍在した世の中においてはそれを上回る誕生の瞬間があったわけであるが、人の死には長短を問わずそれまで生きた人生の物語が附随するが、誕生にはどんな物語も附いてこないわけである。生まれくる子供がどんな人生を送るのか、それがどんな物語になり得るのか、これは誕生の瞬間には何も確定していない。

つまり、死は当事者的な物語として語り得るが、誕生はそうではない。子が生まれた夫婦のリアクションを描くくらいが精々で、それも昔の出産は命懸けの大事業だったわけだから、産んだ当人であるおかみさんは疲弊していて物語の登場人物にはなれない。まして徹底した男性視点の物語形式である落語においてはなおさらである。

子が生まれた亭主のリアクションと謂う道具立てで滑稽噺を仕立てることには自ずから成る限界があるわけで、出産を祝いに来る粗忽者の失敗や悪戯と謂う程度の噺になるのは仕方がないだろう。何せ、生まれた子供も産んだ母も主人公にはなれないのだから。

では、死が日常的に遍在していた社会においては、死はありふれた雑事で笑い事に過ぎなかったのかと謂えば、これはそうではあるまい。愛する人に死なれて辛いとか自分が死ぬのが怖いと謂うのは洋の東西も今昔も問わぬ普遍的な人情である。

敢えてフィクションの上で笑い事にされているのは、現実においてそれが笑い事ではなかった証と謂っても好いだろう。自分が死ぬのはやっぱり怖いことなのだし、愛する者が死ぬのは辛いことだった、これは別段今昔の違いはない。敢えてそれを笑い事にするのは、少なくとも笑っている間は怖かったり辛かったりしないからだろう。

現代になって変わったのは「死なないのが当たり前」「生きているのが当たり前」と謂う感覚が強くなり、一方で宗教感情の受け皿が消失した分だけ、死のもたらすインパクトが強くなったと謂うところかなと思わないでもない。「老少不定」と謂う言葉の持つ意味合いも昔と今ではまったく違う。

昔はまさに死は年齢に関係なく満遍なく人の生活に影を落としていたのだが、今は普通に気を附けていれば七〇〜八〇年くらい生きるのが当たり前になった。四十代で死んだ場合など「早すぎる死」と惜しまれるし、まして子供や若者が死ねばそれが異常な不運であるかのように受け取られる。言ってみれば、今は老少不定が世の常ではなく、潜在的な可能性のレベルに留まっている。

昔は今より死が身近なものとしてあり、今ではまず滅多に死なないようなつまらない理由で簡単に人が死んだのだとすれば、それはやっぱり怖いことであるし哀しいことであるし頼りないことではあっただろうが、生とはそう謂うもので当たり前の世の中であってみれば、自分や他人の死のもたらす衝撃や重みは、今よりも幾らか軽かったと謂うことが考えられる。

まずもってつまらない理由では死ななくなった世の中で死ぬと謂うことは相対的に昔よりも死が重みを持っていると謂うことだろうし、自分や他人の死を受け容れることが難しくなっているとも表現出来るだろう。

それは、前述の通り現代のわれわれがほぼ宗教感情の受け皿を喪っていると謂うことも大きいだろう。おそらく、今でも誰にでも宗教感情のようなものの片鱗は残っているのだろうし、われわれが宗教を喪う前は、宗教が老少不定の世の中で恐れや不安に立ち向かう力を与え、死を受け容れる力になったのだろうと思う。

その辺について詳細に語る準備は今はないので、またの機会に譲ることにしよう。

第一回目から何だか辛気くさい話になってしまったが、要するに落語の舞台となっている近世から前近代にかけての時代性と謂うのは、長閑な笑いだけで苦しみや哀しみの存在しないご陽気な世界ではなかったと謂う話になるだろう。

まあ、誰でもそんなことはわかっているはずなので、敢えてそれを強調するのは無粋かもしれないが、今は意外と本気で昔の世の中は落語に語られている通り今より愉快で活気があって悩み事が少なかったと信じている人もいるようなので、敢えてそんな話をしてみた。

朗らかな笑いとは不釣り合いな死を扱った噺がこれほどたくさん存在するのは、死を笑える距離感の世界だったと謂うことだし、死を笑い飛ばすべき動機があった世界であったと謂うことである。

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コメント

死は全く抗い難いもので、諦念をもって見るしかない→笑うしかない、という感じなのでしょうかね。笑うことで精神のバランスを保つみたいな部分もあったのかも……。

「ちりとて」の草若師匠って米朝師匠かも知れないと最近ようやく気づいた蛍光灯の落語オンチではございますが、シリーズ楽しみに致しております。

投稿: 604 | 2009年12月 1日 (火曜日) 午前 08時47分

いーふろん亭ぽっど寄席、たぶんご存知だろうとは思うんですが、万が一、まだご存じなかったらと思いまして
http://www.podyose.com/podcast/
現在配信中のタイトルが削除されないうちに善は急げ(善か?)

投稿: Leo16 | 2009年12月 2日 (水曜日) 午前 01時29分

>604 さん

>>死は全く抗い難いもので、諦念をもって見るしかない→笑うしかない、という感じなのでしょうかね。笑うことで精神のバランスを保つみたいな部分もあったのかも……。

仰る通り、現代のわれわれが漠然と「大概のことには然るべき対処法があって滅多に死なない」と感じているような感覚はなかったはずですから、よっぽど気を附けていても死ぬときは死ぬと謂う感じ方だったでしょう。

また、ありふれた珍しくもないものは値打ちや重みが下がると謂うのはどんなことにも言えますから、死を茶化すのが不謹慎だと謂う感覚は今より圧倒的に薄かったのではないかと想像しています。現代の感覚だと、死はよっぽど手を尽くした末にもたらされる悲劇的な運命として感じられますから、死は荘厳なもの、厳粛なもの、と謂う感覚ですが、昔の感覚だと莫迦なことをすると覿面に命に差し支えたわけですから、「あいつは莫迦な死に方をした」と笑う感覚と謂うのはあったのかも、と思います。

たとえば「らくだ」の主人公がフグを喰って中たるなんてのは、当時の感覚では莫迦な死に方だったのかな、と思わないでもありません。フグとかサバとか、中たると命取りと謂われているものをわざわざ喰って死ぬと「莫迦だなぁ」と謂う感覚があったのかなと思います。

まあ、一回目から抹香臭い話になりましたが、次からはもう少し楽しい話も出ると思いますので、気長にお待ち下さい(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2009年12月 2日 (水曜日) 午前 07時07分

>Leo16 さん

ああ、これは全然識りませんでした。情報、ありがとうございます。今取得出来るだけでも結構好い演者が揃ってますね。オレだと、一之輔と菊六辺りが好みですね。

なんか公式サイトをみると、あっと謂う間に休止になったみたいに見えますが…当初からの予定通りと謂うのなら、ニフ亭みたいに景気が悪くて潰れたわけじゃなさそうですね(笑)。そのニフ亭のほうも、来春から再スタートに漕ぎ着けたようですが「有料で再開を検討」と言った途端に「二つ目の噺にカネを払うのはどうも…」と謂う大勢に傾いて揉めてましたな。

まあ、オレはニフティ会員ですから月会費に数百円上乗せと考えれば、有料でも構わないと思うんですが、ちょっと「二つ目の噺にカネは払えない」と謂う意見はどうかな、と思います。無料で聴いて楽しんでいたのなら、それなりに聴き応えはあったってことだと思うんですけどね。

結局、ポッドキャスト落語にカネを払うかどうかと謂うのは、セコいレベルでも落語を支えるのに身銭を切れるかどうかと謂う話なんじゃないかな、と謂うふうに思いますので、「只なら聴くよ」と謂うのはどうなんだろう、と。

ニフの提示している額も煙草一箱かそこらのレベルですので、小遣いの範囲で小銭を持ち寄って若手に発表の場を与えようじゃないか、と謂う話なんではないかと思うんですけどね。ニフのコンテンツ商売に乗るのもちょっと業腹ですが(笑)、「駆け出しの芸には当たり外れがあるから煙草銭程度でも出すのは厭だ、カネをとるなら真打の噺を聴かせろ」と謂うのはちょっと違うかな、と思います。だったら寄席に行けよ、と。

オレも貧乏人ですから、月に何千円も出せと言われたら「ちょっと無理です」と謂う話になりますが、数百円ならば出せないこともない。その辺りで、負担にならない価格帯はどの辺ですか、と謂う話をしているのに、「カネ自体払うのは厭だ」と謂うご返答と謂うのは艶消しですな。

第一報でも課金の話は出ていませんから、ニフティ側でも有料化は断念したのかもしれませんが、まあ仮に有料と謂うことでも数百円ならオレは出します。ただ、「二つ目の芸にカネは出せない」と謂う意見は、若手を意気消沈させたんじゃないかと謂うふうに思いますね。世知辛い世の中です。

投稿: 黒猫亭 | 2009年12月 2日 (水曜日) 午前 07時11分

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