人間を信じなくてどうするか
流石に実質今年最後のエントリが女子アナ妄想ネタだとアレなので、少しは真面目な話もしておこう(笑)。
最近どらねこさんのところで「完全母乳育児」の問題が論じられているが、これも大きく括れば極端な自然崇拝の一種と謂うことになるだろう。どらねこさんの記事を読む限り、勿論新生児の栄養源として母乳が優れているのは当然だが、それにミルクを足したり、母乳の出が悪ければミルクで代替したりすることに何か問題があるのかと謂うことなのだが、まあウチの兄弟なんか殆どミルクで育っているので、経験則的には何の問題もないだろうと思う。
どらねこさんの記事は、助産院を発信源とした出産・育児に纏わる諸々のニセ科学の問題の一環としての性格もあるわけだが、個々の問題について具体的に是非を論じるにはこちらの素養や知識が足りないので、大枠の自然崇拝の問題を考えてみたい。
最近ちょっと考えているのは、自然崇拝の背景にある普遍的な動機とは「何もしないほうが上手く行くと信じたい」と謂うものだと謂うことである。「信じたい」と謂うのが味噌で、「何もしないほうが上手く行く」なんてことが実際あるわけがない。
勿論、上手く行くことだってある、これは事実である。かなりザックリ考えれば、たとえば出産なんてのはたしかに病気ではないんだし、育児も或る程度まで本能行動ではあるわけだから、余計なことを何もしなくても上手く行くはずだ、と考えることは不自然ではないだろう。
ただ、この考え方、引いては自然崇拝そのものが「強者の論理」であることはもっと強調されても好いかもしれない。この場合の「強者」とは、たとえば賢いとか強いとかカネを持っているとか社会的地位が高いとか謂うことではなく、生存可能性の観点の問題である。つまり、病気に罹っても死なないとか、出産しても死なないとか、変なものを喰っても死なないと謂うことで、その判定基準はいつでも結果論である。
かなりザックリした話で言うと、生物の進化と謂うのはいつでも結果論でしか語れないものである。結果的に生き延びた個体の資質が後代に受け継がれ、遺伝子の交配を繰り返すことで結果的にその種が生き延びる確率が高くなるわけである。
この場合の主語は個体ではなく種であるから、どの個体が生き延びるかと謂うのは予め決定されているわけではない。たまたま生き延びた個体の資質が、結果論としてその種がその環境に適応するのに妥当な資質だったと謂うことで、必ず最適な資質だけが選ばれると決まったものでもない。こんな迂遠な戦略でよくこの種が滅びなかったものだと呆れるような種も存在するわけで、飽くまで進化とは結果論である。
であるから、たとえば進化論の「繁殖戦略」なんて言葉は、別段その種が「こう謂う戦略で生き延びましょう」と謂う予測を立ててその戦略に従ったと謂う意味ではなくて、結果論としてそのような方向性の資質を持った個体が生き延びて種の資質として固定されたと謂うだけの話になる。進化論が何だかわかるようでわかりにくいのは、この種の比喩がどうしても誤解を招き、その誤解が考え方そのものまで惑わせてしまう側面があるからだろう。
翻って自然崇拝の問題を考えれば、「何もしないほうが上手く行く」とまで言い切れるかどうかは議論が分かれても、「何もしなくても上手く行く」個体が存在することは事実であり、それが人間と謂う種の大括りな生存可能性の資質であるとすれば、種として考えた場合にはたしかにそれほど間違った言明ではない。
しかし、この考え方は、特定の個体が何もしなくても上手く生き延びるかどうかまでは一切保証しないわけで、何もしなければ死んでしまうとか障害を被る個体だって存在するわけである。人類と謂う種全体で考えれば多くの割合で上手く行くことが、少数の個体にとっては命取りになる可能性が常にあるわけで、それは何もしなければ予めどの個体にそのリスクが潜在してどの個体にないのかは決定出来ない。つまり、これはやっぱり結果論でしかないわけで、何もしないで上手く行かなかった場合、それは単に運が悪かっただけと謂うことになる。
自然崇拝が「強者の論理」だと謂うのはそう謂う意味で、「何もしないほうが上手く行く」と謂う考え方は、上手く行かない少数の例外を切り捨てる考え方である。自然なやり方で上手く行かないのは、その個体の存在の在り様が間違っているからだと謂う考え方である。これをもっと突き詰めれば、間違った在り様の個体には存在価値がない、生きる権利がない、と謂う考え方に繋がっている。
であるから、自然崇拝はこの「少数の例外」を間違っているとして一様に攻撃する。何もしないほうが上手く行くのに、何故あなたは上手く行かないのか、それはあなたに何か問題があるのではないのか、こう謂う糾弾の論理に繋がるわけである。そしてそれは必然的に、「上手く行くように出来ているのだから、鍛えればマトモになる」と謂う考え方に結び附く。
この論理はたとえば新型インフルの問題で、ワクチン接種を拒絶して「自然な抵抗力に任せる」と謂う考え方とも接続している。「感染パーティー」なんてのはその最たるもので、人間には必ず病原体に打ち勝つ仕組みがあるのだから、それに勝てないのはその仕組みが甘やかされて弱体化しているからだ、寧ろ積極的に病原に接して鍛えれば本来の機能を取り戻すはずだ、こう謂う論理である。
この論理が馬鹿げているのは、上手く行かない「少数の例外」に「何か問題がある」のは当たり前であって、「何か問題がある」「少数の例外」が生き延びられるようにすると謂うことが人間社会の進歩の背景に潜在する大同目的だと謂うことで、だから何もしなくても上手く行かない人を糾弾するのは、まったく意味がないと謂うことである。
この大同目的を達成するツールとして、自然科学があったり哲学があったり種々の技術があったり社会システムがあったりするわけで、これがなかったら、この世の中にこんなに人間がたくさん生きているはずがない。つまり、人間の技術の進歩と謂うのは、自然崇拝の信奉者が主張するように社会的強者に傅いて社会的弱者を踏みにじるような性格のものではなく、潜在的には進化論的弱者を救済する目的のものである。
極端な喩えを謂えば、たとえばマンボウは一回に何億個もの卵を産むが、そのうち成魚に成長するのはほんの一握りでしかない、そのほんの一握りの子孫を残す為の戦略として可能な限りたくさんの卵を産む、これは学校で習う話である。
一方これが人間の場合だと、人体構造上、殆どの場合は一回につき一人しか産むことが出来ないし、脳容積の関係で未成熟な状態で生まれてくるから、一人前に成長して性成熟を迎えるのにおおよそ一五年強の時間がかかり、その間大人が面倒を看てやる必要がある。多仔産と謂う選択肢がないのだから、すべての女性が効率良く頻回子供を産んで出来るだけ無事に育て上げる必要があるわけである。
であれば、個体の生存可能性を高めると謂う方向性で進化しなければ、種としての繁殖戦略上不利なのは当たり前で、しかも人間が二人でやっと一回につき一人子孫を残せるわけだから、単純計算で一人につき三人は子孫を残さないと人口が増えないと謂うのも当たり前の理屈である。
そうすると、各個体がそれぞれかなり長期間生存して子孫を無事養育しないと人間が増えない理屈だから、何もしなければ子孫を残せずに死ぬような人間も生き延びて繁殖に参加しないと、あっと謂う間に人類と謂う種が先細りになって滅びてしまう。であるから、人間の文明は何もしなければ死ぬ可能性が高い人間を平均的に生き延びさせる方向で進歩してきたと考えても無理はないわけである。
現代においてはほぼ地球上のすべての陸地が人間に制覇され、他の生物種の生存が脅かされているからピンと来ないのだが、ほんの一〇〇年くらい前には人間の共同体の外部には広大な沃野が拡がっていたわけで、その外部に向けて領域を拡大しながら人的資源が増加していくと謂うのが従来の人間社会の在り方だったわけである。
その拡大の原理と謂うのは、進化論的弱者が生き延びられるような仕組みや技術を生み出すと謂うことで、つまり人間の文明と謂うのは基本的に弱者を活かす目的で発展してきたわけである。これは逆に言うと、何もしなければ生きていけないような人々がたくさん生きていると謂うことで、人間のスタンダードな資質だけを殊更に言い立てることはそれらの「例外」を切り捨て、生きているのは間違いだと言っているのと同じことである。
で、人間を取り巻く生存可能性のリスクは多種多様であるから、それらをスクリーニングすると、かなり多くの人間が「生きる資格がない」「生き延びるのは不自然だ」と謂うことになるわけで、普通に考えて二〇〇年くらい前までは一〇〇万人住んでいれば大都市だったのが、今や一千万人近くに膨れ上がっているわけであるから、江戸時代を基準にしても一〇人のうち九人までが「不自然に」生き延びた個体だと解釈することが可能である。
そもそも、過去のエントリで何度も語ったように、江戸時代どころか昭和くらいまでは人間が今よりもっと簡単に死んだわけで、インフルエンザが流行しているのに死者が現代の水準だと謂うことそれ自体が不自然窮まりない話である。
況や感染パーティーなんてのは底抜け論理も最たるもので、一〇〇年くらい前まではインフルエンザの流行で全世界で何千万人も死んだわけだから、死者が出ても不思議ではないと謂う話になる。
人間には自然な抵抗力があると謂うのはたしかに事実であるが、それでインフルエンザをはじめとする病原性ウィルスに必ず打ち勝てるとは決まっていない。死んでしまう個体だってあるし生き延びる個体だってある、終生癒えない障害を被る個体だってあるわけで、総体的には何とか生き延びて子孫を残す個体のほうが多かったから人類が滅びていないと謂うだけで、「人間の自然な抵抗力」と謂うのであれば、弱い個体の死を前提に織り込んだ話でなければならない。
自然な抵抗力で勝てるかもしれないが勝てないかもしれない、そして勝てなかったら最悪死ぬ、これが「自然」と謂うことである。それを何故「人間の自然な抵抗力に任せれば必ず勝てる」と曲解出来るのか。病原性ウィルスのように容易く変異してまったく新しい存在に変化する外敵、つまりこれまで存在しなかった外敵に対して、何故必ずそれに勝てる無敵の防御システムがアプリオリに組み込まれていると信じられるのか。
これが本題だが、それはつまり、その種の人々は人間を信じていないのである。
人間のやったこと、これからやること、それらが所与の期待の範囲で合目的的に高い確率で機能すると謂うことを信じないのである。であれば何を信じているのかと謂えば、冒頭で挙げたように「何もしないほうが上手く行く」と謂う虫の好い考え方である。
人間のやることなど信じられないが、「そう謂うふうに出来ている」と信じるなら安心出来ると謂うことである。何故そんなふうに上手く出来ているのか、そんなことまでは考えないのだと思うが、おそらく潜在的にはID理論なんかに通じるような超越的存在の意志を想定しているのではないかと思う。
この種の人々は、人間に何が出来て何が出来ないのかと謂うふうには考えない。人間のやること、成し遂げたことは大概ろくでもないインチキだと考えている。それを自然に対する畏敬の念にすり替えて、人間が人間の責任において成し遂げてきた成果を簡単に否定するわけである。
過去の先人の営為によって「ここまでのことが出来るようになりましたよ」「ここまでは出来ると信じて戴いても大丈夫ですよ」と謂うことになると、「科学の倨傲」だの何だのと謂う話になるわけで、それは要するに人間の責任において何かを為すことに対する拒絶反応である。なるがままにしておけば上手く行くものに対して、敢えて人間が責任を負って何かを附け加える必要はない、こう謂う考え方だろうが、では何処までが人間の営為として許されるのかと謂う問題になると、誰もちゃんと考えてはいない。
食に関連したエントリで語ったように、今われわれが口にしている食物の大部分は長年月に亘る品種改良や人工的栽培、牧畜、養殖によって成立している食材である。天然自然の野菜なんてのは矛盾であって、大概の野菜の原種なんてのは上手くも何ともない上に毒性があったりする可食性の雑草で、それを何とか喰えるように品種改良を重ね調理法や保存法を改良してきたのが人類の歴史である。
自然崇拝の観点では、これも不自然だから許されないと謂うのだろうか。これらの人工的な食材が供給されることで、本来野生の状態では個々の共同体が扶養出来なかった多くの人口を養うことが出来るようになり、社会組織の規模が拡大したわけだが、それによって爆発的に増加した人口も自然に逆らう間違った存在なのか。
何処までの営為が許されるのか、と謂う問題に科学が絡んでくれば、前段で述べたように科学技術や社会システムによって生かされている本来死すべき弱者は、自然に反する間違った存在なのかと謂う問題に必ず衝き当たってしまうのだし、どんな人間が生き延びるのが正しくてどんな人間が滅びるのが正しいのかと謂う話に必ずなってしまう。
突き詰めて考えれば、自然崇拝と謂うのは「弱者は死ぬべきだ」と謂う考え方でなければならないのだし、「自分だけはその弱者ではない」と謂う想像力の欠如を必須要件とするものである。ましてや、「自然に暮らしていれば人間は誰も死なない」と謂うのは完全に間違った迷信である。
人間と謂う種は、これまで潜在的弱者が死なずに生き延びて潜在的強者と公平に社会生活を営める仕組みを営々として構築してきたわけだが、自然崇拝と謂うのは本質的にそのような社会の在り方を否定するものである。何せ、「人間のスタンダードな生存可能性の資質」を持ち合わせていない多くの人々が普通に生き延びて子孫を残しているわけであるから、こんな不自然な生物種は存在しない。
さらに奇妙な点として挙げられるのは、そのような自然崇拝に基づく思想に限って自然科学を下手糞に模倣したような出来損ないの「技術」をアピールすることで、何であれ人間の知恵が生み出した技術それ自体が、自然とは真っ向対立する方向性の知識体系であり、自然科学とは別種の技術体系を主張するのであれば、単に「自然に敵対する」自然科学の技術の代わりに、その模造品がそのポジションに収まるだけの話である。
それの何処が「天然自然」なのか。
たしかに自然科学は無謬では在り得ないし、科学技術の発達が何某かの弊害をもたらしたことは事実だが、それは人間が人間の責任において何かを為そうとする限り不可避的に附随する過失であり試行錯誤を経て人間が自身の手で解決して行くべき課題である。
その責任を放棄して天に任せておけばすべて上手く行くと主張するなら、それは他人の責任で生き延びるも同じことで、自然状態では生き延びられないかもしれないと謂う可能性は遍く自然崇拝者にも適用される冷酷な事実であるが、怠惰な無責任の姿勢は、そのような事実を直視する責任すら負おうとしないのだろう。
何度か間接的に語ってきたことではあるが、オレが自然崇拝思想が大嫌いなのは、本質的にそのような弱者に対する無関心と「自分だけはその限りではない」と謂う虫の好い狂信に基づく不快で無責任な物の考え方だからである。
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コメント
>>その責任を放棄して天に任せておけばすべて上手く行くと主張するなら、それは他人の責任で生き延びるも同じこと
これは実質的には「最終的な責任を他の人間に圧し附ける」と謂う意味にしかなっていないと謂うのが一番の問題である。つまり、結局最終的にケツを持つのはやっぱり人間の営為なのであるから、他の人間の営為の上に胡座を掻いてその営為自体を糾弾していると謂う無責任さがある。
これは自然崇拝ではないが、たとえば最近poohさんのところで見掛けたホメオパスの方との対話では、「症状が重篤な場合は勿論現代医療に任せる」と謂うようなご意見が出たのだが、それは論理的に考えておかしいだろう。
ホメオパシーも今は何だか新宗教のように流派が分裂していて、統一的な理論はこれこれだとも言いにくくなっているが(笑)、基本的には現代医療の知識体系と対立的な関係にあるはずである。であるなら、本来ホメオパシーと現代医療は相互排除的な関係にあるのが当然だから、「症状が重篤な場合は現代医療に任せる」なんて選択肢が在り得るはずがない。
ザックリとハーネマンの提唱した「同種療法」としてのホメオパシーの原理を纏めるなら「同種の症状を引き起こす物質はその症状に対して効果がある」「物質を希釈・震盪すればするほど効果は高まる」と謂うものだが、これは医学では機序も実効も否定されている原理であり、現代医療はそれとは相反する薬理体系に依拠している。
であるから、ホメオパシーサイドで現代医療にはホメオパシーの手に負えない症状に対して効果があると認めることは、ホメオパシーの原理自体の否定に繋がるわけであるから、「重篤な場合は現代医療に」なんてのは自己否定にしかならない。
メタ的な意味で謂えば、ホメオパシーの有用性が在り得るとすれば、それは医学的な観点の問題ではなく「おまじない」としての観点の問題だから、「『おまじない』が効かなければちゃんとしたお医者さんに看てもらえ」と謂う意味なら誰も文句は言わないのだが(笑)、その「おまじない」は「実効ある医療技術を擬態する」と謂う詐術的原理で駆動しているのだから、本質的に現代医療と相互排除的な関係にある。
相互排除的な関係にない別種の技術体系が並立すると謂うことなら幾らでも在り得るだろうが、ホメオパシーと現代医療はそうではない。たとえば漢方とホメオパシーを同列に扱うのは間違いで、漢方と謂うのは経験則的に確立した薬学だから、まず前提としてすでに薬が存在すると謂う点が少し現代医療と違うだけで、実効も確認されているし作用機序も概ね解明されている。であるから、これは現代医療と相互排除的な関係にはないわけで、科学的な見地で考えて漢方薬には何ら現代医療の薬理体系と矛盾はない。
デリケートな部分があるとすれば、漢方は作用機序の説明原理を自然科学ではなく陰陽五行説と謂う哲学に依拠していると謂う部分だが、診療や施薬の実践においては基本的にそれほどの問題がないので、代替医療として適切な伝統療法と考えられる。
これはつまり、漢方は「百草を嘗める」に象徴されるような経験則に依拠しており、診療行為も実質的には患者に対する長期に亘る経験的な試行錯誤で妥当な施薬を決定すると謂う手続を持っているからで、実効を確認してから薬品を開発し安全性を確認すると謂う現代医療の薬学とは開発プロセスが違うからである。つまり、実効と安全性と施薬の基準はすでに概ね経験則で確認され確立されているわけであるから、説明原理がどうであろうと実質的な診療行為の手順に問題がなければ危険性はないと謂うことである。
しかし、これがホメオパシーとなると、本質的にその原理には現代医療を否定するような性格があるのだし、困ったときにはその否定している対象である現代医療が何とかしてくれるから、「放棄されなかった間違った未科学」に過ぎないホメオパシーが未だに存続しているわけで、これは結局自分が攻撃している相手にケツを持たせて好き勝手なことを言っていると言われても仕方がない。
ホメオパシーの喩えだと少し遠回りだが(笑)、たとえばどらねこさんのところで再々話題に上るマクロビ幼稚園の園長は、新型インフルのワクチン接種に断固反対しているそうだが、もしも園児が感染して症状が重篤化したらどうするだろう。
親御さんの立場としては現代医療の手に委ねると謂うのが当たり前の選択だが、その場合は園長が忌避して已まないワクチンを接種したりするわけで、それ以外にも園長が日頃有害だと考えている種々の医療行為が行われるわけである。
であれば、おそらく園長は「抛っておけば治るものを何故入院させたのか」と謂うふうに批判するだろうが、こんな愚劣で鈍感な考え方が破綻しないのは、親なら誰でも自分の子供が死ぬのは厭だから、どれだけマクロビに被れていても症状が重篤化すれば医者に頼るのが当たり前だからで、園長の主張に反して「抛っておけば死ぬ」と謂う事実を証明する為に我が子を犠牲にする親なんて普通はいないからである。
さらにそれは、新型インフルエンザが重篤化した場合に治療可能な現代の医療技術の存在を前提にした話であって、それがなかったと仮定すれば、園長が「自分の言う通りにしていれば新型インフルエンザに感染しても死なない」と主張していて、もし万が一園児の症状が重篤化すれば、為す術もなく子供は死ぬ。それを救う手段はないのであるから、これは明々白々で園長の主張が間違っていたと謂う証明になる。
つまり、この園長がのうのうと好き放題な迷信を鼓吹出来るのは、親御さんが子供の健康に対して直接的な責任と動機を持っているからであるし、重篤化した場合に対処可能な現代医療技術が存在するからである。子供が生きるか死ぬかの瀬戸際には、親心として必ず現代医療に頼るだろうし、だとすれば、それを後知恵で批判すれば園長の主張の矛盾点は永遠に表面化しない。
現に治った疾病について「抛っておいても治ったはずだ」「寧ろ医者に診せたことで悪い結果が出た」と主張するなんてのは、これほど容易い言明はない。園長本人にその自覚があろうがなかろうが、筋道としては「親が子供を見殺しにするはずがない」と謂う当たり前の人情と、実際に高確率で新型インフルエンザを治療可能な医療技術に胡座を掻いて好き勝手なことを言っているだけである。そして、園長が潜在的に責任を圧し附けている相手とは、いつでも自分の攻撃対象それ自体である。
結局は、「天に任せる」「何もしないほうが上手く行く」と謂う考え方は、本質的に他の人間の営為に責任を圧し附けると謂うことにしかならない。抛っておいたらまずいだろうと考える誰か他のお節介な人間がどうにかしてくれるから、好き勝手な理屈を吹聴出来るのである。
これは当人に自覚があろうがなかろうが筋道として卑劣な姿勢であり、その自覚がない場合は、それが善意に発するものであろうがなかろうが、卑劣なだけではなくどうしようもなく鈍感でもあると謂うことである。
投稿: 黒猫亭 | 2009年12月31日 (木曜日) 午後 02時18分
僕も仕事柄、自然にこだわる人ともよく絡みますが、自然を信じる人の「自然」に対する解釈が実に都合がええんですよね。まぁ、一応のラインとしては「放っておいたら(それこそ自然には)できないもの」ってところでしょうか。
物質でいう「化学合成」や生物でいう「遺伝子操作」辺りになりますかね。でも、そういうものすら自然を崇拝する人たちにとっての単なる「都合の良い線引き」でしかないんですが、そういう人たちはそうは思っていないところがたちが悪いですね。自分たちに都合の良い自然の解釈でリソースを無駄に消費して、それでどれだけ沢山の人に迷惑を掛けているのか、もうちょっと考えて欲しいものです。
投稿: がん | 2009年12月31日 (木曜日) 午後 11時25分
>がんさん
>>僕も仕事柄、自然にこだわる人ともよく絡みますが、自然を信じる人の「自然」に対する解釈が実に都合がええんですよね。
これはオレも感じることですね。自然崇拝の思想で最もいい加減な部分と謂うのは、この自然と人為の線引きの部分で、オレも何度か宮崎駿の「田園風景なんて人工物の最たるものだ」と謂う発言を引いていますが、その宮崎駿の「風の谷のナウシカ」でも、風の谷の老人がクシャナに向かって「あんたらは火を使いすぎる。われわれも火を使うが少しだけだ」と謂うふうに言っていて、人為と自然との共生の線引きは感覚的な程度問題としてしか提示出来ていないわけです。
結局そこの線引きが簡単ではないからこそ、漫画版のナウシカはテーマ性の部分では何だかやたら複雑で曖昧な方向性になったのだし、「もののけ姫」では対立する自然と人為の調停を放棄しているように見えます。
>>物質でいう「化学合成」や生物でいう「遺伝子操作」辺りになりますかね。
その辺の線引きも、やっぱり恣意的と言えばかなり恣意的で、化学肥料なんかを忌避するのであれば、昔の農業における施肥は、堆肥の製法や肥料の質、土壌や作物との相性なんか何も考えていなかったと考えているのでしょうか。また、遺伝子操作を忌避すると謂うのも変な話で、品種改良と謂うのはローテクな遺伝子操作そのものなんですが、それがいかんと謂うなら今の栽培品種は全部ダメなはずです。
これは決して極論ではなくて、突き詰めて謂えばローテクかハイテクかの違いに過ぎないわけで、やっていることは原理的に昔と変わらないわけです。科学技術や農学の発達によって、それが効率的に出来て、幅広い可能性を持つようになっただけで、本質的な違いはない。そこで恣意的に一線を引くと謂うのでは、単なるハイテクアレルギーのように感じます。
>>自分たちに都合の良い自然の解釈でリソースを無駄に消費して、それでどれだけ沢山の人に迷惑を掛けているのか、もうちょっと考えて欲しいものです。
恣意的な信念によるリソースの無意味な浪費と、それによる「迷惑」と謂うのは語り出すとかなり裾野の広い問題ですよね。その辺の議論はがんさんのブログに任せますが、農業と環境の関連の問題と謂うのは、誰かが変なことをやらかすと、その人だけの問題に留まらなくなる、と謂う部分ですね。
投稿: 黒猫亭 | 2010年1月 1日 (金曜日) 午前 12時16分
黒猫亭さん、昨年はいろいろとお世話になりました。
さて、せっかく言及して下さったのでお返事を・・・と、考えていたのですが既に語り尽くされた様な状態であり、何について書いたらよいのか途方にくれてしまい、コメントが遅くなった次第です。
エントリ内容は今まで言及したマクロビ、ホメオパシー関連記事のコメント欄に於ける発言の集大成といった形で大変参考になりました。
私が考えてしまうのは、どうして傲慢とも謂えるこの考え方を、別段傲慢でもない、寧ろ子育て熱心と云われるような親御さん方が正しいものであるという理解をしてしまうのか、という事です。(実際にはそのような考察がいろいろ行われてきてもいますし、目にもしてますが)
最近一つ考えたのが、『現代病』と謂う言葉です。明確な定義も無いものでしょうが、自然○○を主張する方が頻繁に持ち出す言葉であると思います。
自然は破壊され、排気ガスや工業排水に汚染され、便利な道具に囲まれ運動量は低下し、加工食品の割合が多くなりその結果ある種の病気が増加する・・・それが『現代病』の原因であるとする考えに共感してしまう。
これらに共感する理由としては、余りに行き過ぎた事例が記憶されるような時代ではあったと思うのです。公害問題、薬害問題、乱開発などですね。それらによってもたらされたと考える(思い込む)疾病や不利益を許せないのは、自身が選択したものでは無いから、という処が大きい様な気がします。
森を切り開いて、リスさんの住処がなくなって、空気も悪くなって、魚も減って・・・そして、人間もおかしくなってしまったんだ、と。
危険のあるスポーツにや娯楽に身を投じて、怪我をしたときにその対象に恨みを持つことは少ないと思いますが、あらかじめ他人から道筋をたててもらった内容で不利益が生じたときには不満が発生するという心理といったところでしょうか。予防接種有害論はその延長線上のような気がします。(個人では)確率論的にメリットを期待できるから接種を勧奨するのですが、それが何を意味するのか理解できていないと、副反応に対して不振を持つのだろうと思います。
>江戸時代どころか昭和くらいまでは人間が今よりもっと簡単に死んだわけで
自然、自然謂う人たちがこの時代の繁殖戦略をとっていない事を見ても、黒猫亭さんの謂う様に、事実を直視せずに所謂現代社会の提供する利益を享受している証左だと思います。
ううう、旨くまとまりません。脳内変換でお願いしますね。
こんな私ですが、今年もどうぞ宜しくお願いします。
投稿: どらねこ | 2010年1月 2日 (土曜日) 午後 05時27分
あけましておめでとうございます。
「食事の支度→飲んだくれる→片付ける→寝る」この健全な(!?)サイクルで正月を送っております。
最近「助産院は安全?」で6回目のお産に自宅出産を選ばれた方のお話しが紹介されていました。早剥(おそらく)の為に赤ちゃんを亡くされたのですが、その助産師は「こうなる運命の子だった」と言い放ったそうです。それで職業的責任が済む話だと考えているのなら”あなた(助産師)は要らないだろう”……私にはそう思えてなりません。
poohさんの所でホメオパスさんが「ウィルスの想い、ウィルスには伝えたいことがある」と話されていました。”想い”、”伝えたいこと”、人間に引き寄せた場所からしか自然が見えない、自然が人間とコミュニケーションをとると考えているのですかね、笑止なことです。
私は大学時代に地質調査の為に市内からいくらも離れていないところでですが、一人で山の中を歩いたことがあります。その時に自分が軟弱な人間であることを痛感しました。最初は何とも無かったのにしんとした森の中を歩くうちに何とも言えない怖さが募り、近くで雉が飛び立った時に耐えきれずそのまま逃げ帰ってしまいました。その後は必ず誰かと行くことにしました。自然は怖いです。
勝手に乗りかかった船ですが、今年もウンザリするほど”田中真紀子と山村美紗を足して3で割った”ようなオバハンの顔をチェックすることになると思います。……早いとこ脱税か何かで転けてくれることを祈ってるんですけど、そうもいかまい。
話があっちこっちして失礼しました(いつもこんなもんですね)、本年もよろしくお願いします。
投稿: うさぎ林檎 | 2010年1月 2日 (土曜日) 午後 09時34分
>どらねこさん
>>私が考えてしまうのは、どうして傲慢とも謂えるこの考え方を、別段傲慢でもない、寧ろ子育て熱心と云われるような親御さん方が正しいものであるという理解をしてしまうのか、という事です。
これについてもオレなりに考えはあった…と謂うより、かなり長い間考えていたことがあるんですが、軽々に即レスすべき問い掛けではないように思いましたので、更めて一晩じっくり考えてみました。
何故考え込んでしまったのかと謂うと、幾つか多角的な観点から理由が考えられるんですが、それがみんな厭な理由だからなんですね。そう謂う厭なことを、いい年をして妻も子もいないような無責任な人間が、何の躊躇いもなく言い放って好いものかどうか、そこを考えていました。
逆に謂えば、どのような語り方をするのが黒猫亭固有の立場の観点から節度のある物謂いと言えるのか、そこを考えていました。
また、この問題を考える場合、そもそも親子関係とはどのようなものかと謂う認識を明らかにする必要がありますが、これがかなり複雑な話になってしまうので、そこをどのように整理するか、どの程度までの説明が最低限必要なのか、と謂うのが現実的な課題としてありました。
その辺を踏まえて、少し長くなりますがお返事をさせて戴きます。
まず親子関係の問題なんですが、人間から人間が生まれる以上、予想されるのが非常に複雑な観念の入れ子構造ですね。現役世代の親御さんのレベルに視点を固定して考えると、その親御さんには自分を育てた親(つまり子の視点では祖父母)が存在すると同時に、自分が育てる子が存在するわけです。つまり、その親御さんは子であると同時に親でもあるわけで、子としての立場と親としての立場が重なり合っています。
これは当たり前ですね、人間は誰でも誰かの子であり誰かの親になるものです。オレはこの一般則の例外だからこの問題を語る適格性の問題が出てくるのですが、それはさておき、現在只今子育てをしている親御さんの立場には顕著にこの二重性が顕れますね。ここではひとまず、この二つの立場は一人の人間の上で重なり合ってはいるけれど本質的に別のものなんだ、と謂うことを確認しておきます。
その前提において親と子の関係を考えると、自分を育てた親と自分の関係が、自分と自分の子の関係に投影されていることが予想されます。つまり、自分が親の立場に立つ以上、その子には過去の自分が投影されるわけです。親が子に自己投影する理由は幾つも考えられるでしょうが、この想定においては、親の立場の二重性の観点に理由を求めるわけですね。
では親としての自分はどうなのかと謂えば、一般的な親は親としてのロールモデルを自分の親に求めるものだと思います。ただ、世の中には理想的な親ばかり存在するとはとても言えないわけで、寧ろその逆だと言ったほうが間違いがないでしょう。親に対して何ら不満を抱いていない子なんてのは珍しいですから、親としての自分のロールモデルになるのは、実際にはそのままの親の姿ではなく「こうあってほしかった自分の親」と謂う虚構的な観念だと思います。
であれば、自己投影された子と謂うものもまた「こうあってほしい自分」と謂う虚構的な観念であると考えられますね。たとえば早期教育に熱心な親御さんと謂うのは、もしも自分が子供の頃から英才教育を施されていたら、もっとましな自分になれたかもしれないのに、と謂う想いを無意識に抱いているものだと思います。
そう考えていくと厭な筋道が見えてくるわけで、子を想う親心と謂うのは元々利己的な自己愛と非常に似通った感情だと考えられるわけです。勿論、この二つがまったく同一だと考えるのは早計で、親心と利己的な自己愛は観念上別のものです。親心と謂う確立された観念が存在する以上、それは利己的な自己愛とイコールでは決してありません。
つまり、親子関係において子に投影された自己に対する愛情と謂う個別の条件附けにおいては、それは利己的な自己愛とは別の観念になると謂うことです。それは、幾ら身勝手に自己投影しようが子は親に対して他者なのだし、その自己投影は必ず子の他者性によって裏切られるものであり、親心と謂うのはその裏切られることを運命附けられた自己投影と謂うプロセスを超克して確立される他者愛だからです。
ただ、元々の感情の機序が自己愛に根を持つ以上、「子故の闇」と謂う魔境も附き物ではあるわけで、これも強烈な利己性ではあるわけですね。これはつまり、「自分の子だけは厭な目に遭わせたくない」「自分の子だけは好い思いをさせてやりたい」と謂う種類の血族共同体の利己性ですね。これはどんな親でも程度の差こそあれ潜在的に抱いている感情ではないかと思います。
この「自分の子『だけ』は」の「だけ」に掛かるウェイトの如何によっては、それは親自身の利己性に還元される可能性もあるのではないかと思います。つまり「厭な目に遭わせたくない」とか「好い思いをさせたい」と謂う場合に、自分の子だけを優先する度合いが甚だしいと、一種優越性を排他的に独占したいと謂う感情に傾くわけですね。
この、優越性の排他的独占と謂う機序がなければ、子に対する親の希望は「人並みのことをしてやりたい」で構わないはずなんです。しかし、昭和後期の受験戦争くらいの頃から目立ってきたのは、「自分の子には人並み以上のことをしてやりたい」と謂う傾向だと思うんですね。多くの親が子に対してこれこれこう謂うことをしているなら、それに優越することを子にしてやりたいと謂う傾向です。
これは激烈な競争社会を勝ち抜く抽んでたアドバンテージを子に与えてやりたいと謂う自然な親心が出発点だったと思うんですが、たとえば日本の経済が上向きになってくると競争社会に敗れても飢えて路頭に迷うようなことはなくなってきます。そうなると、目標設定が「人並み」ではなく「人並み以上」になってくるわけで、そこに親のルサンチマンも絡んでくるわけですね。
「もし自分がもっと出発点において恵まれていたら、もっと好い暮らしが出来ていたはずだ」と謂う想いを子に投影して、自分に欠けていたと思われる環境を用意することで子が自分の理想通りに育つことを期待するようになります。それによって、自分もまた出発点の環境に恵まれていたらもっと良い自分になれていたはずだ、と謂う根拠のない思い込みを証明することが出来るわけですね。
しかし、その一方で、過酷な受験戦争で苦しめられ挫折を経験して育った子供が大人になって子を儲けたとしたら、自分の子にはそんな苦しい思いをさせたくないと願うのは当たり前の心情でしょうし、それはつまり受験勉強なんかに苦しめられた自分の幼少期は間違っていたのだ、他にもっと大事なことがあったはずなんだ、と謂うことを自分の子育てで証明したいと謂う動機にもなります。
これは一種純粋な意味で利己的な自己愛への揺り戻しなんですが、それもこれも皆一口に「子を想う親心」ではあるので、「親心」の美名で正当化されてしまう部分があり、他者である子との間で相互の想いにギャップが生じてきますし、オレは昭和的な親子関係の問題はこのような構造の問題だったと考えています。これがちょうどオレの子供時代の時代性ですね。
そこからどのような変遷があったかと謂うと、ニューファミリーの台頭なんかの影響で価値観のシフトが起こってきます。青年時代にニューエイジ思想に被れた世代が社会の中核にスライドしてきたことに加えて、一億総中流化と謂うような国民の均質化の趨勢も手伝って、子供の頃に辛い思いをさせてまで経済的成功を目指さなくても好いじゃないか、もっと大事なものがあるはずだ、と謂うような流れになって、さらに高度成長期の負の側面である公害問題が解消されてくるに従って、自然志向やエコロジーと謂う要素が出てきます。
道具立てが揃ってくるわけです。
子に対して与えてやりたいと親が願う「豊かさ」は、経済的な意味合いではなくもっと精神的・体験的な性格のものになってくるわけですね。その背景には、死ぬほど頑張らなくても昔より大学に進学させることが容易になってきて、一流大学に進学してトップクラスの社会的地位を占めなくてもそこそこ物質的に豊かな暮らしが出来るようになってきたことがあります。
つまり、頑張っても頑張らなくてもそこそこ豊かな暮らしが出来るなら、多大な投資と苦痛を伴って経済的な価値観で優越を目指すことはコスト対効果比が低くなり、それに対して、心一つの持ちようでどうにでもなる精神性の価値観で「もっと大事なもの」を与えたいと謂う方向に傾いてきます。ナンバーワンではなくオンリーワンを目指す方向にシフトしたわけですね。
そのような一億総中流化的な「豊かさ」の遺物である自然志向が、何故この厳しい世相においても継続しているのかと謂えば、これはつまり社会的フェアネスに対する信頼が破綻したからでしょうね。今は頑張っても頑張らなくても豊かな暮らしが出来る世の中ではありませんが、その代わり、頑張っても頑張らなくてもこの貧しい暮らしは変わらないと謂う観測が支配的になっています。嘗ては豊かな暮らしを前提にした「それ以上に大事なもの」であったものが、今はそれしか残されていないわけです。
かなり長くなりましたが、これまでの考察を踏まえると、たとえばどらねこさんが仰るような「別段傲慢でもない、寧ろ子育て熱心と云われるような親御さん方」が子育てにおいて園長の布教に乗ってマクロビに被れる「親心」と謂うのは、やはり一種の利己性ではあると思うんです。
もしも世間一般でマクロビに基づいた子育てが当たり前であるなら、それはそれほど満足をもたらす考え方ではないと思いますし、寧ろ「本当にそうだろうか」と謂う懐疑を抱く親も多いと思うんです。実際にはマクロビを実践している人々はまだまだ圧倒的に少数派ですから、「人並み」に一歩先んじていると謂うアドバンテージとしての魅力がありますし、「自分の子『だけ』は」と謂う優越性の排他的独占の感情を満足させる部分があると思います。
しかし、それらの人々は最初からそんなことを考えていたわけではありませんし、寧ろ出発点には「人並み」でいいと謂う謙虚さがあったと思うんですが、たとえばどらねこさんがマクロビ幼稚園だとわかっても幼稚園を変更出来ないのは、他に選択肢がないからですよね。選択肢が幾らでもあれば、さっさと別のマトモな幼稚園に変更すると謂うのが当たり前の選択だと思うのですが、今は幼稚園や保育園で子供を預かってもらうだけでもかなり困難です。
その問題はその問題として捨象しますが、他に選択肢がない状態でそんな施設に子供を人質にとられたら、所謂ストックホルム症候群のような心理状態が想定出来ます。つまり、親御さんのほうにイニシアチブがない状態では、その状況において支配的な人物の言動が信頼に足るものだと信じたいと謂う心理が無意識に働きます。親御さんには、自分の子供を預けている園長さんが信奉し強制するマクロビオティックと謂う考え方が正しいものであってほしい、と謂う潜在的な動機があるわけです。
この不如意な状況においては、マクロビオティックが思想として正しければ何の問題もないんです。間違っているとわかったら、子供を預けている施設の権力者に対して何らかの困難な働き掛けをして実効を得る必要が出来する、と謂う気の重い予測がありますし、幼稚園を移ると謂う選択肢も困難なわけですが、マクロビオティックさえ正しければそれらの面倒は一切なくなるわけです。
それに加えて前述のような「優越性の排他的独占」と謂う、人の子の親なら抗いにくい誘惑が一方にあるわけですから、これはその誘惑に勝てなかったからと言って誰を責めるのも過酷になります。マクロビオティックさえ正しければ、誰も困らず八方円満に収まった上に一種の優越感まで得られるわけですから、天秤の一方が重すぎるワンサイドゲームなわけですね。
世間の多くの子供たちは西洋由来の毒だらけの喰い物を喰って健康を害してしまうのだろうけれど、ウチの子だけは真正な食品を口にして間違った医療の犠牲にもならず正しく真っ当に育つだろうと謂うことに満足を見出す心性は、客観的に視れば醜い利己性だと断罪可能ですが、この状況においては、そう考えない限り、勝ち目のない社会闘争に勝つと謂う選択肢しか残されていないわけです。それを敢えて、戦え、正しくあれと、誰が強制出来るでしょうか。
オレがこの園長のような鈍感な「善人」が大嫌いなのは、善意に発していようがいまいが、やっていることだけを視れば、人間の持っている無理もない人情に附け込んで人の真っ当さを堕落させていることが窮めて卑劣だと考えるからです。少なくとも、このような社会状況において幼稚園の責任者であると謂うことは、親御さんの子に対する想いも預かっているのだと謂う認識もなく、強い立場に胡座を掻いて独善的な思想を無責任に嘯き、剰え強制する鈍感さが許し難いと感じるからです。
オレは、人間と謂うものは簡単に堕落する生き物だと考えていますし、堕落した人間を過剰に糾弾するつもりもありませんし、その人間が堕落の故に他者に迷惑を掛けることさえも究極するところ当事者的な関係性の問題だと考えていますが、自身の堕落を思想化してシステマチックに他者に感染させる人間は許し難いと感じます。
ですから、多分ニセ科学問題にコミットしている動機と謂うのは、多分その辺にあるのではないかと思います。ダメな奴がダメなことをして非道い目に遭ったり破滅したりする分には本人の生き様の問題であり文芸的・哲学的な観点の問題ですが、それをシステマチックに正当化してより多くの人間にダメなことをさせようとする人間は許せないと思いますし、戦わなければならない相手なのだと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2010年1月 3日 (日曜日) 午後 04時36分
>うさぎ林檎さん
>>最近「助産院は安全?」で6回目のお産に自宅出産を選ばれた方のお話しが紹介されていました。早剥(おそらく)の為に赤ちゃんを亡くされたのですが、その助産師は「こうなる運命の子だった」と言い放ったそうです。
その助産師の方は、おそらくそれが自己弁護だなんて意識はさらさらなくて、失意と自責の念に晒されている産婦を慰めているつもりでそう言っているんでしょうね。オレはその種の鈍感さに対して激しい憎しみを感じます。
何処かで虫の良い思考停止があるんですね。産婦を慰めると謂う利他心と責任逃れと謂う利己心の矛盾を調停する為に、「これ以上は考えない」と謂う都合の好い曖昧さを身に着けているわけで、それは人命を預かっていると謂う倫理的な責任と、一々新生児の生死の重みにかかずらっていたら身が保たないと謂う職業的な処世、その矛盾をも曖昧化する心の置き方なのでしょう。
それはそれで好いんです。人一人が命を賭けて向かい合う営みに職業的且つ日常的に携わる人間が、その一件一件の重みに附き合っていたら身が保たないことは事実なんですから。しかし、そこにたとえば産婦人科の設備の整った病院における出産と競合する形で助産師がビジネス的に対抗するなら、胡散臭いニセ科学や自然崇拝を看板に掲げることにはさらに重い責任が伴ってきます。
助産師が経験則的に積み上げられた知識や技術以上の付加価値を附け足すことで現代医療に対抗するなら、それは助産師と謂う職業が依拠する知識体系全体の責任ではなく、現在只今それを附け足した当事者の責任と謂うことになりますし、経験則的医療と謂うのは所詮はそう謂うことです。
以前のコメントで漢方に触れましたが、経験則的に妥当性が確立されていると謂うことは、その妥当性を確立する為に夥しい犠牲が払われていると謂うことで、その犠牲に依拠した知識体系が経験則的医療だと謂うことですね。それが「百草を嘗めて薬効を探求した」と謂う神農の神話に象徴されているわけです。経験則的医療の確立の為に犠牲になったすべての人々が、神農と謂う神話的始祖に象徴されて祀られているわけです。
助産師もまた、先人が積み重ねてきた経験則的知識の蓄積の上に成り立っている職業なのですから、そこに現在只今の職業者の都合でホメだのマクロビだのと謂う新奇な要素を附け加えようとするなら、それによる犠牲に対する重い責任は蓄積された経験則の知識体系と謂う観念ではなく、附け加えた個人に集約されます。
そして通時的な問題としては、そんな際物的な付加価値で存続を図った助産院が結果的に現代医療よりも犠牲を多く出していると謂うことが周知されれば、経験則的な出産自体の是非の問題に繋がり、職業領域自体の存続の危機に繋がります。抛っておいてもこの種の職業領域はいずれ存亡の危機に立たされるでしょうが、それでも看過出来ないのは、放置しておけば一定の犠牲が出ると謂うことです。
われわれの共通した問題意識として、アヤシゲな付加価値を掲げる助産院が滅びること自体が目的なのではなく、そこで犠牲になる人々を一人でも少なくするにはどうしたら好いのかと謂う課題があると思うのですが、それを阻止する為にはたとえば「本当は危ない助産院」と謂うような書籍が大ヒットして助産師と謂う仕組み自体を滅ぼしてしまうのが一番手っ取り早くて確実です。
しかし、それによって助産師が担っていた社会機能が破壊され、真面目に仕事に取り組んでいる助産師さんも巻き添えになるわけで、その易道は選択し得ないわけです。
思考停止と謂うのは、結局思考を停止することで出来した事態に対処する責任を他者に一任すると謂うことですが、そうして好いか悪いかと謂うのはたしかに難しい問題ではあります。ただ、結果論だけではないことは事実で、予測可能な不都合に目を瞑る怠慢はやっぱり責められるのが当たり前なんだと思います。
>>poohさんの所でホメオパスさんが「ウィルスの想い、ウィルスには伝えたいことがある」と話されていました。”想い”、”伝えたいこと”、人間に引き寄せた場所からしか自然が見えない、自然が人間とコミュニケーションをとると考えているのですかね、笑止なことです。
根本的な問題として、ウィルスにどんな想いがあろうと、それが人類と利害の対立がある場合にはどうするのか、と謂う問題があります。昔「ウルトラマンティガ」と謂う番組で、怪獣の想念がテレパシーで人間に送られてきたんだけれど、それが「おまえを食べたい」と謂うものだったと謂う話がありましたが、「おまえを食べたい」と謂う怪獣の「想い」はどう扱ったら好いのでしょうか。
たしかに万物には山川草木それぞれに「想い」があるのでしょうし、そのようなアニミズム的世界観をも否定するものではありませんが、では人間に喰われる豚や牛や鳥や魚の想いはどうなるのか、そして草や木や菌類の想いはどうなるのか。ベジタリズムなんて笑止千万で、植物だろうが菌類だろうが命を奪うことに代わりありません。何を殺生と認識するかと謂う人間の価値観で線引きしているだけのことです。
そもそもうさぎ林檎さんが仰るように、万物に想いがあるとしても、それが人間に何か伝えようとしていると謂う考えほどくだらないものはありません。なんで世界中のすべての存在が人間に対して関心を持っていると考えられるんでしょうね。「ボクはあの子が好きだからあの子もボクのことを考えているに違いない」ってやつですね。
投稿: 黒猫亭 | 2010年1月 3日 (日曜日) 午後 04時36分
失礼しました。
改めて最初から書きますね。
久しぶりに書き込みます。
昨年はいろいろとお世話になりました。
黒猫亭さんは、自身が結婚、子育てをしていないことを「例外」と書いていらっしゃいますが、この国に限らず、どの時代のどの社会でも、結婚・育児を経験しないまま生を終える人は、決して圧倒的少数でも例外でもありません。
私は成り行きと勢いで結婚、育児をしています。勿論、その度毎の決断は私なりに真剣だったつもりですが、では、本当に他の選択肢を選ばないことが正しかったのか、と自問すると、「正解」が見えません。結婚も子どもを持ったことも、もしかしたら、私自身の身の丈に合わなかったのではないか、と悩みながら、でも、流れに棹差す状態で生きています。
教師という職業上、私よりも年齢が少し下の者たちから、今現在の高校生までの人たちと多数知り合っています。その経験からみると、40歳代前半から後の年代では、一人暮らしと独身実家暮らしが非常に多いのが、目に付きます。
結婚しない理由はさまざまです。
3交代制労働から離れることができない男女同士が、結婚に至るのは、物理的時間的に困難です。
あるいは安定した収入を伴う職業に付けない人は、結婚・出産に踏み切るのは、冒険だと本人たちが立ち止まることが多いようです。
(ここから本日の書き直し分になります。)
政府の統計でも、自子の出産を経験しない人が2割以上いる現状から考えるのが適切だと思うのです。つまり、経験があろうがなかろうが、同じ社会を維持する構成員として、出産に関する問題は、興味を持ったすべての人に考えてもらうべきものだと、私は考えます。
言葉にうまく出し切れていない感じがありますが、一言で言うと、自己の経験の有無にかかわらず、もっと出産や育児について自由に語ってほしい、というのが私の意見です。
投稿: 憂鬱亭 | 2010年1月 6日 (水曜日) 午後 11時03分
もう一つ、書かせてください。
助産士さんたちの経験の積み重ねは、確かに有用な部分を多数含むとは思います。
しかし、出産や育児に関する経験に基づく情報は、必ずしも正しいとはいえないし、普遍性があるともいえないものが多いのです。
例えば、育児の際の「抱き癖」に関する話があります。
今から15年ほど前は、「子どもが泣く度に抱っこするのは、抱き癖がついて子どもの自立を妨げるから、やめるべきだ」という意見が、多くの育児書に書かれていました。当時は「助産婦さん」や保健士さん、多くの子育て経験を持つ女性たちが、子どもが泣くたびに抱っこする母親を注意していたものです。
その後、「抱き癖」という概念そのものに対する疑義が深まり、今では「子どもが泣いたら育児者は積極的に身体的接触を行うほうが良い」という意見が多数になっています。
母乳育児に関する話だって、有効な統計が取れるところまで、研究が進んでいるとは言えないのではないでしょうか?
たとえば、統計の取り方として、
1 一度も人工栄養を摂取させない「完全母乳育児」の場合
2 数回だけ人工栄養を摂取させた場合
3 母乳では不足と思われる分だけ人工栄養を摂取させた場合
4 人工栄養と母乳と意図的に半々にした場合
5 人工栄養を主にして、母乳を補助的に摂取させた場合
6 人工栄養だけを摂取させた場合
のように、条件をある程度分けて統計を取らないと、統計としてはあまり意味がないものになるでしょう。
が、そこまでの統計を取った例は、少なくとも私は見たことがありません。
「母乳と人工栄養」の話だけではなく、現状では、それぞれの「専門家」が狭い範囲の経験に基づいて、個別の独善的な対処法を奨励している段階だと思われます。
とは言え、「自然な出産」を勧める人も、「完全母乳育児」を賞賛する人も、それらに疑問を持つ人たちも、出産や育児の当事者たちは忙しくて検証する暇などないというのが、本音なのではないでしょうか。
当事者ではない人たちが、議論に参加してくれることは、育児と出産に関しては、今、とても重要なことだと思うのです。
長文の上に、まとまりに欠ける文章で申し訳ありません。
投稿: 憂鬱亭 | 2010年1月 6日 (水曜日) 午後 11時45分
>憂鬱亭さん
お手数をおかけしました。前回のコメントは削除しておきました。
>> 政府の統計でも、自子の出産を経験しない人が2割以上いる現状から考えるのが適切だと思うのです。つまり、経験があろうがなかろうが、同じ社会を維持する構成員として、出産に関する問題は、興味を持ったすべての人に考えてもらうべきものだと、私は考えます。
おそらくこのような趣旨のご意見だろうと思いましたので、更めてコメントして戴いてからお返事したほうが好いだろうと思ったのですが、このご意見自体には概ね異論はありません。
ただ、オレが躊躇ったのは、以下に書いた通りで、
>>何故考え込んでしまったのかと謂うと、幾つか多角的な観点から理由が考えられるんですが、それがみんな厭な理由だからなんですね。そう謂う厭なことを、いい年をして妻も子もいないような無責任な人間が、何の躊躇いもなく言い放って好いものかどうか、そこを考えていました。
>>
>>逆に謂えば、どのような語り方をするのが黒猫亭固有の立場の観点から節度のある物謂いと言えるのか、そこを考えていました。
つまり、非当事者が当事者にとって厭なことを言うからであって、勿論、意見自体は当事者であろうが非当事者であろうが言って構わないと思いますが、非当事者が当事者にとって厭なことを言う場合は、一定の節度が必要だと考えます。
特定の領域に問題が存在する場合、直接その問題に対処するのは飽くまで当事者であり非当事者は意見を言うだけの立場です。これは、「意見を言って好いか悪いか」と謂う問題とは別次元の問題で、この両者の間で立場が異なることはどうにもならない事実ですし、そこには一定の配慮が必要だと考えます。
結局ですね、意見を言うだけで直接何もしない人間は楽な立場なのだし、意見を言われて「何かしなければ」と思う立場の人はそれよりもしんどい立場にあるわけで、これは何をどうしても埋まらない立場の違いと謂うものです。そこに配慮のない意見は無用の混乱をもたらすとオレは思うんですよ。
それと、敢えて細かい話をしますが、
>> 黒猫亭さんは、自身が結婚、子育てをしていないことを「例外」と書いていらっしゃいますが、この国に限らず、どの時代のどの社会でも、結婚・育児を経験しないまま生を終える人は、決して圧倒的少数でも例外でもありません。
これはそうではないんですね。少なくとも、「どの時代のどの社会でも」と謂う部分については。
書き直された部分で政府統計に触れておられますから、統計データをリファランスされたのだろうとは思いますが、一応ざっとネットで簡単に当たることの出来るデータを出します。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1540.html
この文脈上で重要なのは、このグラフの五〇歳時の未婚率、つまり「生涯未婚率」の推移で、一九二〇年から五〇年くらいは二%内外だったのが、一九七〇年くらいから男女ともに二五〜三四歳の未婚率が急激に増加して、その動きが十数年遅れてそのまま五〇歳代の未婚率の上昇にスライドしています。
リンク先でも説明がありますが、男性は長期的に緩やかな晩婚化の傾向が続いてはいたのですが、二五〜三四歳の女性の未婚率が七〇年を境に急激に上昇して、それに引きずられる形で同年代の男性の未婚率も上昇しています。
一方、生涯未婚率の動きを視ると、七〇年頃から女性の生涯未婚率がいきなり三%台に上昇して、その後男性に比べると緩やかなカーブで六・八%に至っていますが、男性のほうは、八〇年頃から物凄い上昇カーブで一五・四%と謂う高い数値に達しています。
これはつまり、六〇年代末から七〇年代にかけてウーマンリブなどのフェミニズム運動が活発化して意識が変わったと謂うことと、女性の社会進出なんかも進んできて自立可能な経済力が伴ってきて、結婚を強制する社会圧に対して抵抗する女性が増えてきたのかな、と思わないでもないです。そう謂えば「自立した女性」なんて言葉が流行した時期がありますね。
今でも独身者に対して親や親族が煩瑣く結婚しろと口出ししたり、三十路を過ぎて独身だと周囲がとやかくや言う傾向はありますが、これが六〇年代くらいだともっと結婚を強制する社会圧が高かったわけで、実に男女共に生涯未婚率は二%前後に抑えられていたわけですから、一〇〇人中九八人までは生涯に一度くらい結婚していたわけです。
これは普通に考えて「圧倒的少数派」でしょう。
勿論、昔はともかく今は仰る通り男性で一五・四%、女性で六・八%と謂う高い生涯未婚率になっていますから、これは「圧倒的」とまでは謂えません。これはここ三〇年前後の間に急激に進行した状況ですが、この異常な高騰と謂うのは単一の理由ではなく、七〇〜九〇年代の間は「結婚しなくても好い」と謂う価値観の確立と、女性の社会進出に伴う晩婚・晩産化傾向が理由でしょうし、九〇〜〇〇年代にかけてはこれに「結婚したくても出来ない」と謂う理由が加わって高い数値になっているものと思います。
男性の場合なんか、恋愛ならともかく結婚と謂うことになると経済力が大きな判断要素になってきますから、社会全体が貧困化して低所得層が増えてくると、結婚を考える相手を見附けることすら困難になってくるわけです。
つまり、経済が良かった頃は価値観の問題であったのが、経済が悪くなると、すでに確立された価値観の問題に現実的な問題が加わるわけですね。
また、育児経験の問題で謂うと、基本的に日本の少子化問題と謂うのは晩婚・晩産・少産化の影響によるものですから、子供をまったく産まない人が増えたと謂うことではなかったんです。結婚・妊娠が遅くなって、子供を一人か二人しか産まなくなったから少子化の傾向が出てくるわけですね。本文で述べたように、夫婦が三人子供を儲けてようやく人口が一人増えるわけですから、一人乃至二人に抑える傾向が一般化すると、少子化の問題でよく謂われる人口置換水準二・一を下回る事態が考えられるわけですね。
ですから、かなり最近まで、生涯未婚率の基準となる五〇歳まで一〇年を切った四〇代くらいの男女で結婚・育児の経験がまったくないと謂う人々は、やっぱりかなり少数派だったと考えられます。長期的傾向の推移で考えれば、生涯未婚率の基準が五〇歳時に設定されているのですから、晩婚と謂っても四〇代くらいが限界なんですね。で、現状ではその四〇代の後半でも未婚の男性が増えているわけで、これは直接的に経済力の低下が理由として想定可能です。
これはつまり、男性の長期的晩婚化傾向そのものが、生活水準の上昇に伴って結婚・育児に必要とされる経済力が上昇していたからではないか、と謂う想定に基づくものですが、それがどんどん上昇していって、すでに四〇代と謂うほぼ限界に近附いた段階で、年功序列等の安定収入・経済力拡大と謂うシステムの崩壊によって一般的国民の経済力や将来設計に大打撃が加わった、こう謂うストーリーだと考えられます。
そう考えると、九五年まではほぼ同水準だった男女の生涯未婚率が九五年を境に倍くらい違ってきている理由も何となく想像出来るわけで、他の要素を考えないでこのグラフの中だけで考えれば、その格差は五〇歳時に未婚でない男性に吸収されている、つまり頻回結婚する男性に吸収されているんだろうと考えられるわけで、要するに経済力のある男性の結婚回数が増えて、その分あぶれる男性が増えていると謂うことですね。
結局何が言いたいのかと謂えば、憂鬱亭さんが仰るような状況と謂うのは、おそらくここ一〇年くらいの間に表面化したかなり異常な事態だろうと謂うことなんです。憂鬱亭さんが仰るように「どの時代のどの社会でも、結婚・育児を経験しないまま生を終える人は、決して圧倒的少数でも例外でもありません」と謂うことであれば、おそらくこんなに人間は増えていない計算になるんです。
歴史的に考えれば、やっぱり「結婚・育児を経験しないまま生を終える人」は圧倒的少数派であり例外なのであって、それはつい最近までの時代性を考えれば、そうでなければならない必然的な理由があったのです。
個人的には、非婚化それ自体は本質的にさほどの問題ではないと考えていて、少子化対策で大きな成果を挙げたフランスやスウェーデンのように、事実婚や婚外子、シングルマザーやシングルファザーを社会が許容して制度的に援助すれば好いだけの話だと思います。今更この時代性において皆婚習慣を復活させようと考えても、絶対上手く行くはずがないのであって、そんなことが出来るのは宗教だけでしょう。
個々人の価値観に対して大きな影響力を持つ伝統宗教が存在しない日本の現状においては、価値観やライフスタイルの多様化に対して社会の規範や制度がどうすれば対応出来るかと考えるのが妥当なのだと考えています。
で、なんでこんなことに細かく拘るのかと謂えば、本文で述べたように、人類と謂うのは可能な限り各個体の生存率を高めて頻回繁殖することで生き延びてきた生物種であるとオレは考えていますから、医療技術や社会保証制度の発達で「少産少死」に転じるまでは、生物一般が晒されている淘汰圧である「多産多死」を前提として、可能な限り多くの人間が頻回繁殖に参加すると謂う戦略を採用していた、と考えているからです。
それは生物的なレベルでは子作りを強制する圧力として、社会的なレベルでは結婚を強制する圧力として、社会に強制力が存在していたわけで、これは一種個人の選択権や自由意志とは無関係にそう謂う圧力が働いていたわけです。
最も暴力的で簡単な解決策とは、女性を繁殖資源と捉えてイエとイエの間でモノのように遣り取りすると謂うもので、これは女性の人権や自由意志を犠牲にしたものであることは言うまでもありません。
その女性の人権を認めて結婚の決定に対する選択権が行使されれば、異性に対する選好が偏っているのは当たり前なんですから、抛っておいても皆婚習慣が維持されるわけがありません。現在のような状況の出来は必然だと言えますね。
>>母乳育児に関する話だって、有効な統計が取れるところまで、研究が進んでいるとは言えないのではないでしょうか?
この辺はどうなんだかよくわかりませんが、どらねこさんのところで論じられているお話を読む限り、研究自体が進んでいないと謂うより、情報の伝達の問題であるように思います。
意外に物質ベースの部分と謂うのは、単に周知されていないだけでしっかり研究が為されていたりするものだと思うんですが、問題なのは出産や育児と謂う人間の基本的な営みに関しては、特定の価値観や思想が混入しやすいと謂うことなのかな、と思います。
憂鬱亭さんが挙げられた「抱き癖」についての見解の変化も、物質ベースの問題ではないだけに思想如何で左右される部分があって、詰まるところ、育児とはどうあるべきなのか、子供はどのように育つべきなのか、と謂う一般的な思想の変化がもたらした変化なのではないかと思います。
結局「子供の自立」を重視するのか「愛情の充足」を重視するかの違いで、子供が泣いたときに抱いてあやすかそうしないかで何が変わってくるのかと謂えば、「子供がどのように育つか」と謂う窮めて曖昧な部分だろうと思いますし、そこに思想が入り込む余地があるのかな、と思います。
雑な言い方をすれば、子供が泣いたときに抱いてあやそうがほっぱらかしにしておこうが、健康に問題さえなければ子供は育つんです。もしも違いが出るとしたら、どう謂うふうに育つかと謂う部分だけだし、それだって定量化出来るほどの違いが出るのかどうか、それが「抱き癖」とどの程度の相関があるのか怪しい部分があります。
おそらく憂鬱亭さんが危惧しておられる事柄と謂うのは、そう謂う思想次第でどうとでも謂えるような曖昧な部分が、人間の基本的な営みにおいて多すぎることに起因するのかな、と思わないでもありません。
投稿: 黒猫亭 | 2010年1月 9日 (土曜日) 午後 05時53分
黒猫亭さん お返事ありがとうございます。
いただいたコメントを読んで、リンクされたグラフも見て、論理的には納得しかかったのですが、どうも引っかかりを感じました。
私の50年弱の人生の周囲にいた人々を思い出してみると、未婚のまま他界した人がそれほど少ないとは思えませんでした。
ので、統計に表れない非婚者が多かったのかもしれないと、まず考えました。国勢調査を基にしたグラフということですが、過去、国勢調査の正確性に関しては疑問があると聴いた記憶がありましたから。
とは言っても、統計の取り方に関する疑問だけでは、論理的な反論としては弱すぎます。
私の引っかかり方も、それだけではない重さでした。
グラフとコメントを見直して、気がついたのは、「非婚」の定義が妥当かどうかが疑問だ、ということでした。
こちらの表を御覧ください。
http://www8.cao.go.jp/shoushi/whitepaper/w-2004/html-h/html/g3370000.html
敗戦後の物しかありませんが、日本人の平均寿命の表です。
敗戦直後の話ではありますが、日本人の平均寿命は当初50歳をきっています。
現在、「生涯非婚」の目安として使われているのは、50歳までの非婚者の比率です。私もこの数字を現在の目安として考えることには同意します。が、これは、50歳まで生きた人の中で結婚していない人を数えるわけですから、それまでに死んでしまった人はカウントされません。平均寿命が50歳前後の時代には、比較的に経済力がない人は早く死ぬ確率が高く、それらの人々は50歳過ぎまで生きた人たちよりも結婚経験がないまま死ぬ数が多かったとは考えられないでしょうか?
いずれにしても、現在とは大きく異なる平均寿命の集団について、現在の「生涯非婚」の目安と同じものを適用して考えるのは、不適切です。
上のコメントでリンクされたグラフは、意図的に現在の「生涯非婚」を過大に問題視すると同時に、過去の「生涯非婚」を過小に感じさせようとしているものだと私は考えます。
投稿: 憂鬱亭 | 2010年1月11日 (月曜日) 午後 08時48分
>憂鬱亭さん
今回は疑問点を確認するだけなので手短に。
>>敗戦直後の話ではありますが、日本人の平均寿命は当初50歳をきっています。
オレが大きく勘違いしているのでなければ、憂鬱亭さんの挙げられた表では男女共すべて五〇歳を切っていないように見えます。これをグラフで視てみましょう。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1610.html
五一年の時点で男女共平均寿命は六〇歳を超えていますから、このくらいの段階では五〇未満で死んだ人のことはマッスの割合として考慮する必要は薄いと思います。
そして、憂鬱亭さんの仰る通りであれば、平均寿命が五〇歳を超えた時点で有意に生涯未婚率に変化があるはずですが、実際に生涯未婚率に顕著な変化が出てくるのは七〇年代に入ってからで、平均寿命が六〇歳を超えてからでも優に二〇年後のことです。
これはどう説明可能なのでしょうか。
投稿: 黒猫亭 | 2010年1月11日 (月曜日) 午後 09時36分
>憂鬱亭さん
少し不親切な書き方だったので、もう少し補足します。
何故こんなことを確認するのかと謂うと、もしかしたら憂鬱亭さんが平均寿命と謂う概念を誤解されているのではないかと考えるからです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9D%87%E4%BD%99%E5%91%BD
つまり、平均寿命と謂うのはその年次の人口構成比に関わるデータで、当年の〇歳児の平均余命と謂う期待値のことなので、憂鬱亭さんのご意見はこの辺を誤解されているのではないかと考えた次第です。
平均寿命とは別に平均死亡年齢と謂う指標もありますが、こちらは乳幼児死亡率に引きずられてかなり低く出るようです。
投稿: 黒猫亭 | 2010年1月12日 (火曜日) 午前 07時56分
>黒猫亭さん
平均寿命50歳……ああ、私が引用した表では、確かに50歳を超えてますね。
平均寿命と平均余命の差は、一応念頭にはあります。
厚生労働省が公表しているデータにも、その辺の数字は細かく出ているようですね。ただ、私が引っかかっている部分についての答えを、私はその数字からは読み取れませんでした。
私が主張したかったことのキモは、
平均寿命が今よりも著しく低く、50歳に近かった時点で数えた「50歳非婚率」の数字は、成人してから50歳になるまでの間で死んでしまう人が現在に較べると多いので、
現在言うところの「生涯非婚」率とは意味合いが異なるのではないか、ということなのです。
どこのどういうデータを探せばよいのか分からないのですが、
1920年代と、1950年代と、2000年代とでは、18歳から50歳の間に死んでしまう人の、日本の人口に対する比率が、大きく異なっていると私は推測しているのですが、その推測が間違っているのでしょうか?
それと、今の私の思考能力では、統計の読み方によくわからない点が多いのですが、
「50歳非婚率」が平均寿命や平均余命の違いと関係している場合には、平均寿命が50歳を超えるか下回るかで、それほど大きな統計的な差が出るものなのでしょうか?
投稿: 憂鬱亭 | 2010年1月14日 (木曜日) 午前 01時29分
>憂鬱亭さん
オレ自身もきちんと理解しているわけではないので、説明が難しいのですが、
>>1920年代と、1950年代と、2000年代とでは、18歳から50歳の間に死んでしまう人の、日本の人口に対する比率が、大きく異なっていると私は推測しているのですが、その推測が間違っているのでしょうか?
「日本の人口に対する比率が、大きく異なっている」と謂うこと自体は字義通りの意味では間違っていないと思いますが、多分憂鬱亭さんがお考えになっているような意味合いとは違うんだと思います。ちゃんと学んだわけではないので物凄く説明が難しいのですが(笑)、オレに可能な限り説明させていただきます。
まず、参考までに平均寿命の算出法を示しておきます。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life01/sanko-1.html
この「平均余命」と謂う項目で、x歳が〇歳の場合が平均寿命ですね。すぐ上の項目と併せて考えると、〇歳以上の生存数を〇歳児の生存数で割ったのが平均寿命と考えていいんじゃないかと思います。ですから、ウィキの項目にも説明がありますが、人口爆発の時期には分母が大きくなるので平均寿命が低く出る傾向があります。
出生数が拡大傾向にある一方、年齢階級が高いほど元々の出生数が相対的に少ないので人口ピラミッドは山形になるわけです。つまり、平均寿命と謂うのは人口増加率と各個人の寿命の伸びの相関で決まってくるわけです。
なので、平均寿命を基準に考えてもあんまり意味はないんですね。前回は迂闊に、
>>憂鬱亭さんの仰る通りであれば、平均寿命が五〇歳を超えた時点で有意に生涯未婚率に変化があるはずですが
…と書いてしまいましたが、そう謂う意味で「平均寿命五〇歳超」と謂う表現は妥当ではなかったですね。前掲の「図録主要先進国の平均寿命の推移」の解説で、
>>1950年代には主要先進国中、最低だった日本の平均寿命が、1970年代〜80年代には総て抜き去り、世界一に躍り出ている。誠に戦後日本の誇るべき実績であると実感できるデータである。医学の進歩の影響はいずれの国でも享受していると思われるので、この輝かしい実績の主たる要因としては、国民皆保険制度の普及、日本的食生活の2つをあげることが可能であろう。
…とありますから、欧米並の水準に追い着いた六〇年代頃か、遅くとも長寿世界一に飛躍する端緒になる七〇年代には、「18歳から50歳の間に死んでしまう」と謂う傾向は、国民全体を考える場合、殆ど統計的に考慮する必要がなくなっているはずです。その後の平均寿命の伸びは、五〇年代半ばに減少傾向に転じた出生率や高齢者医療の充実で高齢者が死ななくなった状況を顕わしているものと考えられます。
そして、生涯未婚率を考える場合に、憂鬱亭さんの仰るような暗数が存在したのだとすれば、「18歳から50歳の間に死んでしまう」と謂う傾向が解消された段階で、すでに生涯未婚率のデータにそのような暗数が顕れていなければならないはずです。
で、たしかに七〇年代半ばには生涯未婚率に変化が出ていて、上昇基調に転じていますが、ただし、そのまま長寿化の傾向が定着して「五一歳以上生きる人」の割合が増えていったとしても、五〇歳を基準にしている実測値の生涯未婚率で問題になるのは「18歳から50歳の間に死んでしまう人」の全体に対する割合だけなので影響がないはずです。
だとすれば、その後の平均寿命の伸びが顕わす「高齢者が死ななくなった」とか「上位死因病の治療可能性が高くなり平均余命が伸びた」傾向とはほぼ相関がないはずですから、現今の生涯未婚率の激増を説明する根拠にはならないわけで、つまり、五〇歳時の生存率が劇的向上を果たした時期以降の平均寿命の伸びは、生涯未婚率についてはまず統計的に考慮する必要がないわけです。
五〇歳まで生きた人の大多数がその後五一歳で死のうが八〇歳で死のうが生涯未婚率の推移にはまったく影響がないわけで、生涯未婚率と平均寿命が関連しているのは、飽くまでも「18歳から50歳の間に死んでしまう人」を大きな暗数として考慮しなければならないかどうかだけであるわけです。
しかし、平均寿命と生涯未婚率の相関を視ても、憂鬱亭さんがお考えになっているほど大きな暗数が存在したことを示す傾向は視られないと思います。
また、未婚率のようなデータは、人口構成と寿命のような国民個々人の意志や行動とあまり関係ないデータと違って、どのような生活動向であるかを示すものです。この場合に五〇歳時の未婚率が「生涯」未婚率と設定されているのは、生理的な条件や経済的な条件から考えて結婚して子供を儲けて育てられる限界の肉体年齢だと考えられます。
これは、昔の人と現代の人の体格が違うと謂っても、生殖可能限界に関してはそんなに変わりはなかろう、と謂うことで現在も五〇歳と謂う年齢が採用されているのだと思います。人間の寿命の限界が大体一二〇歳くらいに設定されているのと同じような感覚なんではないですかね。
ですから、生涯未婚率と謂うのは、人口統計的に意味のある結婚の限界年齢までに結婚していない比率と謂う意味だろうと思います。で、これが顕わしているのはどう謂う意味なのかと考えると、実数基準ですから混乱してしまうんですが、「国民一般の婚姻の傾向」なんですね。
オレも最初のお返事で不用意に「一〇〇人中二人」と謂うような実数を示すような言い方をしてしまったから誤解されたかもしれませんが、その実数基準の比率が示しているのは飽くまで「傾向」ですから、まあこれ以上の年齢で結婚する人間のことは統計デザイン上考慮する必要はなかろうと謂うサンプリングの基準を設けて、そこで割合を調べることで「国民全体の中で生涯結婚しない人の比率はどのくらいか」と謂う大凡の傾向を示しているわけです。
で、これと前述の平均寿命との関係を考えますと、一九二〇年と一九七〇年とを比較した場合、「18歳から50歳の間に死んでしまう」と謂う傾向が大きく変化しているはずなのに、生涯未婚率の数値は一%前後しか変化していないわけですから、これは或る程度国民の婚姻の傾向を示す指標としては妥当だと謂うことだと考えられます。
なんでこんなことになるのかともう少し考えると、憂鬱亭さんが仰る「18歳から50歳の間に死んでしまう」と謂う状況は、現在のように「結婚出来ない」とか「結婚しない」と謂う意味を顕わすものではなく、「結婚する前に死んだ」と謂う意味になるんだと思います。つまり、誰でも五〇歳くらいまで生きられたら一〇〇人中九八人くらいは結婚するのが一般的な傾向で、それは平均寿命や貧富の階級差とは関係ない国民全体の婚姻の傾向だったと謂うことだろうと想います。
ですから、憂鬱亭さんが「結婚しないまま生を終える人は昔も今も少なくなかった」と仰るのは或る意味ではその通りなんですが、意味合いが大分違うんです。
たとえば、〇歳とか七歳で死んだ人間も「結婚しないまま生を終えた」と謂えることは謂えますが、それは「結婚する前に死んだ」と謂う意味にしかなりません。憂鬱亭さんが仰っているのがそう謂う意味であれば、たしかに昔も今も「結婚しないまま生を終える人」は少なくないわけですが、多分そう謂う意味ではないですよね。少なくとも、オレが、
>>いい年をして妻も子もいないような無責任な人間
>>人間は誰でも誰かの子であり誰かの親になるものです。オレはこの一般則の例外だからこの問題を語る適格性の問題が出てくる
…と書いたのはそう謂う文脈ではありませんから、噛み合った対話であればそう謂う文脈ではないことになります。死なずに五〇歳近くまで生き延びている人間なのに、と謂う意味です。勿論、死んでしまった人間が「誰かの親になる」ことが出来るわけがありません。
この場の文脈では、「結婚しないまま生を終える」と謂うことは、自分の意志で結婚しないことを選んだとか、結婚したくても出来ないとか、したくても相手が得られないとか、そう謂う意味だと思いますが、その場合、平均寿命を基準に考えるのは殆ど意味がないわけで、死ねば何も出来なくなるのは当たり前の話です。
このような意味合いで未婚率を考える場合、「死」と謂うファクターは本人の意志や置かれた状況とはまったく無関係な外来的で偶発的なものですから、極端な話、明日結婚する予定だった人でも今日死ぬと謂うことが考えられるわけで、それをこのような文脈で「結婚しないまま生を終える人」に数えても意味はないですよね。
そのような時代性においては、今日明日の話でなくても、たとえば今月死んだ人でも来月まで生きていたら、とか、今年死んだ人でも来年まで生きていたら結婚したかもしれないと考えられるわけで、それは実数では顕せませんからサンプリングした比率を傾向として指標にするわけです。それが生涯未婚率で、おおよそ一九二〇年からの五〇年間の間、国民の婚姻の傾向は変わらなかったと謂う意味になるでしょう。
で、詳細な調査データがない以上推測でしかないけれど、人口動態や歴史的・制度的側面を考えると、そう謂う傾向は或る程度超長期的に続いていたと考えても妥当ではないか、と謂うのがこの一連の発話でオレが語っていることです。
残る疑問を幾つか説明していきますと、憂鬱亭さんが、
>>平均寿命が50歳前後の時代には、比較的に経済力がない人は早く死ぬ確率が高く、それらの人々は50歳過ぎまで生きた人たちよりも結婚経験がないまま死ぬ数が多かったとは考えられないでしょうか?
…と仰った点ですが、仮にそうだとしても、貧富の階級差と謂うのは富の寡占を意味しているわけですから、大多数の貧者とごく少数の富者と謂う割合になるわけで、平均寿命が低かった時代の食生活の栄養学的側面や医療技術の水準を考えると、この極端な構成比の差を覆して統計的に有意な差が出るほど、富貴であることが生存上有利だったとも考えられないと思いますが如何ですか。
次に、
>>私の50年弱の人生の周囲にいた人々を思い出してみると、未婚のまま他界した人がそれほど少ないとは思えませんでした。
…と仰っている点ですが、これはまあ、失礼ですが「個人的経験の過度な一般化」ではないかと思います。「個人的経験」で謂うなら、憂鬱亭さんとほぼ同年齢のオレの人生の中で、少なくとも七〇年代くらいまでは、五〇歳以上で未婚のまま他界した人は知人の範囲内ではほぼいませんでした(遺伝的な差別意識が色濃く残っていましたから、そう謂う例外は一人二人はありました)。
ただし、憂鬱亭さんが仰っているのが、五〇歳未満の若い人も含めた意味であればその限りではありませんが、前述の通り「不慮の早世」を婚姻傾向の一般則の「例外」ではないと表現するのは、やはり文脈が違うのではないかと思います。
オレは何も、たとえば新生児死亡とか一〇代前半で死んだ人まで含めて「誰でも」親になるのが一般則だと表現しているわけではありませんが、憂鬱亭さんが仰っているのはそれとあまり意味的に変わらないことになります。前提として「適齢期まで生き延びて結婚・子育てが可能なほどの寿命」を想定しているわけですから、そこで平均寿命を持ち出すと前提が共有されていないと謂うことになります。
で、オレが憂鬱亭さんのご意見で引っ懸かったのは、
>> いずれにしても、現在とは大きく異なる平均寿命の集団について、現在の「生涯非婚」の目安と同じものを適用して考えるのは、不適切です。
>> 上のコメントでリンクされたグラフは、意図的に現在の「生涯非婚」を過大に問題視すると同時に、過去の「生涯非婚」を過小に感じさせようとしているものだと私は考えます。
…と謂うくだりで、前段については少し意味合いは異なりますが議論の余地はあるだろうと考えますが、印象操作と謂う結論がかなり一足飛びではないかと考えます。個人的には、生涯未婚率の基準年齢が五〇歳なのは前述のような肉体的・社会的条件が理由だろうと考えていますから、何らかの印象操作を意図したものではないと思いますし、現状の問題性を強調し過去の歴史を改竄する意図のものではないと思います。
現在の高齢化社会ではシルバーエイジの結婚も増えてはいると思いますから、基準年齢が五〇歳なのは若すぎると謂う印象もありますが、現状では高齢者の結婚は再婚同士である確率が高いですから生涯未婚率には大きな影響がありませんし、仮に五〇歳過ぎて初婚と謂う条件で考えると、女性が子供を産めるとはまず期待出来ない上に、男性でも子供が成人する頃には七〇歳前後になっているわけで、それ以前に経済活動からリタイアしている可能性が高いわけです。
まあ、普通に考えて、現在までのような社会状況でこんな無茶な人生設計をする人は統計的な意味では無視して構わないごく少数だろうと謂うことになります。
ですから、基準年齢五〇歳の生涯未婚率と謂うのは、子育てまで含めた人口動態に寄与する結婚と謂う意味で括られているんではないかと思いますし、基本的にオレの発言の文脈でもそのような意味合いです。
そう謂う次第で、ちょっと説明が難しかったので、平日は時間がとれずにお返事が遅くなってしまいました。
投稿: 黒猫亭 | 2010年1月16日 (土曜日) 午後 01時39分
こんにちは
遅いですが他のところでのお話等も読ませて戴きほんの少し考えがまとまった気がします。
上の方で書かれている内容について特に異論があるわけでは無く、位置付けについて私見を。
黒猫亭さんのご意見としては「自然崇拝」が自己表現を真の目的とし、知識や経験の蓄積を軽視し、科学や合理を否定する事によって現実の自然や人間をむしろ蔑ろにするものとしてご批判されている物であると理解しました。
誰かを踏み台にしていながらそれから目を背け、他人を道具として扱う卑劣さを指摘されているのならばその通りだと考えます。
ですがそれ自体は一般的な意味で「イノベーション」や「イデオロギー」や「信念」「(俗的な意味での)哲学」「(広い意味での)信仰」「こだわり」等の社会的な行為としてある程度認められている人間の行動様式と同じ構造の思考方法ではないかと考えます。
他人や社会や文明そのものが間違っているだとか未熟だとかと考える人はそれが適切かどうか別にして、現実や内心において何らかの不満や居心地の悪さを感じているのでしょうし、今有るものが良い物だと考える人でも自分の正しさや在り方が現実の正しさと繋がっている事の証明を必要とする事も有ります。勿論それを世界の解釈や物理原則の理解にまで強引に広げるのは愚かな事です。
その時に自分の都合で現実との間に合理性を捻じ曲げても何らかの意味づけが重視される事はあると思います。
現実を自分にとって都合よく解釈するのは特に珍しい考え方では無いはずです。自分が特別である事を求める感覚も理解はできます。
根拠を自分自身の存在意義に求める「エゴ」を簡単に無くせるとは思えません。陰謀論等「敵」を必要とする人も居るでしょう。
自らの恵まれた「幸運」に無自覚で、より強く意味付けをして結果的には他者を蔑ろにする感覚が自分にも有ることを否定できません。
物事を理解したり受け入れる為に用いられる方法として何らかの自己実現や自己正当化の側面は有り、プラスであるかマイナスであるかは別にして、「理解」では無く「納得」を目的とする形での自己の内面の投影があるとするとすれば、ニセ科学などの「新しい迷信」は本来的には人間の認識の必然性の延長にある深い(迷信的な言い方をすれば)「業」として基本的に備え付けられた機能であると考えます。
「思想」とされるものにも何らかの形でそのような「人間の機能」に基づくものが関与している場合があるのではないでしょうか。
黒猫亭さんが「自然崇拝」について書かれている部分はその傲慢な行き過ぎを書かれていることではないかと思いました。
しかしそれが物事を変える力になり人間の進歩に繋がったり社会の安定に役立つ側面も無いとは言えないはずです。
人間の行為の動機や心の平穏の根拠としてエゴに基づく「現実を認めない」思考は存在や効果を否定出来ない部分があると考えます。
少なくとも本人にとって短期的にでも得になる思考停止が有ることは否定できません。都合の良い嘘も有ると思います。
不合理なモチベーションやこだわりは文化や社会にとって否定出来ない要素です。線はありますが本来は程度問題でしょう。
安易な法則化や都合の良い結論に合う証拠、選ばれたものだけに見える真実。これらの不合理が人に安心感や勇気や希望、向上心を与え、生き方に不可欠でありえるのを否定するのは難しいかもしれません。自分の中にも確実にあります。
ただ、それが現在になっても新たなニセ科学等の迷信が生まれ続ける原因でも有ると思います。
勿論ですが実害が想定されたり被害者が出る場合は許されるべきではありませんし、基本的に嘘は嘘であると指摘されるべきです。
所謂”ニセ科学「批判批判者」"の人が”ニセ科学批判”について違和感や不快感を感じるのは、その「人間の機能に対する否定」とも取れることに対する反発としてあり、「批判者」にとっては不当では有ってもそれを無くす事は難しいのかとは考えています。
実際には多くの人が合理思考と迷信的な思考を両方とも持ち、自然科学者であっても専門以外のことについては多少でも不合理な考え方を持ち、基本的には無意識にでもコストやリスクに見合う形で同居させているのだと考えます。
結果が明らかではない形での行動の開始や根拠の不足した形での割り切りによる選択は特に珍しくは無いはずです。
それを納得させるための嘘も必要なのでしょう。宗教の役割の一つなのかもしれません。
ですが結果に見合わない不合理が排除されるべきであるとする事は妥当でしょう。
歴史を見れば長年人間はそのような個人の「思想」を社会が受け入れるためには合理性よりも集団の利害と合意が重んじられていたはずで、合理が重視されるようになったのは極最近の事でしか無いようにも思います。
このような矛盾は個人によっても違うのでしょうが程度問題として殆ど誰にでも基本的には持っている物であると思います。
そこが悩ましい部分でしょうね。自己と世界との関連付けの大きすぎる歪みと言うべきものなのでしょう。
その「確信」が自分の「在り方」と関わる部分が深ければ現実に有り得る合理的な物かそうで無いかの判断が蔑ろにされ、後戻りできない「盲信」に繋がりますがきれいに切り分けられる物でも無いでしょう。依存性が強い「思想」は心地よい物です。
ニセ科学が迷信の中でなぜ特に危険であるのかとすれば合理の部分を不合理が深く侵す事にあると言えるかもしれません。
それを悪用するものに対する怒りを感じるのもおかしくは無いでしょう。
医学に見られるようにニセ科学や行き過ぎた「自然崇拝」の危険性は明らかだと思います。無責任さを心地よい言葉で飾る傲慢さは許しがたいものです。
仕事でも有る程度の「自然派」や「天然重視」の側面もあり、「自然」や「天然」には出来る事と出来ない事が有り、「自然」や「天然」にしか出来ない事も有るとする立場の「自然愛好者」としての感想です(景色や素材や飲食物の味など官能と文化に限ってですが)。
意味のわからない稚拙で取り留めの無い寝言を長々と書き失礼いたしました。
投稿: 摂津国人 | 2010年2月27日 (土曜日) 午後 03時52分
>摂津国人さん
たしかに、センテンス単位ではとくにわかりにくいお書きぶりではないのですが、少し全体の論旨の展開が掴みにくい部分がありますので、こちらも思ったことを漫然と書かせて戴く形のお返事にさせて戴きます。
仰る通り、ニセ科学の言説や行き過ぎた「自然崇拝」の思想と謂うのは人間の当たり前の本然から発しているもので、それ自体考え方としてとくに変わった部分はないと謂うご意見や、それが社会悪を産生すると同時に人間の進歩をももたらしているのではと謂うご見解には賛成します。
この辺の問題については、poohさんのブログでも考察が重ねられているところで、技術開発者さんはそれを「人間の基本仕様」と謂うふうに謂っておられますね。
たとえば摂津国人さんが仰っている、人間の思想には人間の本然的な機能が関与している場合があると謂う部分についてもオレはもっと強く感じていて、「すべての思想には個人性の動機がある」と考えています。
で、それが思想としてどの程度の意義を持つかと謂うのは、個人性の部分とは多分関係がないんですね。社会と謂う場において、たくさんの人々に幸福をもたらすものであるかどうかが意義を決定するわけで、思想の強さについても、たくさんの人々が妥当と感じ信じられるかどうかでその強さが決定されるわけです。
この場合、大きな問題となるのは、その社会全体に妥当な良識があるかどうかと謂う部分だと思います。たとえば荒んだ社会風潮が蔓延していて、他人を踏みつけにしても自分だけがいい目をみることが当然視されている状況においては、そのような自己中心性を肯定する思想が幅広く受け容れられるわけで、そのような規範においては手段を選ばぬ弱肉強食の奪い合いを肯定し、収奪の技術を洗練させる思想こそが多くの人々を「幸福」にし、多くの人々が妥当と感じて受け容れると謂うことになります。
ただ、普通はそう謂う状況で社会が安定的に発展するなんてことはないですね。われわれが現在受け容れている社会的良識は綺麗事だけで成り立っているわけではなく、多くの人間が可能な限り公平に幸福を享受出来て、社会全体が発展するように、長年月をかけて改良に改良が加えられた結果現状の規範が出来上がっているわけです。
ですから、社会が安定的に発展し、その中で個々人が公平に扱われる為には、多数決ではない客観的な妥当性の基準が共有されている必要があるわけですね。摂津国人さんが仰ったのは、人間の社会を前に進める駆動系に関する考察だと思うのですが、駆動系が存在するのであればそれを適切にコントロールする制御系もなければ、ただの無秩序なエネルギーのぶつかり合いにしかなりませんしロスばかりが多いですよね。
人間の社会と謂うのは、そのような駆動系と制御系の組み合わせでこれまで発展してきたのでしょうし、盲目的なエネルギーのぶつかり合いだけでこれほど複雑精妙で大規模な社会が成立するものではありません。従って、人間と謂う種の発展もあり得ません。
それが「人間」と謂う種の括りの全体においても利益になるから、「結果的に」そのような戦略を採用することで人間はこれほど発展してきたのだ、と謂うのがこのエントリで語ったことです。
人間以外のすべての種は、そのような戦略を採用していないんですね。「大風呂敷」と謂うご指摘を受けた進化学の観点で謂っても、普通の生物は個体レベルや遺伝子レベルの淘汰圧で「結果的に」興亡を繰り返しているわけで、自分と謂う個体の生存や最大限血族集団の存続以上のことは意識されていないわけですから、それは言い方を変えればその生物種の未来についての責任は「神の手」に委ねられていると謂うことで、生物種自体がその種の存続に責任を持っていないと謂うことでもあります。
しかし、人間は「血族集団」と謂う遺伝子的な単位から「社会」と謂う概念的な単位を意識化してその存続に努めているわけで、これは窮めて「不自然」なことなんですね。そんな戦略を採用しているのは人間だけです。
そして、社会全体の発展と謂う目的性から考えると、倫理や社会規範と謂うのは「血族集団」以上の階層の集団の発展維持に対して長期的には窮めて合目的に働くわけです。つまり、或る時点で人間は神のものであった自己の未来に対する責任を部分的に我が身に引き受けた瞬間があるんです。
ニセ科学問題やここで採り上げた「自然崇拝」の問題と謂うのは、その規範に纏わる問題だろうとオレは理解していて、これは自然科学的な正誤の問題ではなく、選れて社会的な問題だろうし、謂ってみれば倫理的な問題だろうと考えています。
摂津国人さんが仰ったような事柄と謂うのは、前述のような思想や社会的営為の個人性の動機についての考察としては妥当だろうと思うのですが、その社会的表れについてはやはり客観的に妥当な基準で量られるべきだろうと考えます。
ただ、一つ言えることは、自然科学の発達によって心の内側の事柄と外側の事柄が弁別出来るようになったことで、人間はこれまで数万年馴染んできた考え方とはかなり違う思考法を強いられるようになったと謂う事情は勘案する必要があるでしょう。
こちらでも何度か語ったことですし、poohさんや地下猫さんなんかも繰り返し深耕しておられることですが、人間の思考法と謂うのはつい最近まで窮めて呪術的な性格のものであったわけで、心の内側にある世界と外側にある世界を同等視することで成り立っていた部分があるので、それを弁別し外側の世界を領する理を究明することで外側の世界に対して影響力を行使することが可能になった半面、それは人間にとって馴染みのないアートであるが故に人間が馴染んできた思考法からすれば大きな違和を抱えている、と謂うことは言えるでしょう。
人間は、或る時点から先のことを捨象することで効率的で機敏な判断を下している側面はあるわけで、摂津国人さんが仰るように、或る特定の問題に繋がるすべての終端の問題性にまで思考を巡らせていたら判断が追い着かないし、それ以前に「終端」を特定することすら不可能なわけです。
しかし、それでも人間は、個人に不可能なことを社会的な知の共有と蓄積で賄うと謂う知恵を生み出したわけで、これもやはり最近のニセ科学問題に纏わる言説で共有されている認識ではあるのですが、特定領域の専門家の知的権威に対する信頼と謂うのは日常的な状況判断を効率化する方便ではあるわけで、ニセ科学と謂うのはその信頼を脅かす詐術だと謂う見方をすることも可能です。
素人にわからないことは専門家に聞いてその専門的知見を信頼する、これは効率的な思考法ではありますが、その接点に介入して専門家を詐称し専門的知見を装い、素人の判断を自己の利益に誘導する、これは許し難い社会悪だと謂えるでしょう。
それこそ、これほど煩瑣に細分化した学の知見を一から素人が考えるとなると、そんなことはまず不可能なのですから、非専門家と専門家の接点に悪意的な欺罔が介入することは、殊に現代においては一般人の日常的な状況判断の規範の信頼性を揺るがす大きな問題と言えます。
現代における人間の生活は複雑多様化していて、或る切り取られた領域に連続する問題性の裾野が無限にスプロールしていますが、知的に凡庸な一般人がそのような複雑怪奇な現実を生きていくよすがになるのは、知の蓄積に対する信頼だと思いますし、それは一種権威に対する信頼だと謂っても好いでしょう。
ですから、この現代においては、悪意的に知的権威を詐称することは多くの人間の当たり前の生活に悪しき影響を与えるのだし、個々人の振る舞いが他者に与える影響にも関与するのだし、引いては社会全体の安定的発展をも揺るがすことになります。
このエントリで問い掛けたい最も普遍的な設問と謂うのは、われわれは今現在そう謂う面倒臭い世界に生きているのだけれど、「昔は良かった」とか「自然に任せればすべて上手く行く」と考えているような人々は、その面倒くさい在り方によって得られたものをすべて棄てて生きていくことを本当に望んでいるのか、と謂うことです。
多分、そうなるとそのような人々が大切に思っているような自分以外の誰かの大部分が切り捨てられてしまうのだし、下手をすれば自分自身すらも生きているのが間違っていると謂う話になってしまう、それでも好いのか、そう謂うことなんです。
少なくとも、オレは厭だ。それだけのことではあります。オレにだって大事な人はいるのだし、たとえばウチで年柄年中ゴロゴロして我儘放題に暮らしている猫たちも、今よりほんのちょっと社会状況が厳しかったら、今頃こんなにのうのうと生きてはいられません。それ以前に、オレ自身がこんなことを好き勝手に書いていられるような状況ではなかったはずだし、もっと謂えば子供の頃に死んでいたはずです。
子供の頃に死なずに生き延びたオレの生と謂うのは、オレ個人の責任で肯定すべき筋合いのものですから、オレはオレの生を肯定するしオレ個人が大事に思う他の生命の生を肯定します。これはオレ個人の立場では所与の前提であって、他人に譲るべき筋合いの問題でもありませんから、今現在オレを生かしている世界の在り方を肯定するのです。
それがオレの個人性を超える余地があるとしたら、そのような所与の前提において生きていると謂う条件附けは大部分の人間に当てはまる普遍性を具えているからで、生き延びる可能性が結果論でしか語れない以上、どんな社会的強者にも当てはまる一般則でなければならないはずです。
最後に、摂津国人さんが仰った、
>> 仕事でも有る程度の「自然派」や「天然重視」の側面もあり、「自然」や「天然」には出来る事と出来ない事が有り、「自然」や「天然」にしか出来ない事も有るとする立場の「自然愛好者」としての感想です(景色や素材や飲食物の味など官能と文化に限ってですが)。
と謂う部分についてですが、「自然」や「天然」にしか出来ないことと謂うのは当然あるはずなんですね。つまり、今現在生物種が今在るように在る現状については、数億年の分子レベルの試行錯誤の結果としてそのような成果が得られているわけで、それを短時日で再現可能かと謂えば一定の限界はあると思います。
このコメントで「神の手」と表現した偶然性だけに頼るなら数億年掛かった事柄も、その間の理や機序を徹底的に解明することで一定範囲のエミュレーションは可能になるでしょうが、それでも現状では低い限界があることは当然でしょう。
それがすべて完璧に近いレベルで可能になるとしたら、そのときこそ人間は偶然性に委ねていたかなり大きな自己決定の責任を背負い込むことになるでしょうし、その息詰まるような重い責任を負いながらどのような生があり得るのか、これは現段階ではオレには想像が出来ません。
ただ、多分そうなっても人間はやっぱり今がそうであるようにそこそこ幸福に暮らしているだろうと謂う確信はありますが。
投稿: 黒猫亭 | 2010年2月28日 (日曜日) 午前 11時51分
>黒猫亭さん
自分の中でも結論の出ていない、論旨の形になっていない「感想」に対しわざわざお返事を戴き有難うございます。
その点は自覚していてもやもやとした部分もそのままに書きました。ご不快でしたら申し訳ございません。考えている事を晒してみてご批判を頂けるのならもう少し進める事が出来るかとも考え書き込ませていただきました。
勿論、制御系については特に現代において合理を前提とした社会的な基準で行われるべきです。
思想の表明も内心の問題と社会的な表れの部分とは弁別されるべきだと思います。
社会的な意味を持つ思想の表現には特に慎重である事が求められるのが当然です。
特に詐術的な権威の悪用には厳しい批判が行われるべきです。個人性の動機を勘案する問題では有りません。
もやもやは自分自身の「個人性の動機がある思想」に関わる事なのでしょうね。
イメージを価値の一部として「利用」し意味付けを行う嗜好品を一般のお客に売る生業をしていていながらも合理を重んじているつもりです。個人性の動機を飯の種にしている物として、切り分けを難しくを感じているのでしょう。それ以前に元々の自分の動機もあります。
ニセ科学や行き過ぎた自然崇拝等と近い場所にいて合理と不合理が同居している自分の位置に対する解釈を試みているのでしょうね。
事柄の選択については専門家が必要なレベルだけでなくより身近な「昼飯を何にするか」といった結論の存在しない物も含めての言い方でした。判りにくくてすみません。人間が日常的に根拠が無くても判断する生き物で有るとの意味でした。
お書きになられた点については同意します。
お付き合い頂き感謝します。
投稿: 摂津国人 | 2010年3月 3日 (水曜日) 午後 10時45分
>摂津国人さん
いや、論旨の展開が掴みにくいと謂うのはこちらの読解力や、何よりブログに向かい合う気持ちの余裕(最近少しこれがないんです)の問題もありますので、その点はお気になさらずに。また、ご自分の中で具体的な結論の出たご意見しか書き込んではいけないと謂う縛りもありませんので、思い附いたことがあれば、またご遠慮なく書き込んで戴ければ有り難いと思います。
摂津国人さんは食の分野の専門家だと伺っていますので、こちらでも何度か食関連のエントリでプロの視点からのご助言を戴いたことがありますよね。それらのエントリで考察したように、今は従来になく食の分野でアヤシゲな言説が罷り通っていて、一般人とニセ科学言説の接点として大きな割合を占めています。
そのような分野の専門家として日々顧客に接しておられる以上、大いなる矛盾に晒されているだろうことは容易に想像が附きます。顧客のニーズには或る程度応じるのがプロの責任ですが、求められているからそれに応じるだけ、と謂う理屈で割り切れるものでも当然ないでしょう。これはたとえば農業の分野でも、無農薬有機農法や遺伝子組み換え作物の問題なんかで、生産者が直面している問題でもあります。
オレの友人のがんさんも、農家に農業技術を指導する自治体職員と謂う立場で、その種の矛盾に直面しています。また、摂津国人さんもご存じのひえたろうさんとも屡々食の分野の問題についてお話をさせて戴いていますが、みつどんさんにも更めてご紹介を戴いた旨味調味料関係のエントリにおける対話を視ても、ニセ科学言説や行き過ぎた「自然崇拝」の言説の蔓延と謂う前提があって、それが惹起する顧客側のニーズや忌避感情と謂うものがすでにある状況において、それに対応する職業者の姿勢もいろいろだろうと思います。
間違いなく謂えるのは、食の安全・安心に対する嘗てない世間的な関心の高まりそれ自体は結構なことだとはいえ、そこに摂津国人さん曰わくの「新しい迷信」が入り込むことで、食の分野に携わる職業人の心の置き方は否応なく難しいものにならざるを得ないと謂うことだと思います。
畝山先生のような意見発信力を持つオピニオンリーダー的立場に在る方はまた違うだろうと思いますが、日常的に食そのものを提供する職業的立場に在って、尚且つ「新しい迷信」に毒されていない健全な良識を持つ職業者が、日々の職業的実践にどのような心の置き方において向かい合い、己の合理性を保つのか、またそれを通じて自身の信念を貫くのか、これは選れて現代的で困難な問題だろうと思います。
そして、ひえたろうさんのブログに時折書き込まれるプロの料理人のご意見なんかを拝読すると、口先の理屈だけで美味くなるものでもない調理の世界で実際に働いておられる方は、世間で想像するよりも遙かに合理的でエビデンス主義的な筋の通った物の考え方をするものだと謂うことを実感します。と謂うか、理屈が先にあって、理屈通りに出来た「から」それが美味しいはずだ、なんて物の考え方をする料理人がマトモな感覚の持ち主だとは謂えないでしょう。
以前料理に関するエントリに対して「料理は科学だよなぁ」と謂う大変有り難い趣旨のブコメを戴いたことがありますが、一般的に共有されている食味の基準は或る程度の範囲で嘘を吐かないと謂う意味でも料理は科学的な性格を持っていると思います。思い込みだけで「美味い」と感じることも勿論ありますが、それだけではなく普遍的に共有されている基準もまた存在する、そこが微妙なところでもあります。
このコメントで「心の置き方」と謂う言い方をしているのは、この種の問題にはこれぞと謂う画期的な解決法はないだろうと思うからです。おそらく「問題があって、それを解決する」と謂うロジカルな構造の問題ではないのでしょうし、現状の風潮が劇的に変わらない限り矛盾が矛盾のままに在らざるを得ない現状において、心をどこに置くかと謂う問題だろうと思います。
それをどこに置いてどのようにその位置附けを保つのか、それは非常に難しい問題だろうと思いますし、こう謂う言い方も無責任なんですが、摂津国人さんのように安易に結論を出さずに日々心胆を砕いて考えておられる方が食の提供者側にたくさんおられると謂う事実は、われわれのようにただ僅かばかりの金銭と引き替えに食を選ぶことしか出来ない立場の人間にしてみれば、大変心強いことではあります。
また、人間の日常的な状況判断における合理と非合理の共存については、もう少し踏み込んで考えてみたいと思いますので、そのうちエントリに纏めることが出来たらいいなと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2010年3月 4日 (木曜日) 午後 09時56分