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2009年12月13日 (日曜日)

ありふれた妖精

最近ちょっと疲れているので、気分だけでも和もうかと思って久しぶりにDVDを借りてきた。何を借りてきたのかと謂うと…いや、ちょっと言いにくいのだが、ディズニーのOVA「ティンカー・ベル」である(笑)。

日本では割合派手に宣伝を打って昨年末に劇場公開されたが、元々はディズニーフェアリーズと謂うブランドネームで展開しているメディアミックスのキャラクタービジネスで、本国アメリカではビデオスルーだそうな。

小説やマンガ、絵本など、主に書籍を中心にメディア展開しているらしく、まあハッキリ言って、バリの戯曲やディズニー映画の「ピーター・パン」に登場する妖精と同一人物ではあるが、世界観としてはパラレルな関係のスピンオフ企画と視たほうが妥当だろう。言ってみれば、DCD世界に登場する過去ライダーみたいなものだ(笑)。

OVAのほうは四季をテーマにした全四部作の構想で、「ティンカー・ベル」は第一弾に相応しく春をテーマにしていて、今月末に公開される第二弾「ティンカーベルと月の石」は秋をテーマにしている。来年公開が予定されている第三弾の原題は、ウィキで調べてみると、ティンクの声優メイ・ホイットマンの項目と、ディズニーフェアリーズの項目では異なる情報が出ている。

「Tinker Bell: A Midsummer Storm」「Tinker Bell and the Great Fairy Rescue」の二つがそれだが、「月の石」の原題が「Tinker Bell and the Lost Treasure 」であるから、規則性から考えると「Great Fairy Rescue 」のほうがありそうに思える。

一方、「A Midsummer Storm 」のほうはシェイクスピアの「夏の夜の夢」と「テンペスト」と謂う二大妖精物を連想させるタイトルで格調高いのだが、別段子供向けのアニメ作品で英国の誇る大古典を踏まえた格調高いタイトルである必要はないので、こちらのほうは少し凝りすぎで現実味は薄い。

第四弾の仮タイトルが「Tinker Bell: A Winter Story 」と謂うことだから、シェイクスピア繋がりの線も考えられるが、「winter's tale =冬物語」と謂う物語形式は実は冬の物語と謂う意味ではなく、長い冬の間炉端で話す物語の意味なので、寧ろ春だったり夏だったりするような話でも好いわけだから、冬の話=冬物語ではない。まあこれもいずれはもっとキャッチーなタイトルに決定するだろう。とまれ、最終作が冬なら必然的に第三弾は夏の話になる。

そろそろTVでも「月の石」のスポットが流れ始めたが、秋の話で尚かつ旅の話と謂うことで、ティンカー・ベルの衣裳の露出度が低くなっているのが残念なので(笑)、冬の話だともっと露出度が低くなるわけだから第三弾のほうが楽しみである。

実を言うと、昨年末にTVで頻りに番宣を打っていた頃にもちょっと観たいような気にはなっていたのだが(笑)、最終的に「ビデオでいいや」と思ってそれなりになっていたのである。なんで観たかったかって、そらもうあんた、フトモモ丸出しのミニワンピのブロンド妖精が空を飛ぶアニメを、オレが観たくないわけがないじゃないですか(笑)。よくわからない人は、「ニンフェット」でググってみること。

まあ、日本語で「妖精」と一口に謂っても漠然と西洋の精霊一般を一括りにした雑な概念だが、「ピーター・パン」に登場する妖精はどうやらピクシーであるらしい。妖精写真なんかで有名な羽根の生えた小人系の妖精だから、小さいものの愛称として用いられる言葉でもある。クルマとかガンダムとかサカー選手とかな(笑)。尤もサカー選手のほうは別段小さいからピクシーと謂う綽名になったわけではないが、小さいものに似ていたからそう謂う綽名になったので大筋では例外ではない(笑)。

アニメの妖精キャラと謂えば、「聖戦士ダンバイン」のチャム・ファウと「重戦機エルガイム」のリリス・ファウが有名だが、この二人はどうやら同一人物ではない、もしくはパラレルな関係と見做したほうが妥当なようでキャラもちょっと違うのだが、身長は両者共に三〇センチくらいだから、人間とのスケール対比は五分の一くらいである。

フィギュア好きな人ならご同意戴けるだろうが、五分の一サイズと謂えばかなり大きい印象がある。ポピュラーな縮尺としては、六分の一、八分の一、一〇分の一スケールなどがあるが、ドールや高級スタチューで一般的な六分の一だとすでに「大きい」と謂う印象になり、ガシャポンなんかで一般的な一〇分の一だとかなり「小さい」と謂う印象になる。

価格的に手頃なソフビフィギュアは八分の一スケールが一番ポピュラーで、これは材質的にソリッドなエッジを立てにくいソフビでも、二〇センチ前後ならディテールとシルエットのバランスが一番効果的だからである。なので、五分の一スケールのミ・フェラリオやミラリー族は、フィギュアの感覚だと小美人キャラとしてはかなり「大きい」と感じる。嘗てクローバーから出ていた「一分の一サイズフィギュア」も、実際には二分の一スケールで看板に偽りありだったようである(笑)。

では「ティンカー・ベル」のピクシー族はどれくらいの縮尺なのかと謂えば、欧米基準で「小柄」と表現されるティンカー・ベルの身長が一五センチと設定されているから、概ね一〇分の一見当と見做すことが出来る。これはかなり小さい。

ちょっとマッシブなオニヤンマくらいの大きさだから、魔法の粉がなくても昆虫の翅だけで十分飛べそうな勢いである(笑)。人間と同様の比重なら、サイズが一〇分の一なので体重はその三乗の一〇〇〇分の一になる。身長一五〇センチの女性の平均的な体重を大体四〇キロくらい(ティンカー・ベルの体型だともう少し軽そうだが)と想定するならば、四〇グラム前後の重さと謂うことになって、これは甲虫目の最大種の大体半分くらいであるから、魔法を考慮せずに現実の昆虫と想定してもとりあえず飛べるサイズだと謂うことになる。

これが五分の一スケールになると、体重はその三乗の一二五分の一で三二〇グラムであるから、すでに昆虫のアナロジーで考えると飛べないサイズだと謂うことになるのであるが、リリス・ファウの設定体重が一〇〇グラムなのでギリギリヘラクレスオオカブトくらいの重量で、つまり人間より比重の軽い生き物と謂うことらしい。

また、いやらしい言い方をすれば、一〇分の一と謂う縮尺は、ブリスターパックで主要キャラのフィギュアセットを売り易い縮尺とも謂えるだろう(笑)。一〇分の一サイズのフィギュア五体セットなら精々二〇〇〇円とか、頑張れば一〇〇〇円くらいで売ることが可能であり、世の親御さんの懐に優しい商材と謂うことにもなるし、「実物大」であるからゴージャス感や本物感も何となくあるだろう(笑)。女児のごっこ遊びを想定すると、実物大のフィギュアと謂うのはイマジナリーな空想世界に没入し易いだろう。

美少女フィギュアが大好物のオレとしては、小美人キャラの登場する3DCGアニメには関心があると謂うわけで、実はオレは3DCGアニメ自体もそれほど嫌いではない。嫌いではないだけでそんなに観ないが(笑)、なんで嫌いではないかと謂うと2Dのアニメに比べて3Dのアニメは、絵が動くものと謂うよりマケットが動くものだと視るべきであると思うが、その辺の感覚がフィギュア好きの感性にアピールするわけである。

マケットと謂うのはアメリカのアニメ制作現場で作画イメージを統一する為に製作するスケッチ用の塑像、つまり雛形のフィギュアのことである。元々2Dアニメで用いられるものだが、3Dアニメの場合は見た目的に人形劇やモデルアニメーションに近い見え方になるから、実質的にはマケットがそのまま動いているのとあまり変わらない見え方になる。モデルアニメーションと違うところは、人形を作って動かす作業をすべてコンピュータ上のシミュレーションで行うと謂う部分だけである。

そう謂う次第で、これまで長々と「なんでそんなモンを観たのか」と謂う言い訳を連ねてきたわけだが(笑)、要するになんだかそそられたわけである(笑)。

前説はこのくらいにして、ようやく作品の話に入ると、TVスポットなんかで予想していたことではあるが、かなりティンカー・ベルを萌えキャラとして描いている印象である。主要ターゲットは女児だろうからヲタ視点の萌えを追求してもしょうがないと思うんだが(笑)、大昔に一度だけ「ピーター・パン」を観た記憶で謂うと、ティンクってのはこんなあどけない子供キャラではなく、もうちょっとコケットリーなキャラだったように思う。

これはウェンディーにヤキモチを焼くと謂う性格設定や、ピーターの為に犠牲になると謂う筋立ての為に、永遠に子供のままのピーターとは違って、もう少し年齢域が上の世代の女性を思わせるからだろうと思う。一方、本作のティンクは、生まれたばかりでピクシーランドの知識を何も持たないと謂う設定で、劇中で巻き起こす騒動もいたずら好きだからではなく、物を識らない故の失敗となっている。つまり、本当の子供として描かれているわけである。

冒頭でも「パラレルな関係のスピンオフ企画」みたいな表現をしたが、これまで人語を喋らなかったキャラだからと謂うこともあって、従来のティンカー・ベル像とはかなりキャラの印象が違う。これは日本語版の声優の深町彩里の声質や演技の影響も強いのだろうが、英語版のメイ・ホイットマンも子役からスタートした二十歳そこそこの若い女優で、アメリカ人のセンスではかなり萌えキャラ的な演技をしているように思う。

なにせ原語版のキャストはクラリオン女王がアンジェリカ・ヒューストンだったりシルバーミストがルーシー・リューだったりするような配役センスで、その中で本当に若い女の子が声を当てているのだから、本国では日本語版の聞こえ方とそう変わらない受け取り方をされているのではないかと思う。

映像面で視ても、3DCGとは言えディズニーアニメであるから、演技の附け方が大袈裟で脂っこかったりするんだが、どうも2Dの所謂ディズニーアニメ映画とは若干印象が違うような気がする。一言で言えば、宮崎アニメ臭いと謂うことである。

そもそもこの作品を一言で寸評するなら「宮崎駿が3DCGで作ったプリキュア5」と表現可能だろう(笑)。誰でもEDのバックがイラストになっていて本作の物語の後日譚を表現する手法を視て「となりのトトロ」を連想すると思うが、これは制作側でも意識的に採用した本歌取りだと視て好いだろう。

物語のメインプロットが、外敵や悪漢の脅威に対抗するものではなく、ティンクがしでかした失敗の後始末をティンク自身の成長でリカバリーすると謂う何と言うこともない他愛ない筋立てである部分など、本作がトトロ的なテイストをイメージして作られていることは一目瞭然だし、ティンクの動かし方に宮崎駿的な少女愛の視線やフェチズムを感じる人も多いだろう。

ものづくりの妖精に迎えられ自分の家を与えられたティンクが、用意されたオーバーサイズの作業着を鋏で切ってお馴染みのミニワンピに改造するシーンで、セミロングの髪が目に掛かるのを鬱陶しがる芝居をワンカット入れて、それがあのお馴染みのシニョンを結った独特の髪型に繋がることを暗黙裡に表現するところなど、何だか物凄く宮崎駿臭い演出だな、と感じる。

また、落ち込んだティンクがテーブルに突っ伏す場面の前髪の動きのフェティッシュな描き方も宮崎作品の影響が見て取れるように思うし、たとえばティンクが胡座を掻いて作業に没頭すると謂う描き方も、「魔女の宅急便」のキキが立て膝を突いてお金を算えるシーンを連想させる。まあ、そもそも胡座を掻いて発明に没頭する技術系の美少女と謂うのは、宮崎アニメに限らずジャパニメーションに登場する典型的な萌えキャラの類型ではあるが。

であるから、どうもこの作品には濃厚なジャパニメーションの影響を感じるわけで、前述の「プリキュア5」と謂うのも、「ファンタジーの世界観で描く五人の少女の友情物語」と謂う構造や、各々の少女に個別の属性と能力が与えられていると謂う設定がそのまんまプリキュア5である。五人の少女をメインキャラとして設定する場合には仕方のないこととは言え、キャラ類型もおおむねプリキュアとダブっていて、さらに大本の戦隊的な類型で言えば、「子供キャラ」であるグリーンが主役の物語だと表現しても好さそうである。

また、魔法が存在する世界観における少女の成長物語と謂う意味では、ぴえろ魔女っ子物のイメージも若干感じるわけで、何処まで行っても何だかジャパニメーション臭い作品で、それも女児とヲタのダブルターゲットの線が濃厚だと感じるわけである。

先ほどティンクの声優の深町彩里とメイ・ホイットマンについて、どちらも萌えキャラ的な芝居だと指摘したが、お国柄の違いと謂うのか、実際には随分キャラ附けの方向性が違うわけで、英語字幕をオンにして原語版を観ると何だか原語版のティンクは早口の流暢な滑舌で物凄くマセた言葉遣いをする少女で、普通子供が遣わないような気の利いた大人っぽい言い回しを多用している。

つまり、アチャラで好まれそうなおマセな子役的キャラとしてダイアログが書かれているわけで、そう謂う意味では日本語版のあどけないイメージのダイアログとは随分印象が違うことは否めない。と謂うか、日本語の台詞ではそう謂う「ビバリーヒルズ高校白書」的なニュアンスが出せないことは事実である(笑)。それを演じるメイ・ホイットマンも声優の娘に生まれて子供の頃から場数を踏んでいるので、演技にも危なげがない。

一方、日本語版の声優の深町彩里のほうは、ケータイを用いたオーディションで採用されたまったくの素人であるから、演技のほうは言うだけ野暮である。これが日本サイドで勝手に決めたと言うなら話はわかるが、ディズニーサイドでも厳重に審査した結果採用されたと謂うのだから、とにかくこの役は声が可愛くなくてはいけないと謂うのが第一条件なのだと謂うことがわかる。

最初のほうは台詞が少ないし、それほど特徴的な声でもない上に一本調子の平板な棒読みだからそんなに可愛いとは思わないのだが、段々耳慣れてくると物凄く可愛い声に感じる。敢えて既存の人材で例えるならCXの生野陽子と似た声質で、多分生野陽子が声優をやったらこんな感じだろうと思うのだが、もう少しあどけないイメージがあって、メイ・ホイットマンとほぼ同年齢の二十歳だと謂うが、もっと愛くるしい子供っぽさを感じる。おそらく原語版で想定されているおマセで利発なキャラとは微妙にズレがあるんではないかと思う。

ただ、メイキングでスタッフのインタビューを聴くと、数あるディズニーキャラの中でもティンクは一種のアイドル的存在と見做されているようで、とにかく可愛く描くと謂うことが至上命題だったようであるから、声優に求める資質も演技力や経験と謂うよりフレッシュで可愛い声質が優先されたのではないかと思う。

実はオレは、このDVDを一〇回くらい観ているのだが(笑)、主要な動機はやっぱり声が可愛いからである。そう謂う意味ではまんまと思惑にハマっているわけだが、可愛いことは絶対正義だとみつどんさんも断言しているんだからいいんだよ(笑)。

なんかこう、オレの中ではティンカー・ベルと謂うのは結構可哀相なキャラだと謂うイメージがあって、「大人になるのをやめた」とか言ってるピーターはいつまでも永遠に楽しい世界に生きていて幸せなんだろうが、たとえば現実の世界に戻って年老いていくウェンディーのような少女たちのほうはなんだかアレだなぁ、と思うし、原作だと三代くらいに亘る長いスパンの後日談が附く。

ピーターにとってはティンカー・ベルは特別な存在でもなんでもないわけで、久しぶりにウェンディーの許を訪れたピーターはすっかりティンクのことなんか忘れているし、
あろうことか「ティンカー・ベルなんかありふれた妖精さ。鍋や釜なんかを直す妖精だから『鋳掛け屋』って呼ばれているんだ」とか結構ヒドイことをサラッと言っている。

子供、就中男の子なんてのは、野蛮で無神経でけっこうヒドイ生き物だから、オレは昔からピーター・パンが魅力的なヒーローだなんて思ったことはないんだが、そんな野蛮な男の子が好きなありふれた妖精が、ものづくりの妖精と謂う地味な立場に生まれて、花や水や光や動物の妖精に生まれた仲間を羨んでみるものの、自身の才能の在り方を受け容れて段々成長していく話と謂うのは、考えてみるとちょっと切ない。

まあ、お話的には非常にアメリカ的と謂うか、ティンクの才能は原始的な段階にあったピクシーランドの技術力に、人間世界から漂着した「迷い物」を応用してイノベーションを起こすと謂うものだから、効率化マンセー・大量生産マンセーな話にも見えるんだが、まあ所詮子ども向けのアニメなんだから、堅いことは言いっこなしと謂うことで。

どうもですね、アメリカなんかでは、やっぱり子供向け作品と大人向け作品では劃然と製作姿勢が異なるらしくて、日本のアニメみたいに子ども向け作品でもみっちり設定を詰めると謂うことはやらないみたいだし、ストーリーラインもあんまり整合性だとかそう謂う堅いことを考えずに、発想の飛躍や自由な空想の楽しさを重視するところがあるんではないかなと思う。

そう謂うふうに考えると、ディズニー出身のティム・バートン作品の構造的な緩さの原因も、案外そんなところにあるのかもしれないとか思ったりする。

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コメント

ちょっと補足。

>>日本のアニメみたいに子ども向け作品でもみっちり設定を詰めると謂うことはやらない

結構設定的にテケトーだなぁと感じるところは多々あって、そもそも妖精が「赤ん坊が初めて笑った笑い声から生まれる」と謂う設定なら、人間の数だけ妖精が存在すると謂う理屈になるが、ピクシーホロウにはそんなにたくさん妖精がいないのだから、そこはツッコミを入れてはいけないところである。

また、ティンカー・ベルと謂う名前も、日本語版で「ものづくりの妖精」となっている言葉が原語版では即ち「ティンカー・フェアリー」だから、「鋳掛け屋のベル」と謂うほどの意味に過ぎず、彼女個人の名前は「ベル」だけである。「植物の妖精」と謂うのも原語では「ガーデナー・フェアリー」だから、何故か鋳掛け屋と庭師だけ職業名なのである。

ただ、呼称の関係は妙にキッチリ理詰めで、同じティンカーのクランクとボブルは彼女のことを「ミス・ベル」と呼んでいて、それ以外の殆どの妖精は「ティンカー・ベル」と呼んでいるのだが、五人組の仲間たちは「ティンク」と呼ぶことがある。

ティンカー同士の間で種族名を附けて呼ぶ必要はないから、普段は「ベルさん」で好いのだろうし、それ以外は「ティンカーのベル」と謂うふうに種族名+個人名がフルネームと謂う慣習なのだろう。五人組の間で「ティンカー」を約めた「ティンク」が愛称となるのは、自然の妖精の少女たちとティンカーの妖精は多分あんまり個人的な接点がなかったんだろうと思わせるところがある。

この作品以前にはティンカーの妖精の共同体と謂うものは描かれなかったのだから、一般的な彼女の愛称として種族名から採られた「ティンク」が定着したわけだが、原作でも「ティンカーの妖精はありふれている」と謂われているんだから、たくさんの「ティンカーの妖精」が存在しなければならない。

つまり「ティンカー・○○」と謂う名前の妖精がたくさんいるわけで、そんなにたくさん存在するものの種族名のほうが固有名詞として機能するわけがないから、種族名が綽名となり得るようなシチュエーションを考えているわけである。

この作品の設定では、他の自然の妖精と比べてティンカーの妖精は特別な立場で、裏方的なポジションと謂うことになっているから、季節の変わり目にもティンカーの妖精だけ人間界に行けないことになっている。

であるから、多分自然の妖精の少女たちの友達にティンカーの少女が混ざると謂うことはあんまりなかったんだろうし、だから「ティンカーの子」と謂う意味で「ティンク」と謂う愛称になってもおかしくないわけである。

ただ、一場面だけボブルが彼女のことを「ティンク」と呼ぶところがあって、これはミスなんだか演出なんだかよくわからない(笑)。穿って考えれば、友達同士の愛称をわざと同種族の妖精が真似て呼んでみせたと解することも可能だが、不思議なことに劇中で一番最初に彼女を「ティンク」と呼ぶのは四人の友達ではなくこの場面のボブルなのである。で、それが何故なのかについてはまったく説明がない。次の場面では四人が最初からそうであったかのように彼女を「ティンク」と呼んでいる。

まあ、普通に考えて、これはミスだろう。

ボーナストラックのカットされた場面を視ても、何だかこの種のCGアニメはかなり行き当たりばったりな作り方をしているようで、「そこカットしたら話が変わっちゃうんじゃないのか」「つか、このシーンって本編と筋立てが繋がってないよな」と謂うような不思議な未公開映像があったりするから、CGの強みで途中で話を変えたりしているんじゃないかと思う。コンテ段階で切られたり、映像化されても棄てられて別の筋立てになったりと謂うような、ちょっと理解し難い作り方をしているようだ。

この辺の呼称のゴチャゴチャした関係は、日本語版ではちょっと混乱していて、前述のように「ティンカー」と謂う種族名は「ものづくりの妖精」と訳されているわけだが、その為にティンカー・ベルが最初にクラリオン女王に名前を呼ばれる場面で、何故そんな名前になったのかわからない作りになっている。

女王が名前を呼ぶまで、実はこの新入りの妖精には名前がなかったわけで、才能を試す儀式でハンマーが光ってティンカーに振り分けられたから「ティンカー」で、それはつまりピクシーホロウに到着する前に帆船の鐘にぶつかったことと関係があるんだろうと思わせる映像になっていて、それが女王に伝わったから「ベル」と謂う個人名になったんだろうと謂うことである。

実際、女王が「ティンカー・ベル」と名前を呼ぶと、ティンカー代表のボブルとクランクが「どいたどいた、ティンカーのお通りだよん」と進み出て「ミス・ベル」と呼び掛けティンカーの谷に彼女を案内するわけだから、原語版ではこの間の筋道は割合理詰めで彼女の出生譚と命名の由来を語っている。

しかし、日本語版では「ティンカー」と謂う語は彼女の個人名として以外には出て来ないのだから、何故女王が「ティンカー・ベル」と謂う名前をいきなり口にするのかよくわからない。これはティンカーが何人もいたら子供が混乱するだろうし、「鋳掛け屋」なんて言葉は今時通じないだろうと謂う理由から「ものづくりの妖精」と謂う呼称にしたのだろうと思う。

ただ、鋳掛け屋と謂う商売は、物を作るわけではなく、寧ろアリモノを修繕する役割のほうが大きいわけだから、劇中でも「ティンカーフェアリーはfix するのが仕事」と謂うふうに語られている。要するに修繕屋である。「修繕」と「ものづくり」では受ける印象が大分違う。「ものをつくる」と謂えば創造的な印象だが「修繕」と謂うのは毀れたものを直すだけで、それこそ地味な裏方仕事である。

劇中で描かれたティンクの発明が既存の迷い物を応用したものでしかないのは、彼女の種族が新しい物を生み出す職制ではなく修繕屋だからであって、その発明は「創造性のある修繕」と謂う性格を持つからである。多分、ティンクの才能は一から何かを作り出すようなものではなく、何かを修繕する過程で新しい機能を生み出すと謂う種類のものなのだろう。そう謂う意味で、本作の描き方はティンクの「鋳掛け屋」と謂う本質的な属性に対して割合妥当な拘りがある。

だから、キーアイテムとなっているオルゴールが何をするものであるのかまったく理解していなくても、才能ある鋳掛け屋であるティンクにはそれを直すことが可能なわけである。

原典である「ピーター・パン」との接点となるウェンディーとの出会いのシーンも、二次創作の擽りのようなニュアンスよりも、寧ろオルゴールを直したティンクがその本来の用途を識る瞬間の驚きのほうが映像の表現として美しいと感じられる。

このシーンでは、後にピーターを巡って険悪な関係になる二人の少女の出会いが描かれているわけだが、それは背景的な事情に過ぎず、本作の文脈ではティンクが物を修繕することの真の意味と歓びを識る場面として描かれている。

おそらくウェンディーのオルゴールは毀れたから棄てられたのだろうし、そう謂うふうに棄てられたものがネバーランドに辿り着いて「ホッタラケの島」のホッタラケのように迷い物になるのだろう。それでもウェンディーはオルゴールの鍵を大事に持っていたわけで、毀れて棄てられた迷い物が修繕されることは幸せな魔法なのである。

>>「子供キャラ」であるグリーンが主役の物語

五人の少女の友情物語なら、別段セーラームーンでも好さそうなものだが、どうも感触的にはセラムンではなくプリキュアっぽい。どの辺が違うのかなと考えたのだが、これは実写版の影響もあるかもしれないが、五人が識り合う過程でまったく葛藤や衝突がなく、最初からすんなりと仲良しになる辺りのライトな関係性がプリキュア5っぽいのかな、と思う。それと、主人公以外の四人が何となくガヤっぽくて影が薄いのもプリキュア5を思わせる。ヴィディアみたいな意地悪なライバルがいるのは何となくフレッシュプリキュアのイース=東せつなみたいなポジションだけど(笑)。

キャラごとのパーソナルカラーで謂えば、ティンクがグリーンでロゼッタがレッド、シルバーミストがブルーでイリデッサがイエロー、ここまではよろしい。ただ、以前セラムンに絡めて語ったように、女の子の戦隊で紅一点は存在しないから、どうしてもピンクに相当するカラーが不在になる。この作品の場合、フォーンがオレンジで多少ワイルドな性格だから、ちょっとセラムンぽい処理である。

本当なら地味な裏方のティンカー族ならアースカラーのほうが相応しいのだが、この作品は「ティンカー・ベル」と謂う既存の人気キャラを主役に据えた二次創作的な作品なので、すでに確立されているキャラの属性を出発点にせざるを得ない。

投稿: 黒猫亭 | 2009年12月13日 (日曜日) 午前 05時24分

熱烈な名古屋サポーター&ピクシーファンから一言。
ストイコビッチのあだ名の由来は、ご幼少のみぎり好きだったハンナバーバラ社のアニメ「ピクシー&ディクシー」ですね。
何でも放映時間になるとサッカーの試合をほうりだして帰ってしまっていたとか。それがばれて友達につけられたみたいです。
で、有名になっていく過程で、華麗なプレーから妖精の意味が付け加わったようです。

投稿: T_U | 2009年12月17日 (木曜日) 午前 07時24分

>T_U さん

>>ストイコビッチのあだ名の由来は、ご幼少のみぎり好きだったハンナバーバラ社のアニメ「ピクシー&ディクシー」ですね。

そのようですね。一応、オレはブログに書くネタは全部予め調べることにしているんですが(笑)、このアニメの「ピクシー」と謂うキャラがネズミなんだそうです。で、小さい頃のストイコビッチがこのアニメが大好きだったことと、ピクシーと謂うキャラに似ていたことからそう謂う綽名になったと謂うことです。

>>で、有名になっていく過程で、華麗なプレーから妖精の意味が付け加わったようです。

語源説話が複雑化していく好例ですね(笑)。多分一番最初はそのアニメが好きだったと謂うだけの単純な理由だったのが、彼自身の口から「ピクシーと謂うネズミに似ていたから」と謂う別のニュアンスが加わり、ピクシーと謂う語感から「妖精のような華麗なプレー」と謂う別のニュアンスが派生した、そんな順序になるんでしょう。

投稿: 黒猫亭 | 2009年12月17日 (木曜日) 午前 07時54分

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