品がない
かねてからココログニュースって書き手が微妙だなぁと思っていたのだが、これなんかかなりアカラサマに品がない。
ココログニュースってのは、日曜九時のドラマの反響を月曜の五時に採り上げるほどマメなスタンスだったかねぇ(笑)。しかも平均視聴率や瞬視が廻ってくるのを待ってまで書きたかった記事がこれとはね。記事の内容を視ると概ね好評だったと謂う内容なのにこのタイトルの附け方はどうよ。
品がねぇなぁ。
| 固定リンク
« 遠く離れてしまっても | トップページ | 大団円 »
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
おはようございます。
この書き手は、自分では「うまい思わせぶりな書き方」だと思ってるんじゃないでしょうかね(笑)。うまくドラマのラストとリンクできたとほくそ笑んでいるような気が(^^;。
個人的には、ドラマ全体には及第点のちょっと上が与えられるんではないかと思ってるんですが、あのラストにはどこぞのブログかなんかにも書いてありましたが、「ディケイドかよ(苦笑)」と言いたくなりましたわ・・・。
ま、原作のチカラに助けられた部分が大きいと思いますがね(笑)
投稿: がん | 2009年12月23日 (水曜日) 午前 08時58分
>がんさん
>>この書き手は、自分では「うまい思わせぶりな書き方」だと思ってるんじゃないでしょうかね(笑)。うまくドラマのラストとリンクできたとほくそ笑んでいるような気が(^^;。
東スポ的なアオリですなぁ(笑)。「こっちが『えっ?』だよ」と謂うツッコミを入れたつもりなんでしょうけど、原作が未完なのですから、大筋の謎を解明するとしたらオリジナル展開になるわけで、だったら「連続ドラマでは」謎を解明しないと謂うのも選択肢のうちでしょう。
たしかに冒頭で振った謎はまったく解明されていないんですが、ドラマ的にはあれで完結していたと思います。この物語は、仁が歴史改変のタブーと目の前の人命を救いたいと謂う気持ちの間で揺れる心理がテーマだったわけですが、まあこれは普通に考えて結論が出る問題じゃないですよね。
考えてもしょうがないことは考えてもしょうがない、と謂う言い方は出来るんですが、それでも考えてしまうのが人間なわけで、最終話はこの辺の問題をちゃんと正面から描いていたと思いますよ。
歴史改変とヒューマニズムの対立と謂うテーマは、野風の手術と謂うイベントに絞り込まれているわけですが、仁は結局これを自発的な決断によっては決定出来なかったわけで、いつものように咲に叱られてもどうしても踏ん切りが附かなかったわけですが、佐分利の熱意に触れたり、龍馬に「しゅじゅちゅの後に何があってもわしのせいじゃ」と頼み込まれることで漸く手術を決意します。
これはつまり、野風を手術することで未来が存在しない未来が(ややこしいな(笑))が実現しても、自分を責めずに俺を憎めば好いと謂う龍馬なりの気遣いで、この龍馬の言動は、野風を救いたいと謂う動機も本当なら仁の内心の葛藤を解決したいと謂う動機も本当と謂う辺りの大雑把さが、このドラマで描かれた龍馬の人物像らしいところです。
まあ、「考えてもしょうがないこと」と謂うなら、そもそもタイムスリップ自体がほぼ在り得ないわけで(笑)、在り得ないことが起こったらあんたどうしますか、と謂う設問自体が馬鹿馬鹿しいと謂えば馬鹿馬鹿しい。もし万が一そのような在り得ないことが起こったならば、人間はどうすれば好いのか、それは勝海舟が言うように「運を天に任せる」とか、龍馬が言うように「決定を他人のせいにする」しかないと思うんですね。
自己決定、自己責任と謂うのは、世界のシステムが公平に維持されている限りでしか働かない決め事ですから、タイムスリップみたいな世界のシステムを大幅に逸脱した不条理な事態が起こったら、一個人が自身の言動が世界に及ぼす影響に責任を持とうと思っても土台無理があるわけで、そんなことを要求される筋合いもないわけです。だったら成り行きの責任を「天」とか「他人」とか自分以外の存在に預けて、自分の気持ちに正直に生きるしかないんだよ、と、そう謂う結論だったと思うんです。
ですから、そもそもこのタイムスリップの原因とか、その引き金を引いた謎の人物が誰だったのか、未来はどうなったのかとかと謂うのは、物語のテーマ全体から視れば枝葉のことだと謂う見方も出来るわけで、最低限物語の大筋のテーマの問題に決着を附けたのですから、あれはあれで好かったのではないかと思います。
デリケートな話になりますが、高視聴率の手応えがあったことで劇場版の可能性も仄めかされているわけで、この作品のPはルーキーズのPですから、それも当初からの予想の範疇だったと思います。であれば、オリジナル展開で未完の原作の風呂敷を畳むと謂う荒技は劇場版にとっておくと謂うのも、別段批判される謂われのある制作手法ではないと思います。
或る種、作品固有の状況設定をオリジナルストーリーで完結させると謂うのは別種の興味になるわけで、それとドラマ的なテーマ性を分けて考えているのであれば、納得出来る弁別だなと思うんですよ。前例のルーキーズも、TVシリーズはTVシリーズでドラマとしては完結していましたし。
>>「ディケイドかよ(苦笑)」
DCDとは大分事情が違うんじゃないですかねぇ。kuu さんのところで目にした情報によりますと、白倉Pは「TVシリーズはあの最終回で完結していて、あのラストから第一話の冒頭に戻る。単にその後続けて映画の特報を打ったのが誤解されただけ」と弁明しているんですが、まあ言い訳とは言えダメダメです。
原作附きドラマじゃないんですから、番組内で物語を完結させると謂うのは当たり前の約束事ですし、あれで完結していて循環しているんだと謂うのであれば、最終回のラストシーンと第一話冒頭のライダー大戦のシチュエーションは絵的に繋がっていないんでその仕掛けが視聴者に伝わらなかった、つまり、技術的な失敗と謂うことになります。
まあ、本気で言っているんだかどうだか知れたものではないですが(笑)、そもそも番組内でこれまで語ってきた物語性と全然繋がらないと謂うか、何の脈絡も伏線もない卓袱台返しだと謂うのがまずドラマとしてお話にならないわけですが。
また、白倉Pの語る通りの構造の物語なのだとしたら、落語的な用語で謂えば「廻りオチ」と謂う類型になります。これは、噺の結末が冒頭と直結していてループになっている構造を謂うわけですが、冒頭のライダー大戦は夏ミカンのみた夢ですから、この物語は全部夏ミカンの夢だと謂う話になりかねないわけで(笑)、さらにこれに「夢オチ」と謂う類型が重なります。
で、落語には廻りオチで夢オチと謂う有名な噺がありまして、「天狗裁き」と謂うのがあるんですね。今回は手短に千字寄席さんの解説を紹介しましょう。
http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2004/12/post_17.html
不思議なことに現在はこちらの解説通りに演じている口演は聴いたことがなく、最後のほうで主人公がいい思いをするくだりを省略して演じるのが一般的ですが、そこがあったほうがループネタであることがわかりやすいと思います。現在一般的な型だと単なる悪夢にしかならないので、ハタで視ていて面白そうな夢だとはちょっと思えないのではないかと思いますし。
まあ、白倉Pと謂うのは大概の予想を遙かに上回るほど文芸面では不勉強な人のようですから(笑)、この落語の存在を識っていたとは思えないので、多分偶然の一致なんだとは思いますが、要するに白倉Pの発言通りなら彼が構想していたのはこう謂う種類のお話だったと謂うことで、如何に白倉PがDCDのドラマ性なんかどうでも好いと思っていたのかが伺えますね。
>>ま、原作のチカラに助けられた部分が大きいと思いますがね(笑)
どうなんですかねぇ、原作は未読なので何とも言えませんが。ただ、ネットで調べた限りでは、原作から改変したオリジナルな部分で各話のドラマ性を組み立てていたとは思いますよ。恋人の未来の存在なんてのは原作にないわけですが、これで仁の歴史改変についての苦悩の個人的動機や、咲や野風と謂う女性陣との関係性も確立されていたわけですし、良いアレンジだったな、と思います。
勿論、現代の優秀な医師が江戸時代にタイムスリップして前近代の医療を改革すると謂う原作の奇想に魅力があったんだろうと思いますし、殆ど何もない状況からペニシリンの量産体制を構築すると謂うアイディアも優れているとは思いますが、放映開始前にがんさんが懸念されていたように、どんな美味しい題材でも幾らでもつまんないドラマには出来るわけです。
原作のファンであるがんさんはまた見方が違うと思いますが、オレは一本の連続ドラマとしての作りの良さとかアベレージのレベルの高さが良かったと思っています。
投稿: 黒猫亭 | 2009年12月23日 (水曜日) 午前 11時44分
そうですね。オリジナルな部分もうまくやっていたとは思うんですよ。毎回楽しんで見られましたし。それと、最終回は録画してあるからと言う安心感からちょっととびとびに見ていたんですよね・・用事があったので(笑)。もう一度見返して断片的な記憶をきちんと繋ぎ直さないとちゃんとした感想は言えませんね(^^;。
で、原作ファンの自分的に残念だった点は、野風が中谷美紀だったことですね。中谷美紀自体はいい女優さんだと思うし、演技も悪くなかったんですが、自分の中で野風は黙って座っていれば可憐な少女でも一旦口を開けば、といったイメージだったので、あの役作りでは外見と中身が一致しすぎてて違和感が強すぎたんですよね。反面、綾瀬はるかは最初だけ違和感があったんですが、途中からは「ええんやないか」と思うようになりました。
それから、主人公の仁がやたらと泣きすぎたのにもちょっと違和感があったんですよね。いや、僕は男尊女卑の思想はないので、男が泣くべきではないという事は言いませんが、原作とのイメージの違いですかね、やっぱり。
第一話から原作を追いかけていたファンでなく、いきなりドラマから入っていたら気にならなかったかもしれませんね。
いずれにしても、当初心配していたような事にはならなかったので、まずは良かったと思ってます。
投稿: がん | 2009年12月23日 (水曜日) 午後 04時49分
>がんさん
>>で、原作ファンの自分的に残念だった点は、野風が中谷美紀だったことですね。
原作のキャラのイメージを無視して言えば、中谷美紀は一番の儲け役ではあったんですけどね(笑)。本人もかなり泥水を呑んで苦労した人なんでしょうから(笑)、芝居のしがいのある良い役でした。個人的には中谷美紀には全然興味がないんですが、良い演技だとは思いました。
ただまあ、このドラマのキャスティングって全然原作のイメージじゃないだろうとは思いますね。ちらっとネットの画像で書影を見ると、全然似てないですからねぇ。以前めぞん一刻のエントリで原作物のドラマ化についてちょっと語ったことがありますが、劇画原作ドラマなんかだととくに、原作のキャラに似ている俳優さんを連れてくると謂うキャスティングはほぼ在り得ないので、まあ致し方のない部分です。
例外的なのは、たとえばCXの唐沢版「美味しんぼ」辺りですかね。あれも一発勝負の二時間スペシャルドラマだから原作そっくりのキャスティングが出来たわけで、まあ正直言って劇画を実写映像化する場合、原作のキャラに似ているかどうかと謂うのは二の次になるのはしょうがないところがあります。劇画の登場人物に似ている役者なんてのはそんなにいるわけがないので、役柄のほうを俳優に引き寄せてアレンジする形になるのは仕方ないですね。
また、ドラマ化や映画化と謂うのは、基本的に同じ設定やストーリーを別の形にリメイクする作業ですから、ハナから違うものになるのは当然とも謂えるわけで、違って当たり前のものを出来るだけ原作に近付けるか、それとも思い切って離れて違いを際立たせる方向で行くか、そう謂う選択肢がありますね。
調べてみた限りでは、どうやらこのドラマは後者のパターンでドラマ版のオリジナル性を強調する方向性の作り方のようですから、まあ、別物と割り切って観たほうが楽しめるだろうと思います。
投稿: 黒猫亭 | 2009年12月23日 (水曜日) 午後 09時50分