画期的な調停案
…そう謂うわけで、中身が薄くなると看板ばかり大仰になると謂う見本のようなタイトルであるが、今回は久々にニセ科学関連の話題である。
ニセ科学対ニセ科学批判の議論を眺めていて思うのは、たとえば血液型性格判断の問題なんかにとくに顕著な性格なのだが、「科学的な根拠はないけど、呪術的な根拠ならある」と言っちゃえばそこで議論は終わるように思うのだが如何なものだろう。
勿論、そうでなったとしてもその呪術が社会的に許容可能な性格のものか否か、つまり道義的な観点において許容され得るものかどうかと謂う議論は残るが、特定のニセ科学言説において主張されている、「人間に対する効果」についての議論はそこで終了することは間違いない。これはつまり、すべてのニセ科学を一種のプラシーボと認識すると謂う意味であり、附随する原理をカウンセリングにおけるストーリーと解釈すると謂う意味であるが。
要するに、ニセ科学の定義である「科学ではないのに科学を装う」と謂う欺瞞性を放棄すれば、「効く」と謂う主張自体は通すことが可能になる。血液型性格判断についても血液型ステロタイプに絞った議論が可能になり、血液型を性格類型の判別基準として採用すること自体については一定の妥当性が確保される。
しかし、そうすると昨今のホメオパシー関連の議論で問題になっている「偽薬が偽薬であることを明かしたら偽薬効果は消滅する」と謂う論点がクローズアップされるわけであるから、多分ニセ科学の側ではそんなことは認めないだろう。つまり、ニセ科学言説は何処まで行っても原理的に欺瞞性からフリーであることは不可能だと謂うことで、そんなことは百も承知でこんなことを言っているのであるから、このエントリは単なるネタでしかない。
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コメント
ホメオパシーに言及する機会が増えたせいで、Blogopolisの敷地が一瞬医療村のNATROM先生の近所に分類されていたpoohです(いま見たらまたscience村の村境に戻ってました)。
いや、端的に云ってその調停を個別のニセ科学が受け入れてくれれば、基本的に「ニセ科学としての」問題は消滅するんですよね。で、ぼくなんかは多分今度は呪術そのものとしての質とか正当性とか有効性を論じる場所に移るわけです(われながら立ち位置が妙ですが)。
そうなるとおそらく学術的な面でより複雑で精緻な議論が必要にもなるわけですけれど(これがニセ科学問題への文系の学者のコミットが少ないおもな理由だと思っています)、外から見る限りにおいては議論の筋はわかりやすくなるはずです。
投稿: pooh | 2009年12月27日 (日曜日) 午前 10時06分
>poohさん
>>いや、端的に云ってその調停を個別のニセ科学が受け入れてくれれば、基本的に「ニセ科学としての」問題は消滅するんですよね。
仰る通り、それが在り得るかどうかを捨象して考えれば、「科学ではないのに科学を装う」と謂う部分さえクリアされれば、それはニセ科学の問題ではなくなりますね。そして、人間の生活において今現在でさえも呪術が有用であり必要とされていることそれ自体については、ニセ科学にコミットしている論者の大半が概ね異論はないはずです。
問題なのは、ニセ科学と謂う呪術は「科学ではないのに科学を装う」と謂う欺瞞性に呪術的効用の根拠を持っていると謂うことで、原理的に考えてニセ科学言説が自身を呪術であると認めることはまず在り得ないと謂うことですね。
>>で、ぼくなんかは多分今度は呪術そのものとしての質とか正当性とか有効性を論じる場所に移るわけです(われながら立ち位置が妙ですが)。
これはオレも共有しているスタンスで、ニセ科学問題でよく引き合いに出す京極夏彦の考え方なんかもそうですね。呪術と謂うのは心的現実に対して実際に効くアートではあるわけで、「呪いは効く」と謂うのが京極夏彦の考え方ですね。その前提において、個別の呪術の質や正当性や有効性を問い、主人公が万能の呪術的スキルで誤りを正すと謂うのが京極小説における憑き物落としのロジックです。
つまり、高品質で有効な呪術と謂うものがある一方で、質が悪くて有害な呪術もあると謂うわけで、本来ニセ科学言説と謂うものは呪術として取り扱ったほうが本質に符合しているのだし、外部から見てもわかりやすい話になるんですが、「科学ではないのに科学を装う」と謂うふうに説明原理を科学に求めている部分で、わかりにくく誤解を招く議論にならざるを得ない。
本来は、たとえば仏教やキリスト教などのような伝統宗教と現代の特定個人が説く新宗教の性質の違い、その社会的意義の是非、そしてその違いがどのような機序によってもたらされるのか、と謂うような議論と類似の問題だろうと思うのです。
元々伝統宗教だって、土着の原始宗教でない限り、その出発点においては天から電波を受信した特定の開祖が言い出した新宗教に過ぎなかったわけですが(笑)、その時点における原始教団の段階においては、やっぱり現代の新宗教が持つような反社会性や好悪の両面を持っていたと思うんです。
その一種反社会的な原始教団の勢力が拡大するに至って、権力側に取り込まれて秩序維持装置として利用されたり、経済的収奪や不寛容な思想的弾圧の口実にされたりと謂う別種の有害性もあったわけですが、とにもかくにも現代に至るまでにそれらの有害性を調整して心的現実に有効なアートとして洗練されてきているわけです。伝統宗教の有効性の多くはこの歴史的洗練に求められるわけで、教義それ自体をとってみれば、別段現代の新宗教とそれほど質的に違うと謂うわけではない。
ニセ科学の問題についても、たとえばよく「ニセ科学批判者は縁起を担いだりしないのか」とか「宗教的儀礼を無視するのか」とか「先祖の墓参りをしないのか」と謂うような反論がありますが、勿論そんなことはないんです。それは、伝統宗教や卜占の呪術的な有効性や正当性の問題だと考えれば、まったく矛盾はないんですね。
だから、宗教的儀礼でも歴史的な洗練を具えておらず、特定個人が不当に利潤を得るような仕組みになっている宗教の儀礼は「質の悪い呪術」「有害な呪術」として批判の対象になるのだし、卜占でも「水子の霊が」とか「前世の宿縁が」とか言い出してアヤシゲな霊感商法に誘導するようなものは批判の対象になります。これは要するに呪術の質や反社会性の問題だからそう謂う弁別になるわけですね。
しかし、これが表面的には科学的な正当性の問題と捉えられているから、「ニセ科学の非科学性を批判しておきながら、一方で科学的な根拠のない宗教や卜占を許容するのは矛盾ではないか」みたいな見え方になる。
これはニセ科学が「科学を装う」と謂う説明原理で駆動している呪術である限り避け得ないわかりにくさであるわけで、今回のようなネタならともかく、なかなか画期的な打開策と謂うものはないでしょうね。
>>そうなるとおそらく学術的な面でより複雑で精緻な議論が必要にもなるわけですけれど(これがニセ科学問題への文系の学者のコミットが少ないおもな理由だと思っています)、外から見る限りにおいては議論の筋はわかりやすくなるはずです。
今のところ、このアスペクトの問題性と謂うのは非専門家しかコミットしていないわけですから、どうしても精度的に大雑把な部分は免れないわけで、前述のような大枠の話しか出来ないと謂うもどかしさがあります。雑な喩え話ではない精緻な議論が深まれば大分違うと思うんですが、モギケンレベルの喩え話でプレゼンする分にはどうとでも言えてしまうよなぁ、と思わないでもないです。
投稿: 黒猫亭 | 2009年12月27日 (日曜日) 午前 11時55分
こんなネタに対して、某血液型FANが聞く耳を持っていたらと思いますが、日本語できない人が黒猫亭さんのブログを読めるわけないよなぁ(笑)
投稿: がん | 2009年12月27日 (日曜日) 午後 03時10分
>がんさん
このエントリの趣旨は、あの方の最近の主張と矛盾しないはずなんですけどね(笑)。単にそれが科学的な議論だと誤解しておられるのが問題なんでしょう。どう読んでも血液型性格判断は呪術だとしか読めないんですが。
>>日本語できない人が黒猫亭さんのブログを読めるわけないよなぁ(笑)
内容はともかく、日本語がたくさん書いてありますからねぇ(笑)。基本的にウチのブログは、日本語が読めない方の書き込みはご遠慮戴いていますし。ただ、一度直接お話をさせて戴いたんですが、終始和やかに対話が進みましたし、こちらの言い分もご理解戴けたようですよ。それはつまり、「あなたの主張は普通の論理性のレベルで矛盾していて理解出来ない」と謂う言い分でしたが(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2009年12月27日 (日曜日) 午後 07時25分