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2009年12月23日 (水曜日)

大団円

何度も触れている通り、今季の注目ドラマは前回語った「マイガール」と「小公女セイラ」、それに「JIN ー仁ー」を加えた三本だと謂うのがオレの意見だが、全二者については毎回欠かさず観ているものの、「仁」は途中飛び飛びになってしまったのでレビューは控えている。

これは単にウチのレコーダーのEPGでは、TBSからテレ朝まで一度にブラウズ出来ないから、選局の頻度が少ないTBSの番組はよほど気を附けていないと録り逃す可能性が高いと謂う事情の故である。CXとテレ朝は何かしら毎日観るが、TBSはブランチを毎週観ている都合で土曜日に朝から晩まで観るくらいで、それ以外の曜日の番組は忘れてしまうことが多い。

そう謂う意味で、土曜日のセイラはまず録り逃す心配はないので安心だが(笑)、先々週のマイガールに続いてTBS勢も先週末で最終回を迎えると謂う運びで、セイラ最終回についても一応の感想を述べておこうと思う。

マイガールが「とことん劇的な事件が起こらない」日常的なリアリティの物語だとすれば、セイラのほうのリアリティは常に波瀾万丈なイベントが巻き起こる賑やかで荒唐無稽な御伽噺のそれだと謂えるだろう。物語の作りとして、視聴者の誰も廿一世紀の日本でこんな物語が本当に在り得る可能性などほぼゼロだと確信している。それは画面の何処を視ても「この話は作り話の嘘なんですよ」と謂う目配せに満ちているからである。

そもそも、画面上にはそこで語られるドラマに必要な最低限の道具立てしか映らないと謂うのが割り切った映像の感覚である。いや、これは舞台装置の話ではなく、作劇上の道具立ての話であるから誤解のなきよう。

たとえばミレニウス女学院の生徒総数がどのくらいなのか、つまりどの程度の規模の学園なのかと謂うのも、実は何だかよくわからない。勿論食事の場面で全員テーブルに就いているはずだから、それを算えれば簡単にわかることなのだが、そこに映っているのは真里亜、まさみ、かをりの主要サブキャラをはじめとするいつもの面子で、つまり一学年乃至一クラス分の生徒しか映っていない。ウィキによると、このドラマの女子生徒は全員一六歳で統一されている(忽那詩織だけ一七歳だが)そうなので、実際には一学年一クラスの生徒しか映っていないことになる。

幾ら三村千恵子に経営の才能がなくても、一学年乃至一クラスしか生徒が存在しない学園の経営など最初から成立するはずがないことくらい、改めて指摘するまでもない常識中の常識である。今回描かれたようにその一学年が卒業してしまったら、学園が空っぽになってしまうではないか。それとも三年毎に新規募集して常に一学年しか生徒が存在しないような経営形態なのか、これを真顔で問うのは無意味である。このドラマを語るのに必要な最低限の人数がその程度であるからそれだけしか映っていないのである。

また、学園の上物にしても、あのこぢんまりした外観と敷地面積の中に複数の教室と食堂と院長室と教員室と各種生活施設に数十人分の寄宿舎まで入っていると想定すると、少なくとも地下五階くらいないと到底収容しきれないだろう。教員室の話で言うなら、三村姉妹と阿蘭先生以外の教員など存在するんだかどうなのかも曖昧で、今回の卒業式のようなイベントでいきなりガヤが何人か混ざっている程度である。

学園の外観なんてのは、場面を構成する為に必要な背景の書き割りに過ぎないから書き割りとして見栄えの良い小洒落た建物が映っているだけで、書き割りの中に人が住めるかどうかを考えても意味がないように、この建物の中に各場面に出てくる別の部屋が入るかどうかを考えても意味がないし、物語に出て来ないが寄宿学校なら必ず必要な設備が全部入っているかどうかなんて考えても意味がない。

そのレベルですでに嘘なのだから、ましてや法律で設置が義務附けられている設備とか体育館やグラウンドのような運動場はどうしているんだとかカリキュラムがどうのと謂う細かい話なんかするだけ野暮である。

「ドラマに必要な最低限の道具立てしか映らない」と謂うのはそう謂う意味で、普通ならリアリティを付加する為に「そこに映っていなければならないはずのもの」を背景として映像に映すものである。普通の高等学校なら三学年存在するはずだから、セイラたちの学年以外の生徒たちも在籍するはずで、ドラマに必要なくてもそれを道具立てとして画面上に映すのが当たり前の映像の感覚である。

同じような設定の「メイちゃんの執事」ですらその程度のリアリティは必要だと謂う感覚で道具立てを映しているわけだが、このドラマにはドラマを演じる上で最低限必要なものしか映っていない。謂わば舞台演劇とTVドラマの中間くらいのリアリティの設定である。流石に舞台演劇なら何十人分もの机が板の上に乗り切らないので生徒数はもっと少なくなるだろうが、幾らでも映すことが可能なTVドラマにおいて「教室」と謂う空間を構築する最低限の人数しか映っていないと謂うのもかなり思い切ったリアリティの設定である。

さほどの必要もなくインドまでロケしているくらいだから、満更おカネのないドラマでもないはずなので、これはそもそもそう謂う設計のドラマだと謂うことである。最初の最初から嘘事としての目配せで出来ている舞台設定のドラマだと謂うことで、内容面でも前近代の原作を現代にアダプトすることにはそれほど熱心ではない。

その辺の話は以前も語ったが、現代的な道具立てを徹底排除するわけでもなければ原作の前近代的な部分を徹底して現代的にアレンジすることもしていない。大体、現代の時代性において、大金持ちのお嬢様が実家の都合で学園の使用人に零落して虐待を受けるなんてお話が真顔で作れるはずがない。最初から現代的リアリティでは決して成立しない物語構造の話なのであるから、「嘘ですよ」と断って嘘を吐き通すのが妥当である。

このドラマの原作との距離感は、たとえば黒岩涙香の翻案小説なんかに近いな、と思うのだが、涙香の翻案小説だと、たとえば「幽霊塔」の冒頭はこんな具合である。

「有名な幽霊塔が売り物に出たぜ、新聞広告にも見えて居る」
 未だ多くの人が噂せぬ中に、直ちに買い取る気を起したのは、検事総長を辞して閑散に世を送って居る叔父
丸部朝夫(まるべあさお)である。「アノ様な恐ろしい、アノ様な荒れ果てた屋敷を何故買うか」など人に怪しまれるが夏蝿(うるさ)いとて、誰にも話さず直ぐに余を呼び附けて一切買い受けの任を引き受けろと云われた。余は早速家屋会社へ掛け合い夫々(それぞれ)の運びを附けた。
 素より叔父が買い度いと云うのは不思議で無い、幽霊塔の元来の持主は叔父の同姓の家筋で有る。昔から其の近辺では丸部の幽霊塔と称する程で有った。夫が其の家の零落から人手に渡り、今度再び売り物に出たのだから、叔父は兎も角も同姓の旧情を忘れ兼ね、自分の住居として子孫代々に伝えると云う気に成ったのだ。
 買い受けの相談、値段の打ち合せも略(ほ)ぼ済んでから余は単身で其の家の下検査に出掛けた、土地は都から四十里を隔てた山と川との間で、可なり風景には富んで居るが、何しろ一方(ひとかた)ならぬ荒れ様だ、大きな建物の中で目ぼしいのは其の玄関に立って居る古塔で有る。此の塔が
英国で時計台の元祖だと云う事で、塔の半腹(なかほど)、地から八十尺も上の辺に奇妙な大時計が嵌(はま)って居て、元は此の時計が村中の人へ時間を知らせたものだ。塔は時計から上に猶七十尺も高く聳えて居る。夜などに此の塔を見ると、大きな化物の立った様に見え、爾(そう)して其の時計が丁度「一つ目」の様に輝いて居る。昼見ても随分物凄い有様だ。而し此の塔が幽霊塔と名の有るのは外部の物凄い為で無くて、内部に様々の幽霊が出ると言い伝えられて居る為で有る。
 管々(くだくだ)しけれど雑と此の話に関係の有る点だけを塔の履歴として述べて置こう。昔此の屋敷は
国王から丸部家の先祖へ賜わった者だが、初代の丸部主人が、何か大いなる秘密を隠して置く為に此の時計台を建てたと云う事で有る。

断っておくが、人物名が日本名になっていても、これは文中に「英国」とか「国王」と謂う語が散見されるように、飽くまでイギリスを舞台にした物語として語られている。この翻案小説をさらに江戸川乱歩が二回翻案しているのだが、乱歩の時点ではたしか日本の話になっていたかと思う。

涙香式の翻案小説では、外国を舞台にした話でも人物名を和名に直したり行政区分や制度名を日本風に訳するのが一般的だったから、たとえば「マリー・スミス」なんて人物がいたとすると「隅須まり子」みたいに改名するのがパターンだった。

その意味で、セイラのネーミングセンスなんてのは、「セーラ・クルー」が「黒田セイラ」とか、「ミンチン女史」が「三村千恵子」とか、「クリスフォード氏」が「栗栖慶人」だとか謂うセンスは翻案小説のもじりに近い。オリジナルの人物である「亜蘭由起夫」なんてのも、「栗栖慶人」のセンスの延長上のネーミングである。フランス語の教師だから「アラン」と謂う如何にもフランス人的な響きの名前にしようと謂うベタなセンスである(笑)。

日本人にも親しみやすいように和名に直していても、前提としては外国の話であるから日本の常識や国情に囚われる必要はない。要するに、かなり荒唐無稽な話でも、当時は誰も識らなかった外国の話だから許されてしまうと謂うわけである。

翻ってセイラのリアリティを考えてみても、一応現代の日本の話であると謂う設定にはなっているが、「現代の時代設定になっていますが、それは見掛けの上だけで、中身は十九世紀末に書かれた大昔の小説のドラマ化なんですよ」と謂うメタ的な目配せを入れることで、現代においては制度的にも法律的にも成立しないはずの話を嘘事の御伽噺として語っているわけである。

このドラマのタイトルクレジットのCGは飛び出す絵本のようなイメージだが、内容的にも現代の日本で起こりそうなアクチュアルなリアリティの物語ではなく、プリンセスが出てくる御伽噺のようなリアリティの物語であることが強調されているわけである。

そう謂う種類のドラマであるから、現実離れした展開や日本の社会制度下では在り得ないような描写に一々ツッコミを入れるのは野暮の極みで、この種のメタ的なリアリティの物語を語り慣れている岡田脚本の手堅さの故に、危なげなく毎週安心して観ていられる娯楽作品となっている。

オレはこの放映があった先週の土曜日は、ブランチの後に眠気が差して昼寝を決め込んでいて、目が覚めたのはすでにエピローグくらいのタイミングだったんだが、流石にここから見始めるとびっくりすることは事実である。

何せ、前回まで何があろうと一向に改心することもなくセイラを苛め続けていた三村千恵子が、一端の人格者のような顔をして生徒総代に選ばれたセイラを顕彰し、二人きりで親しげに会話を交わして礼まで言っているのであるから、この僅か三、四十分の間にどんな劇的な事件が起こったんだろうと(笑)。

放映が終わってから改めて最初から観てみたのだが、当然前回からの繋がりの部分における三村千恵子はまったくこれまでの態度と変わりがなく、栗栖に向かってセイラが虚言癖を持つかのように誣告しているわけだから、この出発点からどうやってたった一話で三村千恵子の劇的回心とセイラとの和解まで持っていくんだろう、と疑問に思ったんだが(笑)、続けて本編を観るうちに「なるほど」と納得した。

前回もそんなような話をしたが、三村千恵子と謂う人物は決して自分からは変われないし変わろうとも思わない人物として描かれている。だから、彼女が変わるのだとしたら誰かが変わるきっかけを与えなければならないのだが、この物語世界の中では三村千恵子は権力者の立場にあるのだから、他の誰も彼女に変われと強いることは出来ない。

つまり、三村千恵子を変え得る者があるとしたら、それは彼女以上の権力者でなければならないわけだから、セイラの身分回復は三村千恵子に対する影響力を獲得する契機として意味附けられているわけである。

三村千恵子を変え得る者がこの世にあるとしたら、それは黒田薫子の娘でありミレニウス女学院の救世主である黒田セイラを措いてない。このドラマの物語はその結末から逆算して語られたものだと謂えるだろう。

元々黒田セイラは大金持ちの令嬢だったわけで、父の死をきっかけとした一時的なトラブルによって不遇な状況に置かれていたが再び大金持ちに返り咲いたわけだから、元通り大金持ちになったセイラが学園の金銭的な危機を救うと謂うのは、乱暴に謂えばカネの力に物を言わせただけではないかと謂う言い方も出来るが(笑)、そう言ってしまったらドラマなんか必要ない。

それは成り行きを「説明」しただけのことである。

原作の「小公女」とドラマ版の最も大きな違いはそこにあって、原作の物語構造は運命の悪戯によってもたらされた一時的な逆境を主人公が持ち前の資質で乗り切ると謂う性格のものであるが、ドラマ版はハッキリと黒田セイラの成長物語として語られている。

原作の状況設定は出発点に過ぎず、物語の開始時点でセイラがすでに持っていた資質では乗り越えられない逆境を次々に設定し、その資質の是非を冷酷に問うことで、セイラが(セイラなりに)人間的な成長を果たす物語として語っているわけであるが、その成長は何の為にもたらされるのかと謂えば、過去に囚われた大人でありセイラの「敵」である三村千恵子の救済を最終的な目的に据えている。

たとえば、ミレニウス女学院が経営的な危機を迎えていると謂うのは第一話から仄めかされている前提となる課題であり、だとすれば、第一話の時点でセイラの父が亡くなってセイラが使用人に落ちぶれなかったと仮定すると、三村千恵子はセイラの父の黒田龍之介に頼み込んで、経営を肩代わりしてもらうなり相応の出資を願うなりしてミレニウス女学院を立て直したはずである。

薫子の経緯や愛娘のセイラを預けていると謂う事情から考えて龍之介がその頼みを断るとは思えないのだから、龍之介さえ死ななかったら何事もなくすんなり事が収まったかのように見える。だとすれば、この物語は龍之介の死と謂う突発的な劇的事件の出来によって結末が遅延されただけの、予定調和の逆境を耐え忍ぶだけの筋立てなのか、と謂うことになるが、それはそうではない。

栗栖を遙かに凌ぐ龍之介の財力からすれば、ミレニウス女学院のような伝統だけは古いが規模としてはチンケな寄宿学校の一つくらい、三村千恵子が下手を打ち続けて赤字続きでも幾らでも支援を続けられるだろうし、よっぽど見かねたらセイラ同様三村姉妹を教師に専念させプロの経営陣を送り込むと謂うことも出来ただろう。

しかし、その想定と実際に実現した状況の何処が違うかと謂えば、三村千恵子の心的なドラマが救済されたかどうかと謂う部分である。もっと言うなら、それは、物語の開始時点よりも、劇中に生きる人々がより良い生き方が出来ていて幸福であるかどうか、と謂う部分である。

龍之介が生きていたら、セイラは今まで通りの人間で在り続けただろうし、内心ではそれに反撥しつつも三村千恵子は大事な大口出資者の令嬢として表面上はセイラを厚遇し続けていただろう。セイラは従来通り心根が優しく強く正しい非の打ち所のない善意の人として振る舞い続けただろうし、その善意に嘘や偽りはなくとも、一種独善的で多様な価値観の存在を認めない不寛容な権力者として隣人を痍附け、その痛みを識ることもなかっただろう。

一方、三村千恵子もまた黒田薫子との過去の因縁に囚われることで本当に自分自身のものである人生に踏み出すことも出来ず、自分自身に対して心の底から誇りを持つことも出来ないままに、冷酷で賤しい拝金主義者として生き続けていただろう。妹の笑美子もまた、姉の癇癪の爆発にビクビク怯えながら、間食と酔余の愚痴と睡眠だけが数少ない楽しみであるような怠惰な生き方を続けていただろう。

セイラが使用人に落ちぶれることで深まった三浦カイトとの関係など、セイラがお嬢様で在り続けていたら最初から在り得なかっただろう。セイラが彼の不遇な状況を識れば持ち前の善意で進学の支援を申し出たかもしれないし、カイトもまた物語の開始時点の人格のままなら、後に真里亜の甘言に危うく乗りかけたようにセイラの申し出を受けたかもしれない。

しかし、最終回で彼自身が「俺はセイラが女の子として好きだから、君の世話にはならない」と言っているように、セイラは単なる恩人のお金持ちであって、大好きな女の子ではなかっただろう。そしてセイラにとってそれは、単に金持ちに生まれついたが故の道義的責任としての善行の一つでしかない。

他の生徒たちを視ても、おそらく武田真里亜は財力と才能に勝る黒田セイラに対して優越性を発揮することは出来なかっただろうから、結局彼女は将来的に第二の三村千恵子になっていただろう。そうして、彼女自身今現在の黒田セイラのような相手を見附け出して、自身の過去のルサンチマンから不当な虐待を重ねていたかもしれない。そしてそれはさらに不幸なルサンチマンを産んで、不幸の無限連鎖を生み出していただろう。

東海林まさみもまた、単に生まれつき優れたプリンセスである黒田セイラに憧れる凡庸な取り巻きの一人として生きただろうし、後に「お友達だから言った」ような相手を想うが故の辛い言葉を口にすることもなかっただろう。おそらく彼女は三村笑美子のような怠惰な凡人になっていたかもしれない。

一々採り上げていてはキリがないからこの辺にしておくが(笑)、それは頭が良すぎるが故に周囲と距離をとり続ける水島かをりにしても同じことだし、小沼夫妻にしても本人たちはこき使われて不満かもしれないが、現在の境遇のほうが、互いが互いに対して不満だらけでうだつの上がらない現状を相手のせいにしてのんべんだらりと生きていた昔に比べれば、遙かにマシな生き方であると言えるわけで、これはつまり「そして、みんなこの後ずっと幸せに暮らしましたとさ」と謂う御伽噺のハッピーエンドそのものなのである。

ならば、劇中世界の人々を救済したのはセイラなのか、黒田セイラが物語の開始時点で具えていた資質によって他者を救済したのかと謂えば、たしかにミレニウス女学院へのセイラの到来によってすべての物語が始まったわけではあるが、セイラの主人公性が他者を救済するだけの話だとも言い切れない。

セイラもまた逆境の中でぶつかってくる多くの人々の影響で成長しているわけだし、ピンチを救われたことも再々あった。最もセイラの身近にい続けたまさみの変わらぬ友情に救われたことはもとより、カイトがナイトとしてセイラの楯になってくれたことも大きかったことは言うまでもない。

この二人のように一貫してセイラの味方で在り続けた人々以外にも、卑劣な手段で敵対した真里亜や不干渉を通したしをりもまたセイラに得難い何かを教えたのだし、それはたとえばパン屋の小母さんに至るまで、セイラが一方的に誰かを救済すると謂う話ではまったくなくて、人と人の関わり合いのダイナミズムの中で人が成長していって、それが結果的にすべての人を幸福にする物語を描いていたわけである。

よく考えてみれば、セイラが独力で救済したのは三村千恵子だけであって、それは前述のように劇中最大の権力者である三村千恵子を救済可能なのは、さらに上位の権力者になり得る黒田セイラだけであって、セイラにしか救えない相手だからセイラが救済しているわけである。

セイラが運良く父の遺産を相続出来て大金持ちに返り咲いたからこのようなハッピーエンドが成立したわけで、だったらセイラが無力な文無しのままだったら、幾ら人格的に成長しても三村千恵子は救済出来なかったんじゃないか、結局カネの力じゃないか、と言えば、まさにその通りである。しかし、それは世の中カネの力がすべてだ、と謂う結論とはまったく別の話である。

この世の中には善意や気持ちだけでは救えない人間がいる。権力や財力で強いられることなしには決して自発的に変わろうとしない人々がいる。三村千恵子もその一人であって、これまでのどんなドラマを経験しても、その中でどんな気持ちを感じていたとしても、結末においてセイラが財力でミレニウス女学院を救わなかったら、上位者として条件を持ち掛けなかったら、三村千恵子は好き好んで過去のルサンチマンに囚われ続け、これまで散々描かれたような厭な人間で在り続けたことだろう。

三村千恵子が救済されたのはセイラが大金持ちに戻ったからだし、そうでなかったら決して救われなかったと謂うのはまさにその通りなのである。

真里亜やしをりのように、昨日今日生まれたばかりの人間と違って、三村千恵子のようにすでに半分生きちゃった人生の中で強固な人格を身に着けた人物が不幸ならば、それは好き好んで不幸である生き方を選んだから不幸なのであって、その不幸が当人の自発的意志に基づく変革によって救済される可能性は窮めて低い

そのような人物が救済される為には何らかの強制力が必要なのだし、それを救済し得るのは、その不幸と固有の関係性を持つ個人性と強制力を持った他者だけである。黒田セイラはたまたま三村千恵子がルサンチマンを抱える相手の娘であると謂う因縁と三村千恵子の存在理由となっている学園の危機を救済し得る財力の両方を持っていたから彼女を救済し得たわけで、彼女以外の誰にも救えない相手を救ったわけである。

それだけでは十分ではなくて、黒田セイラ自身もまた三村千恵子の抱える不幸を共有して、それを乗り越える必要があるわけで、原作では物語の開始時点で主人公が具えている逆境を乗り越える資質として想定されているものが、逆に周囲の人々を痍附けどんどんセイラを孤立させる筋立てが語られることで、亡き薫子の教えで確立されたセイラの人格が逆境の中で試しを受けてさらに一段成長する物語と設定されているわけである。

四十分強の短い尺の中で語られる劇的な回心のドラマが成立するのは、このような作劇ロジックが背景にあるからで、セイラの試練は最終的に三村千恵子を救済するに足る人物になる為の成長のプロセスとして意味附けられるわけである。

その成長の結果である現状の黒田セイラが相変わらずイケ好かない偉そうな人物であるのはご愛敬と謂うもので(笑)、これは黒田セイラと謂う個人がそう謂う人間なんだから仕方がない。それは武田真里亜が相変わらずツンデレだったり、まさみさんが相変わらず鈍くさかったり、しをりがクールさんだったりするのと同じことで、黒田セイラと謂うのは基本的にどれだけ成長しても何だか鼻に附く人間なんである(笑)。

この物語の面白さと謂うのは、物語の劇中世界に生きる人々を救済して最終的な幸福をもたらすのは、主人公個人の力ではなく物語それ自体の力なのだと謂う認識があるところではないかと思うのだが、これまでのこの作品のドラマでは劇中世界の人々とセイラの関わり合いはセイラの一方的働き掛けとして描かれるのではなく、与え与えられる相互的なダイナミズムとして語られている。

それはつまり、人と人が関わり合いぶつかり合うことは、基本的に個人の独力を超えた幸福を生み出せるはずだと謂う信念があると謂うことだろう。勿論、現実にはそんなことは稀にしかないわけで(笑)、人と人の関わり合いは幸福よりも多くの不幸を生み出す力を持っているのだが、そうして生み出された不幸よりも多くの幸福が生み出せるはずだと謂うのは、事実のレベルの問題ではなく信念のレベルの問題である。

であるから、「セイラが金持ちに戻らなかったら」なんて想定を考えても意味がないわけで、当然そうならなかったら三村千恵子は救済されないのだし、それで何処も不都合は存在しない。特定の人間を救済するのは救済する側の持つ固有の人格的な能力ではなく、或る特定の状況における選択の積み重ねなのであるから、セイラが金持ちに戻ると謂う大前提のある物語を語る場面において重要なのは、その結末に劇的必然性がどれだけ附随するのか、と謂う問題である。これは最終的にセイラが金持ちに戻ると謂う前提の物語を語る場合において、その既定事実をどのように意味附けることが出来るかと謂う性格の設問と考えるべきなのである。

メタ的なレベルで謂えば、「小公女」を題材として現代の連続ドラマを語る場合、主人公が特定のスパンの逆境を何とか持ち応えれば最終的には予定調和的に救済されることが予め決定されているわけである。そして、このドラマを観るすべての受け手は小公女と謂う物語がそう謂う筋立てであることを識っている。

そう謂う前提で考えるなら、主人公がワンクールの間辛抱強く苛めを我慢すると謂うだけの話になりかねないわけで、普通に考えてそんなドラマが面白いだろうとは誰も思わない。それは劇中でも、この逆境を神が与えた試練と認識するセイラに対してカイトが血を吐くような非難の言葉を浴びせる場面で語られている通りで、やがて回復されることがわかりきっている試練には予定調和と謂う以上の意味なんかない。

面白いドラマを観たなぁ、と思わせてくれるのは、事実関係のレベルではほぼこれ以外の決着はないだろうと謂うベタな展開に落ち着いてはいるが、それを怜悧な計算と細やかな語り口で豊かに意味附けるドラマ性の部分である。

そう謂う次第で、今季はセイラと仁がウェルメイドの代表作で、マイガールが真面目な秀作と謂うのがオレの評価である。

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