遠く離れてしまっても
「マイガール」最終回の放映から一週間も経ってしまったが、先週は心身共にヘロヘロであちこち痛くて纏まったものを書く余裕などはなかった。
元々当ブログは毎回定期的にレビューを書くスタイルではないから、書くことがなければそのまま黙殺しても構わないようなものだが、この番組は放映枠のアベレージを無視して考えてもトータルで面白かったと思うので、区切りの感想を述べておこうと思う。
前回述べたように、前半で描かれた父娘二人の絆の深まりやそれが周囲の人々の気持ちのドラマに影響を与えていく筋立ては、プロットや劇中イベントに何ら目新しいものがないにも関わらず、細やかな描写と構成の妙のお陰で神懸かり的に面白かったのだが、後半の正宗自身の夢を巡る筋立てについては、気持ちだけで割り切れる問題ではないから、少しドラマ的感動を成立させるのに手こずっているような印象を覚えたことは事実である。
作劇のロジックと劇中で描かれている内実のロジックはまた別で、前者についてはそれほど不満はなかったが、後者についてはロジックが整合していない部分が目立ってしまうわけで、それが回り回って作劇構造それ自体の不整合にも繋がっていたように思う。
つまり、劇中の内実のロジックが整合していれば、こう謂う作劇手法でも矛盾は感じなかっただろうし、想定されているドラマ的な感動も生起したんではないか、と謂うことで、やはり嘘事の積み重ねの上に成立している文芸作品では、社会性の領域の事柄はリアリティレベルの設定の仕方が難しいものだと感じた。
本作がまるっきりの嘘事で成り立っているウェルメイドな御伽噺なら問題なかったとも思うが、勿論ガチガチのリアリズムではないとしても、ドラマ全体のテーマとなっているのは、親の世代の関係性のドラマとそれが子供の世代に及ぼす影響、その相互のダイナミズムと謂う窮めて現代的な題材であるだけに、事実性のレベルで嘘事が混じり込むとやはり符丁が合わないと謂うことになる。
このドラマに登場する人々は、たとえばシングルファザーであったりシングルマザーであったり、大家夫妻のように敢えて子を儲けないことを選択した夫婦であったり、世間一般で「円満具足で幸福な家庭」と目されている家庭像から視れば欠落を抱えた人々ばかりである。換言すれば、「円満具足で幸福な家庭」を維持出来なかったことに対して何らかの負い目を感じている人々が描かれている。
そして、自分自身の家庭(生まれついた家庭ではなく、自身の判断と責任で配偶者を得て子を儲けた家庭)を持たない若い男女の自由な感情のぶつかり合いを扱った物語ではなく、劇中で必ず過去の物語として描かれる親同士の関係性の結果として現に目の前に存在する子供を巡る親としての気持ちのドラマが描かれているのがこのドラマの特徴である。これは、歳若い男女を主人公に据えた作品では、ありそうで意外になかった設定であると言えるだろう。
設定上コブ附き(血縁の有無は問わないが)の若い男女を主人公にした作品もあるにはあるが、普通はそこからまた新たな恋愛に踏み出して親のカップルに子供を加えた家族共同体の新たな関係性を構築するプロセスをテーマに据えるのが常套的なパターンで、出発点で提示された親子関係それ自体をテーマに据えた作品は、これまであまり存在しなかったと言えるだろう。
いや、たとえば古くは「パパはニュースキャスター」とか、もう少し最近だと「暴れん坊ママ」「役者魂」等々、似たような設定のドラマならたくさんあるんだが、これらの作品は本質的に「疑似家族物」と表現出来るわけで、主人公と子供の間に血縁関係が存在しないか、疑惑があるか、要するに本質的には赤の他人同士である者たちが葛藤を経て家族共同体を構築するシチュエーションの物語である。
であるから、親としての責任や自覚などが描かれても、謂ってみればそれは「ごっこ遊び」の延長上のものである。この「ごっこ遊び」的な荒唐無稽が極端化すると「アタシんちの男子」みたいな話にもなる。疑似家族物とは、事実において起居を共にする者同士の間に生まれる紐帯の物語であるわけだから、その関係は不安定であり過渡的でなければならないわけで、おおむねこの種の物語のクライマックスは共同生活の崩壊と別離を巡るイベントとして描かれる。元々赤の他人同士なのだから、別れてしまえばやっぱり他人同士に戻るわけである。
しかし、一旦公に成立した親子関係は別れても消えてなくなるわけではない。その決して消えてなくならない親子関係それ自体をテーマに据えたドラマは、もう少し泥臭いリアリティのものになるのが普通で、大映ドラマや東海テレビの昼ドラのように別種の荒唐無稽さに陥るのが普通である。
このドラマと関係性の設定の上で非常に近似している「白い春」と比較してみてもわかることだが、「白い春」と「マイガール」の物語構造において最も大きな違いは何かと謂えば、前者は「名乗り合えぬ父娘」の関係性を描いていると謂う部分であり、それは本質的には親子関係の物語では「ない」と謂う部分である。
阿部寛演ずる佐倉春男と大橋のぞみ演ずる村上さちは血縁上の親子であるが、公にはその事実は伏せられていて、さちの事実上の父親は遠藤憲一演ずる村上康史である。この場合、康史がさちの実母である真理子と婚姻関係にあったのなら問題は比較的簡単なのだが、康史と真理子は結婚どころか恋愛関係にすらなかったのだし、そう謂う意味ではこの二人は最初から最後まで赤の他人であった。従って、真理子が遺したさちとも赤の他人に過ぎないのであるが、真理子に一方的な想いを寄せていた康史がさちを引き取って養育することで、事実上の親子関係が成立する。
そこに刑期を終えて九年ぶりに出所してきたやくざの春男が登場することで、表面上のそして事実上の親子として円満に暮らしていた村上一家の関係性が揺らいでくる、これが「白い春」の状況設定である。康史にとって物凄く残酷なことではあるが、さちは最初から無条件に春男のことが大好きで、恰も秘やかな恋愛関係のように父親の目を盗んでどんどんこの二人の関係性が深まってしまう。
…と謂うか、「恰も」と表現するまでもなく、このドラマで描かれているさちと春男の関係は、明らかに親の許さぬ恋愛関係のメタファーとして想定されている。劇中で描かれていたのは春男の父性の目覚めなんかではなく、識らぬ間に真理子を亡くして大きな喪失感に打ちのめされた春男が、真理子と重ね合わされたさちに対して恋愛にも似た強い愛情を抱く物語だと表現して構わない。
本質として父親のポジションにあるのは康史のほうで、康史もまたさちに亡き真理子の俤を重ねることで現在の生活を営んでいるのだが、公に表明された父親の立場にあるが故にさちの愛情を独占することが出来ない。一方、そこに現れた春男は、父親の名乗りを禁じられているが故にさちの関心と愛情を独占し得る立場にあるわけで、この設定には虚実の複雑なヒネリがある。
娘にとって父親と謂うのは、頼みもしないのにいつも身近にいて自分に対して鬱陶しい関心を注いでくる存在であって、それは娘の父親に対する感情の好悪に関係なくそんなもんでしかない。さちもまた父親の康史を愛してはいるが、康史は常にいつも家にいるしこの先もずっとい続ける存在である。しかし、突然現れた春男は、自分から動かなければ身近につなぎ止めておけない存在である。
春男とさちの関係を構成するのは血縁関係だけであり、公には家族関係ではないのであるから、春男とさちの関係は血縁を伏せられた根拠とした互いへの想いだけで成り立っている。生活を共にする者同士のように、互いに互いに対する責任を持っている間柄と謂うわけではない。康史の場合のように公に父娘の関係にある者なら時には自分にとっても相手にとっても不本意なことをしなければならないし、想いだけで関係が成立しているわけではない。親子関係の本質にあるのは、血縁関係と謂うより事実性の次元における共同生活と責任関係だと表現出来るだろう。
或る種「白い春」の題材としてスリリングな部分は、春男とさちの関係の本質は実は親子関係ではないと謂うところで、そもそもさちの視点では春男は最初から父親でも何でもないのだし、春男に父親の姿を重ね合わせている吉高由里子演ずる西田栞の春男への想いが立派な恋愛感情と呼び得るのなら、さちの春男に対する想いだって窮めて恋愛感情に近いものだと表現出来るはずである。
そして、ドラマの描き方においては、春男とさちが惹かれ合ったのは二人が親子「だから」ではない。物語の構成上、春男がその事実を識るのはさちと識り合ってから結構後のことで、それどころか真理子に遺したカネを着服したと誤解して厭がらせを繰り返している相手である康史の娘となっていることも最初は伏せられている。
つまり、この三人が識り合った当初は、互いに互いの関係をまったく識らない者同士として出会うわけで、春男と康史の関係や春男とさちの関係はそれを識る以前にすでに確立されている。春男と康史は一人の女を巡って競い合うライバル同士なのだし、春男とさちは単に一人の中年男と少女として惹かれ合ったのであって、それがたまたまさちを中心とした血縁上と事実上の親子関係であったと謂うだけである。
真理子を巡って始まった春男と康史の因縁が、今度はさちを巡るものにスライドしたと謂う話で、どちらの場合も本来的には入り込む余地のないはずの康史が現実にはその最期を看取ったり、事実上の父親としての立場にあると謂う皮肉な状況にあるが、本当に真理子と恋愛関係にあったのは春男なのだし、さちの血縁上の本当の父親も春男であると謂う部分で、康史の側には潜在的な負い目がある。
単に春男が人殺しのやくざで、表面的には真理子を棄てて悪事を働いていると謂う事実だけが康史の現在の生活を正当化する根拠となっているが、そもそも真理子と恋愛関係にあったわけでもない康史がさちを引き取ったのは、世間的な基準で謂えば「親切」以上のものではないわけである。
これらの設定上の仕掛けを剥ぎ取って本質を視るなら、この作品の本質的なテーマはやはり稚ない少女を巡る中年男同士の想いの葛藤なのだし、一人の女を奪い合う男同士の対決の物語である。上記のような複雑な仕掛けはその本質に内在するアモラルを緩衝する為のものだと言えるだろう。
なので、物語が進んでも春男とさちの関係性の深まりが描かれるだけで、春男は一向に父親としては成長しない。その想いを動機として、事実上の父親である康史に注文を附けるだけの無責任な立場にあり続ける。これは、要するに春男が最初から最後まで父親としての立場でさちを愛していたわけではないからである。
父親と謂う存在が父親である為には、父親としての立場で子供の養育に責任を持ち、生活を共にするしかないのであって、父と子の事実性の次元の絆を根拠附けるのは血縁のみなのだから、その根拠を伏せてしまえば、娘にとって父親なんて一人の年上の男性でしかない。ここが実際に子を産む立場の母親とは決定的に違う部分である。
その意味で、やっぱりさちの父親は何処まで行っても康史なのだし、今更春男はさちの父親になどはなれないのだし、この物語は春男がさちの父親になる話などでは最初からなかったのである。
最終的に春男は、嘗て死病に冒された真理子を救うカネを稼ぐ為に殺した男の息子に殺され、自分を殺す相手に対して過去の過ちを侘びた上で康史を庇う形で死ぬ。春男が父親として描かれていたのであれば死と謂う結末にまでは至らなかっただろうが、本質的にこの物語は秘やかに擬装されたラブストーリーだからこそ、主人公は想いの頂点において想う相手の為に死なねばならないのだと謂えるだろう。そのラブストーリーは、決して成就しない種類の物語だからである。いつだって、ロメオは愛の為に死なねばならないのが物語の原理と謂うものである。
以前「結婚できない男」のレビューで尾崎将也の脚本の魅力を「若さ」だと表現したことがあるが、この「白い春」で描かれている内実もまた窮めて若い視点で構想されたものであると思う。父と娘の間に通い合う一種恋愛感情にも似た想いにフォーカスして物語を構築し、さらに親子関係と謂うエクスキューズによってアモラルを回収する語りの動機は、窮めて若々しい感覚のものだと謂えるだろう。
さて、別の作品の話がえらく長くなったが(笑)、ここで漸く「マイガール」の話に戻ると、最初の段階で少し意外に感じたのは、正宗とコハルの血縁関係にまったく含みを持たせていないところであった。二十代半ばの青年の前に突然稚ない少女が現れ、自分はあなたの娘であると宣言するところから始まる物語は幾らでもあるが、それには大概入り組んだ綾があって、本当に血縁関係があるのかどうか本当のところはわからないと謂う設定であるのが一般的である。
つまり、本当に親子だから一緒に生活する、と謂う前提の物語は殆どないわけで、子供だと名乗って押し掛けてきた幼児とちぐはぐな共同生活を営むうちに自然な絆が生まれると謂うのがパターンであって、冒頭で述べたように、それは「疑似家族物」と謂うカテゴリーと規定される。
しかし、このドラマの設定では最初の最初に正宗とコハルの血縁関係は確定され、もしかして他人同士ではないか、と謂う含みは一切残されていない。この二人は出発点からして親子と謂う関係性を互いに受け容れ、親子として関係性を確立していく。
パパニューの田村正和のように、都合が悪くなると「私は君たちのパパじゃない」などとは言えないわけだし、父親としての立場と責任を引き受け共同生活を営む過程で生じる様々な問題を娘と二人で乗り越えていく物語となっている。
二人の間には欠落した五年間の歳月があるわけだが、その欠落を埋め合わせるのは物語の開始時点ですでに亡くなっている母親の陽子への想いなのであるから、やはり設定的には「白い春」とよく似ている。この二つの作品を対比することでこのドラマの本質が浮かび上がってくるのだが、春男も正宗も、娘に母親の俤を重ねることで愛情が深まっていき、やがてそれが娘本人に対する愛情にスライドしていくと謂う機微は共通していると謂えるだろう。
しかし、正宗のほうは、決してさちの父親にはなれないしなろうとする気もない春男とは違うわけで、本質の部分を抉り出せば、やはり正宗のコハルに対する想いもまた陽子に対する恋愛感情とそれほど違う性質のものではないだろうが、それを概念上恋愛感情と別種の感情として成立させているのは事実上の親子関係だと謂えるだろう。
正宗とコハルは、春男とさちとは違って公の親子関係にあるのだし、親子として共同生活を営んでいる。親子だから一緒に生活しているのだと謂う自明性があるのであって、この事実性の故に、本質的には恋愛感情とそれほど違う感情ではない愛情に親子間の肉親の情と謂う「かたち」が伴っている。
愛情もまた人の抱く観念である以上、観念の「かたち」によって遡って本質が決定される部分があるわけで、春男とさちの間の感情にはこの「かたち」が存在しないからこそ物語の本質はラブストーリーになってしまうわけである。
下世話に謂えば、相手を好きである感情に細かい分け隔てなどは存在しないが、相手を恋人と認識するか娘と認識するかが感情の本質を決定附けてしまうわけで、春男はさちが自分の娘であることを識ってはいるけれど、公には名乗り合えぬ親子だからこそ、そこに恋愛感情と不分明な危うさが生じるわけである。
そもそも春男とさちの出会いは、腹を空かせた春男が公園で寝ているところにさちと友達が通りかかったと謂うだけのものなのだから、さちの視点では春男は浮浪者紛いの不審な中年男に過ぎないわけで、見ず知らずの薄汚い中年の大男に赤の他人の幼女があれだけ懐くと謂うのはどう考えても怪しいわけである(笑)。春男とさちの関係の本質は実はここにあるわけで、実は何の根拠もないのである。
この場合「血縁上の親子だから」なんてのは何の理由にもならないわけで、生まれてこの方九年もの間ずっと面識がなかった親子の間に肉親の情なんて存在したら、そんなものは超常現象である(笑)。
単にさちは何の根拠もなく春男が好きになっただけなのだが、これに血縁関係と謂うエクスキューズが後から開示されるわけで、さらにその後春男と康史が葛藤を経て緊張感のある友情を確立するに至って「父親の友達」と謂う「かたち」が後から与えられる。つまりこれによって「お父さんの友達の大好きなおじさん」と謂う関係の「かたち」が成立するわけである。
一方、正宗とコハルの関係は最初から正式な親子関係と規定されているのだから、ハンサムな若い青年と稚ない美少女が同衾したり抱き合っていたりしても、そこには隠微なニュアンスは存在しない。家族関係を公に受け容れると謂うことは、決して違うものではない愛情に観念上の「かたち」を与えると謂うことで、男女の間柄であってもその関係性から性的なニュアンスを排除すると謂う手続である。
これが疑似家族物なら、関係性の上では親子に相当する者同士の間の仄かな恋愛感情なども描かれたりするわけだが、公の親子関係が確立されることでそのような可能性は排除されるわけである。つまり、疑似家族物ならいつでも責任関係を放棄出来ると謂う自由度が残されているが、実の家族の間にはそんな自由度は存在しないから、恋愛関係の可能性など最初から存在しないわけである。
であるから、出発点において親子関係を確立してしまうと謂うのは物語の性格を決定附けてしまうわけで、正宗とコハルの間の責任関係はこの先何があろうが揺らがないわけであるから、たとえば疑似家族物のようにコハルの実の父親が判明して引き取るの引き取らないのと謂う話には決してならないわけであるし、その代わり正宗自身の抱える職業上の問題に関してコハルが他人に引き取られて他人同士の関係になると謂う選択肢はなくなるわけである。
前回も述べたように、正宗の職業が普通の勤め人であれば、社会全体がうら若いシングルファザーの子育てを手助けすると謂うことにも正当性があるわけで、こう謂う厳しい世情においても可能な限り職場が子育てに配慮することで協力すると謂う選択肢もあり得るのだが、フリーランスのカメラマンと謂うのは個人の裁量で経営する自営業者であり一般的な勤め人の常識が通用しない世界であるから、組織が個人の生活に配慮すると謂う選択肢もないわけである。
そして、正宗の職業がカメラアシスタントだと謂うのはドラマ版のオリジナル設定で原作では文具メーカーの勤め人だと謂うことも前回述べたが、ドラマ版では敢えて職業的自己実現の領域にも物語上の課題を設けているのだと謂うことになるだろう。
普通に考えれば、コハルとの関係性を重視してそれこそ収入の安定した職業に転職すると謂う選択肢も何処も悪くないはずなのだから、明らかにわざわざ難しい条件を追加しているわけで、個人的な考えとしても正宗とコハルのような事情なら何もわざわざ不安定な職業を目指さなくても、普通の勤め人で十分幸せになれるんじゃないの、と思う部分もあるのだが(笑)、それはつまり正宗が写真を撮ることにどれだけ思い入れを抱いているのかに関係してくる問題である。
しかし、このドラマでは別段正宗は何が何でもカメラマンになりたいと謂うほど思い入れているような話でもなかったわけで、設定的な根拠も薄弱である。陽子が買ってくれたカメラがきっかけになっているのだから、そこも一種の気持ちの問題の領域ではあるのだが、亡き恋人の想い出と謂うだけの理由で厳しい道を選ぶと謂うのは割合現実味の薄い設定である。それは正宗本人が自発的に抱く思い入れではなく、陽子と謂う他者との関連で強化された感傷に過ぎないからである。
それなら、一時の感傷でわざわざ子供に辛い想いをさせてまで困難な道を選ぶことがそんなに意味があるとも思えないのが年寄りの感じ方で(笑)、そもそも正宗に夢を追うような生き方をしてほしいと望んだ陽子の想いも何だか有り難迷惑で、普通に妊娠を打ち明けて親子三人で一緒に暮らしてくれたほうがナンボか好かったのに、と謂う話になってしまうのだが(笑)、そこに職業上の課題設定まで設けたことでよけいに作劇上の困難が生じたのだと思う。
おそらくこの設定は、陽子が正宗に妊娠を隠して渡米する(ドラマ版では実家に戻っただけであるが)と謂う原作の設定の根拠が薄弱だと感じられることも動機となっているのではないかと思うが、やっぱり普通に考えると、子供は産む者だけの自由裁量に任されたものではないのだから、妊娠したのならせめて打ち明けて欲しいと考えるのが人情である。
血を分けた我が子の誕生に際して自分に何の決定権も与えられていなかったと後から識らされるのは、やっぱり誰でも不本意なものだと思うし、それは結局後から父親や子供の人生を呪縛してしまうものである。この物語で陽子が亡くなったのは不幸な事故の故だから、陽子のほうではコハルを正宗に託する気持ちなどハナからなかったのだろうと思うが、こう謂うことはいずれバレるものである。
この陽子の選択に関しては、コハルが陽子を「弱虫」と語ることで一種間違ったものと謂うニュアンスでは語られているのであるが、亡くなった愛する者の呪縛をどのように克服するのかと考えるなら、「自分自身で納得のいく生き方をしてほしい」と謂う陽子の想いを正宗が実現しなければならないだろう。
連続ドラマの短いスパンでそれを解決するなら、正宗の職業上の夢と謂うわかりやすい形に持っていく解法も理解出来るのであるが、それなら原作通り父親の職業をカメラマンにしておけば好かったんではないかと思わないでもない。上司の林の役割を父親に割り振っておけば、同じプロットでも意味合いや重みが違ってきたのではないかと思わないでもないところである。
ただ、陽子が身を引いた理由と正宗の夢を関連附け、そこにコハルとの関係性を関連附ける作劇ロジック自体は納得出来るもので、親になると謂うことは自分自身の身の処し方に対してのみ責任を持つ自分本位の生き方が許されなくなり、子供のそれに対する責任のほうが大きくなると謂うことなのだから、必然的に親個人の自己実現の観点では何かを諦める必要が出てくる。
さらにそこに陽子の想いが絡むことで正宗が板挟みになると謂う状況設定は面白いのだが、要するにそこで秤に掛けられる正宗個人の自己実現の想いと謂うものの根拠が薄弱で断念するものに対する想いの強度が弱いからドラマ的な感興が薄くなるわけである。
実際のドラマでは、後半数話でいきなり正宗がカメラマンの夢に対して前向きな想いを抱くに至り、それがいきなり母親の母校に通いたいと謂うコハルの夢と対立すると謂う展開になっているから、マッチポンプ的な作為を感じるわけで、勢いカメラマンの夢に打ち込む動機を深掘りする過程で陽子の勝手な思い入れと謂う要素が強調されて感じられるから、どうも何だか感動しにくい筋立てになっていたと思う。
ここは少しシリーズ構成の計算が上手くなかった部分だと思うし、出発点でもう少し展開を煮詰めておけば好かった部分だと思うが、仮に正宗の夢に対する想いが納得の行く根拠と強度で語られていたとしたら、そしてコハルが母親の母校に通いたいと願う動機に何らかの明確な伏線が張られていたとしたら、クライマックスの展開自体は無理のないものだと謂えるだろう。
一旦はコハルの想いを重視して自身の夢を断念しようとしたとしても、どうしても諦めきれないのであれば、共同生活を営むだけが親子の姿ではない。頼れるお祖母ちゃんが存在するのであれば、子供を預けて別々に暮らすと謂うことも、誰に後ろ指を差される謂われもない堅実な選択肢である。
年寄り臭い言い方だが、子供は何も常に親が身近にいて手ずから養育しなければならないと決まったものではない。昔のように早婚な時代には、子供の成育上重要な時期に親の職業上の事情が重要な局面を迎えることも幾らでもあったわけだし、小規模自営業者なら仕事に失敗すると謂うことも幾らでもあったわけである。
子供時代に親の仕事が忙しくて寂しい想いを味わった子供なんて幾らでもいるし、だからこそ自分の子供にはそんな想いをさせたくないと願うのも親心だが、現実にはやはり昔と幾らも事情が違うわけではないのだから、子供にまったく辛い想いをさせずに育てることなど不可能である。
そんな場合、祖父母の世代の人々も、子供の子供だから自分たちには関係ないと謂うことにはならないわけで、祖父母と孫の直接的な責任関係と謂うものだって勿論存在するわけである。
劇中で正宗は頭を下げて母親に借金を申し入れているが、昔は若い親が子供の養育に掛かる費用を全額捻出出来ない場合に祖父母の世代が幾らか負担すると謂うことは普通にあったわけで、今は「自己責任」とやらの時代であるから、自力で子供を扶養出来るまで子供を作らないのが一般的だが、正宗のような事情で計算外のタイミングで子供が出来たことを今更とやかく言ってみても始まらない。
オレの感覚がおかしいのかもしれないが、正宗とコハルのような事情で、正宗が一人前のカメラマンになる為に数年間コハルと別れて暮らすことが、そんなに非道く不当なことだとは思えない。しつこいようだが、この物語は疑似家族物ではないのだし、正宗とコハルは公の親子関係にあるのだから、数年間別れて暮らしても決してその関係や互いの想いは消えてなくならないし、もう決して他人同士に戻ることはない。
人間が何とか生きていく為には、子供だって何かを我慢する必要があるのだし、暫く親と別れて暮らすと謂うことが、暫くの間寂しさに耐えることが、子供にとって耐え難いほど辛いことや不当なことだとは思えないのである。
ただ、昔は「当たり前」「仕方ない」で済んでいたことが、今はそうではない。昔は普通にありふれていた哀しみを一つでも減らす為に努力しなければならないと謂うコンセンサスで現在の社会が動いている以上、子供の辛さを決して見過ごしに出来ないのが親の立場であるから、正宗とコハルのように生まれてこの方ずっと別れて暮らしていた父と娘が母親の死をきっかけに漸く生活を共にするようになって、その上さらに間を置かずに父親の正宗とも離ればなれに暮らすとなれば娘が重々可哀相だ、これも今時の親心ではあるだろう。
ぶっちゃけて謂えば、どちらの選択肢を選んだとしても、その後二人が幸福になれば何らかの悔恨が残ったとしてもそれは時が解決してくれる問題でしかない。それは上司の林のエピソードで語られている通りであって、所詮どちらに転んだとしてもその辛さや痛みはその時限りのものでしかない。人生はトレードオフの連続なのだし、最上位の目的があるとすれば、それは「幸福に生きる」と謂う漠然としたものでしかないだろう。
であるから、このシチュエーションにおいて、折角芽生えた正宗の夢を護ることが出来るのはコハルだけなのであって、コハル自身が自分の意志で納得して正宗と別れて暮らすことを選択すると謂う以外の解決はないわけである。コハルが納得出来ないのであれば、或いは単に相手の都合を思い遣ると謂うだけの動機で自分の気持ちを圧し殺すのであれば、そんな犠牲によって実現された正宗の夢にだってそれほど重要な意味があるわけではないのだから、結局はどちらに転んでも違いはない。
板挟みのダブルバインドと謂うのは、違う言い方をすればどちらを選んでも結果に大差はないと謂うことでしかない。肝心なのは、その結果にどんな意味を視るかと謂う問題である。であるから、正宗の夢は正宗とコハルが共に納得して実現を望むのでない限りそんなに大した意味のある事柄ではないのである。所詮は死んだ女が勝手に他者に抱いた思い入れに過ぎないのだから。
この最終回の展開は、正宗が自分の夢の重さを確認する物語であると同時に、その夢が娘のコハルのものでもあることを確認する物語でもある。正宗だけの夢であれば、その夢を実現する為の気持ちの強度を正宗一人が体現する必要があるが、それが亡き陽子の夢でもあり、今目の前にいるコハルの夢でもあることで、三人の気持ちの重みでこの最終的な決定の重みが成立している。
その意味では、やっぱり正宗は一人の男としては何だか頼りないところがあることは事実で(笑)、他者に対する思い遣りで動くことには抵抗がないが、自分の動機の強さで何かをすることにはとことん消極的な人間である。なんで陽子がこう謂う男を好きになったのかはわからないが(笑)、だからこそ陽子は正宗が自分の動機で納得して生きていくことを望んだのだろうし、その意志は娘のコハルにも受け継がれているわけである。
最終回では久しぶりにコハルの心理の動きをじっくり追う描き方で、正宗がコハルの夢を叶える為に写真の道を諦めることを識ってからの、子供らしい内面の葛藤を芝居で見せている。コハルの視点では、自分の夢と正宗の夢を叶える為の一番簡単な解決とは、一緒に暮らすことを諦めれば好いだけであることがわかっている。自分の存在が正宗の負担になっていることもわかっている。
だから、「考える」と言ってもそれほど複雑な問題ではない。自分がそれを諦められるのか、何を諦めないで何を諦めるべきなのか、一番大事なのは何であるのか、それを決めることだけである。このドラマは全体に演出がとても良くて、この一連でもコハルの内心の葛藤がちゃんと視聴者に伝わるのだが、石井萌々果の顔立ちが芝居らしい芝居をせずに黙っていても「ちゃんと何かを考えている顔」に見えるところもポイントだろうと思う。
最終的にコハルは正宗と別れて祖母と暮らすことを選択するのだが、高志がコハルのことを「大人」と表現するのは、難しいことを考えられるからではなく、相手を想うことで共に暮らすことが出来なくなることもあると謂う辛い現実を受け容れる強さがあると謂うことだろう。お別れパーティーの席上でコハルがその決断を語る場面は何度観ても泣けてしまうが、このドラマの情感の作り方はこうでなければならない。
コハルの主人公性と謂うのは、こう謂うふうに彼女自身が抱えるものの重みを描くこととの相対で表現され、それが相手の気持ちを動かす部分にあるわけで、正宗と離れて暮らすことの辛さや寂しさが節度のある描き方で描かれていることで、正宗の夢を救ったコハルの決断の重みが視聴者に感動をもたらす。
正宗と母親の会話を漏れ聞いてからお別れパーティーに至るまでのコハルの沈み込んだ表情がその葛藤を十分に表現していて、この子が本当にいろいろ悩んで考えた末に辛い結論を受け容れたのだと謂うことが伝わってくる。
ニューヨークに旅立つ正宗との別れの場面では、そっとさりげなく陽子のお守りを渡しているが、これは不慣れな異国で独りで頑張る正宗をこそ陽子に護ってもらいたいと謂う願いであることは勿論、それが陽子との関連で描かれていることで、突然急死した陽子のように正宗もまた急にいなくなってしまうのではないかと謂うコハルの不安をも表現していて胸が痛くなる。
走り出すバスを泣きながら追うコハルと謂う描き方も月並みではあるのだが、健気に振る舞ってきたコハルの情感が一瞬だけ表出する表現として、これを観て泣かない奴は人間じゃない(笑)。何も感じない強い子なのではなく、当たり前に感じる辛さや寂しさを乗り越える強さがある子であることが描かれているからこそ、月並みな別れの場面が感動を呼ぶ。
別れの場面から暗転で直結して描かれている再会の場面が安くないのは、別れて暮らした三年の月日の長さを十分想像させるリアリティでコハルの心情が描かれていたからであり、多分独りで何度も寂しさに泣いた夜があったのだろうと想像すると、しみじみとこの満開の桜の下での再会が嬉しいものに感じられる。
そこで語られる言葉は「おかえりなさい」と「ただいま」だけではあるけれど、どんなに遠く離れて暮らしても二人の関係は消えてなくならないのだし、何処であれ父と娘が共に暮らすその場所が「家」である。こう謂うしみじみした嬉しさを感じるエンディングは近頃あまりなかったと思う。
突然の陽子の死と謂う哀しみが結び附けた二人の関係ではあるけれど、正宗はこうしてコハルの許に帰ってきたのだし、この先もずっと二人は父と娘であり続ける。これまで通りの平凡な日常がずっと続いていくのだろうけれど、どんな辛いことがあってもそれはやはり幸福な人生ではあるだろう。
とことん劇的な事件が起こらない物語ではあったが、こう謂う当たり前の幸福を真面目に描くドラマにはやはり好感を持ってしまう。今季はこれとセイラと仁と謂う当たりが三本もあったのだから、かなり豊作なシーズンだったと謂えるだろう。
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