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2010年1月 4日 (月曜日)

死と愛と少女

今年も人並みに正月映画くらい観たいと思ったのだが…つか、具体的に謂うと「ティンカー・ベルと月の石」がとても観たかったのだが(笑)、手許不如意で大人しく寝正月に徹していた。

雰囲気だけでも正月らしくじっくり映画を観ようと思って、随分前にDVDを入手していながらまだ観ていなかった映画を観た。奥田瑛二監督の「少女」「長い散歩」とそれとはガラリと毛色の違う「ウォッチメン」の三本である。

まあ「ウォッチメン」のほうは「こんなもんだろう」と思った通りの内容だったのでとくにコメントはないのだが、奥田瑛二監督作品の二本はそこそこ面白かった。何故そんなものに興味を覚えたのかは言わずもがなだが(笑)、これもまた予想通りと謂えば予想通りの内容であった。

二本の映画は、勿論具体的な状況や人物の設定は違うのだが、内容的にはほぼ同じ構造の物語を繰り返していて、調べてみたら、自分の娘を主演に据えた最新作「風の外側」と謂う作品もどうやら殆ど同一線上の物語らしい。

まあ、四十路になってからいきなり監督業を思い立ったような人材だから、豊富な物語的アイディアを期待するほうが間違っているが、連城三紀彦の原作が附いた監督第一作の「少女」を出発点として、その物語要素の入れ替えや組み合わせによる変奏を繰り返すと謂うやり方は、デビュー作の「川の深さは」の物語構造を様々な形で語り直すことで物語世界を拡大していく福井晴敏の作法に似ている。

そもそも原作附きの「少女」にしてからが、調べた限りでは原作の俤は殆ど残っておらず、印象的なイメージだけ借りた別物と視たほうが妥当だろう。原作との共通点と謂えば、冴えない中年男が喫茶店で中学生の少女から買春を持ち掛けられると謂う発端部くらいで、その後の展開は全然違う話になっている。

原作では、行為の後に眠り込んでいる少女の定期入れから主人公がカネを奪って逃げると謂う連城作品らしい身も蓋もないヒドイ話で、その盗んだカネからミステリ的な事件に発展すると謂う展開なのだが、映画のほうはそこがまったく逆になっていて、中年男が眠り込んでいる間に、少女は受け取ったカネを返して姿を消している。

であるから、主人公が少女を捜す動機は単に「もう一度逢いたい」と謂うもので、原作のように少女を捕まえて謎の真相を明らかにすると謂うものではない。原作は未読なので、この辺くらいまでのことしかわからなかったが、主人公の造形や過去の因縁を含めてほぼまったく別の話だと考えるのが妥当である。

この作品は、今は亡き神代辰巳と組んで映画化する予定だったのが、神代の死によって途絶していたと謂う話なのだが、多分実際に実現した映画には神代はまったくタッチしていないのではないかと思う。

映画のストーリーは奥田の企画になってから煮詰めたものだろうが、「少女に買春を持ち掛けられた中年男が、その少女を捜す」と謂う単純なプロットにいろいろな要素を肉附けしていった結果一本の映画に纏まったと謂う印象で、主人公の造形は「こちら亀有公園前派出所」の両津勘吉に酷似していて、そこに何故か谷崎の「刺青」が混ざって、さらに黒澤の「どですかでん」のイメージまで混入している。

また、劇中で少女・陽子の兄で知的障害者である助政が煙突に登ってすったもんだの騒動を起こすと謂う展開は、月九の「ひとつ屋根の下」のクライマックスを思わせるし、陽子の祖父・昌三の葬儀のシーンは「家族ゲーム」と「生きる」の映画的記憶を組み合わせたものだろう。そう謂う意味では、場面の組み立て方は伊丹十三なんかとも似ているわけで、映画マニアが作った映画…と謂うよりそれそのものである。

こう謂うお話の作り方は作家的と謂うより現場的な作法で、芝居場の生理で話を運んでいるので、一本の映画として物語構成を視た場合、雑多なアリモノを寄せ集めたことによるちぐはぐな感は否めない。一言で言って、文芸的な匂いやその文脈上の才気はあまり感じないわけであるが、ただ、それで成立するのが映画と謂うもので、二時間を超える長尺の映画ではあるが、退屈せずに観ていられた。

難を謂えば、時々映画の語り口には合わない俗に落ちた説明台詞が入る辺り、脚本があまり良くないと感じたが、多分この映画は語られた物語のベクトルを追っていてもそんなに面白い作品ではない。中年男と中学生の少女の真剣な純愛と謂うテーマが刺激的なだけで、筋立て自体は極ありふれている。こうなるだろうな、と思った通りの展開になるし、そこに別段深いものはない。

案に相違したのは、普通なら念入りに拳銃の伏線を仕込んでいるのだから、物語の生理で謂えば最終的に主人公の友川が助政に撃たれると謂う展開でなければならないはずなのだが、友川と助政の葛藤は前述の煙突のくだりで早々に消化され、終盤で和解が成立すると謂う一種「ぬるい」展開になっていて、友川と陽子と助政の三人は最終的には無事に長らえて軽トラに乗り、何処へともなく走り出すと謂う流れになることである。

しかし「おかしいな」と不審に思っていると、ラストカットで暗転してエンドロールに入った瞬間に想い出したように一発の銃声が轟く。これもミステリアスと表現するほどでもなく、中年男と少女の道行きが自由な別天地への希望に満ちた脱出行であるはずなどないのだから、情死のニュアンスを衝撃的なタイミングで入れていると謂うだけであるが、これはこれでアイディアとしては面白かった。

実際には、雑多な要素の寄せ集めでストーリーを練っていくうちに、劇中で助政が友川を射殺して終わるような筋立てにはならなかったと謂うだけだと思うのだが(笑)、話の筋道としては本来そうならなければ終わらない物語であることは間違いない。

であるから、最終的な助政との和解は、友川が「俺はろくでもない人間だから陽子を不幸にするかもしれない。そのときは、おまえが俺を殺せ」と語り掛け、助政が「俺の前でもうあんなこと(妹との情交)はしないと約束してくれ」と条件を附ける形にして、将来的にいつか助政が友川を殺すだろうことを暗示するに留めたのだろう。

しかし、中盤で一度助政を煙突から飛び降りさせてしまっているので、おそらく実際に描かれた物語における助政の人物像では友川を殺せない。友川を殺せない現実的な理由は何もないのに、助政は現実逃避とその末の自殺未遂と謂う選択肢を選んだのだから、少なくともここで描かれた物語では助政は友川を殺せないのである。

多分、本業が俳優である奥田監督はそのことに気附いてしまったから、この物語で殺せなかった友川を助政が殺せるようになるような別の物語が将来的にあって悲劇的結末がもたらされることを暗示すると謂う控えめな選択で帳尻を合わせたのだろう。

本来この物語は二人の死で終わらなければならないと謂う考えは奥田監督にもあったはずなんだが、結局そう謂う話には出来なかったわけである。

たとえば映画のファーストカットで、美術監督の日比野克彦が描き殴った二人の背中に彫られた刺青の比翼連理の鳥の絵が一瞬インサートされるのだが、この時点ではそれが何だか観客にはわからない。例の日比野の破天荒なタッチなので、何を描いた絵なのかすらわからない。物語が終わる頃にはそんなカットを忘れているわけだが、これが二人の背中の刺青なのだとわかると、この絵は刺青を入れた人間の背中の皮を剥ぎ取ったように見える。そうとはわからない段階でも、何だかグロテスクで不吉な絵柄に感じる。

つまり、冒頭から濃厚な死のニュアンスを入れているわけで、刺青師と謂う裏の顔を持つ昌三の表の稼業が葬儀屋で陽子がその手伝いをしていると謂うのも、死のニュアンスを強調する狙いがあるのだろうが、ぶっちゃけこの話の展開では主要人物が誰も死なないような印象が強い。一世一代の傑作を遺した昌三は一種の大往生だし、それ以外だと今時アンパンにラリって死んだチンピラくらいである。

本当なら昌三の葬儀のシーンで、陽子の母であり友川の昔の女である幸枝や、陽子を慰み者にしていた幸枝の夫を友川なり陽子なりが殺すと謂う話になっていたら、この逃避行にも濃厚な死のニュアンスが滲み出ただろうと思うのだが、状況的には別段悲劇的な形になっていないので、この物語自体が二人に死を用意するわけではない。

しかし、第三作目の「長い散歩」を観るとさらにハッキリすることなのだが、奥田監督のイメージでは、この世のしがらみのすべてから解放されて自由に空を飛ぶと謂うことは基本的に死ぬことだと認識されているように思う。

であるから、「長い散歩」の少女・幸は夢を叶えて青空に浮かぶ雲と鳥を視た瞬間、映画内現実では実際に空を飛ぶのだし、それは客観的に視れば崖から転落して死ぬこととして描かれている。それを精神を病んだ妻に先立たれ自身は老境に至って死を目睫の間に控えた老人の松太郎が救う、それが一種の贖罪として意味附けられると謂う具合に、奥田監督のイメージでは空を飛ぶことは死ぬことなのである。

であれば、刺青師の業に憑かれ実の孫の背に彫り物を入れたいと望む昌三に応えて、陽子が友川の背に彫られた雄の比翼の鳥と対になる雌を彫らせたと謂うことは、雌雄一対の比翼の鳥が遂に空を飛べるようになることだと語られているのだから、これはつまり二人の情死を予告するものである。

これは、友川が陽子の母に雌を彫らせていたら「どえりゃーことになっていた」と語られているのだから、幸枝は友川を裏切って彫り物を入れなかったから、厭な中年女として今でも生きているわけである。

それは象徴的なレベルではそう謂う力学になっているのだが、物語性のレベルではそう謂う話になっていないと謂うことで、普通に友川と陽子と助政がこの先も三人で仲良くそれなりに毎日楽しくやっていくんじゃないかと謂う見え方になっている。

劇中で描かれた友川の人物像からして、多分この男はどんなにいい加減な生き方をしていても、陽子を裏切ることだけはないだろうと思えてしまう。或る種、他の監督の作品で奥田が演じているような、信頼してくれる人を平然と裏切るような、とことん性根の腐ったダメな男としては描かれていない。

その種の利己的でダメな人間は二人の周囲に幾らでもいるわけで、この映画のキャッチコピーである「みんな自分のことしか考えてない」と謂う利己的な世界観の中で、そうではない数少ない人間の一人として友川が描かれている以上、大人の利己性に翻弄されて痍附いた少女である陽子にとって、その部分の信頼さえ揺らがなければこの二人の間に悲劇的な展開は起こらないだろうと思えてしまう。結果的には、親子ほど年齢の離れた少女と純粋な愛情に結ばれて幸福に暮らしたいと謂う中年男の性的ファンタジーが描かれているような印象になる。

それが残念なことなのか面白いことなのか、実を言えばよくわからない。この映画のように、映画の肉体性の次元で辛うじて成立しているような映画だと、結局は映像として表現された映画内現実が面白いか面白くないかの問題でしかないわけだが、飛びきり面白いと謂う種類の映画ではないだけに、ハッキリ言えることは少ないだろう。

さて、この種の映画の満足度は主演の「少女」次第ではあるが、今時のご時世で濡れ場をふんだんに盛り込んだ映画に本物の未成年の少女を起用するわけにはいかないのは当然として、調べてみたら主演の小沢まゆは一九八〇年生まれと謂うからこの映画が公開された二〇〇一年には二一歳で、撮影時は二〇歳と謂ったところだろう。つまり、公開から九年経った現在は二九歳であるから、ちょっとびっくりする。

パッと視て中学生と言われてもさほどの違和感はないし、全裸のシーンではたしかに中学生くらいの体つきに見える。顔立ちは「曖・昧・me」の頃の裕木奈江をさらに曖昧にしたような凡庸な面差しで、正直言って映画を一回観ただけだと顔が覚えられない。

この映画に限らず、奥田監督の作品は彼自身の育った愛知県の田舎町の地方性を前面に出していて、この映画でも劇中人物は物語の舞台である愛知県瀬戸市のリアルな方言を喋っているのだが、監督自身が瀬戸市の隣の春日井市の出身で、自ら方言指導も行っている。そのような窮めてリアルな地方性の中で、この小沢まゆの凡庸で曖昧な顔立ちが妙に似つかわしく感じることは事実である。

この作品以前に演技経験は殆どなかった…と言うか、この撮影以後の九年間で殆ど仕事らしい仕事をしていないから、芸能界でのし上がってやろうと謂う野心もないようで、ほぼ素人同然である。従って演技のほうもそれほど視るべきものはなく、言ってみれば素材として扱われているわけだが、奥田監督が狙った演技も、プロの女優の演技ではなく気持ちの入った生々しい演技だろう。その種の演技も映画なら成立するものである。

俳優監督らしく基本的に順録りが奥田監督の作法だそうだが、友川と陽子が初めて出会う場面の小沢まゆの演技は、まあホントに素人を連れてきて台詞を附けたと謂う事実まんまのレベルのものだが、ストーリーの進展に伴ってどんどん気持ちを作っていくやり方は、流石に俳優が監督しているだけに面白いところがある。

これが大林宣彦なら、たとえば宮崎あおいみたいな手垢の附いた人気女優や本物の未成年である志田未来辺りを平然と言葉巧みに騙して連れてきてあっと謂う間に脱がせてしまうところだが(笑)、奥田監督はちょっとした縁で知り合った純朴な熊本の田舎の子を口説いて連れてきたわけだから、監督がどうにか面倒を看てやらない限り本人の自発的な創意で面白い演技が出てくるはずがない。

オーディオコメンタリーで監督と小沢まゆの話を聞くと、この素人同然の素材になんとか気持ちをつくらせる為に監督が悪戦苦闘していろいろな作戦を考えたことが覗えて、なかなか面白かった。端的に言うと女優を苛めるタイプの演出術なのだが、かなり悪辣な計算で気持ちを持っていっていたりするのが、新人監督が一生懸命現場の駆け引きを試行錯誤している様が覗えて面白かった。

濡れ場や裸の撮り方も面白くて、幾ら実年齢が二〇歳の女優を使っているとは言え劇中設定が中学生の少女役なので、あまり露骨にねっとり行為の場面を撮るわけにも行かないだろうから、その前後のシチュエーションに凝ったり、少女的な肉体それ自体のフェティッシュなエロさを強調する撮り方になったのだろうが、逆にそれ故か滲み出るような助平心が画面に顕れていて退屈しなかった(笑)。

基本的にオレは劇映画の濡れ場は流れが停滞して退屈に感じるほうだから、女優をエロく撮っていたり窃視的なエロチシズムを追求した映画は好きだが、濡れ場の多い映画は好きではない。「レッドクリフ」でも、中国の堅苦しい倫理規定の範囲内で無理して濡れ場なんか描かなくても好いのにと思ったくらいだから(笑)、こう謂う方向性のエロは好きである。

冒頭でちょっと言ったように、こっちのほうでも元々この作品に興味を覚えたのはその手の助平心が動機になっているわけだから(笑)、その意味では変な肩すかしを喰らうこともなく長尺の映画を観ただけの満足はあった。

もっと正確に言うと、オレは奥田瑛二が映画を撮っているなんてのはつい最近まで識らなかったのだが、たまたま一昨年「長い散歩」が公開された際に王様のブランチで紹介されたのを見て「ああ、奥田瑛二ってそっち方面の人だったのか」と変な納得の仕方をしたことがきっかけで、一連の監督作品の存在を識った。実際に十代女性の絵画モデルにセクハラをして騒動を起こしたことがあるのだからこっちのほうはほぼ鉄板である。

まあ、「そっち方面の人」と言い切るには「長い散歩」の少女は稚なすぎだが(笑)、そうは言っても主人公の少女・幸は「少女」の陽子の延長上のキャラであり、母親の愛人に性的虐待を受けていると謂う設定なのだから、敢えて友川と陽子の年齢差を老人と幼女と謂う形で誇張することで、主人公たちの間の関係性から性的ニュアンスを排除することを狙ったのだろう。

ただ、「長い散歩」の松太郎と幸の旅もまた一種の逃避行であり婉曲的に描かれた道行きではあるわけだから、象徴的な道行きで終わる「少女」のその後を別の形で描いた連作とも言えるわけで、ご丁寧にこの二人の旅にワタルと謂う心を病んだ道化者の青年が加わり、最終的に「拳銃自殺」を果たすと謂う成り行きで、前述の通りまったく同じ構造の物語になっているわけである。

であれば、松太郎と幸の関係にも恋愛のニュアンスが潜在するわけだが、何分にも寡黙な老人と寡黙な幼女の取り合わせではあり、しかも老人を演じるのがあの緒方拳であるから、表面的にはまったくそんな要素は描かれない。実現した映画は緒方拳の存在感に引っ張られて、いつも通りの緒方拳のヒューマンな人間回復の映画のように見えるのだが、本質的には「少女」と同一構造の許されざる恋の物語なのだと謂うことである。

実際、劇中の世界では松太郎と幸の旅は老人による幼女の連れ去り事件として扱われていて、当然世間的にはこれを変態的な色情絡みの事件と視ているわけである。しかし、映画の主要な叙述は松太郎と幸の側にあるわけであるから、観客はこれを松太郎個人の悔恨を動機とした純粋な贖罪の旅として視ている。

俯瞰で眺めれば、この小旅行はそのどちらでもあるわけで、過去に妻を追い詰めて狂死に至らしめた老人が、虐待される幼女を見過ごしに出来なかった心情までは理解出来るとしても、だからと言って幼女を性的に弄ぶ母親の愛人を暴力で昏倒させてまで彼女を連れ出して自らの想い出の地に連れて行くと謂うのは、やっぱり普通に考えて常軌を逸した行動である。

緒方拳の演技は、それを飽くまで松太郎個人の内面の葛藤の問題と理解した上での組み立てになっているが、多分それはそれで好いんだと思うし、主演に緒方拳を連れてきた狙いもそこにあるんだろうと思う。

しかし、普通にこの物語を読み解けば、母親からはネグレクトや虐待を受け、その愛人からは性的な慰み物にされる惨めな少女を見捨てておけず、犯罪であると識りながらその地獄から連れ出してしまう老人の行動の動機は、おそらく普通は一種の恋情でなければならないはずである。「可哀相は惚れたと謂うことよ」と謂うフレーズがあるが、その辛さを見捨てておけないと謂う気持ちは恋愛感情に最も近い感情である。

つまり、「長い散歩」と謂う映画は、本質的に「少女」の連続上にある同じ構造の物語なのだが、それを普遍的な人間回復の物語として描いているわけである。その仄めかしとまで言うのは強すぎるが、松太郎が幸を最初に見掛けるシーンを、アパートの寂びた階段から脚をぶらぶらさせると謂う「レオン」の本歌取りで演出していて、要するにこの映画は平凡な爺さんと幼女によって演じられる「レオン」のような物語なんだ、と明かしているようにオレは見た。

実際、幸の救出を決意した松太郎は、老い朽ちた肉体に鞭打ってランニングに励んだり竹を切り出して竹刀を作ったり素振りに打ち込んだりするわけで、ここは犯罪計画のパロディ(と謂うか本当に犯罪計画の下準備なんだが)になっていて、「レオン」が意識されていることは確実だろうと思う。ただし、主演に緒方拳を持ってくる以上は、絶対に「レオン」のようなニュアンスの物語にはならないわけで、普通の観客は緒方拳の演じる人物が幼女に真面目な恋心を抱くなんて絶対に信じない。

緒方拳の演技がそのようなものである以上、幸が松太郎に対してどのような感情を抱いているのかと謂うのも表面的には見えにくくなっているし、幸の自分に対する想いがどうであるかに松太郎はさほどの関心を持っていないように見える。

大事なのは自分の行為が幸にどのような影響を及ぼすかであって、幸を疵付ける現実から彼女を救い出したいと願う自分が彼女を疵付けるわけには行かないと謂う倫理観の問題として演じられていて、幸が自分をどう思っていようがそれはあまり変わらないように見える。贖罪と謂うのは、自身が自身に課した義務であり責任なのだから、相手がそれをどう思おうが基本的にそれは大きな問題ではないのである。

そして、幸のほうは、演者も役柄上の人物もあまりに稚なすぎて、もしも松太郎に対して好意を抱いていたとしても、それは決して恋愛感情と近似のものには見えない。何処まで行っても、このキャスティングと人物設定では老人と幼女のアモラルでスリリングな恋愛関係と謂うニュアンスなど出て来ようはずがないのである。

だから、本質的には「レオン」のような物語なのに、そうではないように基本線を離れながら描いていくと謂う選択肢しかないわけで、表面的にはさほど面白い映画ではないが、そう謂う屈折した捻れを抱えた映画として視るとけっこう面白い。

そう謂う次第で、或る意味では非常に映画らしい映画だったこともあり、二本ともなかなか楽しめる映画ではあった。ただ、やっぱりこの題材で二時間強と謂う尺は長いだろうと思う(笑)。「少女」なんてオールラッシュが三時間くらいになったのを切っていったそうだが、それでも一三二分は興行的な観点で謂って長い。

オレは個人的に楽しめたし、DVDで観たからそんなに長いとは感じなかったが、これを劇場で観たらやっぱり長いと思うだろう。まあプロットが単純でも映像の肉体性や内実次第と謂うところはあるが、幾分劇的な「少女」はギリギリこんなものかと思わないでもなかったが、もっと静謐な基調の「長い散歩」は、折角アモラルな出発点から一般向けの普遍的な性格に振った映画なんだから、もう少し短いほうが好かったかと思わないでもない。

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