素晴らしいことが起ころうとしている
…と言ったのはスターチャイルドに進化したボウマン船長だが、たしか蓋を開けてみたらそんなに素晴らしいことでもなかったような気がする(笑)。あんまり昔観た映画なので殆ど記憶らしい記憶がないんだが…と謂うか、更めて調べてみるまで「さよならジュピター」と記憶がまぜこぜになっていた。
二〇〇一年にも似たようなことを思ったが、実際の二〇一〇年はあんまり素晴らしいことが起ころうとしているようにも思えない。ただ、一九八四年の正月にちょっと安心したことは事実である。そうやって昔の「未来」は「現在」になり「過去」になっていくのだなぁ、なんてことを思ったり思わなかったり。
最近旬なのは二〇一二年らしいが、二〇〇九年の段階で二〇一二年の予言ってのは、世の中サイクルが早くなっているんだねぇ。
そんなことをぼんやり思いながら、年末年始はボーッとTVを観たり録画を編集して灼いたりしていたのだが、今年は紅白と謂う気分でもなかったので、しつこいようだがオレに一言の相談もなく海老様なんかと婚約しやがった小林麻央目当てでアンビリバボーの特番なんか観て、そのまんま流れでキャンパスナイトフジを観ると謂う具合に、ずっとだらだらCXを観ていた。だらだら視聴に最も向いている局である。
まあ、大晦日の勝負どころの番組が民放各局すべて生放送と謂うのはレコ大や紅白が圧倒的に強かった大昔からの慣例だが、なんか年跨ぎの番組も年が明けてからの番組もやたらに生放送ばかりで、芸人と局アナばかり出ていると謂うのがどうもお台所事情が透けて見えて世知辛い。キャンパスナイトフジに至っては、ほぼ素人に毛の生えたような冴えないお姉ちゃんの集団が主役だもんなぁ。
いや、別段そう謂う番組が嫌いだと謂うわけではないが、おカネが掛からない人ばっかり暮れ正月関係なく忙しく働かされているんだなぁとか思ったら、しみじみしょっぱい気分になったわけである(笑)。
EPGでざっと民放各局の番組を眺めると、どうやら景気が良かった頃のような「新春大型企画!」みたいな番組はまったくなくて、安上がりな生放送の番組を三時間とか四時間とか果ては八時間とか長々とだらだら流すスタイルが一般的のようである。
正月らしい華やかさと謂うのはTVを観ていてもちっとも伝わってこないのだが、今年の冬は各地でかなり雪が降ったようだから、実家に帰省して雪に埋もれて年末年始を過ごしているような人なら季節感を感じるのかもしれない。
子供の頃の年末年始の原風景と謂えば、レコ大や紅白を観てから深夜の雪道を踏みしめながら旦那寺に行って除夜の鐘を衝き、年が明けたら雑煮や焼き餅を喰って、晴れれば近所の畑地で凧揚げをしたり、雪が止まねば雪達磨やかまくらを作ったり雪合戦に明け暮れて、夜になれば新春かくし芸大会を観ると謂うスタイルだったが、そんな正月ではなくなってからすでに三〇年くらい経っている。
ちょうど今TVでは「新春かくし芸大会」を放映しているが、やっと安い生放送ではない番組になったと思ったら、今年でこの吉例も最後だそうな。今年で四七回目と謂うことだからオレが物心ついたときからずっと回数を重ねてきたと謂うことだが、今年はほぼ過去映像の総集編みたいな内容で胡麻化すらしい。尺も三時間しかないと謂うのが全盛の往事に比べて何とも寂しい限りである。
そんな感じで、ちょっとしみじみと寂寥感を覚える正月であるが、生まれ落ちてからもうそろそろ半世紀に近附いたと謂うことで、おそらくオレが生まれついた世界とは完全に違う世界になりかけていると謂うことだろう。
そう謂えばご挨拶が後先だったが、あけましておめでとうございます。今年も格別のこともなくいつも通りに生きていくので、今後ともよろしくお願いしますと謂うことで。
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コメント
うっかりして新年のご挨拶を申し上げておりませず、大変失礼致しました。
新年おめでとうございます。
2010年などというよく分からない年になってしまいましたが、新しい年を迎えることはやはりめでたいことなのだと存じます(しみじみ)。
健康に留意して、言いたい事を言って、ぜひぜひ楽しい年に致しましょう(海老様の結婚式とか、どんな記事が出るのか今から期待しております、わくわく)。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
投稿: 604 | 2010年1月 6日 (水曜日) 午前 01時56分
>604 さん
いや、こちらも今年は積極的な挨拶廻りは遠慮しておりますので、その辺はお気になさらずに。
更めて、あけましておめでとうございます。
>>2010年などというよく分からない年になってしまいましたが、新しい年を迎えることはやはりめでたいことなのだと存じます(しみじみ)。
正月がなんで目出度いかと謂うと、昔はすべての日本人が正月になると一つ年を取ったからですね。
数え年で考えると、生まれた時点で一歳、正月を迎えると二歳ですから、大晦日に生まれた子供は元日には二歳になったわけで(笑)、まあ生まれた月日によってはそんなちぐはぐもありつつ、元日から大晦日までの一年間を過ごして新たな正月を迎えるとみんな一歳年を取りました。
元日から大晦日までの一年間と謂う外在的な時間が、一歳の肉体年齢と謂う内在的な時間と同一視されていたわけですから、新しい年の幕開けは今で謂う誕生日みたいなものだったわけですね。なので、みんなでそれを祝い合ったわけです。
一休宗純が杖の頭に髑髏を乗せて「ご用心、ご用心」と触れて廻ったり「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」と詠んだのは、正月と謂うのは要するに国民全体の誕生日だったからで、単なる「一年の始まり」と謂うだけの意味ではなかったから厭味な風狂として成立したわけですね。
これまでのエントリで散々語った通り、昔は今とは比べものにならないくらい死が身近なものだったわけですから、せめて無事に正月を迎えて一つ年を取ったことを言祝ぐことで新たな一年の安全と健康を呪術的に確保したいと謂う人情があったわけですが、変人の坊さんが「そんなことをして胡麻化したってどうもならんぞ」とそれをぶちこわしにして廻ったわけですから、つくづく厭味な話ですね(笑)。
また、一年の区切りや節目と謂うのは一種の時間的な仕切り直しの契機と謂う意味もありますね。あんまり塩梅の良くない流れが続くと、それがいつまでもダラダラ続くのだと考えるとやりきれませんから、一年と謂う区切りで仕切り直して気分を変えるわけです。「今年こそは良い年になりますように」と謂うわけですね。
大概そんな便利に一年の区切りで流れが変わったりしないもんですが(笑)、気持ちや意識が仕切り直されると大分違います。まあ、本当のことを謂えば、一念発起するくらいならいつだって出来るわけなんですが(笑)、正月には過ぎ去った一年を「過去」として祓い流してしまえるわけです。
個人的には、旧年中は厭なことがたくさんありましたから、それを過去として祓い流してしまえば大分気分が楽になります。まあ、少なくとも二〇〇九年はもう二度と繰り返されることはありませんからね(笑)。
投稿: 黒猫亭 | 2010年1月 6日 (水曜日) 午前 11時51分