あらきけいすけさんに答える
年末に書いた「人間を信じなくてどうするか」と謂うエントリに対しては、過分なご注目を戴いたようで、当ブログに附いたはてなブックマーク数としては該エントリがトップになった。些かこれまで書いたことの繰り返しめいたところもあるエントリであるから、さほど反響はないだろうと思っていたので大変有り難く感じた。
戴いたブコメの中で、あらきけいすけさんと仰る方がわざわざ「「自然崇拝」と括弧書きにすべき(100文字越えたのでここに)」とエントリを上げてご意見を下さっていて、参考にさせて戴いた次第であるが、直接反論すべき性格のご意見ではないと感じた。
ただ、ブコメの一〇〇字を超える労力を割いてご意見を下さったわけであるから、こちらもエントリを上げて説明をさせて戴くのが相応かな、と感じたので、反論と謂うわけでもないが少し説明させて戴くことにした。
あらきさんのご指摘は大体以下の三点である。
a・まず瑣末なつっこみですが、このコンテクストでは「自然崇拝」と括弧書きして、本物の自然崇拝(アニミズムとかボクの住む岡山だと吉備津神社の鳴釜神事とか)と区別すべきでしょう。
b・ですが「人間を信じていない」というまとめ方はちょっと雑駁かもしれません。
c・議論を進化論の文脈に埋め込むというのも大風呂敷かなという気がします。
また、「コンテクスト次第でどうとでも取れる文言でまとめるのは相手に伝わらない可能性があると思います。」と謂う全体的なご指摘もあった。
オレが世間が狭い人間なので、失礼ながらあらきさんのことはかねて存じ上げなかったのだが、ブログのカテゴリを拝見すると、数学やプログラミング関係の項目が並んでいるし、岡山理科大学の準教授と謂う肩書きなので「数学か情報処理系の学者の方かな」と推察するのであるが、そう謂う規範で視るならこう謂うご意見も出るのだろうな、とは思う。
aのご指摘と謂うのは、つまり、一般名詞を特定の文脈上で特定の意味合いにおいて異化して使うのであれば、それが自明なように引用符を附すなりして記号的に処理すべきだろうと謂うご指摘と受け取った。「コンテクスト次第で〜」と謂うご意見もおおむねタームの用い方に関するご指摘だろうと思うのだが、おそらくあらきさんのような考え方をする読み手に対してはそのほうが親切なのだろうとは思う。
これはまあ、理屈としては筋が通っている。
一応冒頭で「極端な自然崇拝の一種」と謂うふうに規定して、以下はその文脈でこの用語を用いますよ、と謂うコンテクストを用意しているつもりであるが、これは約款とか公式文書なんかと似たような規則性であって、「自動車等(普通乗用車と原動機附き二輪車を含む。以下同)」と謂うような感覚である。ただ、これが不親切だと謂う指摘自体は在り得るだろうと思う。
一般名詞に固有の意味附けを施す際には引用符で括って一般的な用法とは区別する、と謂うのは、おそらく学者のターム観としては一般的なものだろう。ただ、それは意味を特定する力は強いがその規則性が通じる範囲は意外と狭い。つまり、タームを記号的に異化すると謂う慣習は、一般的にはそれほど共有されている規則性ではない。
身も蓋もない言い方をするなら、言葉で説明しようが文脈によって特定しようが括弧でくくろうが、誤解する人は誤解する。どれだけ手間を掛けても、読み飛ばす人は読み飛ばすものである。だからと謂って、正確に伝える努力を放棄したのではブログで意見発信している意味がないのだが(笑)、個人的には厳密な規則性が広汎な層に対して正確な読み解きのコードとして働くことは、あまり期待出来ないと考えている。
寧ろ広汎に伝わるのは、人間一般が超越的に共有しているコンテクスト依存の部分ではないかと考えている。つまり、たとえば「一般名詞に固有の意味附けを施す際には引用符で括って一般的な用法とは区別する」と謂う規則性が学者の間で通用するとしても、それは学者でない読み手の立場としては「そんなモン、いつ誰が決めたんだ」と言ってしまえばオシマイだと謂うことである。
実際、一般的なレベルの文章の読み書きにおいてはそんなルールは決まっていないのだから、それが通じると期待するほうが間違いだと言われても仕方がない。そう謂う規則性は、飽くまで学問上の文書の書式として通じるのであって、そうでない場においては恣意的な「今この場限りの決め事」と謂う以上の意味は持たない。
そうすると、「この文章ではこの言葉はこう謂う意味で使っていますよ」とまず言葉で説明するのと引用符で括って異化するのとでは、一般的な読み解きのレベルにおいてはどちらがわかりやすいかの問題にしかならない。で、これはどう謂う読者層を想定するかとか、経験則的にどちらがより伝わりやすいと考えるかで、どちらをとっても大差はないと考える。
勿論、この場合はどちらも同時に採用可能なので、言葉で説明して尚かつ引用符で括れば、より確実性は増すかもしれない。しかし、実際問題として文中で頻出する中心的なテーマとなるタームすべてに引用符を附すと、端的に謂って煩瑣い。
また、ご覧の通り黒猫亭固有の文章作法として、鉤括弧は引用(想定される架空の引用を含む)それ自体の意味合いとしてかなり頻繁に使用しているのであるから、頻出するタームにまで引用符を附すと文章が括弧だらけになってしまう。
では「’’(クォーテーション)」や「””(ダブルクォーテーション)」を使えばどうかと謂うと、これは一応文章を書く商売からの経験則であるが、ほぼ同一の意味合いの記号を都合によって何種類も使い分けても、その使い分けの規則性はまず読み手に伝わらないし、見た目が煩瑣くなるだけだと考えている。で、見た目の煩瑣さと謂うのはリーダビリティに直結するので、当ブログのような長文主体のブログでは、見た目の煩瑣さは極力避けたほうが得である(笑)。
つまり、あらきさんのご指摘に従うことで特定のメリットが生じることは事実だろうと思うが、それと同時に特定のデメリットも生じると謂うことである。そして、何と何をトレードオフするのかと謂う選択は主に書き手が判断することであり、テクストを書く動機や目的性、到達範囲の設定にも関係してくる事柄だと謂うことである。
次に、bのご指摘であるが、あらきさんは以下のような理由を挙げておられる。
というのも、黒猫亭さんのこの文脈では「人間」は「社会的営為」を指していますが、「人間」という言い方をすると免疫機構のような人間に備わっている身体の機能を指すととれる場合もありますから、母乳育児一辺倒も「人間の自然的能力を信じている」という意味で「人間を信じている」行為でもあります。
これは数学的な発想だなぁと思うのだが、つまりオレの書いた文章では「人間」と謂うタームには「社会的営為」と謂う意味性が特定されているけれど、「人間に備わっている身体の機能」と謂う別種の意味性を排除していないから、原理的な可能性としては後者の意味に誤読されるおそれがある、と謂うご指摘である。
しかし、一般的なレベルの文章で、想定し得る別の意味性を排除しつつ特定の意味性を一義的に特定すると謂うのは、まず無理。数式にそれが可能なのは、ガチガチに定義された厳密な書式の記号的な体系と謂う学問的システムに支持されているからであり、そのコードが厳密に共有される学問のコンテクストが存在するからであって、不特定多数向けの文章でそれをやろうとしても、物凄く読みにくい文章になった上に極狭い範囲にしか通じないので、簡単に言うと割に合わない。
実際のところ、オレ自身も可能な限り「こう謂うふうに考えることも出来るがこれこれの理由でそれは妥当ではない」「こう書いたからと謂ってこれこれこう謂う意味では決してない」と謂うふうに誤読の筋道を先回りして潰しておく書き方をするほうではあるが、全部はやっぱり無理。最低限都合の悪い誤読を回避して無駄な遣り取りを省くと謂う積極的な目的性に基づいて補足しているわけであって、規則的に意味性を一義的に特定しそれ以外の解釈を排除する為に補足しているわけではない。
さらに、それが七諄いとか読むのが面倒だとかそんなもんはコメントの遣り取りで補足すればいいだろう、と謂うご指摘も度々戴いているので、そこは合目的性とのバランスの問題になってくるわけである。
わざと隙だらけの書き方をして対話や議論を誘うテクニックを使うブロガーもいるくらいであるが(笑)、ウチの場合はかなり文脈や理路を絞り込んだデリケートな議論を狙っているので、関心のない脇道を潰しておく意味で予め或る程度まで読み解きを特定する書き方をしていると謂うだけの都合である。
実践的な観点では、書き手が「こう謂う意味ですよ」と規定したら読み手もそう謂う意味として取ってくれると謂う相互信頼を想定し、そう取ってくれない読み手には伝わらないものだと割り切るしかない。それ以上となると、たとえば砂漠地帯の住居の設計で長雨を想定した装備を追加するようなオーバースペックになる。
それが「天が落ちてきたときの備え」にエスカレートするかどうかと謂うのは程度問題である。やって出来ないことはないのかもしれないが、限られたリソースを割く場合にコストパフォーマンスが悪いと謂うことである。
もしもこの文章をあらきさんがそのように誤読されたと謂うのであれば、直接対話で更めて説明を補足して意味性を特定して合意を探れば好いことだと思うし、その対話がこの文章に関心を持つ読み手に参照可能な形にしておけば、補足説明として過不足なく機能するだろうと考える。
ブログと謂うのはそのような相互的なコミュニケーションツールであるし、或る種ガチガチの意味性を特定し誤読を排除するように時間を掛けて文章を練り込むことよりも、とにかく書き進めることを重視すべきツールだとオレは考えている。ブログのエントリはそれ単体で完結する意味構造ではなく、それに附随する対話との総体で考えるべきテクスト群だとオレは考えているのであるから、要するにあらきさんとオレのブログ観や文章観の違いと謂うことだろうと思う。
で、実際にはあらきさんもこちらの意図を誤読されることなく読み解いておられるわけであるから、少なくともこちらの文章設計においては所期の目的は達していることになるわけで、「こう謂うふうに誤解する人がいる可能性が原理的に排除出来ない」と謂うご指摘については、「どちらが伝わるのか」「どのようなターゲットに伝えたいのか」「その為にどの程度のリソースを割くのか」「それが客観的にどの程度の効果があると秤量可能なのか」と謂う問題になるわけであるから、こう謂うテクニカルなことを書かせて戴いているわけである。
最後にcのご指摘であるが、これはbの補足としてパーレンで括っておられるからそれほど強い意味で仰っているわけではないと思う。
ただ、ここは少し異論があって、そもそもオレが問題にしている「自然崇拝」(あらきさんへのお答えなのでご指摘に従う)と謂うものそれ自体が本質的に「大風呂敷」な思想である。つまるところ「自然崇拝」とは「文明否定」と表裏一体のものであるから、これを本質に肉薄して批判するなら、どうしても文明の意義を跡付けると謂う大仕掛けな論にならざるを得ないだろうとオレは考えている。
何故「自然崇拝」が「文明否定」と表裏一体なのかと謂えば、文明を全否定しないとすれば、間違った思想と正しい思想があって、「自然崇拝」の思想は正しい思想なのだと謂う話になるが、歴史の中で妥当性を担保されている自然科学の規範では、それらの思想はすでに妥当性を否定され一切顧みられていないからである。
その上でそれらの思想が自身の正しさを主張するなら、それを誤っていると断じた既存の自然科学の規範それ自体の意義を否定する必要があり、それが引いては自然科学の発達に繋がる人類文明の歴史それ自体の意義を否定することになるからである。
これは窮めて姑息な胡麻化しで、つまり、「自然崇拝」の思想は、人為によって自然を支配し技術によって万物の法則性を応用する現代の科学技術を、倨傲や不自然の故に批判しておきながら、それよりも正しいとする自身の思想もまた、決着するところ「人為によって自然を支配し技術によって万物の法則性を応用」しようとしていると謂う矛盾を胡麻化しているわけである。
これは要するに、一旦土俵から降りてから「自分のほうが強いんだ」と声高に嘯いているようなもので、同じ土俵上で相対化して考えれば、間違っている分だけそれらの思想のほうに分がないと謂う自明な事実を、「土俵から降りる」と謂う姑息な手続で韜晦しているわけである。
何度も繰り返したが、マクロビやホメオパシーのような自然科学の反古証文の何処が天然自然なんだと謂う話で、これらは単に、歴史的に淘汰された理論であるに過ぎないわけで、紛れもなく天然自然を制御しようと謂う意図に基づく人為である。
また、文中で問題にしたマクロビ園長の思想の何処が一番問題かと謂えば、「人間のスタンダードな身体機能」と謂う概念を想定しそれが遍く誰にでも公平に具わっていて、それが現代の科学技術によってスポイルされているだけだ、と考えている部分にある。
その思想が何故間違っているかと謂えば、では何故生得的な障害や遺伝病を持つ人や体質が虚弱な人が存在するのかとか何故人間がこんなに増えたのかとか、そう謂うふうに少し周りを見渡せば簡単に気附くような当たり前の事柄と自分の思想の不整合を思考停止して無視しているからである。
この園長の考え方では、それは何かの間違いだったり現代社会がもたらした不自然な技術的成果物の悪影響であったりと謂うことになるが、普通に考えれば、だったら近代以前はもっと素晴らしい世の中でなければならない。障害者も遺伝病者も体質が虚弱な人も存在せず誰もが健康で長生きしていなければならない。
しかし、事実はまったく逆である。近代以前は生き延びることすら出来なかったはずの障害者や遺伝病者は或る程度まで救済されているし、人間の寿命も人口も増加の一途を辿っている。数値に表しにくい健康もまた、近代以前の人間に比べれば現代人は遙かに健康で快適な生を楽しんでいる。
だとすれば、「自然崇拝」の思想は、誰でも小学校で習うような大まかな人類の歴史との不整合すら無視して顧みないわけで、やっぱりその辺の本質的な問題性を剔抉する場合は、人類史の観点で不整合を指摘すると謂う大仕掛けな論になるわけである。
ブコメでkumicit さんが仰っているように、存在しない虚構上の過去に楽園幻想を視るのは大昔からの人間の習い性で、たとえば失楽園と謂うのは結局「何もせずに天意に任せておけば幸福だった人間が、自身の責任で何事かを為そうとしたから今現在われわれはこんなに苦労しているのだ」と謂う寓意である。また、現在われわれが普通に使っている「黄金時代」と謂う言葉も、実は遙か古代の人々がさらに遙か古代に存在したと想像する幸福な時代(と謂う虚構)をそう呼んでいたわけである。
これはつまり、人類史のどの時点で切り取っても、すでにその時点で人間は神から見放されて自力で何とか生き延びる努力をしていたからで、それは歴史上のどの「今現在」においても神が身近に顕現しない(少なくとも、神に選ばれた「幸福な」少数者以外には)以上、そう考えるのが一種古代人的には合理的な筋道だからだろう。
仮に神と謂う超越者の実在を想定するなら、「多分大昔に何かのきっかけで人間は神様から離れてしまったんだし、昔はもっと幸福だったのに、ご先祖様が神意に背いたお陰で今われわれはこんなに苦労しているんだなぁ」と考えれば、人間の生がこんなに辛いことに合理的な理由附けが可能だったからだろう。
それはまた、「大昔にご先祖様が神様を怒らせてしまった以上、俺たちはもう自力で何とか生きていかないといかんのだなぁ」と考える根拠になるわけで、古代人にとってはやはりこれも合理的な結論である。
砂漠の神は「怒れる神」「妬む神」と謂うことになっているが、そうとでも考えない限り、なんでこんなに理由もなくヒドイ目に遭わされるのか筋道が立たない(笑)。怒りや妬みと謂う一種理不尽な感情的動機を想定しないことには、人間の生がこんなに不条理に辛くて過酷なことに理由附けが出来ないわけである。
しかし、われわれはもう古代人ではないのだし、何もせずに天意に任せておけば今よりもっとヒドイ目に遭っていただろうことを相当な確度で推測可能である。観念的な文明の意義なんてのは人それぞれの価値観だが、少なくとも文明が存在しなかったら人間の生が今よりもっと辛く過酷なものであっただろうことを識らされてしまった。
であるから、オレが注意を喚起したいのは、文明の意義を云々する以上、文明によって生かされている人々の存在や文明によってもたらされたちっぽけな幸福が必ず天秤の片一方に乗っているんだと謂うことを忘れてくれるなよ、と謂う話なのである。
文明を否定した上で想定し得る生の意義とは、それこそ野生動物のような過酷な生存競争を肯定し、環境に適応出来なかったり運が悪かった個体は生き延びられず、死ぬべき者はどうしようもなく死ぬのだ、と謂う冷厳な事実を受け容れた上で語られるのでなければ、ただの虫の好い戯れ言なのだし、それが恰も現代社会よりも快適な楽園であるかのように語るのは、許し難い詐術でもある。
黄金時代も失楽園も存在しないのだし、人間の生が辛く過酷なのは神に背いたからではないし、神様が怒りん坊だったりジェラスガイだからではない。「天然自然」と謂うのはなべて生が辛くて過酷だと謂うことであり、死がもっとカジュアルでありふれたものであると謂うことで、そんなことはたとえばCSで「アニマルプラネット」とか「ディスカバリーチャンネル」を観ていればわかることである。
「自然崇拝」と謂うのは、筋道上そのように辛く過酷な生とありふれた死を肯定するところから始まるべきなのだし、古代インド人が生老病死の四苦と呼んだ辛いことだらけで楽しいことなんか殆どない厳しい現実を肯定するところから始まらねばならない。
とてもじゃないが、梅干しさえ喰ってりゃ風邪引かないとか、毒に慣れておけば毒に中たっても誰も死なないとか、八方円満で大満足みたいな寝惚けた戯れ言には附き合うだけの意味なんかないと謂う話である。これはつまり、梅干し喰ってて風邪引かないような人や、毒に中たっても死なないような人は、結果的に生き延びる確率が高いし、そうでない人はつまんないことでも簡単に死ぬと謂うだけのことを言っているのである。
この辺の話は、大風呂敷と言われようが何だろうが何度でも繰り返しておきたいこの問題の本質的な問題点であるとオレは考える。
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コメント
>>それが恰も現代社会よりも快適な楽園であるかのように語るのは、許し難い詐術でもある。
またご指摘を受けると学習能力がないと思われそうなので(笑)、念の為に説明を補足しておくと、この場合の主語は勿論「現代人」である。古代人は言うに及ばず近代以前の人々がそのように考えたこと(つまり近代以前の人々にとっての「今現在」と謂う時制において、と謂う意味だが)には、そう考えるだけの理由があったのである。
投稿: 黒猫亭 | 2010年1月11日 (月曜日) 午前 05時43分
だれに届けようとしている文章なのか、と云う軸を置くと、場合によっては文章のリーチと著述の正確さのあいだにはトレードオフが生じてしまうんですよねぇ(ぼくの場合、文章力と云うキャップの下でこのふたつがいつもせめぎあっています。なので割り切りが必要になる)。
投稿: pooh | 2010年1月13日 (水曜日) 午前 07時36分
>poohさん
すいません、珍しく(笑)時間がとれなかったのでお返事が遅れました。
>>だれに届けようとしている文章なのか、と云う軸を置くと、場合によっては文章のリーチと著述の正確さのあいだにはトレードオフが生じてしまうんですよねぇ
「正確さ」と謂うのは、やはり発信する側と受信する側の間で厳密なコードが共有されていない限りそれほど期待出来ないものですよね。自然科学の利点と謂うのは、この共有されるコードの厳密性を可能な限りブラッシュアップし、しかもそれを「正確さ」それ自体を担保する仕組みとして確立した部分にあると思います。
ただ、受発信の双方が厳密なコードを共有することで言説の正確さを担保するのであれば、超越的に共有されるコンテクストを信頼しないと謂うことですから、そのコードを共有していない人々にとってはまったく意味を持たないと謂うことにもなりかねないわけで、ニセ科学と謂うのはそこに附け込んだ隙間商売と謂う側面もあると思います。
言説の曖昧さを排除して正確な伝達を追求すればするほど、厳密に定式化された記述のルールが必要になってくるわけで、学問の世界ではそれがきっちりと決まっているのですが、それが共有されている共同体の外に一歩出れば、まったく通じない方言に過ぎなくなります。
ざっくり謂えば、やっぱり正確さと広汎な伝達は相補的な関係にあって、出来る限り多くの人々に伝えようとすれば、正確さを犠牲にせざるを得ない部分が出てきます。このような「出来る限り多くの人々に伝わること」を重視して、正確さや妥当性を殆ど顧みることがないのがニセ科学言説なんですから、やっぱりニセ科学批判の言説には圧倒的なハンティがありますね。
投稿: 黒猫亭 | 2010年1月16日 (土曜日) 午後 01時38分