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2010年1月24日 (日曜日)

「陰謀」って何だらう

今回はタイトル通り陰謀論をちょっと考えてみようと謂う話なのだが、おそらく人間の一般的な思考形態においては、陰謀論的思考と謂うのはニセ科学よりもタチが悪くて厄介な代物であると謂うのがオレの認識である。

たとえば今回こう謂うことを考えようと思ったのは、小沢一郎VS地検特捜部の対立構図の陰に陰謀を視ようとする人々がやっぱり少なからず存在するからだが、陰謀論の批判が難しいのは、或るレベルの陰謀は高確率で遍在するからである。

まず、例によって「陰謀」の辞書的定義を確認してみよう。YAHOO!辞書の大辞林では以下のように説明されている。

[1]ひそかに計画する、よくないくわだて。

[2]〔専門〕 法 二人以上の者の間で、共同で犯罪を行おうという合意が成立すること。犯罪の実行に着手する以前の段階であるが、内乱・外患・私戦などの罪についてのみ処罰される。

ご覧の通り、この定義に則れば、複数の人間が関わる営為にはどんな事柄でも陰謀が存在し得ることになる。二番目の法的定義はかなり限定された意味合いで、スパイ行為とかクーデターとかテロなんかの文脈の用語であるが、一般語としての「陰謀」と謂うのは、大掛かりな事業の陰に非倫理的な秘密の計画や脱法的乃至超法規的な画策があると謂うニュアンスで語られることが多いだろう。

で、普通に考えてみれば、大掛かりな事業の陰に非倫理的な秘密の計画や画策が存在する確率はかなり高い。前段で「或るレベルの陰謀」と但し書きしたのはそう謂う意味であって、大きなカネの絡む事業に秘密の裏事情があったり表向きの看板とは違う欲得ずくの裏の目的や脱法的な画策があるのは、まあ概ね普通のことと言っても間違いではないし、それは「陰謀」と表現することが可能である。

ただ、社会問題の文脈で「陰謀論」と謂う場合はもっと特殊な妄説を指すわけで、現在陰謀論の観点で代表的なものとしてはアポロと9・11が両横綱格であるが、小沢一郎の件に近いものとしては植草一秀の国策逮捕説なんてのも一種の陰謀論と謂えるかもしれない。

以前FSM さんのところでちょっと陰謀論の議論になりかけたのだが、その契機は政治を巡る議論だったわけで、たしか二大政党制を巡る財界の思惑のような話だったかと記憶している。

ここで註釈しておくと、当然政治に対する財界の関与は「在る」のだし、欲得ずくの思惑も秘密の計画も脱法的乃至超法規的な画策も「在る」わけで、そんなことは更めて議論するまでもなく当たり前の話である。

政界と財界の間には歴然と意思疎通が存在するのだし、その詳細な実態は非公開であるのだから「秘密」と表現可能である。そしてその場合、財界から政界への要望の動機が欲得ずくなのは当たり前だし、その欲得ずくの働き掛けには公開されていない計画性があることも当然だし、財界人の欲望が社会全体の利益に反する場合は幾らでも想定可能なのだから、これを「よくないくわだて」と表現することは可能である。つまり、これは辞書的な定義では立派な「陰謀」である。

であるから、たとえばFSM さんが仰るような「二大政党制は財界人の悲願」と謂うような言い分は、別段個人の政治的観測としては何処もおかしくないことになり、政財界の真意についての個人的見解が必ず「陰謀」の存在を前提としたものになるのは当然のことである。

しかし、オレはそのご意見に「所謂陰謀論」的な性格を感じたわけであるが、それは何故かと謂うのは当然の疑問だろう。

前述の通り、政財界の思惑についての観測が在るレベルの「陰謀」の存在を前提にすることは何処もおかしくないのだから、たとえばアポロや9・11が問題視されるような意味での「所謂陰謀論」と同種の印象は何処から発生するのか。事実無根で荒唐無稽な妄説であることが「所謂陰謀論」の条件なのかと謂えば、多分本質はそこにあるのではないとオレは考える。

勿論、アポロや9・11、MJ12だのロズウェル事件だのと謂うのは十分に荒唐無稽な妄説であるが、国策逮捕なんてのはかなり地味だし荒唐無稽でもない。そう謂うことがあっても別段不思議ではないにも関わらず、おそらくこれも一種の「所謂陰謀論」としての性格を具えているように感じる。

では、「所謂陰謀論」と謂う印象はどのような要件によって発生するのかと謂えば、それはおそらく一種の社会観の問題ではないかと思う。たとえば、冷戦下の世界状況において陰謀や謀略の存在を憶測するのはそれほど荒唐無稽な考え方ではなかったわけで、就中ソビエト連邦や中華人民共和国のような強力な一党独裁体制の国家において国家権力絡みの謀略や陰謀が存在するのは、理屈から言って当たり前の話だったわけである。

旧共産主義国家において、自由主義陣営の観点で視れば人民にとって「よくない」蛮行が夥しく行われたことは誰も否定出来ないし、それは自由主義陣営の国家群に対してはもとより自国の人民に対しても秘密の計画やくわだてに基づいて行われたことは誰も否定出来ないのだから、ほんの四半世紀前までは国家的で大掛かりな陰謀や謀略は当たり前に実在するものだったわけである。

であるから、陰謀論が批判に値する社会問題となったのは冷戦後の時代性によるものではないかと思うのだが、陰謀論的な憶測が十分な根拠のない妄説であること自体は時代性とは無関係に一貫している。

そもそも陰謀や謀略が当たり前に跋扈していたような時代性においても、十分なエビデンスと確度を以て論証可能な陰謀なんてのはそもそも「陰謀」では在り得ないし、陰謀の実在を論証するにはその陰謀が完遂されねばならない。しかし、陰謀と謂うのは未然に阻止されるべきものなのであって、完遂された後に「歴史的事実」として論証されることなど実際的にはどうでも好いことなのである。

たとえば、内部のリークによって中途で頓挫した「陰謀」は「所謂陰謀論」を惹起しないのであり、単なる「歴史的事実」となる。それは現行の陰謀が内部証言によって頓挫した瞬間に、外部からの憶測によって暴かれるべき必要性を喪うからである。頓挫した陰謀が「所謂陰謀論」を惹起するとすれば、それが「別の現行の陰謀の一部」であるとの観測が成立した場合のみであり、この場合は憶測によって暴かれるべき必要性が喪失されていないと謂うことになる。

たとえば、大分下火になったとは言え9・11の陰謀論が根強く語られているのは、過去の不正義が現在進行中の不正義の根拠となり得るからで、9・11テロの自作自演説は現在進行中のアメリカの不正義な戦争それ自体の正当性の主張を完膚無きまでに否定可能な根拠となるから今なお信奉する者があるわけである。

また、たとえばロズウェル事件だのMJ12だのと謂うのは、いつまで経っても現れない宇宙人に対する不満の八つ当たりみたいなものである(笑)。国家どころか世界規模の密約によって隠蔽されているのだとすれば、今に至るも宇宙人がわれわれの目の前に現れないことに対する理由附けが可能になる。

つまり陰謀や謀略を巡る憶測と謂うのは、必然的に論証可能な根拠を欠くのが当然なのであるから、陰謀を語る言説は必ず根拠のない妄説になる。そして、ここが難しいところなのであるが、人間の行う大掛かりな事業には高確率で陰謀が実在するし、その陰謀はわれわれと密接な利害関係によって関連していることが多いわけである。

これまでの記述を整理して謂えば、現行の陰謀を巡る言説が必ず事実無根の憶測なのは所与の前提であるが、陰謀はそれが現行のものであるうちに暴かれねばならないと謂う合目的性との二律背反が成立するわけである。

陰謀論と謂うのは、この複雑なジレンマによって生起する風説であって、それを問題視するに足るスパンの時制においては原理的に論証不能でありながら、自身の利害と密接な関係を持つ秘密裡の計画が高確率で実在し、さらにそれに対して多くの場合一般人は関知も関与も一切不能であると謂う大きな不安状況に対処する為に、一般大衆は陰謀論と謂う無根拠な風説の流布で対処するわけである。

たとえば国策捜査説なんてのは、多くの場合「真実」を謳い文句にしていながら、字義通りの意味での真実の探求とは異なる動機に基づいて語られるものだと言えるだろう。

乱暴な言い方をすれば、事件の真相が国策捜査に基づく不当逮捕であろうが何の裏もない普通の犯罪事件であろうがどうでも好いわけで、「不当逮捕だったらこれは由々しい権力の暴走だ」と謂う仮定を事実視して、それを原理的に行い得る立場の相手を糾弾することそれ自体が目的だと考えられるだろう。

諄いようだが、国家権力が周到に計画した国策捜査や国策逮捕が一般大衆レベルの情報収集力で論証可能なはずがない。それを声高に叫ぶ人々は「その憶測で或る程度整合的な絵が描ける」と謂う個人的印象を根拠にしてそれを主張しているわけであるから、事実性のレベルでは事実無根の妄説と表現可能である。

つまり、「所謂陰謀論」と謂うのは「仮に陰謀が実在した場合にそれは暴かれ糾弾される必要があるから」語られる言説なのであって、それが真実であるか否かとはあまり関係がない言説である。

「所謂陰謀論」を語る人々にとって「真実」の意味とは、何が客観的に最も妥当と考え得るのかと謂う観点の概念ではなく、「もしもそれが事実だったらどうするんだ」と謂う未然の可能性に対する不安からの解放なのだと考える。つまり、これらの人々にとっての「真実」とは「陰謀が暴かれ不安が除かれた」と謂う強い納得である。

個々の論者が信奉する「真実」、つまり「所謂陰謀論」問題の観点では「事実無根の妄説」の持つ意味とは、或る種の想像力がもたらす不安からの解放だろうと謂うのがオレの「暫定的な結論」である。であるから、陰謀論は人間の想像力によって描くことが可能な図と地の数だけ存在する。

これと原理的に近いのは、たとえば「人麻呂の暗号」系のトンデモ暗号説で、既存の限定されたテクストから意味あるキーワードを抽出可能な規則性は幾らでも案出可能であるが、それはテクストの原著者がそのようなメッセージの発信を意図していたことの証明にはなり得ない。既存の材料から或る程度整合的な図と地を描き出すのは人間の想像力に与えられた力であって、真実にアプローチする為の有力なツールでは在り得ても、それ自体は客観的な意味における「真実」を証明する根拠とはなり得ないのである。

勿論、陰謀の存在の可能性に対処する理性的かつ冷静な姿勢とは、十分な確度を以て論証不能な事柄に対しては判断を留保すると謂う姿勢であり、灰色は灰色のままに受け止めると謂う姿勢であることは論を俟たない。それが十分に科学的な態度でもあるわけである。

しかしそれは、現在只今もわれわれに不利益をもたらし続ける(と想像可能な)陰謀の存在に対しては無力な姿勢でもあって、アメリカの不正義な戦争は一刻も早く停止されるべきだと考える人々にとっては、9・11が擬装テロであるとする想定が事実であるか否かなどどうでも好いことであって、擬装テロである9・11テロ事件を口実として行われているアメリカの不正義な戦争を許せないと感じる気持ちを納得させてくれるのは、それが事実である場合だけであるから陰謀論を語るわけである。

この場合、信奉者に対して強力な不安を与えるのは彼ら自身の想像力であって、その不安が宥められる為には、その無根拠な想像が客観的事実として認定され、「暴かれた陰謀」として広く認知されるしかない。

そして、ここが肝心なところだが、9・11が擬装テロでなかったとする根拠を求めるならそれは「悪魔の証明」になるわけで、「ないこと」は誰にも証明出来ない。これをもっと踏み込んで謂えば、たとえば9・11が自作自演の擬装テロである可能性は、極論すればEM菌が波動転写によって万能の効果を及ぼす可能性よりも桁違いに高い。

たとえば「EM菌をアレしてコレしたら物凄い効果がありました」なんて主張を論破することは科学者なら簡単だろうし、それに信頼可能な計測データが得られたとしても、物凄く高い確率でその「波動云々の仮説自体」が間違っていることを証明することは可能である。これと比較すれば、たとえばブッシュが「9・11は俺が計画した自作自演だったんだよ〜ん」と告白して整合したストーリーを語った場合、それが事実でないと判断する根拠はそれほど存在しない。

要するに、一回性の事象の真偽は関係者が真実を告白するか否かに真偽判定の大きな要件があるわけで、一見矛盾して見えることでも幾らでも整合的に語るストーリーが構築可能であり、その真偽判定は無矛盾で整合するストーリーが客観的に信頼し得る証言として得られるか否か、それを支持する状況証拠がどの程度存在するかにかかっている

勿論、個々の自作自演論者の主張の矛盾点を指摘し、個々の自作自演説を論破することは可能だが、それよりももっと反論困難で無矛盾な仮説を構築することは原理的には可能であるから、本質的な問題点とは、事実認定の方法論においてその仮説にはエビデンスが存在しないし、エビデンスの存在しない美しく整合する仮説を構築することは原理的に幾らでも可能だと謂う論点に収斂する。

つまり、陰謀論者は証明責任を回避している、無根拠な憶測に反論する側に証明責任を求めている、と謂う部分が本質的な論点なのであって、個々の仮説の出来の良し悪しはそれほど本質的な問題点ではない。物凄く出来の良い美しい仮説が脆くも反証されて消え去った実例など、自然科学の歴史上には腐るほど存在する。

まして、歴史的事実のように一回性の強い事象に対して、限定された既定事実のすべてを無矛盾で説明可能な仮説など、自然科学の分野で一つの原理原則を見出すことに比べれば圧倒的に容易である。ただ、この前提で幾ら美しい仮説を構築可能でも、それがエビデンスによって実証されなければ「良く出来たお話」でしかない。この「良く出来たお話」に反論するのであれば、それが間違っていることを証明せよ、これが陰謀論者が常に陥る間違いである。

これをまさに「悪魔の証明」であるが故に批判することは簡単だが、それは「所謂陰謀論」を生起させる心的根拠とは噛み合っていないわけで、客観的に妥当だと考え得るのはどのような事柄であるかと謂うことに一切興味も関心もない相手に対して科学的な事実認定の方法論で反論しても議論が噛み合うはずはない。

であれば、或る事象に対する観測について「所謂陰謀論」と謂う印象が何によって生起するのかと謂う問題に対する答えもそこにある。それは、原理的に憶測でしか在り得ない観測について、それに相応な強度を超えて抱かれる確信こそが「所謂陰謀論」の要件であって、その前提で謂うなら「所謂陰謀論」は個人の観測レベルでは幾らでも存在する「見込み」の一種だと謂うことになる。

問題なのは、その「見込み」が客観的に論証される前に第三者に対して事実性を主張する「行為」や、その「見込み」を根拠とする意見を主張する「行為」であって、その意味で陰謀論を批判することは非常にデリケートで複雑な試みとなる。整理して謂えば、「所謂陰謀論」の問題点は、「事実かもしれないが事実であると考える根拠が殆ど存在しない事柄を事実として扱う態度」だと謂うことになる。

前段で挙げた陰謀論の例は、「事実ではない」と断定可能な根拠が存在しない代わりにそれが「事実である」と断定する根拠も存在しないし、常識的に考えれば「事実ではない」と考えるほうが最も妥当であるような憶測だと謂うことになる。

さて、これまでは「陰謀は実在する」と謂う前提の論考を語ってきたわけだが、今度は一転して「陰謀は実在しない」と謂う前提の論考に移ろうと思う。

つまり、原則論の範疇では「陰謀」と謂うものは「実在する」わけだが、具体論のレベルでは、たとえば9・11やアポロのレベルの「陰謀」は「実在の余地がない」と謂うレイヤーの論考である。

これは要するにkikulogなどで論じられている陰謀論関連の具体的議論のレベルの問題を考えると謂うことだが、これらの大掛かりな陰謀論に通底する問題点とは、「そのレベルの大掛かりな事業は、現代の時代性においては『秘密裏の計画』としては成立し得ない」と謂う部分である。

別の言い方をすれば、それは陰謀論の具体的リアリティの問題である。前段で冷戦下の時代性と現代のそれの違いと謂う要素を挙げたが、多くの人々が関与する大掛かりな事業が「陰謀」として成立可能な為には、多くの人々の相異なる利害を単独の目的性の下に圧倒的な力で調整し、加えてその秘密が漏洩しないように強力な圧力で情報を統制する必要があるが、これはナチスドイツや旧ソ連のような一党独裁体制の恐怖政治の下でなければ為し得ない。

旧ソ連と対立する「自由主義」陣営の旗手であるアメリカでも或る程度の陰謀が横行したのは、このような強力な仮想敵との対決姿勢を前提とした軍事機密や国家機密の名分が存在したからだが、ソ連の崩壊と謂う形で冷戦が終結した以上、アメリカのような国家体制で共産主義国家のそれに匹敵するほどの恐怖主義的な国家権力の強力な圧力は存在し得ないだろう。

たとえば「テロとの戦い」が「共産主義との戦い」に代わる名分となり得るのかと謂えば、それは冷戦下の終末感を無視した見方である。「今度戦争が起こればそれは終末戦争だ」と謂う時代性を無視して冷戦下の陰謀を考えても意味はない。国家的陰謀に荷担した人々は、それが全面核戦争よりもよっぽどマシな外交手段だと考えたから秘密のくわだてに加わり秘密を守ったわけで、テロの脅威はそこまでの名分とはなり得ない。

まして、テロとの戦いの手段として自国民に対してテロを演じるなど沙汰の限りの矛盾であり、大規模に加担者を募ること自体が実際的には不可能だろう。

つまり、今現在の時代性においては、大掛かりな事業を陰謀として実行可能な状況にある国家は殆ど存在しない。それが確実に実行出来るのは、服従を拒んだり秘密を漏らしたりしたら逮捕投獄出来るとか秘密裏に殺害出来るとか、手っ取り早く人間を強制し口を塞ぐことが出来るような社会状況が成立している場合のみである。

これは、別の言い方をすれば、冷戦終結以来の社会システムは巨大な国家的陰謀が実行しにくい仕様へと改良が進んだと謂う言い方が可能だろう。であるから、今時七〇年代同様の恣意的想像力に基づいた陰謀論を語ることには、昔ほどの社会的な意味はないと謂うことになる。

で、これは翻ってオレがFSM さんのご意見に「所謂陰謀論」的な性格を感じた理由の説明にもなるだろう。これは今の段階で「後知恵」として説明するのがわかりやすいと思うのだが、二大政党制への転換が財界の意向であることが問題になるとしたら、それは政治が財界の思惑によって意のままに壟断されていると謂う意味合いにおけるものになるだろう。さらにそれは、現在のような状況に陥ることを政権与党時代の主要な自民党議員が受け容れたと謂う意味になる。

二大政党制と謂うことはつまり、政権が交代する度に少なからぬ議員がバッヂを喪うと謂うことで、中にはいろいろな事情で再起の芽を摘まれる議員も存在すると謂うことである。そんなことに個々の政治家レベルで合意が得られるわけがない。基本的に個々の政治家は自身が政治家であり続けることを至上命題としているわけで、その至上命題が脅かされる事態に納得する政治家なんてのは殆ど存在しないだろう。

つまり、財界の思惑がどうあれ、二大政党制は多くの自民党議員と鋭く利害が対立していたわけで、この強力な利害対立を調整する主体は誰なのか、そんな状況において財界の専横を糾弾する個々の議員の声を圧殺する巨大な圧力は何処にあるのか、その強大な支配力の源泉は奈辺にあるのか、と謂う問題がある。多くの割合で反撥する関係者が多いだろうくわだてを徹底した秘密裏に実行可能だと考えることは、前述のように「所謂陰謀論」と通底した論法である。

普通に考えれば、そんなにたくさん反撥する勢力が存在するなら、逆に秘密のリークとして告発があるはずだし、それ以前に死活問題の激しい政争があるはずだが、ついぞそんな話は聞いたことがない。それをも圧殺可能なほどの強力な圧力とは、要するに殺害まで含めた国家的暴力の強制を想定するしかなくなるわけであるが、流石にそれは「所謂陰謀論」そのものだろう。

穏当な解釈として残されているのは、単に二大政党制にはメリットもデメリットもあるが、たまたま財界人にとってはメリットがある、と謂うだけの話になる。財界人にとってメリットがあるから二大政党制には問題がある、と謂う論法はかなり飛躍があるわけで、悪い奴に都合の好いものは悪いと謂う論法は、普通は誰も納得しない。

今更後知恵でこんなことを蒸し返すのも恐縮なのだが、この論考は、たとえば冒頭で少し触れた小沢一郎VS地検特捜部の対立とも関係してくるわけで、わかりやすい考え方は「この一件は小沢を陥れる為の対抗勢力の陰謀だ」と謂うものだろうが、多分正確に謂えばそうではないと謂うのがオレの意見である。

つまり、現時点で小沢の政治資金問題が追及されているのは、それが好都合だと考える異なる利害を抱える人々の思惑がたまたま現時点で一致したから実現した、と謂うことだろうと考えている。それは端的に謂って「陰謀」ではない。

地検特捜部はかなり以前から小沢の政治資金の流れを告発する機会を窺っていたが、それがこのタイミングで道具立てが整ったと謂うだけの話だろう。であるから、それを一種の政争と視ることも限定的には正しいだろうが、そう謂う単純なストーリーとしてのみこの事態を視ることは多くの誤りを含んでいると謂うことである。

たとえば小沢の資金ルートについて有力なカードを握っていた関係者が、このタイミングでそれを切っただけ、と謂う場合、その関係者がこの一件全体の主語となり得るかと謂えばそうではあるまい。また、今のタイミングで小沢の犯罪を暴くことは事実自民党に対して有利に運ぶ可能性はあるし、倒閣に結び附く可能性もあるが、それはイコール政敵の倒閣工作で捜査が行われたと謂う解釈に直結するわけではない。

地検特捜部の側にも、小沢が政権与党の代表職にあるタイミングで告発したほうが政権からの独立性をアピール出来て効果的だと謂う政治的色気もあるかもしれないが、もっと好適なタイミングは過去にもあったのかもしれない。要するに地検特捜部だって白馬の騎士ではなく、裏にドロドロした個別の思惑や都合があると謂うことで、これを単純な陰謀論のストーリーで視るのは誤りだろう。

であるから、この一件を説明する場合、「それが好都合だと考える異なる利害を抱える人々の思惑がたまたま現時点で一致したから実現した」と謂う以上の言明は出来ないわけである。或る種の陰謀としてこれを視ることは、部分から全体を視て意味附けると謂う誤りを犯していることになる。

或る強力な黒幕がいて、それが描いた筋書き通りに事が運んでいるわけではなく、たまたまこのタイミングで一致した複数の思惑の下に予測不能な形でダイナミックに事態が動いているだけであって、裏の事情を勘案すれば勿論その中で主要な働きをした特定の人物はいるだろうが、それを結果論で陰謀論的な文脈における「黒幕」と表現することは正確ではないと謂うことである。

最後の最後に附け加えるべき「所謂陰謀論」の要件とは、このように「或る特定の人物の描いた特定の筋書き通りに事態が運んだ」と視る世界観のことであろう。普通に考えれば、複数の人間が関与する事態が特定人物の筋書き通りに自在に動かされることなど殆どないわけで、動き続ける事態の中でどの程度自身の思惑を介在させるか、どのようにして自身の利益を誘導するか、それが社会活動のダイナミズムと謂うものである。

或る特定の「黒幕」と「陰謀」を関連附ける考え方とは、このような社会活動のダイナミズムを無視して単純な一系統の指令・服従関係を想定するものである。つまり、社会的リアリティに関する感受性が窮めて単純だと謂うことである。

で、「所謂陰謀論」レベルで論じられる大規模な人為と謂うのは、すべてこのように夥しい人々がそれぞれ個別の利害と都合でコミットしているわけで、たとえば政治問題を論じることが難しいのは、何も政策や政局が難解だからではなく、上は閣僚から下は員数合わせの木っ端議員に至るまで、さらには官僚やら政治にぶら下がる各団体やらさまざまな社会的勢力の一人ひとりに至るまで、それぞれの人々が個別の利害と都合で動いていて、その複雑なダイナミズムの総合として事態の推移が決定されるからである。

これを代表的且つ支配的な力を持つ少数の人物名に一極化して整理することはわかりやすいが、そもそもがダイナミックな複雑系である大規模な人為を単純化して理解することは甚だしく正確性を犠牲にするわけで、その正確性を極限まで削ぎ落とした単純化の一方の極地に「所謂陰謀論」的思考法がある。最早「所謂陰謀論」には一片の正確性すら残されていないわけで、世界を単純化し理解しやすくすると謂う思考法が極限まで窮まれば、それは畢竟するところ「事実無根の妄説」となる。

ただし、人間が複雑な事象を単純化して理解することそれ自体は、人間の基本的な世界認識の手法である。その際に或る程度正確性が犠牲になるのはやむを得ないことではあるのだし、大概の人々は不正確な要約された認識に基づいて世界を視ている。

その単純化の認識手法がほんのちょっとした「確信」の匙加減で「事実無根の妄説」に結び附く辺りが「所謂陰謀論」問題の難しいところで、われわれが単純化して視ている世界像が十分に妥当なものであるかどうかなど誰にも保証は出来ない。

その認識が「正確ではない」と謂う批判は、妥当な意見ではあるが届かせる力は持たないのだろうと思う。それが「正確ではない」ことはそれこそ所与の前提なのであって、問題なのはそのような個々の「正確ではない」世界認識が「妥当な世界の見方」と謂えるかどうかである。

個々の陰謀論者は、それが妥当であると「確信」しているわけで、その「確信」を突き崩すには、正確性の欠如を指摘するだけでは足りない。「正確ではないが妥当な世界の見方」を模索する過程で、ほんのちょっとした匙加減で踏み込んでしまった「事実無根の妄説」の迂路から如何にして妥当性を回復するのか、と謂うのは非常に難しい問題である。

無責任なオチで恐縮だが、ホントにねぇ、どうしたらいいんだろう?

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コメント

こんにちは。

会社員時代に稟議を通す時にあれやこれや画策したり根回ししたのは、してみると「陰謀」でしょうか?
政府、製薬会社、フリーメーソン(その他色々)の「陰謀論」に嵌る人は世の中には自分が知らないだけでウマい話があると信じている気がしますね。そう謂う方は怪しい金儲け話にも嵌りやすいと思いますので、お気をつけになった方が宜しいです。

小沢さんが「検察と闘う」と発言した後で、自民党の人が「小沢さんの暴走は検察の暴走どころではない」と発言していたのにツボりました。
「何だ自民党の人も検察が暴走している」と思ってんじゃん、てね(笑)。

ところで検索フレーズランキングの「雨宮塔子 Tバック姿」て何です?

投稿: うさぎ林檎 | 2010年1月25日 (月曜日) 午後 04時14分

>うさぎ林檎さん

>>会社員時代に稟議を通す時にあれやこれや画策したり根回ししたのは、してみると「陰謀」でしょうか?

そうなってしまいますねぇ(笑)。「ひそかに計画する、よくないくわだて」と謂うのは何にでも必ず附随しますから。「ひそかに計画する」「くわだて」が「よくない」ことかどうかは、結果論だったり視点の問題だったりしますから、相対的で曖昧な基準にすぎません。

「稟議を通す」と謂うレベルの社会活動でも、広く識られないように内々に計画を進行させると謂うのは、社会活動における基本的なアクションなので、陰謀と謂うのは何処にでも遍在することになります。

たとえばこれが「ライバルを蹴落とす為に裏で画策する」と謂うのなら「陰謀」と呼んでもそんなに的外れじゃないように感じますし、たとえば専務派が社長派を陥れて造反するなんて話なら、小さいレベルでも「陰謀」呼ばわりされるように思います。

ただ、この「ひそかに」と謂うニュアンスが特定の相手ではなく広く世間一般と謂う意味であればどうかと謂うと、その行為の社会との接点が問題になるわけですが、社会一般にまったく影響のない社会活動と謂うのも考えにくいですから、限定された範囲内では要件を満たしてしまうわけです。で、特定組織の内部の現場そのままが組織外にありのままの形で識られてしまう事態と謂うのは普通はないですから、組織内部で陰謀と表現し得るような行為は、やっぱり世間的にも「秘密の計画」なんですね。

>>政府、製薬会社、フリーメーソン(その他色々)の「陰謀論」に嵌る人は世の中には自分が知らないだけでウマい話があると信じている気がしますね。

仰る通り、本文で語ったことの繰り返しですが、「所謂陰謀論」と謂うのは「識り得ないけれど確実に存在するであろう自分に対して不利な秘密のくわだて」に対する被害妄想の性格を持っていますから、「美味しい話から自分だけは疎外されている」と謂う形の被害妄想も当然在り得るでしょうね。

>>「何だ自民党の人も検察が暴走している」と思ってんじゃん

小沢一郎の肩を持つ気は毛頭ないですが、そもそもこの一件を政争のステージに上げたのは検察サイドですからねぇ。粛々と地道な捜査で外堀を埋めて王手を掛けると謂う手法だったら文句の附けようがないですが、相手が古狸の小沢だと謂うことで相当奇策を用いていますから、政治家と同じ土俵で戦っているように思いますね。

>>ところで検索フレーズランキングの「雨宮塔子 Tバック姿」て何です?

ウチはそれほど検索からのアクセスがないですから、時々変な検索フレーズが出てきますが気にしないでください(笑)。と謂うか「雨宮塔子 Tバック姿」とか「松尾翠 パンチラ」みたいな検索フレーズが常時表示されていますが、それにはそれなりの理由があるので深く突っ込まないで戴ければ(笑)。

たってご興味がおありとあらば、この記事を読んでください(笑)。

http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2009/09/post-cc45.html

投稿: 黒猫亭 | 2010年1月26日 (火曜日) 午前 07時49分

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⇒「陰謀」って何だらう: 黒猫亭日乗 「陰謀論」について考察した力作。長文なので、今のところざっと読んだだけだけれど、良記事の予感。是非読んでほしい。 ところで、俺は前にこんな記事を書いた。 ⇒陰謀論的史料批判 - 国家鮟鱇 世界史については詳しくないので省くけ... [続きを読む]

受信: 2010年1月24日 (日曜日) 午後 11時31分

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