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2010年2月13日 (土曜日)

A skeleton in the closet

すでに先週末のことになるが、予定通りピーター・ジャクソンの「ラブリーボーン」を観に行った。すぐにレビューを書こうかとも思ったのだが、翌日余勢を駆って一人カラオケで七時間熱唱してしまったので、相撲取りの話を書いたら時間切れになってしまったと謂う次第である(笑)。

事前にリサーチしてみると、世評が剰り芳しくないうえに、興行的にも不入りで打ち切りが相次いでいると謂うこともあって、多分そんなに面白くないんだろうな、とは思っていたが、実際観てみるとたしかに凡作と評されても仕方のない出来である。

作品全体の尺は一三五分だが、例によって一〇分前後は長い長いエンドクレジットの分であるから(笑)、正味は二時間強である。ただ、このプロットで二時間超はやはり長すぎる。とにかく、メインイベントであるスージーの殺害に至るまでの尺が、映画と謂う時間的芸術としての表現形態を考えると、あり得ないくらい長い。

これを「長い」と感じると謂うことは、この作品を観に行く観客なら誰でも主人公の少女が連続殺人鬼に無惨に殺害されるのだと謂う予備知識を持っているわけだが、その前提で考えた場合、殺害と謂うイベントに至るまでの布石としてそれまでの映像が期待や恐れを掻き立てる効果的な描き方や組み立てになっていないと謂うことだろうと思う。

冒頭一〇分くらいの、スージー・サーモンとサーモン一家の来し方を本人の一人称で語るくだりは、割合長いタイムスパンの家族史をテンポ好く見せていて好感が持てるのだが、全体を見終えてから考えると、この家族史を長々と語るくだりがそんなに効いていないように感じた。

たしかにスージーが殺害される以前の描写は、その後の展開上語っておくべき要素ではあると考えられるのだが、メインの主題である家族の崩壊と再生を語る語り口が何だか面白くないから、全体にダラダラした映画のように感じるのである。

以前「キングコング」を採り上げたエントリで絶賛したような緊密なシナリオの練り込みや徹底した映像の経済性は、まあ当然ではあるのだが殆ど視られない。消化試合のような気の抜けた印象を覚える作品である。

勿論この作品は、メインビジュアルである「生と死の中間の地」を描くWETAの技術力のショーケースと謂う性格もあるのではあるが、どうも肝心のお話のほうが弱いのでそればかりが際立って見える。

徹頭徹尾ダメな映画なら「ああ、ダメな映画に当たったんだな」と思えば済む話ではあるのだが(笑)、細かく視ていくといろいろ周到な仕込みが見えるのに、「で、それがどうしたの?」と謂う印象にしかならないのがどうにも歯痒く感じるのである。

たとえばこの映画のファーストショットはペンギンのスノードームであるが、球形のガラスに閉じ込められたペンギンの姿を視て「寂しそう」と感じるスージーに対して父親のジャックが「あの中で彼は満たされていて幸せなんだ」と語る、この対話が冒頭に据えられているのは、勿論スノードームを中間の地に、ペンギンをスージーに擬えているわけであるが、このスノードームは後半でそれほど重要に扱われているわけではない。

これはこの場面限りの象徴性であって、それが物語の展開上効いてくると謂う扱い方ではないのである。このスノードームをはじめ、この作品では「何かに囲い込まれた小空間」が象徴的な要素として登場していて、たとえばジャックの趣味のボトルシップもその一つであるが、その最も明確な表現としては「家」が挙げられる。

この映画ではサーモン家と殺人鬼のハーヴィの家が執拗に映し出され、さらにジャックがボトルシップ作りを趣味とするように、ハーヴィもドールハウス作りを趣味としていて、スージーの殺害もトウモロコシ畑の地下に作った「秘密基地」と謂う「ママゴトの家」の中で行われ、妹のリンジーを狙う計画も鴨撃ちシャックを用意して待ち伏せしようと謂う、どんな状況を想定しているんだか普通思い附かないものだったらしい(笑)。

他にも、たとえばハーヴィの家に訪れた刑事のレンとの対話で、ドールハウスの近くに放り出してあったスージーの遺品の腕輪を巡るヒチコック張りのサスペンス描写があって、ハーヴィがこの局面を切り抜けた後で腕輪を投げ捨てる際、家の形のチャームだけを外して手許に残しておくと謂う描写がある。

また、実現しなかったスージーとレイの初デートの場所は、ショッピングモール内のグリーンハウスと謂う四阿、つまり「家を模した小空間」だし、物語のクライマックスとなるリンジーとハーヴィの対決の決着も、リンジーがハーヴィの家から脱出してサーモン家の家に逃げ込むことでゲームオーバーとなる。

意を決したスージーが「中間の地」でハーヴィの素性を探るくだりも、視覚的表現としてはスージーが「中間の地」に再現されたハーヴィの家を探索すると謂う形で表現されていて、つまり、この映画の象徴的ビジュアルとして「家」が個人や集団の内面を表現する要素として重要性を持っていることはわかるのだが、「じゃあ、それがどうしたんだ」と考えると意味らしい意味が描かれていない。

要するに、象徴的な説明要素と謂う以上の意味がない扱いになっているのがどうにも気抜けした印象を与えるわけである。

たとえば、初々しい初恋の舞台として予定されていたのが地元ショッピングモールの四阿だと謂うのは、二人の関係のママゴトっぽい愛らしさ(ハーヴィの「秘密基地」とはまた別種のあどけない幼児性)やペンシルヴェニアの地方都市の地域性を表現する描写として適切だし、ハーヴィの「家」観がドールハウスや腕輪のチャーム、地下の「秘密基地」や鴨撃ちシャックと謂うふうに、何処かいびつで家族や愛する人との温かい人間関係の要素が欠落した虚ろで虚構的な性格のものであることは、叙述要素としては理解出来るのだが、それはそう謂う映像的な説明と謂う以上の意味性は感じなかった。

映画における映像的象徴表現と謂うのは、相互に有機的な運動性を伴って絡み合いそれ自体が言語を超越した視覚的な物語を語り出すところに映像文芸としての官能があるのであって、言語に置換可能な象徴表現と謂うのはそれほど面白いものではない。

別のレイヤーの問題としては、まあオレ個人の感覚と物語の世界律の相性が合わないと謂うこともあるだろうと思う。そもそもオレは、死後の世界やスピリチュアルな題材を扱った作品とは肌が合わない部分があって、それはたとえばオレがコミットしているニセ科学批判の文脈の問題ではなく、もっと文芸的な観点の問題である。

つまり、この作品の世界律において、「中間の地」がどのようなロジックによって成立している世界であるのか、その世界と此岸の世界がどのようなロジックによって関係しているのか、これが一本の映画内で十全に説明され限定されていないことが話の構造の緩さとして見えてしまうのである。

勿論、映画だろうが小説だろうが、虚構であると断っている物語において虚構の世界原理が扱われていることに何か文句があるはずがない。超能力だの死霊の祟りだの超科学だのと謂った要素も、「虚構の物語ですよ」と断って語る分には何処も批判されるべき理由はないのである。

しかし、この映画では「中間の地」においてどのような世界律が働いているのか直観的に理解可能な描写はないし、「中間の地」にいるスージーに此岸の世界がどう見えていてどの程度干渉可能なのか具体的に把握出来るような描き方にはなっていない。

そこは映画的な「位置関係のゴマカシの手法」である切り返しで処理されていて、映像同士を切り返しで繋げば映画的な文法では対面的な位置関係にあると謂う記号になるのであるから、第三者的視点において飛躍した位置関係にある二者を語りの観点で強引に直結して描くことが出来る。この手法では、甲が乙をどのような状況において視ているのかと謂う客観的な位置関係を示さなくても映像としての二者関係の場が成立してしまうのだが、それは客観的叙述の観点で謂えば所詮はゴマカシである。

本来スージーが「中間の地」において此岸の出来事を視ているのであれば、「『中間の地』において此岸を視ているスージー」を第三者的立場にあるわれわれ観客は視ることが可能なはずであるが、この映画では、此岸の出来事をスージーがどう見ているのかと謂う客観描写はない。ここは「映画的な位置関係のゴマカシの手法」をまさにゴマカシの目的の故に扱っているわけである。

そして、生と死の狭間にあるはずの「中間の地」において、何故生者であるハーヴィの過去の犯罪の履歴が参照可能なのかと謂うロジックも語られていない。

厳密に謂えば、「中間の地」におけるハーヴィの家が象徴している犯罪履歴は、彼に殺害された少女たちの死に至る物語であるはずだが、見え方としては「中間の地」においてはそこに在る者が望めば何でも出来るように見えてしまう。

虚構の物語の設定において一番つまらないのは「何でもアリ」の恣意性だと謂うことは何度も語ってきたことだが、「何でもアリ」を回避する為には、所与の前提としてその世界律において何が出来て何が出来ないかが具体的に限定されていなければならない。

この物語を面白くないと感じる大きな理由として、「中間の地」に在るスージーが此岸で生きている生者に対して何が出来て何が出来ないのか、映画を観ていてもサッパリわからないと謂うことが挙げられる。

たとえば、スージーを喪って荒れるジャックに「中間の地」からスージーが語り掛けてその声がジャックに通じると謂う場面があるが、これが具体的にどの程度の感応であるのかが映画を観ていてもわからない。

スージーの語りでは「私がここにいてみんなの近くにいると謂うことを父は識った」と謂うふうに説明しているが、それが具体的に「中間の地」にスージーがいて家族のことを見守っていることをジャックが識ったと謂う意味であるとはとれないし、かと謂って現実の世界に生きるジャックにとって彼岸からの娘の声が「空耳」以上のものに感じられるとも思えない。

未だ心の中で整理の附かない死者の声をまざまざと耳にすると謂うことは、この物語のような彼岸の存在を想定しなくても日常生活で幾らでもあることだが、この物語ではそれが物語内現実として本当に彼岸の世界からの死者の語り掛けであると謂う意味附けがあるわけで、本当ならこの場面で何がどの程度伝わってそれによってジャックの意識にどのような変化があったのかと謂うのは、至極デリケートな表現として語られなければならないはずである。

勿論、仄めかしだけで観客の想像に委ねると謂うのも映画の語り口ではあるのだが、それが直観的な理解に過ぎないとしても、そこで映像の語り手が意図したイメージが超越的に観客に伝わってこそ映画の表現として真っ当な描写である。

つまり、この場面でジャックが何を感じてどの程度のことが伝わっているのか、具体的に言語で定義出来ないとしても、大多数の観客が概ね同じイメージを共有しているだろうと確信出来るような描写になっていること、それが大事なのであって、本来この場面はその内容次第で向後の描写の意味解釈に大きな影響があるわけだが、この内容を決定附けるのが映像描写ではなく個々の観客の恣意性やスピリチュアルに対する考え方の違いに過ぎないとしたら、それは映画の映像表現として無責任だと謂うことである。

勿論、個別の物語に描くことが出来るのは、そこで語られた世界の極一部でしかないのだが、部分から全体に拡がるロジックの裾野を想像させるかどうかが虚構の世界律を扱う場合のキモである。

この物語では、ジョージ・ハーヴィに殺害されたスージー・サーモン唯一人しか存在しない彼岸が描かれ、そこに案内役として現れるホリー・ゴライトウェイと謂う少女もまたハーヴィに殺害された犠牲者の一人であったと謂う真相が明かされるのだが、この設定は極普通に考えると「人が死後に行く世界」の世界律としては完全にロジックが破綻していることは自明である。

人が死んだ後、自分一人しか存在しない想念の世界に遷移すると謂う設定なら理解出来る。そこに存在する他者は死者の想念としての存在でしかないと謂うのであれば、それはそれでロジックが一貫しているわけだが、スージーとホリーはハーヴィに殺害されたと謂う共通項以外は完全に他人であって、想念を共有しているわけでも何でもないし、生前に接点があったわけでもない。

この「中間の地」にスージー一人しか存在しないのは彼女の想念世界だからだと謂うのであれば、人の数だけ想念の世界はあるのだから問題はないが、そこにホリーと謂う未知の人物が存在するのであれば、人の死後の想念世界は他者の想念と連続的なものだと謂うスピリチュアル的な解釈が可能である。しかし、そうなると個々の想念世界に主観としての人物一人しか存在しないことに説明が附かなくなる。

自他の想念が連続的な場として「中間の地」が想定されているのであれば、そこには主観を超えた客観が生じるわけで、一種公共的な性格が生じてくるはずであるが、飽くまでこの物語で描かれる死後の世界は個人の主観的想念の世界である。

しかも、スージーの世界にホリーが先導者として現れると謂うのも何だか理解出来ないわけで、じゃあ死者の一人に過ぎないホリーが何故スージーよりも「中間の地」の世界律を理解しているのか、ホリーが死んだときにも誰か「先輩」が現れてこの世界の成り立ちを説明したのか、これがまったくわからない。

オレが「死後の世界」を扱った文芸作品を好きではないのは、この辺の虚構的な世界律を受け手が納得出来るように表現するのが難しいからで、寧ろわれわれが識っているこの現世にあの世から侵入者が現れると謂う設定のほうが受け容れやすい。その設定なら物語の舞台となる現世の世界律については説明する必要がないのだし、そこに紛れ込んだ異分子である異人の語る死後の世界についての説明は断片的な部分であっても一向差し支えない。

伝聞としてもたらされる情報は常に断片的なものだし、それが整合的であることは稀であるから、それが一種のリアリティとして成立する。異世界そのものを描く場合と比べて比較にならないほど経済的に物語を語ることが出来るわけである。

尤も、そちらのほうが得策である以上、すでに手垢にまみれたアイディアであることは間違いないわけで、死神や天使など死後の世界に所属する異人が現世に現れて騒動を繰り広げる物語は枚挙に暇がない。そして、物語で描かれる「死後の世界」が何ら根拠のない空想に立脚しているものしかない以上、世界律の設定を詰めれば詰めるほど物語の見かけ上の虚構度は高くなる。

この物語で描かれる「死後の世界」はもっとスピリチュアル寄りなリアリティに基づくもので、天使も死神も神様も型通りの天国も登場せず、「死後の世界」を「制度」として描くのではなく、「そう謂う現実」として描くスタンスに立つのだが、「そう謂う現実」であるのであれば、「制度」ではなく「法則」と謂うもっと厳密な縛りがなければ物語が成立しない。

原作は未読だから、元々の小説ではどう描かれているのかは識らないが、少なくとも映画を観る限りでは「何でもアリだけど殺風景な心象世界」と謂う以上のものとは感じなかった。思うに、これはやはり言葉の語りで成立する小説的なアイディアとしてはアリかもしれないが、具体的な映像で描く映画的なアイディアではないのだろうと思う。

こう謂うふうに、「制度」としての「彼岸の国」としてではなく一種の現実として死後の世界を描くやり方は、一見プレーンなリアリティを具えているようでいながら、よく考えると俗流スピリチュアリズムに附き物の安っぽい非論理性の弊を蒙りやすいと謂うことは言えるだろうし、「幽霊は昼間何をしているのか」的な無粋さとも距離が近い。

また、たとえばルースと謂う霊感の強い少女が登場するが、彼女は何故かスージーの死後よりにもよってスージーの初恋の相手であるレイに接近してまんまと恋仲になってしまうと謂うだけの役割で、たとえば「ゴースト」の霊媒師のように、生者の世界に直接干渉出来ない死者の媒介を果たすわけでも何でもない。

この映画の描き方では、なんでいるのかサッパリわからない役どころになっている。

勿論ラストでスージーがルースに憑依して、現実には実現しなかった初めてのキスを交わすと謂うロマンチックな描写があるが、これもスージーの死後にルースの側から死者をダシにしてレイにアプローチして現在附き合っていると謂う状況を考えると、今の彼女に昔の彼女が憑依して、未練の残るキスを交わすと謂う成り行きの生臭さにどうもげんなりしてしまう。

その「ロマンチック」なシチュエーションと併行して、スージーの死体が入った金庫を殺人鬼とむさいオヤジが力を合わせて転がしてゴミ溜めに放り込むと謂うミザリーで悪趣味な描写が描かれている辺りがPJ独特のリリシズムだと思うのだが、結局これでこの物語がどのような着地点を目指していたのかがサッパリわからなくなってしまう。

普通に予想するなら、何年も行方が知れなかった娘の死体が発見されることでサーモン一家を苦しめていた過去の悲劇が解消されると謂う落とし所が描かれるのが普通だろうと思うのだが、殺人鬼のハーヴィはまんまと逃亡してしまうし、翌日埋めてしまうゴミ溜めの水底に沈んだ金庫はその後二度と掘り出されないだろうと観客は予想するわけであるから、サーモン一家の再生が何によってもたらされたのか事実性のレベルではまったくわからない。

結末に至ってもたらされたのは、娘を殺したのは向かいに住むハーヴィであることが判明しただけで、それは観客が最初から識っていることについてサーモン一家が確証を掴んだと謂うだけのことである。しかも、ジャックやリンジーがハーヴィを疑うに至った説得力のある理由はほぼ何も描かれていない(写真のくだりは疑惑の契機としては弱すぎる)のであるから、被害者の遺族が徐々に殺人の真相を察知していくと謂うサスペンスもまったく感じない。

この状況設定の意味性とは、前述の「家」の象徴性と絡めて考えるなら、憎い娘の仇が向かいの家に住む善良そうな独身男で、しかも探し求めるの娘の死体がその家の中の金庫に眠っていると謂う、家と謂う個人の内面を象徴する閉鎖空間の持つ不気味さだろうと思うのだが、スージーの死体が闇に葬られることでその不気味さは観客だけが識るところとなる。

今回の表題に掲げたのは「家族の秘密」を意味する慣用句であるが、クローゼットの中に骸骨が隠されていると謂う想像は、何処の家にも一つや二つの死体が隠されている可能性があると謂う不気味さが普遍的な感覚でもあると謂うことで、この物語ではジョージ・ハーヴィと謂う男の殺人鬼としての正体と謂う「骸骨」は暴かれたわけだが、その一方でサーモン家にとって重要な一体の「骸骨」は誰にも識られることなく粗大ゴミと共に地中に葬られたわけで、その強烈な孤独さの印象は、スージーが心残りを解消して死を受け容れる結末とはどうにも符丁が合わない。

思うに、PJは家族との紐帯と謂うテーマよりも絶対的な孤独と謂うテーマのほうに親和性が高いわけで、たとえば「キングコング」もまた絶海の孤島と謂う小世界に君臨する密林の王者の孤独と、その孤独を癒す女性の登場がもたらす悲劇がテーマだったわけだが、そのような志向と物語の性格が合わなかったように思う。

つまり、ファーストシーンのダイアログとは裏腹に、やっぱりスノードームの中に一人閉じ込められたペンギンは孤独なのだし、殺人と謂う残酷な現実によって温かい家族との関係を断ち切られて自分一人しか存在しない世界に遊ぶ少女はやっぱり絶対的に孤独なのだと謂うのがPJの感じ方である。

だから、そんな孤独な少女の死体が遂に日の目をみることなく闇から闇に葬り去られると謂う絶対的な孤独を描く成り行きこそPJの描きたかったリリシズムなのであって、家族の崩壊と再生の物語にはそんなに関心がなかったのではないかと思う。

ただ、多分そのような視点でこの物語を描くなら、やっぱりお話としては整合しないわけで、最終的にスージーが孤独から解放されて昇天するのでなければ受け手が納得出来る筋書きにはならないだろう。その意味で、どうもスージーが同じ犠牲者の少女たちと共に昇天し、サーモン一家の絆も母親のアビゲイルが戻ることで無事に回復すると謂う筋書きに空々しさが伴うわけで、結局アビゲイルが戻ったのは旦那のジャックが乱暴者の若い衆に叩きのめされて大怪我を負ったからだと謂う見え方にしかなっていない。

殺人鬼のハーヴィが逃亡した以上、ジャックの妄執やリンジーの拘りが解消されたと謂う見え方にはならないわけで、そのハーヴィは天罰覿面と謂う成り行きで勝手に死んだわけであるから、普通ならこれでハッピーエンドと謂うことにはならない。

ハーヴィを巡る問題とは、これ以上犠牲者を増やさないことではなく、過去の殺人を巡るサーモン一家との因縁においてこそ物語上の重要性を持つわけで、それが逃亡によって関連が途切れて勝手に死んだのでは、サーモン家との間の問題は宙ぶらりんである。

考えれば考えるほど、どうにもこの映画はいろいろな要素がちぐはぐで、ちゃんとやりかけてはみたものの煮詰めの途中でお手軽に纏めたように見えてしまう。普通に言うなら凡作と謂う以上の評価にはならないので、他人にはお勧め出来ない。

まあ、以前語ったように、もうPJは「キングコング」を撮ってしまったんだからその後は全部贅沢な「余生」に過ぎないわけで、その「余生」で生み出された作品がこれまでにない傑作である必要はない。そう謂うふうに考えれば、多分こんなもんだろうと予想した通りの出来の映画と謂う言い方も出来るだろう。

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コメント

ピージャクなので観に行こうかと思ってたんですが、結局行ってません(つれあいが気乗り薄だったってのもありますが)。

なんと云うか、「描写すべき要素が盛りだくさんで才気ばしった交通整理が必要とされる」ような映画以外は、このひとは苦手なんでしょうか。ぼくとしてはなんとか「ホビット」までがんばってくれないと困るんですけどね。

投稿: pooh | 2010年2月14日 (日曜日) 午前 08時56分

>poohさん

>>ピージャクなので観に行こうかと思ってたんですが、結局行ってません(つれあいが気乗り薄だったってのもありますが)。

原作の筋書きでは、主人公のスージーがレイプされた上にバラバラに解体されてしまうらしいので、あんまり女性向けの話でもないんですが、映画ではさすがにレイティングの関係からかそう謂うニュアンスはありませんね。ただ、その種の性的猟奇性を描いていないせいで、連続殺人の動機が「トリックで少女を騙して殺害すること」だけみたいなゲーム感覚に見えるのがどうも不自然に見えると謂うこともあります。

いずれにせよ、題材の向き不向きと謂うより映画の出来としてあまりお奨め出来るような作品ではないので、見逃してもそんなに損したことにはならないと思います。期待していたシアーシャ・ローナンの(期間限定っぽい)美少女ぶりも、どうも撮影の設計の関係でそんなに印象的ではありませんでした。

つまり、この映画では「中間の地」の異界性を強調する為に、現世のルックを彼岸のそれとは意図的に変えているんですが、現世のルックはザラザラした猥雑な性格に設定されていて、少女を綺麗に撮るのにはそんなに向いていない方向性なんですね。

対するに「中間の地」のルックはCG向きの色彩的でディテールを飛ばしてエッジを立たせた方向性ですから、こっちのほうでは綺麗に撮れているんですが、演技の内容を考えると、殆どグリーンバックのスタジオで一人芝居をしているだけですから、グラビア的でそんなに面白くないんです。

>>なんと云うか、「描写すべき要素が盛りだくさんで才気ばしった交通整理が必要とされる」ような映画以外は、このひとは苦手なんでしょうか。

多分想定しておられるモデルケースはLOTRだろうと思うんですが、仰るような性格に加えてダイナミックな物語的運動性があったほうが向いているように思います。結局この作品が向いていなかったのは、ファミリーストーリーと謂うのは細かいエピソードの積み重ねで緩やかに大筋の物語を繋いでいくような構造の弱い性格になりがちで、その構造の弱さがPJ的な煮詰めの作法に合わなかったのかな、と。

LOTRもキングコングも、比較的短いタイムスパンの中で息も吐かせず物語がダイナミックに運動して、その運動性を徹底的に煮詰めたシナリオと経済的で効果的な映像作法で映画的官能を醸し出すと謂う性格の作品ですが、この作品はどちらかと謂うとPJ作品の中では「乙女の祈り」に近いようなビザールなリリシズムが勝っている印象で、本文で書いたように、ルースに憑依したスージーとレイがキスを交わしているその傍らで殺人鬼がゴミ溜めに死体を遺棄する場面の強烈な孤独感と謂うのは窮めてPJらしい映画的情動なんですね。

ただ、それってこれまでの物語が語ってきたことと全然違う話じゃないか、と謂うのがどうにも困りものでして。

これは完全に邪推なんですが、この作品が選ばれたのは「原作に感銘を受けた」と謂う建前とは別に、「中間の地」の幻想描写でWETAのCG技術がアピール出来ると謂う商業的な計算があったからじゃないですかね。

>>ぼくとしてはなんとか「ホビット」までがんばってくれないと困るんですけどね。

多分それは大丈夫です。「ホビットの冒険」は無事撮影されるでしょうし、それまでにどんな凡作を撮ったとしても、それで条件が悪くなることはないと思います。キングコングのエントリで語ったように、PJはLOTRのプロジェクトの成功でニュージーランドの映画立国に多大な貢献を果たした国家的英雄ですし、今や太平洋圏でハリウッドと遜色ない条件で映画が撮影出来て、ポストプロダクションから現像・プリントまですべてそこで出来てしまうのがニュージーランド映画産業の実情で、その映画産業の大立て者がPJですから、LOTRと謂う神話的な大ヒット作のスピンアウトが撮れなくなると謂う事態はまず考えられません。

唯一あり得るのは、PJが死んでしまうとか健康を害するとか、本人自身の都合によるものでしょう。まあそれもちょっと現実的な話ではないので、九分九厘までホビットは実現すると思いますよ。

投稿: 黒猫亭 | 2010年2月14日 (日曜日) 午後 12時00分

うっかりキングコングのエントリを読み返してみたら、自分で書いたにもかかわらずダダ泣きをしてしまった(笑)。どうも「失はれた週末」を書き起こして以来、自分の泣きのツボを突く文芸評を心懸けてきた結果、迂闊に読み返すと昔の自分に泣かされてしまうことが多くなった。これも自業自得と謂うものだろう(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年2月14日 (日曜日) 午後 08時15分

お久しぶりです。相変わらず長いですね(笑)
自分はこの映画、チグハグな印象を抱いたにも拘わらず結構面白かったです。

それは音楽がブライアン・イーノで天上音楽を存分に堪能できるからというところも少なからずあるのだけど、映画的な文法というかカタルシスに繋がるであろう場面を尽く肩透かしで外しているのがどうにも意図的というか確信犯に思えて仕方がないんですよね。

似たような印象を抱いた映画に『少年メリケンサック』というのがあって、小ネタばっかりで肝心の中年パンクスの成長物語に全然なってないじゃんとか『映画秘宝』で散々扱下ろされていたのだけど、成長しちゃったらパンクじゃねーじゃんとか思うわけです。

この映画と比べるのは(明らかに)適切ではないのだけれど、感動ファンタジーを期待して観に来たらなんだかチグハグな展開でグロテスクなシリアルキラーが執拗に描写されてるし、最後に主人公がやり残した事って犯人を吊るしあげるのかと思ったらそっちかよ!って思わず突っ込みたくなるようなオチで、みんなさぞかし腹立っただろうなぁと考えるとちょっと痛快だと思うのは意地の悪い見方…ですよね?(笑)

投稿: goro | 2010年2月15日 (月曜日) 午前 01時53分

こんにちは。

あーあ、観に行こうかなと思ってたのになぁ………読んじゃった(笑)。

投稿: うさぎ林檎 | 2010年2月15日 (月曜日) 午後 03時34分

>goroさん

おお、随分久しぶり。

>>映画的な文法というかカタルシスに繋がるであろう場面を尽く肩透かしで外しているのがどうにも意図的というか確信犯に思えて仕方がないんですよね。

あ、ないない、それはない(笑)。

goroさんが指摘しているような変な部分と謂うのは、元々の原作がそう謂う話なので映画固有の作法の問題じゃないんですよ。

PJも「まともに映画化すると三〜五時間の尺になる」と言っているんだけど、大体それでどんな話か見当が附くわけで、殺された娘の一人称とかそれを成立させる「中間の地」と謂うスピリチュアルな要素が目新しいだけで、基本的には現代アメリカ文学によくあるようなファミリーストーリーなんじゃないかと思うんですよ。

シリアルキラー型の犯罪常習者と謂うのは、日本の犯罪史上では例のM君の事件が記憶にあるくらいでかなりのレアケースだから、日本の感覚ではまだ少し絵空事の感覚があるけれど、アメリカではありふれているとまでは謂えなくても自分の家族がその犠牲になると謂うのはもっとリアルな感覚だと思うんですね。

未解決の失踪事件や殺人事件なんてのも多いわけで、そう謂う意味では性的猟奇犯罪によって突然愛しい家族を喪うと謂うのは、現代アメリカのファミリーストーリーではそんなに突飛な状況設定ではないわけです。

だから、本来この話は犯罪によって愛しい家族や自分の未来から断ち切られてしまった少女の一人称で語る家族史と謂う性格があるんだろうけど、それは殺人と謂う劇的なイベントを中心とした集中的でダイナミックな物語ではあり得ないわけです。

ロングスパンの家族史の中に拭い去りがたい忌まわしい過去として娘の殺害と謂う事件があって、その一家の生活に暗い影を落としている過去の事件の死者が主観人物として家族史の全体を眺望していると謂うアイディアが目新しいだけで、本来この話はダラダラ続く家族集団の歴史を追う話なんだと思うんですよ。

で、それを二時間の映画に纏めるには、娘の死に纏わるクライムストーリーを軸に据えないわけにはいかないんだけど、元々そう謂う性格の話じゃないから何とも物足りない話になってしまった、そんなところだろうと思います。

>>似たような印象を抱いた映画に『少年メリケンサック』というのがあって、小ネタばっかりで肝心の中年パンクスの成長物語に全然なってないじゃんとか『映画秘宝』で散々扱下ろされていたのだけど、成長しちゃったらパンクじゃねーじゃんとか思うわけです。

この映画は観ていないけど、いつも読んでいるブログでバンドの生理に詳しい人が書いたレビューを読むと、秘宝の読み解きはダメだなぁと思いますね。まあオレは昔から秘宝の映画の見方はあんまり信用していないんで、そんなもんでしょう(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年2月16日 (火曜日) 午前 07時17分

>うさぎ林檎さん

>>あーあ、観に行こうかなと思ってたのになぁ………読んじゃった(笑)。

ミステリ的な性格がある話の場合、くれぐれもネタバレにはご用心を(笑)。いや、そう謂う意味じゃないんでしょうけれど、実はレビューを一週寝かせたのは、こう謂うネガティブな話になるからなんですよ。

興行成績の悪い作品をこき下ろすと謂うのはやっぱり気が引けるので、せめてもう打ち切りと謂うタイミングまで待とうかな、と(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年2月16日 (火曜日) 午前 07時18分

「ラブリーボーン」は予告が良かったのですが。
なにか残念ですね。
私は観に行かないと思います。
(黒猫亭さんのせいではありません。)

予告をみてチェックしてるのが「ブラインドサイド」です。
ま、アメリカンフットボールが好き、ということもあって期待してます。サンドラ・ブロックが格好良さげです。
良い話ってとこがちょっと気に入りませんが(笑)。

「ラブリーボーン」を見に行かないのは、「マイマイ新子と千年の魔法」という映画に引っかかっているからです。(お金と時間をこっちにかけたいので。)
「シネプレックス新座で上映して!」という動きがあるようです。もし、よろしければご覧いただいてレビューしてもらえるとうれしいです。
この「マイマイ新子」という映画には言葉にできない思いにさせらているので。

投稿: DH98 | 2010年2月24日 (水曜日) 午後 09時06分

>DH98さん

お久しぶりです。

>>黒猫亭さんのせいではありません。

そう言って戴けると有り難いです(笑)。オレは現在公開中の映画に関しては、あんまり好き勝手にネガティブ評価を書かないようにしようと考えていまして、映画が文芸作品であると同時に興行物でもある以上、「観に行ってみようか」程度の期待を持っている人の足を敢えて止めるような強い批判は書かないように心懸けています。

観客の立場で可能な、なるべく自分が好きなタイプの映画が制作されやすくなるようなアクションと謂うのは、結局一本でも多くそう謂う映画を観に行くことしかないわけですから、実際に観に行って自分が面白くないと感じた映画を公開中に腐しても意味はないと思います。

まあ、オレも人間ですから、よっぽど「こんなふざけた金儲けは許せない」と腹を立てたら別ですが(笑)。

>>予告をみてチェックしてるのが「ブラインドサイド」です。

最近はとみに映画の情報にも疎くなりまして、全然識りませんでした(笑)。調べてみたらベタベタの美談物っぽいですねぇ。サンドラ・ブロックはオレも嫌いじゃありませんが、近頃は外国人女優もうんと若い人にしか興味がなくなりました(笑)。

スポーツ映画と謂うジャンルは実は嫌いじゃなくて、「ロンゲスト・ヤード」とか「メジャーリーグ2」とか「スラップショット」なんか好きですね。意外と汗くさい野郎しか出ない映画なんかも好きなんですよ(笑)。

>>「ラブリーボーン」を見に行かないのは、「マイマイ新子と千年の魔法」という映画に引っかかっているからです。(お金と時間をこっちにかけたいので。)
>>「シネプレックス新座で上映して!」という動きがあるようです。もし、よろしければご覧いただいてレビューしてもらえるとうれしいです。

「マイマイ新子」は吹き替えの主役が福田麻由子だと謂うので以前チェックしたことがあるんですが、単館系の公開と謂うことでDVD待ちかな、と思っていました。しかしシネプレックス新座で上映するようなら、ごく近いので観に行けるかもしれませんね。

しかとお約束は出来ませんが、人から奨められた映画はなるべく観るようにしているので、「近所で上映の機会があったら」と謂う仮定の話ですが、観に行って感想を書きたいと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2010年2月26日 (金曜日) 午前 07時14分

レスありがとうございます。

「ロンゲスト・ヤード」と「スラップショット」は映画館で観てます。懐かしいですね。(歳がバレるかな)
特に「ロンゲストヤード」は大好きで2回見に行きました。
やたら「balls」って単語が出てきて(「男のタマ」ってことらしいですが。)嬉しかったなぁ。
で、「ロンゲストヤード」を観た数年後に雄の子猫が家にやって来ました。名前はすでに「たま」と名付けられておりました。

「マイマイ新子」の福田麻由子は地に足のついた演技をしてます。実在感があるというか。
ただ、「マイマイ新子」は評価の分かれる作品かもしれません。泣いちゃう人がいる一方で何ともない人もいるので。
私自身泣いてないのですが、心惹かれています。

>「近所で上映の機会があったら」
ありがとうござます。よろしくお願いします。

投稿: DH98 | 2010年2月26日 (金曜日) 午後 08時54分

連続投稿失礼します。

黒猫亭さんの「福田麻由子」という言葉で思い出した事があります。
福田麻由子→子役という連想で、松本花奈のことです。
「サイドカーに犬」という作品で薫という女の子を演じました。
もともと予告を観て竹内結子目当て、というかヨーコさんという主役が面白そうだったので、DVDを確保したのです。完全にバクチでしたが。
これ「当たり」でした。
ヨーコさんは予想よりあっさりしてましたが、薫がリアル、自然なんです。存在が。

こちらは情報提供ということで。
では、失礼します。

投稿: DH98 | 2010年2月26日 (金曜日) 午後 11時29分

>DH98さん

>>「ロンゲスト・ヤード」と「スラップショット」は映画館で観てます。懐かしいですね。(歳がバレるかな)

「ロンゲストヤード」はTVやビデオで観ましたが、「スラップショット」は映画館で観ました。高校生の頃、週末に学校の近くのボロい映画館で二本立てを観るのを楽しみにしていたんですが、田舎町の二番館ですから変な取り合わせばっかりでした。

初めて自分の小遣いで観た映画は、忘れもしないブレンダ・ヴァッカロの「ウィークエンド」でしたねぇ(笑)。全然関係ない話になってますが(笑)。

オレがスポーツ映画…と謂うかプロスポーツ選手の映画が割と好きなのは、草臥れた男たちの群像劇と謂う部分が好きだからです。マンガだと「シャンペン・シャワー」なんかも好きでした。

>>で、「ロンゲストヤード」を観た数年後に雄の子猫が家にやって来ました。名前はすでに「たま」と名付けられておりました。

去勢手術はしていないのでしょうか。すでに済んでいるとしたら、そのときはさぞかし複雑なお気持ちだったのではとお察しいたします(笑)。

>>「マイマイ新子」の福田麻由子は地に足のついた演技をしてます。実在感があるというか。

福田麻由子は顔がちょっとキツくて怖いので「女王の教室」の進藤ひかるみたいな役が多いんですが、舞台「雨と夢のあとに」のメイキングなんか見ると、子供らしくてとても可愛い子ですね。なんか方向性としては谷村美月みたいな方向に行きそうで不憫に思うんですが(笑)。

>>福田麻由子→子役という連想で、松本花奈のことです。
>>「サイドカーに犬」という作品で薫という女の子を演じました。

これも実は、可愛い女の子が主役に絡む映画と謂うことでは少し気になっていたのですが(笑)、どうも竹内結子の主演と根岸吉太郎の監督と謂う組み合わせに全然食指が動かなかったのでそれなりになっていました。

調べてみるとレンタルで観たはずの「神様のパズル」にも出演しているようですが、それらしい記憶がないので大した役ではなかったのでしょう。これもそのうちレンタルかCSで観てみようかと思います。情報ありがとうございます。

とまれ、「マイマイ新子」については、飽くまで近所で上映したらの話ですが、なるべく観に行こうかと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2010年2月28日 (日曜日) 午前 11時51分

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