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2010年2月 7日 (日曜日)

カミとオニ

そう謂う次第で、ちょっとズレたが節分に相応しいタイトルを附けてみた(笑)。先日のうさぎ林檎さんのコメントで朝青龍の暴行事件の話題が出たが、これって横綱としての品位がどうこうと謂う問題じゃないと思うんですけど。

オレがこの事件を聞いてすぐに想い出したのは、筒井康隆の「走る取的」と謂う短編だが、これは二人のサラリーマンが通りすがりの下っ端相撲取りに何気なく「ふんどしかつぎ」「取的」と聞こえよがしの陰口を聞いたことがきっかけで、その相撲取りにじわじわと追い詰められついには撲殺されてしまうと謂う話である。

手許に書籍がないので正確なことは言えないのだが、話の構造としてはスピルバーグの「激突!」のような単純なストーリーで、自分を莫迦にしたサラリーマンをどこまでも相撲取りが追い掛けてくると謂う不条理な状況のサスペンスが主題である。そして、このサスペンスのスパイスとなるのが追い詰められる二人の想像力である。

相撲取りが殺意を持って二人を追っていることが明確化するに連れて、この二人は過去に聞いた噂話の断片を繋ぎ合わせて、下っ端と雖も相撲取りが如何に強いか、如何にその肉体が強靱であるかについて、どんどん想像が膨らんでくる。小太りでユーモラスでさえある外見の力士と謂うものが、如何に見掛けに反して人間離れした恐ろしい存在なのかと謂うことを、これでもかと誇張するわけで、この話のサスペンスは追われる二人の想像力が醸し出していると謂っても過言ではない。

実際に相撲取りがどれほど強いのかは識らないが、まあ相手が幕下でも素人では絶対勝てないと謂うことは謂えるだろう。肉体的素質のある人間が、日々格闘の鍛錬を積んでいるのだから、普通の人間がそれに敵うわけがないだろう。

よく格闘家の拳は凶器だと謂うふうに表現されるが、普通に日常生活を営んでいるのであれば、正当性を持って凶器が必要な場面とは、相手もまた凶器を持って迫ってくる場合に限られるだろう。法治国家においては、それは非日常的な犯罪の領域に一歩を踏み入れた場面である。

そんな物騒な存在が何故許されているのかと謂えば、プロスポーツ乃至文化的伝統として大勢の人間が見物すると謂うシチュエーションが用意されているからで、競技以外の場面では暴力を揮わないと謂う暗黙の諒解があるから、日常生活において何の必要性も認められない格闘の専門的鍛錬が社会的に許容されているわけである。

実際に格闘技を学ぶ人間の素養を考えれば、普通の人間よりも暴力闘争が好きだと謂う単純なモチベーションがあるわけで、プロボクサーなんかでも若い頃から喧嘩三昧に明け暮れていて、ボクシングと出合わなければヤクザに身を落としていただろう、なんて話はよく聞く。

オレ個人は過去に格闘技を学んだ経験なんかないんだが、格闘技を修めることそれ自体が当人の暴力性を抑制すると限ったものではない…と謂うか、基本的にそれは人それぞれの暴力との親和性やモチベーションの問題なんだろうと思う。

ただ、それだからこそスポーツとしての格闘技では、試合以外の場面での暴力闘争を厳に戒めると謂う共通ルールがあるわけで、格闘技の鍛錬を積んだ人間が日常生活の場面で暴力を揮うことにまったく忌避感がなかったら、格闘技全般が反社会的なスキルだと謂うことになる。

現代社会においては、基本的に暴力闘争のスキルと謂うものは、トラブルのタネでこそあれ、問題解決の手段としては一切意味がない。社会的な闘争は、すべて法的に許容された穏当な手段で解決する建前になっているのだから、それ自体は決して役に立たないスキルであるが、肉体や精神を鍛え、闘争心をゲームとして昇華させる効能があると謂う意味で許容されているわけである。

そのような技能を専門的に修めた選手が、トップレベルの天稟と技術を駆使した競技としてそれを行うのがプロ格闘家である。であるから、プロ格闘家が可能性としてどれだけ現実の肉体的闘争に強くても、その専門性は限定されたフィールドで競技としてそれを行うことにのみ許容されていることは当然である。

就中相撲は文化的伝統や神事としての側面もあり、単に相手を倒す為の即物的な肉体的スキルではないことが強調されている。相撲取りの最高峰の横綱に、強さだけではなく人格的な円熟や品格が求められるのは或る意味では当然の話であって、相撲と謂うのはそう謂う種類の競技である。

だとすれば、そもそも朝青龍にどれだけ相撲と謂う格闘技の天稟があろうとも、相撲と謂う文化的概念における最高位である横綱としてのそれはなかったと謂うことになるわけで、相撲と謂うプロ格闘技集団のトップに位置する競技者が、一般人に対して日常的に暴力を揮うことに忌避感がないと謂うことになったら、相撲取り一般と謂うのは社会秩序の観点から視て凶暴な反社会的集団だと視られても仕方がない。

オレは別段相撲に興味のある人間でもないし、朝青龍と謂う横綱に何の思い入れもない人間だから簡単に言っちゃうんだが、どうもこの人は相撲と謂う競技の社会的位置附けをまったく理解していなかったとしか思えない。相撲を相撲たらしめている概念を取り払ってしまえば、それは単に秩序の脅威となり得る暴力のスキルでしかない。

相撲がかくも社会に受け容れられ人気を博しているのは、その単純な暴力的スキルをそれ以上のものに昇華する文化的概念が附随するからなのだし、相撲の強さは単に肉体的な素質や技術によってもたらされるのではなく神懸かりな力だと謂う呪術的概念が存在するから強い相撲取りは尊敬されるわけで、広く格闘技一般はそのようにして社会秩序と折り合いを附けているものである。

ただ単に暴力的スキルが優秀なだけの人間など、一般社会においては何の存在意義もないわけで、それぞれの文化的概念によって成り立っている競技と謂うフィールドにおいてのみ暴力的スキルの優秀さは英雄を創り出すものである。より剥き出しの暴力闘争の次元に近い総合格闘技だって、選手当人たちの意識はともかく競技のフィールドを形成する文化的概念が存在する。

煎じ詰めれば、格闘技の専門的修練とは無縁な一般人がプロ格闘家の強さに憧れを抱くのは、前述のように建前上の社会秩序においては暴力による問題解決が否定されているにもかかわらず、巷には暴力が溢れているからでもある。

殊に権利と義務の間の十分な法的責任関係が留保されている、つまり凶悪犯罪に帰結しない暴力の行使は、多少の「若気の過ち」や「子供のやんちゃ」として許容されてしまう少年時代には、誰でも少年間の暴力の洗礼を受けるわけであるから、今現在の社会にだって暴力が堂々と存在し、自身に対する脅威であり続けていることを誰だって骨身に沁みて叩き込まれる。社会秩序の観点からは一切の私的暴力が禁じられていながらも、今に至るも人間は他者の暴力に脅かされ続ける存在である。

そのような、社会の建前と反した現実の暴力に脅かされる生き方は誰でも不安なものであるから、他者の暴力に対して暴力による対抗が可能なら、そんな不安から解放されて自信を持って生きられるのではないかと夢想する。実際にはそんなことなんてないのだが、少なくとも他者の暴力に対して有効な対抗手段があると謂うことが或る程度暴力への不安を払拭することは事実であるから、誰でも多かれ少なかれ肉体闘争のスキルには憧れがあるものである。

そのような弱い一般庶民の憧れを体現するのがプロ格闘家であり、肉体的暴力に脅かされない堂々とした生き方を体現するプロ格闘家は一種の模範的な英雄である。であるから、それらの英雄自身が弱い一般庶民に対する暴力的な脅威となってしまえば、ヤクザや犯罪者と何ら変わりがないわけで、そこに一線を引かない限りプロ格闘技は社会から許容されるフィールドではあり得ない。

要するに、プロ格闘家は強ければそれで好いと謂うものではないのだし、逆に飛び抜けて強い競技者には、それ故にこそ要求される社会秩序との折り合いと謂うものが存在すると謂うことだろうと思う。取り分け相撲のような畸型的なまでに常人離れした強靱で雄大な肉体性を要求される競技においては、本質的に競技者は社会秩序における異端者であり、その異端性の故に神聖視されている存在と謂えるだろう。

異常なまでに巨大で強靱な肉体を具えて生まれついた人間は、それだけで社会秩序に対する脅威であるから、そもそも呪術的な観点では神懸かりな存在である。それを秩序に包摂する手段として相撲と謂う文化的概念があるわけであるから、これを極単純に肉体的素質に恵まれた人間が厳しい訓練によって専門技術を習得しバタバタと相手をなぎ倒すだけの肉体的闘争スキルだと認識すると間違いが起こる。

普通に考えて、そんな人間は怖がられるに決まっているからである。

そんな「怖い」人間が英雄視されるのは、秩序に織り込む為の相撲と謂う文化的概念が存在するからであり、一般社会に対する脅威ではあり得ないと謂う前提が成立するからである。

相撲の背景にある文化的文脈においては、相撲取りと謂う異端者は神になるか鬼になるかしかない存在であって、一旦鬼になってしまえば社会から排斥される末路が待っていると謂うことだろう。「横綱の品格」と謂うのは要するに「神になることに納得しますよ」と謂う社会秩序に対する恭順の姿勢であり、「強ければ何をしても文句はないだろう」と謂う姿勢は、要するに神として社会秩序に馴致されることを拒絶して鬼になることを選ぶと謂うことである。

朝青龍自身も「土俵に上がれば鬼になる」と口にしたが、土俵の外でも鬼のまんまなら社会から排斥されるのも当たり前の話で、一旦土俵を降りたら神にならなければ社会に存在の余地がないのが横綱の立ち位置と謂うものではないかと思う。

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コメント

何となくあいまいな「横綱の品格」なるものが体のいい外国人排斥に使われているんじゃないかと常々思っていたのですが、「暴力を振るうことを自制できる精神的鍛錬」という線引きなら納得がいきますし、外国人にも理解しやすいと思います。

で、相撲協会はいろいろ豆を撒いて(もしかしたら被害者男性も豆だったんじゃないかとか思ったり)ようやく厄介な鬼を追い払ったんですね。

その鬼はHawaiiで静養中とか何とか…

筒井先生の短編、存じませんでしたが面白そうですね。最近「何を書いても既に過去に書いている」と仰っておられ、ちょっと寂しい気がします(がもう十分書いたからいいじゃんという気もします)。

投稿: 604T | 2010年2月 8日 (月曜日) 午前 12時58分

>604Tさん

お返事が遅くなりました。「T」の字が入ってますけど、604さんですよね?(笑)

>>何となくあいまいな「横綱の品格」なるものが体のいい外国人排斥に使われているんじゃないかと常々思っていたのですが、「暴力を振るうことを自制できる精神的鍛錬」という線引きなら納得がいきますし、外国人にも理解しやすいと思います。

オレは相撲ファンでも何でもないですし、とくに相撲に詳しいと謂うわけでもないんですが、歴史的・文化的に謂えば、相撲取りと謂うのは一種の鬼神力の持ち主と視られていたと思うんですよ。

弁慶なんかもそうですが、人並み外れて大きいと謂うだけで異端の存在の記号となるわけですし、そう謂う元々異常な素質を持つ人間が厳しい稽古を積んで、自動車事故にも匹敵するような衝撃にも耐え得るような強靱な肉体を培い、人間離れした怪力を鍛えるわけですから、一般人から視れば化け物ですね。

相撲取りに赤ん坊を抱いてもらうと強い子に育つとか謂いますが、それは単純な「あやかり」の心理でもある一方、相撲の力が鬼神力だからこそ力士に接触することで神秘力の交流があると謂う呪術的バックボーンがあるんだと思います。

そう謂う化け物の集団の最高位に位置する横綱が、人格的に優れていて振る舞いに品位があることを要求されると謂うのは、そのような鬼神力を持つ力士と謂う異端の存在が鬼ではなく神なのだと人々が見做し得ると謂うことなんだと思います。

勿論こう謂う文脈における「神」と謂うのは、身体障害者が神聖視されるような呪術的原理に基づく概念ですから、異常者を見世物として蔑む心理と表裏一体のもので、巨大な力士を堂々たる偉丈夫と視る見方の一方で、畸型的に巨大な人間を出来損ないの見世物として蔑む心理もあったわけです。

しかし、力士の異常性と謂うのは、身体機能の一部が欠けていると謂う種類のものではなく逆に過剰だと謂う種類のものですから、その蔑みは暴力に対する恐れとない交ぜになったものです。だから、そう謂う性格の異端者のトップには人格円満で品行方正な結構人でいてもらわないと困るんですね。

こう謂う理屈は、別段外国人にもわかりにくいとは思わないんですけどね。素手で人が殺せる技能集団のトップが、一般人から暴力的で凶暴な人間だと思われたら普通の人はその集団が怖いでしょ、と謂う、それだけの話ではあるんですよ(笑)。

>>筒井先生の短編、存じませんでしたが面白そうですね。最近「何を書いても既に過去に書いている」と仰っておられ、ちょっと寂しい気がします(がもう十分書いたからいいじゃんという気もします)。

作家にも寿命があるでしょうから、もういいんじゃないですかねぇ。延々ワンパターンを貫くマンネリズムの娯楽作家ならともかく、少なくとも筒井康隆はとんがった前衛的な作風で一世を風靡した人ですから、肉体的にも精神的にも若くなくなった時点で作家としての有用性は一定の役割を終えたと思います。

かと謂って今更大河小説をダラダラ書いたり宗教哲学や死生観を語るような作家でもないでしょうから、もうこれからはホリプロ所属の昔作家だったヘボな大根役者でいいんじゃないかと思いますよ(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年2月 9日 (火曜日) 午前 06時57分

こんにちは。

やっぱり洒落になりませんでした(笑)。
相撲取りはプロの格闘家ですから、酔った上で素人に暴力振るっちゃやっぱり不味いわけで、今回の事件は黒猫亭さんが仰有るように品位の問題に達していません。

朝青龍は高校生の時から日本にいますから、日本を理解していないという弁解はちょっと苦しいかなと思います。ただ不幸なことですけれど、彼自身は土俵の中だけで世界は成立すると考えてたんじゃないか、と想像しています。でも当然土俵は世界の一部でしか無いわけで、その事を最後まで理解できなかったんじゃないでしょうか。

サッカーの時にも思ったんですけど、細木なんとかとか中田なんとかとか、あの辺の胡散臭い連中にちやほやされて付き合ってたら駄目になるとは思ってたんですよねぇ……お馬鹿さんだなぁ。

投稿: うさぎ林檎 | 2010年2月 9日 (火曜日) 午後 04時05分

あああ、そうです604でございます。失礼申しましたm(_ _)m

この問題で後味が悪く感じるのは、たまたま暴力沙汰の相手が一般人(今頃になって事情聴取されているとか)だったのを好機として詰め腹を切らせたように思えるからです。

もちろん朝青龍に弁解の余地などありませんが、彼に品格やら自制心やらを教える教育を施せなかった部屋や親方、力士の育成システムはどうなのかと…、相撲協会にもJAL的なものを感じるのでした。

筒井先生、能勢あんなと終始アホなやり取りをしている「富豪刑事」での大根演技が大好きでしたーhappy01。もともと役者志望だったそうですし、幸せな晩年を過ごされて良かったなあ。

投稿: 604 | 2010年2月10日 (水曜日) 午前 12時54分

>うさぎ林檎さん

>>相撲取りはプロの格闘家ですから、酔った上で素人に暴力振るっちゃやっぱり不味いわけで、今回の事件は黒猫亭さんが仰有るように品位の問題に達していません。

このエントリではネタを盛り上げる為に七面倒臭い言い方していますけど(笑)、単純な話ではあるんですよね。たまたまこの件が、ちょっとオレが関心を持っている暴力と社会秩序の関係についての問題の好例なので採り上げましたが、暴力の行使が否定されている世の中で、暴力の技術を訓練している専門家が素人相手に暴力を行使したらまずいでしょ、と謂う物凄く当たり前の話ではあります。

朝青龍のこれまでの問題は主に素行面についての事柄だったわけですから、それはそれで相撲界の慣行や体質の問題として考えることが出来るでしょうけれど、結局その核心にあるのは今回のような件に結び附くか否かと謂うところじゃないか、と謂うのがこのエントリの味噌ですかね。

歴代の横綱が、本当に心底から心技体のバランスがとれた人格円満な結構人だったかと謂うと、多分そんなのは「振る舞い」の問題に過ぎなかったと思うんですが、人格が素晴らしいかどうかは問題ではなくて、少なくとも横綱の地位にある限りはそう謂うふうに振る舞い続けると謂うことこそが肝要なんではないかと思います。

結局は、特定の立場とそれが要求する振る舞いの問題に帰結するんだろうし、それにはそれなりに歴史的な理由があるんじゃないか、と謂うのがオレの考えです。で、歴史的な事情と現時点においてその伝統を承継し個々の力士を監督指導する特定組織の体質や言動とは別問題ですから、相撲協会や横審が正しいと謂う話をしているわけでもないです。そう謂う話が出来るほど相撲に詳しいわけではないですから。

日本の文化的伝統と謂う観点では、相撲よりは関心を持って調べた落語の世界なんかでも、落語と謂う話芸を数百年伝えてきた歴史的な洗練は素晴らしいと思いますが、その人的実体となる芸人の組織がやってきたことってのは、生臭い権力闘争ばっかりでろくなことをしていないですからね。

>>朝青龍は高校生の時から日本にいますから、日本を理解していないという弁解はちょっと苦しいかなと思います。ただ不幸なことですけれど、彼自身は土俵の中だけで世界は成立すると考えてたんじゃないか、と想像しています。でも当然土俵は世界の一部でしか無いわけで、その事を最後まで理解できなかったんじゃないでしょうか。

早くも「総合格闘技に転向か」みたいな話が出ていますけれど、そちらのほうが向いているんじゃないですかねぇ。多分、アスリートとしての感性が相撲向きじゃないんだろうと思います。相撲と謂うのは日本的な制度観を体現した競技で、うさぎ林檎さんが仰るように土俵は相撲と謂う総体的な制度の極一部でしかない、そう思います。

競技自体も、何の訓練も積んでいない素人が喰らったら死ぬような攻撃を貰っても耐えられるように訓練して、その上でルール上で決められた様式的な要件によって勝敗が決するわけですから、重戦車同士が模擬弾で戦闘しているようなもので、相手の肉体機能にダメージを与えることを念頭に置いて勝負しているわけではないですよね。その意味でやっぱり制度的な格闘技なんだろうと思います。

力士の肉体的リスクとは、そのような超ヘビー級の様式的な模擬戦闘に肉体が耐えられるかどうかと謂う部分にあるわけですから、相手の肉体機能の破壊を意図するタイプのリアルファイトを標榜する格闘技とは性格が違います。

これがK−1とかPRIDEだと、とにかく「最後までリングの上に立っていた者が一番偉い」と謂うコンセプトで成立していますから、リングがすべてでその他はどうでも好いと謂う話になります。

これは勿論競技のバックボーンとなる虚構に過ぎないわけで、観客がプロ格闘技に求めるのは一種の物語性ですから、「人間同士が肉体の限界を超えて倒し合う」と謂う虚構を追求しているわけですが、その虚構を支える単純な理念が「リングがすべて」と謂う要件であるなら、それ以外の場面でどんなに感心しない人物でも構わないわけですね。

で、相撲と謂うプロ格闘技に一般的な人々が求める物語性と謂うのはそう謂う種類のものではないと謂うことで、おそらく世間的に謂う「相撲ファン」と謂うのは総合格闘技やプロレスのファンとはまた性格が全然違うものではないかと思います。

投稿: 黒猫亭 | 2010年2月11日 (木曜日) 午後 12時31分

>604さん

>>この問題で後味が悪く感じるのは、たまたま暴力沙汰の相手が一般人(今頃になって事情聴取されているとか)だったのを好機として詰め腹を切らせたように思えるからです。

「ように」と謂うか、基本的にそんな話なんでしょうね(笑)。まあそれは別の言い方をすれば、これまでの積み重ねと謂うことでもあるわけで、これまでの問題でも処分が甘いと謂う世評は常に附き纏っていたわけですから、素人相手の暴行までは幾ら人気力士でも放置出来ないってことでしょう。

オレの感覚でも、「態度が悪い」「素行が悪い」と謂うことまでは、まあ歴代横綱の中には感心出来ない人がいても不思議ではないね、くらいの印象なんですが、その素行の悪い人物が反社会的な暴力を揮うかどうかと謂うのは、大きな境界のように思います。

暴力の脅威については女性のほうが敏感だと思うんですが、たとえば男性が女性に暴力を揮うことが大目に視られていた時代性においては、女性は男性に対して自由に意見を言うことが出来なかったわけです。何かを言おうと思ったら、まず殴られる覚悟をした上でなければならない。殴られて平気な人はいないですから、どれだけ気の強い女性でも男性の暴力が一定のプレッシャーとなっていたことは事実です。

今でも男性と女性の間には常に暴力の可能性が潜在しているわけで、それを抑止して女性の人権を支えているのは暴力行使の否定と謂う制度的な建前だけなんですね。そう謂う建前があっても、やっぱり暴力は未だに日常的に行われていて、社会秩序の介入が制限されるプライベートの領域では、女性や子供を殴る男性はまだまだたくさんいます。

さらに女性の場合は男性の性的関心に基づく暴力性にも常に警戒を強いられているわけで、これは暴力的な傾向の人間、つまり歴然と粗暴な人間に限って発現すると謂う性格のものではなく、個々人の欲望と自制心の強度の関係性に基づくですから、男性との接点においては常に潜在的な暴力の脅威に脅かされていると謂っても過言ではないです。

女性と男性と謂う肉体的な格差が明確な例を挙げましたが、これは男性同士の場合であろうが暴力の脅威が潜在する局面において公平な関係性や正当な交渉は成立しません。ただ、人間の生活にあらゆる場面で闘争的な性格が附随する以上、暴力と謂うのは完全に根絶することが困難ですね。

現状で可能なのは、暴力否定の建前を徹底することでしかないわけで、社会的な事象の是非を判断する場面で、暴力を行使した側が無条件で非難されると謂う基準を堅持することしか出来ないわけです。「いい暴力」なんてものは存在しなくて、人と人の間の問題に関して暴力を行使することは無条件に否定されなければならないと謂う判断基準を堅持すると謂うことですね。

>>もちろん朝青龍に弁解の余地などありませんが、彼に品格やら自制心やらを教える教育を施せなかった部屋や親方、力士の育成システムはどうなのかと…、相撲協会にもJAL的なものを感じるのでした。

ただ、彼ももう二九歳のいい大人なんですよねぇ(笑)。環境と謂う問題もたしかにあるとは思うんですが、二十歳かそこらのほんの子供がやんちゃしているわけではないんですから、流石にこの年齢では周囲の大人に責任を求めることも出来ないのではないかと思います。

教育や環境によってスポイルされた人間と謂うのは、つまり対他関係における責任を留保されるのではなく、そこから自己責任で正道に立ち戻る困難さを斟酌されるべきものだろうと思います。

つまり、親が甘やかしたからダメな人間になったと謂う人物がいるとしたら、甘やかされて育った子供が、斟酌抜きの自己責任を問われる年齢になってから自制心を鍛えるのは難しいだろうから、周囲が面倒みてやる必要があるね、と謂う理屈であって、甘やかされて育ったから当人の責任は薄いと謂う話ではないんですね。

それも或る程度の年齢になったら、周囲が面倒みてやらなかったから立ち直れなかったと謂う事情は考慮されなくなるわけで、三十にもなって未だに子供みたいなことをしていたら、それはやっぱり当人の責任になるんですよ。

投稿: 黒猫亭 | 2010年2月11日 (木曜日) 午後 12時32分

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