« アンドロイドはそもそも夢を見るか? | トップページ | でかいのが届く »

2010年4月12日 (月曜日)

オレの識る井上某

某井上姓の作家が亡くなったそうだが、オレは一つも作品を読んでいない。オレが彼について識っているのは、坂東眞砂子の子猫殺し事件に絡んでいろいろ検索しているときに遭遇した以下のような情報(ウィキの記述による)だけである。

『巷談辞典』(文春文庫、1984年)では動物愛護団体への批判と併せて自身の少年時代に行った猫にガソリンをかけて火をつける、猫を火の見櫓の天辺から落すなどの猟奇的な動物虐待の数々をジョークを交えて告白している。

これが本当のことかどうか、つまり彼が実際にそのような行為を行ったことがあるのかどうかは識らないし、物書きがエッセイに書いたことを真に受けてはいけないことくらいはわかっているが、こう謂うことを「ジョークを交えて告白」するような人間はどうしても好きになれない。

畢竟、坂東眞砂子と同じ人種である。

|

« アンドロイドはそもそも夢を見るか? | トップページ | でかいのが届く »

コメント

>>これが本当のことかどうか、つまり彼が実際にそのような行為を行ったことがあるのかどうかは識らないし、物書きがエッセイに書いたことを真に受けてはいけないことくらいはわかっているが、こう謂うことを「ジョークを交えて告白」するような人間はどうしても好きになれない。

オレも日本人であるから、うっかり言葉を選んでしまったが、嘘は好くないのでこの際言い直そう。オレはこう謂う人間を「好きになれない」わけではなく「強い憎しみを感じる」のである。

ここで書かれていることを彼が本当に行ったのだとしても、それを過剰に責めるには当たらないだろう。子供と謂うのは残酷なものだし、さらには彼の少年時代には「苦痛を感じることが出来る生き物に無意味な苦痛を与えることは罪深いことだ」と謂う教育をそこまで徹底すると謂う社会風潮でもなかっただろうから、「多寡が」犬猫を虐殺したからと言って、当時は「子供の腕白」の範疇で済まされていただろう。そう謂う時代性を無視して昔の所行を責めるのは意味がない。

虐殺された猫たちは可哀相だと思うが、人間に関する事柄は人間を中心にして考えるべきであるから、斟酌すべき無理もない事情があるのであれば、人よりも猫を重視するのは行きすぎだろうと考える。

しかし、オレが耐え難いほど憎いと思うのは、それを好い歳になってから、しかも著名な物書きとして世に認められるようになってから、嬉しがって面白可笑しく吹聴するその神経である。こう謂う心映えは窮めて醜い。

ウィキの彼の項目には、笑い事ではないDVについても当然触れられているが、それがこう謂う過去の幼児体験と関係があるかどうかは勿論定かではないし、恰も関係があるかのように決め附けるのは正確ではないだろうが、普通は関係があるだろうと考えるのが自然であるし、多分それは科学的な意味では正確ではないが、人間観の観点では正しい判断と謂えるだろう。

過去の蛮勇を誇らしげに語るような人間が現に卑劣な暴力を揮っているのであれば、それはそう謂う人間だからだと視られてしまう、それは当たり前の人の見方である。

栗本薫のときといい、オレは割合嫌いな人間の訃報に接すると死者を鞭打ったり墓に唾するような物謂いをするが、それはオレが「死ねば仏」と謂う考え方が好きではないからである。

たしかに、人は皆死ねば仏になれるだろうが、猫は死んでも仏にはなれない。死んでも仏として祀られない「下等な」生き物を惨たらしく殺した過去を、大人の見識を持ちながら自慢するような心映えの醜さは、仏になっても消えはしない。

投稿: 黒猫亭 | 2010年4月13日 (火曜日) 午前 07時52分

わが県の県民栄誉賞が検討されているらしい「文豪」に対してこんなことを書くと「非県民」扱いされそうなのですが、

彼がエッセイに書いた「犬の鼻に山葵を塗り、苦しがって走り転げまわる様を大笑いして見ていた」という文章を読んだ高校時代以来、彼の作品は読まなくなりました。

いつあんな不快感を味わうことになるのか、ビクビクしながらなんて読みたくありませんからね。

投稿: 山形ミクラス | 2010年4月19日 (月曜日) 午後 07時32分

>山形ミクラスさん

>>わが県の県民栄誉賞が検討されているらしい「文豪」に対してこんなことを書くと「非県民」扱いされそうなのですが、

ハンドルに県名を織り込んでおられるくらい愛郷心の強い山形ミクラスさんにまでそう思わせると謂うのが実に罪深いですね。

>>いつあんな不快感を味わうことになるのか、ビクビクしながらなんて読みたくありませんからね。

前のコメントで、「ここで書かれていることを彼が本当に行ったのだとしても、それを過剰に責めるには当たらないだろう」「斟酌すべき無理もない事情があるのであれば、人よりも猫を重視するのは行きすぎだろう」と書きましたが、本音の人情レベルの話をすれば、そんなことをするガキはガソリンを掛けて火を点けてやりたいとか、火の見櫓の天辺から落としてやろうかとか思っちゃいますけどね(笑)。

ただ、書き手の側でそう謂う情緒的反応を計算して狙っている部分って絶対ありますよね。これくらい愛犬家・愛猫家の神経に障ることを書けば「殺してやりたい」くらいのことは思うだろう、そう謂うふうに「多寡が犬猫のことで」人を殺したいと思うような考え方が非常識なんだ、滑稽なんだ、ペットブームの異常性だ、そう謂う風刺のロジックでしょう。

そう謂う計算が透けてみえる辺りが堪らなく不愉快です。

よしんばそこまでのことを考えていないとしても、そう謂うことをペットブーム批判に絡めて書くと謂うことは、犬猫を愛する人々が読む可能性も視野に入れながら、敢えて心理的なダメージを与えるようなことを書いているわけですよね。オレや山形ミクラスさんが挙げた例文を読んで想像しただけで、物凄く辛い気分を味わう人はたくさんいるはずです。

それを敢えて狙っているわけで、物書きのこう謂う倨傲は個人的に許せません。

>>しかし、オレが耐え難いほど憎いと思うのは、それを好い歳になってから、しかも著名な物書きとして世に認められるようになってから、嬉しがって面白可笑しく吹聴するその神経である。こう謂う心映えは窮めて醜い。

前回こう謂うふうに書いたのは、無分別なガキが過ちを犯すのはしょうがないが、分別の具わった大人がそれを何らかの意図で面白可笑しく吹聴するのは、他者に対する嗜虐心が動機だろうと思うからです。

実際に猫を焼き殺したり突き落としたりするのは動物に対する嗜虐心の問題でしょうけれど、それをわざわざ広く人目に触れる表現物上で吹聴するのは、その嗜虐心が人間に向けられていると謂うことです。

こう謂う言い方もアレですが、自分のカミさんを殴ることまでは個人の家庭問題ですから一般論としての批判を超えて他人があまり無遠慮に立ち入れないとしても、彼は本業のほうの「言葉」でもって不特定多数の読者の心を殴っているわけです。こう謂う人物が他でどんな良いことを書いていたとしても、一切信用出来ません。

投稿: 黒猫亭 | 2010年4月21日 (水曜日) 午前 11時22分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/48063910

この記事へのトラックバック一覧です: オレの識る井上某:

« アンドロイドはそもそも夢を見るか? | トップページ | でかいのが届く »