« 旡は牙ではない | トップページ | この際、是非とも絶滅してほしい莫迦のリスト »

2010年4月18日 (日曜日)

ニセ科学批判の恐怖本

…ってのはアリやナシや。

この「恐怖本」と謂うのは、例の「白砂糖は魔薬!?」とか「牛乳はモー毒?」みたいな食育冊子や「買ってはいけない」のような似非啓発本をはじめとする、読者の恐怖感を煽って結論に誘導するタイプの書籍のことだが、その種の手法を使う書籍がニセ科学の蔓延に一役買っていることは言うまでもない。

これに対するカウンターとして、ニセ科学の恐ろしさや他人事ではない部分を恐怖本スタイルでアピールする書籍と謂うのは、方法論としてアリだろうか。勿論、一種のパロディとしての性格を明示しつつ、一般消費者層をターゲットにニセ科学のもたらす日常生活への脅威の部分にスポットを当てた形式、と謂う意味だが、手法的に胡散臭い嫌いは否めないし、ニセ科学とニセ科学批判の双方の言説が同じ土俵に立つことで相対化された印象を免れないと謂う虞れがある。

ただ、多分ニセ科学批判に対する世間的な無関心は、それが日常生活に関係ない科学的な正誤の問題にすぎないと謂う思い込みから来ているように思うので、そこを橋渡しして、生活人の利害に直結する窮めて卑近な問題であり、一種「買ってはいけない」が本来対象とするべきだった消費者視点の品質問題でもあることを明示すると謂う意味ではあっても好いのかな、と謂う気もする。

その辺、皆さんのご意見を伺ってみたいところである。

|

« 旡は牙ではない | トップページ | この際、是非とも絶滅してほしい莫迦のリスト »

コメント

そうですねぇ、どうしてもニセ科学批判という分野はアカデミックな展開になりそうだし、科学に興味のない人々の関心を引くようなものにはなりづらいという嫌いはあるでしょう。
しかし、相手と同じ土俵に上がるのもどうかな、と言う感じはします。いや、有効かどうかと言うと劇薬的効果はありそうですが、ものすごい綱渡り的技術になりそうで、少なくとも僕みたいな半端な人間にはできそうもないですね・・・。

世の中には中身をみないまま表面だけ眺めて「別世界の人間同士が訳のわからない、やりとりのやり方としては程度の低い争いをしている」とみられなくもないと言う怖さを感じるんですね。
僕は不特定多数の、それこそ色々な人々と接する仕事をしていますが、ホントにとんでもなく科学リテラシーの低い人もいっぱいいますからねえ・・。

ということで、アリかナシかというと、全くナシとも言えないけど、やるなら相当綿密に練っておかないと、ますます世間からは別世界にみられてしまう可能性が高いのではないかと言う感じでしょうか。

・・・あ、なんだかやるならおまえがやれよ、と言ってるみたいだ。なんか情けない意見ですいません。

投稿: がん | 2010年4月18日 (日曜日) 午前 11時12分

どちらかと云うと、と学会的なアプローチに類似したかたちになるんでしょうね。
方法としてはありだと思いますが、「どううまくやるか」と云う技術的な部分がそうとう重要になってくるように思います。

投稿: pooh | 2010年4月19日 (月曜日) 午前 07時45分

とはいえやはり、「ホメオパシーで医療ネグレクトの恐怖」とか、「芳潤な香りのするカビが生えた御飯を食べてえらいことに」みたいな話は言うべきだろうと思いますし……って、そういう話じゃない?

投稿: hietaro | 2010年4月21日 (水曜日) 午前 04時47分

>がんさん

ご意見ありがとうございます。

>>そうですねぇ、どうしてもニセ科学批判という分野はアカデミックな展開になりそうだし、科学に興味のない人々の関心を引くようなものにはなりづらいという嫌いはあるでしょう。

仰る通りで、仮に「ニセ科学」と謂う概念を識っていても「科学者にしか関係のない話だろ」と謂う誤解が罷り通っているんじゃないかと思うんですが、本当は逆なんですよね。常々きくちさんやapj さんが仰っているように、科学者の多くはニセ科学みたいなものには関心がないわけで、科学的な観点から視ればニセ科学が議論の余地なく間違っていることは当然すぎるほど当然で、したがって誰もそんなものにリソースを割きたくないと謂うのが本音です。

ニセ科学は主に一般的な生活者にとって重大な問題なのだし、日頃科学に興味も関心も持たない人が識らぬ間に被害者になっていたり加害者になっていたりする、そう謂う種類の問題なんですね。ですから、恐怖本と謂うスタイルがあり得るとしたら、主要な目的はその部分の誤解を解消して、極一般的な人々に自分たちにとっての問題であることを周知させる・納得させると謂う部分にあるでしょう。

>>しかし、相手と同じ土俵に上がるのもどうかな、と言う感じはします。

>>世の中には中身をみないまま表面だけ眺めて「別世界の人間同士が訳のわからない、やりとりのやり方としては程度の低い争いをしている」とみられなくもないと言う怖さを感じるんですね。

問題はそこですよね。本文でも「ニセ科学とニセ科学批判の双方の言説が同じ土俵に立つことで相対化された印象を免れない」と書きましたが、人間と謂うのは誰かと誰かが本気で争っているのを視ると途端に醒めてしまって、どちらかに与するのではなく、寧ろ論題から距離を置いた無関心の立場を護ろうとするものです。これが「どっちもどっち」式の雑な印象を招かないとは謂えないでしょう。

また、ニセ科学批判の言説の印象レベルの信頼性と謂うのは、一種ニセ科学言説と同じ土俵に登らず冷静で客観的な考察や議論を維持する部分にあるわけで、ニセ科学言説や恐怖本のように「ターゲットへの訴求」を第一に考えるような表現手法では、その印象レベルの信頼性は放棄すると謂うことにもなりかねません。

ただ、上記のような要件にはいずれも功罪両面があるわけで、ニセ科学批判の言説が一般人の興味を惹かないとしたら、それは「自分の問題ではない」と謂う誤解に基づく局外者的な無関心が罷り通っているからだし、逆に、ニセ科学批判の言説に印象レベルの信頼性が伴うのは、それが一般人とは無縁の「アカデミックな議論」と謂う印象を与えるからではあります。

一種、信頼性・正確性と謂う要素と、訴求性・浸透性と謂う要素は、表現の相補的要素でもあるんですね。そして、相補的であると謂うことは表現物のバランスやデザインの問題だと謂うことです。

ここでも何度か書いたように、オレはニセ科学批判を「説明」の観点で考えているところがあって、その連続上で考えると、「どう説明するか」と謂う問題の一環として当然「ターゲットへの訴求」と謂う部分にも考えが及びます。そうすると、訴求性・浸透性方向に振れると謂うことは、その分だけ信頼性・正確性が犠牲になる部分が出てくるわけですから、情報の取捨選択が難しくなってきます。

そして、「ニセ科学とニセ科学批判が同じ土俵に立つ」「相対化される」と謂うことはニセ科学批判の言説が俗化する・消費されると謂うことだろうと思うんですが、おそらく幅広い層に周知され浸透するには、いずれ避けて通れないプロセスではないかとも思うんですよ。俗化する・消費されると謂うのはそう謂うことなので。

>>ということで、アリかナシかというと、全くナシとも言えないけど、やるなら相当綿密に練っておかないと、ますます世間からは別世界にみられてしまう可能性が高いのではないかと言う感じでしょうか。

はてブのブコメや他の方のコメントを拝読しても、皆さん同じように感じておられるみたいですね。「アリだろうけど、とても難しい」、結論はやはりそう謂うところになるでしょうね。オレも同感です。

>>・・・あ、なんだかやるならおまえがやれよ、と言ってるみたいだ。なんか情けない意見ですいません。

いや、実はオレの会社でも書籍制作に色気を出していて、広く企画や文案を募っているみたいなので、ダメ元で企画を出してみようかとちょっと考えたんですが(笑)、実績も信用もないですから通るとは思えないですし、通ったら通ったでオレの手には余りそうなので、ちょっと意見を募ってみました。

そもそもウチの会社の営業力で話を通せるとも思えないですから(笑)、まあ最初からかなりふわっとした話ではあるんですが、限りなくゼロに近くても機会があるなら出来ることくらいやってみようかなと思いまして。

投稿: 黒猫亭 | 2010年4月21日 (水曜日) 午前 11時21分

>poohさん

ご意見ありがとうございます。

がんさんへのコメントに書いたように、所詮は社内の個人的な点数稼ぎレベルの話ではあるんで、大変恐縮です(笑)。

>>方法としてはありだと思いますが、「どううまくやるか」と云う技術的な部分がそうとう重要になってくるように思います。

仰る通りですね。一つ考えられるのは、恐怖本と謂うのは、謂ってみれば「訴求の為に嘘も辞さない」寧ろ「積極的に嘘を交えて訴求する」と謂う性格のものですが、ニセ科学に関しては嘘を吐かなくても十分恐怖を訴求出来ると謂う部分ですね。

ちょっと考えたのは、一般的なニセ科学批判の言説の一般社会や市井人との接点の部分にフォーカスして、市井人視点のデメリットにウェイトを掛ければ、まったく嘘を吐かずに恐怖を訴求出来るんじゃないかと謂う思い附きレベルなんですが、これはこれで具体的に文案を考えていくとかなりデリケートで表現手法上難しい部分はありそうです。

投稿: 黒猫亭 | 2010年4月21日 (水曜日) 午前 11時21分

>ひえたろうさん

ご意見ありがとうございます。

>>とはいえやはり、「ホメオパシーで医療ネグレクトの恐怖」とか、「芳潤な香りのするカビが生えた御飯を食べてえらいことに」みたいな話は言うべきだろうと思いますし……って、そういう話じゃない?

いや、そう謂う話ですよ(笑)。白砂糖とか牛乳が怖いと謂う恐怖を訴求する場合、どうしても嘘を吐いたり、そのつもりはなくても莫迦丸出しの短絡思考が必要じゃないですか。でも、「ホメオパシーで医療ネグレクト」って嘘でも短絡でもなく、まるまるホントの話でしょう。

ウェイトの置き方次第では、鉄板ガチガチでいざとなれば専門家の援護射撃を貰えるようなホントの話をするだけで十分以上に恐怖を訴求出来るのが、実は「俗化」の観点で考えた場合のニセ科学批判の強みなんではないかな、と謂うのが思い附きの骨子なんですけど、やっぱりその匙加減と表現手法ですね。

おそらく狙い所としては「タイトルや見出しで煽っているけど、中身は案外マトモな代物」「看板で誤解されやすいけど実は極真面目な書籍」と謂う辺りが想定ラインなんではないかと思うんですが、まあ亀@渋研Xさんもブコメで仰っている通り、机上の思い附きを成果物レベルまで具体化するのは物凄く難しいですね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年4月21日 (水曜日) 午前 11時23分

こんにちは。

今旬と謂えば「やる夫で学ぶニセ科学」じゃないですか?
ちょっと遡るなら「MNR(マガジンニセ科学調査班)」とか。

ごめんなさい、仕事が落ち着いたら真面目にコメントします(まぁ、いつもこんなもんですけど)。

投稿: うさぎ林檎 | 2010年4月21日 (水曜日) 午前 11時57分

>うさぎ林檎さん

ご意見ありがとうございます…と言いたいところですが(笑)、じゃあ本格的なレスはもうちょっと待ちますね。

>>今旬と謂えば「やる夫で学ぶニセ科学」じゃないですか?
>>ちょっと遡るなら「MNR(マガジンニセ科学調査班)」とか。

一つ目はわれらがTAKESAN さんの書かれた良テクストですね。二つ目は不勉強で識りません。「やる夫」は、広く括ればこちらでもリンクしている「おか科」路線の対話形式の概説テクストで、よく出来ていると思います。

実は、こう謂うことを考えたのは、ニセ科学の概説や噛み砕いた解説と謂う正統派な方向性なら、たとえば「おか科」や「かがこわ」とか今準備中と聞いている「ニセ科学入門」、また先頃リンクさせて戴いた「疑似科学とのつきあい方」と謂う具合に、きくちさんなど本職の方が手懸けられるのが筋だろうと思うからで、何か電車道以外のニッチはないかな、と考えたからなんですが(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年4月21日 (水曜日) 午後 12時18分

こんにちは。
面白そうな話ではあると感じております。
本文を読んでの意見等は他の方が述べられているものと大差がありませんので、自分の事を書かせていただきます。
私のブログ記事、マクロビ保育園シリーズはこのテーマと比較的近いスタンスで書いております。
公衆衛生を脅かす言説には事実を羅列しても、見ている側は恐怖を感じる事でしょう。一部の問題のある助産院話もこの系統ですよね。
私は現在、所謂ニセ科学批判批判を行いたいと考えている処なのですが、これも難しいですね。自分の手に余るという状態です。

投稿: どらねこ | 2010年4月21日 (水曜日) 午後 01時19分

>どらねこさん

ご意見ありがとうございます。

>>私のブログ記事、マクロビ保育園シリーズはこのテーマと比較的近いスタンスで書いております。

これは不謹慎な言い方かもしれませんが、ネットの表現行為の一つとして視た場合、どらねこさんのところのマクロビ保育園シリーズは、かねてよりたとえば「今夜妻が浮気します」とか「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」と近似の当事者的アクチュアリティとルポルタージュ性があるんじゃないかと思っていました。

このスタイル(と謂うのも変ですが(笑))の強みも弱みも、そのアクチュアルな当事者性と濃厚な情報の密度にあるわけで、体験談ならではのディテール情報もさりながら、実の我が子を人質にとられている状況で如何にして好ましからざる「思想」から家族を護るかと謂う先が読めないスリリングな部分に、同じような立場にある親御さんの共感を呼ぶところがあるんじゃないかと思います。

勿論「弱み」と謂うのは子供を人質にとられていると謂う部分で、しかも子供の日常的な生活時間の大部分をその種の思想の持ち主の支配圏に置かねばならないと謂うところなんですが、一般的なコンセンサスとして「親はたとえ他人から後ろ指を差されても、たとえ我が身を犠牲にしてでも、絶対的に我が子を護らねばならない」と謂う考え方が主流的ですから、親ならではの当事者性が安直な批判偶数組の容喙を許さずに考えを陳べる自由度の根拠附けとなっていて、これが最大の「強み」だろうと思います。

>>公衆衛生を脅かす言説には事実を羅列しても、見ている側は恐怖を感じる事でしょう。一部の問題のある助産院話もこの系統ですよね。

仰る通り、ニセ科学と謂うのは、普通の思考力と想像力さえあれば、事実とそれが招来する好ましからざる可能性だけを列挙しても、物凄く空恐ろしいものです。一種世間で他人事としてとられているのは、その思考力や想像力乃至はそれを働かせようとするモチベーションの欠如による無関心の故ですから、そこにウェイトを掛けて懇切丁寧な説明で補えば、胡散臭い煽り文句や虚偽情報抜きでも普通に恐怖本になっちゃうんじゃないか、これが発想の原点です。

>>私は現在、所謂ニセ科学批判批判を行いたいと考えている処なのですが、これも難しいですね。自分の手に余るという状態です。

オレがニセ科学批判の論壇を識った頃は批判偶数組がまだ元気でしたが、今は何だか大人しい…と謂うか、実効的な意味では無力化されているんじゃないかと思います。その当時から謂われていたことは、「意味ある批判批判は結局ニセ科学批判の中からしか出て来ないだろう」と謂うことで、「何の為に批判するのか」と謂う部分を突き詰めればそれはニセ科学批判の精度や効果を高める為以外はないわけですから、従来のタイプの批判偶数組の言説は意味がないわけですね。

そう謂うプロセスを踏まえて意味のある批判批判をやろうと考えると、これはもうかなり難しい。多分その困難の最大の要件は、何らかの新奇な提案を含む意見でない限り意味はないだろうと謂う部分で、オーソドックスな思考の範疇で可能な反省はやり尽くされているような印象があります。

ただ、やはり現状レベルを突き抜けていくにはブレークスルーが必要なわけで、どらねこさんのお考えには興味があります。

投稿: 黒猫亭 | 2010年4月21日 (水曜日) 午後 02時36分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ニセ科学批判の恐怖本:

« 旡は牙ではない | トップページ | この際、是非とも絶滅してほしい莫迦のリスト »