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2010年4月12日 (月曜日)

アンドロイドはそもそも夢を見るか?

一カ月以上前にどらねこさんとお約束を交わしておきながら、今まで纏まったものが書けずに放置していたのがエドマンド・クーパー作「アンドロイド」の書評である。

如何に我が家が読書に適していない環境(主に「特定外来生物による家庭環境等に係る被害」が原因で)だとはいえ、往復の通勤で毎日二時間くらい読書の時間が取れるのであるから、左程厚みのない小説の一冊くらい半月前に読了していた。

しかし、今年に入ってからどうも週末の酒量が増えてしまっていて、「朝起きて酒を呑んで昼飯を喰って寝る」「夕方起きてまた酒を呑んで晩飯を喰って寝る」の二ラウンドマッチに終始して纏まった文章が書けずにいた(笑)。

…とまあ、言い訳の中身は一向変わり映えしないのだが(笑)、たまにはちゃんとしたものを書かないと存在を忘れられてしまうので、酒を呑んで飯を喰って寝る合間にこれを書いている(笑)。

前置きはこれくらいにして本題だが、この作品を初めて読んだのは多分三〇年以上前のことではないかと思う。オレの個人史上の読書傾向をザックリ謂えば、中高生時代は角川の仕掛けた横溝ブームが直接のきっかけとなって黄金期の古典ミステリにどっぷりハマり、高校から大学にかけてはトクサツとの関連から「宇宙船」や「スターログ」などの雑誌を講読していたことが呼び水となって古今和洋のSF小説を濫読していたから、おそらくそのくらいの時期に古典の傑作の一つとしてこれを読んでいるはずである。

当ブログでは専ら映像作品のレビューをメインにしているので、書評と謂うのは剰り得てではないのだが、念の為に早川文庫版の背表紙に書かれた粗筋を掲げておく。

水爆戦争に備える政府の冷凍計画に従事していたマーカムは、ふとした事故から冷凍状態のまま150 年の時を眠っていた。やがて意識を回復した彼の見たのは、妻にそっくりの超高度ロボット———アンドロイドのマリオンAだった。政治にいたるまでの一切の仕事が忠実なこれらのアンドロイドに委ねられている22世紀にあって、マリオンAはマーカムに人間的感情を教えられる。だが、それがいつかマーカムへの恋心となったとき、アンドロイド万能の社会に反旗を翻す彼の前で、彼女が選んだのはもっとも人間的行為———自殺だった。不朽のアンドロイド女性を生んだ名作登場!

…こらこら、「てにをは」が変なのまでは許すとしても、オチまで全部書いてどうするんだよ(笑)。

今再読してみると、アメリカSFともニューウェイブSFとも違う英国古典SF小説ならではの落ち着いた文芸性があり、初読の印象よりも思弁的な要素が強く感じられたのだが、別の言い方をすれば「所謂ディストピア物」の雛形的な印象もあり、この雛形から生じたラインとしては、たとえば表題でもじった「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」や「マトリックス」三部作、「ターミネーター」シリーズなんかが容易に挙げられるだろう。

要するに今では手垢にまみれたテーマであり、現在では固有のアイディアと謂うよりパブリックドメインの物語的枠組もしくは「ジャンル」の一種と目されている物語構造を具えているわけである。作中で語られる社会に対する考察や思弁も、今の目で視るとやはり古色蒼然たる感を免れないだろう。

就中今の目で視て最も違和感を感じるのは、半世紀前の感覚で描かれているのだから仕方がないとはいえ、アンドロイドによる人間の監視手段が「覗き見と密告」と謂う一九世紀のスパイスリラー的なローテクだと謂う部分である。サイバーパンクを通過した現代の感覚で謂えば、高度な技術で自己再生産と驚異的な進化まで可能になったアンドロイドが、人間を監視する手段として小間使いのように主人の話を立ち聞きしたり官憲に自ら口頭で密告したりと謂うのは、如何にも前世紀の発想に思える。

現代の社会はクーパーの想像した未来よりも監視と密告の手段が洗練されていて、至るところにカメラやセンサーが据えられているのだし、単なる一般人の誰もが掌に収まる大きさの通信機器を携帯している。士郎正宗が描き出すような社会においては、人間を監視するのに何も鍵穴から覗き見したり会話を立ち聞きする必要などないのだし、それを中央権力に密告するのに指一本動かす必要はない。

多分、クーパーの想像した未来の密告社会よりも、現実の情報化社会のほうがよっぽど恐ろしい危険性を秘めている。

しかし、オレの識る限りでは「アンドロイドと人間の本質的な違いは何か」即ち「人間を人間たらしめる決定的な条件は何か」と謂うディック的な設問や「人工知能による幸福な支配を受け容れた社会におけるレジスタンス」と謂うお定まりの道具立ての嚆矢となったのがこの作品ではないかと思っている。

今ではお馴染みのこの道具立てを、社会風刺の寓話がお家芸である英国圏の作家が初めて書いたわけで、そのような観点で視るとSFと謂うより古風な風刺劇のような雰囲気を持つ作品である。ウィキを読むと、この作品は英国の作家の手に成るとはいえアメリカの出版社から刊行されたわけで、であればこの作品の物語構造がさまざまな変奏を蒙りながらアジモフとは別系統のロボット物の一潮流を形成していることも不思議ではないだろう。

ただ、どらねこさんのところに書いたように、今より三〇歳若かったオレがこの作品を読んで最も強い印象を受けたのは、メインヒロインのマリオンAを巡るメロドラマ部分のリリシズムである。一方にはヴィヴェインと謂う奔放な二二世紀人のヒロインもまた主人公マーカムの周囲に配されているが、レジスタンスが劇化する物語のクライマックスではすっかり後景に退いて、ラストシーンはマーカムとマリオンAの切ない別れの一場で締め括られている。

物語構造とはまた別に、このマーカムとマリオンAの関係性こそが、どらねこさんの元のエントリで「感情萌芽もの」と表現されている類型の嚆矢ではないかと思うのだが、更めて再読すると、マリオンAの感情の芽生えの描写は作品の思弁的テーマである「人間を人間たらしめる決定的な条件」との関連にウェイトが掛かっていて、主人公マーカムの側にはマリオンAに芽生えた愛の感情に呼応するような痛みが描かれていない。

ラスト一ページでは、自らのアンドロイドとしての存在理由と新たに芽生えた人間的感情の葛藤を解決する合理的解法としてマリオンAが選んだ選択肢を悟りながらマーカムはそれを黙許し、彼を待つヴィヴェインの許へと歩み寄る。そのマーカムの心情の描き方が剰りに味気ないように感じてしまう。

ただ、多分オレは昔も今もマーカムがマリオンAに芽生えた愛情に応えることなど求めていないのだろうと思う。

マーカムは、謂ってみればステロタイプの反権力の英雄であり、彼の視点で描かれる物語では勿論彼の内面の苦悩を語ってはいるのだけれど、後半の彼はレジスタンスのリーダーに祭り上げられ、人間的な逞しさを残す二〇世紀人として知的洗練と引き替えに闘争的バイタリティを喪った二二世紀人を率いて敢然とアンドロイドの支配に立ち向かうマッチョとして描かれているのだが、こう謂うタイプのヒーローがヒロインに対して酷薄だったり身勝手であることに不思議はない。

本来なら、彼は「九日間のトランキライザー」と呼ばれる核戦争によって妻を喪い、今また妻に似せて創られた(アンドロイドたちのほんのちょっとした「気遣い」で彼の所持品にあった妻の写真に似せて創られたのだな)マリオンAを喪ったわけで、謂わばアクシデントで冷凍睡眠に陥った為に関与出来なかった妻の死を疑似体験させられた立場なのだから、もっと悲劇的な傷手を蒙ってもよさそうなものだが、作中で描かれているのはマリオンAの自死によって救済された彼の魂の晴れやかさである。

だとすれば、やっぱりマーカムはマリオンAを自らと対等な存在ではなく奉仕する機械としてしか視ていなかったと謂う解釈にもなるわけで、そもそもマリオンAが人間的な感情を具えるに至ったのは、マーカムの意地悪な「実験」の成果である。

アンドロイドの学習機能が優れたものであるなら、人間的感情もまた学べるはずだと謂う予測の下に、飽くまで彼に従順なマリオンAに対して、一種サディスティックなまでの熱意を持ってマーカムは「実験」を繰り返し、その成果としてたしかにマリオンAは人間的感情を具えるに至り、さらにはマーカムへの愛情まで覚えるに至ったわけであるが、作中の描写を読む限り、マーカムはマリオンAを一度も自身と対等な存在として認めていないように見える。

穿って考えれば、妻とそっくりに創られた機械人形を「教育」して人間と同等の存在にすることで、自分の与り知らぬところで死んだ妻を蘇らせたのだとも読めるが、彼のマリオンAに対する感情は、外見的には妻に酷似していながら決して妻ではなく、プログラムされた「機能」を正確に果たすことしか識らない「機械」に対する苛立ちや敵意と裏腹のものとして描かれている。

そのような苛立ちや敵意をぶつけられるマリオンAは、次第に芽生えた人間的感情と自らの存在理由の板挟みに悩み、マーカムの身勝手な感情的反撥に晒されながらも決して彼を裏切ることなく終始マーカムに対して無償の奉仕を捧げるのであるから、おそらくこれはピグマリオニズム的な観点で描かれた作者の理想的な女性像なのだろうと思う。

であるから…と引き取ることが正しいのかどうかはわからないが(笑)、オレがこの作品に感じた魅力と謂うのは、マリオンAの女性像に対する憧れではなく、原理的に決して見返りを得ることが出来ない愛情を存在理由を賭けてまで躊躇なく貫くマリオンAの強い感情に対する共感である。

「いいえ、ジョン、終りまで聴いて下さい。今のあなたはヴィヴェインのものです。あのひとはあなたを倖せにすると思います。でも、わたくしは———わたくしには永久に分からないことですけれど———わたくしもあなたを、わたくしなりの方法で愛していると思います」
「マリオン———」
「お願いです!」彼女の声は低くふるえていた。「何もおっしゃらないで下さい。ジョン。わたくしは幻想を大切にすることを教えていただきました。わたくしはもう幻想だけで満足です。それ以上は何も求めません」

幻想だけで満足しそれ以上何も求めない愛情と謂うのは、最も頑固な愛である。限りなく人間に近附いても決して人間にはなれず、定義上世界の終わりまでアンドロイドでしかない「モノ」が人間に対して抱く「幻想」がどんなものなのかを想像することが人間には出来る。

これは、一種古典的であり普遍的でもある課題設定であり、こう謂うふうに愛されたいと望むことは人として少し恥ずかしいことなのかもしれないけれど、こう謂うふうに愛することの痛みを識らないことは人としてもっと恥ずかしいことで、「機械」でさえも識っていることすら識らない人なんだろうとオレは思う。

マリオンAは作中で最も進化したアンドロイドであり、彼女以上に優秀なアンドロイドは、アンドロイド集団のトップに位置するソロモンくらいである。であるから、マリオンAは人間の果たす「機能」を限りなく学習することが出来るのだし、さらに人間的感情をも持ち合わせるのであれば、それは殆ど人間と変わりのない存在だと表現出来る。

しかし、マリオンAは自身のことを「あなたはアンドロイド以上のものになることを教えて下さいましたが、わたくしはいつまで経っても人間以下のものなのです」と認識している。事実においてアンドロイドである限り、どれだけアンドロイドを超越した存在になろうとも、それは人間と「まったく同じ存在」ではない、作品のテーマもそこにあるのであって、どれだけアンドロイドが進化しても人間とまったく同じ存在にはならないのだと謂うことがこの作品の結論である。

謂わば、人間が人間であることの自明性をシミュレーションによって人工的に獲得することは出来ないと謂う認識が前提に据えられているわけであるが、であればマリオンAがどれだけ人間に限りなく近い存在になっても、人間そのものにはなれないと謂うことになる。アンドロイドに対するレジスタンスが勝利に終わったとき、マリオンAが死を選ぶのは、そう謂う意味では論理的必然であって、「人間的行為」だからではないと謂えるだろう。

アンドロイドと人間の闘争において人間が勝利すると謂うことは、アンドロイドがアンドロイドであることを求められると謂うことであり、他ならぬマーカムの「実験」の故にアンドロイド以上の存在となったマリオンAに居場所はない。だから彼女は必然的に自らを殺すのである。

つまり、この作品におけるメロドラマ的な骨子は、昔ながらの普遍的なテーマである愛の不可能性とそれが導く必然的な自滅と謂うものである。マリオンAが識った愛はその感情が生まれた瞬間から不可能性を運命附けられていて、その不可能な愛がマリオンAを殺したのである。

このくだりの続きは以下の通りである。

「なぜ、こんな話をしなきゃならないのだ、それを言ってくれ」
「それは」と、マリオンAはゆっくりと言った。「わたくしが———わたくし自身と秘密の約束をしたからなのです。もしアンドロイドが勝ったら、わたくしはあなたを分析にかけさせないために殺してしまう、そう約束しました。アンドロイドが負けたときのことも、決めました」
「それは?」
「ジョン、お願いしたいことがあります。『マリオン、きみは幸福の意味をつかんだ』とおっしゃって下さい。それから、振り返らずに、ここを出て行って下さい」

この作品はアジモフの「われはロボット」よりも後に書かれた作品だが、おそらくこの時点では「ロボット工学三原則」はロボットテーマのパブリックドメインの道具立てにはなっていなかったのではないかと思われる。

と謂うか、たとえば、ミステリにおける「ノックスの十戒」のように、ロボットテーマでアジモフの三原則を踏まえていないと違和感を感じるような感覚は、多分一時期だけのものであったと思われる。少なくとも、この作品が書かれた時代や現代のSF映画においては、すでに三原則はロボットテーマのマストアイテムではない。

したがって、この作品に登場するアンドロイドは必要に応じて人間を殺すことが出来るのであるが、レジスタンスが激化するまでは、思想的に穏当でない人間は「分析」と謂う名目で人格改造される、そのような「洗練された」方法でアンドロイドは危険分子を排除している。言うまでもなくそれは、ただ単に生理的な意味で殺されるよりももっと本質的な意味で殺されてしまうことを意味している。

おそらくマリオンAに芽生えた人間的感情の最も顕著は発露は、愛する人を「分析にかけさせないために殺してしまう」と謂う決断を下したことだろう。作中で描かれたアンドロイドの思考形態では、社会的不適応分子を「分析」にかけて人格改造を施すことは何ら悪いことではない。それは、「機能」の観点における不具合の修正にすぎないのであり、それによって人間は社会に適応することが出来て心から生を楽しむことが出来るようになるのであるから、当たり前の処置である。これは人間的な嗜虐性に基づく残酷さではなく機械的な無理解の故の残酷さと表現出来るだろう。

マリオンAは、それをマーカムが望まないからと謂う理由だけではなく、自分がそう望まないからマーカムを殺してしまうと決めた、それは自殺を選んだことよりも本質的な人間性の理解であり、それは愛の感情を動機として得られたものである。

おそらく、些か勿体振った思弁が前に出るこの作品において、その思弁やアイディアが古びてしまっても消えない最も大きな魅力とは、やはりその普遍的なメロドラマ性にあるのであって、不可能を宿命附けられた愛を愚直に貫くアンドロイドの「感情」の強さだろうとオレは思う。

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コメント

レビューじっくりと拝見いたしました。
私も同じ文章を読んだ筈なのですが、そこまでは読み取れなかったようです。おそらく、前提知識や読書量の違いに拠るのでしょうけれども。
黒猫亭さんもご指摘ですが、アンドロイドの監視手段のローテクぶりにちょっぴり微笑んでしまいましたが、作品を愉しむために、それはアンドロイドが人間を自分たちの都合の良いように管理するという視点を持たないで、人間を監視するという矛盾を持っているのかな、などと適当に解釈して読み進めておりました。
作品世界は自分の頭の中では、落ち着いた緑にかこまれ、しかも丁寧な管理が行き届いた公園が続いているものでした。戦闘描写ものどか(?)なものでしたし・・・
私は文章を構築するのが苦手であるので、ここから先は手抜きをして、黒猫亭さんの本文を引用させていただきながら思ったことなどを述べさせていただきます。

>マリオンAの感情の芽生えの描写は作品の思弁的テーマである「人間を人間たらしめる決定的な条件」との関連にウェイトが掛かっていて、主人公マーカムの側にはマリオンAに芽生えた愛の感情に呼応するような痛みが書かれていない。

此処には物足りなさを覚えましたが、マリオンAに生まれた感情描写に当たる部分の物足りなさを満足させるような作品が後に生まれているというのが、黒猫亭さんが、オススメされた理由なのかな、と感じました。この作品を知っているか知らないかで系譜とされるような作品の印象が大きく変わりそうです。

>昔も今もマーカムがマリオンAに芽生えた愛情に応えることなど求めていないのだろうと思う。

同感です。行動主義の心理学者が被検体をみるような目なのかも知れません。最後にそれによって救われた現実に対する情動の描写もそんな感じな気がします。マッチョとはうけとりませんでしたが。

>ピグマリオニズム的な観点で書かれた作者の理想的な女性像
 
昔の物語を読むとこのような感覚を覚えます。昔の作品を読むことで現代の作品から見えてくるモノがありますね。

>わたくしには永久に分からないことですけれど
>わたくしはもう幻想だけで満足です。それ以上は何も求めません

彼女はヒトとしての感情そのものを手に入れる事が出来ないことを理解していたけれど、その為の時間も十分でなかったと思うのです。さらに、相手が何も求めなかったとしても、その気持ちに応えたいと思う気持ちを押しとどめることは出来ないと思うのです。時間だけでなく、相手次第ではその可能性もあったと思うのです。彼女の想いを受け止めたのはマーカスではなく、後の時代にこの物語の系譜を記した作家達であったのではないでしょうか。なんとなくですが。

>不可能を宿命附けられた愛を愚直に貫くアンドロイドの「感情」の強さだろうとオレは思う。

そうですね。私は最後のシーンではあまりジーンと来ることは有りませんでした。

作中に、マリオンAは夢を見たという描写が有りました。夢を見ることができた彼女は幻想だけで満足し、自殺を選びましたが、不可能な幻想を夢見て、その先を知りたいと思うまでには至りませんでした。
アンドロイドが幻想の先を夢見るには時代が早すぎたのかもしれません。

投稿: どらねこ | 2010年4月13日 (火曜日) 午後 02時11分

>どらねこさん

何とかお約束を果たすことが出来てホッとしております(笑)。

>>黒猫亭さんもご指摘ですが、アンドロイドの監視手段のローテクぶりにちょっぴり微笑んでしまいましたが、作品を愉しむために、それはアンドロイドが人間を自分たちの都合の良いように管理するという視点を持たないで、人間を監視するという矛盾を持っているのかな、などと適当に解釈して読み進めておりました。
>>作品世界は自分の頭の中では、落ち着いた緑にかこまれ、しかも丁寧な管理が行き届いた公園が続いているものでした。戦闘描写ものどか(?)なものでしたし・・・

そうですね、この作品の世界設定では、アンドロイドの登場によって人間が労働から解放され、武力が放棄されていると謂うことになっていますから、レジスタンスとアンドロイドの戦闘が自動拳銃と手榴弾と謂うゲリラ戦レベルの小規模な武装によって戦われていることにも設定上の理由附けがありますし、アンドロイドによる人間の支配と監視は「陰謀」と呼べるほどにアンドロイド側に意識されていないように描かれています。

人間同士の圧制と服従のアナロジーと謂うより、これはおそらく異種族間の「種族間闘争」と謂う観点で描かれているのだと思います。ですから、人間が人間を支配する場合のような「巨大な陰謀」によって人間を欺いているのではなく、アンドロイドによる徹底した人間への「奉仕」が結果的に人間を堕落させ、自由を束縛して「支配」と同義になると謂うサタイアが描かれているのだと思います。

作中では、アンドロイドの存在意義が「人間に奉仕すること」とされていて、その意味では親玉のソロモンが最後に語る言葉は事実であって、アンドロイドの「支配」はその「奉仕能力の論理的拡張」にすぎないわけですね。

ただ、アンドロイドとしてのソロモンの機能的優秀性は、人間性を獲得するに至ったマリオンAの優秀性とは性格の違う、人間から視れば不気味な性格を持つ進化であって、彼の謂う「奉仕能力の論理的拡張」はついに人格改造のみならず殺人をも許容すると謂う状況に至ります。

人間に奉仕する為に人間を殺すと謂う変な状況になるわけで、これはつまり、強大な権力による洗脳や殺人をも含む圧制的「支配」もまた「奉仕の論理的拡張」であり得ると謂うことになります。ちょっとこの辺は、ドストの「大審問官」とか権力の発生に関する文化人類学的な考察なんかを想起させられるところではあります(笑)。

本文では意図的に時代背景的なものには触れませんでしたが、おそらく二〇世紀後半に書かれたディストピア小説においてディストピア社会のモデルになっているのは、大概ナツィス・ドイツか共産主義国家が定番なんですね。

細かく謂うと、この作品はちょうどフルシチョフ時代の「雪解け」の時期に書かれていますから、キューバ危機以降に書かれた小説よりもディストピアの共産国家色がヌルいですが(笑)、市民として登録されていれば漏れなく一定の収入が確保出来て人間は余暇を楽しむだけで好い、と謂うのは物凄く単純化された共産国家のイメージですね。

この辺の設定的なヌルさは、これが雪解けの時期に書かれた作品だと考えるとたしかにフルシチョフ時代の世界状況のムードを反映しているのかな、と思わないでもないですし、また「価値観の強制と異分子の排除に基づくグローバリズム」と謂う意味では、これはパクス・アメリカーナ的でもあるわけで、一方的な共産主義国家への嫌悪感だけがベースになっているわけではありません。

これは作者が英国人であることとも関係があるのかもしれませんが、大戦後の世界構造において対立する両陣営の旗手である米ソを俯瞰で視る第三者的視点で書かれているのかもしれません。SFもまた人間の文学である以上、地域性や時代のムードから自由であり得るものではないと思わされます。

>>此処には物足りなさを覚えましたが、マリオンAに生まれた感情描写に当たる部分の物足りなさを満足させるような作品が後に生まれているというのが、黒猫亭さんが、オススメされた理由なのかな、と感じました。この作品を知っているか知らないかで系譜とされるような作品の印象が大きく変わりそうです。

仰る通りです。元々の発端が「感情萌芽物」とどらねこさんがお呼びになった類型の作品群についての考察ですから、「非人間的知性に人間的感情が芽生え人間との間に情緒的交流が生まれる」と謂う物語類型に関して、これが或るピリオドを画する作品となるだろうとオレは思います。

勿論、「この作品を読まずにそんなことを語ってほしくないぜ」と謂うような傲岸な趣旨ではなく(笑)、多分この種のラインの物語群の多くは「読み筋」を遡るとこの作品の一定の影響の下に生まれた可能性が高いので、実際にお読みになれば何かしら感じるところがあるのではないか、くらいの動機です。

映像文芸にせよ活字文芸にせよ、オレは文芸においてはこの「読み筋」と謂うものがかなり重要だと考えていて、たとえば映画カテゴリの蓮實重彦に関するエントリなんかでもそう謂う話をしていますが、文芸は点で視るより線で視たりその線の錯綜が構成する三次元的な構造を意識して視たほうが面白い。

そう言えば、「映画は点で見るな。線で見ろ」と上手いことを言った人がいて、言っていることだけを読むと宜なる哉ではあるんですが、ただ、問題なのはその言葉を発した人物が「亀山千広」だと謂うことでして(笑)。

>>行動主義の心理学者が被検体をみるような目なのかも知れません。

小説の発端部を読むと、主人公のマーカムってヨークシャーの田舎からポッと出の冷凍倉庫の技術者なんですよねぇ(笑)。若い頃は奨学生として勉強ばっかりしていたので文芸の知識も実はよう識らんとか、結婚してからは妻子の為に働きづめだったように書いてあるんですが、何か途中からえらい教養人みたいな書かれ方になっているのが大らかですね(笑)。

仰るように、マーカムはそもそもマリオンAを「妻の姿に似せて創られた下手糞な紛い物」みたいに視ているわけで、如何に従順に奉仕してくれても苛立ちと反撥を感じるだけですから、最初から最後までマリオンAに対しては上から目線ですよね。幾ら何でも人間の女性だったらこう謂う態度はとらないだろう、と思わせます。

その辺の対比として用いられているのが人間のヴィヴェインで、最初は二〇世紀人とは別種の性的倫理に基づく奔放な行動にマーカムが翻弄されていますが、最終的なレジスタンスの勝利に伴って価値観の転換だか何だかが起こって妙にしおらしくなっちゃったりする辺りが微笑ましいところです(笑)。

また、どらねこさんが仰っているようなこととは別に、一読者としてのオレが劇中人物のマーカムに対して「マリオンAの気持ちに応えてやれば好いのに」と謂う期待を抱かないと謂う意味もあります。文芸の観点で視た場合、マリオンAの愛情は相手から応えられないことそれ自体の故に強い印象を残す描き方をされていると思います。

これは一種、「顧みられることのない無償の愛」と謂う普遍的なメロドラマの手筋ではあるわけで、相思相愛の男女が結ばれてハッピーエンド、と謂う落とし所だけが愛の物語ではないと謂うことなんですね。

「私は幻想だけで満足です」と謂う台詞もまた、たしか何かの映画で「私には想い出がある。想い出だけで満足です」と謂うような台詞があったような記憶があって、たとえばその「想い出」が、極短い間の幸福な暮らしの記憶であっても勿論好いし、激しく結ばれたかりそめの一夜の記憶でも構わない、遊園地で楽しくデートをした一夜の記憶でも構わないわけです。

愛の物語においては、「その後二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ」と謂うだけが幸福なのではなくて、何に満足するのかと謂うことが重要なのだと思います。マリオンAは存在理由として「人間に対する奉仕」を目的附けられた存在ですから、一種それは古風で従順な女性像としての性格がありますが、期せずしてなのか、その故に彼女が自分の愛情に応えてもらうことなど期待せず「ただ幻想だけで満足する」と謂う結論を選んだことに、普遍的なメロドラマ性が附随するように感じます。

これはつまり、文芸的な観点では、マリオンAを人間の女性に置き換えても成立するメロドラマ性だと謂うことですね。

>>彼女の想いを受け止めたのはマーカスではなく、後の時代にこの物語の系譜を記した作家達であったのではないでしょうか。なんとなくですが。

本文で引用した文庫版の粗筋に書かれているように、この作品で最も評価されているのはマリオンAの人物造形が印象的だったと謂う部分にあったと思いますし、思弁的な部分よりもメロドラマ性の部分で愛されている作品だろうと思います。

このヒロイン像の延長上にディックのシミュラクラ女性の人物造形があったり、たとえば「サラ・コナー クロニクルズ」のキャメロンのキャラがあったり、もっと謂えばそもそも「T2」のTー800とジョンやサラとの交流もそう謂うドラマ性の延長上で描かれていると視ることが出来ますね。

この作品がすべてのオリジンだと言っているわけではなくて(笑)、前段で申し上げたように、おそらくこの種のドラマ性のラインを遡ると、たとえばこの作品を読んでどらねこさんが仰るような感銘を受けた人々が、自身の創作において「自分ならこう謂う物語を書くよ」と謂うような影響関係は想定出来るだろうと思います。

それは一種SF的なアイディアの発展と謂うより、文芸的な影響関係のエコーと表現したほうが適切だろうと思います。

>>私は最後のシーンではあまりジーンと来ることは有りませんでした。

意外と「あれっ?」と思うようなドライな締め括りなんですよねぇ(笑)。もうちょっとメロドラマの余韻みたいなものがあったほうが気持ち好いのに、みたいな。今の目で視ると、アンドロイドと人間の種族間闘争の帰趨よりも、アンドロイドと人間の間のメロドラマのほうが普遍的な文芸的興趣をそそると謂うことですかね(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年4月15日 (木曜日) 午後 09時56分

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