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2010年5月29日 (土曜日)

…あの娘のなんなのサ?

入院中に何冊か小説を読んだ。

すでに書いたように、治療が点滴中心で朝食後から消灯まで概ね横になっているような生活だったので、普通の人がイメージするほど本を読む余裕はなかったが、実弟が見舞に差し入れてくれた文庫本をパラパラめくってみて、「そう謂えば家にいたら猫が邪魔して本が読めないな」と思って、点滴後ロビーに出て一二時くらいまで本を読むようにしていたのである。

実弟のチョイスは「時をかける少女」「閃光」「アルバイト探偵」の三冊で、大概どうかと思うようなテケトーなセンスだが、活字に飢えていたので「アルバイト探偵」以外は続けて読了した。流石に五〇近い歳になると「軽ハードボイルド(死語)」など気恥ずかしさが苦痛で一〇ページ以上読み進むことが出来なかったが(笑)。

この二冊についてはとくに長々と感想を書くこともない。今更「時かけ」原作の感想なんかを語っても面白くないし、映像化作品を何本も観た後で更めて読んでも、ジュニア向けに書かれた短編と謂うこともあって、映画の梗概にしか思えなかった。

二冊目に読んだ「閃光」は奥田瑛二主演の映画の原作と謂うことで、高村薫の合田雄一郎シリーズ以降主流的な「今風」警察小説だったが、警察機構が如何に上意下達の非人間的で冷酷非情な組織であるか、その中で動く現場の一兵卒である刑事がどんなに暴力的で殺伐とした人間たちであるかと謂うことをこれでもかと強調した話で、組織の論理に反撥する硬骨の老刑事と、出世主義者でエゴイストの若い刑事と謂うアリガチな取り合わせのコンビが主人公なのだが、結局この「老刑事の執念の捜査」が逆に事態をどんどん悪化させると謂うカタルシスのない話であった。

尻尾が二股に別れるほどの長年月に亘って数多くの現場を踏みながら、組織内政治の駆け引きに明け暮れているようなキャリア組の管理官の説教に一切反論すべきロジックを持たない老主人公の人物像には何の魅力も感じなかった。プロットは悪くなかったが、何だか娯楽小説としてのデザインが間違っているんじゃないかと思った。

今夏公開の映画化作品をちょっと調べてみたが、どうもキャストがピンと来ない。原作者的には主役コンビは多分「踊る」のいかりや長介と織田裕二をイメージして書いたのだろうが、奥田瑛二と渡辺大ってのは多分タイプが違うだろう。また、若い刑事の恋人で後半大活躍するヘルス嬢は、オレのイメージでは吉高由里子を想定して読んでいたのだが、川村ゆきえと謂うのはかなりタイプが違うような気がするし(笑)。

勢いが附いたので、弟が差し入れてくれた「ダ・ヴィンチ」で刊行を識った京極夏彦の新作「死ねばいいのに」を、一時帰宅の際に駅ビル内の書店で購入して、一気に読了した。ちょうど今週のブランチの書籍コーナーで紹介されていたが、アンテナの感度が極端に低いオレがブランチに先駆けて小説を読むなんて珍しいことである。何せ昨年本屋大賞を受賞した湊かなえの「告白」も、中島哲也が映画化したと謂うので今頃文庫本を入手したような体たらくであるから(笑)。

本作は六章立ての連作短編集で、大半は初出が雑誌連載だが解決編に当たる第六章だけ単行本書き下ろしと謂うのはかなりえげつない商法だと思った(笑)。筋立てとしては、殺された一人の女についてイマドキのアタマ悪い若者風な主人公が関係者に聞き込みをして廻ると謂う単純なものだが、そこで炙り出されてくるのは死んだ女の人物像であると同時に、それを語る関係者自身の人生でもあって、その人生の鬱屈を見るからにアタマ悪そうな若者である主人公が不自由な言葉を駆使して「憑物落とし」すると謂う京極夏彦らしい小説である。

本作の主人公である渡来健也は、謂わば「愚者の智」の系統に連なる人物像で、言葉が不自由で何ら特別な知識も持たない莫迦な京極堂のような存在である。

この主人公が死んだ女の人物像を聞き込みして廻ることで、上司にも部下にも莫迦にされるサラリーマン、優秀だがプライドの高すぎる派遣OL、落ち目のチンピラヤクザ、私生児を抱えて男を渡り歩くダメ女、警察の堅物中間管理職と謂った連中が日々の生活の中で抱えている不満や鬱憤が表面化し、それを聴かされた主人公が、莫迦なりの明解な正論で、自分自身の意識に問題の所在が在ることを指摘していく、と謂うルーティンで成り立っている小説である。

一種、渡来健也が語るロジックは作者である京極夏彦の意見の代弁と謂うベタな側面をも持っていて、京極夏彦特有のニュートラルに状況を俯瞰するような考え方が大本にあり、何かと謂えば「周囲が悪い、社会が悪い」と自分が置かれている不満な境遇の責任を外部に求める自己中心的な考え方に対する対抗言論のような性格がある。

ブランチのインタビューで作者自身「サイテー」と謙遜してみせたタイトルは、自分はこんなに頑張っているのに報われないのは周囲が悪い、社会が悪い、生きていても何も良いことがない、と謂うアリガチな不満を抱く人々に対して、「だったら」死ねばいいのに、と謂う論理で語られる決め台詞である。

たしかに、生きていても何も良いことがないのなら、「死ねばいい」のである。これは逆に言えば、「死ぬのが厭なら生きていくしかない」と謂うロジックで、生きていても良いことなんか何もないなんて言うなよ、自分の人生がつまらないことを他人のせいにするなよ、と謂う非常にわかりやすいメッセージでもある。

これは常日頃語っているオレの価値観ともマッチする正論で、オレ個人としても嘗て交通事故で死にかけた際に「死ぬのは厭だ」としみじみ痛感したことが契機で「死ぬのが厭なら自分の責任で生きていくしかない」と腹を括った経験があって、それまでは「どうせオレなんかいつ死んでもいいんだし」みたいなチャランポランな認識であるから、生きていたくないと思うのであれば、自分が生きていることの責任は「自分に生きろと強いる自分以外の誰か他の人」にあるわけである。

しかし、いざ死ぬかもしれないと謂う段になれば、大概の人間は誰だって命が惜しいのであって、理も非もなく死にたくないと思うのが当たり前で、オレもそんな当たり前の人間の一人に過ぎなかったわけである。ならば、死にたくないのであれば生きていたいのであるし、生きていたいのであれば、自分が生きていることのすべての責任は、誰か他の人ではなく、生きていたいと望む自分自身にあるのである。

そして本作においても、「人間なんてそんなもので当たり前」と謂う大前提となる小説的テーマ性が、一応のミステリ的大オチに繋がるわけであるが、これについては幾ら何でもミステリのネタを割ることになるので勿論詳細は語らない。

そう謂う視点の転換のような人生の契機を、虚構の物語として提起するのが小説の使命でもあるわけで、京極夏彦のように明解なロジックでニュートラルな世界認識を提示する「常識人」の作家が存在することで、たとえばオレのように実際に死にかけなくても積極的な人生の意義に気附く若い読者がいるのかもしれない。

この小説で暴き出されているのは、すでに人生の半ばを過ぎて失敗の歴史を積み重ねた年齢域の人物の過去ばかりで、作者自身も「自分と同年齢かそれより少し下くらいの年齢の人のほうが、若い人に比べて自分を実際以上に見せようと懸命で、自分の境遇の不満を周囲に転嫁する傾向がある」「若い人たちは礼儀識らずで物識らずだけれど、そんな自分をよく識っていて好い人が多い」と謂うふうに語っているが、たしかに景気の良い時期を一度も通過していない最近の若者たちは、バブルを識っている大人たちに比べて身の程を弁えている部分があるかもしれない。

ただ、この小説で語られている失敗の人生は、これから世の中に出ていく若者たちの将来の姿でもあるわけで、「失敗の人生」と一口に言ったって、実は人生には「失敗した人生」なんかないんだよ、どんな人生だって生きていればそれでいいじゃん、身の程以上に多くを望むなよ、と謂う普遍的な話でもあるわけである。

そう謂う意味では、本作は若い人たちにこそ読んで欲しい小説であって、人間の生にはそんなに多くの輝かしい見返りもない代わりに、自分で責任を持って生きていく人生には、平凡だろうが何だろうが、他人からとやかくや謂われる筋合いのない自分だけの意味や満足がある、と謂う強いメッセージ性がある。

それはたとえばオレたちの世代がよく大人から言われた外向的な尺度に基づく自己実現よりは幾分内向的な性格の価値観なんだけど、何だか極端に威勢の好かった一時期を除けば、概ね人間の歴史における一般的な人生観なんて大昔からそんなモンだったんじゃないの、と謂う普遍性を感じることもたしかである。

その一方で、まあ、京極作品の常ではあるが、ミステリとしてのネタは早々に割れてしまう弊はあって、半分くらい読んだら大体オチは読めてしまうのだが、その予想通りに進む全体の流れの中でキッチリと収まった、良い構成の連作短編集である。

たしかdlitさんのところのコメント欄だったと思うが、「陰摩羅鬼の瑕」以降の京極堂シリーズを論じた際に、京極夏彦自身が意図的に従来の京極小説の俗化を実験していると謂う感触を語った記憶があるが、恐らくこれはその「俗化された京極小説」としての成果であり、「消費される京極小説」としての性格も持っているのではないかと思う。

初期の京極堂シリーズのようなワンアンドオンリー的な凄みは感じないが、第一線の作家が「満足度の高い一定の読書経験を提供し読み捨てられ消費される小説」を意識的に書いたような軽みを感じる。そう謂う意味で、京極夏彦と謂う作家は窮めて計画的且つ効率的に自身の作家人生を一職業として設計・デザインしているわけで、この作品の軽さにはそのような設計の巧みさを感じる部分がある。

それと共に、最前も少し触れたが、京極夏彦と謂う作家の最も強靱な武器とは、その世界認識の真っ当さであり、つまり最もオーセンティックな意味で「常識人」である部分に一番の凄みがあるのだと再認識した。

昨今の自意識の肥大した「作家センセイ」には、非常識な愚行や放言を以て作家の使命と勘違いしている御仁も多いが、娯楽小説を書く職業者は基本的に常識人であるべきであると謂うのがオレの信条である。

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コメント

>>「満足度の高い一定の読書経験を提供し読み捨てられ消費される小説」

>>窮めて計画的且つ効率的に自身の作家人生を一職業として設計・デザイン

もっとわかりやすい喩えはないかと思って、「戦争の度にハイエンド機のガンダムを一機開発すれば戦況が覆ると謂うのはマンガの論理で、普通に戦争をやろうと思ったらジムやネモのような量産機をたくさん作らねばならない」と謂う喩えを考えたのだが、逆にわかりにくくなったので却下しますた(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年5月29日 (土曜日) 午後 11時39分

思い煩うことはない。人生は無意味なのだ!

と、モームは人間の絆で語るのだが。


こんにちは。
黒猫亭節復活、心から喜んでいますcat

本エントリー、とても感銘と言うか、興味深く読ませて頂きました。
勿論、京極さんの下りについてです。

「失敗の人生」と一口に言ったって、実は人生には「失敗した人生」なんかないんだよ、どんな人生だって生きていればそれでいいじゃん、身の程以上に多くを望むなよ、と謂う普遍的な話でもあるわけである。」と黒猫さんの言葉で要約された京極さんの新刊、是非読もうと思いました。
黒猫さんの要約には京極さんの香りが、風が感じられます。
京極さんの小説に惹かれるのは、
その「けだるさ」と「まったりさ」と「やるせなさ」、そして「闇」を暴く鋭さと哀しさです。
後巷説百物語では、なんだか涙しながら読んでいました、、、

あやかしの世界。
そこは不思議で立ち入る事が許されず、それでも
誰でも抱える「もの」だと思いました。
読者である私は「最後までつきあっていきたい」「取り残されたくない」「おいてけぼりにしないで」と言う思いでした。
(芥川の杜子春に共通のものがあると私は思うのだが、、、どうなんでしょう?)


いずれにしても、
とてもワクワクしながら読ませて頂きました。
ありがとう♪

なお、
お体、絶対、ぜったいお気をつけてくださいよ!!!
タバコ、やめろ〜〜〜〜〜〜
ですよ♪

投稿: せとともこ | 2010年5月30日 (日曜日) 午前 09時15分

>せとともこさん

>>思い煩うことはない。人生は無意味なのだ!

人生の意味なんて、少なくとも自分が存命中は自分が決めることであって、他人が決めることではないですよね。死んだ後に他人がとやこうや論評するのは、それは他人の勝手ですからご自由に、と謂うことなんですが、それは生の意味の問題ではなく主に歴史性の問題と謂うことになりますよね。

人生は無意味だと謂う逆説は、要するに万人に共有可能な個人の生の意味なんてないのだから、自分が信じる通りに生きるしかないと謂うことでもあります。結果的に他人にとって無意味な人生だったとしても、それは自分にはあんまり意味のない評価なんだよと謂うことでしょうね。

オレは本文でも名前を挙げた中島哲也監督の「嫌われ松子の一生」と謂う映画がかなり好きなんですが、タイトルロールの松子の人生なんてのは、基本的に他人にとっては迷惑で無意味なものでしかありませんでした。

ただ、世間並みの普通の尺度では愚かしいダメ女の松子が、その時々に薄っぺらい幸福を求めてダメ男に縋り附き無様に足掻いて、束の間いい思いをしたかと思えばすぐまたどん底に墜ちる、そんなみっともない繰り返しの果てに、河原でゴミのように殺されてしまう、そんな無様な生き様だって、人生の意味と謂うものじゃないの?と謂う優しい視点の映画でした。

>>後巷説百物語では、なんだか涙しながら読んでいました、、、

数々の物語を通じて大好きになった人々が、オレたちの前からいなくなる、何処かの空の下でこれまで通りにノンシャランと生きてはいるんだろうけれど、それを伺い識ることは読者にはもう許されない、それはやっぱり寂しいですよね。

キャラ小説とも評された京極夏彦の諸作品は、魅力的な人物が入れ替わり立ち替わり現れますが、彼らは一種のヒーロー的な存在で、「正義の味方」と一口に表現出来るほど単純な連中ではありませんが、どんなに奇矯な人物でも一度その人生に附き合ってしまうと離れ難い愛着を感じます。それは、やっぱり京極作品に登場するヒーローたちに通底する資質が「優しさ」だからだと思います。

巷説シリーズは京極堂シリーズとはまた違った趣で、特殊な技能者グループが特定の問題性を解決する為に大掛かりな仕掛けを行うと謂う趣向が面白い部分ですね。「解決」と謂っても、それは多くのミステリのように悪人を断罪すると謂うものではなくて、飽くまでその問題性を最も円満な形で収束させると謂うもので、巷説シリーズで又市たちが目的としているのは法的正義の徹底や悪の断罪などではないですよね。

その過程において「排除する以外にない」人物は闇に葬られてしまうわけですが、たとえば特定の困った人物が存在するとしたら、その困った人物の困った嗜癖(多くの場合に異常性愛と設定されていますが)がもたらす悪影響を奇想天外な仕掛けで可能な限り救済し、問題の禍根を断つと謂うことが目的視されているわけです。明確な悪人と設定されている人物も、直接的な殺害は最後の選択肢で、詰め腹を切らせるのでも好いし、要は無力化してしまえば好い、殺害自体は目的視しない、そう謂う着地点ですよね。

ですから、例の実写ドラマ化作品のように、巷説シリーズを「必殺」と同等視するのはやっぱり違うと思うんです。勿論京極夏彦自身が大の「必殺」ファンですから影響はあるわけですが、むしろ構造的にはハングマンに近いわけですし、ハングマンと比較しても、裏の仕掛けで悪を懲らすことよりも、その困難な状況の縺れを解消し、最大多数の人々がこの先より良く生きていけることが目的視されています。

本文で京極夏彦を「常識人」と評していますが、京極小説の登場人物たちの行動原理は悪に対する憎しみや正義の希求じゃないんですね。人間の生と謂うのは厄介なもので、ちょっとした行き違いやちょっと平均から外れた個人性が時には大きな悲劇を生むことがある、その縺れた困難な状況こそが問題なのであって、その縺れを解きほぐして多くの人々が幸福に生きていけるようにすることこそが重要だ、そう謂う原理で駆動する物語だと思うんです。

それはつまり、異常な性向を持つ困ったちゃんだろうが悪人だろうが、最終的には他人と折り合って幸福に暮らしていくと謂うことが一番大事なのであって、困った人や悪い人を排除することが目的視されてはならないと謂う優しさだと思うんです。

だから、京極堂にしろ又市にしろ、悪人を裁く目的で動いたことなど一度もないですよね。自分が介入して罪を暴き立て、悪人を裁くことでさらなる悲劇しか生まれないのであれば、一切介入せず成り行きに任せる、抛っておいても事件は収まる、悪を裁き謎を暴こうと介入するからこそ生じる悲劇もあるのだ、その状況に敢えて小賢しい知恵を翳して介入するのであれば、誰かを救済する為でなければならない、そう謂う優しい世界認識が一貫してあります。

ですから、京極夏彦の小説は途方もなく優しい世界認識に基づいていると謂えるわけですね。京極堂は自分が介入することで他者を救済し得る可能性が残されている場合以外は一切事件に介入しませんし、又市たちのグループはそもそも多くの関係者が置かれている困難な状況を解消し誰もが安んじて平凡な暮らしを営めることを最重要の目的と認識してコンゲームを仕掛けるわけで、悪を裁き正義を追求する社会原理は表の社会が自ずと具えているものであると弁えています。

京極堂や又市のような、社会を超越したヒーローが必要とされるのは、社会が具えている救済機能から漏れた個人性の悲劇を救済する為であって、社会的な機能の疎漏をまったく同じ目的性に則って補完する為ではない。ですから、巷説シリーズは「法が裁けぬ悪を闇の正義で裁く」と謂う原理に基づく「必殺」シリーズとは、そもそも駆動原理が違うんですね。

>>読者である私は「最後までつきあっていきたい」「取り残されたくない」「おいてけぼりにしないで」と言う思いでした。

又市たちの物語は「後」において京極堂シリーズと接続され、物語の表舞台から彼らが消え去っても同じ世界の中で京極堂たちが生きていて、その京極堂たちの物語は現在進行形で続いています。

一般的に「陰摩羅鬼の瑕」以降の京極堂シリーズはセルフパロディと謂うか初期シリーズの再話的な性格のものと視られていますので、少なくとも「塗仏の宴」に対応する作品が書かれるまでは続くはずですが、やはり近過去の設定の物語である以上、いずれは「歴史」として締め括られて終わるべき物語ではあります。

さらにその先に連なる現代や近未来の物語があるのかどうか、これは京極夏彦本人に聞いてみないとわかりませんが、多分京極夏彦と謂う作家は物凄くサービス精神が旺盛な職業者で、所詮創作行為と謂うのは作家のエゴを貫くことではなく、読者の要望にバランス良く誠実に応えることだと弁えていますから、自分が生きている間はこの物語世界を終わらせるつもりはないと思いますよ。

>>タバコ、やめろ〜〜〜〜〜〜

やめますってば(笑)。やめる準備をしているところですから、まあもう少し気長にお待ちください。

投稿: 黒猫亭 | 2010年5月30日 (日曜日) 午後 02時29分

こんにちは。
その後お変わりありませんか?
政権もゴタゴタと変わったようですが、本質は同じという感がしてなりません、、、

さて、
ご紹介の京極さんの新刊、本屋さんで探していたのですが、見つからなかったのです。
が、
電子書籍で今、バンバン売れていると言うニュースを見ました。
私もiPadならびに電子書籍、購入したいなぁ、、、、と密かに企んでいます、ははは。

「この世に不思議なことは何もない」と京極堂は言う。
不思議なことはないかもしれないが、
妖しく哀しく、時に運命(?)に翻弄される人々が紡がれていく京極さんの世界。
切ないですね。
ミステリーとしては凡庸ではあるが、
人間を描くその視点は、優しい。
人は誤りを侵すものであると、いうことをズドンと受け入れることができます。
「地べたを這いつくばって生き抜く事」への作者の淡いエールを感じながら読んでいます。
「こんな世界を自分の筆で創る事ができたら、、、」なぁんて、楽しい妄想をしています。
ははは。
京極さんから得るものは、
私の場合、「寛容」なのです。
不思議な事は何もない。
ただそこにあるだけのものを受け入れる。
と、言う。
そこにはあなたの言葉を借りるなら小賢しい知恵なんて吹き飛ぶものなんでしょうね、、、
フゥム。

と、言うことで、なんとなくツラツラと。
さて、新刊を楽しみにしています。


では、これから本格的梅雨。
お大事になさってください。

そうそう、そう言えば、「怪物くん」ご覧になっていますか?
結構、お勧めです♪

投稿: せとともこ | 2010年6月12日 (土曜日) 午後 03時58分

>せとともこさん

お陰様で予後も良好に過ごしております。

>>政権もゴタゴタと変わったようですが、本質は同じという感がしてなりません、、、

まあ、後知恵の謗りを覚悟で申しますと、「善人に視られたいお坊ちゃんの鳩山では政権は保たない」「過去の穢れは小沢一郎と一緒に祓い流す」と謂うのは完全に予想の範囲内でしたし、それが参院選直前のタイミングで起こったことも自然ですので、今般の成り行き自体は全然驚きませんでした。

菅首相には期待していませんが、多分鳩山よりはマシかな、くらいの感触で、それよりも「小沢外し」の看板としてとは謂え、枝野議員が要職に就いたことのほうが影響力は大きいかな、と謂う印象ですね。民主党の中でもマシな部類の人材ですし、個人的には児ポ法「改正案」の審議で善戦したと謂う印象がありますから、このまま変な方向に行かなければ今後結構働いてくれるんじゃないでしょうか。

>>ご紹介の京極さんの新刊、本屋さんで探していたのですが、見つからなかったのです。

>>私もiPadならびに電子書籍、購入したいなぁ、、、、と密かに企んでいます、ははは。

書籍版のほうも長らくランク入りしていて売れていますが、なんだかiPad版電子書籍の象徴みたいになってますね。一万DLを突破したらしいんですが、iPhon 版やPC版もあるみたいです。ちなみに、PC版は以下のURLで購入出来ます。

http://www.paburi.com/paburi/bin/product.asp?pfid=20062-100520632-001-001

多分、リーダーソフトはウィンドウズオンリーだろうと思いますから、Macだったら読めないんじゃないかと思いますが(笑)。

>>京極さんから得るものは、
>>私の場合、「寛容」なのです。

仰る通り、京極夏彦の小説で一貫している性格は、どんなしょうがない人間でも断罪しようとせず、その異端な在り様を肯定する寛容な姿勢だと思います。たとえば、巷説シリーズに登場する「悪人」たちは、大概世間並みの基準から謂えばどうしようもないグロテスクな性的嗜好や奇怪な強迫観念を持っていて、それが奇妙な事件を巻き起こしたり無辜の善人を苦しめたりするのですが、書き手の立ち位置はそれを「こいつが悪い」と裁くようなものではありません。

逆に、異端の存在を盲目的に忌避しようとする一般的な物の見方に対して、異端者は異端者なりのロジックに基づいて合理的にそのような存在として在ることを示してみせ、どんな異形の存在であろうと、ちょっとした個人性の歪みが「たまたま」運悪く極端に肥大することでそのような存在になったに過ぎないと謂うことを、明晰な言葉と説得力のある描写で提示してみせるところが京極夏彦の持ち味だろうと思います。

これは京極夏彦個人の優しさに負うところが大きいのだろうな、と思うんですが、たとえばインタビューや対談の記事を読んだりTV出演の際の発言を視ると、誰も痍附けないような論調に徹していて、批判的な内容の発言でも誰かを責めるような言い方は絶対にしないですね。

オレは基本的に作家萌えはしないほうで、作家個人に属する事柄(最近は主に動物虐待発言の事例が多いですが(笑))に対する反撥や抗議の意味で作品を忌避すると謂うアクションはしますが、作家本人が好きだから作品も好きだとか、作品が好きだから作家も好きだと謂う考え方はしないんですが、京極夏彦の場合は書き手個人も作品も両方好きですし、小説以外の場面での発言も当を得ていると思います。

また、オレのニセ科学問題に対するいろいろな考えのベースになっているのは、基本的に京極夏彦が作品や発言で提示した考え方だったりしますしね。たとえばpoohさんや地下猫さんのような論者は、呪術やオカルトに寛容なスタンスを採っておられますが、オレが割合それに近い立ち位置なのは、京極夏彦がそれらの「非科学的な」概念規範の合理性を教えてくれたからでして、そう謂う体験がなかったら大槻教授とそんなに変わらないスタンスのままだったんじゃないかと思います(笑)。

そう謂う意味で、京極夏彦の寛容さの対象は、個人の異端性のみならず世界認識や概念規範にも及んでいると思いますし、二〇年ほど前にこう謂う融通無碍な世界認識を京極作品から提示されたことが今のオレの考え方に大きく影響していると思います。

それから、前回のコメントを書いていて、何だかこの小説のタイトルやテーマに既視感があるなと思ったら、森山直太朗の「生きてることが辛いなら」と同じなんだと謂うことに思い当たりました(笑)。「生きてることが辛いならいっそ死ねばいいのに」と謂う歌詞が「自殺を勧めている」とかしょーもない物議を醸しましたねぇ。

まあ、一知半解で脊髄反射するヒトはいつでも何処でもいるんですね。

>>そうそう、そう言えば、「怪物くん」ご覧になっていますか?
>>結構、お勧めです♪

日テレ土曜九時枠は観なくなって久しいですが、これはたまたま毎週観ています。たしかに面白いですね。ウチのブログ的には、大筋の展開が実写版セーラームーンやシンケンジャーに似ているのがポイント高いです(笑)。

それと、ウタコ役の川島海荷が久しぶりに良い役ですね。彼女は元々注目されたきっかけが「役者魂」のお姉ちゃん役ですから、「苦労して弟の面倒をみているしっかり者のお姉ちゃん」と謂うちょっと黒い柄が好いんです。

その点、「ブラッディ・マンデイ」で演じたのは「アタマ悪い兄貴に庇われるもっとアタマ悪い妹(笑)」と謂う一八〇度違う役柄なので、まあ「可愛い」と謂う以外にはとくに見どころがありませんでした。

「怪物くん」のウタコは「役者魂」の役ほど生意気な糞ガキではないですし、ヒロシ役の濱田龍臣のほうが可愛かったりするんですが(笑)、こう謂う「基本的に良い子なんだけどちょっと黒いところがある」感じのほうが可愛いです。

ウタコがアックマーやデモリーナに掴まって怪物くんご一行様に救われるとき、フランケンにお姫様抱っこされたりしているのが萌えますね(笑)。なんか、ミニスカ制服の下にもっさい学校ジャージ履いてたりするんですが(笑)。

ちらっとしょーもないことを考えたんですが(笑)、世間ではお姫様抱っこに憧れる女性が結構いますよね。でもあれって、抱っこしている男性が逞しくて格好良いから憧れるんじゃなくて、抱っこされてる女性が可愛いから憧れるんじゃないでしょうか。なんせ抱っこしているのがチェ・ホンマンでも海荷が可愛く見えるんですから、お姫様抱っこの主役は男性じゃなくて飽くまで女性であって、男性のほうは人間の形をした起重機相当なんだろうと思います(木亥火暴!!)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年6月12日 (土曜日) 午後 05時55分

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