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2010年5月 9日 (日曜日)

加農法

…と謂うわけで廻り諄い同音異義語ネタから始まるのだが(笑)、日本語で謂う「カノン砲」の「カノン」が英語ではなく蘭語起源だったと謂うのは今回調べてみて初めて識った。英語だとnが一個多いだけで全く同音なんだがな。

言うまでもなく本題は「大魔神カノン」なのだが、実は某情報源を通じて具体的な設定は大分前から識っていた。ただ、そのときに聞いた印象だともっと不思議コメディ色の強い明朗調なんだろうと予想していて、そもそも高寺Pは日笠Pの下で不思議コメディを担当していたんだから、東映離籍後の第一作は原点回帰ってことで(笑)。

蓋を開けてみると、これが「ここまでかよ」と感心するくらい「響鬼アゲイン」なテイストだったのにはかなり意表を突かれたと謂うか、考えてみれば中途降板と謂う心残りな経緯を踏まえているのだから当たり前と謂えば当たり前な流れではあるが、響鬼でやりたかったことを今度こそ完遂したい、乃至は、響鬼でやれなかったことを今度はやってみたい、そう謂う意欲が伝わってきた。

類似点を挙げていくとキリがないのだが、どんなに似ていないもの同士でも類似点を挙げようと思えば幾らでも出てくるのが当然(鮭も桜もピンク色だから似ていると謂う類の強弁とかね(笑))なのだから、似ていると謂う前提の下に相違点を視ていくほうが意味のある比較対比だろう。

たとえば、響鬼と謂うのはオッサンと少年の物語だったが、カノンは見掛け上の年齢差が左程ない成人男女のペアが主人公であって、主人公の巫崎カノンも現代の感覚で「少女」と謂うには少し苦しい年齢域である。

しかし、設定上はヒビキと明日夢どころではないとんでもない年齢差があることは言うまでもないわけで、まあ、それを謂うなら、怪物くんとヒロシの間にも見掛け上の年齢差を超えたとんでもない開きがあることが、今週判明したわけだが(笑)。

前述の通り、ここでこのような相違点を挙げるのは、勿論ヒビキと明日夢の関係性とタイヘイとカノンの関係性が「似ている」と謂う大前提があるからである。

響鬼の物語的主軸は、タイトルロールの響鬼の非日常的な戦いの日々ではなく、極平凡な少年である安達明日夢の極平凡な日常にあって、そこで経験するどうと謂うことのない極平凡な成長の痛みをのんびりしたペースで描いていって、その日常の中にヒビキ=日高仁志と謂う命懸けで人々の為に戦っている大人が介入し、明日夢はヒビキの何気ない導きやその背中を追うことで成長していく、そう謂う関係性である。

つまり、ヒビキと明日夢は対等の関係ではなく、明日夢にとってヒビキと謂う大人は自分自身の未来像だったりロールモデルだったりするわけで、大人であるヒビキから子供である明日夢に何かを受け渡し、現在自分が立っているような地点へと成長を導くと謂う一方的な関係性である。

さらに「安達明日夢」と謂う人物名は、明日夢自身がメタレベルの劇中法則(姓名のそれぞれ第一音が同音)で鬼に成り得る可能性を示唆しており、さらに「明日の夢」と謂う名に込められた意味性は、過渡期としての現在よりも未来にウェイトを置いた設計の人物像であることを象徴している。そこから視て、出発点では普通に明日夢が鬼に成ってヒビキと同じ道を歩む流れが想定されていたのだろうと推測出来る。

実際には皆さんご存じの通り明日夢が鬼に成る流れにはならなかったのだが、これに関しては現状のほうが正しいわけで、響鬼世界の「鬼」のような特殊な戦士に成るには、その人物が命懸けで戦うに足るだけの強烈な動機となる過去を背負っていたり、そのような過去がない場合には「この人物なら特段の理由がなくても自然に戦うだろう」と視聴者が納得するだけの人格的特異性(たとえばクウガの五代雄介のような)がなければならない。

しかし、安達明日夢と謂う平凡人にはそのどちらもなかったわけであるから、ヒビキの背中を追うことで成長したとしても、それは彼が今現在置かれている平凡な日常と地続きの方向性でなければならない。鬼に成ることばかりが戦いではないのである。どうしても響鬼のような物語構造では、平凡人である少年が非凡人の先達の導きから寧ろ平凡な人生の意義に気附くと謂う流れにしかなりようがないわけである。

ならば、タイヘイとカノンの関係性はどうかと謂えば、現時点ではカノンがタイヘイの導きによって成長すると謂う関係性であるかどうかは不明であるが、別の観点から謂えばタイヘイはすでに完成しているパーソナリティであって、カノンの影響で成長する存在ではないと謂うことは謂える。

この関係性の一方的な性格は設定面で担保されていて、カノンは普通の人間だがタイヘイはオンバケと謂う「人間に恩を返す為に生まれた存在」であり、謂ってみれば妖怪の一種である。そして、妖怪と謂う存在は基本的に今在るそのままの形で生まれ、老いることがない代わりに成長もしない存在である。

子供の妖怪は子供のまま生まれて大人にはならないのだし、青年の妖怪は青年のまま生まれ老人にはならない。猫娘は生まれたときから少女なのだし、砂かけ婆は生まれたときから婆さんである。つまり、妖怪は人間とは違って赤ん坊から老人までの成長と老化のプロセスを辿るのではなく、生まれたときからそのまんまの存在である。

たとえば水木しげるの作品などでは、たまに話の都合で「砂かけ婆の若かった頃」みたいな話が出て来ないとも限らないし(笑)、たとえば「怪物くん」なんかでは、水木しげる的世界観では「西洋妖怪」の一種と見做すことが出来る三従者たちの家族が出てきたりするが、それは「話の都合」と謂うものでしかない。

妖怪の話をするのに京極夏彦を引き合いに出さないわけにはいかないが(笑)、この辺の妖怪と謂う存在のユルい性格は、京極夏彦的な妖怪観における「事象の説明機能としての妖怪」から出発して「キャラクターとしての妖怪」に至る歴史的妖怪観変遷の経緯を反映しているわけで、この妖怪観によれば、「豆腐小僧双六道中」にて結論附けられているように、特段の意味機能を担わない単なる「キャラクター」として生み出された豆腐小僧こそが最も進化した妖怪像となる。

この意味での「キャラクター」とは、その存在の本質が現在只今の姿そのものでありそれ以外の何物でもないと謂うことで、過去の説話の都合によっては遡って過去が発生することもあるが、それはその妖怪の本質とは必然的な関係を持たない。

だとすれば、オンバケのタイヘイは今在るような「キャラクター」こそがその存在の本質なのであって、タイヘイの「幼少期」と謂うものは本来的には存在しない。たとえば説話の都合上タイヘイの「年齢」が語られることがあったとしても、その誕生の瞬間は曖昧なものでしかないわけで、説話の都合上その誕生を語る必然が生じたときに「忽然と過去が発生する」と謂う性格のものである。

であるから、タイヘイがオンバケと謂う「妖怪」である以上、今在る人物像から決して成長しないのだし、「大魔神カノン」と謂う個別の説話の主人公である巫崎カノンとの関係上必要な範囲でしか過去も存在しない。つまり、現時点におけるタイヘイの過去とは、天変地災からカノンの危機を救い、その返礼として心づくしのもてなしを受け、稚ないカノンから「いのりうた」を聴かされたと謂う過去しか存在しない。

これは、響鬼と対比した場合、現時点で完成型の人物像として描かれた日高仁志の人物像をより設定的に徹底させたものと視ることも出来るわけで、現時点でタイヘイが一種のヒーロー的なキャラクターとして描かれるのであれば、タイヘイは未熟な幼少期を経て成長することでそのようなヒーローに成ったわけではないのだし、今後成長することも衰えることもない存在である。

であるから、カノンとの交流を通じて「何かを学ぶ」と謂う描き方はあり得ても、タイヘイ自身がそれによって成長すると謂う物語は描き得ない。成長するのはやはり発展途上の悩みを抱えるカノンのほうでなければならないのだし、そのような過渡期を生きる人物が「成長しないヒーロー」と交流する物語が描かれるのだとすれば、やはりタイヘイの導きによってカノンが大人へと成長する物語が描かれるのだと予想することが可能である。

実際、これまでの六話をかけて描かれたのは、主人公のカノンが上京して大学生活を送る日常において、周囲の人々のちょっとした悪意や狡さに触れて次第に凹んでいくプロセスであり、それが響鬼同様に実にのんびりしたペースで描かれていて、すでに放映から一カ月半経過していると謂うのに、カノンサイドのストーリーは殆ど動いていない。

「いのりうた」を歌う少女を見附け出して接触せよと謂う密命を受けたタイヘイがカノンと出会うまでに二話もかかっていて、ようやく出会えたと謂うのに、タイヘイが漏らした不用意な言葉に痍附いたカノンがタイヘイとの接触を拒み、あの手この手のタイヘイのアプローチがさらに三話も続く。

その間にカノンのバイト生活のあれこれが描かれて、ようやく六話目にしてカノンとタイヘイが和解すると謂う次第で、この間に縦糸としてオンバケとイパダダのストーリーが進行しているから何とか観ていられるものの、カノンの話だけだったらちょっとこのペースでは保たなかっただろう。

ただ、内容的にはこれは響鬼と同様のスタイルで、ヒビキを中心とした猛士サイドのストーリーが縦糸として進行する間に、安達明日夢の凡庸窮まりない日常生活における小さなエピソードの脈絡らしい脈絡のない連続がのんびりと進んでいくと謂うペースだったわけで、結局高寺Pが響鬼でやりたかったのは、こう謂うペースで日常の極些細なエピソードを積み重ねていく形式の成長物語だったんだろうと思う。

嘗てオレは、こう謂う響鬼のスタイルについて「日曜の朝八時から『中学生日記』をやることの何処がおかしいのか」とコメントしたが、金曜深夜一時過ぎに「大学生日記」をやるのは流石にどうかと謂う気がしないでもない(笑)。

これはいつも拝見している「いまだクウガな日々。」のエントリにコメント(正確にはコメントではなく「WEB拍手」のメッセージだが)させて戴いたことだが、そう謂う印象を覚えるのは、やはりスタート時点で視聴者に対して主人公のカノンに対する好意を植え付ける手続を踏まなかったからではないかと思う。

番組開始時点のカノンは実に曖昧な顔をしていて、どう謂う女の子なのかは観ていてもよくわからない。これはカノンを演じる里久鳴祐果の柄が、黙っていても惹き付けられるような強い印象を覚えるものではないと謂うこともあるだろうが、多分そう謂う柄の女優を選んだこと自体は狙いのうちだろうと思う。

前掲「クウガな日々」さん(管理人さんはkuu さんと仰るのだが、自称が「管理人」でハンドルを滅多に名乗られない方なので「kuu さん」とお呼びしてもピンと来ないヒトもいるかと思ってこう謂う書き方にした)のところのリンクから、主演女優の里久鳴祐果のオーディション風景を視る限り、活発に喋って笑って動いて、それで魅力的に映る柄の女の子である。

この時点ではすでに、番組開始当初のトーンでは殆ど受けの芝居一方で抑えた演技が必要とされることは高寺Pの念頭にあったはずだから、それでこう謂う捉え所のない曖昧な印象を覚える柄の役者だと謂うことは計算出来たはずである。

にも関わらず彼女を起用したと謂うことは、そう謂う狙いのキャスティングだと謂うことだろう。彼女本来の魅力を一切封殺したままで物語を語り始め、それが開示された瞬間の対比効果を優先する、隠されていたものが開示されることで、それがその人物の本質なのだと謂う説得力を演出する、そう謂う狙いのキャスティングではないかと思う。

おそらく、スタート時点でどんな人物なのかまったく掴み所がない描き方なのも狙いだろうし、それで前述のような小さなエピソードの積み重ねで徐々に印象が固まって行くと謂う語り口を採用しているのだろうが、正直言って、第一印象で強い好意を覚えたわけでもない凡庸な人物の凡庸な日常をスローペースで見守るのは辛い

かねてから指摘しているように、高寺Pの文芸観は、たとえば「ライバル」である白倉Pのような主に「番組としてのパッケージデザイン」として文芸を視るようなものではなく、至極オーセンティックなものだろうと考えるので、こう謂うふうに「総体としての文芸的効果を高める為に一定の忍耐を要求する」と謂うやり方を採用しているのだろうが、それはやはり我慢に見合うだけの高い視聴モチベーションを最初から要求する。

さらに謂えば、視聴者の側に「この先もっと効果的に楽しむ為に今の我慢がある」と謂う期待なり信頼なりがなければこう謂う手法は成立しないわけであるから、これはもう単純に謂って「客を選ぶ作り方」である。同じことが響鬼についても謂えるわけで、響鬼と謂う番組(の高寺担当パート)は兎角毀誉褒貶が極端であったが、それはそう謂う性格の表現物である以上仕方のない事情である。

顧みれば、高寺Pが作り出したクウガの後を受けて白倉Pがやったこととは、そのような文芸観に基づく高寺式の内実から出発した番組枠を、現代のスピーディーな視聴者の嗜好にマッチするよう番組としてのパッケージデザインを洗練させることであった。

つまり、視聴者に「我慢と謂う苦痛」を与えない作品作りとか、「我慢が期待に直結する描き方」を洗練させていったわけで、その成果として後先考えないマクガフィン的伏線をバラ撒いて視聴者の関心を常に持続させたり、ヴァン・ヴォクトも真っ青の意外な劇的イベントの釣瓶打ちで畳み掛けると謂うような「所謂白倉のライブ感覚」の手法が確立されていったわけである。

これは文芸として視た場合は「野暮」だが、TV番組として視た場合は「洗練」と謂う表現になる。論理的帰結として、TV番組と謂う娯楽形態とは基本的に「野暮」な器だと謂うことになるのだが(笑)、それはそう解釈して戴いて構わない。まさにそう謂う意味のことを言っているのであるから。

その連携のお陰で平成ライダーシリーズは一〇年以上も続いてきたわけであるが、響鬼が放映されたタイミングでは、白倉式のTV番組として洗練されたパッケージデザインを好む固定ファン層が開拓されていたわけであるから、響鬼のような「忍耐を要求される」スタイルに対して忌避感情を覚える視聴者が存在したのは当然である。

しかし、おそらく響鬼と謂う番組はそのような反撥を敢えて甘受してでも当初のようなスタイルを完遂することがベストの仕上がりに結び附くような性格の番組で、それでも東映サイドに前述のような「我慢」が出来なかったと謂う事情があったのであれば、後を受けた白倉Pが可能な限り「高寺成紀の遺志を継いで(笑)」作ったのだとしても、響鬼後半はあのようなものにならざるを得なかっただろう。

おそらくそれは、文芸としては不徹底なのである。高寺式の文芸は、最後まで完遂しない限りどうとも評価出来ない性格のものなのだし、それが現実的な事情で頓挫したのであれば、後を受け継いだ白倉・井上コンビにはあれ以外のものは作れない。その意味で響鬼後半は、高寺的内実を白倉的スタイルで叙述すると謂う、トクサツファンにしてみれば「夢のコラボレーション(笑)」と謂えなくもない。

話が逸れたが、高寺Pの文芸観がそのようなものであるが故に、文芸的内実を効果的に堪能する為に受け手に一定の我慢や辛抱、つまりコストを要求すると謂うのも理解出来るのだが、TV番組と謂う器として視た場合、やはりそのコストを支払うに足ると思わせるだけの「保険」を用意するのが筋だろうとも思う。

最前「強い好意を覚えたわけでもない凡庸な人物の凡庸な日常をスローペースで見守るのは辛い」と述べたが、スタート時点で作り手側が認識しているヒロインの魅力を視聴者に隠しておくと謂うやり方だと、謂わば半年にも及ぶ長い物語を見守ろうとするモチベーションに何ら保険がない。

要するに、この番組の保険は「高寺成紀(重徳)復帰作」と謂う、表向きには謳っていない作家性への期待だけである。他の作り手なら、こんなに話数を費やしているのに一向にヒロインの人物像が視て取れない作劇では、「この先面白くなる」と期待するほうが間違っているだろう。

しかも、響鬼の先例から考えるに、小さなエピソードの積み重ねそれ自体が叙述要素となるスタイルだろうから、我慢して観ていると或る時点で劇的に物語が動いて爆発的に面白くなると謂う性格の作劇でもないと予想される。つまり、この叙述のペースに辛抱強く附き合ううちに、徐々に視聴者は巫崎カノンと謂うヒロインの魅力に気附き、またそのようなペースでカノン自身も成長していく、そのような語り口を狙っているのだろうと思う。

ただ、現時点ではカノンが上京以来経験した「厭なこと」をただ並べているだけ、と謂う印象が強いことも事実である。それに対するカノンのリアクションを描かず、受けの芝居でちょっと厭な顔をするだけ、と謂うのでは、やはり「何が起こったのかはわかったけれど、それに対してどう感じてどう思うような人物なのか」と謂うことがカノンを視ていても視聴者に伝わってこない。

つまり、「視点人物」のような扱いなのだが、彼女が視ている「厭なこと」自体は物語の中心軸となる叙述要素ではなく、その「厭なこと」を経験した彼女自身の気持ちや想いが物語の中心軸であるはずなのだが、それがカノンと謂う人物の描き方を視ていても見えてこないもどかしさはどうしても感じるのである。

一方で、響鬼における猛士に相当するようなオンバケの組織(?)と、それぞれのオンバケたちのキャラクターはわかりやすく面白いので、こちらが動くことで何とか物語に対する興味を持続させているような状況である。

そして、響鬼の場合は第一話から明日夢とヒビキの出会いと接近を設けていて、猛士サイドのストーリーラインと併行するような形で明日夢の日常が描かれ、明日夢がヒビキを通じて猛士に接近していくプロセスを描いていたから、この二つのストーリーラインの間に左程の乖離は感じなかった。

しかし大魔神カノンの場合、最初からカノンを主軸とするストーリーラインとタイヘイを主軸とするストーリーラインが割れていて、第六話に至って漸くタイヘイとカノンの接近が果たされてその二つのストーリーラインが合流の緒に就いたような具合だから、響鬼の場合よりもさらにもどかしさは強い。

それ故に、オレ個人の感じ方として、この番組を見守ろうとする動機は、今のところカノンではなくタイヘイの人物像の魅力に負うところが大きい。正直言ってヒビキ=日高仁志と謂う人物には、それを演じた細川茂樹当人の柄である「軽薄さ」を感じて少し嘘臭い臭いを感じていたのだが、タイヘイの場合は、山形から出てきたマンガのような田舎者と謂う設定はどうなんだろうとは思いながら、彼を演じる眞島秀和のネイティブ山形弁のリアリティもあって、理屈抜きに信頼出来る好漢と謂うキャラに説得力がある。

OPの映像を視るとカノンと並んで「キリリッ」と音がしそうなほど引き締まった表情をしているので、嘗ての深夜ホラードラマによく出てきたようなもう少しシリアス寄りの謎めいたキャラなのかと思ったら、人懐こい笑顔を常に浮かべたお人好しで、東京のオンバケたちと比べても極々ののんびり者、女性の前でも平気で放屁するような気取らない人柄に描かれていて、この温かい人懐こさや底抜けの善良さは、五代雄介や日高仁志にも通じるような高寺的ヒーロー像のベースだろうと思う。

その人懐こさや善良さは設定面でも響鬼より徹底されていて、オンバケと謂う存在は普通一般の妖怪と違って天然自然に湧いて出た存在と想定されているのではなく、人間に恩(愛)を受けたモノがその恩を返す為に生まれた存在と設定されている。つまり、オンバケは人間に理屈抜きに尽くす為に生まれた存在であり、その存在には目的性が織り込まれている。

人間が厳しい修行を経て異形の戦士に成る鬼と違って、最初から特殊な能力を具えた異形の存在が人間の為に戦う目的性の下に生まれたのがオンバケである。ならば、タイヘイやイケチヨたちに個々の「戦う動機」は必要ない。そしてオンバケは最初からそのようなモノとして生まれ、成長することも老いることもないのであるから、たとえばオレが高寺的ヒーロー性と白倉的ヒーロー性を対比して論じた際に挙げたような「戦いの必然性」の問題や、「如何にしてヒーローになったか」と謂う問題はクリアされている。

たとえば五代雄介は最初からそのような存在として現れた人格的特異性を有しているのだが、それを根拠附けるリアリティとしては「人間にはそう謂う奴もいる」と謂う以上のものではなかったし、それを「信じるか信じないか」と謂う受け手の側の受け取り方の問題はあるわけで、少なくとも白倉伸一郎はそう謂う人物が存在することを信じないか、もしくはそのような人物がヒーローであることに納得出来なかったわけである。

であるから、この番組で猛士に当たる正義の組織が妖怪集団であることには設定的な必然性があるわけで、これはつまり水木しげる的妖怪観における善玉妖怪集団に相当するわけである。それはたとえば、オンバケたちが人間の日常に溶け込んでいて、山深いところで生活している田舎者のタイヘイですら今時のカタカナ言葉を普通に話しているような描写からも伺えるわけで、これは鬼太郎なんかの妖怪描写に近い。

この番組の制作母体は…と謂うか高寺Pの現在の所属組織は角川書店であるから、同社刊の「季刊 怪」の影響や角川が所有する大映コンテンツの一つである「妖怪大戦争」との関連もあるのではないかと思う。

大魔神カノンの世界観は「大魔神」と謂うコンテンツのリメイクであると同時に「妖怪大戦争」の世界観とのリミックスでもあるわけで、邪悪で強大な大妖怪に対して正義の妖怪が力を合わせて戦うと謂う意味では、角川版「妖怪大戦争」よりももっとオリジナルの「妖怪大戦争」に近い物語構造である。

また話が逸れたが(笑)、そう謂う意味でタイヘイが最初から人懐こくて善良な人格的特異性を有していることには設定的な根拠附けが為されていて、彼はそう謂う異質な存在であると謂う以上でも以下でもない。われわれ視聴者は、最初からそのようなものとして現れたスーパーヒーローとしての好漢を無条件に好きになって構わない。

多分オレが大魔神カノンと謂う番組を観て楽しめるのは、タイヘイと謂うもう一人の主人公が無条件に好きだからで、たとえば第三話で崖崩れから稚ないカノンを救おうと彼女が乗ったクルマを押し戻すタイヘイの「このくらい、どうってことねぇべ」と言わぬばかりのお気楽な表情や、第六話で不良に無抵抗で殴られ続けるおどけた笑顔などを視ると、村枝賢一が「仮面ライダー SPIRITS」でオリジナルキャラをさらに純化させた好漢として描いたライダーたちに通じるような「ああ、いい奴だなぁ」と謂うような手放しの好意を感じる。

それと同時に、最前挙げた第六話の無抵抗の姿勢は、まあ相手はチンケな不良高校生ではあるが(笑)、たとえばクウガ最終回で泣きながらダグバ人間体と壮絶な血塗れの殴り合いを続けた五代雄介のその後の姿としても映るわけで、自分が痛みを引き受けることで暴力の連鎖を止めることが出来るなら甘んじて殴られ続け拳を揮わない、と謂う高寺的ヒーロー像の延長上の描写として視ることが出来る。

ここは、「クウガな日々」のkuu さんではないが、どうしたって五代雄介を思い出さないわけにはいかないだろうし、ちょっとした日常の喧嘩沙汰として描かれてはいるのだが、不良高校生のオヤジ狩りと謂う「日常的な悪意から発した些細な暴力」「無力な弱者に対して揮われる面白半分の暴力」を身を挺して止めるタイヘイの姿にグッとこみ上げてくるものがある。

結局、クウガにおけるグロンギのゲゲルと謂うのはこう謂う些細な暴力の拡大誇張されたものであり、弱く脆い人間を「ゲームの獲物」としてしか視ないグロンギの「非人間性」を、まさしく「人ならざる者」の残酷さとして描いているわけであるから、少なくとも、テーマ性の次元ではクウガ最終回とこの第六話はリンクしているのである。

個人的には、ここでタイヘイとカノンが和解する場面の距離感の錯綜の描き方が「清水厚によって模倣されたウルトラマンティガ第三九話」にしか見えないと謂う意味で何だかモニョモニョした感慨を覚えたのであるが(笑)、清水厚と川崎郷太は「円谷関係者の放出品」としてリュウケンドーで接点があるわけだしな(笑)。

また、この場面はこれまで論じてきたようなこの番組の語り口におけるカタルシスの在り方を示唆していると思う。たとえばこの第六話で「話が動いた」と謂う感じ方があり得るとすれば、おそらくそれはこの場面でカノンが自分からタイヘイに接近すると謂うアクションをとったからである。

これまでの物語では、カノンは終始自分を取り巻く現実の残酷さや醜さから逃げ続けてきたわけで、そもそも出発点からして「厭な記憶」を仕切り直す為に郊外に居を移したと謂う場面から始まっていて、これがすでに「逃避」である。東京と謂う都会の中心から郊外の狭い部屋に転居すると謂う行為自体が、上京以来の厭な出来事の連鎖からの逃避と謂う性格を持つわけで、それは明確に「退行」と意味附けられている。

そして、それ以前に起こったことからもそれ以後に起こったことからも、終始カノンは逃げ続けるわけで、因縁含みの「0℃」の面子とバッティングした際も結局ノーリアクションでその場から逃げている。バイト先で老人が理不尽な暴力に倒れた際も、無意識に相手を助けようと動きながら、その感情のざわめきから彼女は逃げている。

タイヘイとの出会いの際も、このようなカノンの来し方を識らないタイヘイが漏らした言葉に勝手に痍附いて勝手に怒ってその場を逃げ出しているし、それでも粘り強くアプローチしてくるタイヘイを拒絶して理も非もなく逃げ続けていたわけである。

であるから、この第六話までの巫崎カノンは、何か厭なことがあるとすぐに逃げ出す女の子として描かれてきたわけで、どんなイベントがあってもすぐにその場から逃げ出す人物の心の裡など、外からまったく見えないのは当たり前の話なのである。

…で、多分大多数の人々が「面倒くさいなぁ」と思うのは、何か厭なことがあるとすぐに逃げ出す人間であって、自身を取り巻く問題の存在を意識していながらそれに立ち向かおうとしない人間と附き合うのは、実は物凄く面倒くさいことなのである。

たとえばカノンがタイヘイを避けるきっかけとなった「いい歌は誰が歌ってもいい」と謂う言葉だって、カノンの個人的事情なんか無視して一般論として視れば別段それで誰を痍附ける言葉ではない。カノンが痍附いたのは単に彼女の個人的な都合と謂うだけのことにすぎないわけで、タイヘイが悪かったわけでも何でもない。

そんな一般論に勝手に痍附いて勝手に怒って勝手に逃げてしまったら、要するにタイヘイとの関係性はそれっきりの話で、不幸な偶然で関係がこじれたね、と謂う話にしかならないだろう。カノンの側に「元カレが自分の歌をパクった」と謂う事情さえなかったら、タイヘイが同じことを言ったって「そうね」で済んだ話である。

それを自分都合で勝手に怒って逃げてしまったら、その関係性のこじれを修復する機会がない。これはタイヘイに対して不当であるばかりではなく、自分に対しても不当な姿勢である。

個人的にはこのプロセスですでにカノンに対して「面倒くさいなぁ」と謂う強い悪印象を覚えちゃったわけだが(笑)、そう謂う不当な姿勢…と謂うか未熟さ故の自己防衛の為の幼児的な身勝手さみたいなものに影響を与えて壁を突き崩し、一旦こじれた関係性を修復する為には、たとえば巫崎カノンと謂う個人に対する一般論を超えた自己犠牲的な関心がなければならないわけである。

その「一般論を超えた関心」と謂うのは、普通は男女の間柄なら「恋愛感情」と謂うことになるわけで、好きでもない女が勝手に怒って避けているなら、そんな奴なんてどうなったっていいや、勝手にしろ、と思うのが当たり前であるが、相手を好きなら幾ら相手が悪くても決して抛ってはおけない。そう謂うふうにして、大概人は人の窮状を救うものであるが、やはり個別の関係性において「面倒くさい奴」に積極的に関わっていくべき個別の動機と謂うものは必要になるのである。

オンバケのタイヘイには、多分カノンに対する恋愛感情などはないわけで、十数年前の記憶の中にあるあどけない幼女のその後と謂う意識しかないのだろうが、オンバケの存在の在り方から考えて、ジュウゾウから授けられたミッションの為だけにカノンに接近しているわけでもないわけである。タイヘイにはタイヘイの、稚ないカノンとの交流の記憶と謂う個人的な接点があるわけで、そのときの無垢な女の子が「高々」十数年の月日が流れたくらいで変わってしまったと思いたくないと謂う動機があるわけである。

その意味で、タイヘイには公私に亘って巫崎カノンの置かれた現状の「面倒くささ」に附き合って、カノンの心を開きたいと謂う動機があるわけで、それは恋愛感情ではないけれど、それと同じくらい密接で偽りない個人に対する関心であると謂えるだろう。

そうすると、厭なことから理屈抜きに逃げ続ける「面倒くさい奴」である巫崎カノンがしつこく附き纏う胡乱な未知の男性に対して心を開くきっかけとなるイベントは何かと謂うことが、翻ってカノンの人物像の本質を表現するわけで、この場面で描かれたそれとは、タイヘイの人物像の本質である「他者の痛みを引き受けてでも暴力の連鎖を止める」と謂う底抜けの善良さであると謂うことになる。

そう謂うタイヘイの一面を目撃したことで、カノンはタイヘイから逃げ続けることが出来なくなり。自らのアクションで痍附いた彼に手を差し伸べると謂う流れが描かれる。これで漸く巫崎カノンと謂う人物の「リアクション」が描かれたことになるわけで、他者の為に身を挺して尽くし、その結果痍附いた者を無視出来ないと謂う意味性が提示されることで、漸く巫崎カノンがどんな価値観を持つ人物であるかと謂う視聴者の関心に対する答えの一端が提示されるわけである。

それはたとえば、サラダバーで突き飛ばされた老女に対して自然に身体が動いて安否を気遣ったこととか、深津かなめに「お祖母ちゃん」を口実に代返を頼まれて断れなかったことに関連する行為ではあるのだが、それは単に「お祖母ちゃん子だった」と謂うカノンの個人事情の延長上の「都合」の問題に過ぎないように思える。自分が好きだった家族との連想が働けば他人事では済まされない、それは彼女の個人性とは無関係な一般論の話である。

しかし、たとえばカノンが「他人を信じないようにしよう」と決めた為に横断歩道で買い物袋の中身をぶちまけてしまったオバサンを無視してしまった一方、タイヘイは見知らぬ老人が暴力の脅威に晒されているのを見過ごしに出来ず、誰にも痛みを与えることなく自らが代わって痛みを引き受けることで赤の他人のちょっとした窮状を救ったわけで、それがきっかけとなってぶっ倒れたタイヘイにカノンが接近するなら、それはカノン個人の価値観の反映と視ることが出来るだろう。

結局、これまえのエピソードでカノンの個人性がまったく描かれていないと謂う印象の原因とは彼女の消極性にあるわけで、或る状況に対してその人物がどのように受け取るのか、その結果どのように行動するのか、こう謂う関心に対して、彼女は無表情のままに何も積極的な行動をとらずに逃げ続けたから「何も描かれていない」と謂う印象に繋がったわけである。

そして、そのような主人公について「何も描かれていない」状況に対して視聴者が感じるフラストレーションは第六話のこの場面でカタルシスを得るわけであるが、だとすればこの番組が提供する情感のドラマとは、そのような極デリケートで小規模な感情の波立ち以上のものとしては描かれないと謂うことになる。

であるから、この第六話までを通して観た上でのこの先もこの番組に附き合っていくかどうかと謂う決定は、これまでの我慢の報酬がおそらくこの先もずっとこのような形でしかもたらされないことに対して、あなたは「引き合う」と感じるかどうかと謂う要件に依拠するわけである。少なくとも、高寺Pがこの番組で意図しているドラマの組立と謂うのはそのようなものなのだから。

そう謂う次第で、割合長々と語った割には何だか寄り道だらけの曖昧な話に終始したような気がするが、これが戦隊なら第一話ですっかり終わってしまうような話を一カ月半のスパンで語るような番組なのだから、まあ気長に見守っていきましょう(笑)。

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コメント

5話に一度はウクレレで歌うとか、さらに露出が増えるとか、長澤奈央がなんかしてくれさえすれば、最後まで我慢して見ます。

投稿: Leo16 | 2010年5月11日 (火曜日) 午後 12時39分

>>長澤奈央がなんかしてくれさえすれば、最後まで我慢して見ます。

イケチヨ姐さんの変身体が、Wのルナサイドみたいに「伸縮自在の乳をブンブン振り回してバッタバッタと敵を倒す」とかだったらおkですか?(木亥火暴!!)

…いやこれは、決して長澤奈央の乳が長いと謂うことを皮肉っているわけでも何でもありませんからご懸念なきよう(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年5月11日 (火曜日) 午後 09時19分

タイヘイさんと小さいかのんちゃんのエピソードは、きっと黒猫亭様のお気に召すに違いないと思っていましたhappy01

毎回カノンがいじいじして、そこに少しタイヘイさんその他が絡んで、若干妖怪バトルあり、という印象でしたがもう6回でしたか。

話が進まないことに不満な向き、実は構成や結末を考えていないんじゃないかと危惧する向きがあるようですが、2クール(ですよね?)でカノンの精神的リハビリ過程を描き、最終回に大魔神動く!的な物語なんだろうなと思って私は観ております(最初の語りでそう言ってますし…coldsweats01)。

エンディングの映像がちょっと恥ずかしい感じheart04です。

投稿: 604 | 2010年5月12日 (水曜日) 午前 01時41分

久しぶりにレスを書いたので、前のコメントでは宛名を入れ忘れたよ(笑)。勿論Leo16 さんに宛てたものだけど、ボケていて失礼しました。

>604 さん

>>タイヘイさんと小さいかのんちゃんのエピソードは、きっと黒猫亭様のお気に召すに違いないと思っていましたhappy01。

いやあ、流石にあの年齢域の幼女では若すぎます、オレとしてはもう五年くらい育ったほうが(木亥火暴!!)。ただ、あの一本調子の阿呆陀羅教みたいな歌を聴いてどうしてタイヘイが感銘を受けたのか、今ひとつよくわかりません(笑)。

育っちゃった現在のカノンの歌も、稚ない頃からさしたる変化がなかったのが芸が細かいですね(笑)…って、オレはこの番組が嫌いなのか?(木亥火暴!!)

>>話が進まないことに不満な向き、実は構成や結末を考えていないんじゃないかと危惧する向きがあるようですが

前者は響鬼の頃からいましたから想定内ですが、後者に関しては、高寺Pに限ってそんなことはないでしょうね。どうも彼は、白倉・小林コンビのように出来上がった映像からインスパイアされて先行きを考えると謂うような場当たり的な構成術はしないんじゃないかと思いますので、多分この現状で計画通りなんですよ(笑)。

>>最初の語りでそう言ってますし…coldsweats01

最初のNRをテキストに書き起こすと「この物語は、都会で生き方を見失った一人の女性が、その歌声によって奇跡を起こすまでを綴った、二一世紀の寓話である」と謂うものですから、何かしら「奇跡」と目されるイベントが起これば好いわけで、もしかして大魔神が復活しなかったら大笑いですね(笑)。

>>エンディングの映像がちょっと恥ずかしい感じheart04です。

カーテン越しの朝陽の中の女の子の寝顔を延々撮り続けるって、何だか助平な感じですねぇ(木亥火暴!!)。察するに、まだまだカノンは微睡みの中ってことですかね。

投稿: 黒猫亭 | 2010年5月12日 (水曜日) 午前 09時56分

本文で書き落としたことを少し補足。

>>タイヘイの人物像の本質である「他者の痛みを引き受けてでも暴力の連鎖を止める」と謂う底抜けの善良さ

思うにこれは、タイヘイが兜のオンバケだからこう謂う形の行動となって表れたのかもしれない。兜ってのは勿論自分が楯になって無抵抗で殴られることで着用している人間を護るものだからねぇ。逆に言うと、ヒーローであるタイヘイが兜のオンバケと設定されていることには、今週描かれたような意味性があると謂うことでもある。

まあ、タイヘイ変身体の鍬形が「愛」だったら物凄くびっくりするが(笑)。

勿論他のオンバケも「人間に恩返しさする為に生まれたんだから、殴るわけねぇ」と謂う事情は同じだろうが、これがたとえばザリガニの中のヒトだったら、殴りはしないとしてももうちょっとわかりやすく相手を脅して退散させたんじゃないか、その心は「ザリガニだけにハサミを振り上げて威嚇する」みたいな(笑)。

で、イケチヨ姐さんはやっぱアレだな、色仕掛け(笑)。金魚だけにな(笑)。

第一話でもどう考えても押し倒す気マソマソな助平トラッカーを、ほっぺにチューだけでメロメロに誑かしてるし、頭の中の九割が助平な妄想で一杯の男子高校生なんか赤子の手を捻るようなものだな(笑)。

それから、この場面で不良に殴られ続けたタイヘイが芝生に仰向けでぶっ倒れた際に空を見上げて漏らす台詞、「沁みるなあ 風が」と謂うのは、少し勘ぐり過ぎかもしれないが、手塚治虫の「シュマリ」のエコーではないかとちょっと思ったりする。

細々説明しようとすると長くなるので省略するが、主人公のシュマリと対立する太宰一族の娘のお峯が、明治期の荒涼とした北海道の原野の直中でいがみ合いながら厳冬期を耐え抜き、その間の苦闘を通じて男女の絆を深めていき、漸く訪れた春の日だまりの中で二人抱き合って寝ころびながら、広大な空を見上げてシュマリの発する台詞が「動くなあ 雲が! どうだ この空の広さ…」と謂うものである。

これは角川文庫版の解説で夢枕獏も好きなシーンとして挙げているが、オレは手塚作品の中では「シュマリ」が一番好きだし、手塚作品のヒロインの中ではこのお峯と謂う女が一番好きなので、ここはオレも大好きなシーンである。

もしかしたら脚本の荒川稔久の念頭にもこのシーンの記憶があって、「衝突を繰り返した男女の接近」と謂う共通項を媒介にして、似たような台詞を書いてしまったと謂うことなら面白いな、と謂うちょっとした思い附きである。

投稿: 黒猫亭 | 2010年5月12日 (水曜日) 午前 11時47分

はじめまして、
このまま、最終回になるまで大魔神はピクリとも動かないような気がしてきました。最終回の前までずっと歌の練習で、最終回まで我慢できた人だけのご褒美として大魔神が拝めるとか。前作では、いざ目覚めると、光になって飛んできたり、罪のない人も攻撃したりする勢いだったそうなので、とてつもないアクションを期待しています。
そんなことはともかく、ザリガニさんはアメリカ産の奴なんでしょうか。あのデザインからして、そんな感じですが、ということはあのメンツでは実は最年少だったりして。

投稿: LiX | 2010年5月12日 (水曜日) 午後 11時13分

>LIX さん

はじめまして、よろしくお願いいたします。

>>このまま、最終回になるまで大魔神はピクリとも動かないような気がしてきました。

事前に聴いた話でも、「大魔神」を謳っていながら大魔神は本編に殆ど出て来ないと謂うことでしたので、そっちのほうは終盤まで動かないでしょうね。

>>前作では、いざ目覚めると、光になって飛んできたり、罪のない人も攻撃したりする勢いだったそうなので、とてつもないアクションを期待しています。

劇場版のほうの大魔神は「アラカツマ」と謂う荒御霊と謂うことになっていて、勧善懲悪の神と謂うより人間の悪行に怒って大暴れをする神秘力のような扱いで、個々の人間の責任を公平に裁くような性格の神様じゃないんですね。

西欧の神様だと、飽くまで人間中心の世界観の中において理を司る超越存在と謂う位置附けですが、大魔神のアラカツマはもう少し人間とは断絶した自然の暴威を象徴するような猛々しい神格ですね。その意味で、第一作目と第二作目で大魔神が暴れ出すきっかけとなるのが、悪人による武神像の破壊だと謂うのは象徴的です。

そこに至るまでには、結構悪人がのさばっていて無辜の人々が大勢苦しめられているんですが、悪人が庶民の崇拝の対象である武神像に手を出すまで、大魔神は現れないんですね。つまり、悪人が善人を虐げて非道が罷り通ることまでは、人間の社会によくあることだから神様は手出しをしないんですが、さらにエスカレートして神をも恐れなくなると、その倨傲に天罰を下す為に恐ろしい大魔神が大暴れをするわけです。

第三作目は少しそれまでと毛色が違っていて、子供を主人公に据えたジュブナイル色の強い内容ですから、主人公の少年が身を挺して神に捧げた祈りに応えて大魔神が出現すると謂う内容になっていますが、二作目までは人間の祈りに応えて出現したわけではなくて、人間の倨傲に怒った荒御霊が見境なく大殺戮を繰り広げるのを鎮める為に乙女の祈りが必要だったわけです。

翻ってこの番組の大魔神の位置附けと謂うのは、未だよくわからないところがありますから、どう謂う展開になるのかもよくわかりませんね。ただ、劇場版では人間VS自然力と謂う図式で悪人と大魔神の対立構造が設定されていましたが、この番組では正邪の二項対立みたいな図式において邪霊イパダダとそれに対抗する大魔神が対等に位置附けられているので、劇場版とはまた違った展開になると思います。

>>そんなことはともかく、ザリガニさんはアメリカ産の奴なんでしょうか。あのデザインからして、そんな感じですが、ということはあのメンツでは実は最年少だったりして。

たしかに現代の日本でザリガニと謂えば、二〇世紀初頭に帰化したアメリカザリガニが一般的ですが、実は日本にも在来種のヤマトザリガニと謂うのがいるそうです。ですから、一概にザリガニのヒトがアメリカザリガニのオンバケとは限らないのですが、オンバケが「人間から恩(愛)を受けたモノが、人間に恩を返す為に生まれた」存在であるとすれば、ペットとして飼育される以前の時代のザリガニが人間から恩だの愛だのを受けるとも思えないですねぇ(笑)。

でも、もしかしたら「蜘蛛の糸」の蜘蛛みたいに、人間に捕まって喰われそうになったのを助けてもらったと謂う因縁でもあったのかもしれません(笑)。そうだとすると無闇に義理堅いザリガニさんだと謂うことになるんですが(笑)、それよりも、あんなに偉そうな態度をとっているのに、実はハシタカより年下だと考えたほうが面白いのでそっちの説を支持します(笑)。

犬の中のヒトより明らかに威張っているのは、まあ所詮相手が犬だからと謂うことで納得するしかないですね(笑)。そもそもザリガニのヒトが犬のヒトより威張っていると謂うよりも、寧ろ犬のヒトのほうが誰に対しても無闇に腰が低いと解したほうが妥当みたいですし(笑)。

で、多分イケチヨ姐さんは、「西遊記」に出てくる有り難いお経を毎日聴いているうちに化けた金魚の妖怪の親戚か何かだと思います(笑)。本文で書いたことを敷衍すれば、妖怪は見た目の年齢と実際の年齢の間に相関があるとは限りませんから、従って婆さんの妖怪のほうが若い女の妖怪よりも年上とは限らないわけで、意外とイケチヨ姐さんのほうがジュウゾウやオタキ婆さんより年上だったら大笑いですね。

投稿: 黒猫亭 | 2010年5月13日 (木曜日) 午前 03時23分

もう一つ書き忘れたことの補足だけれど、ジュウゾウやタイヘイの衣裳がああ謂うデザインなのは、やっぱり「山窩」とか「漂泊民」みたいなのを意識しているのかな。こう謂うふうに、ちょっとだけガジェット的に民俗学的な目配せを入れる辺りが、その筋のヒトたちの琴線に触れるところなんだろうな。響鬼でちょっとだけ「オニ学」の意匠を採り入れたところに東雅夫がガップリ喰い附いたみたいな。

投稿: 黒猫亭 | 2010年5月13日 (木曜日) 午前 03時34分

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