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2010年8月28日 (土曜日)

痛みは 生きている しるしだ

さて、先日の禁煙報告までお達者倶楽部ネタが途絶えていたのは、コメント欄でチラリと触れたように、足を故障してウォーキングを少し控えていたからであるが、何と謂うか最近はすでに「楽しい趣味のレベル」ではなくなってきた(笑)。

当然のことだがこれは勿論「アスリートレベル」と謂う意味ではなく、何だかさらなる過酷さを追求する荒修行のような性格を帯びてきたと謂う意味である(笑)。ウォーキングを始めた頃にもそんな話をしているが、昨日より今日、今日より明日、明日より明後日にはさらにもっと負担の大きい激しい運動を求めるような傾向があって、楽に出来る運動量で物足りなさを感じるようになると、何の中毒だかわからないが何かの中毒であることは間違いないので、のめり込み易い体質の人間は要注意である。

もうね、「ああ、しんどい」とか「死にそうに辛い」とか「もう限界だ」と感じるようでないと、歩いた気がしないのだよな(笑)。

楽だ、楽しい、爽やか、気持ち良い汗を掻いた…そんな生ヌルいレベルだと満足感が得られない。「もう一歩も歩けません」と音を上げたいところを、グッと踏み留まって苦痛を堪えながら歩き続けるのがとても楽しくて満足感があるのだが、これはもうすでに常軌を逸した狂気へのトバ口であると謂えるだろう。

ランニングや自転車にどハマリして、普通のヒトから視れば狂気の域にはみ出してしまうような人々は、大概こう謂う同じメンタリティの持ち主だろうと思う。オレの場合、走るのも自転車を漕ぐのもそんなに好きではないが、偶々歩くのは性に合っていたと謂うだけの違いがのめり込む領域を隔てているのである。

そんなに激しく歩くくらいならゆっくり走れば好いじゃないか、と不審を覚える方もおられるだろうが、走ると視界がガクンガクン揺れて平衡感覚に衝撃が来るのがどうも好きではない。あの、足が地べたを衝く「ドンッ、ドンッ、ドンッ」と謂う変な衝撃音が肉体の芯を伝わって脳天まで響き、身体の外側のほうでは激しい衣擦れや装備品が揺れてぶつかってガサガサ煩瑣い感じが、たまらなく不愉快なのである。オレは眼鏡着用者なので、走ると眼鏡がガクガク揺れるのも嫌いな理由の一つである。

歩くのと走るのではやはり動作の性格が全然違うわけで、走行は波形でパルス的な断続的跳躍の動作で両足が地表面から離れるサイクルがあるが、歩行は水平方向の連続的な動作であり両足が同時に地表面を離れることは決してない。その静謐で滑らかな疾走感が気持ち良くて好きなのである。

以前も語ったことだが、歩行の主要な推進力は重心移動であって重心の移動に合わせて足を前に送り出すことが基本動作だが、走行の主要な推進力は重心移動に加えて後方への蹴り出しによる前方への跳躍である。

つまり、「歩く」と謂う動作は重心を移動させながら移動した重心を踏み出した足で支えさらに連続的に前方に倒れ込む動作を継続することで絶えず前進すると謂う性格の動きであるが、「走る」と謂う動作は前方に倒れ込みながら絶えず両方の足で後方に蹴り出して前方に向けて跳躍しているわけで、だから一歩のストライドの幅と動作サイクルのペース・リズムが歩行と走行では全然違う。

歩行動作で可能な限り素早く動いたところで、原理的な限界で普通のペースの走行動作より断然遅いことは事実であって、両足が同時に地表面を離れる跳躍のプロセスがないのだから圧倒的に速度は劣るわけで、どんなに非常識なペースでガシガシ歩いてもゆっくり走っているオバチャンランナーにあっさり抜かれたりするけれど(笑)、オレにとっては歩くほうが走るよりも遙かに気持ち良いのだから仕方がない。

たとえば階段を降りる動作では、「走って降りる」のと「歩いて降りる」動作は違う動きになるのであるが、階段を降りる動作に限って謂えば早歩きで降りるほうが走って降りるより速いはずである。

階段を昇るのであれば、走って昇るほうが速いが、階段を降りる場合、走る動作では必ず上方向に跳躍するサイクルが入るが、上方に跳躍する動作は階段を降りる動きにとってストライドを稼ぐ意味がないので、無駄が多いのである。つまり、人間は下方向に向かって飛び跳ねることは不可能であり、下方向に移動するなら飛び上がるより落下したほうが速いから歩いて降りるほうが速いのである。

階段を降りる場合、引力によって下に引っ張られる推進力が強いので重心移動に合わせて足を送ると謂う歩行動作のほうが断然速い。嘘だと思ったら、今度何処かで試してみて欲しいのだが、階段を降りる場合は「下に向かって落ちるように歩く」のが一番無駄がなくて速い降り方であり、昇る場合は逆に「上に向かって跳び上がるように走る」のが一番速い昇り方である。であるから、オレは階段を降りるのは得意で好きなのだが、昇るのは不得手で好きではない。今まで階段を降りる速さで他人に負けたことがないくらいである(笑)。

この動作がどんなイメージなのかと謂うと、たとえば「西部警察」でよく寺尾聡が銃を構えながら階段を小刻みな足の送りで滑らかに降りたりするが、あんな感じ(笑)。階段と謂うのは、ポテンシャルエネルギーを利用しながら滑らかにスルスルッと降りるのが一番速いのである。

ただ、階段を走って昇る場合でも、跳躍してから一度落下するプロセスが入るとその落下分のプロセスは進行方向への推進と謂う意味においては丸々無駄なのだから、階段のピッチに合わせて最小限の跳躍を素早く繰り返さないと無駄が多く速度が低下することになる。

つまり、跳び上がってから放物線の頂点で足を送ったら膝が曲がった状態で次の段に足先が掛かり、そのまま膝を伸ばす動作で次の跳躍に踏み切ると謂うくらいのコンパクトなサイクルで跳躍を繰り返さないと、上下動ばかりが多くてそんなに速くならない。

…話が逸れたが、なんでオレは階段昇降なんてどうでも好い話でこんなに文字数を費やしているんだろうと訝しさを覚えつつ(笑)、ここでオレ個人の話に戻ると、たとえば歩いて何かを見物に行くと謂う物見遊山の動機が強くても、もう粘り気がすっかり失せて蒸留水みたいにサラサラになった大量の汗が公園の噴水池のカスケードみたいに全身の体表を連続的にダーッと流れて汗の塩気が沁みて目が開かないくらいの極限状態で、半ば朦朧と霞んだ視界越しに風景を見ないと見たような気がしない。

帰宅時には、頭の天辺から爪先まで汗みずくでフラフラになっていないと「ああ、今日も歩いた、楽しかった」と謂う満足感が得られない。

で、さらにオレのウォーキングには、極簡単なルールが三つある。

一、走らず走るように歩く。

二、前から来る奴は避ける。

三、前を行く奴は追い抜く。

ご覧の通り極単純な決め事で、とにかく可能な限り速く歩くことを心懸け、普通の意味での効率的な移動手段ではなく運動としての非効率な負荷を確保するが、「遅く走る」のではなく飽くまで「速く歩く」と謂う意識とペースを守る。

そして、前方から歩行者なり自転車なりが対向して来たら、相手に避けさせるのは横着なので自分のほうから動いてかわし、単調な直線運動に変化を附ける。で、通常以上のペースで歩いて行くといずれは必ず先行する歩行者に追い着いてしまうのが当然だが、基本的には必ずそれを追い抜くつもりで歩く。

相手が途中で道を外れたりする場合があるから、事実として「追い抜く」と謂う結果を求める必要はない。ただ、同じ道を歩き続けている間に必ず追い抜くとか、予定の道筋を外れてでも追い抜く、と謂うような必要があるわけではないと謂うだけのことで、この程度の距離で追い抜けるだろうと予想される距離の間相手がずっと同じ道を歩いている場合は必ず追い抜くべく努める。

誰でも予想する通り、こんなルールで歩いていたら、いずれどこか悪くするのが当たり前の話で(笑)、最初の頃は簡単なウォーキング用のシューズでも全然問題なかったのだが、どんどん内容が激しくなってくるに連れて、足にランニング並の負荷が掛かるようになってきたらしく、それでは間に合わなくなってきた。運動量が変わってくるに連れて、以前のエントリのコメント欄で話していたようなフットギアの適不適の問題が再燃したわけである。

習慣的に歩くようになって判明したことだが、どうやらオレは長年に亘る座卓+胡座のスタイルの生活のお陰か、着地時に足首が外側に倒れる、つまり足裏が内向きになる形で足首が曲がる傾向があるらしい。

ランニングの用語で謂えば、オーバーサビネーション(過回外)と謂うやつで、胡座を掻くときに上に組む右足の回外がとくに非道くて、未整地なんかを歩いていて石ころや木の根などの思わぬ突起に足を取られると、足首がパッタリ倒れて捻挫しそうになる。

これがアキレス腱にも影響を与えて、アキレス腱と腱鞘が激しく擦れる為に炎症を起こして痛みが走るようになってきたと謂うわけである。足首のところで腱の動きが不自然に曲がっているのだから、激しい運動をすると腱鞘に過剰な負荷が掛かって痛むわけである。加えて、着地の際の踵骨の接地角度が曲がっているのであるから足底も痛むようになるし、オーバーサビネーションの場合は着地の衝撃を足首から脚部全体で緩衝するショックアブソーブの機能が上手く働かないので、ダイレクトに踵や膝に衝撃が伝わって傷めやすいそうな。

何と謂うか、自分がたとえば皇居ランナーとかジョギングマニアみたいなレベルで運動するようになるとは全然予想していなかったので(笑)、まあ本格的にスポーツとして歩行法を訓練したわけではないから歩き方に癖はあるんだろうけど、そこまで深刻な故障に結び附くようなものだとは予想もしていなかった。

たしかにウォーキングを始めてから右足の踵とアキレス腱、左脚の膝が強く痛むようになってきていて、最初の頃は年寄りの冷や水故の筋肉痛や関節痛の一種だと思っていたから数日で治ると思っていたのだが、殆ど好くならないので、どうしたものだろう、やはりオレに人並みの運動なんか無理なんだろうか、と考え込んでしまった。

いろいろ調べてみると、歩き方がどうのと謂う問題ではなく、長年月に亘って形成された脚部や足部の形態の問題らしいと謂うことがわかってきて、歩行法を直すだけではなく足の形態のほうも補正しない限り、一定限度以上の激しい運動が出来ないらしいと謂う結論に達した。こっちは限度を超えた非常識な運動がしたいのだから(笑)、どうすれば補正出来るか調べてみたのだが、もう足のトラブルばかりはランニングを趣味とする人々が宿命的にずっと附き合っていかねばならない課題らしい。

オレの場合はランニングじゃないんだが(笑)、足に掛かる負荷や衝撃だけ取り出して考えればランニング並だろうし、これまで五〇年近くうらなり瓢箪みたいなインドア生活を続けてきた人間がいきなりハードに歩き始めたわけだから、それは故障が出ても当り前の話である。これはもう、街歩き兼用みたいなオサレなものではなく、本格的なランニングシューズをさらに検討する必要があると考えるようになった。

さなきだに最近は何だかスポーツ用のウェアだのグッズだのを見ると妙に購買欲をそそられると謂う、以前からは考えられない嗜好に偏ってきて、身の回りの小物や衣服がナイキだのアディダスだのばかりに偏してきているわけだが(笑)、もうランニングシューズにまで手を出したらオシマイである(笑)。

以前のオレは、電車の中でアディダスやナイキのロゴの附いたバッグを背負って「天晴れアスリートでござい」みたいな顔をしている輩を視ると、「だせぇ」と鼻先でせせら嗤っていたものだが、今や自分自身がナイキのメッセンジャーバッグを肩から提げて通勤しているザマである。

一方でウォーキングを楽しみたいと謂う欲求はありつつも、自分のスタイルが徐々にスポーツ好きのオッサンみたいなセンスになってくるのが厭なのだが(笑)、段々その傾向がひどくなってきた上に、靴まで「ズック」になるのは厭だなぁ、ダサいなぁ、と謂う強い抵抗感を覚えたことは白状する。しかし、もうこれ以上エスカレートするのであれば、専用のスポーツシューズでないと負荷を支えきれないだろうから、しょうがないと謂えばしょうがない。

手持ちのナイキのジョギングシューズは、嘗て仕事がヒマだった数年前の時期にジョギングを始めようと思って買ったので(笑)、結構なお値段だったはずだが踵のホールドも全然甘いし、ナイキのウリである高機能性のエアクッションも附いていないタイプで、今考えると街歩き用スニーカーに毛が生えた程度のものである。

なので、近所のABCマートに出向いて行ってランニングシューズを物色してみたのであるが、まあスポーツシューズ専門店でもないのでそんなに種類が出ているわけでもないし、売り子さんも細かい機能の違いみたいな専門知識はそんなに詳しくないらしく、結局エアクッションの有無とデザインだけを目安に、ナイキのエントリーモデルを一足買った。

そもそもネットなんかでスペックを調べてもランニングシューズの仕様の違いなんてのは何だかよくわからないし、ご大層な能書きの附いた売り口上を鵜呑みにするのも危険であるから、まあこの一足は探りである。ネットで調べると、値段や機能性だけで判断して自分の足ナリや動作の癖に合わないシューズを履くと逆に足を傷めると謂うことなので、まあこんなモンだろうと。

しかし、これに履き替えて歩いてみたら、やっぱり履き味が普通の靴とは全然違う。踵がしっかり固定されて足が倒れ込まないし、エアクッションの緩衝性も良好で、早朝に思い立って二時間くらい歩いてみても嘘みたいに足や膝の痛みが失せた。それまでは故障箇所を労って七分程度の力でしか歩けなかったのだが、久しぶりに脚力と心肺機能の限界まで全開でガシガシ歩くことが出来たので大変爽快を感じた。

これに味を占めて調子に乗るのがオレの悪いところで、「素敵、素敵」と調子コイてさらにまた夕方から二時間くらい歩いてしまったのだが、幾ら専用のスポーツシューズとは謂えおろしたての靴で一日に都合四時間、計二〇キロ以上も歩いたのだから、誰もが予想する通りちょっとした靴擦れが出来てしまった(笑)

普通のスニーカーよりも踵のホールドが強い分サビネーションやプロネーション(サビネーションの逆で足首が内側に倒れる傾向)が抑制されることは事実だが、それはつまり普通のスニーカーならそんなに強く当たらないところが強く当たると謂うことなのだから、靴が足に馴染まないうちに猛暑の日中に調子に乗って何時間も歩いたら靴擦れが出来てもしょうがない(笑)。

さらに昨日の勤め帰りは、もっと調子に乗って勤め先の前から蔵前橋通り経由で春日通りに抜けて御徒町のアートスポーツに寄って買い物をしてから本郷三丁目まで歩いたので、春日通りの坂道がやはりちょっとキツかった(笑)。まあ、電車に乗っている間は別段辛くなかったのでいつものように二駅手前で降りて自宅までさらに歩いたのだが、これで大分靴擦れが悪化してしまった(笑)。何と謂うか、まったく懲りずに無理を押して軽度な症状を悪化させるのは最早お家芸みたいなところがある(笑)。

以前の経験から謂うと、靴擦れ程度でも痛みを押して無理に歩くと、その痛いところを無意識に庇う歩き方になってフォームが崩れ、別のところを連鎖的に傷める可能性があるので、まあとりあえず今日はお休みと謂うことで(笑)。この靴擦れが一皮剥けて乾いたらかなり歩けると謂う希望が持てたのだから、まあよしとしよう。

流石に月末なのでもう衝動買いの軍資金も底を突いてきたが(笑)、エントリーモデルの使用感からフィードバックして、来月辺りもう一足自分に向いたシューズを買おうかと計画している。中敷きなんかも「スーパーフィート」と謂うのがネットでも評判が好いようだしアートスポーツの店員もご推奨で、足のナリが悪い人間には相当補正効果が高いらしいのだが、なんせ中敷きのくせに一足四〇〇〇円以上するので買うとしても来月以降廻しである。

しかし、何と謂うかですね、人間、大病をすると人生観が変わるとか死生観が変わると謂うけれども、オレの場合は軽度の脳梗塞で一週間ほど入院しただけで、死線を彷徨ったとか、川向こうにキレイなお花畑が見えて死んだお婆ちゃんが手招きをしていたとか謂うような経験をしたわけでもないのに、窮めて短時日の間にこれほど趣味嗜好が劇的に変化すると謂うのは、自分でも不思議な感じがすることは事実である。

脳梗塞以前のオレを識っている人から見れば、煙草も吸わず脂っこい喰い物をドカ喰いもせず一日中糞暑い猛暑の中を汗だくになりながら嬉しがって歩き回っているオレなんて、最早何処の誰のことを謂っているのかわからないくらいの変化だろう。

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コメント

こんにちは。
実にあなたらしい文で、長いにも関わらず一気読みしました(o^-^o)

私もこのところ「山ガール」目指しています。
と、言うのはあまりに図々しい。
実のところは「中高年のハイカー」です。ははは。
でも、「道具」って絶対大事ですね。
私は足に持病があるので長くは歩けないのですが、そんな私でもシューズとストックとグローブのおかげで簡単な山は登ることができます。
そして、それはとりもなおさず自信に繋がり、次への挑戦へと繋がり、毎日にメリハリができました。
興味を持ち出した時はあなたと同じくらいです。
これからはお互いにネットを通して仲間ですよ♪
以後よろしく!!!


さて、
京極さんの「死ねばいいのに」読みました。
これについてはまた次の機会に。


では、、、、、
また楽しいエントリー楽しみにしています。
なお、くれごれも無理なさらないように。

投稿: せとともこ | 2010年8月28日 (土曜日) 午後 05時54分

私自身が試してみたわけではないのですが、関西地方で評判のいい靴屋が東京にも進出したみたいなので一応紹介しておきます。

http://www.ihoujin.co.jp/index.html

個人の足に合わせて中敷きを作ってくれて、ウオーキングには非常にええみたいですよ。

投稿: がん | 2010年8月28日 (土曜日) 午後 06時55分

こんばんは。

己を首肯する為の一連の考察がお済みになったようですね(笑)。
中身があるんだか無いんだか判らない長文でも、黒猫亭さんの文章なら瞞されてやっても謂いかな、と思えるところが不思議です(チョー失礼)。

私ここ2,3日、「ホメオパシー友の会」のブログで成り行き上やり取りしてまして(無駄なんでやらないことにしているのですが)。自業自得とは謂え、少々疲弊していたので和ませて頂きました。昔から腹が立てば立つほど言葉遣いが馬鹿丁寧になっていく癖がありまして、もう文章がどんどん慇懃無礼になっていく自分に苦笑いです。

さて、日本人の趣味が直ぐに"修行"とか"道"に近づいてしまうのは何故なんでしょう?黒猫亭さん自らが仰有るように、ほぼ"苦行"になってますよねぇ(笑)。

私は寒いのは平気なんですが暑いのが大嫌いなので、秋になったらワンコをダシにして、彼が大好きな片道30分かかる公園(1週1時間弱)への散歩をしようと思ってます。

投稿: うさぎ林檎 | 2010年8月28日 (土曜日) 午後 07時57分

>せとともこさん

>>私もこのところ「山ガール」目指しています。

>>私は足に持病があるので長くは歩けないのですが、そんな私でもシューズとストックとグローブのおかげで簡単な山は登ることができます。

坐骨神経痛でしたっけ。あまりご無理はなさらずに…とオレが言うのは本文の繋がり上とてもおかしな話ですね(笑)。ただまあ、自分ならともかく他人様には「どんどん無理をしてください」とも言えないじゃありませんか(笑)。

身体一つで楽しむような趣味でも、道具はホントに大事ですね。山登りなんかだととくにその辺は如実で、そもそも山ってのは里の人間にとってはアウェーですから、下手をすると命に関わりますよね。ハイキング程度の低山と言っても山をナメちゃいけませんから、十分な装備が必要ですね。

先だっても沢登りの遭難がきっかけで多重遭難事故がありましたが、元々沢登り自体が相当危険なスポーツだそうで、あまり安易に始めるものでもないようですね。普通の山登りとは違って尾根筋ではなく谷筋を行く為に遭難しても救助しにくいそうですし、件の遭難事故のように救助ヘリ自体が事故に遭ってミイラ取りがミイラになると謂うようなことにもなりかねないそうで。

流行り廃りでしょうがないことですが、最近はそれこそTシャツ・ジャージやハーパンに申し訳程度のシューズと謂うような軽装で山に来るビギナーが後を絶たないようで、山岳ガイドのヒトも困っているようですね。

やはり、スポーツなり趣味なりを始めるときは、「形から入るのもなぁ」とか「三日坊主に終わったら丸損だなぁ」とか思わず、それなりにイニシャル・コストを掛けて装備を揃えるのが鉄則ですね。

せとさんは当然装備も道具もバッチリだとは思いますから安心ですが、オレも秋にはまた一度山歩きをしたいなと思ってはいても、この間は何度か道を間違えてしまいましたので、迷わずに済みそうなコースを物色中であります。

>>そして、それはとりもなおさず自信に繋がり、次への挑戦へと繋がり、毎日にメリハリができました。

そうなんですよね、「これだけ出来たんだから、この次はもっと出来るに違いない」とか思っちゃうんですよね。前にも言ったことですが、この歳になると出来なかったことが出来るようになる経験と謂うのは貴重です。

>>京極さんの「死ねばいいのに」読みました。
>>これについてはまた次の機会に。

機会がありましたらご感想をお聞かせください。そう謂えば、先日書店で巷説シリーズの上方版「西巷説百物語」の単行本を発見したんですが、袋物を持たずに出たウォーキングの最中で荷物になるのが厭だったので買いそびれてしまいました(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年8月29日 (日曜日) 午後 01時28分

>がんさん

>>私自身が試してみたわけではないのですが、関西地方で評判のいい靴屋が東京にも進出したみたいなので一応紹介しておきます。

…あんた鬼ですか、四五〇〇円の中敷き程度で高いとか零している人間に、一万円超のオーダーメイド中敷きを奨めるってのはどう謂う料簡ですか(木亥火暴!!)。

ただ、こう謂う道具に関しては売る側の口上を鵜呑みに出来ないので、たしかな口コミ情報が欲しいところですが、ランナーの間で評判が好いのであればコストパフォーマンスは高そうですね。

投稿: 黒猫亭 | 2010年8月29日 (日曜日) 午後 01時30分

>うさぎ林檎さん

>>己を首肯する為の一連の考察がお済みになったようですね(笑)。

とんでもないことで、オレが自分の人生の意義を全肯定しているのはオレがオレである以上は大前提であって考察の対象ではありません(笑)。「人生は生きるに値する」と謂うテーゼは出発点であって懐疑すべき対象ではないのと同じことですね(笑)。それはオレが肯定出来れば好いことなので、他人様に向けて正当化する必要性も感じないです。

そう謂う意味では、ホメオパシーやマクロビオティックとは違って誰に迷惑を掛けているわけでも社会に害毒を垂れ流しているわけでもない以上、オレの莫迦話は愚行権の範疇の事柄であって正誤や当否で判断すべき事柄ではないでしょう(木亥火暴!!)。

ですから、この笑い話は「ズィス・イズ・オレ」と謂う以上でも以下でもない意味しかないので、「ああ、こいつはこう謂うところが常識離れして節度がないのだな」と思って嗤って読んでくだされば有り難いです(笑)。

>>中身があるんだか無いんだか判らない長文でも、黒猫亭さんの文章なら瞞されてやっても謂いかな、と思えるところが不思議です(チョー失礼)。

うさぎ林檎さんは何だかピンポイントでツボを突くほめ方をなさるのですねぇ、女性から「あんたにだったら騙されてやってもいい」とか言われちゃったら、やっぱり野郎としては何だか嬉しいじゃありませんか(木亥火暴!!)。

>>さて、日本人の趣味が直ぐに"修行"とか"道"に近づいてしまうのは何故なんでしょう?黒猫亭さん自らが仰有るように、ほぼ"苦行"になってますよねぇ(笑)。

なんでですかねぇ。思うに、たとえばベタなアメリカ人が「エンジョイ」みたいな感覚で趣味やスポーツを謳歌するのは、あれはスポーツやゲームのプレイそのものの遊戯性を楽しんでいるわけですよね。

一方、日本人の「○○道」ってのは、プレイの遊戯性を楽しむと謂うより、そのプロセスを通じて何かを達成すると謂う長期的な目的性のほうに楽しみや満足を見出すメンタリティによるところが大きいんですかね。

まあ、武道なんかだと漠然と「人格形成」みたいに謂われることが多いですし、宗教修行だと「解脱」とか「大悟」とか、そう謂う中長期目標みたいなものがあって、その目的性に近附く為のプロセスと謂う意識において、難行苦行に歓びや満足感を見出す、そう謂う目的志向的なメンタリティがあるのかもしれません。この手の大雑把な俗流民族論なんてのは、アテにはなりませんけどね(笑)。

まあ、それ以外の角度で考えても、人間の営み一般には困難な課題であればあるほどクリアした場合の報酬感情が大きいと謂うセンセーションの機序があるわけで、一概に苦痛やコストはネガティブな刺激として受け取られるばかりではないと謂うこともありそうですね。

また、オレの場合、「目的を設定してそれを達成する為の現状における課題を抽出し解決策を模索して継続的な努力によって課題を解決する」と謂う、日本型のカイゼン志向とかPDCA的な考え方が大好きなところがありますから(笑)、困難な課題とかあると逆にかなり燃えると謂う部分はありますね(笑)。

たとえばウォーキングを始めた直接の理由は高脂血症の運動療法であり、高脂血症の改善には運動と減量が効果的だから、最終的には(笑)一〇キロ程度の減量を目標として設定して、それを三カ月くらいのスパンで達成しようと謂う計画を立てたわけですね。

で、巷間謂われる通り最初の三キロくらいなんて、食習慣を変えればアッサリすぐに落ちるんです。とくに何もしていない状態における三キロ分くらいの重量なんてのは単なる余剰ストックに過ぎないですから、無駄な摂取量を減らせば落とせるわけですね。

ただ、それ以上となると、しっかり血肉になっている肉や脂肪の重量を落とすわけですから、一キロ落とすには最初とは比べものにならないくらい物凄い負荷を掛ける必要がありますし、激しい運動を継続すれば、体重が落ちやすい肉体状況にはなりますが、落ちる幅が段々鈍ってきます。徐々に体重を落とす為のコストが高くなってくると謂う言い方も出来ますね。

その場合、「ここまでコストが高騰したら莫迦らしくてこれ以上痩せられるか」と謂う算盤勘定もありますよね。その一方で、「いや、ここまで体重を落とすと決めたのだから幾らコストが高騰してもここまでは必ず落とす」と謂う考え方もあるわけで、要するにオレにとってこれは禁煙と同じことなんです。

今、九キロまで落としたところで、足の故障が出たり禁煙の煽りでちょっと生活が乱れたりして、あと一キロか二キロと謂うところで目標達成まで足踏みが続いているんですが、来月初旬に病院で血液検査を受けてそれで最終的な判定を受けるんですが、それまでに総計で一〇キロ以上体重を落とせていれば目標達成です。これにはまあ、現時点では成算があります。

実は、体重計では一度目標を達成した数値を出せているのですが、それで体調を崩してしまい意図的に体重を戻しているので、経験から謂えば一度体重計に出た数字は幾らでも再現し定着出来るのです。必要なのはそれを達成出来たプロセスをもう一度繰り返すことだけなんですけど、それが大変ハードだと謂うだけの話で(笑)。

まあ、それで高脂血症が改善されるかどうかは保証の限りではないですが(笑)、普通に考えてメタボ気味だった中年男が運動で一〇キロ以上体重を落として何か全身的な健康に悪いことがあるわけのものではないですから。

最近は「健康」と謂う言葉の意味をよく考えるんですが、たとえばオレが「健康の為に体重を落としています」とか言う場合、その「健康」と謂うのは「身体中何処もかしこも活力が漲っていて痛みも病気もないこと」って意味じゃないんですよね。

オレが口にする「健康」と謂う言葉は、要するに「また脳梗塞にならない」と謂う特定の具体的な目標を指す意味でしかないんですよ。退院直後くらいのオレの肉体状況において「脳梗塞の再発」は非常に直接的で確実なリスクだったわけで、それを回避する為には相当な努力が必要なわけですね。

真面目なことを言うとですね、一度倒れて入院する羽目になった病気の再発を何もせずに座して待つくらいなら、それを回避する為の努力を継続する過程で多少怪我をしたり苦痛を覚えたり他の軽微な疾患に悩まされたり他の楽しみを断念したりするほうが全然マシな生き方だと謂うのがオレの価値観なのだし、それは人間が一方的に年老いて衰えていくものである以上は避けられないトレードオフってものに過ぎません。

オレは別段今現在の年寄りの肉体から若返って何処も苦しくも痛くもない真っさらな肉体を目指そうなんて欲張ったことは考えていないわけで(笑)、一度倒れた病気に何ら対処する努力もせずに為す術なく再び倒れて、剰えそれで障害を抱えたり死んだりするのは横着な莫迦者のやることだと考えているだけなんですね。

もしも同じ結果を迎えるのだとしても、自分に出来ることは全部すべきだし、ちょっとくらい出来ないことでも、必要があるのであれば出来るようになってそれをするべきだろう、と考えるわけです。

だからですね、プロセス自体は苦しかろうが辛かろうが楽しくなかろうが、目的を達成する為にカネも遣えば身体も頭も使う、努力もすれば我慢もするのだし、今自分が持ち合わせているすべてのリソースを割いて可能な限り努力しているのだと謂う事実が、どんな苦痛にも見合う満足感を保証してくれるのだし、その過程で何らかの課題が生じてくれば、さらにそれを解決する為に努力を継続するのが楽しい、そう謂うことの繰り返しがこの上なく充実しているのですよ。

誤解を恐れずに謂えば、そうすべきだと疑いなく信じられる価値観がオレの信仰心みたいなものなのだろうな、と思いますし、信仰心だから大前提なのですよ。

投稿: 黒猫亭 | 2010年8月29日 (日曜日) 午後 01時31分

だから一応薦めてみると言うておるでしょうが(木亥火暴!!)

いや、すいません。この日は少年野球の試合を観戦したあと、1試合審判して熱中症になりかけて頭痛かったので、値段の事まで考慮する余裕がありませんでしたわ(^^;

投稿: がん | 2010年8月30日 (月曜日) 午後 10時49分

>がんさん

いや、本気で責めたわけじゃないから気にせんでください(笑)。

調べてみると、高く附くのは元々の製品が高いところにオーダーメイドの手が加わるからのようですね。リンクを辿ってシダスのサイトで中敷きの価格を見てみたら、既製品のコンフォーマブルでもスポーツ対応モデルが九〇〇〇円程度するし、完全オーダーメイドのモジューロだとパーツの組み合わせ次第ですが、大体一万円〜二万円くらいと謂うふうに参考価格が出ていますね。

製作プロセスをみると、ブツの性能を基準にしたら割に合うかどうかはオレにはわかりませんが、採寸やフィッティングの手間とか一種のコンサルティングを含めた人件費を考えるとそんな価格帯で無理はないのかな、と謂うふうには理解出来ますね。

そう謂う次第で、がんさんがこんなものを紹介してくれたお陰で、「ああ、上には上があるんだから、四千五百円くらいなら普通なんだなぁ」と金銭感覚がおかしくなったせいで、今日の勤め帰りに御徒町のアートスポーツに寄ってスーパーフィートを購入してしまいました(木亥火暴!!)。

どうもですね、気にして観察してみると、オレは右足がオーバーサビネーション気味なだけではなく、左足がオーバープロネーション気味で、要するに両足首とも右側に倒れていると謂うイビツな足ナリになっているらしく、やはりそれなりの器具を使って矯正しないと長時間のウォーキングやランニングは難しいようです。

九月の小遣い銭に余裕があるようなら、オーダーメイドのモジューロはちょっと無理でも、コンフォーマブルのランプラスくらいだったら買っても好いかな、と謂う気になっている辺りが怖いなぁ(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年8月31日 (火曜日) 午後 11時30分

本日妹から様子伺いの電話が掛かってきて、最近の生活振りを話して聞かせたら流石に驚いていた。

そのときに聞いた話だが、どうやらオレの父親は、高血圧の療養中、主に断食によって一カ月で体重を一〇キロ落としたらしい(笑)。であるから、オレが主に無闇矢鱈な運動によって三カ月で一〇キロ減量しても、親父ほどには無茶な真似ではない。

何と謂うか、最近しみじみ「オレはこの人の子だな」と思う機会が増えた(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年9月 4日 (土曜日) 午後 02時27分

いつも楽しく拝見しておりますが、お邪魔するのは始めてかも知れません。
(poohさんのところでお会いしたくらいかな)
確かに昔の黒猫亭さんのイメージからすると、全く別人のようです。
でも、ウォーキングのつもりが結局は求道者のごとく先鋭化するところなど、黒猫亭さんのオタ属性が遺憾なく発揮されたようで、ああやっぱりそこは黒猫亭さんらしいとも。

私は体重を減らそうと思い立って、仕事場までの15キロを車から自転車通勤に換えて五年になりますが、結局体重は変化なしです。
毎日30キロずつ走り、食事にも一応気をつけているのに減らないので専門家に聞いたところ、
どうやら自転車始めてしばらくは脂肪が落ちた分筋肉がついて差し引きゼロ。その後は加齢のために基礎代謝が少なくなっていき、加えて自転車のグレードアップによる高性能化により消費カロリーがどんどん減少したため、やはり差し引きゼロ。ということらしいです。
でも、私の場合は自転車が合っていたらしく、乗ること自体が病みつきになりました。
とはいえ、ここしばらくの酷暑ときたら自転車乗りには過酷で、仕事帰りに夕日に向かって家路を走るときなどはやけくそで思わず「陽は いつまでも 沈まない~」
と歌いだしたくなります。

投稿: bonta | 2010年9月 8日 (水曜日) 午前 12時03分

>bonta さん

>>でも、ウォーキングのつもりが結局は求道者のごとく先鋭化するところなど、黒猫亭さんのオタ属性が遺憾なく発揮されたようで、ああやっぱりそこは黒猫亭さんらしいとも。

目的を達成する為のプロセス自体が目的化するところとか、それを最適化するにはどうしたら好いかに拘って脇道にハマり込むところなど、たしかにこのブログのエントリのいつものパターンとは謂えるかもしれませんね(笑)。

実はいよいよ明日に血液検査を控えておりまして、ラストの追い込みと謂うことで、先日の日曜は所沢航空記念公園にリベンジして往復三〇キロ歩いてきました(笑)。ここは前回歩いたときに往路だけでへたばって、帰りは電車を使ってしまったので、いずれはリベンジする必要があると考えておりましたが、何とか歩いて帰ることが出来ました。

前回歩いたのは七月の連休時分でしたが、あの頃はとにかく無闇に歩くのが楽しくなりかけていたところでしたので、足に任せて後先考えずに歩いてしまいましたが、あれから一カ月半くらいの間に、足の故障をきっかけに、自分の歩き方や足ナリについていろいろ考えて、フットギアにもカネを遣いましたから、最近は以前よりも余裕を持って歩けているように思います。

昨日も勤め帰りにまたぞろ神保町のヴィクトリアに寄って、購入を考えていたアシックスのランニングシューズを一足取り寄せしたついでにウォーキングシューズを衝動買いしてしまい、その場で靴を履き替えて池袋まで歩いてしまいましたが(笑)。

ついでに白状しますと、その前日の月曜には、上のほうで触れているコンフォマーブルのウォークプラスを買ってしまいまして(笑)、オレは靴だの中敷きだのに一体幾ら遣うつもりなのかと我ながら怖くなってきました(笑)。

>>どうやら自転車始めてしばらくは脂肪が落ちた分筋肉がついて差し引きゼロ。その後は加齢のために基礎代謝が少なくなっていき、加えて自転車のグレードアップによる高性能化により消費カロリーがどんどん減少したため、やはり差し引きゼロ。ということらしいです。

これは理解出来ますね。オレも病気で倒れる前は体重を落とすつもりなんかありませんでしたから、体脂肪率を落として筋肉を増やそうと思っていました。脂肪より筋肉のほうが重いですから、筋肉が附きやすい男性の場合、筋肉をハードに酷使するような運動では筋肉が附いてしまって体重が落ちないですよね。

それから、自転車のグレードアップによる高性能化ってのは、乗用機械が介在しますから道具に拘ると高機能化するのは仕方がないですねぇ(笑)。今の自転車は相当技術が進歩しているそうで、前後サスが附いていて細かくギアチェンジ出来るようなクラスの自転車になると、剰り負荷を感じることなく長距離移動出来てしまうようで、楽に距離を走れるようになった分だけどんどん移動距離が長くなっていく、と謂う悪循環もあるようですね。

本格的な自転車だと、それこそ一〇〇キロ圏内はチャリでおkと謂うのも、別段非合理なことではないと謂う感覚なんでしょうね。

>>とはいえ、ここしばらくの酷暑ときたら自転車乗りには過酷で、仕事帰りに夕日に向かって家路を走るときなどはやけくそで思わず「陽は いつまでも 沈まない〜」
と歌いだしたくなります。

そこに反応して戴いて嬉しいです(笑)。子供の頃からあの歌が好きなんですよ、聞いていて気が滅入るくらい人生の過酷さを強調する歌詞を矢鱈盛り上がる曲調に乗せて上條恒彦のバリトンが朗々と歌い上げると謂うワケのわからないバランスが(笑)。

市川昆のカミさんが作詞していますけれど、いっそ痛快なくらい、叱りつけるようなにべもないひどいセンテンスが続いて好いですねぇ(笑)。

http://www.youtube.com/watch?v=qaPIoxD3sHY&feature=related

作曲を担当した小室等の理解によると、これは「こんな辛い人生だけど、きっと待っていてくれる人がいるんだ」と信じる前向きな歌じゃなくて、「多分誰も待っていないことくらいわかっているけど、誰かが何処かで待っていてくれるとでも思って生きていかないと、こんな辛い人生を生きられない」と謂う歌なんだそうで(笑)。

タイトルに引いた「痛みは生きているしるしだ」って謂うくだりも、何と謂うか過酷すぎて笑うしかない歌詞ですね。「そりゃあ死んだら何処も痛くはないよな」と謂うニュアンスじゃなくて、「ああ、痛いってことは俺はまだ生きているんだ」みたいなニュアンスでしょうから。

どうもですね、六〇〜七〇年代のこの時代の雰囲気の中で育つと、人生と謂うのは過酷で当たり前なんだと謂う価値観がデフォルトになってしまって、楽で楽しい生き方に対して後ろめたさを感じますね(笑)。

バブル景気の頃にはそう謂う「楽することや楽しいことが後ろめたいなんて価値観から脱却しよう」みたいな流れがありましたけど、結局世の中って大局的に視るとやっぱりおしなべて楽でもなければ楽しくもないですもんねぇ(笑)。

投稿: 黒猫亭 | 2010年9月 8日 (水曜日) 午前 10時10分

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